影と焔に縋るは愚か・4
「しかし、流石と言いますか。よく、ここが分かりましたね。ガイ」
順調に工場内部を下へ移動する中、スラリとした華奢な立ち姿からは連想しにくいが、マルクト帝国最強の軍属と謳われる軍人は、右足の痛みを微塵も感じさせない様子で歩きながら訊ねた。
「ん? ああ、まぁな」
「保護者のカンというヤツですか?」
「ははっ、そんなとこだな。今のルークならどうするかって考えたら、ここに思い当たったわけだ。けど、本当に無事で良かったよ。ゴンドラを降りてみたら、荷物が散乱してるだろ? てっきり、最近棲み付いたっていう得体の知れない魔物に襲われたのかと思って焦った焦った」
「おや、初耳ですね」
疾風の太刀を流派とするアルバート流剣術の使い手である気さくな金髪の青年の言葉に、ジェイドは興味深そうに深紅の眼差しを閃かせた。特に謀略も計略も裏に存在しない表情は、この油断のならないネクロマンサー殿にしては珍しい。
「俺も詳しくは聞いてないんだが、兎に角何もなくてホッとしたよ」
「貴方は、その『得体の知れない魔物』とは遭遇しなかったんですか?」
「ん? ああ、幸い、な。けど、なんかチッコイ鼠みたいなのに襲われたな」
「…鼠、ですか」
「ああ。まぁ、大した事無いさ」
腑に落ちない様子で言葉を反芻する華奢な体躯の軍人に、ガイは安心感のある笑顔を返した。
「おい! ガイ! 何やってンだよ! おいてくぞ!!」
そんな二人を待ちかねて、大股で先を進んでいた癇癪持ちの青年が、両手を腰に添え威圧的に言い放つ。その勝手な言い草に流石の保護者も肩を竦めて、窘める発言をした。
「ルーク。旦那はお前を庇って怪我をしたんだろ? もう少しゆっくり歩いてやれよ」
「…知るかよ。第一、なんでもねーってソイツも言ってんだろ。なんで俺がっ…」
「ルーク…ッ」
少々語気を強くし、配慮の無い言葉を咎める公爵家付きの護衛剣士に、王族の子は到底高貴な生まれとは思えぬ粗暴な態度で、苛立ちもそのままに不服そうな様子で踵を返した。ガンガンカンと殊更に足音を立て、不機嫌さを隠そうともしないのは、以前の『ルーク坊ちゃま』そのままだ。
「やれやれ、貴方も大変ですねぇ…」
「ああ…まぁね。でも、流石に十年も傍にいれば、お坊ちゃまのワガママにも慣れましたよ」
聞き分けの無い子どものお守りなど、自分なら御免被る面倒事だ。一般常識が丸ごと欠落する事実とは反比例して、権威だけは無闇に与えられた我儘な公爵家のお坊ちゃまの、よりにもよって護衛役などと。復讐の二文字を抱いた非業の青年の胸に巨来した葛藤と苦悩は、想像に難くない。幼い記憶に深い心的外傷を受けながらも、それを微塵も感じさせないホドの剣士は――成程、大人だった。他者を甘やかすことは出来ても、自らが甘える術を知らない不完全な成人。けれど、それが慟哭に咽喉を枯らした子どもの成れの果て。
「旦那。やっぱり歩くのはキツいんじゃないのか。肩を――…」
「大丈夫ですよ、ガイ。本当に大した事はありませんから」
「…うそつけ」
マルクト帝国の皇帝の血筋に連なる大貴族ガルディオス伯爵の嫡男として誕生し、幼少に故郷と同胞を戦火に焼き奪われた憎しみと悲しみを腹の底にひた隠しにしながら、耽々と復讐の機会を窺っていただけあり、ガイの観察眼はなかなかに優秀だ。
「おや、流石に貴方にはバレますか」
なるべく平気なふりをしていたんですけどね、とおどける扱い難い年上に、ガイは盛大な溜息を吐いた。
「当然ですよ。残念ながら、俺の目は節穴じゃないんでね。大佐殿」
「やれやれ、それではこれからは、貴方の前ではもう少し注意を払いましょうかね」
マルクト帝国の軍属であるカーティス大佐は何とも涼しげな表情で受け答えているが、実際に、右足は結構な状態だった。患部は赤黒く腫れ上がり、明らかな熱を孕んで――並みの者ならば、歩くどころか自重にさえ負けて立ち上がれもしないだろうに。
「――流石に戦闘は無理でしょうが、歩行に支障はありません。問題ありませんよ、ガイ」
