虚ろな未来へ・1
普段と変わらない朝の日課。髪と洗い顎の産毛を整えて、洗いたての濡れた金髪を手早くタオルで拭きあげると、手早く髪型をセッティングする。それから丈夫な普段使いの服へ着替えて、鏡の前で己の姿に抜かりが無いかを一通りチェックすると、最後に手袋を嵌めて鞘に納まった剣を腰のベルトに固定して身支度完了。普段通りに笑えるかどうかを鏡の前で確認してから――ガイ・セシルはベッドの上で安らかな寝息をたてている子を起こさないように、そっと船室を後にした。
「なんだ、随分早いな。旦那」
甲板に上って冷えた朝の空気で少しでも気を紛らわそうとしていたガイは、先客の姿に目を丸くした。しなやかで華奢な長身、背筋を伸ばして手摺に向かい水平線より昇りくる朝日に眩しく照らし出される姿は、おおよそ、その人物に似つかわしくない。陽性のベクトルを陰性へと捩じ伏せるような強烈で絶対的な存在感に、苦笑が漏れた。
「…貴方こそ、あれから赤ひよこに付き合わされたんじゃないんですか」
「まぁなぁ。あんまり苛めてくれるなよ、旦那」
「おや、人聞きの悪い」
圧倒的な色香を纏う麗しき軍属が、面白がるように眼鏡の奥で緋色の瞳を細め、両肩を竦めて道化てみせる。敵と認識した相手の前ではいっそ致死の毒にも胸に届く刃にもなる美貌が、今は酷く自然に周囲の景色に融和している。
「ルークはまだ休んでいるんですか?」
隣に立った金髪の青年の姿が朝日に照らし出されてゆくのに、ジェイドは昨夜と全く同じ構図だと期せぬ偶然に口端を微かに上げた。違うのは世界の色。更ける夜、明ける朝。闇に沈んでいくばかりで僅かな月の輝きを頼りにしていた過去とは違う、惜しみなく注がれる光達。
「ああ。ここ数日あいつなりに大変だったろうしな。今日は休ませてやってもいいんじゃないかと思う。どうせ、イオンが戻るまで俺達も動きようがないんだしな」
「そうですね。ただし、ゆっくりしている時間が無い事も事実ですから、ダアトへ戻っておきましょう。もう半刻もすればノエルも起きてきますから、直ぐにも出発ですね」
「ああ、そうだな」
にしても――、とガイは調子を変えて問いかける。
「どうしたんだ、旦那」
「何がですか?」
「何時もの軍服じゃないみたいだが…、そういうカッコも似合うけどな」
そう、世界を屈伏させる最強最悪の死霊使いはマルクト帝国の鮮やかな青の軍服では無く、白の開襟シャツに黒のスラックスという酷くありふれた服装でいた。この無暗に容姿端麗な男が軍服や白衣といった職業スタイル以外の服装でいる姿など、初めて目にするガイだ。
「躾のなっていない仔犬に軍服を汚されたものですから」
「自分で挑発したんじゃないんですかね、旦那」
「おや、何の事でしょう?」
にっこりと、正しく華が綻ぶような笑顔を惜しみなく与えられ、波乱の人生のお陰で大概の事には冷静な対処が可能に成長しているはずの神速の太刀の使い手である青年は、思わず赤面して言葉に詰まってしまった。
「……ジェイドの旦那。頼むから俺にまでそういう表情とか…ホンキで勘弁してくれませんかね」
「おやおや。随分嫌われたものです」
決して本気で嘆いているわけではないのだろう。
自身の態度や表情が相手にどのような効果を与えるかを正確に熟知しておいて、戯言を口にする御しがたい三十五歳を横目で睨んで、ガイは肩を落とした。
「本当にいい性格してるよ、アンタは」
「お褒めにあずかり、光栄です」
冷酷非情の姿勢で軍へ隷属する死霊使いの姿も、ジェイド・カーティスの性質の一つには違いない。いや、寧ろ生命を研究対象としてしか理解し得ない無機質で無慈悲な彼こそが、本来あるべき姿なのかもしればいが、こうして優しく蕩けるように甘い時間を共有してしまうと、誤解してしまいそうだ。冷徹な軍属の姿は仮初であって、本来の彼は酷く優しく慈悲深いのでは無いか、と。
