気持ちの住処



 ジェイドの事が気になる。
 この気持ちが何なのか、考えてみたけれども。
 今まで感じたことも無くて、正体が不明だ。
だから、考える事は直ぐに諦めた。
 厭味で皮肉屋で自信家で策略家な三十路越えの軍人に『可愛気』なんて、どうひっくり返っても繋がりそうにない単語なのに。
 何故だか――。
 本当に何故だか、あの性悪な死霊使いを、可愛いと思ってしまう。
 自分自身の心なのに、全く思い通りにいかなくて。
 余りに不思議なので、馬鹿にされるのを覚悟で直接本人に訊いてみる決意をしたのが、今日の昼間。ナタリアの殺人料理に皆が口々に抗議をしながら、箸を進めていた時の事だ。




 ケテルブルグの高級ホテルの一室、己に割り当てられたベッドの上で寛ぐ軍人――そう称するには、華奢な印象を与えるスレンダーな肢体の、世界でも随一の知能と、認めたくないが見惚れる程の美貌を併せ持つ名高い死霊使いに、レプリカ・ドールとして人工的な命を吹き込まれた赤毛の少年は、チラチラと様子を伺っていた。

 この街の夜は酷く冷える。

 しんしんと降り続ける雪は、冬の間溶ける事は無くそのまま積もり続けるのだと、目端に捕らえる細身の人物から説明されたのを何となく思い出して。其の時に馬鹿な質問をしてまった事まで併せて甦り、軽く自己嫌悪に陥るルークだ。
(今だってそーだけど…、俺ってホント何にも知らないよな)
 十年前に代用品として作られて、その後、大事無いように屋敷の中で何も知らさずに、何も知ろうともせずに傲慢に生きてきた自分。
 自分が複製品で、代用品で、まだ生まれて七年しか経っていないと判明してから、周囲の態度が明らかに変わった。
 ――勿論、自分自身の心情や姿勢の変化が与えた影響もあるんだろうけれども、皆が皆、嘘のように酷く優しくなった。
 少し前までなら考えられないくらい、何でも丁寧に教えてくれるし、根気よく付き合ってくれるようになった。普通の人からすれば、とんだ常識外れの規格外な事を口走っても、温室育ちやお坊ちゃまだと言って馬鹿にしたりしない。――例えしたとしても、仕方がないと相手を許容した上での言葉であって、決して貶める意図を孕んだそれではないのだ。

 子ども扱い。

 それは、あの忌まわしき事件。
 ――鉱山の町アクゼリュスの崩落という、己の無知と傲慢が導いた惨劇を目の当たりにするまでは、本気で嫌悪していた。王族で親善大使で、更に英雄となる予定の自分を皆馬鹿にしやがって、と無闇に何もかもに反発して、盲目的にヴァン師匠に従っていた。
 けれど、この子ども扱いが――くすぐったく、愛おしい。
 自分自身の正体が、フォミクリーの技術が生み出したレプリカだという事実には、確かに酷く打ちのめされた。それこそ大地の崩落のように、足元が一気に瓦解し、底なしの谷底に突き落とされるような心地だ。
 ――勿論それも、自身が招いた災禍によって命を落とした人々の絶望に比べれば、些細な苦痛に過ぎないのだろうが。
「――…どうかしたんですか。ルーク」
 彼岸へ旅立ってしまったお子様の意識を此方側へ引き戻す為に、手にしていたハードカバーの書籍を殊更音を立てて閉じ、ジェイドは譜業装置の一種である眼鏡の奥から、紅の眼差しでルークを真っ直ぐに射抜いた。
「………」
「ルーク?」
「あ、え、あ。っと、や、その。ぼーっとしてた。ゴメン」
 髪を長く伸ばしていた頃の自分が、あの陰険赤眼とか、冷血眼鏡と称していたジェイドの容姿に見惚れていた――なんて、普通に有り得ないだろ。自分。
 と、セルフ突っ込みをいれたところで、場を仕切りなおす。
 まだ頬に熱が残ったままだが、このままこの意地の悪いオトナに主導権を握られてしまっては、今後どんな風に話が展開していくものか判ったものじゃないと慌ててまず謝罪。
「あのさ、ジェイド」
 そして、本題を切り出してみる。
「なんですか?」
 ――吃驚するくらい、ジェイドは優しい。
 けれど、時々意地悪で。
 酷く、子どもっぽい所もある。
 ジェイドが今見せてくれる色々な表情や仕草は、俺がアッシュの模造品――ですらないか、劣化レプリカだし――だという事実が無ければ、きっと絶対見せてくれなかったと思う。――今のジェイドの方が俺は――…、
(……俺、は?)
