影と焔に縋るは愚か・3
親友兼弟分のような存在の子爵の私室で一通り状況を推測した後に、マルクト貴族である上品な金髪が甘いマスクをより引き立てる青年は、迷わず廃工場へと向かっていた。
バチカルの警備は万全だ。人目を避けて街中を逃げ回る事は出来ても、流石に正規ルートから王都の外へ出てゆくのは難しい。身分証明が無ければ船舶チケット購入自体が不可であるため、港から他所の土地へ脱出するのは口で言う以上に困難だ。長い架け橋を通る正面入り口は、何人もの警備兵が常に交代で見張りに立っている。そんな中を、誰にも見咎められずただの旅人の素振りで通り過ぎるのは無理難題だ。
となると、脱出ルートは王都の地下にひっそりと存在する廃工場のみだ。ルークの記憶がアクゼリュス崩落前まで戻っているとしても、廃工場の記憶は残っているだろう。非常に危険な場所だが、他に適当な方法が無いのであれば、あの無鉄砲な子爵様は飛び込んでいくと確信していた。
「…って、なんだありゃ?」
漸く地下廃工場へ繋がるゴンドラの前まで辿り着いて、普段は王家の護衛についている白輝騎士団と警備隊の連中が顔を突き合わせている姿に、ガイは目を丸くした。
「おい、どうしたんだ?」
何事かと駆け寄り事情を窺えば、ファブレ公爵家嫡男捜索の為に廃工場へ降りるべきかどうかを話している、との回答で、その態度に違和感を感じガイは首を傾げた。
「…なんだ、問題でもあるのか?」
俊足と身軽さを戦術の要とするアルバート流剣術を極める、かつてのファブレ家の護衛剣士の質問に、白輝騎士の一人が強張った声で応じる。
「実は、最近になって廃工場に新種の魔物が棲み付いた様子でして」
「そりゃまた…」
厄介な事になりそうだと、ガイは青い瞳を眇めた。
王家を守護し奉る栄誉ある白輝騎士といえば、心技体に優れた者が選出されている。その彼らが躊躇うとあっては、相当に危険な魔物なのだと想像に難くない。
「ルークの目撃情報は?」
「は、街の者の話では、この廃工場に降りたものと予測されます」
「そうか…。なら、俺が行ってみる」
「! え、いえ! しかし、危険です!! その魔物というのが、得体が知れない奴でして…」
ガイ・セシルとは身分を隠蔽するための仮の名前。無幸の島・悲劇のホド貴族、ガイラルディア・ガラン・ガルディオスと言えば、マルクト帝国のピオニー陛下の寵愛を受ける臣下の一人だ。キムラスカ領内、ましてや王都バチカルにて、万が一にでも彼が負傷すれば国際問題への発展は充分に考えられる。しかし、騎士達の心配を吹き飛ばすように、金髪も爽やかな青年貴族は、ヒラヒラと片手を振り軽やな足取りでゴンドラに飛び移る。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。それに、そんな危ない所にルークのヤツが行ってるなら、放っておくわけにもいかないだろ」
「いえ…、それは――、しかし…」
奥歯にモノが挟まったような言い様に、バチカルにて長らく護衛騎士の立場にあった青年は少しだけ眉を顰め――、ああ、そうかと一人納得する。
胸糞悪い話だが、それも仕方ない。
ここで闇雲に食って掛かったところで、何一つ解決などしない、意味の無い問題なのだ。
「何か問題でもあるのか?」
「――…いえ、では私達も…」
「いや、アンタ等はここで待っていればいい。俺一人で充分だ」
「…しかし、ガルディオス伯爵様! この下には――…」
「そうだな、救護準備だけはしておいてくれ。じゃ」