しかしそれでも尚、死霊使いの名で世界に畏怖を抱かせる大佐は、助力に対し丁重に断りを入れた。どうもこのあらゆる意味で手強い軍属は、無駄に日常的に他人を使うくせに、本当に必要な時程他者の手を嫌う傾向が強い。厄介な性質だとガイはこっそり溜息を吐く。
「…ま、アンタがそう言うなら――」
――…その瞬間、全身を絡みとられるような感覚に、パーティ随一の苦労性でもある、新緑のような風貌の青年は、骨組みもむき出しの渡り通路の上でひたりと動きを止めた。
「…ガイ?」
不意に足を止めたファブレ子爵の護衛役を怪訝に思い、亜麻色の髪も美しい苛烈な美貌のマルクト帝国の師団長は振り返って剣士の名を呼んだ。カッ、と響くブーツの踵の音が妙に思考を波打ってゆく。
「ん? あ、…ああ、悪い」
「…どうかしましたか?
早く行きませんと、お坊ちゃまの機嫌がますます悪くなってしまいますよ」
「あ、ああ。そうだな。そうなんだが…、なんだか今――…」
「……ガイ?」
不審を滲ませる声音に、出生の地を無幸の島とする青年は何気なく視線を上げた。薄いレンズの向こうにで、恐怖すら感じさせる残酷な闇紅は、見慣れぬ困惑の色を滲ませていた。
「旦那? どうか――…」
前へ踏み出す足、緋色の双眸に惑いを浮かべるマルクト帝国の師団長との間、視界に割り入るのは抜き放った刀身の輝き。孤島ホドにて口伝により継承され続けてきたアルバート流剣術独特の構えをした右腕。どうして、と疑問を抱き、答えが追いつく前に剣が横薙ぎに払われた。
――目を見張ったのは双方同時、だった。
流石の反射神経で一撃を後ろにかわすものの、当然ながら普段の軽やかな身のこなしには程遠い。よろめくようにして手摺に凭れ掛る死霊使いの姿を認め、自身の意思に関係無く動く四肢に対しガイは恐慌した。
「ちょ、どうなってるんだコレ…!」
「…それは此方の台詞ですよ。…っ」
「ジェイドッ…!」
刃の切っ先が肩先を掠めてゆくのに、僅かに眉根を寄せるジェイド。その様子を見取って、ガイは必死で自身の暴挙に抵抗を試みた。攻防一体、疾風の如き鋭き流派を誇る剣士が相手とあっては、例えそれが本来の実力の半分も満たない状況であったとしても、ままならぬ片足を引き摺っていては、幾ら天下に名高い死霊使いと言えど分が悪い。無論、ガイ・セシルなる人物が『生死を問わぬ』対象であれば話は別だが、そうでは無いのが最も厄介なところだ。
「…く、っ…」
金の髪をした護衛剣士は、かろうじて己の意思を反映する左手で、兇刃を必死で抑え込む。額に噴き出す大量の汗が頬を伝い形の良い顎を伝った。抵抗に相当な精神力を消耗するのだろう。続く警告の声は酷く切羽詰ったものとなって、廃棄された工場の壁に反響する。
「…駄目、だ。…っ、クソッ…旦那ッ、逃げてくれっ!!」
「――…ええ、そうさせて頂くのが懸命なようですが…」
皇帝の懐刀と称される軍属の透徹なる判断力は如何な状況であっても濁る事は無い。状況も不明なまま味方の手に掛かっての討ち死になど、到底本意とするところではなく――しかし…、
「…残念ながら、今ので右足を完全にやられました」
「……ッ、なん…、」
おそらく、不意の一撃を反射的に避けた為なのだろうが、空中通路の錆びた手摺に寄りかかる悪魔的な美貌の軍属は、絶望的な事実を端的に突きつけた。
「……っ、く、そ…、なんとか、逃げられないのかっ…旦那!」
「怪我人に無茶を言いますねぇ。正直、立てません」
花が綻ぶように儚く美しく微笑まれた後の相変わらずな軽口。余裕の姿勢は相変わらずだが、先ほどの説明の内容が、決してタチの悪い冗談や酔狂の類によるソレでは無い事は明白だ。
「おい、ガイ?」
と、そこに流石に何時まで経っても追いついてこない二人を不審に思い、燃えるような髪の持ち主である王家の青年が戻ってきた。そして異様な状況を目の当たりにし、翡翠の瞳を丸くさせつつ、至極当然の疑問を口にする。
「…何、してんだ?」
「ッ、ルーク…! 旦那を連れて逃げてくれッ…!
