影と焔に縋るは愚か・5



 ――…納得いかねェッ!!

 師匠と仰ぐ人物の暗殺騒動によって知り合った、慇懃無礼の四字熟語が誂えた様な厭味な軍人は、兄貴分にあたる幼馴染みと、二、三、言葉をかわし、そして病室を出て行った。
 一切の躊躇も無く、此方を一瞥する事も無く。
 まるで、始めからそこに存在していないもののように、鮮やかな、感覚からの遮断。
 麗しの軍属の登場に酷く狼狽してみせた自分が、まるで滑稽で、喜劇の道化師も同然だ。
 羞恥と憤怒と言い知れぬ何かが、心を突き動かして。
 月花祭りに賑わう港の人ごみを掻き分けて。
 見上げる甲板の手摺に月を見上げる彼の人を捕らえた途端に、胸が締め付けられた。
 夜空に浮かぶ月に幾ら腕を伸ばしても決して届かぬように、水面に写る月を掴もうとしても姿を揺らして消えてしまうように、ひどく――遠く、遥かに、切なく。
 だから、そう、だから――…。

「ジェイドッ!!!」

 必死で叫んでいた。
 月に手は届かない。
 願えども望めども、夜に密やかに輝く清浄にて淫蕩な光は、擦り抜けて零れ落ちるだけ。
 けれど、冷たい美貌の軍属は、呼べば応じる。
 この声は――届くのだと。
 ただ、必死で叫んだ。



「…呼んでるぜ、旦那」
「貴方が行って差し上げれば如何ですか。私は子守には些か不向きでして」
「なーに言ってるんですか、旦那。アイツはアンタが思ってる程ガキじゃありませんよ。
 わざわざこんなトコまで来て、アンタをご指名なんだ。応えてやってくれよ」
「………」
 爽やかな容姿に真剣な表情を浮かべ、ガイは美貌の軍属を説得した。すると、最早生きる伝説と化している最強最悪の災厄は、禁譜の施術により酷く艶かしく紅い瞳に複雑な感情を浮かべた。愛しきレプリカ、最愛の子、己の中には決して存在しないと確信していた感情を引き出した奇跡の存在。彼のことが嫌いなのかと問われれば即座に否定するだろう。だが、愛しているのかと切り返されれば、躊躇するしかない。『愛』という感情そのものが、死霊使いの二つ名を冠する軍人には理解しがたいそれであるのだから。
「ジェイドッ!!!」
 必死に己の名を呼び縋る子どもの声に、トン、と背中を押された気がして、惑星譜術を繰る最強の譜術士は観念したかのようにため息をひとつ。艦(ふね)の事を頼みますと金髪の剣士に言い残して、騒音の元を断つ為に、降りていった。



 亜麻色の髪で麗しい(かんばせ)を縁取り、緋色に輝く冷徹な眼差しで世界を手酷く射抜く、稀代の天才――いや、鬼才。時代の申し子でありながら、脅威の象徴でもある冷酷無比なマルクト皇帝の懐刀。容姿端麗眉目秀麗を体現する軍属は、絶望的に性格が悪い。有り体に言ってしまえば、大嫌いだ。己の優秀さを鼻にかけて、常に他人を見下すあの態度は最悪の一言でしかない。
 それなのに、そんな厭味で最低で腹立たしいヤツを相手に、こうも必死になっている自分はまるで道化師(ピエロ)そのものだ。馬鹿げた行為だと自覚しているのに、どうしても、是が非でも、あの綺麗な人を振り向かせたくて仕方が無かった。
(――…っ、て。俺、何考えてっ…)
 ブンブンと思い切り頭を左右に振る。これではまるで、恋煩いの思春期小僧だ。有り得ない。それだけは有り得ないと否定を繰り返しつつも、カンカンとブーツの踵で板金を蹴る音に鼓動が跳ね上がったのを自覚してしまった。
「こんな時間に何の御用件ですか、ルーク様。手短にお願いしたいものですね」
 アルビオールから優雅な所作で降りてきた美貌の軍属は、煉瓦の路を踏んで赤毛の子に近寄る。手を伸ばせば届くほどの距離で足を止め、出会い頭、開口一番に刺を含まれた科白を、聖なる焔の光の映し身は、ぐっと呑み込んだ。
「…アンタに、話がある」
「何ですか?」
「…ここじゃ、ダメだ。場所移すぜ」
「――余り時間をとらせないでくださいね。何分、私は多忙の身ですから」
「…ッ、わかってる!!」
 ああ、やっぱりこんなヤツ大嫌いだ。
 自分の中の感情を再確認しながらも、王家の子は純白のオートクチュールの裾をヒラヒラと泳がせながら、荒い歩調で先を行く。そんなルークの姿に仕方の無い子どもだと肩を竦めつつ、ジェイドはゆったりとした歩幅で後に続いたのだった。



 港の人だかりを避け、竪穴に建設された王都の中盤に位置する国立公園へと辿り着いたのは十分ほど歩いた後だった。美味しそうな屋台や華やかな催し物は全て港の灯りと喧騒の中で瞬き、広い敷地には殆ど人が居なかった。祭りの最中に三度に分けて上げられる見事な花火だけを楽しむのであれば、絶好のロケーションではあるが、二年に一度きりの国をあげての月花祭りを、わざわざこんな寂れた場所から見下ろす物好きはそうはいない。
 公園の開けた入り口から五分ほど歩いて、舗装された路を外れ茂みに分け入ってゆく公爵家の子に、それでもマルクトの麗しき軍属は黙って従った。ガサガサと梢を掻き分ける音と、下草を踏みしめる音、それから、耳を澄まして漸く聞き取れる程のそれで祭りの賑やかな音楽がシンと澄み切った世界に響いていた。
「…何処まで行くつもりですか」
 初めのうちこそ王家の子の背中にただ従順に従っていたジェイドだったが、その足取りが明確な目的地も無く、ふらふらと公園内を徘徊するそれであると察して、鋭く切り出した。無論、多少の厭味も含まれてはいたが、多忙の身であるのは真だ。力ある数々の肩書きは伊達では無い。『第三師団師団長』『マルクト帝国大佐』『死霊使い』『天才科学者』――そして、マルクト帝国現皇帝ピオニー・ウパラ・マルクト九世の懐刀、その名代として最も相応しき男。
「――、…黙ってついてこいよっ」
「ルーク『様』。先程も申し上げましたが、私はそう暇ではありません。
 手短にお願いしたいのですがね」
「……ッ、! 黙れよ!! この陰険メガネ!!」
「おやおや、っ、と?」
 何時ものように取り澄ました表情で肩を竦めた死霊使いは、癇癪を起こす赤毛から不意に投げつけられた『それ』を、右手で鮮やかに受け止めて、指の間から零れる銀鎖に柳眉を僅かに歪める。
「…これは?」
 握りこんだ掌に金属の質感を感じ取り、無造作に手を開けば、シャラ、という涼やかな音と共に、華奢な銀の鎖に通された銀細工の指輪が現れた。その突拍子も無い展開に、世界を震撼させる最強最悪の緋眼の悪魔も、流石に困惑の色を滲ませてゆるく細い首を横に振る。
「もしかして、コレが用事ですか?」
「……悪いかよっ…」
 明らかな呆れ、それに微かな侮蔑を含んだ口調に、ルークは自暴気味に吐き棄てた。
「私は余りこういう事には向いていませんからね。ガイの方が適任だと思いますが」
「…ガイ?」
 公園の暗がりの中、木陰に阻まれながらも僅かに漏れる街灯に反射して、華奢なリングがルークの疑問に応じるように一瞬強く煌いた。
「ええ。まぁ、最後にこれくらいの所用を頼まれる位構いませんがね。
 それで、これは誰に渡しておけばいいんですか」
「…は?」
「ティアですか、それともナタリアに? ああ、ノエルでしたら一緒に此方に来ていますから、直接手渡しした方が良いのではないですか」
「ちょっ、はっ!? 何言ってンだよっ!!」
「…この指輪の処遇についてですが?」
 キムラスカ・ランバルディア王家の子である聖なる焔の名を冠する青年は、妙に慌てた様子で声を荒げる。それに、仇敵マルクト帝国の最大の戦力である死霊使いジェイド・カーティスは眉一本動かさぬ涼しげな表情で事も無げに返した。
「…ちっ、げーよッ!! なんで、ティアやナタリアにやるとかって話になってンだよ!!」
「これはこれは失礼いたしました。ルーク様。それでは、如何にすれば宜しいのでしょうか」
 慇懃無礼な態度で王族の子に応じながら、見目麗しき彼岸に咲く華のような軍属は肩を竦めた。
「それは…っ、その、だ、…だから」
 無知による不遜と傲慢を履き違えた滑稽な赤毛の子は、らしくなく、口籠もる。王家の血統を受け継ぐ青年が態度を濁すのは非常に珍しい。国家という権威に祀り上げられたお飾り人形(レプリカ・ドール)は、傅かれ護られる日常に慣れ、他者を踏みつけにする事が当然だ。アクゼリュスで潰えるはずであった本来の焔の代替わりの人形としてすら、余りに不完全な――…、
「…丁寧な細工ですね。小粒ですが、宝石(いし)の質も良い」
 薄闇の中にもそうと分かる程に赤い顔で先を言い澱むファブレ家の嫡男に、ジェイドは少しでも話を切り出し易くし、早々にこの無駄な時間を終わらせるべく話題を提供した。すると、大袈裟な程に、ここ数ヶ月で急激に剣士らしい逞しさのラインとなった肩が揺れた。
「それ、いいと思う、か…?」
「――? ええ、宝石(いし)のサイズからして、正規ルートの物品(モノ)では無いようですが。上品な掘りの銀細工ですし、然程好みが分かれるデザインではありませんから、喜ばれると思いますよ」
「そ、っか…、そっか。アンタがそう言うなら、きっと良いものなんだよな。
 俺、あんま、そういうの分かンねーし」
 一安心したとばかりに胸を撫で下ろす苛酷な運命に翻弄される青年に、実年齢で数えれば、二十八も年上の人外の艶を纏う冷徹な軍属は、本題を促した。
「…それで、これをどうすればいいんですか?」