それ以上の言葉を許さず、背中を向ける。拒絶。それが理解出来ぬ程愚かでは無いだろう。
ファブレ家で十年間を過ごした『ルーク』をレプリカとしてしか認識しない連中が幾ら集まろうとも、何の救いにもならない、ただの烏合の衆だ。そんなもの、必要無い。寧ろ、意図せずレプリカとしての生命と宿命を背負わされた子を無闇に傷つけるだけだ。
「しょーがない、か」
悲しい生い立ちから実年齢以上に達観した思考の持ち主である金髪の青年は、心許無く軋む古びたゴンドラが闇に向かい進む中、ひとつ、溜息を吐いた。
「いやー、参りましたね」
自身の左足を摩りながら零す大佐階級の軍属に、ルークはバツの悪そうな顔で黙り込む。
「この足では上まで自力で歩くのは難しそうですし。
全く、貴方といると本当に退屈知らずで結構な事ですね。ルーク」
「…悪かったよ」
「おや。素直ですね?」
「茶化すな」
「これはこれは、失礼いたしました」
突然の事でロクに受身も取れないでいた公爵様を庇った為に、マルクト第三師団師団長である男は、完全に足を挫いていた。着地の際の二人分の体重が不安定な体勢でえ床に着いた片足に掛かったものだから、致し方ない結果だと言える。
「他に怪我は…?」
「問題ありませんよ。それより、貴方はどうです」
「俺は別に――…」
なんとも無い。
なんとも無いのは、この目の前の口の減らない小憎たらしい軍人が自分を庇ったからで。
庇った当人にしっかり怪我をさせてしまっているのだから、バツが悪いことこの上無い。
「…それより、どーすんだよ」
「そうですねぇ。上に行けば先ほどの魔物に遭遇する確立が大きいですから、ここは素直に下から外に脱出しますか」
アクゼリュス後の剣士ルークならば兎も角、親善大使なルーク様を連れて、得体の知れない凶暴な魔物との戦闘は全く以って好ましくない。なるべく勘弁願いたい状況だ。
「歩けるのか?」
心配そうに覗き込んでくる翡翠の双眸だけは、以前のまま、変わらず澄んでいる。困った『ルーク様』だが、どうしても見捨てる気に成らないのは、罪悪感や使命感からではなく、単純に、この瞳に弱いからだ。真っ直ぐに向き合う事しか知らない輝き。それは、酷く心をかき乱す輝き。
「…そうですね。痛みますが、歩くくらいなら…、ッ」
慎重に起き上がり左足を踏み出してみる――と、予想以上の激痛が奔った。正直、移動は辛い。しかし、このお子様にそんな事を言っても仕方が無いのは分かりきっていた。マルクト皇帝の懐刀とされる軍人は、壁に背中を預け、右足に体重を預けながら思案した。
「困りましたね」
「痛むのか?」
「ええ。多少、ですがね」
「…多少って、骨とか大丈夫なのか?」
「ヒビくらいは入ってそうですが、折れてはいませんよ」
「ヒビ!?」
「ええ」
サラリと答えるが骨にヒビとくれば、確かに歩くどころでは無いだろう。それどころか、もっと痛みを訴えても良いはずだ。なのに、顔色一つ変えない。無論、ここには明かりと言える灯火は無いので、太陽の下でならば、もっと違う様子が見て取れるのかもしれないが。
「私は動けませんし。かと言って、貴方一人を行かせるわけにもいきません。治療薬の類も持ち合わせていないとくれば、打つ手なしですね」
「ちょ、待てよ! 何諦めてンだ!」
肩を軽く竦めておどけて見せる性質の悪い軍属に、ルークは血相を抱えた。幾らマガイモノと言われようと、一つしか持ち合わせの無い命だ。こんな場所で無様に果てるのは御免被りたい。
「おやおや、元気があって結構ですねー。