右腕が、…勝手にッ……!!」
「――…ガイッ?」
十年の歳月を共に過ごしてきた気障な仕草が標準装備な幼馴染の、普段の年上然と落ち着いた姿からは想像もつかない切迫した様子に、ルークは顔色を変えて青の軍服も凛々しい軍属へ駆け寄った。
「どうなってンだよッ、一体!」
「…残念ながら、私にもよく分かりません。ただ――…」
「ただ?」
足元の覚束無い死霊使いを支えながら、ルークは言葉の先を促した。すると、常の胡散臭い微笑みを浮かべつつ、ジェイドは断定的な口調で答えた。
「逃げたほうが良さそうな事だけは確かですよ」
「……ッ、クソ…、取り合えず逃げっぞ!! 早く来いよ!!」
久しく人の手を失い歳月に任せて朽ちるばかりの工場の赤錆びた手摺に、不安定な格好で凭れる年上の異変にも気付かず、ルークはその肘を乱暴に掴んで強く引いた。
「いっ……、――…!」
当然のように右足に奔る激痛は、油断していただけにストレートに痛覚を揺さぶった。
流石の死霊使いも此の時ばかりは苦痛に膝を折り、恨みがましげに無神経の塊のような赤毛の青年を睨み付けた。
「…ちょ、え、え? なんだよッ…?」
軍服の袖を掴み上げたまま間抜けな顔で尋ね返すルークは、本当に事情を理解していない様だ。今し方の出来事をこうも容易く忘れられるとは、なんともお目出度いオツムだとジェイドは毒づいた。
「――腕を放して頂けますか? 無闇に引っ張られてはマトモに歩けません」
低く抑えた声が逆に恐怖を煽る。そこに至って漸く、ルークは自分を庇った所為でこの厭味で腹立たしい男が右足を痛めていた事を思い出した。なんとも失礼な話ではあるが『他人から護られて当然』の立場で箱入りに育ってきたこの青年の生い立ちを鑑みれば、寧ろ当然とも言えるが。
「…わ、りぃ…。そんなイテェなんて…、っ、ちゃんと言わねぇからだろッ…!」
最早八つ当たり気味に怒鳴りつけてくる子爵様を横目に、ジェイドは痛みをやり過ごしながら軽く首を左右に振った。
――ダメだ。
が、率直な感想。
共に旅を続けていたあの愛らしい赤毛の子ならば兎も角、無自覚無神経役立たずの子爵様に何が期待出来るというのか。自力でこの場から逃げて自己防衛に励んで貰えれば及第点。襟足がぴょこと跳ねるクセ毛の赤い頭を視界に入れた瞬間、ほんの少しでも安堵を覚えた自身が忌々しい事この上無い。
「…ルーク。貴方は兎に角ここから離れてください。後は、私が何とかします」
「――なんとか、って…」
自力で立ち上がる事すらままならない、くせに。
確かに目の前のこの男は世界を震撼とさせる最強最悪譜術士で、絶体絶命の危機の中にあってもそれらを物ともせずに乗り越えるだけの実力はあるのだろうが、それでも。
――俺、
「なんとか…なんて、できるワケねェだろッ! 俺が時間を稼ぐから、お前はその間にガイを元に戻す手を考えろ! 頭イイんだから、なんとかしろよ!!」
――俺、は、
「…ルーク! 何を勝手な事をッ! 下がりなさい!!」
――…俺は、ジェイドの、事、
「もう…とにかくっ…、二人とも逃げてくれって!!