「ルーク? どうしたんです。グラム海老の毒にでもあたりましたか?」
「え! エビって毒があるのか? 聞いたこと無ぇぞ?」
 大好物の食材の思わぬ一面に、王家の血筋の証でもある翡翠の眼差しを、くるりと丸くする。
「一般的なものにはありませんけどね。このホテルで出される料理に使われているグラム海老は、グランコクマ近海で捕れる特別な種類です。美食家の舌を唸らせる味わいですが、腸に毒を持っていて扱いが難しいのですよ。調理に免許が要りますしね」
「そうなんだ…」
 ジェイドって本当に物知りだよな、とひたすら感心してみせる赤毛のお子様。素直すぎる反応に毒気を抜かれて、勿論、嘘ですけどね。と、軍服の上着やブーツを脱いだ黒のアンダー姿の三十路越えの軍人は肩を竦めて見せた。
「な…ッ、うそぉっ!?」
 綺麗に騙された純粋培養の王族は、ギャンギャンとけたたましく抗議する――かと思いきや、呆気に取られた表情の後に小さく苦笑だけを返した。
「ホント、ジェイドもアニスも、普通に他人を騙せるよな。
 軍人廃業にしても、その才能で食っていけるんじゃねーの」
「いえいえ、何処かの子どもが素直過ぎるんですよ」
「……ははっ。
 そうだな――俺は、本当に何も知らないから」
「………」
 少し、苛め過ぎたかと、自ら施した禁術によって、紅く染まる譜眼の持ち主は、軽く首を横に振った。
「冗談ですよ。第一、こんな豆知識は一般常識じゃないんですから。知らなくて当然です。己の足りぬ部分を自覚し反省することは、自己の成長に繋がりますから望ましいとは思いますが、思い詰めるのが――あなたの悪いクセですよ」
 幼少には稀代の秀才と、少年期には奇跡の天才だと、青年期で得た数々の異名を経て、今や大国の皇帝の懐刀・死霊使いジェイド・カーティスといえば、大陸中に響き渡る異名。世界すら震撼せしめる存在に、ここまで心を砕かせるのは、不遜な自信家のマルクト皇帝を除けば、聖なる焔の鮮やかな青年だけなのだろうと。
「…うん。分かってる。俺には、落ち込んでる時間なんて無いし、さ」
 消え入りそうな儚さで微笑む姿に、物悲しく影が射す。
 燃ゆる焔の髪に相応に似つかわしく、王室の傲慢を曝け出していた長髪の頃の彼は、なるほど歯牙にかける必要も無い取るに足らない存在であった。だが、不遜な程に生命の輝きに満ち溢れていた。
「落ち込むなとはいいませんよ。あなたは、あなたの思うようにしなさい」
「…なんだよそれ、体よく突き放してるだけじゃねーの」
 不器用な慰めの言葉は、七歳の子どもには少々難しい。断髪後から良く見られるようになった、不服を申し立てる唇を尖らす幼いクセに、ジェイドは失笑した。
「――…ッ!」
 その、思わぬ表情に馬鹿にされているという憤りよりもなによりも、常に感じている不思議な、切ないようなくすぐったいような心地が湧き出す。
「――わ、笑うことねーだろ!」
「これは、失礼。あなたが随分と可愛らしいもので」
 両肩を竦めておどける見慣れたポーズと共に紡ぎだされた評価に、小柄とは言え、日々の戦闘で充分に鍛えてあるルークとしては承服しかねる。
「かッ、可愛いってなんだよ!