しかし、先ほどの魔物に見つかると厄介です。静かにしておいてくださいね」
「……わーってるよ」
何処までも状況を計算する冷静な、しかし揶揄の色合いを多分に含んだ台詞にルークはむっつりと黙り込んだ。バチカルの屋敷で軟禁状態で育ってきただけあり、確かに世間知らずで無鉄砲な面はあるものの、聖なる焔の複製として生まれた青年とて、馬鹿ではない。今、この場で騒ぎ立てる事が如何に無意味且つ非生産的な行動であるかは判断出来るようで、不承不承ながらも、ジェイドの言葉に従う。
「…まさか、ここで諦めるつもりじゃねーだろうな。お前、ネクロマンサーなんだろ。スゲェんだから、なんとかしろよ」
「おやおや、随分と買い被って頂けているようで、恐縮ですよ。ルーク『様』」
「その、『様』っての止めろよ。白々しいな」
「おや、高貴な生まれの貴方様を呼び捨てなど恐れ多い。ルーク『様』」
「……ッ」
露骨に慇懃無礼な態度で応じられて、幼く傲慢なキムラスカの聖なる焔の光――の身代わり人形は、悔しそうに一枚も二枚も上手な大人を睨み付ける。
「さて…、そうですねぇ。諦めるわけではありませんが、今は身動きが取れませんね。それに、ガイも一緒にバチカルに来ていますから、彼ならきっと貴方を見つけ出してくれますよ」
「ガイも!?」
途端に不満と不安に陰鬱とした表情でいた子爵様は声を弾ませた。流石、長年このお坊ちゃまの世話係をしてきただけあり、信頼関係は抜群だ。名前だけでこの効果なのだから、彼が王子様よろしく颯爽と助けに来た日には、抱きついて童話の姫のようにキスシーンでも披露するのでは、と半ば本気で考えてしまう。
「だったら、大丈夫だ。アイツなら絶対俺を助けに来てくれる」
「分かって頂けて幸いです。では、大人しく待つとしましょう」
言って、緋色の眼差しを痛みに曇らせながら死霊使いの異名を獲る麗しき軍属は、左足を庇いつつ、腰を下ろす。並みの精神力なら痛みに呻き蹲ってしまうだろうに、多少は苦痛の色は窺えるものの、涼しい様子でいる隣国の大佐に、ルークは怪訝な顔をする。
「…痛くねーのかよ」
「痛みますよ」
「なら、なんで平気な顔してンだ」
「平気なら、とっくに貴方を連れて行動してます」
「――…じゃなくてッ…、ああ、もう!」
巧妙に論点をすり替えられた返答に、ルークは苛立った。言いたい事は、こんな事じゃない。貰いたい言葉はそんな事じゃない。直感とも言うべきソレが明らかな違和感に警鐘を鳴らすものの、幼い弁しか使えぬ子どもが、狡猾なオトナに太刀打ち出来るはずもない。もどかしさが募るばかりの噛み合わぬ会話に、レプリカとしての宿命を負う青年はむくれながらジェイドの隣に腰を下ろす。
「…アンタ、ホント可愛くねーよな」
「おや、可愛い私がお好みですか。では、ミュウの口癖でも真似てみせましょうか?」
「…勘弁しろよ。オッサン」
一応、聖獣として位置づけられているチーグル族の子の独特の口癖と、間延びした口調を思い出し、そのミュウに『ご主人様』として慕われる赤毛の青年は、げんなりと肩を落とした。
そのまま口を噤めば、敵意を含まぬ魔物の気配と、廃管から漏れるオイルの水音だけが、遠く響いて、魂の輪廻から切り取られ世界から拒絶されているような、底知れぬ恐怖が湧き出てくる。瞳を伏せれば、絶望的な孤独感が襲い、背筋を駆け上る怖気に強く首を振った。
「…なぁ」
沈黙に耐えかね、顔立ちと頭脳の明晰さ――に反比例する極悪な性格の持ち主に声を掛ける。
「なんですか、ルーク『様』」
「アンタ、好きなヤツとかいねーの?」
