幻のまほらま・2
燃える炎のような赤い髪、生命の息吹を感じさせる萌ゆる緑の翡翠。いずれも、キムラスカ・ランバルディア王国の王族の証である。二つを併せ持つということは、正統なる王家の血筋――つまり、王の器であるということ。因って、ナタリア王女が王家に全くそぐわぬ容姿で生れ落ちた時には多少の混乱があったが、婚約者である『聖なる焔』の子が、王として納得のゆく風貌であったことから、問題は立ち消えになった。それほど、ファブレ公爵家が一子は、説得力のある見事な王家の容姿をしていたのだ。
その、世界に二つとて無いはずの『聖なる焔』が、こうして同じ部屋に存在しているのは、何とも奇怪な状況であった。
「……ふむ。なかなか興味深い事例ですねぇ」
「アンタは、何時でもマイペースだな。ジェイドの旦那」
「お褒めに預かり、光栄です」
壁際に背を凭れさせ頭を抱える金髪の青年――ガイの台詞が勿論厭味であることは重々承知の上で、肩を竦めて軽く受け流してみせる死霊使いに、不機嫌そうな様子でベッドの上の『ルーク』は、打開策を求めた。
「どうでもいい。戻す方法はあるのか」
「そうですねぇ」
視界に鮮明に映える赤い髪を長く伸ばした、もう一人の公爵家の跡取り『アッシュ』は、未だ目覚める気配は無い。外傷は殆ど見られず、同様の状況にあった片割れが問題無い事から、自然覚醒を待っている、という所だ。
「まず、少し問診させて頂きたいのですが。
何か違和感はありませんか? 記憶障害まではいかなくとも、思考がバラつくような感覚や、少し前の出来事を思い出しにくいような症状は?」
「……そう、だな。言われてみれば――」
指摘されて考え込む『ルーク』は、普段よりもずっと険しい表情をしている。長髪だった頃の尊大さや態度の横柄さに、何事にも屈せぬ誇りと、高い実力に裏付けされた自信を付け足せば、丁度今のような感じだろうか。
「しっくり来ねぇな。――頭もまだハッキリしねぇ」
「…ふむ。やはり、そうですか」
「どういうことなんだ、ジェイド」
『ルーク』の答えに、天才と謳われたかつてのフォミクリー研究の第一人者、バルフォア博士は仮説に確信を得て頷く。しかし、一人で納得されても此方はサッパリ事情が読めない。公爵家の護衛剣士を務める青年は、マルクト軍での大佐階級にある死霊使いに説明を求めた。
「おそらく、精神官能がイレギュラーな形で発動しているのでしょうね。何せ、論理的にしか有り得ない完全同位体における状況ですから、完璧にお互いの精神が入れ替わってしまっている可能性も考えましたが―――」
コツ、とブーツの踵が響く床板に、部屋のランプに照らされた長身の軍属の影が伸びた。丁寧な動作で寝台の上に仰向けに寝かされる『鮮血のアッシュ』の前髪の乱れた額に触れて、そのまま音素を集約させる。
「…何をしてやがる」
こうして第三者の視点から、昏睡して無防備に他者の接触を許す自分の姿を見るというのは、どうにも奇妙な気分だ。それも、かの名高き紅眼の悪魔が相手とあっては、嫌悪の二文字も加味されてくる。要するに――、
「不愉快だ。俺の身体に気安く触れるな」
という事らしい。
「そんな生娘のような反応をされると、イタズラしてしまいたくなりますねー」
「なッ…!! 貴ッ様ァ!!!」
『ルーク』は常に腰に挿してあるローレライの剣を咄嗟に探り、自身の身体で無い事にハタと気付く。そして悔しそうに死霊使いと呼ばれる得体の知れぬ男を睨めつけた。
「旦那」
因縁のある幼馴染みの事となると途端に普段の平静さを失う青年は、あらゆる意味で厄介な年上の軍人を言葉少なに嗜めた。
「おやおや。怒られてしまいました」
ヒョイと肩を竦めて少しも悪びれない様子でジェイドは返し、神妙な顔つきに戻る。その掌で踊る音素の輝きが不規則に揺らぎ、心地よい緊張感を場に導いた。