 そういうのは、フツーはミュウとかちっちぇガキとかに言うもんだろ!?」
犬の仔のようにキャンキャンと騒ぎ立てる姿が、第三者からすればまた愛らしいのだが、当人がその事実に気付くはずも無く。
「おや、その言い分からすると、あなたは立派に『可愛い』の対象範囲内ですねぇ」
「なんでだよッ」
「成人してないのですから、まだまだコドモじゃありませんか」
「ッ…! ンなデカく成長したオトコに使う言葉じゃねーだろ!?」
「おや、ルーク?」
 ギャンギャンと吠え立てていると、不意に、紅色に輝く譜眼が近づいて、赤いひよこ毛がトレードマークのお子様――もとい、ルークは思わず黙り込んだ。
「な、…なんだよ」
 まるで値踏みでもされるような視線で、頭の天辺から足のつま先までを無遠慮に舐めるように眺められ、鼻白むルークに、不必要な程に綺麗に整った顔立ちの軍人は、にっこりと腹に一物を含んだ笑顔を作る。
「そんな身長では、残念ながら、大きいとは言えませんねー」
 そして、聖なる焔と称されるランバルディア王家の証の赤い髪の頭を、それこそ幼い子をあやすように、ぽんぽんと撫でた。
「ん、なッ…!」
 余りの酷評に絶句するルークに、意地悪な大人は更に追い討ちをかけるように、もう少しがんばりましょう、といった所ですかねぇ、と更に逆撫でするような台詞を吐いた。
「ンだよ! 俺はこれから伸びるんだよ!! 成長期なの、成長期!!」
「おや、それは楽しみですね〜」
「うわ…、ムッカつく〜…」
 あのおっさんをイチイチ相手にしていたらキリが無いぞ、というのは、親友である青年の弁だが、何せまだルークも七歳の子どもだ。ムキになるなと言われれば、逆にムキになってしまうお年頃。
「〜〜ッ可愛くねぇッ…!」
「こんないい年したおじさんに、可愛いなんて言い出したら、陛下みたいな変態になってしまいますよー?」
「!」
 グランコクマの玉座に威風堂々とあるマルクト皇帝の、その懐刀とまで呼ばれる男は、サラリと物凄い台詞を口にする。普通なら皇帝への不敬な言葉を耳に留めるのだろうが、ここで最もルークの心を揺らしたのは――そこではなく。
「…へーか、って」
「? どうかしたんですか。ルーク」
 それまでの勢いは何処へやら、呆然と呟く赤毛のひよこに、戦場にて兵士の躯を漁るという、世界を大きく震撼させる異名を持つ軍人は、心配そうに、零れ落ちそうな程に大きく丸い翡翠の瞳を屈んで覗き込む。
「…ジェイドに、可愛い、とか――言うのか?」
「ええ。所構わず言ってきますよ。無論、嫌がらせでしょうけどね。
 全く、あの方の奔放さというか突飛さには、正直呆れ果てるばかりですね」
 ――ウソ、だ。
 直感的にジェイドの言葉を否定して、ルークは不安に揺れる眼差しを、綺麗な人に投げかけた。
「ピオニー陛下の好きな相手って、本当はジェイドだろ」
「……ルーク?」
 突然何を言い出すのかと、流石のタチの悪い三十五歳も目を丸くする。
 そんな表情が、やっぱり可愛いと思う自分の気持ちを今度は否定したくなくて。
 薄い亜麻色の髪の先を、くいと引っ張る。
 すると、抵抗も無く自分よりも頭二つ分背丈のある細身の身体が、姿勢を預けてきた。
 こんなに無防備な死霊使いなんて、きっと、他の人は知らない。
 絶対、特別なんだ。
 その優しさが、俺がもう直ぐ消えてしまう事への同情からだったとしても、構わない。
 ピオニー陛下だけはもしかしたら知っているかもしれないけれど、その事を思うと、チクリと痛みを感じたけれど。
 ゆっくりと、口唇を合わせる。
 以外に柔らかくて、ちゃんと体温があって、そんな当然の事に驚いた。



「おーい、ルーク? 一体、どーしたんだ? ん?」
「………」
 赤い顔をして、イキナリに飛び込んできた赤毛の来訪者は、部屋の主のベッドを占領して布団の中で丸くなっていた。
 まだ、寝るには少し早い時間。