いい加減、……むりっ…」
流石に限界を感じてガイは低く唸った。完全に持ち主の意思を無視して兇刃を振り回す自身の右手は厄介なことこの上ない。右だけで済んでいるのがせめてもの救いと言えばそうだが、何故急に――しかも、右腕だけ…と、そこまで思考を働かせて或る事に気付く。
「……右…、――…ジェイド! 右だッ…、」
「――…ガイ?」
仲間の声にそれまでとは違う響きを感じ取って、鮮やかな帝国の軍服を纏う軍属は鋭利な輝きを青年へと向ける。必死の形相は先程よりも切迫したものではあったが、その中に、確かな――意図。
「……っ、く、右…、さっき、言った鼠みたいな魔物に――…。
齧られたんだ…! きっと、関係が――…、くそっ!!」
説明の合間の僅かな力の緩みの隙をついて右手が標的へ振り下ろされる。普段の実力の半分以下の剣筋を困惑の表情で受け止め、ルークは自棄気味に叫んだ。
「どーでもいいから、早くどうにかしろよっ!!」
ぐぐ、と剣撃の重みを受け止めて吼えるファブレ公爵家の子爵に、ジェイドは端的に、しかし確定的な口調で指示を投げ掛ける。
「ルーク! ガイの右腕を抑えて下さい! おそらく咬まれた傷痕――呪痕があるはずです!」
「え、え? ええぇえ?? は、何をしろって??」
護衛剣士の一撃を受け止めるので精一杯な様子で、全く要領を得ない受け答えを返すルークに苛立ちよりも諦めが先に立つ。所詮は『お坊ちゃま』だと切り捨てて、無茶な注文と理解しつつも、金髪の青年へ声を掛け直した。
「ガイ! 右手を抑えておいて下さい。呪痕の効力を一時的に無効にします。
今其方に行きます。どの辺りを咬まれたのか教えてください」
「……ッ、む、ちゃ言う……、右の肘、…間接近くっ……、外ッ」
唯でさえ精神力も体力も限界なのに、更に抑えていろとは無理難題だ。しかし逆にここを堪えれば、あらゆる意味で無敵なマルクト帝国の軍属が八方塞がりの状況を打破してくれる事は疑いようも無く。ガイは、残りの気力を振り絞って右腕の動きを抑え込んだ。
「――分かりました」
足の痛み――…を確認して、浅く呼気を吐く。大丈夫、少しの間だ。歩く位耐えて見せなくてどうする。それこそ、死霊使いの名が泣くと言うものだ。それに、戦争という人類の愚行を象徴する無幸の島出身の青年の精神力ならば、此方の言葉に十分応えてくれるだけのチカラがある。これを信頼と呼ぶのは傲慢だろう。信頼ではなく確信。単純にガイ・セシルという青年の力量を、仲間としての贔屓目を排除し客観的に判断した結果だ。
「ぉ、おいっ…?」
二人の間でオロオロと事態を見守る赤毛の青年に、ジェイドは退いていなさいと、短く命じる。無駄な口を叩く余裕など皆無だ。そして、無力な王家の子をこの非常時にあって敬う必要性も無い。
それまで身動きすら取れなかったのが嘘のように、亜麻色の髪も麗しい長身痩躯の軍人は淀みの無い所作で呪いに必死で抵抗する剣士へ近付いた。そして、その腕が酷く大切なものであるように、慎重に指を這わせる。傷跡――暗さで判じがたいが、確かに呪痕だった。
「…すみません。後から城の治療師に治療してもらって下さい」
「――…な、に…、?」