「……ッ?」
と、『ルーク』が眉を顰める。短くなった癖の強い赤い髪が、ぴくりと跳ねて、護衛役である剣士が、気遣う視線を送った。
「…なんだ? 譜式、か?」
「ええ、惑星譜術の術式を映像にして送り込みました。
しかし、そうですか。今私が流したイメージが読み取れるということは――完全に精神が入れ替わってはいませんね。アッシュ。貴方からルークに精神感応で『声』を届けていたでしょう? その延長です。一時的に強く『ルーク』の身体に貴方の精神が感応しているだけでしょうから、放っておいても戻りますよ」
人騒がせですねぇ、と譜業で出来た、譜術の抑制装置でもある特別製の眼鏡を指先で押し上げ、ジェイドは稀有な事態に興味を失くして、部屋の扉へ向かった。
「あ、おい、ジェイドッ? 何処に行くんだ?」
「飛行船のドッグに。メンテナンスの進み具合を確認してきます。
ルークはそのまま放っておいて問題ないでしょうが、一応、看ておいて下さいね。それでは、失礼」
「ちょっ…!」
現在の状況を生み出した要因でもある人物の、余りに薄情な態度にガイは抗議の声を上げたが、相手に届く前に青の軍服の背中は扉の向こうへ消え去った。
「……ったく、旦那は…。
今更、性格をどーこー言うつもりはないが、せめて他の解決策とか…なぁ」
時間が経てば治る、という一言だけでサッサと退場されては、此方としては匙を投げられたようにしか受け取れない。――救いといえば、無類の頭脳を誇る天才・バルフォア博士、もとい、死霊使いジェイド・カーティスが、確証の無い予測の域を出ないソレを口にしないという事くらいか。あのやたらと顔の造作だけは整った性悪赤眼の言葉は、信用に足るものだ。程なく、この異常な状態は改善されるのだろう。
「…チッ。面倒な…」
ベッドの上から立ち上がって、ルーク――の身体を操るアッシュは、脱がされた己の鎧や武器が置いてある棚へ近づいた。何を、と不審気に伺ってくる視線を受け止めながらも、黙殺を決め込むのは、かつての幼馴染みの声に酷く弱い自覚があるから。
そのまま神託の騎士の団服上着の懐を探って、桃色の包みを取り出す。奇抜な状況には眩暈がするが、なったものは仕方が無いと、本来の用件を済ませる事にするアッシュだ。
生まれ落ちた瞬間から――いや、ともすれば命を宿す以前から、定められた『死』を世界の全てから望まれる、という非情の運命を背負いながらも、雄々しく猛々しく己を保ち生き抜くだけあり、なかなかその思考は建設的なようだ。
「…返すぞ」
「――…ああ」
振り向きざまに、半ば自棄気味に放られた包みを片手で受け取って、ガイは嘆息した。これで、理由が無くなってしまった。アッシュを自分の下に呼び寄せる、確固たるそれが。
「アッシュ」
「…なんだ」
『ルーク』の姿で凄まれても、迫力は五割減だ。仔犬かキャンキャン吠え立てているようにしか見えないのは、全身から振り撒かれる愛らしさからだろう。
アクゼリュスの大罪を犯し、全幅の信頼を寄せていた師匠による手酷い裏切りを味わい、なにも豹変したのは性格だけでは無かった。己の存在がレプリカだと知り、それまでの傲慢な価値観の崩壊と共に己の存在意義を見失い、剥がれ落ちた『公爵』という鍍金の下には、本来の素直で掛け値なしに優しい性格があった。
それを真っ先に見抜いていた導師は、流石としか言えない。ただのお人好しと切り捨ててしまえばそれまでだが、かりにもローレライ教団の最高責任者だ。その眼力の鋭さには一目置いて然るべきなのだろう。
「あの事は考えてくれたか?」
「…なんの事だ?」
ひよこ毛の頭がコクンと左に傾く姿からして、全く思い当たらないのだろう。薄情な奴だと護衛剣士の青年は、苦笑を浮かべた。