 しかし、他人の部屋を訪れるには、少々非常識な時刻。
 まっさらな状態の時に、一から物事を教え込んだ間柄で、今更、その辺りをとやかく言うつもりは毛頭無いが、何があったのかは当然気になる。
「なんだ、ティアに叱られたのか?」
 ぽんぽんと、丸まっている布団の塊をあやして、人の良い青年――ガイは、ベッドに腰をかける。
「それとも、ナタリアに捕まって説教されたとか」
 無反応。これも違うかと、ガイは頭を捻る。
「んー、それじゃアレか。三十五歳のおっさんに苛められたか?」
 もぞ、とベッドの上の塊が僅かに動いた。
 これが正解かと、洗いあがりで濡れたままの金の髪をタオルで拭きながら、赤毛ひよこの親友兼世話係りを担う青年は、溜息を吐いた。
「全く。旦那も大人げないからなぁ」
 冷静沈着にて容赦ない性格は、旅の仲間にも如何無く平等に発揮される。
 ――ただ、多少の手心が加わっているのも事実だろうが。稀代の天才と誉れ高い、あの『死霊使い』殿に本気で潰しにかかられれば、精神的にも実力的にも、こんな年若いパーティなどひとたまりも無いだろう。
 ランバルディア王家の公爵様は、どいつもこいつも、意地っ張りで手が掛かる事この上ない。
「ルーク。そんなトコに居座られたんじゃ、俺の寝る場所がないんだがなぁ」
 断髪後から随分と可愛げのある性格に変化した親友の、実際の年齢相応な子どもっぽい行動に苦笑して優しく咎めると、もこもこした毛布の塊から、ぴょこと赤い頭が覗く。
「…ゴメン」
「マジな顔で謝るなよ。じょーだんだよ、冗談。
 俺は別にソファで寝てもいいんだから、気にするな」
「……めーわくかけてゴメン。落ち着いたら、出てくから…」
「迷惑だなんて言ってないだろ? お前、最近一人で頑張り過ぎだしさ。本音は、頼ってくれて嬉しいんだゼ。――それで、言いたくないなら言わなくていいけど。旦那と何があったんだ? 話を聞くくらいならしてやれるぜ」
 自分自身が複製人間だと言う事実を突きつけられ、また如何様にも償い切れぬ罪を犯してしまってから――。よく言えば謙虚、悪く言えば卑屈、になってしまった聖なる焔の少年を、ガイはその都度に叱咤してきた。
 その言葉は始祖ユリアの子孫である譜歌の少女の如く苛烈ではなく、婚約者として定められ共に歳月を過ごしてきた王女のように大義名分を飾ったものでもない。
 例えば、国同士の思惑であったり、己の保身や野心であったり。そういった、人としてのしがらみの一切を構わず、ただ、少年を想う気持ちだけで紡がれる台詞は、――自分が、その言葉を受け取るに値しないと理解していても、とても心地よいものだった。
「……女嫌いのクセに、ガイが女にモテるのが分かった気がする…」
「――…? どーした、急に。それに、女嫌いは誤解だ。俺は、ちゃんと女性が好きだぞ」
 極自然に、呼吸するのと全く変わらないタイミングで、何処までもさり気無く気障なのだ。これは、誰にでも真似できる芸当では無いだろう。おそらく、徹底したフェミニスト精神と女性恐怖症の体質が合わさって生まれた資質だ。
「…あのさ、ガイ」
「ん?」
「ガイ…って、二十一だっけ?」
「なんだ、藪から棒に」
「俺より四つ年上…正確には、十四も違うのか」
 もこもこした塊から完全に脱出して、枕を抱きしめながらベッドの上に胡坐を掻くお子様に、ガイは不思議そうに小首を傾げた。
「まぁ…、実質お前はまだ七歳な訳なんだし。そーなるけど…どした?」
 ひぃふぅみぃと、指折り年を数えてみて改めての年の差に驚きを深くしながら、金髪碧眼というオールドラントの昔語りの英雄譚にでも語られそうな、気品を湛えた容姿の青年はベッドの端に腰をかけた。
 その手にはブランデー入りの紅茶。ケテルブルグの名産品で、豪雪地方にしか群生しないハニムディという植物の葉を乾燥させて作る。人工栽培が難しく、稀少であることからケテルブルグの高級ホテル等でしか味わえない。――姉が、好んでいた味わいだ。