彼の年齢を考えれば十分に見識は広いと言えるが、あくまでガイは剣士なのだ。【呪】というものの存在すら明確には知らなければ、当然その解き方も未知数。何をするのかと尋ね返す空色の視線を受け、申し訳なさそうに深い紅闇の瞳が曇る。珍しい――と、真正面から失礼な感想を抱いた瞬間に、腕に灼熱の塊を押し付けられて、息を、呑んだ。
「…しかしまー、旦那は無茶してくれるよなぁ」
丁寧な造りのベッドの上でボヤきながら、指先の感覚を取り戻すように拳を開いたり閉じたりするのは、気さくな旅の仲間である金髪の剣士だ。その出で立ちは普段の旅装束ではなく、検査服。そして今居る場所は王立病院の特別室。既に治療師は退出しており、ペールに届けてもらった普段着への着替えをしようとしている所だ。
「大丈夫なのかよ」
負傷した幼馴染みの様子を気遣うように覗き込んでくる赤毛の青年に、ガイは人の良い微笑みで応じた。
「へーきへーき。治してもらったし、もう痛みもないから心配すんな」
「…っていっても、皮膚を焼くなんざ尋常な神経じゃねぇよ。しんじらんねー、アイツ」
「しょーがないさ。他に方法が無かったんだし。それに、これっ位、大した事じゃないしな」
キムラスカ・ランバルディア王国の仇敵とも言える存在マルクト帝国の軍属であるジェイド・カーティスは戦時中にその名を両軍に轟かせた異端なる天才だ。確かに手段を選ばぬ方法ではあったが、結局全員無事に廃工場を抜けられたのは、彼の手腕のお陰と言わざるを得ない。
「くっそ、結局アイツの所為で脱走計画も台無しだし。ツイてねぇー」
ベッドの上にゴロリと仰向けに寝転んで、ルークはこれ以上無く不機嫌だ。
「まぁまぁ。それより、脱走しようとするなよ。ルーク」
「…うっせぇ…」
反抗の声はいつに無く小さく、掻き消えそうな程だ。
「なぁ、良ければ暫くの間でもグランコクマの俺の屋敷に来るか? 勝手にいなくなったりしないって約束してくれるなら歓迎するぜ。俺は用事があってなかなか戻れないだろうけど、なるべく不便が無いようにするから。
――っても、王都の公爵家と比べればどんな屋敷だって見劣りするだろうけどな」
場を和ませようとしてか、ワザとおどけてみせる四つ年上の護衛剣士の隣で、白のオートクチュールをベッド一杯に広げ、上等な布地に皺が寄るのも気に留めず転がる公爵家の子息は、震える吐息を長く長く吐き出した。
「……ルー、ク?」
「なぁ、ガイ」
怪訝そうに眉を顰める金髪の幼馴染みに、ルークは目元を両腕で覆いながら問いかける。
「俺、――…レプリカ、なんだってな」
「………! 誰から…――」
「誰でもねェ。強いて言えば自分って事になるんじゃねーの。タリーけど、日記つけとくもんだよな」
「……ッ、そうか。日記…か」
着替えの手を止めて優しい幼馴染みは深々と溜息を吐いた。今更、体裁を取り繕っても無駄だと察したのか誤魔化す意図の台詞は一切無く、ただ自身の迂闊さへの後悔のそれ。
「……やっぱ、マジなんだな」
「…ああ。悪い」
一体何に対しての謝罪なのかは定かでは無いが、端正な面差しを苦しそうに歪めたマルクト帝国の大貴族の出自である青年は、嘆息を重ねた。