「…この状況で、その質問ですか?」
呆れたとばかりに、見目麗しいマルクト帝国の軍属は溜息を吐いた。記憶を失い、己が聖なる炎のレプリカに過ぎず、アクゼリュスを滅ぼした罪人であるという衝撃の事実を知っては惑い。遂には魔物の俳諧する危険地帯へ迷い込み、何時とも分からぬ助けを待つより他は無い絶体絶命の危機にありながら、飛び出した話が、恋のそれ。流石と称するべきかは迷うところではあるが、随分な肝の据わりようだと感心する。
「いいだろ、別に」
確かに少々的外れというか、場の空気にそぐわない質問だったと自身でもバツの悪さを味わうルークだ。しかし、このような状況でも無ければ、この厭味で慇懃無礼な軍人と二人きりになる機会など今後一切在り得ないだう。それにどうせ今は、助けを待つだけの時間だ。少しでも有意義にと思うのは至極前向きな思考であり、文句を言われる筋合いは無いと開き直る。
「まぁ…、構いませんがね。
いませんよ。おそらく、この先にもそのような相手は現れないと思われます」
「…なんで言い切れるンだよ。そりゃ、アンタみてーなのに惚れる物好きなんて、早々いねーだろうけど、それでも、たで喰う虫も好き好きって言うじゃんか」
臆面無く失礼な事を言ってのける子爵様に、ジェイドは失笑を禁じえない。
「私は、蓼ですか? それは、余程の物好きでないと恋愛は無理そうですねぇ」
「事実だろ。アンタ、優しくねーし、怖えーし、性格悪いし。顔だけは無駄にいいけどよ。
もてるったら、ガイみてぇな性格の奴だろ」
「そうですねぇ。確かにガイは女性に好かれるタチのようですね。
あの体質を改善しない事には、お付き合いは難しそうですが」
「だよなー。ったく、アイツもあんだけ天然で女に優しいクセして、なんで苦手なんだか、ワケわかんねーし。メイド連中も、逆に面白がってアイツを構うし。めんどくせーヤツ」
「そういう貴方はどうなんですか?」
完璧に天然でフェミニストで気障な幼馴染みの、女性が近寄るだけで震え上がる情けない姿を思い起こしてか、苦い顔でぼやくファブレ公爵家が嫡男――…の身代わりとして生み落とされた青年に、何気なくジェイドは話題を振り替えした。
「へっ? 俺?」
「ええ」
揶揄を含んだ意地の悪い闇紅の眼差し、静かに挑むような口調。どう見ても、恋に疎い若造をからかおうとしているとしか思えない様子で、ジェイドはルークの返答を待つ。
「…いねぇよっ、そんなヤツ」
当然とも言える素直な反応で、バチカルのお屋敷に十年もの間軟禁状態にあった青年は頬を染めながら、そっぽを向いた。好きなひと。そう問われた瞬間に日記に綴られてあった文字を思い出したのだ。信じられない。信じたくない。ある意味、己の存在が紛いモノでしかないと言う事実以上に否定してしまいたい想いが、あの中には書き込まれてあったから。
「やれやれ、まだ恋一つした事の無い子どもに恋愛を語られるとは、私もヤキが回りましたか」
「…ッ! 好きなヤツくらい…!」
あからさまな子ども扱いにカッときた王家に連なる血脈の青年は、思わずムキになって言い返し――た後で、直ぐに猛烈に後悔した。薄明かりの中でも見て取れる程ハッキリと、タチの悪い年上は完璧に完全に面白がっていた。
「おやー、初耳ですねぇ。どなたなんですか。やはり、ティアですか? それとも、ナタリア? まさか、アニスじゃありませんよね。ああ、ガイなんていうのもアリですか?」
「ん、なっ…!」
余りの言われ放題に、ルークは息を飲み込むと、強く反論した。