「――アンタに、持ってて欲しい」

「……どういう事ですか?」
 最早目の前の『コレ』は、抑えきれぬ感情募る愛し子とは違う。ただの王家の傀儡に過ぎない。それでも、国民から慕われるナタリア皇女は、血縁的にはキムラスカ・ランバルディア王家とは一切関係が無い事が判明し、本物の聖なる焔の光であるアッシュには王国へ戻る意思が皆無である今、燃える炎を象徴するような赤い髪の王族の血筋を受け継ぐ男児は、例え模造品と誰もが知ったとしても、大切に丁重に保護されることだろう。それこそ、絶滅寸前の種のように、だ。
 姿形は似通ってはいても、『ルーク』では無く、キムラスカ王家に連なるファブレ家嫡男『ルーク様』だ。これは――あの、痛い程の真っ直ぐな翡翠の瞳で、必死に追いかけてきた赤毛の子とは違う。――何もかも、違うのだ。
「それっ…、元々、アンタに――買ったんだ、俺が。
 覚えてねーから、多分だけど。でも絶対。
 ウサギが掘ってある、だろ。
 目の色が、アンタ――、ジェイドの眼の色と同じだなぁって…おも…っ、て……?」
 そうだ。
 ケセドニアの通り市場、恰幅の良い女主人が開く装飾品の店に並べてあった赤い瞳のウサギの指輪が、とても綺麗で、可愛らしくて。こんな贈り物なんて、きっと、一笑に伏されて終わりだろうと。でも、ただ受け取って欲しくて。苦笑しながらでも、困惑しながらでも、構わないから――…想いを形にしたくて、堪らなくな、って…――?
「俺…、」
 ズグ、と。
 頭の奥が疼いて、ルークは痛みに声を詰まらせた。
「日頃の迷惑料ですか? それにしても、指輪とは微妙な選択ですね。
 こういう装飾品は女性の方が喜ばれますよ。私に頂けるなら、そうですね――…」
 俯き加減で黙りこくるキムラスカ・ランバルディア王家の正統なる血統を受け継ぐ青年に、性質の悪い大人な死霊使いは、麗しい面に小悪魔的な微笑を浮かべ、低く、囁いた。
「――ルーク」
「…え?」
 己の名を呼ぶそれに普段の厭味な響きが無い事に驚いて、思わず呆然と頭上の綺麗な顔を見上げたルークは、その思わぬ距離に夜の闇の中でも穢れなく輝く翡翠の眼差しを大きく見開いた。
 ――ふれたくちびるは、ひどく、つめたい。
「これで、結構ですよ」
 触れ合わせるだけの、まるで子ども騙しの、可愛らしいキス。
 名残惜しいとばかりに離れ際にペロリと唇を舐められて、そのいっそ卑猥な感触に一気に体温を跳ねさせた王家の聖なる焔は、項まで赤くして口元を覆い、裏返えまくった声を振り絞る。
「い、いいいい、い、いまっ……!!!?」
「おや、初めても無いでしょうに。随分と初心な反応ですね」
「ばっ…! そういう問題じゃねぇだろっ!!」
 こうなっては完全に年上に純情を弄ばれる若造の図だ。短くなった赤毛を振り乱し、頭を羞恥に沸騰させてキャンキャンと吠える血統の良い仔犬に、ジェイドは滅多に無い極上の微笑を刷き、非情の死霊使いには似つかわしく無い温もりを感じさせる優しげな声で、囁く。
「ここでお別れです。ルーク。
 多少居辛いでしょうが、バチカル(ここ)で大人しくしていれば、悪いようにはなりません。仮にも、ファブレ公爵家の嫡男ですからね。心配しなくても、今は貴方が『ルーク』です。キムラスカは必ず貴方を必要とします。冷遇も中傷も少しの間の辛抱と思いなさい」
「――…ッ、ジェ、!」
「これは有難く受け取っておきますよ。
 …さようなら、ルーク」
 ――続けかけた言葉は形にならずに、半端に伸ばした腕は中空を虚しく掻いて、届かない。
 とどかない。
 あの綺麗な人に、切ない程に愛しい人に、もう二度と――…、逢えないかもしれない。

「……ッ!!」

 怖れが声にならない。目の前が一瞬にして闇に染まった。
 『それ』を何と表現するのか、幼い世界しか知らぬ七つの子には想像すら難い。酷い喪失感、無力感、脱力感。ここで、諦めるという選択肢を受け入れる事が如何な結果を齎すのか、直感に近い閃きが強く警鐘を鳴らして、去り行く華奢なラインの背中を掴まえて思い切り引き倒した―――!



