紅兎と名誉と侮蔑・3



 カッ、カッという高い靴音に混じり、砂を踏む音が混じる。  規則正しい歩調、背筋を伸ばして歩く長身、微かな肩の揺れに応じる亜麻色の髪。
 道なりに並ぶ宿や、深夜の時間帯ならではの営業を行う店の明かりで、幾重にも波紋のようにして重なる長身の影が、目的地の扉の前で蹲る『それ』を見咎めて、足を止めた。
「………」
 細心の注意を払わなければ聞き取れない程の、小さな、小さな溜息。
 そして――、影は鷹揚な動作で膝を折る。
 闇に溶ける所為で、普段の鮮明な輝きは失われている赤い髪にそっと触れて、小さな子どもをあやすかのように、可愛がる。
 それでも、『それ』が目を覚ます気配は無かった。
 更に溜息が零れる。
 今度は遠慮なく、盛大に。
 幾ら十年間も安全な屋敷の中で蝶よ花よと育てられてきたとは言え、今や世界を終末から救わんとする旅の一員。実力を兼ね備えた立派な剣士――の、はずなのだ。それが、こうも無防備なのは如何なものか。
「全く、手がかかる子どもですねぇ」
 砂漠の街には、昼と夜で熱中と零下の顔がある。
 流石に四方に砂丘だけを見渡す砂の海の真ん中に比べれば、地面も舗装されており、立ち並ぶ店から暖も洩れているので、非常識な程激しく冷え込んだりはしないが。それでも、外で眠りこけるには適当な温度とは言い難い。
 ――案の定、触れた肩は可哀想な程に、冷たくなっていた。
 指先から伝わる温度に、不機嫌そうに柳眉を寄せ、綺麗な顔立ちに険を籠める。
「本当に…」
 言い掛けた言葉を呑み込んで、長身の麗人――齢三十五になるとは到底見えぬ美貌と若々しさに満ちた男性軍人は、ペチと目の前で寝こける赤毛の子どもの頬を叩いた。
「う…? ん〜…、んぅ…」
 心地よくまどろむ時間を邪魔され、不服そうに唸るワンコは、ふいと横向きになって更に惰眠を貪ろうとする。そういえば、この公爵様の寝起きの悪さは折り紙付だったと、思い出して、不必要な程に綺麗な軍人――ジェイドは、ふむと手袋越しに自身の口唇を撫でた。
「優しく起こしてあげている間に、目を開けた方がいいと思いますけどねぇ」
 そして、口にするのは優しく甘く蕩けるような、悪魔の囁き。
「ルーク。起きなさい? こんなとこで寝たら、風邪を引くくらいじゃ済みませんよ」
「む、…ン? う、…むぅ」
 むにゃむにゃ、と。
 おそらく、声は届いているのだろうが、何故か幸せそうに微笑まれて更に深い眠りにつこうとする赤毛のわんこに、ジェイドは紅の双眸に面白がる色を滲ませて、歪めた。
「起きないと、襲ってしまいますよー?」
 イフリートの音素粒子を集め十分に温かくした掌で、冷えた頬を撫でてやると、犬の仔がそうするように嬉しそうに懐かれた。無意識の行動なのだから、余計に性質が悪い。こんな仕草ひとつに愛しさを感じてしまうのは、相当参っている証拠だろう。
「本当に、仕方のない子ですねぇ」
 滅多に無い柔らかな苦笑を零して、綺麗な大人は軍服の上を脱ぐ。肌を刺すような冷気が、雪国育ちの身には却って心地よい。手にした上着は、そのまま赤毛のわんこの頭上から、すっぽりと。丁度、コートのフードを被ったような格好だ。
「…襲ってしまいますから、ね」
 ワンコの想い人は、悪戯っぽい微笑みを口端に乗せ、そっと青の簡易フードの中屈み込んだ。



 キィ、と扉が軋む音に、誰かが部屋に入ってきた事を察知して、ガイは趣味の音機関組立作業を中断して、顔を上げた。
「なんだ。お疲れさん、ジェイド」
 パーティ一の常識人且つ苦労人でもある青年は、気心の知れた旅の仲間に声を掛ける。
「あれ? 上着はどうしたんだ? 旦那」