「…うーん、ないな。うん、ないない」
「何がないんですか?」
「いや、ははは。気にしないでくれ、こちらのコトだから」
馬鹿げた思い込みを即座に否定して、俊足の剣士はバツが悪そうに頭の後ろを掻いた。確かに、苦楽を共にし、互いの背中を任せられる仲となった今では、ある程度優遇してもらえるだろうが、『それ』が最善だと判断されれば、容赦無く切り捨てられる自信がある。――残念ではあるが、事実だ。ジェイド・カーティスが切り捨てられない人間がいるとすれば、おそらく、唯一の――…。
「…あれ、それどーしたんだ? 旦那」
「え? ああ、コレですか?」
大きく肌蹴た襟元から覗く華奢な銀の鎖――の先に、可愛らしい小さな指輪が輝いているのに目聡く気付き、ガイは何気なく尋ねる。特に含みがあったわけではなく、純粋な疑問からだ。知り合ってからの時間は左程長くは無いが、マルクトの賢帝ピオニー陛下とは違い、ジェイドは積極的に装飾を好む性質では無かったはずなので、純粋に珍しいと首を傾げる。
「貰ったんですよ」
「………」
声、が。
完全に微笑っていた。
そこから事情を察する事なんて、仇敵の傍で笑顔で復讐の牙を研いできたガイラルディア・ガラン・ガルディオス伯爵にとって、大した労力でも困難でも無い。
「ルークにか」
「ご名答。流石は、保護者ですねー」
「あー、じゃあ、ついでに訊いてもいいか?」
「はい?」
「その鎖骨とか首筋の辺りの赤いのもルークに、か?」
「おや、目立ちますか?」
「…多少、な。旦那は肌が白いから、そういう痕は分かりやすいんだよ」
余程際立つ訳では無いが、隣り合う距離であれば、それと分かる。天然記念物な鈍感王女ナタリアや、クールな外見に反して意外に初心なティアならば、おそらく本気で気付かないだろうが、腹黒守銭奴な人形師の少女には確実にバレる。
「仕方ありませんねぇ、ではシャツは替えてきますよ」
「そうしてくれ」
何より開襟シャツなんて目の毒過ぎる。普段、ストイックな軍服で襟元までキッチリ着込んでいる姿を見慣れているだけに、寛いだ服装でいられると、それが大した露出で無くとも酷く艶めかし。いや、もうこれは死霊使いジェイドの存在そのものが、卑猥と謂わざるを得ない。これで三十五歳のオッサン軍人だなんて、反則だろう。
「…ちょっと待ってくれ、旦那」
「はい?」
致し方無くといった様子で部屋へ戻る素振りを見せていた亜麻色の髪の軍属を、ガイは呼び止めた。幾ら非道非業の死霊使いと言えども、今は一応パーティの一員だ。流石に、仲間の呼び掛けを真正面から無視するような真似は無く、振り向いて素直に応じた。
「ひとつ、いいか?」
「何でしょう」
「…アイツの時間は、後どれ位残されてる?」
「――…誰から聞きました?」
「ノエルから――いや、正確にはギンジを通して、本人から、だな」
「…そうですか」
軽い嘆息と共に、類稀なる頭脳と容姿の持ち主である美貌の軍属は、やれやれと肩を竦めた。
「人の…第七音素集合体(との完全同位体という事例自体前例を見ないものです。正直、私にもこの先の予測は困難です。確証の無い事は口にしたくはありませんが…、どうしても答えを望むのであれば――。そうですね、この戦いの終焉まで保つかどうか、そんなところでしょうね」
「方法は…無い、のか?」
ギリ、と柵を掴んだ指が、力を込めすぎて血の気を失う。
「……現状では絶望的ですね。