「覚えてないんじゃ考えてないんだろ。
全く、俺が気まぐれや思い付きで誘ったと思ったのか?」
「だから、何のことだ」
責める口調に心外だと反論を寄越すアッシュに、ガイはやれやれと頭(かぶり)を振って見せた。そんな仕種に、過去の記憶も名前も居場所も何もかもを捨て、思い出の『灰』となった存在は、心をざわつかせた。
「…全てが終わった後の身の振り方だ。俺の屋敷に来ないかって誘っただろ。
俺は本気だからな。答えを急がなくてもいいが、ちゃんと考えてくれよ」
鋭く射抜くような空色の眼差しに、アッシュは一瞬息が詰まる程の胸苦しさを感じて、返す言葉を見失う。
「…ガイ…」
事が――終わった後。
預言に支配された滅亡の未来から人々を救うため――今を生きる全ての屍を踏み越えて新たな世界の創造を目的とする男の、悲痛なまでの野心を阻止した後。
果たしてその時、――自分は――…。
――俯き、未来への不安は違う形になって溢れた。綯い交ぜになった感情に揺れる翡翠の瞳は、長くかかる前髪の影で、ガイからはそうと知れない。幼馴染みの青年以外には、決して立ち入らせぬ己の中の、酷く脆い部分が、踏み荒らされる感覚。
「ガイ。前に、憎悪が昇華されたと――言っていたな」
「ああ。ファブレ公爵の所業は、生涯赦すつもりは無い。ただ、敵討ちとか仇討ちとか、な。そういうのは、もう廃業だ」
「喪失を乗り越えるのは容易な事では無い。故郷の悲劇は、お前が考えるよりも精神を抉っている。何度も言うが、俺はお前にとって仇敵の身内――息子だ。それが年中傍にいて、カンに触らない奴などいるわけが――…ッ、」
言い募る先は、呼吸ごと合わされた口唇に奪われて。見開いた瞳の潤みを誤魔化す余裕も無く、ただ、そのまま深く貪られた。
飛行船ドッグは、アルビオール二号機の操縦者である聡明な女性ノエルの姿が常にある。本当に、何時の間に休憩しているのか不思議に思うほどだが、ソツの無い彼女の事、巧く時間を調整しているのだろう。見事な自己管理だと感心する程だ。
ノエル以外にも、飛行船の調整修理などでドッグには技術者達が詰めており、忙しなく立ち働いていた。そして、その中に普段見慣れないツインテールの少女の姿があった。何やらノエルと話し込んでいるようだが、ドッグ中からけたたましい作業の音が響き渡るこの場所で、内容までは全く聞き取れない。
――唇の動きで会話を読み取る事は造作も無いが、特に必要性も無く女性の会話を盗み読むなど、悪趣味にも程があるので、そういった失礼は働かないのが節度を持った大人の態度というものだ。
「珍しいですね、アニス。貴女が、こんな場所にいるなんて」
「あ、たいさー。大佐こそ、めーずらしー」
「カーティス大佐、どうかされたんですか?」
ドッグの端、簡素な休憩スペースで話し込む二人に近づいて、ジェイドは声をかけた。すると、十三歳という年齢で導師守護役(という大任を預かる幼さの残る愛らしい少女が、意識した甘え口調で大佐を振り返る。ノエルは、慌てて姿勢を正して起立し、用件を伺った。
「いえ、大した事では。ただ、アルビオールの作業の進行状況の確認を――」
「お時間を頂いてしまって申し訳ありません。後は簡単なテストを行うだけですから、明日には出発可能です」
「そうですか。有難うございます。
――で、アニスは何をしてるんですか?」
「元々は、トクナガを見れる技術者とかいないかなーって、ノエルの相談しに来たんだけど。その後、噂話で盛り上がっちゃってですね」
えへー、と両手の人差し指で頬をきゃるんと指し、可愛い仕種で愛嬌を振りまく少女に、おや? と、亜麻色の髪をした艶めく美しさの軍属は首を傾げた。
「噂、ですか? 一体、何の――」