「全部分かってるんなら、ちゃんと向き合って話した方がいいよな。
――ルーク。お前は、アッシュのレプリカで、ユリアの預言(を覆す為にヴァンに創られた存在だ。俺たちは、ヴァンの計画を止めようと戦っている。未だ、ヤツの最終的な目的は見えないが――…、外殻大地を全部魔界(へ落とそうと目論んでいる事は確かだ。そうなったら、外殻大地の住人全員が命を落とす結果になる」
「……アクゼリュスのように…、かよ…」
「――…そうだ」
崩れ落つる大地の姿は、自身の過去に刻まれたホド島における戦禍の記憶を、生々しく脳裏へ蘇らせる。悲鳴と剣戟、夥しき血の臭いが優しい世界をどす黒く塗り替えた。幼き思い出の全てを蹂躙する圧倒的な恐怖と――決して拭えぬ死者の臭い、容赦の無い喪失、途方も無い略奪。痛み、などという安易な言葉では無く、しかしながら、それ以外の何とも喩え難く――、
「…ガイ?」
不意に黙り込んでしまった親友の様子を伺うように、ルークは遠慮がちに声を掛けた。すると、物思いに耽っていたらしい甘く整った容姿をした金髪の青年は、ばつが悪そうに笑みを返す。
「っと、悪ぃ。まぁ、そういうわけだ。
どうするよ、ルーク。グランコクマに来るか?」
「………」
見上げた先にある、染みひとつ無い病室の天井が、やけに空々しく乾いている。
この数日で事態は酷く目まぐるしく移り変わっていた。
記憶喪失――いや、今回の件は記憶障害と言うべきか――を皮切りに、敬愛する師匠の手酷い裏切りの事実、自身のアイデンティティの崩壊、アクゼリュスを滅ぼした大罪人――いや、人ですらない。レプリカ、複製品、模造の命、単なる代替――…、自身を卑下する言葉が奇妙なまでに次々と思い浮かんでは、泡のように弾けて消える。余りに多くの情報は、とうに理解の許容を越えてボロボロと取りこぼすばかりだ。
「…ちっと、考える」
「ん。分かった。…本当は今日の昼にはダアトに戻る予定だったんだが――…」
言葉を切ると、ガイは窓の外へと空色の瞳を向けた。暮れなずむ街並みは、影に呑まれ、まるでひとつの塊のような異様を描く。それは何か得体の知れない巨大なモノとして視覚を威圧していた。多くの名も知らぬ民草が息づく王都バチカル。キムラスカ・ランバルディア王家の正統なる後継者として、本来ならば玉座に威風堂々と居たはずの彼らに思いを馳せる。運命は、常に過酷だ。
「…もう、こんな時間だし。今日はバチカルに一泊していく予定だから、明日の朝――出発までに決断して欲しい」
「……ああ」
何処か上の空の様子で相槌を打つ幼馴染みに心配そうな視線を投げかけるものの、敢えて口は挟まず、手早く着替えを済ませた護衛剣士は、そっとベッドから腰を起こした。重みを失くした反動で微かにスプリングが反応する。しかし、ルークは天井をぼんやりと見据えたまま、全く反応しない。
と、コンコンと病室のドアがノックされ、ガイは抑えた声で返答する。
失礼します、と律儀に挨拶をしながら扉に姿を現したのは、マルクト帝国の第十三師団師団長、死霊使い、皇帝の懐刀と、様々な異名で恐れられる長身の軍属であった。
「…ジェイド」
――!