見立てですが、彼は体組織を構築する第七音素の剥離が既に発現しています。剥離――所謂、潜在期間を過ぎれば、本格的な乖離が始まります。そうなれば、最早手立てはありません」
「――…かい、り?」
言葉の意味が理解出来ぬわけではない。『乖離』――物質の結合が解除される事を指す、はずだ。そんな無機質で金属的な単語と、人の生命との間の関連性が見出せずに困惑する。
「…ええ、乖離です」
「――…ッ! ちょっ、待ってくれ! 乖離って、乖離か!? 分離する意味の乖離だよな!?」
声が完全に慄いていた――恐怖というよりは、恐慌。それも、絶望的な状況に対する絶対的な動揺。しかし、幸いにも護衛剣士は己を見失う事は無い。幼き時分の激しい喪失の体験は、上品な金の髪に澄み渡る空のような蒼の双眸といった、貴族然と整った容姿の青年から、感情の限界を奪い去っていたからだ。
「相変わらず理解が早いですね。そうです、その『乖離』ですよ」
「…なんで…、第七音素を素体としてるレプリカがってならまだ分かる。けどっ…、アイツはオリジナルのはずだろ! なんで乖離なんて言葉が出てくるんだ!?」
声――が、動揺を反映して期せずに大きくなる。
中途半端に向きかけていた姿勢を正し、真正面から亜麻色の髪をした麗しい軍属へ疑問を投げかける。そこには普段の余裕は微塵も感じ取れず、それだけ必死なのだと、痛いほどに伝わる。
「ご存じでしょうが、アッシュは第七音素集合体である『ローレライ』との完全同位体です。人として生まれながら、ローレライの素養を持ち合わせる非常に稀有な存在。そう――超振動を起こせるのも、彼の肉体が第七音素で構成されているからです」
「……ッ、なんで、それでも第七音素が体組織の大元でも、問題ないはずだろう!?
どうして、乖離なんて起こるんだ!!」
「――…原因は、…」
怜悧な美貌を際立たせるスマートなラインの眼鏡を指先で押し上げ、ジェイドは言い澱む。逡巡の後に、軽く息を吐くと左右に首を振って肩を竦めた。降参の白旗を揚げたといったところか。一向に引く気配の無い赤毛の保護者に、最早、全てを語るしかないと腹を括ったようで、真っ直ぐに見返す視線は――容赦なく鋭い。
「…憶測の域を出ていませんがね、おそらく間違ってはいないと思いますよ。
原因は――…」
「…ルーク、か…?」
苦々しい口調で絞り出された名前に、ジェイドは無言で頷いた。
「ルーク――、つまりレプリカ作成の為にフォミクリー情報を搾取された事が最大の要因でしょうね。フォミクリーの実験記録の中に、情報を奪われた素体(が極稀に死亡するケースが記載されていました。情報搾取の際に素体の元の情報の配列を狂わせてしまい、結果的に『人』の結合を保てずに、乖離してしまう。レプリカは生き続けるというのに、皮肉な話です。フォミクリー研究の科学者達はこれを『ドッペルゲンガー現象』と呼んでいたようですね」
カッ、とブーツの踵を高く鳴らし、ジェイドは元の位置――ガイの隣へ戻り、語りを続けた。現在のアルビオールには、自分たちの他には手のかかる赤毛の仔犬と、聡明で有能な女性パイロットだけだが、それでも声を大にする内容では無い。
「この『ドッペルゲンガー現象』が最大の原因と見て間違いないでしょう。その他にも、第七音素集合体からの接触、超振動の使役等の要因も絡んでいるでしょうが――、遠からず彼の肉体は乖離を開始します。そして、それを止める術はありません」
感情の抜け落ちた声で淡々と事実だけを語る圧倒的な力を誇る譜術士に、金髪の剣士は道化めいた仕草で天を仰いだ。片手で頭を抱え、幾度も軽く頭を振る。余程の混乱と葛藤だろうに、感情の全てを自らの内で昇華しようと努める姿は、青年のこれまでの人生に於ける激しい苦労が伺い知れる場面だ。