「誰がガイに惚れてるだ! バカも休み休み言えよ!」
「おやおや、違いましたか」
「ちっげーよ! つーか、ありえねぇし!!」
大概ムキになって言い返すキムラスカの聖なる炎の写し身を、大佐の階級で呼び習わされる意地の悪い大人は、愉しそうに見返した。
「〜〜ッ、くっそ! なんで、こんなヤツ…っ」
いいように揶揄られる悔しさに頬を紅潮させるルークは、何処か惑うような眼差しで亜麻色の髪の麗人を睨み付ける。
「なんで、…アンタなんて…」
そして、力なく肩を落とし呟く。その姿が『アクゼリュス』という罪や、生贄の羊として炎に焼かれるべく捧げられた己が生命の業を背負いつつも、無数の苦悶を抱えながらも真っ直ぐに生きる、かつての赤毛の子と被り、冷酷非情の魔王として大陸にその名を知らしめる軍人は、冷徹な眼差しを翳らせた。
「…ルーク?」
声は、優しい。
その思わぬ響きにハッとして、名を呼ばれた青年は弾かれるように隣を見返した。
縋るモノを求めるような頼りない翡翠の瞳の、その中に確かに見て取れる必死さに、ジェイドは怪訝そうに形の良い柳眉を寄せた。
「…どこか、痛みますか? ルーク」
――完全に庇ったつもりだったが、着地の際に、何処か怪我でもさせたのか。
それとも、廃工場の汚染された空気に悪心を起こしたのか。
純粋に手の掛かる子を心配する声音のそれに、キムラスカ王家が子である青年は、くしゃりと表情を歪めた。それは、羽ばたき続けた翼を宿す枝を失い虚空に舞う鷹のような、絶望的な悲しみにも似た――痛みの、色。
「……ルーク?」
三度目の、呼びかけに。
燃えるように赤く鮮やかな赤の髪を短くした青年は、逡巡するように首を振り、視線を迷わせた。
「…なんなんだよ…、アンタ」
「………?」
一体、何を問われているのだろうか。
拙い言葉に秘められた意図を測りかねて、マルクト帝国軍第十三師団師団長という大層な肩書きの軍人は、無意識のうちに小首を傾げる仕草をした。
「…なんでそんな…、今だって俺を庇って一緒に落ちたりなんかするから…」
「……大した怪我ではありませんよ。
貴方一人で落ちて転落死させるより、余程マシです」
「…また、作ればいい。アンタなら簡単に出来ンだろ…」
存在そのものを世界に拒絶されるが故に、不安定に揺れるココロを抱える子どもは、黒のボトムパンツを両腕に抱え込んで、棘を含んだ呟きを漏らす。
「――…ルーク」
小さな、溜息。
自ら言い出した卑下の台詞に、ジェイドが肯定の意を示すのが――怖い。
傍若無人な振る舞いばかりの王家の子は、得体の知れぬ闇に引きずり込まれ必死でもがいているように見えた。それは、翼を撃たれて墜ち小鳥のように憐れで――…悲しい。
「…貴方の言うように、レプリカの作成は今の私にとって然程困難ではありません」
冷徹な大佐の声に、注意していなければそうと分からぬ程微かに、青年の白い肩が震えた。
「『ルーク・フォン・ファブレ』を創り出す事など、造作もありませんよ。
しかし、『貴方』をもう一度創造するのは、何人であろうとも不可能です」
ハッキリと、しかし断定する口調で言い切る綺麗な顔立ちの軍属に、ルークは暗い視線を上げた。闇に喰われた翡翠の瞳をした小鳥は、それでも空への愛しさ故に高みを望む。
「記憶と感情。それらをもたらす――プロセス。
貴方の十年間は貴方だけのものです。そんなものまで全て次の人格へ移植するのは不可能ですよ。まぁ、脳移植でもすれば可能でしょうが。それはレプリカとはまた異なる呼び名になるでしょうね」