「なーに言っちゃってるんですかッ。大佐の事ですよ、た・い・さの活躍っぷり」
「……? ああ、もしかして夕方のアレですか?」
特に何も――と、言いかけ。一つだけ思い当たる節があり、訊き返すと、全力で肯定された。あの後直ぐに赤毛達が倒れてしまって、彼らの容態にばかり気がいっていたので、すっかり失念していたが、確かに一歩間違えば甚大な被害を起こしかねない状況だったと思い出す。
「そうそう。それですよー。
キレーなマルクトの軍人と、赤毛の剣士達が大惨事を防いでくれたって、シェリダンの人たちの間で持ちっきりらしいですよー、大佐」
「おやおや、それは光栄ですね」
にっこりと、計算しつくされた完璧な笑顔で返せば、アニスは詰まらなそうに頬を膨らまして、全力で不満を訴えた。
「ぶーぶー。『キレイ』ってトコに関して、何か思うトコロは無いんですかぁ〜? 大佐ぁ」
「言われ慣れていますから」
「うわッ。やっぱ、そーなんだ…。陛下とか?」
「イヤですねぇ。ブウサギしか愛せないような変人の美的感覚がマトモな訳無いでしょう」
「あー、それもそうですよねぇ」
仮にも世界に名高い列強――マルクト帝国の歴代皇帝の中でも、特に名君として名高いピオニー・ウパラ・マルクト九世に対して、随分な言い草である。
「それで、トクナガを調整出来る技術者というのは見つかったんですか? アニス」
「ぜーんぜんですよ。大佐。けっこー色々当たってみたけど、皆口を揃えて『この譜業を造った人間は天才だ。とても自分の手に負えない』なんですもん。
まー、ディストがこういうのに凄いってのは分かってたけど、やっぱりアイツって天才なんですねー。大佐」
「一応アレも天才と呼ばれてましたからね。――まぁ、ただのバカですが」
知的で繊細な美貌に良く似合う眼鏡の下で、紅眼が蔑むように閃いて、幼いながらも世知辛い世の中を一人で渡ってきた少女は、瞬時に危険を察知した。大佐の前でディストの話題は厳禁だ。流れてきた不穏な空気を払拭すべく、賢明な少女は全く違う話題を振った。
「あー…、えっと、た、大佐ぁ?
噂話の続きなんですけどぉ、大佐だけじゃなくて、ルークもガイも結構女の子に人気だって知ってました?」
「おや、そうなんですか?」
助かった。ボリュームのあるツインテールが愛らしい二面性の強い少女は、心の底から安堵し、そのまま興味を惹きつける為に更に話題を提供する。
「うん、そうそう。そうなんですよー。実は今、ノエルとその話で盛り上がってて。
二人とも、容姿は結構イケてますもんね。でもって、ガイは天然気障男のフェミニストだし、ルークはあの子どもっぽいトコロが可愛いって、大人気。
その上、ガイはマルクト貴族だし、ルークも公爵様だし? なんかこうやって考えると、十分玉の輿候補ですよねー。二人とも」
「おや、ではアニスも狙ってみますか?」
「うーん…」
片や女性恐怖症の下男気質、死ぬまでいい人止まりになりそうな没落貴族。片や、大国の王族とは言え、レプリカという宿業を背負い、王家でも微妙な立場に置かれる公爵様。辛口批評は無論当人達には秘密だ。特に、あの赤毛の子どもは取り扱い注意で、遣り難い事この上ない。
「二人とも、色々背負い込んでてメンドイから、遠慮しますぅ」
「なかなか賢明な判断ですね。流石はアニスです。
さしずめ狙うなら、苦労知らずの貴族のボンボン次男というところですか」
「そーそー、それで人が好くて世間知らずだと、更に理想的ですよねッ」
腹黒い玉の輿計画を楽しそうに語ってみせるのは、年不相応に精神的成熟を果たしている少女だ。ふわふわと揺れる愛らしい黒髪のツインテールと、つぶらな瞳の容姿から、悪辣な台詞が次々と飛び出すのだから、本当に人間は見た目では分からない。