 しかし、向けた視線の先には軍服のアンダーである黒の詰服姿の軍人で。青の手袋はそのままだが、膝上までをカバーするロングブーツはシャープな印象のスタイルに合わせて脱いであって、普段見慣れない革靴が目を引いた。どんな場所であろうとも――例え、ザレッホ火山の内部通路の中であっても、青の軍服を少しも乱さない大佐にしては珍しいと、護衛剣士の青年は違和感をそのまま口に出した。
「それより、少しいいですか?」
「ん?」
 作業用ゴーグルを頭上に持ち上げて、ガイは唐突な言葉に対し空色の瞳に疑問符を並べる。
「外に赤毛の犬が寝こけていましてね。突いても叩いても起きないものですから、諦めました。取り敢えず、上着を掛けてきましたけどね。
 子どもの扱いは得意でしょう? 起こしてあげてもらえませんか?」
「…犬じゃなかったのか?」
 大佐殿の言わんとするを察して、爽やかな夏の空のような印象の青年は、自然に揶揄る口調になる。無自覚なのか、どうなのか。本当にこの綺麗な軍人はルークに甘い。アグゼリュス崩壊の氷河期を考えれば、奇跡としか言えない豹変振りだ。
「――…仔犬ですよ」
 フ、と妖しげな極上の微笑みを場に残し、蕩けるような美貌の主は立ち去った。



「お、結構冷えるな」
 ジェイドが隣の個室に姿を消してから直ぐに、護衛役の金髪の青年は仔犬――もとい、赤毛の公爵様を迎えに宿の入り口を出た。途端、堪える寒さに身震いする。こんな状況でよく眠れるものだと感心しつつ、視線を足元に遣れば、マルクト軍の象徴でもある青の軍服に包まれた塊が。
 ひとつ大きく溜息を吐いて、甘いマスクに苦笑を浮かべる。
 夕餉を終えても戻ってこない大佐を皆が心配し始めた頃に、軍からの使いがカーティス大佐からの言付けで、帰りの刻限を伝えた。その時間に合わせ、寒さを堪えて健気にも恋する相手を待っていたのはいいが、眠り込んでしまうとは思わなかった。
「――全く。ルーク、ほら…」
 少し大きめに声を掛け、手を伸ばす。正面に回りこんで本格的に起こそうと――、
「……なんだ。起きてたのか? 何してるんだ?」
 思ったのだが、青の軍服をフードのようにして埋まる赤毛のわんこに、熱に潤んだ翡翠の双眸で無心に見上げられて、動きが止まる。
「…ガイ」
「ん? なんだ? もう旦那は戻ってるぞ?」
「…知ってる」
「? なら、早く部屋に戻って来いよ。このまま外にいたらヘタすれば凍死だぞ?」
 行動がチグハグな塊に首を捻り、公爵様の護衛剣士を務める青年は、よいせ、と掛け声と共に動かない子どもの傍に腰を下ろす。何のかんの言っても、付き合いがいいのがガイの良い所だ。
「……あ、のさ」
「ん?」
「…ジェイドさ、何か言ってた?」
「何かって…、まぁ、お前を起こしてきてくれとは頼まれたけど」
 交わした言葉は少ない。それ以外、ルークが気に留めるような会話は何も無かった。
「……ジェイド、もう部屋に戻ってる、よな?」
「ああ、多分今頃風呂じゃないか? 旦那はキレイ好きだからな」
「…そ、そっか」
 ガイの返答に赤くなる赤毛のひよこに、先ほどの意味深なジェイドの微笑みを思い出し、察しの良い護衛剣士は、ははーんと納得した。
 何せ、極天然の王族とオールドラントの恐怖の大魔王の組み合わせだ。具体的な内容までは全く予測もつかないが、おそらく『何か』があったのだ。それもおそらく、ルークにとって望ましい方向のものが。
 真っ直ぐで体当たりな好意というのは、傍で見ていても気持ちいい。幼馴染みとしては、無条件で応援したくなるというものだ。――例えその相手が一癖も二癖もある要注意人物だったとしても、だ。
「なんだ。旦那に苛められたのか?」
「…〜〜べ、別にッ…! ……、……〜〜〜ッ!!!」
 一応、人生の先輩としてアドバイスでもしてやるかと、探りを入れれば、反論しようとして口籠った挙句に、真っ赤になり抱えた膝に火照った顔を押し付ける仔犬。ここまで反応が顕著だと、いっそ愉快ですらある。
「まぁ、何があったかは知らないが…」