淡々と語るマルクト帝国随一の頭脳と能力を誇る皇帝の懐刀、ジェイド・カーティス大佐の顔は、今はかつて人道に反する研究へ没頭した『博士』のそれであった。
「こえーことサラッと言うんだな。アンタ」
それが口先だけの妄想の類であれば軽く受け流してしまえる。しかし、稀代の天才と謳われた男の言葉であれば、それらは実現可能なモノなのだ。そう、冷静に分析出来る程には、ルークはジェイドという人物を理解しているつもりだった。
「…俺の、十年間…」
不自由の無いように細々と世話を焼き、常に傍で見守ってくれていた幼馴染み。
自堕落な姿を嘆き、心配の余りに口煩く説教ばかりしてきた許婚者。
彼らの見慣れた笑顔が揺らいで――…屋敷で散々に感じていた、嫌悪のそれに摩り替わる。
考えないようにしてきた、考えまいと無理に意識を捻じ曲げていた。
「…俺は、…『ルーク』じゃねぇ…」
再び、視線は足元へ落とされる。
「分かっていますよ『ルーク』」
「……ッ」
思わぬ言葉に動揺し緊張した肩に、掌が置かれた。
予期せぬ行動に、目を見張る。
「…ジェ…」
名を、呼びかけて。
触れる場所から、体温以上のぬくもりが伝わってくるのに、息を呑んだ。
「…体が冷えていますね。
そんなカッコウをしているからですよ。仮にも出奔するつもりで家を出たのなら、何か羽織るもの一つで持ち出してくれば良いものを。本当にアナタという人は――…」
言葉の先が、溜息に掠れる。
視線だけで右肩を見遣れば、手袋を外した繊細なフォルムの掌に淡い赤の色が燈り、その場所から包み込むような暖かさが沁み込んで来る。
「……あったけぇ…」
「第五音素ですからね」
「譜術士(って、皆、ンな器用な事出来んのか?」
「皆が皆――、というわけにはいかないでしょうね。
音素コントロールに酷く精神を消耗します。余程、素養のある者でなければ無理でしょうから」
「………」
他意の無い――、ただ問われた事に答えるだけの台詞に、ルークは黙り込んだ。
――…『音素コントロールに酷く精神を消耗します』なんて、涼しい顔で言ってのける、外道悪鬼の如く存在そのものを恐怖される冷徹なる軍人。幾ら世間知らずの生後十年のレプリカと言っても、その言葉の裏にある事実に気付けぬ程愚かでは無い。
「…ジェイド…」
「なんですか?」
「俺、さ」
「はい」
「日記。…読んだんだ。全部」
「…そうですか」
「――最初は、嘘だと思ったんだ」
「………」
「でも、嘘じゃねぇ…って。なんでか…わかんねーけど、分かるんだ。覚えてる」
肩から伝わる暖かさが――優しく、心を包んでゆく。
視線も合わさずに、ぽつりぽつりと、記憶を失くしたレプリカは独白した。
「…日記にさ」
声は――少し以前の、仔犬のように年上の軍人に懐いていた、酷く真っ直ぐに懸命に生きる子どものように、頼りなく震えていた。
「アンタの事、俺が――…記憶を失くす前のだけど、…書いてた」
「おやおや、私の実力を賞賛する言葉でも綴られていましたか?」
自身に対する周囲の評価を熟知しているジェイドらしい揶揄を含んだ言い回しに、しかしルークは反応すること無く、思い詰めたような瞳で言葉を続ける。
「…アンタの事、が」
一拍、奇妙な間が空く。
「す――…」
「ルーク! ジェイドの旦那!!」
しかし、極限まで高まった緊張の空気は、不意に届いた仲間の声で跡形も無く四散したのだった。
「随分腫れてるなー、歩くどころか立てないんじゃないのか。
お前は大丈夫なのか。ルーク」
「………あぁ」