「そー言えば、大佐は恋人とかいないんですか?」
世間話の流れ上、自然に出てきた質問に、確かに年齢だけで考えれば婚姻済みでもおかしくない大佐階級の軍人は、残念ながら、とおどけて見せた。
「えー、でもでも大佐ってモテそうですよねッ。
子どもの頃とか、どんなカンジだったんですか?」
きゃぴ、という擬音が聞こえてくる程の猫ぶりで、好奇心旺盛な少女は興味津々に窺った。
「別にフツウですよ。
愛想も無い大人びた子どもでしたから、特別に愛情を寄せられた覚えはありませんねぇ」
「ええー。アニスちゃんなら、ぜったい大佐みたいな将来有望な美形ほっとかないのに!」
「それは光栄です」
両肩を竦めておどける年上は、煮ても焼いても食えそうに無い。伊達に若くして導師守護役に抜擢されている訳では無く、人形使いの少女とて相応の強かさと毒を孕み、場合によっては効果的に駆使しているのだが、この綺麗な軍人には全く通用しない。
「そんなことより、ノエル」
「は、はいッ?」
突然に話を振られ、几帳面で真面目な性格のアルビオール操縦者である女性は、背筋を伸ばして答えた。少々、声が裏返ってしまっているのはご愛嬌だ。
「少し、眼鏡の留め金が歪んでしまっていましてね。
適当な工具を貸してもらっていいですか」
「あ、はい。分かりました」
軽い身のこなしで椅子から飛び降り、ノエルは薄い金髪を揺らして工具を用意するために駆けて行った。
「壊れちゃったんですか?」
極悪非道との悪名高い死霊使いが、流麗な美貌を知的に際立たせる眼鏡は、単なる視力を補うそれではなく、音素の暴走を抑える役割を行っているのは、一部しか知らぬ事実だ。
即座に問題を起こす訳では無いが、このまま譜術を戦闘で発動させれば、場合によっては禁譜である譜眼のコントロールが失われ、甚大な被害が出る可能性がある。
「いえいえ、壊れたという程のモノではありませんよ。
少しフレームの螺旋が緩んでいるだけですから」
「そんなのガイに頼んじゃえばいいじゃないですか」
自他とも認める譜業マニアで手先の器用な旅の一員である青年は、事ある毎に貴重な譜業装置である大佐の眼鏡に触れたがっていた。修理を頼めば、一も二も無く快諾するに決まっている。それに、常識を弁え節度を保った性格の為、下手な真似に出ることもないだろう。
「そーですねぇ。
でも、今は少し立て込んでいるようですから」
「? まぁ、私は久々に大佐の素顔見れてラッキーだから、どーでもいいんですけどね」
既に顔の一部として馴染んでいる繊細なラインの眼鏡を外し、ふわりと微笑む若々しい三十五歳に、アニスは年頃の少女らしく恥ずかしげに頬を染め、感嘆の溜息を吐いて魅入ったのだった。
「……あー、くそッ」
シェリダンの風物詩である港の倉庫群を、波頭の光を頼りに駆けていた青年は、苛立ちに任せて拳をくすんで汚れた壁に叩き付けた。
衝動的な接吻――、それも『ルーク』の器に宿るアッシュに向けての、激情。
高潔な魂と潔白な身体の主は、突然の暴挙に酷く驚き――呆けて、格調高い翡翠の眼差しを辛そうに歪ませ、部屋を飛び出していってしまった。
自分自身で、己の行為に衝撃を受けていたガイには、止める間も無かった。
「アイツの体…大丈夫なんだろーなぁ…」
思わず飛び出してしまったはいいが、部屋には六神将・鮮血のアッシュの肉体が置き去りにされている。付け加えるならば、今回の件は混乱を避ける為に女性陣にはまだ事情を通していない。ここで、アッシュの姿が彼に淡い慕情を寄せている王女などに見つかれば、更に面倒な事になりかねない。そんなことになれば、あの完全無欠の無敵の死霊使い殿に、どんな厭味攻撃を受けることになるのか――想像するだけでも恐怖だ。