「――綺麗ですね」
 人々の歓声に応えるようにして夜空に咲き散る色とりどりの大輪に感動した様子で、アルビオールの甲板に立ち尽くす金髪の剣士の隣に、飛行艇の操縦者であるノエルはそっと近付いた。ガイの女性への接触恐怖症の件に関しては心得たもので、絶妙の距離を保って、だ。
「ん? ああ、そうだね。
 マルクト人の俺が言うのも何だけど、バチカルは民の活気と笑顔のあるいい街だと思うよ。
 都市がしっかりと整備されているし、治安も良い。こうして定期的に祭事もある」
「そうですね。私、花火って始めてなんです。本当に綺麗……」
「シェリダンではこういう祭りは?」
「うーん。譜業技術を競う品評会とか、大会とかならありますけど。こういう純粋なお祭りっていうのは無いですね。譜業や音機関マニアばかりが集まった街ですから、土地柄を考えると仕方ないです」
 ちょこんと小さな肩をすくめて見せる仕種が愛らしく、普段のパイロットとしての凛々しさを残しながらも、年頃の女性としての可愛らしさが垣間見えるノエルに、ガイは爽やかな笑顔を返す。
「ははっ、俺も音機関には目が無いからなー。花火と最新の譜業技術だったら、迷わずにシェリダンに行きそうだなぁ」
「ふふ、ガイさんらしいですね。
 私もシェリダン育ちですから、音機関なら負けませんよ。でも、私の場合は純粋に創り出すのが好きなわけじゃないんですよ。どちらかというと、実用含めてというか、下心ありというか」
「うん?」
 愛らしく頬を染め無邪気に夜空の彩りに魅入るアルビオールの聡明な女性パイロットを振り返って、ガイはその心を伺う。すると、悪戯盛りの子どものように悪びれない笑顔で、ペロリと舌を出して見せて、そのまま空高く散る花びらを掴まえるように、舞い落ちる煌きに両の掌を差し出す。
「私、この空を自由に飛ぶ事が小さな頃からの夢だったんですよ。音機関の研究や開発も全部空を駆ける為の手段なんです。でもどうしても動力の確保が難しくて、やっぱり空を飛ぶなんて無理なんじゃないかって、諦めかけてたんですね。でも、そこに皆さんが飛行石を持ってきて下さって」
「君にとっては、渡りに船だったってわけか」
「はいっ」
 聞きようによっては意地の悪い質問に、ノエルは綻ぶような笑顔で素直に頷いた。その潔い程に真っ直ぐな気持ちに充てられて、アルバート流の使い手である剣士は、楽しそうに肩を揺らした。
「ははっ、じゃあ、飛行中の君は常に夢の中ってワケか」
「そ、操縦は大丈夫ですよッ!」
 自分の失言に気付いたらしいノエルが頬を染め慌てた表情でフォローをいれるが、既に後の祭りで、最早何を言っても甘いマスクの金髪の剣士の笑いを誘うものにしかならない。
「…もうっ、時々ガイさんって、兄さんみたいですッ」
「うん? ギンジかい?」
「はい。私の自慢の兄さんなんですよ。といっても、完璧な人間なんかじゃないんですよ。譜業以外は丸々抜けてて、生活能力が無くて、人の気持ちとか全然汲めない鈍感で、空ばかり夢みてる単なる音機関マニアなんですけどね」
「…はは、それは俺も耳が痛いな」
 仲間内から散々に譜業マニアや音機関狂と指摘を受けている爽やかな風貌の青年は、バツが悪そうに後頭部を掻いて、くしゃりと表情を崩す。そんな柔らかい気配に兄の面影を見出したのか、ノエルは嬉しそうに澄んだ瞳を細めた。
「…私は、兄にこの夢を貰いました。この空を自由を飛べる――翼。望むなら、もっと遠く高くだっていけるんです。私、諦めるってコト諦めたんです。無理なんですよね。自分の気持ちって、どうしようもないんです。特に――好きってキモチって、止められるものじゃないですよ」
「……ノエル?」
 折れない決意を常に胸に秘める悲劇のホドの生き残りである青年は、意味深に囁くアルビオール操縦者の聡明で美しい横顔に思わず見入って、きょとんと空色の瞳を瞬かせた。

 ――ドン…、 ……パン…、パパパパパッ……

 舞い落ちてくる蛍火のような、線香花火のような橙の光は、微かな点滅の後掻き消えてゆく。

 パパパパ…、ドンドンッ……ド――ン……、パパパ……。

「…アッシュさん、長くないかもしれません」
「――…え、?」
 絶え間なく夜空を彩る大輪が、酷く味気なく視覚を素通りしてゆく。
 人々の歓声も、空で弾ける火薬の轟音も、――…ひどく、遠い。
「ギンジ兄さんから訊いたんです。アッシュさんから突然に、家族もこの先の未来もあるお前に迷惑をかけてすまないって、謝られたって。それで、兄さんがそんなのお互い様だから気にする必要なんてないって…言ったら……」
 伝え難そうに先を飲み込んで黙り込んでしまうノエルの気遣いに、凄惨な過去と戦い常に前を向く神速の太刀筋を誇るホドの剣士は、呆然としたまま、最早無意識に先を促す言葉を紡いだ。
「…どういう…こと、だ…」
 呆然と呟く声の生気の無さに、有能で快活なアルビオールの操縦者は、辛そうに俯く。
「――消える、…って」
「………きえ、る…?」
 コクンと女性らしいラインを残した顎が上下に振れて、繰り返した言葉が、決して聞き違いでは無い事を知らされる。
「自分はもうすぐ消えてしまうから、お前とは違うって――…。お前の未来を潰してしまうことになるかもしれない。つき合わせてすまない…ありがとう、って…。
 兄さん、言ってました。アッシュさん、この戦いが終わった後にもしかしたら――…、ッ」
「――…もしかしたら…、何だ…?」
 気丈な内面を表すような鮮やかな赤のパイロットスーツに身を包む女性の細く小さな両肩を、鬼気迫る表情でガイは握りこんだ。万が一の事故に備えて頑丈に縫い合わせてあるスーツの上からでさえ痛みを感じる程の圧力に、ノエルは柳眉を歪め息を呑んだ。
「…ッ、ガイさっ…」
「……もしかしたら…、何だよ…」
 ギリ、と肩に食い込む指先に、その迫力に気圧されて、ノエルは痛みに耐えつつ強く輝く視線を上げた。覚悟を決めて口にするそれは、凛と夜に響く。