 パンッ、と後ろの砂を払ってガイは膝に力を入れて勢いよく立ち上がる。
「いい加減に部屋に戻らないとな。ほら、ルーク」
 護衛――というよりも、赤毛の子どものお守り役に近い役割の青年は、急かすようにルークの背中をはたいた。すると、熱覚めやらぬ様子ではあるがゆっくりと重い腰が持ち上がる。
「…う、分かった。ゴメンな、戻るよ」
「ああ」
 ホワイトラインが青の色彩の中で引き立つ独創的なデザインのマルクト軍服の上着を大切そうに両腕に抱えて、ルークは待ち人の帰還より半刻程遅れて漸く宿の中へ戻ったのだった。



 宿の空き状況から、本日の部屋割りは、ルークとガイ。ジェイドとイオン。という、至って無難な組み合わせだった。ちなみに、女性陣は三人部屋のスィートにお泊りだ。ついでに、同室のガイといえば先ほど野暮用だと言い残して部屋を出て行った。
 ――普段ならジェイドと同室になれなかった日は気落ちしてしまうのだが、今日ばかりは、この組み合わせで本当に良かったと思う、赤毛のワンコである。とてもじゃないが、あの底意地の悪い綺麗な年上の顔を直視出来そうに無い。
(うわわわわわっ!!)
 思い出して、再び一瞬で脳が沸騰する。
 気を紛らわせる為にベッドの上にダイブして、枕に茹で上がった顔を押し付けてみるが、目を瞑ってしまえば余計に鮮明に記憶が浮かび上がって、更に慌てた。
(うわー、うわー、うわー。
 もう、どうすりゃいいんだよッ! 俺ッ!!)
 ゴロゴロゴロ。
 ベッドの上で一人暴れ続ける子どもは、金髪碧眼の爽やかな風貌で女性の心を惹きつける親友が不在である今とばかりに、存分にフラストレーションを発散させた。
 散々に転がりまわった後で、大きめの羽根枕の上に顎を乗せ、両脇に握りこんだ拳を置きうつ伏せの姿勢で――所謂、『ふせ』のポーズに似ているわけだが――熱と戸惑いに揺れる無垢な翡翠を、そっと目蓋の裏に閉じ込める。
(――…ジェイドは、なんで俺に…)
 優しいそれだった。
 肉欲や情熱を孕んだものというよりは、可愛がる愛玩動物(ペット)に主人が口付けるような、そんな温度の――キス。
 悪戯で魅惑的な微笑みと、甘くて意地悪な台詞の後に、何度も何度も、啄ばまれた。
(う――、わ〜〜〜〜!)
 枕に指先を食い込ませて羞恥をやり過ごす。思い出すだけで憤死しそうだ。嬉しさと切なさと情けなさで、思考が空回りを繰り返し焼ききれる寸前に――、
「何を枕にしがみついているんですか? ルーク」
 更なる爆弾が投下された。
「! ジェイドッ!!?」
 ガバッと跳ね起きて、声の主を振り返る。
 そこには、現在進行中で散々に青少年の心を弄ぶ無体な年上が、悠然と微笑んで。
「ジェ、え、え、えぇ??」
 当然、心の準備が出来ていないお子様は、見事に狼狽えた。
 突然の展開に思考がついていかないようで、頬を紅潮させたまま、呆然と硬直する。
「おや、驚かせてしまいましたか?」
「〜〜〜〜ッ、な、ッなんで…!??」
 ジェイドの言葉に答えられるだけの平常心を取り戻していないルークは、ただ、疑問を口にした。
「いえ、ガイが急に部屋を替わってほしいと言うものですから。
 イオン様の護衛もあるのですが、彼なら任しても問題ありませんしね。さして、断る理由もありませんし」
 と、にっこりと満面の笑みで返され、赤毛のお子様は今この場に居ない親友に、心中で思い切り抗議の声を上げていた。普段であればジェイドとの相部屋は願っても無い事だが、今晩は勘弁願いたいのだ。しかも、バスローブ姿に着替えている年上は、風呂上りのいい匂いをさせていて、更に危機感を煽ってくる。
「それで――、ルーク?」
「え? な、なにッ…?」
 自分の説明の半分も理解しているのかどうか、挙動の怪しい子どもに、ジェイドは屈みこんで様子を伺った。
「何処か具合でも悪いのですか。塞ぎこんでいる様でしたが」