 下男暮らしが長いだけあり、基本的に質素な生活に慣れている青年だが、それでも過去を懐かしんでケテルブルグに立ち寄った時には一杯だけ頼む習慣が出来ていた。
 仄かに香るブランデーの甘さに酔いながら、カップにゆっくりと口をつけて――、
「ガイって、今までに好きになったヤツとかいるのか…?」
 そして、勢い良く吹いた。
「うわっ、何やってンだよ。ガイ」
 その過剰な反応に質問した方が吃驚して、タオルタオルと浴室に駆けてゆく。幸い、派手に噎せた割りには周りに殆ど飛び散っていない。服も大して濡れずに済んだ。口元とカップを持っていた腕だけルークから手渡されたタオルで拭いて、ガイは唐突な質問を口にしたお子様に謝罪した。
「悪い悪い。余りに予想外だったもんでさ。
 で、……好きになった相手、か」
 寂しそうに微笑む姿に痛みを感じ取り、ルークは神妙な顔つきでソファに座り直し、じっと言葉を待った。
「ま、居たな。
 ホドで貴族やってた時は、それなりに使用人に囲まれて暮らしてたから。メイドの女性も沢山いた。その中に、陽だまりみたいに暖かい女性がいたんだ。昔の俺は、泣き虫の臆病の苛められっ子だったからな。近所の悪たれに泣かされちゃー、彼女に慰めてもらってた」
 ――十年という歳月を共にし、また今は世界を消滅から救う旅の仲間となって。それだけの近しい間柄になりながら、ルークは始めてガイの口から思い出話をいうのを聞く。
「…なんで、メイドさん? 家族は?」
「ガキのケンカに親がしゃしゃり出てくるなんざ、カッコ悪ぃだろ。弱虫だったくせに、そういうトコだけ頑固でな。絶対、苛められたなんて言わなかった。それに、姉上に泣き付くなんて言外だな。綺麗な(ひと)だったけど、すっげー男勝りでさ。俺が泣かされて帰ってきた事なんざバレでもしたら、たっぷり三時間は剣術コーチだったなー」
「うわ…」
 ホド消滅の時でも、確かガイは五歳だったはずだ。それは、結構なスパルタ教育なんじゃないかと、多少引いてしまう。
「ガイの姉さんなんだから、きっと美人なんだろーけど。せーかくは逆だな」
 自分は、ガイから甘やかしてもらった記憶しかない。
 それが喩え――主従関係という力で縛られた中のものであったとしても、全てが偽りの愛情であれば、自分はここまで無条件にガイに信頼を寄せなかっただろうと感じる。
「…つーか、ルーク」
「ん?」
 何故か照れた様子で、しげしげと見つけられ、赤いひよこ毛が可愛らしい公爵様はきょとんと返事をした。
「お前、そーゆーのは、ティアにいってやれ。ティアに」
「何が?」
「や、分からないなら、もーいい」
 この極天然赤毛め、と胸中で吐き捨てて、ガイは仕切り直しというように言葉を続けた。
「ま、俺の初恋はそんなとこだな。
 それからは――例の女性恐怖症だろ。惚れた腫れた言ってる場合じゃなかったからな」
 人並みの恋が無縁であったは、何も女性恐怖症だけじゃないだろう。この、目の前で穏やかに微笑む端正な顔立ちの青年には、絆も未来も奪った世界に対する復讐の炎が宿っていた。
 以前、少しだけ露吐された彼の気持ちの一端には、王族に連なる者の殺害。つまりは、己自身への殺意も含まれていた。親友の距離を保ちつつ、虎視眈々と公爵の命を狙っておきながら――殺戮を誓う心で、人を愛せる道理など――。
 また、王族殺しは大罪。それは、己の周囲の親しき者へも派生する。世界の非道に打ちのめされながらも、何処までも心根の優しい青年が、愛しい人を巻き添えにしてまで、復讐を果たせるわけも無く。ならば、枷となる愛情を求めるはずもない。
 ――自分は、本当に傲慢に生きてきたのだと。
 ルークは、明るい翡翠の瞳を自己嫌悪で曇らせて、俯いた。
「あの、さ」
 そして、戸惑いながらも。