「…本当に方法は無いのか…?」
問いかける声に力は無く、しかし、決して行き先を見失わない静かな決意が存在していた。
「――断定してしまうのは早計ですね。あくまで『現時点では』です。
例えば、あの暴れん坊公爵様が大人しく研究施設で、乖離抑制の為の研究・治療に専念してくれるのなら、万が一の可能性はあります」
「……そりゃ、限りなく難しい条件だな」
なにせ、アレだ。自身の信念を決して曲げず、頑なまでに真っ直ぐなキムラスカの聖なる焔の光。緩慢に終末へと歩む世界に未来をもたらす希望の輝き(。唯一の寄る辺とした師と歩む道を違え、誕生の瞬間から己を見捨てた世界に焦がれながらも反目し、血の縁(えにし)など、既に枯れ果てた絆として打ち捨て、果敢に孤高な――その悲しいまでの高潔が愛しい『ルーク・フォン・ファブレ』。
「――…キムラスカ・ランバルディア王家の次期王位継承者は思慮深く聡明、また深い見識と鋭い慧眼の持ち主です。聊か荒削りで未熟な部分も見受けられますが、ね。ですから、おそらく自身の異変が尋常なそれでは無い事を直ぐに悟ったのでしょう。そしてそれが――離反の切欠にもなっている。そんなところですね」
「…離反?」
物騒な響きのそれに眉を顰める心配症な青年へ、ジェイドは口端を微かに歪める程度のおざなりな笑みを零した。
「ええ。手段の程は兎も角、彼にしてみればヴァンは所謂命の恩人です。それだけでは無く、行き場を失った自分を受け入れ必要としてくれた唯一の存在。幾ら彼が聡明な王家の血脈とは言え、当時は十にも満たない子どもです。そんな幼い時分に己を絶対的な死の運命から救い出してくれた相手を裏切るのですから、何か大きな理由がある――と考えるのが自然でしょう」
「……ッ、そう、…だ、な。
そうだ……そうだよな。――そう、か」
指摘を受けて初めてガイは客観的にアッシュの置かれていた立場の脆さを認識した。どうして今まで気づいてやれなかったのか。何故、今更気づいてしまうのか。他の六神将のように自身の決断によってヴァンデルデスカへ従ったわけでは無いのだ。ただ、彼には行き場が無かった。バチカルの屋敷には既に『ルーク』が置かれ、それで無くとも己を世界の贄としか考えない利己的な為政者達の下へ戻るなど、最初から選択肢の中にも含まれない。
「あくまで憶測ですが、ヴァンはアッシュへ世界のレプリカ化という馬鹿げた計画を伏せていたと思いますよ。もしくは、計画の真相の一部だけを話していた、という事も考えられますね。そして、計画を実行に移す時期となり、真実を知る。――彼の性格からして、全世界の人々を殺して新世界を創造するという愚かな計画に賛同はしないでしょうし、ヴァンの思想は最早、言葉では止まるはずもありません。このまま師へ盲従するか、あくまで自身の信念を貫くか――」
「……悩む時間すら、残されていないなら――…。
例え、恩義を感じる男に逆らってでも、覇道をゆく、か。アイツらしいな。
一人で無茶をして、結局、俺達ともヴァンとも対立してるなんて、不器用でどーしようもない…」
悪態を綴る声が中途で震え、詰まるのに――ジェイドは素知らぬ振りを決め込み続ける。
「…陛下に陳情すれば」
「――…」
朝日に美しく煌めく海面に眩しそうに紅眼を細めながら、史上最強の伝説と化している死霊使いは淡々と語る。隣り合う青年の苦悩も悔恨も崩れ落ちそうな悲しみも、全てを存ぜぬものとして一貫した姿勢を貫き続けるのは、成程流石の『大人』の気遣いと判断と舌を巻くところだ。
「フリングス将軍を貸して貰えます。無論、期間限定になるとは思いますが。