「え、ええ? や、別にッ! なんでもない、なんでもないからッ!!」
 ブンブンブン、勢いよく慌てふためいた表情の顔の前で両手を振る様子に、ジェイドは明らかな不審を感じ取りながらも、そうですか、と敢えて追求を控えた。謀略や陰謀といった言葉が誰よりも似つかわしい残酷な軍人が本気で詰問にかかれば、世界に生誕してから七年の歳月しか人生経験の無い子どもの秘密など、簡単に暴ける――のだが、そんな無粋な真似は、この愛すべき子にしたくはない。
 どうせなら――、と意地悪なイタズラを思いつく。
 トン、と指先で子どもの肩を押すと、半端な姿勢で起き上がっていた為に、呆気無く体勢を崩して、ルークはベッドに仰向けに倒れこんだ。
「う、わ…っ!?」
 油断し過ぎだ――と、苦笑が洩れる。
 曲がり何も、数多の戦いを潜り抜けてきた剣士の姿ではないだろうと思うが、それがルークの良いところなのだから、微笑ましくすらある。
 だが、面白いのはこれから、だ。
「ルーク」
 本当に気持ちいい位に思い通りに掌で転がってみせてくれる赤毛のひよこに、ジェイドは思い切り覆いかぶさった。少し、大きめに胸元を肌蹴させておくのは、計画の内だ。子どもの扱いは不得手だが、男を手玉に取るそれなら、百戦錬磨の手管であると自負している。
「ジェ、ジェイドッ???」
 既に、獲物は手の内で、喰われるのをじっと待っている状態で。
 無論、イタイケなお子様に悪さをするつもりは毛頭無いが――、無い、のだが。
 こうも無防備にいられると、ついつい――、
「いけませんねぇ、ルーク」
「え? な、なに…が?」
 惚けているわけではない。その証拠に、高貴な輝きの翡翠が戸惑いながらも、真っ直ぐに蹂躙者を見返す。赤毛の上質な獲物は、大きめのシャツも相俟って、酷く幼く見えた。――実際、七歳のコドモではあるのだが。
「狸寝入りは感心しませんよ」
「――え?」
 パチクリ、と視線と表情で意味を問い返されて、その鈍さに賛辞を贈りたくなる。こんな体勢で、ここまで言われて、直ぐに思い当たらないのが、流石だ。
「それとも、私に襲って欲しかったんですか…?」
「――ッ!!! ジェ、イドッ…、俺が起きてるって、知って―……!!!?」
 華のような微笑みが、まるで、理性を貫く刃のように凶悪に心に突き刺さった。
「ン…――、」
 抗議は吐息ごと、絡み取られる。
 三度目のキスは、甘いだけでなく――酷く背徳的で淫らな味がした。



「おーい。ジェイドの旦那。開けるぞ?」
 トントントン、と礼儀正しいノックの後に、部屋の扉が開かれる。
 微塵の動揺も無く来訪者に一瞥をくれて、美貌の軍人は色々な意味で危ういバスローブ姿で手元の書物を丁寧に閉じた。
「おや、どうかしましたか。ガイ」
「どうかしましたかー、じゃないだろ。旦那。
 一体、ルークに何したんだ?」
 後頭部を指先で掻く仕草は、弱っている時の護衛剣士の癖だ。相変わらずの苦労性だと同情を禁じえないが、手加減するつもりは毛頭無い。
「なんの事でしょう?」
 眼鏡を外した素顔での完璧な営業スマイルに、ガックリとガイは肩を落とした。
「あんまり、アイツをからかわないで頂けますかね。
 けっこー、後のフォローが大変なんだぞ」
 ベッドに腰を下ろし、やれやれと仰向けに天井を見上げる青年に、極悪な性格を極上の容姿で惑わせるタチの悪い大人は、心外だとばかりに両肩を竦めた。
「焚き付けたのは貴方でしょうに。私ばかりを責めるのは筋違いというものですよ」
「まぁ、それを言われると弱いんだけどな」
 自分が要らぬお節介を焼いたのは紛れも無い事実だ。当事者では無いのだから、結果の如何について横槍を入れるのは、余りに無粋というもの。分かってはいるのだが、何せ惚れた相手が悪すぎる。過剰な手助けは勘弁願いたい処だ。
「なぁ、旦那」