座り込む大佐の患部を確認しつつ、手早く応急措置を終わらせてゆく幼馴染みの護衛剣士の頼りがいのある姿に、ルークは奇妙な焦燥を覚えていた。
「休んで多少は良くなりました。ある程度固めてしまえば、歩く位は出来ますよ」
「ってもなァ…」
金髪の青年とて上流階級の出身ではあるが、諸事情から厳しい幼年時代を強いられてきた。よって、多方面に渡り豊富な知識と経験がある。その彼から見ても、負傷は決して軽症では無いようだった。
「それとも、貴方が抱えて連れて行ってくれるんですか。ガーイ」
「いや、…それはちょっと勘弁してください」
中年のタチの悪いおふざけから逃れるように、ガイは妙に大人しくいるルークへ向き直った。
「よし。じゃ、ルーク。取り合えず下へ行くか」
「…下? なんだよ。やっぱ、上じゃなくて下に行くのかよ?」
箱入りらしく地理に疎い公爵家の子息は、素朴な疑問を口にする。
「ああ。結構下まできてるからなー、上にあがるより手っ取り早いだろ」
「…ふーん」
そんなものなのかと素直に納得する赤毛の隣で、悲劇の孤島ホドを故郷とするマルクト貴族の青年は苦笑いを浮かべた。
「さて、行きますか。ルーク、ガイ」
「っ…、立てるのか?」
心配そうに覗き込んでくる姿は、記憶を落っことす前のひよこを彷彿とさせて、口端が皮肉気に歪んでしまうのを自覚するジェイドだ。
「…問題ありませんよ」
「――…でも、」
「おやおや、貴方がそんなに私の事を案じてくれるなんて、光栄ですねぇ。外では槍でも降っているんじゃないですか」
「だからっ、茶化すなよ! 今回の件は…、反省してンだよ。これでも。
アンタが庇ってくれなかったら、タダじゃ済まなかったって事くれぇわかってるっつーの」
到底反省とは程遠い不遜な口利きだが、傲慢な輝きを灯す翡翠を気まずそうに彷徨わせる様子は、普段の傍若無人を思えば、成程殊勝な態度と言えなくも無い。
「でしたら、冷静かつ迅速に行動していただけるのが一番ですね。足手纏いは御免です」
「――…あしでまっ…、ちょ、聞き捨てなんねェんだけど! マジで!! 誰が前線でネクロマンサーのアンタの詠唱時間稼いでると思ってンだよ!!」
「それはそれは、その節はお世話になりました」
ワザとらしい仕草と口調で優雅に一礼を披露するマルクト軍属に、キムラスカの王族の青年は、強度不良と自負のある、堪忍袋の緒がぷちと、音を立てて切れたのを遠く聴いた。
「っあああああ、もう我慢ならねぇ!! さっきから、言いたい放題言いやがって!!」
「おやおや…。ガーイ、子どもの躾がなっていませんねぇ」
「…ジェイドの旦那。俺はルークの護衛役であって、保護者じゃないぞ?」
「似たようなものですよ。どうせ、目付け役の意味合いもあるのでしょう?」
馴染みの苦笑いで場を和ませる金髪の気の良い青年は、やれやれと右手で頭の後ろを掻く。困窮した時の見慣れた癖。神託の盾の暗殺者に、ローレライ教団の長たる導師、その守護役である僅か十三歳の少女――いや、譜業人形師、それに加えて婚約者でもあるじゃじゃ馬なキムラスカの王女、敵国マルクト帝国の皇帝の懐刀とまで称される圧倒的な鬼才の死霊使いと、壮観なメンツの中にあっては、処世術に長けたガイは常に潤滑油の役割を担っていた。幾ら気心の知れた仲間内とはいえ、その苦労は推して測るべし、だ。
「ったく、ほらルーク。そんなにむくれるなって。兎に角、こんな場所から出るのが先決だ」
「っせ!! なんなんだよコイツは!! っきから、エラそうにッ!!