 彼にしか――。
 長い間、自分の兄のような存在として頼りにしてきたガイにしか相談出来ないと。
 重たい口を開いた。
「――俺、さっきジェドにキスしてきたんだ」
 晴天の霹靂。
 思いがけず起こる大騒動。突発的な出来事の意。
 いやいやいやいやいやいやいやいやいや、そうじゃなくて。
「ッえええぇえええええええ!!!???」
 当然といえば当然の反応に、ルークは肩を竦めてキーンとする両耳を押さえた。その顔は、これ以上無いくらいに赤い。まるで、日の光で熟れすぎたトマトのようだ。
「え、は、え!? だっ、え、えぇええええ!??」
 壮絶な生い立ちからか持って生まれた資質か、如何な不測の事態にも冷静に対処する能力の高さを有するマルクト貴族の青年は、いっそ愉快な程に取り乱していた。
「ジェイドに、って…、あの、じぇ、いど、だよな…?」
 それ以外に、どのジェイドがいるのかと問い詰められたら、逆に、返答に困る所だが。
 あんなものが、そこらにほいほい転がっていたら、世界は確実に滅亡する。
 ああ、そういえば確かにピオニー陛下が溺愛しているブウサギも、ジェイドという名前を貰ってはいた。成るほど、そうか。ブウサギのジェイドか。いやでも、なんでケテルブルグに陛下のブウサギがいるんだ? だけど、あの破天荒な皇帝のやることだから、お忍びでこの街に来ていてもおかしくはないかもしれない。寧ろ、居るのが自然だ。うん、よし。ブウサギのジェイドだな、きっと。
「ジェイドったら、あの嫌味で憎たらしくて可愛くねージェイドしかいないだろ。
 …自分で、どーしてンな事したのかわかんなくて。で、キスの後部屋を飛び出しちまった。でも、駄目だよな。ちゃんと…謝らないと」
 一人で納得しかけた思考を、赤い顔のお子様の言葉が叩きのめした。ああ、やっぱり稀代の死霊使い殿の事だったか。まぁ、そうだよな。いくらなんでもブウサギのジェイドとキスをして真っ赤になって部屋に駆け込んできたりはしないだろう。普通。と、漸く落ち着いたところで、ガイは、うーんと唸って天井を仰いだ。
「ものすごーく、驚いたが。まぁ、お前がココに飛び込んできた事情は分かった」
 異性愛程一般的ではないが、同性を愛する文化は確かに存在している。昔は異端の思想として忌み嫌われていたりもしたが、現代においては、殆ど偏見もなく社会に受け入れられている。ただ、実際の制度はまだ追いついていない状況ではあるが。たとえば、同性同士の婚姻や養子制度は、何処の国でも実現には至っていない。
「で、まぁ、やっちまったもんは仕方ないとして。
 自分でわかんないっても、嫌いなヤツにキスしないだろ。フツー」
「……う、ん」
 ぎゅ、と膝の上に握りこんだ拳を震わせて項垂れる姿が、まるで主人に叱られた仔犬のようで、赤毛のお子様の保護者役を買って出ている青年は、くしゃりとその頭を撫でてやった。
「旦那の事が好きなのか?」
「……ぅ。よく、…わかんねぇ。
 でもなんか、ジェイドがうれしそーに、へーかの事話してるの聞いてたら、…こう、ムカムカしてきて。何でだかわかんないんだけど。で、やっちまってたっていうか…」
 それは、完全にヤキモチとか言われる部類の感情なんだがなぁ、と困り果てるガイ様だ。
 ――しかし、ここで一つ大きな疑問が。
 公務で常に屋敷を空ける父親、病弱で寝室に篭りがちな母親に代わり、まっさらな状態のルークに日常生活における一般常識を一から教えたのは、好青年が服を着て歩いているような金髪も爽やかな青年だ。
 その彼も、幾らなんでも――性に関しては全くルークに知識を与えるような真似はしていない。正常な男子であれば、年頃になれば自然に湧いてくる興味なので、無粋に口をつくべき問題でも無いだろうと自然に任せていた。