「なんですか。ガイ」
 此方の呼びかけに、鮮やかに薫る深紅の譜眼が真っ直ぐに見返してきて、心臓を直に握りこまれるような竦みを覚える。生物全てに備わる生存本能の首根っこを、有無を言わせず抑え込まれた感覚、とでも表せばいいのか。本当に化け物じみた人間だと苦笑で畏れを遣り過ごしながら、それとなく、視線を逸らす。
「――レプリカ情報を抜かれた本体(オリジナル)には、本当に何の影響も出ないのか?」
「どうかしましたか。急に」
「ん。ちょっと、な。アッシュの事が気に掛かって」
 肝心の部分を誤魔化して、天下の死霊使いから必要な情報を聞きだせるとは到底思えない――ので、正直にガイは心中を露呈した。
「彼が何か…?」
「いや…、アイツは何も言わないからな。
 ただの俺のカンみたいなもんなんだが、こう…な」
 言葉を濁す心優しきホドの青年に、一括りにして肩に纏める亜麻色の髪を解いて背中に流しながら、華やかに薫る悪魔は残酷に言い放つ。
「…確信の無い事は言いたくありません」
「――そ、っか…」
 共に過ごした月日は僅かであっても、背中を預け越えた死線の数だけ強く結ばれた仲間の性格を、今更、掴めぬと言い出すような間抜けではない。決して明るくない未来を予測する時の誤魔化し方で場を濁されて、ガイは逆に確信を得る。
(…アイツ…)
 バルフォア博士の研究レポートには、何と記録されていただろうか。
 確か――情報を抜かれた素体は、衰弱していって、最後には――、
「けれど、おそらく貴方が危惧するような状況にはなりませんよ」
「…? 旦那。それは、どういう意味なんだ?」
 まるで此方の考えを全て見通している口振りで断言され、ガイは戸惑いを露わにした。
「レプリカ情報の採取は、いわば――採血のようなものです。
 微量であれば全く問題はありませんが、大量に奪われれば生命が脅かされる。フォミクリー技術の実験初期段階では、レプリカ情報の大量搾取がオリジナルに与える影響が全く考慮されていませんでしたからね。情報を抜かれた本体の衰弱死が起きたんですよ」
「………」
 思わず聞き入ってしまうほど説得力に満ちた説明に、ガイは得心がいった様子で、はぁ〜と溜息を吐いた。
「そりゃま、今の理屈でいけば――死ぬならとっくに死んでる訳だよな」
 あの鮮血のアッシュが衰弱し死の間際で必死に命をつないでいる――などと、とんでもない。ローレライの鍵である黒剣を片手に敵を薙ぎ倒し、世界を飛び回って宝珠の探索に忙しい、もう一人の幼馴染みは、殺しても死にそうにない。その一言が思い浮かんだ瞬間に、完璧な甘いマスクに高貴な輝きの金色の髪を重力に逆らうように波立てた青年は、なら何故――、と疑問を深くする。
(……病気、ってワケでも無さそうだがな…)
 あの時の確信が、自分の思い違いだった、という選択肢は無い。カンは鋭い方だと自負している。己の第六感が鳴らす警鐘を信じて今まで生き延びて来られた面もある。それに、フォミクリーの発案者である天才博士の含みを持たせた言い方も、気に掛かった。
「…貴方は、『ルーク』に弱いですねぇ」
 思い悩む悲劇のホドの生き残りである青年に、ジェイドは――揶揄を織り交ぜた苦笑を零す。すると、何を今更と肩を竦め、ガイは涼しい顔で応じた。
「旦那だって、ルークに弱いだろ。お互い様だ」
「…ええ。そうですね」
 十倍返しが基本の大佐殿の事だ、手痛く切り返してくるかと思えば――切なさすら籠められた肯定に、ガイは鼓動を大きく跳ねさせた。眩暈すら覚えるような、無闇な甘い優渥。すっかり可愛い性格に矯正された親友が、これほどの凶悪な甘美に普段から晒されていれば、確かに易々篭絡されるだろう。
 普段の冷酷で無慈悲な死霊使いの姿を知るだけに、これは――色々な意味で、悪性だ。
「あー、あのな。旦那」
「なんですか?」