「――アッシュさん、死んでしまうんじゃないか、って……」



 酷く近い土と草の香りに、野草の染みは後に残るからアルビオールに戻ったら直ぐに上着を替えなければと、妙に的外れな心配をしながら、ジェイドは頭上の赤いひよこを見遣って軽く嘆息した。
「…状況の説明をして頂けますか」
「――…ッ、」
 第三者的な視点で冷静に分析すれば、若造剣士に人目の無い草叢で押し倒される天下の死霊使いの図、だ。身の危険云々以前に、最早冗談だとしか思えない。酷く冷えた緋色の瞳で、自身の行為に脅えるように戸惑う翡翠の眼差しを射抜き、ジェイドはこれ見よがしに二度目の溜息を吐く。
「放して頂けますか。軍服が汚れます」
「………、」
 両の手首を力任せに押さえつけているレプリカの掌に、更に無遠慮な力が籠もり――マルクト帝国が誇る稀代の天才、最高峰の譜術士(フォニマー)、更には世界的災厄とされる恐るべき死霊使い(ネクロマンサー)と、常識の範疇を越えた存在である怜悧な軍属は不快感に声を潜める。
「…ルーク。いい加減にしなさい。
 これ以上無茶な加重をされれば、筋を痛めます。ホンキで痛みます」
「! ごめッ、」
 亜麻色の髪と艶めかしい紅色の瞳をした麗しい軍属の拒絶が、精神的なそれではなく、単純に肉体的な苦痛に寄るものだと悟り、ルークは慌てて両手の枷を離した。しかし、腰の上に馬乗りになった姿勢のままで、所謂、マウントポジションという体勢だ。
「――…ッ、」
 カァ。
 己の腰の上に乗り上げたまま、一気に赤く熟れる無体な王家の子に、ジェイドはこれ見よがしの三度目の溜息を吐いた。
「…一体、何がしたいんですか。ルーク」
 不機嫌そうな――というよりも現在進行形で真っ逆さまに急転洛中なのだが――声で咎められても、幼いレプリカ・ドールには全く届いていないようで、相変わらず頬を染め上げたまま、マルクト帝国の最強の軍属に魅入って生唾を飲み込んだ。
「お、…れ」
 何がしたいのかなんて、自分が一番分かっていないのだ。答えられるはずが無い。けれど、何故か。本当に何故なのだか、この厭味で最低で大嫌いな――酷く綺麗な年上の人を解放するという選択肢は全く考えつかない。逆に、どうすればもっと、自分に縛り付けておけるのだろかと――異常な欲望が胸の奥で滾って止まらない。歯止めが――効かない。
「俺…、っかんねェッ、わかんねェよ!!
 アンタの事なんか、大ッキライだ!! 大キライ…なのに…っ、すげぇムカつくしうぜぇし、エラそうだし、何でもお見通しってツラして…バカに…しやがって、大…嫌いだ。すげぇ…嫌い…」
 感情を吐露するうちに頭が冷えたのか、徐々にトーンダウンしてゆく独白に、ジェイドはまるで子どもの癇癪だと呆れ、嵐が収まるのを待つ。忘れていたわけでは無いが、聖なる焔の代替品として作られたレプリカは、まだ世に生を受けて七年だ。自身を持て余して感情を爆発させるのも、致し方ない事象ではある。
「……俺」
 キムラスカ・ランバルディア王国の王家の血統である赤毛の青年は、ややあって、力が抜け落ちたようなそれで、ポツリと零す。それはやがて、強い濁流となって心を酷く掻き乱した。
「俺、……思い出したい。
 ――…日記じゃなくて…、ちゃんと、俺の記憶で思い出したい…。
 アンタの事――、確かめたい」
「…ルーク?」
「…わかんねェ…、グチャグチャでわかんねぇのに…。
 アンタを放したくねぇんだ。嫌なんだ。俺を見て欲しい。アンタに認められたい。アンタに――ッ」
 激情のまま迸る想いを形にする愚かで拙い出来損ないのレプリカを、麗しの軍属は不意に片手で抱き寄せ、そして、深く――呼吸まで奪い尽くすような深い接吻を――与えた。
 コドモを揶揄する手段として一方的に与えられたそれとは違い、互いの想いも熱も、絡め合い、奪い合うような濃厚なオトナのキスは、甘い。思考も常識も苦悩も何もかも投げ出してしまう程の圧倒的な陶酔。漸く開放された頃には、経験の浅いルークはすっかり息を乱していた。
「…ジェ、ジェイド…」
 あからさまに欲を煽られた様子のお子様とは対照的に、タチの悪い大人は僅かに深く呼吸を求めただけで、涼しげな表情だ。強く求め過ぎて赤く色づいた薄い唇だけが、白皙の肌の中で見出せる情事の名残で、そのアンバランスが逆に卑猥ですらある。
「落ち着きましたか」
「………」
 吃驚し過ぎて確かに落ち着いた――が、今度は先程とは違う意味で落ち着かない。妙な気分だった。大体、天下無敵の死霊使いが相手の興奮を収める為の緊急手段とは云え、キスなんて仕掛けるだろうか。いや、否だ。するわけない。おそらく、上級水系譜術あたりで強制的に冷却処理を施して仕舞いだ。
「…なんで、キス……なんて…」
 感触を反芻するように拳の裏で自身の唇に触れて、急激に襲う羞恥に狼狽して、視線を忙しなく彷徨わせる、絶対的な死の予言(スコア)に抗う果敢な命の存在に、ジェイドはかつての赤毛の子の面影を重ね、悪戯っぽく微笑む。
「退いてくれたら教えて差し上げますよ。ルーク。
 いい加減、重いんですし、それに何時までもこの体勢は辛いんですよ」
「――…あ、ごめッ…」
 後ろ手に自重を支えるジェイドの姿勢は成程不安定で、負担の掛かるものであった。我に返った燃ゆる聖なる焔の証が鮮やかな王家の子は、慌てて綺麗な年上の腰から降りると、まるで主人の言葉を待つ飼い犬のように、生い茂る草むらにペタリと座り込んだ。
「全く…、軍服が草まみれですよ。本当に貴方という人は見境がありませんね」
 暗がりの中に長身のシルエットが浮かび上がり、ルークはただその姿に魅入る。パタパタと汚れを払いながら恒例の厭味を並べ立てられていると理解しているが、一切頭に入ってこない。華奢なラインを描く腰や脚の細さに思わず感嘆の溜息を吐いてしまい、マルクト皇帝の懐刀と名高い死霊使いから胡散臭げな視線をくらってしまう。
「あ、…や。ゴメン、なんでもないんだ」
「…そうですか? ホラ、貴方も何時までもそんなトコに座っていては裾が汚れますよ」
「悪ぃ…」
 指先まで美しい青の手袋越しのジェイドの右手を戸惑いながらも握り返し、勢いつけて起き上がる。中身は七歳児とはいえ外見は十七歳で、しかも一端の剣士の体格だ。それを片手で易々と受け止める有様は、細身といえども流石は軍人なのだと感心させられる。普段の飄々とした振る舞いからは想像し難いが、天才といえどもそれなりに鍛錬しているのだろう。
「さて、帰りますか」
「! ちょ、待てよッ! 理由!!」
 サッサと踵を返す意地の悪い冷徹眼鏡軍人を、ルークは慌てた様子で引き止めた。
「…おや、やはり気になるんですか?」
「約束だろッ…! 聞かせろよ!!」
「そうですねぇ」
 確かに開放すれば説明をすると約束はした。単なる口約束に過ぎないそれではあるが、しかし、今のルークには三十五歳という随分オトナで年上な綺麗な人を縛るのに、その言葉に縋るしかない。これまでの差して長くも無い人生の中で大いに振りかざして来た、キムラスカ・ランバルディア王家の威光も権威も、一切が通用しない相手なのだ。頭脳も明晰、権力も充分、武力も申し分無し。これほどまでの完璧ぶりを披露されて、実年齢七歳のクチバシの黄色いひよこに出来る事と言えば、若さに任せての体当たり攻撃だけだろう。
「若者をからかうのに理由なんてありませんが、強いて挙げるなら『記憶の復元』でしょうかね」
 まるで全くの他人事な口調で思いついたソレを口にするジェイドに、鮮やかな赤い髪が夜の闇にも一際映える王家の子は、ぱちくりと瞳を瞬かせた。言わんとするを理解出来ずに戸惑う愚かで愛おしい複製人形に、残酷な微笑みを浮かべて麗しの軍属は草叢を踏みしめる。
「ちょっ…! まだ答えッ!!」
「もう答えましたよ」
「今のが…? 待てよ、全然意味わかんねェって!!」
 あの六神将鮮血のアッシュとの完全同位体の身である事を鑑みれば、決して王家の血統である青年は愚鈍では無い。寧ろ、聡明な頭脳の持ち主であると言える。しかし、悲しいかな。自堕落な環境に甘んじ、また周囲もそれを容認した結果、一般常識すら欠如させた傀儡人形に成り下がってしまった。
 しかしながら『ルーク』が最も慕い尊愛していた師である、神託の盾騎士団、六神将の責任者である人物が、無垢な芽吹いたばかりのその命を、己の言葉だけ盲目的に従順になるよう丹精を籠め慎重に育て上げたのであれば、現在の『ルーク・フォン・ファブレ』の体たらくの責任の大半は、敵将ヴァンにあると言っても過言ではない。
「記憶の復元って何だよっ!! 答えろよ、ジェイドッ!!」
「――…なんでも他人へ依存するのは良くありませんよ。
 少しは、自分で物事を考えては如何ですか。ルーク様」
「……ッ、」
 返される声から伝わる温度が不意に冷えたのを感じ取って、ルークは反射的に言葉を飲み込んだ。取るに足らない矮小な相手を見下す時と同じ、無味乾燥な緋色の譜眼に射竦められ、頭を裏側から何か硬いモノで思い切り殴られたような衝撃を覚えた。と、同時に咄嗟に口をついたのは、まるで芸の無い馬鹿のひとつ覚えのようなそれで。
「…ごめん。ごめん、なさい。…ジェイド、ご免。
 だから、頼むから…そんな呼び方するなよ…」
 傍若無人を地で行く親善大使な『ルーク・フォン・ファブレ』であれば、決して、こんな不安そうな情け無い顔で縋るように謝罪を口にしたりはしないだろう。ジェイドの目の前でしょぼくれる赤毛の子は、記憶を何処かへ落とす前の『ルーク』の姿そのものであった。これでは、流石の冷酷非道の死霊使いも降参の白旗を揚げざるを得ない。
「…全く、貴方という人は」
 ――…断髪後の赤毛のひよこには、認めたくは無い、認めたくは無いが、甘い自覚がある。
 幼い時分より天才や鬼才と世間に騒がれ、過失から目を背ける為に外道の研究を重ね、自身の為に軍名家の養子となり、数多の戦場で戦々恐々と謳われた経歴の主である己を、ここまで見事に陥落するとは――無意識なだけに、あの天下泰平極楽トンボの皇帝陛下よりも余程タチが悪い。
「……ジェイド…?」
 何時の間にかブーツの爪先が自分の方を向いていて、状況の変化に瞬きを繰り返せば、向き合う程近くに存在を感じ、ルークは慌てて視線を上げる。――と、酷く切ない感情を滲ませた紅緋の瞳が思わぬ程間近に迫っていて、思わず、息を呑み込んだ。
「…記憶は、取り戻せそうですか?
 十年前と違って今回は間違いなく、貴方の感情を伴った過去が存在しています」
 問いかける口調は寂しげに響くくせに、何処か艶かしくて、薄く開いた唇から覗く赤い舌に視線が釘付けになる。
「……わかんねぇ。でも、覚えのねぇ記憶がチラつく事がある。
 追いかけて捕まえようとしても、すぐ消えちまってダメなんだ」
 例えばそれはマルクト帝国北部に位置する雪国ケテルブルグに音もなく降り続ける淡雪のような。間断なく空より舞い降りてくる結晶は、けれど、掌に受け止めた途端に形を失う。確かにそこに存在しながら、人には決して捕らえられないという儚い絶対の矛盾。
「――そうですか、思った以上に回復の見込みがありそうですね」
「ホントか!」
 バッと顔を上げ期待に頬を染める王家の子に、ジェイドはおどけた口調で肩を竦めてみせた。
「私は確信の無い事は口にしませんよ、ルーク」
「…ああ、そうだった。そうだよな。そっか、俺…思い出せるかな」
「それにしても、どうしてそこまで失った記憶に固執するのですか。ルーク。
 消失の期間は1ヶ月半程度です。バチカルの屋敷で平穏に過ごす為には、寧ろ不要な記憶と思われますが」
 禁忌の緋に染まった怜悧な眼差しが、華奢なフレームの眼鏡の奥から窺うように閃き、多少怯みながらも、ルークは自身の中に確かにある、しかし捉えどころの無いもどかしい思いを、そのまま吐露した。
「……正直に言えば、怖ぇってちっと思う。
 俺がとんでもない事やっちまったってのは自分の日記に書いてあったし、師匠が俺を最初からアッシュの身代わりにして使い捨てるつもりだったってのも…、今の俺には全然実感が無ぇけど、思い出したら――馬鹿みてぇに取り乱すかも…しれないって、思う」
 海上に張り出した軍艦から祭りのメインイベントである打ち上げ花火が、リズミカルな爆発音と共に、月と星の夜に刹那の華で彩りを添えてゆく。空と海に同時に映し出される一瞬の音と光の競演に、世界は息を呑んで見入った。
「…でもっ、それでも、俺は――アンタの事を思い出したいッ!!」
「……何故…?」
 低く問いかける声は蕩ける極上の甘美――媚びるような響きを孕みながらも、高潔で淫靡な、閨の睦言にも似た喘ぎの囁きに、あらゆる意味で幼い人形の子は一気に体温が上昇するのを感じて躊躇えた。
「……な、なぜ、って。それはっ…、その。
 えと、だ、だか――、……ジェ、…ド? んっ……」
 どうしようもない高揚に引きずられて頼りなく視線を左右に彷徨わせていたルークは、不意打ちのキスに声を失う。何度目かの甘い接触。触れ合う場所から波紋のように官能の波が広がる。
「……ふ、……――っ、ん」
 一方的な愛撫に翻弄されるだけの愛しきレプリカへ、ジェイドは与えられるだけの快楽の毒を注ぎ込む。啄むだけの親愛のキスは、深く、貪欲に相手を求める濃厚なそれへ姿を変え、ぬるりとした感触のものが口唇を割りいって口腔に進入した瞬間は、流石の勝気な王族も動揺を顕にする。
「…じぇっ、……ン、んっ…」
 咄嗟に逃れようと顔を背けた赤毛の子の首筋に酷く悩ましげに指先を這わせて、禁忌の施術にて紅に染まった呪瞳を愛おしさに眇める。自身の中の若い性に戸惑う幼きレプリカの塗れた口唇をチロリと舌先で舐め上げ、甘く、淫らに喰らいついた――…。