 だが、よくよく考えれば身体機能は十七のそれでも、精神は七歳のコドモなのだ。性的な欲求が薄いのも頷ける。なので、当然興味も知識も皆無といってもいいだろう。これが、一般的な家庭に育っていれば、例えば同じ年頃の友人などに下世話な話の一つも聞かされて、そちらに目覚める機会もあるだろうが―― 十年間の箱入り育ちは、半端じゃない。
 昨今では廃れた慣習だが、それこそ雲の上と見上げられる上流階級の家柄には、家族や友人でも非常に親しき間柄であると、親愛の意を込めて口付けを交わす風習がまだ残っている。付け加えて言えば、ルークは一般常識には疎く、今までは紙の上しか物事を知らないでいた。そして、七歳という実年齢。愛情と劣情を履き違えて暴走してしまったとしても、致し方ない面がある。
「…にしても、怖いもの知らずというか、なんというか…」
 ただ、ルークの行動がどちらに起因するものであれ、その行為を自分が真似るのは、不可能だ。あの天下の死霊使い相手に懸想の上、接吻だなんて、命が幾つあっても足りない。
 と、そこに至って、漸くよく無事だったなという考えに辿り着いた。
(旦那のセーカクじゃ、ソッコー反撃に出そうなものなのに…)
 いやしかし、現在のルークに対して一番甘くなっているのはジェイドだったな、と思い直す。よく子どもを甘やかすなと仲間に窘められるガイだが、ルークをついつい甘やかしてしまうのはもう習い性のようなもので、今更だ。寧ろ、旦那の態度の変化の方が劇的だろう。
「で、お前は結局、どーしたいんだ?」
「?」
 唐突な質問に意味を汲み取れず、きょとんと翡翠の瞳を瞬かせるファブレ公爵に、ガイは改めてこんな『子ども』の双肩に世界が掛かっているのかと、苦笑を零す。それは、決してレプリカという茨の運命を背負いながらも、悲壮な決意と覚悟で戦う親友を蔑視したそれではなく、彼より何十倍と長く生きているだけでの、まるで無力な多くの『大人』達に対する――自分自身も含めた、愚かな世界に対する皮肉が込められていた。
「んー、つまり。ただ単に旦那を独占したいだけなのか。それとも、旦那とキス以上のことをしたいのかって話だ」
「……キス、以上…?」
 再び、きょとんと。
 下男兼保護者兼親友の位置にいる青年からしてみれば、ある意味予測の範疇であった反応を返され、今度こそ、心底苦虫を噛み潰したような顔になってしまう。
「あー、そうだよな。それもそうだよなぁ…」
 つーか、その程度の知識でよく旦那にキスなんてしようと思ったな、と呆れてしまうのは、仕方がない所だ。
「あー、えーとな。んー、ん、んー」
 確かに実年齢は七歳だ。だが、どうして見た目は十七歳の男子に性教育など施さねばならぬのか。それに、妙な背徳感も相俟って情けなさを心地を味わう、華麗な教育係りガイ様だ。
「えーとな、子どもがどうやって出来るかは知ってるか?」
「…なっ、なんだよ。突然ッ」
 不振そうにするものの、赤面して慌てる様子は無い。この態度から推測するに、あちらの方面の知識が見事に丸ごと欠如している様だ。
「子どもは…男女がベッドでキスして一緒に寝ると出来るんだろ?」
 お? と、ガイは目を丸くした。なんだ分かっているじゃないか、これで照れ臭い講義をしなくて済むと胸を撫で下ろした所で、ガツンと一発。
「でも不思議だよな、キスして一緒に寝るだけで出来ちまうなんて。
 偶然、唇が当たっちまうことも考えたら、うっかり一緒に寝れないよなー」
 ガックリと肩を落としてしゃがみ込む目に優しい爽やかな色合いの金髪の色男を、ルークは心底、奇抜なモノを見るそれで見下ろした。

「あ〜〜〜、うん。いや、うん」
 甘かった。本当に甘かった。チョロ甘だった。コンチクショウ。
 極悪性悪容赦無しな大佐の作る、意外性と生クリームたっぷりの蕩けるように甘〜いクリームパフェよりも、更に数倍甘い自分の読みを嘲笑うガイだ。
「あのな、ルーク」
 ガシッと、鍛えているくせに意外と細い両肩を掴んで、ガイは一呼吸置いた。