剣士前衛は二名いればどうにでもなりますよ。見た目からお飾り将軍と思われがちですが、彼の腕は確かです。どうしますか――?」
「……旦那には敵わないな」
「光栄です」
苦労性の青年の心からの讃辞に、わが意を得たりと、圧倒的な艶を振りまく完璧な微笑みを麗しい面に浮かべ、くるりと踵を返した。頭から背中、爪先まで――直線のラインで描かれる後姿が美しいあらゆる禁忌を犯す至高の惑星譜術士。
「…迷惑をかけるけど、頼むよ」
「わかりました。では、一度グランコクマへ行きましょう。
私は着替えてきますから、貴方はノエルにこれからの行き先について説明を。ガイ」
「了解しましたよ。カーティス大佐」
普段の調子を取り戻したらしい心優しき非業の剣士は、柔らかな苦笑を漏らしつつ、軋む程に握り込んでいた鉄柵から指を離し――海上に昇りきった太陽を眩む瞳で捉えた。灼熱の焔。無闇に求めれば眼球ごと焼き切れてしまう激しい光。その姿はまるで――、
「………」
ふる、と頭(を振り、自身の後ろ向きな思考を払う。過去を顧み反省を重ねる事は重要だが、痛みや怖れに囚われれば、それらに縛られて身動ぎすら許されなくなる。それでは自身の望みは果たせない。誰も、救えない。復讐の情念もまだ胸の内に燻り続けながら、憎悪と悲愴の悪連鎖を断ち切るためにと刃を下ろした意味がなくなってしまう。
「…ブリッジへ行ってくるよ。旦那は着替えたら、ルークが起きてるかついでに見て来てもらえるか? まだ寝てるようなら別に起こさないでいいと思うけど、もし手持ち無沙汰にしてるようなら、着替えてブリッジへ来るように伝えてくれ」
「…わかりました。それでは、後ほど」
「ああ。艦はダアトへ向けて問題ないよな?」
「ええ、構いませんよ」
背中越しの流し目は雄の本能を直接刺激する艶やかさで、本当にこれが三十代も半ばの男の姿なのかと、悲劇のホド島の生き残りの一人である金の髪の護衛剣士は溜息をひとつ。そして、染み入る程に青く高く透き通る空を仰いで、ゆっくりと片手を伸ばす。
「……遠い、な」
そして何度目かの嘆息と共に、苦笑を浮かべて朝日に眩く照らし出される甲板を――後にした。
砂埃と喧噪の商業都市、世界最大の交易中継地点である――砂漠のケセドニア。
彼の都では手に入らぬ物など無く、人も物資も情報も、全てが一同に介する流通の中心。
外殻大地の上に創造された箱庭(は、崩落への秒読みであるというのに、人々は怠惰に日々を過ごし、無為に人生を浪費する。見慣れた酔漢同士の殴り合い、怪しげな薬を売りつける路地裏の売人の囁き、互いを喰らい合おうとする禿鷹の眼光も鋭い商人達の呼び込み喝采。
それら人生の縮図とも思えるような人の業を見続けるのも、もう三日目だった。
「……ルークの奴、うまくやってるといいがな」
赤毛のひよこが正気に戻ってからは、パーティの皆と合流した上で、グランコクマへ直行。そして、賢帝との呼び声も名高いピオニー陛下へ少しの間戦力(フリングス将軍)を借り受けたいと陳情申し上げたところ、意外というか予測通りというか、アッサリ二つ返事の了承を得た。当人は随分面食らってはいたものの、それでも『光栄です』と、成程大人の態度で応じていたのが印象的だった。
ピオニー・ウパラ・マルクト九世陛下の名代であるジェイド・カーティスに連れられてやってきた、帝国王族へ連なる血脈の没落貴族の立場は、微妙なものだった。政権・派閥争いに余念の無い強欲な貴族共はまるで腫物に触れるような猫なで声で接し、質実剛健の帝国将軍達は敵意も露わに胡散臭い新参者を邪見に扱ったのだ。そんな中、フリングス将軍だけは公明正大の立場だった。