「―――ガイッ!!!」
 世界でも貴重な――というよりも、おそらく二艇しか存在しない貴重な飛行艇であるアルビオールの内部の施設はそれなりに充実している。飛行を最大の目的としている為、内装はシンプルな印象だが、軍用に開発された陸上走行艦タルタロスのように実用性を最優先させた無骨な造りでは無く、『人』への配慮や気遣いが、そこかしこに窺える。個別に宛がわれているプライベートルームは、日々の苛酷な戦闘で精魂尽き果てる勇者達の疲れを優しく受け止め癒してくれる空間だ。
 そんな一室で洗いたてのシーツの仄かな石鹸の匂いにうとうととまどろんでいた金の髪の青年は、余りにも突然に飛び込んできた自分に全力でしがみ付く幼馴染に、心底驚かされて目を丸くする。
「は、え? な、なんだ??」
 短く整えられたひよこの遅れ毛の赤頭は、見間違えようも無い。二大強国のうちの一つ、キムラスカ・ランバルディア王国の王位継承者である『ルーク・フォン・ファブレ』サマだ。無論、オリジナルである『聖なる焔の光』は別に存在しているので、正しくは目の前の『ルーク』は『ファブレ子爵』では無いのだが、当人が捨てたものだ、拾ってしまっても何ら問題のある処では無いだろう。
「ガイッ、ガイ――、ガイ〜〜〜〜ッ」
「わかった、わかったから。ちょっと待て。な、落ち着け」
 辛うじて意識を現世(こちら)に残していたとはいえ、眠りに落ちる直前のタイミングだ。未だ半覚醒のままベッドに仰向けに転がり続ける世話焼きな青年は、覆いかぶさって泣きついてくる子どもの背中を、ぽんぽん、とあやしながら溜息を吐く。
 どうせ、何時ものようにあの冷血陰険眼鏡にいいようにからかわれたのだろう。いい年して容赦が無いというか、大人気無いというか。この数々の嫌がらせ行為の裏側に――常人には非常に理解し難く、信じ難いが――好意と呼ばれる感情が潜んでいる事がルークにとってせめてもの救いだろうが。
(……ん? あれ…?)
 と、そこまで考えてピタリと思考が泊まる。ファブレ公爵家の嫡男である『ルーク』様が、自分に対してこういったスキンシップ行為を行うはずがない。記憶にある限り、それこそ一度も。腐っても鯛。多少辛辣な言い草だが、世間知らずで高飛車で不遜なダメ人間だろうとも、子爵様なのだ。幾ら幼い時分から互いを良く知る仲とは言え、こんな全身全霊で縋ってくる姿なんて――…、
「……ルーク?」
 そう、これは『ルーク坊ちゃん』ではなく『ルーク』のそれだ。無知なる傲慢で他者を踏みつけ続けながら生きてきた愚かな貴族の男では無く、己の犯した抱えきれぬ罪に脅えながらも、世界と運命に抗う――悲しい、けれど、ある意味世界で最も幸福なレプリカ・ドールの愛らしい仕種。
「お、まっ…、お前、思い出したのか!?」
 コクリとクセ毛の赤い頭が頷く。
「そ…、っか。そっか――、よかった〜、ホントに良かった…」
 毛布越しに胸の辺りに縋り付いてくる子どもをあやしながら、ガイは安堵の溜息を吐いた。正直、今回の世界救済の旅から『ルーク』が抜けるのは非常に好ましくない。キムラスカ・ランバルディア王国の意思の代弁者である事や、アクゼリュス崩落事件の当事者であり、その引き金となった事実や、単純にパーティの戦闘力低下といった様々の要因はこの際大した問題では無く、その最たる所以と言えば――…。
「失礼しますよー、ガーイ」
「…ジェイド」
 これ、である。
 一応の形だけの礼儀としてノックをした後、部屋主の了承を待たずに扉から滑り込んできた、底意地の悪い三十五歳。いい年をした大人のクセに、意外と子どもっぽい性格をしているのを知ったのは、この旅が一度終わりを迎えてからだ。水上都市グランコクマに鎮座するピオニー皇帝の傍で、優秀過ぎる刃として存分に才覚を謳歌するジェイド・カーティス大佐は、気心の知れた幼馴染の前では酷く無防備で可愛げがある。
(……って、何考えてるんだか。俺まで)
 三十路も折り返し地点のオッサンに抱く感想じゃない。幾ら見惚れる程の美人だとは言っても、いや、この感想自体がそもそも終わっているだろう。と、埒も明かないセルフツッコミを繰り返しながら、今やすっかり赤毛の子どもの保護者のような立場が板についてきた苦労性の青年は上体を起こし、その動きに従うように腰にへばりつく仔犬を宥めながら、欺瞞に満ちた微笑を浮かべる大佐殿へ言葉を掛ける。
「…どうしたんだ、一体」
 ただでさえノエルから告げられた件で非常に混乱している処に、この事態だ。いきなり飛び込んできて自分にしがみ続ける赤いひよこと、意地の悪い笑顔を向けてくるオトナを交互に見比べながら、眩暈を覚える苦労人。
「旦那。アンタの事だから、コイツが記憶を取り戻してるのはもう分かってるんだろ。
 で、一体どういう事なんだ。俺にはサッパリ事情が分からないんだが」
 弱りきった雛鳥のようなルークを問いただす気にはなれずに、十中八九、事の元凶であろう怜悧な美貌の軍属へ、ガイは胡散臭げな視線を投げつけた。
「そうですねぇ。事情はそこで貴方にしがみついているひよこに聞いてください」
 ジェイドの意識が自身へ向けられた事を察してか、緊張に全身を硬くさせるルークは、幼馴染みに縋り付いていた腕に更に力を込めた。生まれて七年という頼りない歳ではあるが、その器である肉体は剣士として鍛えられた立派なそれで、流石に苦しくなって身動ぎするガイだ。
「さて、もう遅いですし。私は休ませて頂きます」
「…あ、ああ」
 何を伝えるでも無く、緋色の眼差しも妖艶な浮世離れした美貌の軍属は、そのまま部屋を後にした。脈絡の無い行動に唖然としながらも、珍しく上機嫌な様子からするに特に問題は無いのだろうと判断して気持ち切り替える。
「さ、って。ジェイドの旦那はもう行ったぞ。
 何がどーなってるんだ、一体」
「……ゴメン…」
 すっかり項垂れながらも、漸く落ち着きを取り戻したらしい何かと災難な赤毛の背中をぽんと叩きながら、最も親しい友人でありながら兄のような存在でもあるパーティの良心は、気さくな笑顔を返す。
「ンなの気にすんなって。それより、事情を説明しろよ。
 一体、どうやって記憶を取り戻したんだ?」
「……う、ん」
 口籠りながらも幼馴染を解放するルークに、ガイはやれやれと肩を竦めた。本当にこの赤毛達は手間がかかるし、世話が焼ける。それが嬉しいと感じてしまう辺り、そうとう自分も末期なのだろうが。
「その…、国立公園に――、二人で…ってか、俺が勝手にジェイドを連れてったんだけど」
「ああ、上にあがってたのか」
 確かに海上から打ち上げられる華やかな花火を楽しむのなら、絶好のロケーションだ。それに、夜間の一般人の立ち入りは禁止されている為、内密な話を進めるのに非常に適している。
「…うん。で、そこでジェイドと色々と、話してて――口論みたくなってさ」
「ああ」
 折角、失われていた記憶が戻ってきたというのに気落ちしたままのお子様にと、ガイは甘めに紅茶を淹れる。茶葉をブレンドする手間を省いた簡易パックのそれではあるが、舌の肥えた人間ばかりなので、結構な味わいだ。ミルクをたっぷり垂らして、最早紅茶というよりはミルク・ティーだろう。
「ほら、受け取れ」
「あ、ごめん。さんきゅ…」
 戸惑いながらも差し出された暖かなカップを受取り、ルークは口をつける。
 話していくうちに徐々に頭の方も冷えてきたのだろう、語る口調に落ち着きを戻り出す。
「それで――、その、ジェイドの事、さ」
「うん」
「おっ…、思い出したいって本人に直接言ったんだ」
「……、それはまた大胆な」
 ルークの告白に流石に面食らってしまう金髪の保護者。