「いやうん、こういう口出しは、どうかとは自分でも思うんだが」
「本気じゃないなら、ルークに構わないでくれ、ですか?」
 残酷な妖しさで全てを魅了する冷えた紅の譜眼が、深く、闇を秘めて、瞬く。
 流石に鋭い――というか、役者が一枚も二枚も上だ。先手を取られて、ガイは降参とばかりに諸手を挙げた。
「…そこまでは言わないけどな。ま、そういう事だ」
 年上美人に良い様にあしらわれる青少年の図というのは、第三者的に見て、憐れに感じてしまうのが常識人の反応だろう。気のある素振りをみせ、手酷く誘惑しておいて、際どくなると口先でかわす。そんな狡猾な大人の常套手段で必死な子どもを翻弄するのは、可哀相だろう。
(まぁ、構いたくなるのは分かるンだけどな)
 慕って想って、大好きだと全身で物語って、自分の後を健気についてくるひよこを邪険に出来る人間は、そうそう居ないだろうとも思うのだが。
「嫌ですねー、ガイ。私は何時でもホンキですよ?」
 にーっこり。
 まるで華が綻ぶような、艶やかなそれで応じられて、諫言した相手が悪かったとガイは肩を落とした。よく考えれば――いや、よく考えずとも。こんな若造の言葉ひとつで行動を改めてくれるような人物が、世界を震撼させる脅威として謳われるわけがない。
「あー、そーですか。そりゃ、余計な事を言ってスミマセンデシタ」
 だがしかし、口調が白々しくなるのは見過ごして貰いたい処だ。
「いえいえ。それにしても、ガイ?」
「なんだい、旦那」
 決死の覚悟で『それ』を口にしただけに、空振りの結果に疲弊しきってベッドに仰向けに転がった金髪の剣士に、ジェイドは完璧なまでの笑顔で、
「こちらのルークにばかり構っていると、もう一人の『ルーク』がイジけてしまいますよ。貴方こそ、惚れ気があるならサッサと押し倒して、既成事実の一つや二つ作ってしまいなさい。余り、時間も無いのですからね」
 ぬけぬけと、言い放った。
「……は?」
 案の定面食らう気障な二枚目に、ジェイドは追い討ちをかける。
「おや、それとも自覚ナシですか?
 貴方がこれでは、アッシュも随分報われませんねぇ。可哀想に」
「……!! ちょ、ま、待ってくれ旦那!
 なんで、そういう話が出てくるんだッ!! 悪い冗談は止めてくれ、なんで俺がッ――!!」
 アイツに。アッシュに惚れている、だなんて。
 否定のそれを口にしかけて、途端に言葉の重みに、胸が圧し潰されそうになった。
(…う、わ…―、ちょっと待て。なんで俺――、いや、そんなバカ、な…?)
 迫り上がる感情は、博愛にしては、強すぎて。友愛と言うには、甘すぎて。親愛と呼ぶには求めすぎる。異常なまでの熱を孕んだ、苛立ち。苦々しいもどかしさ。『それ』を理由に位置づければ、全てに説明がつく。異質の生い立ちである自分には、酷く縁遠い感情だ。盲点過ぎて、想像すらしなかった自分の間抜けさに嘲笑が洩れる。バカな男の惨めな顔を曝け出していたくなくて、自身の両腕を顔の前に組み合わせた。
「…ガイ?」
 突然に黙り込んでしまった仲間を不審そうに見遣り、天下の死霊使いは青年の名を呼んだ。すると、目元に組んだ両腕の合間から、遣る瀬無さに溢れた感情が頬を伝うのを見取って、驚きに紅の双眸を細め、軽く嘆息する。
 どうしてこうも、身近な若者たちは愛おしく胸に迫るのだろうか。戦場の骸を屠る魔物として、等しく人々に畏怖された死霊使いもこうなっては、形無しだ。
「…後悔が少ないようにしなさい。
 私達に与えられた時間は、そう長くはありませんから、ね」
 それは、『誰』に向けられたものか。
 ――残酷で冷酷な忠告は、優しく優しく、夜に融けていった。




紅兎終了。
ルークはひたすら年上美人に翻弄されていればいいです
そして、ガイは、そんな赤毛を不憫に想いながらも
もう一人の赤毛に手を焼くといいです。
初々しい感じは大好物です。