「…つーか、何で俺…、ああもう、クソッ」
一枚も二枚も上手な人生経験豊富な軍人に諭された通り、一方ならぬ想いを赤毛の幼馴染みに抱いている事はとうに自覚した。全く以ってどうしたものか、あの頑固で一途で我の強い扱い難い事この上無い公爵様に惚れ抜いてしまっているのだが、しかし、青春真っ只中の青二才でもあるましい、まさか自分があんな行動に出るとは予想外だ。
「…ルークのカラダだし。
……旦那にバレたら殺されそうだ…。つーか、すまん…ルーク…」
決してアッシュとルークの存在を混同する訳では無いが、世にも珍しい完全同位体の身であるため、ガイとしてはルークの肉体に対して性的な意味合いの接吻を仕掛けるのは、全く抵抗は無い――が、すっかり三十五歳の軍人に懐いている赤毛のひよこからすれば、鳥肌モノの行為だろう。意識が無くて良かったと今更ながらに胸を撫で下ろす。
「……ん? あれ?」
そこに至り、漸く、悲劇のホドの生き残りである貴族の青年は、疑問を抱いた。
「…アッシュのヤツ。なんで…逃げ出したんだ?」
ヴァンデルデスカの謀略により十年前より遠く離れていたとはいえ、そうそう性格が変わる訳ではない。幼きより徹底した帝王学に骨身をやつした『ルーク』ならば、自身に対する非礼や無礼の類には、即座に鉄槌を下すはずだ。あの状況なら、飛んできた拳に叩きのめされてしかるべきでは無いかと。
「まぁ、ウダウダ考え込んでも仕方が無い、か」
兎に角、幼馴染みである公爵様を探し出さない事には始まらない。キムラスカ王家の直系の子等は、どれもこれも手が掛かると苦笑と溜息を漏らし、公爵家の下働きが長い金髪のアルバート流使いの剣士は、聖なる焔の髪を夜の闇に捜した。
全力で駆けてきた所為だけでは無く、体中が――熱かった。
夜は静かに凪いで、見渡す限りの星々が、空と海に果てし無く広がっていた。
俯く動きに合わせる髪は、短く頬を撫でる。
「レプリカ…か」
必死で己が存在の意味を見出そうともがく姿は、滑稽で――矛盾していた。
何を今更、と、罵倒と嘲笑でレプリカを否定して何が悪い。
生きる事に意味など無い。
今、ココにある『命』を誰に遠慮するで無く、精一杯生きればいい。
『聖なる焔』としてではなく『ルーク』として皆に望まれている癖に、更に何を求めるというのか。間に合わせの贋物にしか過ぎない分際で、傲慢にも程がある。
「テメェは、…ウゼーんだよ。
『ルーク』の名前はもうお前のモンだ。何で俺に遠慮してんだ。バカじゃねーのか」
受け取るべき相手に『意識が無い』と分かっているからこそ、次々に零れる本音は、酷く悲しく、優しい響きだった。
「お前は…『ルーク』として『聖なる焔』の譜言を覆して見せた。
――俺は、……『ルーク』の名前から逃げ出した臆病で卑怯な…最低の人間だ。だから、俺にはもう二度と『ルーク』を名乗る資格なんてねェんだ。
この名前は――譜言と戦って勝ち取ったお前のモンだ…『ルーク』……」
カシャ、と広場の鉄柵の上に両腕を組み、アッシュは深く俯いた。分かっている、本来『ルーク』は何一つ責められるべきでは――無いのだ。他の連中は、アクゼリュスの崩壊を無知なるレプリカの愚行と苛むが、そうでは無い。真に責められるべきは、譜言を絶対視し、運命に殉じる犠牲を厭わぬ世界の仕組みそのものなのだ。もっと根源的な存在から、歪みを認識し、正してゆく必要がある。
しかし――人は弱く、愚かで、学びの無い生き物だ。
問題が起これば、身近に責任の所在を求める。呵責無く責められる生贄を差し出し、対象を集団で責める事で心の安寧を保つのだ。その際、行動の善し悪や倫理道徳といったものは、最早問題視すらされない。
外殻大地の耐久年数はとっくの昔に過ぎていた。今日まで無事に浮かんでいたのが逆に奇蹟だ。そして、ユリアの譜言にアクゼリュスの崩落は読まれていた。