「普通はこういうコトは自然に覚えるものなんだが、そういう環境でも無かったろ? だから、知らないのは仕方ないと思う。けど、お前くらいの年頃なら普通は知ってるもんだしな。やっぱり、分かってないと色々この先困るだろうから――」
「ガイ?」
 きょとん、とされると、非常に罪悪感が沸くので止めて欲しい。
 例えるなら、小さな子どもに悪戯をしている変態オヤジのような気分だ。
「だから、教えるけど。
 ぜっっったい、他の連中に俺から教わったなんて言うなよ? いや、寧ろ今から言うことは他言無用だ。他言無用! いいな?」
 この十年間殆ど同じ時間を過ごしてきた親友の、有無を言わさぬ妙な迫力に、こくこくと何度も頷くルークだ。それを確かめて、絵に描いたような金髪の好青年は、赤毛の耳元に唇を寄せた。



 コンコン、と規則正しいノックの音。
 こんな何気ない日常の仕草にもその人の個性は出る。
 生い立ちの所為か、他人に対して無意識に注意深い部屋の主は、ドアの向こうの人物を察して、躊躇無く開けた。
「どーかしたかい、旦那。こんな遅くに」
 予想通りの姿に、白いシャツにスラックスという寛いだ姿でいる青年は、肩を竦めて見せた。
「遅くにすみませんねー。どうも、赤毛のひよこが戻ってこないものですから。保護者の所にでも行っているのかと思いまして」
 わざわざ戻らないルークを案じて探しに来たのか、と感心する。これが自分なら、無論放置の方向なのだろう。いや、確かに冷徹仮面の死霊使い殿に心配されても、寒気が襲うだけなので、遠慮したい所ではあるが。
「ルークなら居るけど、…もう寝てるゼ」
 嘘、だ。
 きっと、聡い大佐は、こんな言葉には容易く騙されたりしない。
「そうですか。貴方の処にいるのが確認出来ればいいんですよ。
 そこまで愚かとは思いませんが、まさか外に一人で飛び出していったのではと思いましてね。――流石に、この街の夜は冷えますし。魔物の凶暴性も三割り増しですから」
 しかし、聡過ぎる大佐殿は、不必要な場所には突っ込んでこない。
「それでは、私はこれで失礼します。
 明日も早いのですから、夜更かしは程々にしたほうがいいですよ。
 お休みなさい。ガイ」
「ああ、お休み。悪かったな、わざわざ足を運んでもらって」
「いえいえ、大した手間ではありませんから」
 遠ざかる足音に、明らかに安堵した様子でルークは部屋の奥から顔を覗かせた。その頬は先ほどからのレクチャーの内容の衝撃で、まだ赤いままだ。
「悪りぃ、ガイ」
「まぁ、俺は別に構わないけど。いいのか、折角旦那が探しに来てくれてたのに」
「う…。悪いとは思うけど、でも、今は駄目だ。俺、絶対ジェイドの顔みたら沸騰する」
 そう。
 あれから、そういう方面の知識を親友に教わって、所謂男同士のSEXの方法まで事細かに教わったルークは、まだ赤く茹だったままだ。
 乏しい知識では、致している最中のジェイドなど到底想像もつかないが、とんでもない事をするらしいのはよーく理解したお子様である。
「ま、恋仲になってる連中がどういうコトするのかは分かっただろ。
 んで、お前がジェイドとそういうことをしたいって思うなら恋愛感情だろうけど、じゃなくて、こーやって」
 心なしか、元気の無くなっている癖っ毛をぽんぽんと撫でて、
「かいぐりされたいってだけなら、ただの独占欲だ」
 軽く肩を竦めながら、気の良い青年は諭す。
「……う、ん」
 膝を抱え、枕を抱き込んで、溜息を一つ。
 髪を短くしてから、そんな幼い仕草がよく似合う幼馴染の想いの行く末を思いやって、その前途多難さにガイは本日何度目かの苦笑いを零したのだった。



※ヘタレわんこ攻めと、美人ツンデレ受け。
 そして、華麗に苦労人ガイ様
 無意識に嫉妬する感情&行動派なわんこがルークの基本です。
 可愛い攻め、強くて美人なルクジェが好みです。