それまでぴくりともしなかった赤毛が、ガイが発した一言に過敏に反応して、反射的に起き上がった。その露骨な態度に少々面食らいながらも、素知らぬ素振りで深紅の瞳孔も印象的な軍属へ声を掛ける。
「もう立てるのか?」
「ええ、そちらも治療が終わったようですね」
「ああ、お陰さんで。旦那こそ、無理しないほうがいいんじゃないか」
涼しげな顔で他人の怪我を見舞ってはいるが、むしろ、自分の方が深刻だったではないかと嘆息する。まともに立つ事すら困難な状態だった右足は、今はしっかりと床を踏んでいるので、もう問題ないのだろうが。この見目麗しい軍属は、自他とも認める天才だ。もはや、畏怖の対象でしかない溢れんばかりの才華は、あらゆる方面で如何無く発揮される。この男が本気で周囲を欺こうとするなら、誰もそれを見抜けないのだろう。
「ええ、まだ完全にとはいきませんが。後は、ダアトに戻ってからナタリアに頼みましょう」
「ああ、その事なんだが、ジェイド」
「…どうかしましたか?」
怜悧な美貌を際立てる眼鏡を指先で押し上げ、ジェイドは素直にガイの言葉を待つ。一見すれば、仲間同士の何気ない会話に過ぎないが、紅眼の悪魔とも、戦慄の超越者とも畏れられる死霊使いの情の薄さといえば、怖気を震う程だ。声をかける、耳を傾ける、話を聞く。たったそれだけの当たり前の遣り取りを対等に行えている時点で、カーティス大佐の中で認められている証だ。
「明日の朝の出立にしたいんだが、……構わないか?」
「――…分かりました」
現在の危機的状況を鑑みれば、少しの時間も惜しいのが正直なところだが――何か考えがあっての事だろうと、ジェイドは黙認した。ガイ・セシルなる人物は十分に聡明だ。具体的且つ断定的な否定要素が見出せないのならば、やたらと反対意見を押し付けるのは賢明では無い。
「では、私はアルビオールに戻っています。貴方はこれからどうしますか?」
「ん、ああ。そーだな…。俺も、一度戻るよ」
少しの逡巡の後にガイは答えた。飛空艇アルビオールは非常に貴重な移動手段だ。敵の襲撃によって被害を受けたのなら、著しく行動を制限されてしまう。それは、全く好ましくない。特に他の用件も必要も無ければ、アルビオールへ戻るべきだ。
「じゃ、ルーク。また明日の朝に屋敷に顔を出すから。今日はゆっくり休めよ」
ベッドの上に半身を起こして呆然としている赤毛の幼馴染みに、如何にも良き兄貴分といった在り様で声を掛け、ガイは迎えに来た亜麻色の髪の軍人と共に特別仕様の病室を後にした。
国家の歴史の重みによる威厳と荘厳さを感じさせる王都バチカル。
譜石落下による巨大な大地の窪みに建造されしその都は、正に地の底から空を望む――いや、天に挑むような壮観が、訪れる人々の驚嘆を浚う。
また、特筆すべき点として、身分階級による住居区の区別化があげられる。
一般階級――名乗る程の身分も特権も存在しない庶民達は、都市の下層、大地に根を下ろすようにして王国を支えており、彼らが住まうエリアは最も人が賑わいと活気に満ちた区画でもある。
特に港に近い街並みでは、流通拠点として名高いケセドニアに勝るとも劣らぬ賑わいだ。それは日没を迎えても一向に衰えず、益々人の流れは盛んになるようだった。大陸の海の玄関としても知られるバチカル港とは言え、人の流れの異常さに、ジェイドはアルビオールの甲板に凭れ掛かる姿勢で足元の光景に感心してみせた。
「随分と人の出が多いですね。何か催しものでもあるのですか? ガイ」
「いやぁ…、そう、だな。まぁ何時でも、この港は人通りが多いんだが…」
それにしても多いな、と金髪の青年も甲板から身を乗り出して、人の流れを見遣った。
「ああ、そういや。月花祭りの時期だっけか」
「…月花祭り? 軍艦を使って海上から花火を打ち上げるアレですか?」
「そうそう。よく知ってるなー、ま、有名っちゃ有名だもんな」
「ええ、二年に一度、二日間に渡って開催されるキムラスカ最大の祭りの一つですからね。ただ、今年はもう開催されないかと思っていましたが」
「色々あったからなー。
まぁでも、こういう時だからこそ必要なんじゃないかって思うけどね、俺は」