「…テメェは…責任感じ過ぎなんだ、バカが…」
全ての悲劇と惨劇の要因が、聖なる焔の代替品として創り出された悲しきレプリカの、その愚かさ故であると高慢に言い切れる程、人々は――…、
「……俺には…、時間がねェんだ。
テメェは――生きろ。ルーク…」
ぐ、と自身の――いや、『ルーク』の胸を掴み、アッシュは苦悩の瞳で呟いた。
「アッシュ!」
「!」
しかし、感傷は即座に断ち切られた。
今現在、最も顔を合わせたくない人物――幼き時間を共に過ごした金髪の幼馴染みが、その場に追いついてきた、から。
港の倉庫群とそこから先、彼方にまで広がる水平線を一望出来る高台の広場は、昼の間こそ他愛無い遊戯に熱心になる子等のはしゃいだ声が弾けているが、夜の刻限ともなれば静まり返っている。他の街であれば、夜の公園ともなれば別の意味合いで賑わいそうなものだが、そこは流石は職人の町シェリダン。需要が無いため、大人向けの娯楽が他と比べ酷く少なく、無闇に夜中に出歩く若者がいないのだ。
よって――、夜闇にも鮮やかな聖なる焔の髪と、オートクチュールの白の装束の青年の姿は、直ぐに目に留まった。
短く整えられた髪が――アッシュの本来の肉体では無いのだと、改めて自身に警鐘を鳴らす。今度は迂闊な真似に走らぬように己を戒めながら、護衛剣士の青年――ガイは、心を乱す探し人に声を掛けた。
「…ガイ…」
困惑した様子で振り向くアッシュの瞳は――昏く、迷いを映していた。
「アッシュ…」
「寄るなッ!!」
「…――ッ、アッシュ…」
予測以上の激しい拒絶に、一瞬だけ怯んで見せ――悲劇のホドの生き残りであるガルディオス伯爵家の直系は、困り果てた様子で立ち竦んだ。
「…アッシュ。話が――」
しかし、こうして二の足を踏んでいても埒が明かないと、意を決し半歩踏み込んで――、
「…来るなッ…」
「! おい!! そっちは…!!」
高台の広場の手摺から先は、数十メートルも真下に倉庫の屋根が広がるだけだ。幾ら、ローレライの剣士と言えど、この高さを飛び降りて無傷で済むとは思えない。更に付け加えるならば、今は、十年の時を費やして鍛え抜かれた神託の盾に所属する六神将・鮮血のアッシュの身体では無く、つい、最近までバチカルの屋敷で不自由無い生活を送っていた公爵様のそれなのだ。自身の器であっても危険な真似を、仮初めのモノで強行するなど、自殺行為以外の何物でも無い。
「まてまてまてまて、アッシュ!
俺はこれ以上近付かないから、お前も動くな!!」
「――…、……」
今にも柵を乗り越え逃げ出そうとしていた無茶な赤毛は、ピタリと動きを止めて、肩越しに気障な仕草が標準装備な人の好い青年を窺った。
「…まず、謝らせてくれ。不躾だった」
「……ッ」
何に対する謝罪であるのか、察して――ルークの姿をしたもう一人の幼馴染みは、夜目にもハッキリと判る程に赤面して見せた。神託の盾でも、特殊な戦闘部隊を率いる特務隊長・鮮血のアッシュとは思えぬ初々しさに、それなりに知識面では成熟しているはずの青年も、釣られて照れ込んだ。妙に気恥ずかしく、コホン、とワザとらしく咳払いなどして場を誤魔化す。これではまるで十代の若造並みの経験値の無さではないかと、情けなさを噛み締める。
「……あー、その、な」
「………」
言葉を待つように向き直り、真っ直ぐ見つめてくる無垢な輝きの翡翠が――心臓に悪い。
「さっきの、アレ、な。
グランコクマの俺の屋敷に来ないかって誘ったやつな。
もう一度、ちゃんと言わしてくれ」
「……?」
砂漠の商業都市での一件の話である事は直ぐに察して、しかし今更改めるような内容だっただろうかと、アッシュは疑問を抱きつつも、素直に次の言葉を待つ。