 今の『ルーク』ならいざ知らず、親善大使な『ルーク様』は、慇懃無礼の世界代表のような死霊使い(ネクロマンサー)に、一欠片の好意も抱いていなかったはずだと思い起こして、愛の力は偉大だと妙に的外れな感想を感慨深げに胸に浮かべる。
「…うん。自分でもそう思う。けど、俺も必死でさ。
 自分で言うのも情けねーけど、以前の俺って最悪だろ。なんでもかんでも他人の所為にして、何一つテメェの力じゃ出来ないくせに、威張り散らすトコだけ人並み以上でさ」
「育った環境がアレじゃ仕方ないさ」
 世界二大強国の王位継承者ともなれば、寧ろ、過去の『ルーク』でさえ謙虚と言えるだろう。何せ、幼馴染とはいえ、下働きの下男に心を砕いて情を交わすわ、中立的立場にいるとはいえ、立場的には己よりも下にあたる神託の盾に属する男を、剣の師匠と仰いだりしていたのだから。
「…ありがと。ごめんな、ガイにもすげぇ沢山ヤな思いさせたと思う」
「そんなの今更だろ。それに俺は公爵家に復讐するつもりで潜入してたんだぜ。こう言っちゃなんだが、詫びてもらうような立派な立場じゃねぇよ」
「……うん、でも、ゴメン」
「あー、もうほらっ。もう謝るなッ。次、ゴメンって言ったらバツゲームな!」
「え、えええっ!!? なんだよ、それっ!!」
「嫌なら謝るな。悪くないのに謝罪する必要なんてないだろ?」
 よしよしと世話の焼ける赤ひよこの頭を撫で、ガイは自分用の紅茶を口に含んだ。ブランデーをほんの少し加えたそれは、心地よい熱さで喉に落ちてゆく。
「――…分かった。
 それで、続きなんだけど。今度の記憶喪失はどうにかなるんじゃないかって言うのもあってさ。前のは、元々記憶なんて無かったんだから思い出せないのも当然だけどさ。今回は違うだろ。ちゃんと『俺』の中に皆の記憶があって、それを取り出す方法を忘れてるって言えばいいのかな。
 以前、ジェイド自身が言ってたんだけど、人の『脳』って凄く繊細で、でも高い可能性と能力を秘めたパンドラボックスだって。だから、丸っきり全部落っことしてるはずがないって思ったんだ」
「……あー、まぁなぁ」
 よくある――と表現するのも妙な話だが、一般的な『記憶喪失』は記憶媒体の重篤な障害というよりも、そこへ至る伝達経路の寸断によるものが殆どだ。但し、人間の脳なんて繊細で未知数なそれに積極的に手を加えられるはずも無く、多くは時間の経過と共に何れ思い出すだろうという結論で片づけられる。要するに、打つ手無し、だ。
「だから、……ジェイドなら、さ。
 ジェイドならどうにか出来るんじゃないかって思ったんだ。フォミクリー技術を復活させたのは師匠(せんせい)だけど、原理を実現レベルまで昇華したのはジェイドだ。だから、こんな記憶喪失もジェイドに相談すればどうにかなるんじゃないかって」
 ――非常に短絡的ではあるが、目の付けどころは悪くない。記憶喪失症がルークの告白にあるように単純な内容では無い事は百も承知の上だが、実際ジェイド・カーティスなる人物へ助力を求めた結果して事態が収拾している事実は受け止めざるを得ないだろう。
「で、うまくいったんだろ?」
「う…、まぁ、その。思い出した、けど」
 奥歯に物が挟まったような歯切れの悪さに、ガイは怪訝そうに眉根を寄せた。
「どーした?」
「手段、……が」
「? ああ、そういえば結局。どうやって思い出したんだ?」
「………ス」
「ん?」
 何気ない質問の答えは余りに小さく、反射的に聞き返したガイの視線の先で、キムラスカ・ランバルディア王家の子は、今にも頭から湯気を吹き出しそうな勢いで赤く茹で上がりつつ、俯いて拗ねたように唇を尖らせていた。
「だ、っから、……キ、キス、されて」
「――されて思い出したとか言うんじゃないだろうな。童話じゃあるまいし」