アクゼリュス崩壊を序曲として、幕を開けた世界崩壊の壮大な交響曲は奏で続けられ、様々に絡み合った想いを乗せて、世界に遍く響き渡る。絶望と悲壮が深く色づく暗闇の中でも、それでも、生き抜く意思はこんなにも美しい。素直に、そう思える。
「…そうですね」
<
中途半端な相槌を返し、ジェイドは視線の方向を変えた。下では無く――上。焦がれるような眼差しは、酷く艶めいていて、強く惹かれそうになる。無自覚なところが余計にタチが悪いと思わずにはいられない。
「あー…、旦那?」
「なんですか、ガイ」
振り向きもせず返事をするのは、拒絶の証。
こんな細かな仕種一つで相手の胸中が量れるようになったのは、眼前の死霊使いが少なからず此方を『仲間』と認識しているからに違いないと、その程度の自惚れは許してもらいたい。
「足、まだ痛むよな。…悪かった」
「不可抗力ですよ。あなたの所為ではありません」
「そうなんだが、心情的になぁ」
バツが悪そうに俯き加減に後頭部を掻くホドの剣士に、ジェイドは闇の中で尚、紅く深く、美しい譜眼を手向けた。
「心遣いだけ有難く受け取らせていただきますよ。
――…それより、ガイ。ルークを連れてゆく気ですか?」
「ん? ああ。流石に旅に同行させるわけには行かないから、グランコクマの俺の屋敷にって伝えてある。その後の身の振り方は、全部片付いた後で一緒に考えようかと思う。――アッシュの件も含めて、な」
「………」
暗黙の内のタブーのような存在になっていた人物の名前を、あっけらかんと口にしてみせたガイに少なくない衝撃を覚えつつ、亜麻色の髪の麗人は薄氷のような微笑を浮かべた。
「余り『ルーク』に構いすぎると、もう一人の赤毛が妬きますよ」
「妬かれるのは好意の証明だ。寧ろ、光栄だね」
「おや、随分と前向きな反応ですね」
ついこの間まで、自身の中に確かに存在する『恋慕』の情を認められず、滑稽なまでの必死さでもがき苦しんでいたクセに、現金なモノだ。それぞれに苦い経歴を抱く若者ばかりのパーティでも、最も凄惨、悲惨を極める過去を持ちながらも、それを乗り越えてきただけに、ガイ・セシルなる人物の精神は柳のように何処までもしなやかで強い。
「俺はもう覚悟を決めたよ。
後悔しても、仕切れない、ってのは、ガキの時分にイヤと言う程味わったからかな。
間に合わないのは嫌なんだ。何も出来なくても、タダの傍観者でいるのだけは我慢ならない。
俺は、――…不器用にしか生きられないアイツが大切だよ。好きだとか、そういうのは…正直、今も掴み損なってる。復讐者として生きてきて…恋愛とか、そーゆー場合じゃなかったし、この気持ちが…同情とか、憐憫とか、そういうのと何が違うって言われても、巧く説明は出来ないと思う」
闇に葬り去られた歴史の生き証人である空色の瞳と輝く黄金の髪という、おとぎ話の王子様然として整う容姿の青年は、一呼吸置いて、とても――そう、酷く大切なものをそうするように。
「……俺は、アッシュの事を愛してる」
とろけるような極上の微笑みで、姿も無き恋しき子に、最上の愛の言葉を囁いた。
「ジェイド!!!」
「!」
目も眩む幸福に息を詰まらせたマルクトの軍属は、不意の呼び声にビクリと肩を揺らした。最恐最悪の絶対的な蹂躙者である冷酷の代名詞でもある死霊使い(が、こうも顕著に動揺してみせるのは、非常に稀だ。常に冷静沈着――いや、そのような陳腐な言い回しでは物足りない、破滅的な最強、圧倒的な支配、そんな言葉の数々が似つかわしい、気侭で気位の高い美貌の軍属。ジェイド・カーティスという存在を心から屈服させる人間がいるとすれば――…、
「……ルーク…」
戸惑いと、微かに熱が込められた呟きに、独りよがりな想像は確信に。
「ジェイドッ!! 降りてこいよ!!」
赤い、赤い燃えるような聖なる色の髪の、無垢なる命を抱く青年は、かつての仲間の足元にて、真っ直ぐな瞳と有らん限りの必死さで、非情の死霊使いを呼び縋っていた。
ガイとアッシュの関係は、ジェイドがカンフルに
そのお礼というわけじゃないけど、今度はガイがテコ入れ
お互いに気安く背中を押せる関係ってステキ
そして、完璧な超越者である天才を制するのは
理論や理屈ではなく
バカな子程かわいいとか
そんなどうしようもない感情でいいと思います