かつての世話焼きな幼馴染みは、心なしか緊張した面持ちでいるようだった。
「……今回のゴタゴタが全部解決したら、俺の屋敷に一緒に暮らしてくれないか」
以前とは少々ニュアンスが異なる響きに小首を傾げつつ、アッシュは真摯に提案に向き合った。帰る場所も待つ人もいないこの身には、酷く魅力的な誘いではある。だが――、
「…ガイ。俺は…――」
「アッシュ。断るな」
「……ガ、イ?」
戸惑い――拒否の選択肢を奪われていては、肯定しか残らない、と。夜目にも赤が麗しい王家の聖名を受ける青年は、苦悩を滲ませながら言葉を呑み込んだ。
「何も考えずに、お前がどうしたいのか――それだけで答えてくれ。
俺は、この戦いが終わったら、今まで一緒にいられなかった分もお前と居たい。その先もずっと、可能な限り、出来れば人生の終わりまで共に在りたいと思っている」
「………ッ」
レプリカの身体を操るオリジナル・ルークは、さり気無い優しさで平等に愛を振り撒く、まるで太陽のような金の髪の青年の、その告白に、大きな違和感を感じた。
生涯を共に在りたいとに望む、これではまるで――…、
「プロポーズ、だからな。真剣に考えて欲しい」
「!」
感じていた事を正に言い当てられ、まさかと否定していた事を全て肯定され、アッシュは完全に躊躇えた。伊達に十年間もの間俗世に揉まれて生きてきた訳では無く、ルークとは違い一通りの常識や世間の知識は持ち合わせている聖なる焔は、求婚の意味を理解し、頬を染めたまま固まった。
「…おッ、お前はッ…、自分が何を言ってるか、分かっているのか…?」
動揺は――そのまま顕著に声の震えとなり、常に遥か遠い未来の正しき姿を模索し続ける気高い為政者としての、真っ直ぐな翡翠の眼差しが、頼りなく瞬いた。
「分かってるさ。
――…自覚したのは、つい最近だけどな。
これでもそれなりに悩んだんだぞ。でも…ダメだな」
戦闘による外傷から保護する意味合いで普段から着用している手袋は無く、素手の指先で、ガイは後頭部を決まりが悪そうに掻いた。
そして――不意に真剣な表情に戻り、晴れ渡った空の色を映す爽やかな瞳が、迷いも躊躇いも無く、大切な幼馴染みへと――注がれた。
「……愛してる。俺と一緒に、生きて欲しい」
「……、……ガ、イ…」
膝から力が抜けそうになるのを、ランバルディア王家の正統なる血筋を受け継ぐ焔の子は、必死で耐えた。過酷なる運命の中、幼きより求めて――決して叶わぬ願いと、最早望む事すら諦めた想いが望んだままの形で手向けられている奇跡が、何よりも信じ難かった。
「直ぐに決められないなら、この戦いが終わった後でもいい。返事をくれ。
――…愛してる、アッシュ…」
一瞬強く吹きぬけた陸風が、呆然と愛の言葉を受け止める青年の視界を赤に染め上げる。
「! アッシュ!!」
悲運の果てに、届きかけた幸いは、今はまだ――こんなにも遠い。
心を裂かれる痛みも、己を否定される苦しみも、他者を屠り生き延びる傲慢も、全ての苦悩を幼少にて知り得た数奇な運命の青年の意識は、息を呑み駆け寄ってくる護衛剣士の姿を最後に、途絶えた。
ガイは、アッシュに好かれている自信はあります。
が、そういう意味で好かれているとは、全く思っていません。
アッシュ的にはガイには、最初はただの気さくな小間使い、程度の感情しかなくって
でも、ヴァンにさらわれた後、事実を知って。その強さに惹かれて
本物と摩り替わってるとは知らずに
レプリカ・ルークに笑顔で仕えているガイの姿に
あの笑顔は、自分に向けられていたものだったかもしれない、と
それは、自分でないのに、どうして気付いてくれないんだ、と
なんか、もー、どーしようもなく妬いてたりするといいと思います。