 この世に生を受けて七年という幼さの赤毛の子と、かたや三十路も折り返し地点へ差し掛かる、容姿も能力も性根の歪み具合も普通の人間とは一線を画す強烈な存在の間にある微妙な温度は、無幸の島ホドを出生の地とする金髪の青年とて既に知り得ており、行為自体は左程驚くべきものでもないのだが。

「……いや、まぁ、その。
 キスされて――お、思い出した、わけだけど、さ」
「――…は?」
 ここで呆気に取られてしまった二十一歳を誰が責められるだろう。飽和した頭に、ホドの屋敷の本棚に並んでいた一冊の童話の背表紙が浮かび上がる。確か、内容は悪い魔女の呪いで醜いカエルの姿に変えられた王子が、心の清らかな純潔の娘のキスで呪いから解放され、二人は王子様のお城で末永く幸せに暮らしましたといった、王道の低年齢向けストーリー。もうタイトルも思い出さないが、この法則に当て嵌めるのならば『純潔の乙女』は、イコールで最恐最悪と名高いマルクト帝国第十三師団団長ジェイド・カーティスということになる。
(いやいやいやいやいや、それはない)
 一瞬、鋭角なフォルムでデザインされるマルクト軍属の軍服を一部の隙も無く着込むカーティス大佐の、純白のドレス姿を思い浮かべてしまい、必死で己の妄想を振り払うガイだ。
「ちっ、違うからなッ!!」
「…え? なんだ、急に」
 黙り込んで百面相を披露する幼馴染の様子に不穏なものを感じ取ったルークが、真っ赤な顔をしたまま、両の拳を握りしめ、全身を緊張させて、必死の体で否定の言葉を口にする。
「今! キスで思い出したとか言ったから、なんか恥ずかしい事考えてるだろッ!! 言っとくけど、違うからなッ!! ちゃ、ちゃんと根拠があるからな!!」
「……え? そうなのか? てっきり――…」
「わーわーわー!! 言わなくていいッ!!」
 公爵家の屋敷という厳重な籠の中で大切大切に守られてきた生贄の小鳥は、ここ数カ月の激動により身体的にも精神的にも随分頼もしくなったが、それでも、生来の若木のような真っ直ぐな気質は変わらないままだ。素直に慌てて、元から赤い頬を更に染め上げて慌てる。
「違うって! その――今回の記憶喪失ってさ、ジェイドに説明してもらったんだけど、一時的な生体構築音素(フォニム)の障害みたいなものだって。多分、アッシュとの件で音素配列の一部にエラーが起こったんじゃないかって」
「…ああ」
 不意を突かれる形で想う相手の名を聞かされ少なからず動揺するホドの青年だが、そんな僅か温度差を感じ取れる程の冷静さは、今の混乱しまくりな赤毛には残っていない。
「――…それで、ジェイドが自分の譜術で乱れた一部の音素配列を戻せないか試してみるって。その、…手段が、その、えと」
「――キスってワケか?」
「……う、ん」
 今にも消え入りそうに恥ずかしげに瞳を伏せる姿は、妙に愛らしさがある。キムラスカの血統という事で元の見栄えが良い事と七歳という実年齢のお陰で、成人男子であれば正視に堪えない仕種も寧ろ可愛げさえあるから、困りものだ。