まるで一人で全部出来ますなんて涼しい顔しやがって! この陰険メガネ、もー、我慢ならねェ!! どうせ、アンチなんたらの所為で、ロクな譜術使えやしねーんだ!! その減らず口たたけねぇようにしてやる!!」
「封印術(ですよ。それに、その『ロクな譜術しか使えない私』に散々世話になっておいて、言えた義理ではありませんねぇ。ルーク『様』?」
「っくあぁあああ〜〜〜!! マジでうぜぇコイツ!!」
「…あぁもう、取り合えず落ち着け。な?」
キャンキャンと所構わずに大声で吠え立て、腰の獲物に手を掛ける暴れん坊を、ガイは必死で宥め賺す。その一方で、不遜な態度を崩さぬ大佐殿に、勘弁してくれとばかりに弱りきった青の視線を遣る。
「ジェイドの旦那も、ルークを余りからかわないでやってくれよ」
「おやぁ〜、私は事実を述べただけですが?」
常日頃からの胡散臭い作り笑顔を張り付かせ、わざとらしい物言いでルークの神経を逆撫でしてみせるジェイドは、人の好い青年の懇願にも耳を貸さずに涼しげ且つ厭味な物言いを変えないままだ。当然、世間知らず物知らずの子爵様は良いように煽られてしまう。
「もーぅ、アッタマきた! アンタは一人でなんとかしろよ! 行くぞ、ガイ!!」
「お、おいっ。ルーク!? 待てよ!!」
「ウルセェ!!」
幼馴染みの戸惑う声も乱暴に振り払い、一人でズカズカと歩いて行ってしまう王家の青年に、かつて彼の護衛役として十年もの間共に成長してきた剣士は、盛大に溜息を吐いた。
「ったく、しょーがないなぁ。
旦那、立てるかい? 肩貸したほうがいいか?」
「問題ありませんよ。けれど、起き上がるのだけ手伝ってもらえますか」
「オーケー。大丈夫か?」
伊達に長年剣士として鍛錬を重ねてきたわけではなく、細身の軍属の華奢な肩をぐいと掴むと、そのまま軽々と、それこそ持ち上げるようにして爽やかな風貌の青年は立ち上がらせた。
「おや、意外に逞しいですね。どうも、ありがとうございます」
「どーいたしまして。これでも、ファブレ公爵家の護衛剣士だったからな。それなりに鍛えてあるさ」
「まぁ、その年でルーク様の護衛ですからね。流石というところですか」
キムラスカ・ランバルディア王家を守護する使命を帯びた特別な騎士団に選ばれるだけでも、相当だ。その上、子爵の護衛という大任を預かるとなると、単なる剣の腕だけではなくあらゆる意味で信頼を勝ち得ている証拠。ガイ自身はただの公爵家の使用人と自身の身分を軽く言い放つが、視点を変えれば、選び抜かれたエリートであるのだ。
「ははっ、お褒めに預かり光栄ですよ。旦那。
どっちかってーと、ルークと年が近いってのが一番の要因だろうけどなぁ」
おどけて答える口調は軽い。かつては、キムラスカ・ランバルディアの王家に連なるファブレ公爵家の使用人の立場であった復讐者は、過去の確執を微塵も感じさせない笑顔で答えた。
「――…にしても、すっかりご立腹ですねぇ。少しイジメ過ぎました」
大股歩きで一人どんどん突き進んでゆく赤毛の、特徴的な絵柄が縫いこまれたオートクチュールの背中を見遣りながら、ジェイドは肩を竦める。
「分かってるなら、自重してくれよ。一端、ヘソ曲げると長いんだぞー、今のアイツは」
「でしょうねぇ」
子どもは手が掛かりますからね、と悪びれない様子で返してから、マルクト皇帝の懐刀とされる人智を超えた鬼才はゆっくりと足を踏み出した。
「…大丈夫か?」
「ええ。応急措置をして頂いたお陰で随分といいですよ。流石、手馴れていますね」
「まぁな、本当に無理なら背負うから言ってくれよ」
「おや、御免だと顔色を変えたのはどなたでしたっけ?」
意地悪く問いかけてくる怜悧な美貌の主に、ガイは人当たりの好い苦笑を浮かべた。
「方便ってやつだ。分かってるだろ、カーティス大佐」
「分かっていますよ。ガルディオス伯爵様」
「…勘弁してくれ」
降参とばかりに煉瓦色の保護用手袋に包まれた両手を挙げる青年に、ジェイドは繊細な面差しにアクセントとして映える眼鏡の奥、緋色の眼差しを愉しそうに細めたのだった。
赤毛はどこまでもジェイドの掌の上なカンジで。
ジェイドとガイは、こう、お互いに
大人の言葉遊びや関係(エロい意味じゃなく)
そういうのを楽しめる、ある意味、共犯者みたいな。
そんな感じがいいと思うのです。