「…まぁ、手段の良し悪しは兎も角。流石は旦那だよな。そんな方法で記憶を戻せるなんて、普通は思いつきもしないと思うし」
 わざわざキスする必要があるかどうかはこの際置いておいて、ガイは素直に天才の呼び声も名高いパーティ随一の頭脳の行為へ称賛を送った。結果、ルークの記憶は戻り今まで通りの旅が出来るのだから、特に文句も問題も無い。……タチの悪いオトナに弄ばれた若造の立場を思うと少々気の毒な気もするが、結果オーライという事で辛抱してもらうしか無いだろう。しかし――…、
「で? それでなんであんなに血相を抱えて飛び込んでくるんだ? みょーに旦那を避けてるっぽかったし。旦那は旦那で、お前の反応を面白がってるカンジだったし。今の話だけなら、お前にとっても、そう悪い事じゃないだろ」
 何せ恋心を抱いている相手からの積極的な接触なのだ。無論、特別な意味合いのそれでは無いにしろ、多少複雑な気持ちがあったとしても、正直なところ男なら美味しいシチュエーションだろう。
「……それは、まぁ」
 俯いて口籠る様子が思わず苦笑してしまう程に微笑ましい。まるで初めての恋に戸惑う弟を見守る兄のような心地だ。こんなことを口にした瞬間に赤毛の機嫌が急降下するのは目に見えているので、ここは敢えて口には出さないが。
「――じゃなくてッ…、ジェイドからそういう事されたのは、そりゃ俺だって正直言えばちょっと嬉しかったし。そうしてきた理由だって俺の記憶をどうにか取り戻させる為で、あのジェイドがそこまでしてくれるって事は、それなりに自惚れていいって事だし。だから、全然――違うんだ。
 多分、今ガイが考えてる事じゃなくて、そうじゃなくて――」
「…ルーク?」
 そろそろ温くなってきたアップル・トーンの紅茶をゆっくりと飲み干して、ガイは聖なる焔の光の変わり身として作り出された幼馴染の名を、疑問形で呼ぶ。混乱している事は充分過ぎる程伝わるのだが、如何せん状況がサッパリ掴めないので、どの様に対処すれば良いか図りかねてしまっている状況だ。
「――ゴメン、俺、自分でも何が言いたいのか分んなくて。ゴメン、ホント、…ごめん」
 人当たりが良く何でもそつなくこなしてしまう頼れる兄貴分の幼馴染の困惑を感じ取って、ルークは所在無さ気に翡翠の視線を彷徨わせた。それに微苦笑で答えて、実年齢で言えば十四も離れている金髪の青年は、努めて明るい声を出す。
「そーやって直ぐ謝るなって。お前、髪切ってから低姿勢になりすぎだぞ?
 前みたくしろとは言わないけどさ、極端なんだよ。昔と今のお前を足して割るくらいが丁度いいんじゃないか? お前の面倒を見るなんて俺の日課みたいなもんなんだし、今更迷惑だなんて考えもしないさ。ヘタな遠慮される方が水臭いってもんだ」
 頼り甲斐のある堂々とした立ち振る舞いでガイは委縮する元雇い主に近づいて、そのへたれた髪をくしゃくしゃと?き乱す。その、些か乱暴な仕草に深い愛情を感じ取って、ルークは照れ臭さに尖らせて抗議する。
「…ガキ扱いすんなよッ…」
「はいはい。悪かった悪かった。それで、話はもうお終いか?」
「――いや、続き…が、」
 言いにくそうに口籠るお子様の言葉を、ガイは優しく促す。
「話してみろよ。俺は何があってもお前の味方だぜ」
「……ガイ」
 陳腐で軽薄な歌い文句だが、ガイ・セシルなる人物の口から出た言葉は、そのまま絶対遵守の誓いとなると知るだけに重みが違う。凄惨な過去と非情の現実を乗り越え、復讐という名の甘美な誘惑を笑い飛ばしてみせたホドの剣士は、最早一切の虚偽も無く幸福を願う幼き命へ真摯な眼差しを向けた。
「……ありがとな。俺さ、ホントにガイがいてくれてよかったって思うよ」
「なーに言ってンだ。今更。水臭いぞ」
 明朗快活でいながら浅慮とは程遠く、機智に富んだ立ち振る舞いのパーティの苦労人――もとい、一番の常識人である金髪の青年は照れ臭そうに笑って見せた。ちなみに、救世の旅を続ける彼らは一人一人がそれぞれに代表的立場に在り、代表者を問われれば一概には挙げにくいが、強いて言うのならば、最年長者である眼鏡軍人がそれにあたる。しかし、彼はどちらかと言えば確信犯的なトラブル・メーカーだ。己が『そう』である事を愉しんですら見受けられるから、タチが悪い。
「まぁ…さ、そのキスされて。結構、なんていうか、その――多分、ヤラシイ気持ちになって、さ」
「…健康な成人男子としては上々な反応なんじゃないか?」
 この際相手が『アレ』と言う事は目を瞑るとして、惚れた相手からの性的接触――例え、向こうにその気が無かったとしても、キスなんて直接行為を受ければ興奮するし欲情するのが雄のサガだ。生憎、如何ともし難い体質の所為で実体験に基づいた意見では無いが、男として十分理解出来る。
「そう…だよな。おかしく、ないんだよな…?」
 不安そうに見上げられて、ガイは励ますように力強く赤毛のワンコの言葉を肯定した。
「おかしいわけないだろ。惚れた相手からンなマネされて反応しない方が逆にヘンだろ」
「………そ、だよな。
 じゃ、じゃあ、さ…、その、じぇ、ジェイドも……かな?」
「旦那?」
 唐突な話題の降りに蒼天の色の瞳を瞬かせて、ガイは疑問形で聞き返す。
「…うん。その、す、すげぇ言いにくいんだけど。
 キスされて――なんか、ぼーっとしてワケ分んなくなって。その、気がついたら…ジェイドを、押し倒してて、さ。で、そのまま何回も…もう、その、記憶の修復とか抜きで…キスしちゃって、さ…」
「……ああ」
 色々と突っ込みドコロのある台詞なのだが、敢えて流して先を促す空気詠み人のガイだ。驚愕の告白に呆然自失としなかっただけでも、その精神力は賞賛に値する。
「そ、そしたら…、じぇ、ジェイドが……。
 思い出したかって聞いてきて。その時にはもう完全に色々…ジェイドが好きだって事も、ちゃんと思い出してて……。だから、その俺――…」
 全く口をつけないまますっかり冷えてしまったミルクティーが満たされたカップを、ぎゅと力の限り握り込むお子様の頬は、赤い。話している間もずっと朱に染まっていたのだが、赤レベルで言えば最高なのだろう。今にも火を噴きそうな勢いで燃え上がる手の掛かる幼馴染みに、世話焼きの青年は柔らかな苦笑を漏らす。
「ん?」
「…その、俺――、ジェイドの事が、好きだって…、口に出してて…。
 そしたら、あのジェイドがすげーありえなく優しく、笑って…くれて」
「……よかったじゃないか」
 あの一癖も二癖もある最高最強の死霊使い(ネクロマンサー)が、七歳のお子様の告白に素直に感動して微笑んだとは到底思え無いが、折角の感激に水を差す気は無い。それに、あのタチの悪い三十五歳はどういう訳か、この赤毛のひよこにだけは結構甘いので、それはそれでアリなのかもしれないと一人納得するガイである。
「…そうなんだけど、その後…。ジェイドを押し倒したままの体勢だったんだけど、その後さ、ジェイドが、その、し、下の方を、な、な、撫でて、きて」
「………」
 下の方。赤味MAXになりながら紡がれる言葉の意図を読み取れぬ程、ガイ・セシルはお子様でも鈍感でも無い。七歳にイキナリなんて事を仕掛けようとするんだ、あの猥褻物。いや、けれどこの場合押し倒しているのはルークの方なわけで、いや、そもそも七歳児に襲われる三十五歳っていう構図自体がシュールだろう。既に常識で測れる世界では無い。いやもう駄目だ。俺にはお手上げだ。勘弁してくれ。二人で解決してくれ。いやいやいや、やっぱり駄目だ。ルークを見捨てるわけにはいかないだろう、しっかりしろ俺。
 ――脳内葛藤を繰り広げるガイの苦悩など、全く知る由も無い昔とは違う意味で問題児なお子様は、恥ずかしげに今にも消え入りそうな声で続けた。
「触られたら…、なんか熱くなって、もっとわけわかんなくなって……。
 だから、ダメだって思わず叫んで――、そしたらジェイドが……。なら、逆にしましょうかって…、その、きいてきて、ふ、服を、脱ぎ始めて…――胸元肌蹴ただけでも、凄い、肌とか白くて、綺麗で……、すごい、ドキドキして…もうホントにゴチャゴチャになって……」
 そりゃそうだろうと、ガイは心中で重く長い溜息をついた。何せ、あの無駄に妖艶な美貌を誇る大佐殿からの直截的な誘惑だ。性的な知識も経験も皆無な七歳にはかなり辛い場面だろう。肉体的には充分成長しているから、本能的にカラダは欲情しても、ココロがついていかない。それを承知していながら、淫猥な悪戯を仕掛ける死霊使いも相当に性質が悪い。
「それで、逃げてきたってワケか」
 納得したように頷くガイだったが、その予測は軽く裏切られた。
「そ、そうじゃなくて…。
 おれ、さ。そのジェイドの白い首とか、鎖骨のあたりとか、見た途端に色々とんじゃって…、そのまま、その…地面に、押し倒しなおして…全部に、キスしてて…、胸を、な、舐めてる時に、流石にジェイドがちょっと、困ったような…、でもすごい色っぽい声で俺を止めて、それで、何やってんだ俺って気がついて――、それで、そのまま…ここに……」
「……そ、そう、か」
 目の前の赤毛ワンコのオリジナルなる人物に懸想してしまっている自分を自覚するだけに、微妙な居心地の悪さを感じてしまうガイだ。どうやら事態は予測よりもやや右斜めを迷走中のようだ。取りあえず、これは両想いという結論で良いんじゃないかと、投げ遣り気味に前向きな苦労人だ。
「…まぁ、わざわざ様子を見にきたって事は怒ってるわけじゃないんだし。
 そういうコトしても許される位には好かれてるだろうし、な。
 とりあえず、今日この部屋で休んだらどうだ?」
「え、でもガイは――、」
「簡易ベッドを出せば問題無いだろ。  まだ話し足りないなら付き合ってやるから、まずはシャワーでも浴びてこい。着替えなら用意しておいてやるから」
 言われて初めて己の姿を改めると、オートクチュールの服裾は土の汚れが僅かに残り、雑草や低木の葉の端切れのようなものが赤い神に絡んでいた。まるで野外戦闘後のような有様だ。――ある意味『そう』ではあるのだが。
「あ、ゴメン。そうだな、このままじゃ汚れるもんな。
 じゃあ、シャワー借りるな」
「おう。ゆっくり浴びてこい」
「ああ」
 漸く本来の姿を取り戻した十年来の付き合いである幼馴染みの姿をシャワー室へ見送った後、赤毛事情はあちらもこちらも全く予断を許さない状況だと、世話係の青年は陰りを帯びた表情で苦笑交じりの溜息を零した。



ガイは巻き込まれ型不幸&苦労人
ルークは本能で年上美人を押し倒せばいい
ジェイドはジェイドで若造をからかうだけのつもりが
実は本気になってる自分に気がついて
物凄く焦ったり照れたりしちゃったり
更にそこをどっかのブウサギ皇帝につつかれればいい