「しっかし陛下も見る目あるよな。まぁ、ブウサギに臣下の名前はどうかと思うんだが」
そんな人柄も家柄も、そして能力さえも高い随一の人材に信頼を置き、腹心の一人としているのは流石ピオニー陛下だと素直に感嘆するところである。あの『死霊使い』を懐刀としている時点で人心掌握術、求心力の絶大さは押して測るべし、だ。何より空恐ろしいのは、それらが全て無意識だと言う事だろう。
「…さて、と」
砂漠の街特有の日差しの強さから逃れるように酒場の屋根の軒下に逃れていた金髪の青年は、頃合いを確かめて雑踏から視線を上げる。ブルー・アイズに春の陽だまりのようなハニーブロンド、嫌味無く爽やかに整った容姿は、成程、隠しきれぬ気品が漂う。故郷を魔界(へ喪い、仇敵の傍で従順な下男の仮面を被りながら、復讐の機会を息を潜めて窺うという荒み切った綱渡りの人生を送ってきたにも関わらず、この姿だ。
王侯貴族として然るべき教育の場を与えられていたのならば、恐らく、非の打ちどころのない完璧な上流階級の一員と成っていたであろう事は疑いようもない。寧ろ、じゃじゃ馬王女のナタリア姫や破天荒なマルクト帝国のカリスマ皇帝よりも、王族の二文字が似つかわしくすらある。意識的に『平凡』を心掛けて生きてきただけあって、普段は人という種の群に埋まり非凡さに気付く者は僅かだが、彼と接する時間の多いバチカルのファブレ公爵家のメイドには女性への接触恐怖症を含め、軒並み評判が良い。
『カッコ良くてフェミニストで気障なのに、女性恐怖症なんて、かーわいい』
彼女達の中でのガイ・セシルなる護衛剣士の総評と言えば、上記に要約されるのだろう。
「そろそろ開演だな」
ぽつりと呟く青年の手には、本日より公演予定の人気サーカス団『暗闇の夢』の入場チケット。観客を飽きさせない物語仕立ての華麗な舞台は、オールドラントの大人から子どもまでをも魅了し続ける。手元のチケットも正規ルートでは既に売り切れとなっていた為、多少強引な手口で漸く入手した経緯があった。それだけの苦労に見合う舞台なのだろうが、今は、それよりも――…、
「……どうあっても、アイツの居場所を――…」
ぐ、と拳を握り込む。掴んでいた紙製のチケットがクシャリと縮むのにも構わず、ただ、悲劇のホドの生き残りである青年は決意を――胸に呑み込んだ。
公演会場となっている巨大なテントの裏側に、サーカス団の控え室となっている小さなテントが幾つか設置されてあり、周囲には大小様々の檻が雑多に並べ置かれていた。そんな如何にも関係者以外立ち入り禁止という雰囲気の区域を歩き回りながら、金髪の剣士は最も外観が立派なテントを探す。
交渉相手として望むのは『暗闇の夢』のトップ三名だけだ。それ以外の単なるサーカス団員を捕まえても。無用な騒動の元になるだけで、意味が無い。頭首のノワールと直接話が出来ればそれが理想的ではあるのだが、残念ながら事前広告では彼女のプログラムは組まれていなかった。
「お、いたいた。邪魔するぜ」
一通り敷地内を回り責任者のそれだろうと当たりをつけたテントの入口をめくると、頭首ノワールの腹心である男がいた。痩せ形に隻眼――眼光は鋭く、どちらかと言えば寡黙だが決して非社交的では無く、寧ろ、理詰めの話術は好ましくすらある。
「……お前は…、……赤の旦那に何か用か?」
そして、頭も切れて察しも良いので、話も早い。
「ああ。直接逢って話がしたい。出来れば、少しの間一緒に行動したいと思ってる」
「…分かった。少しここで待っていろ」
「………」
「どうした。何か都合でも悪いのか?」
「…いや、ヤケにすんなりと話を聞いてくれると思って。
俺達とアイツの関係は味方とも言い切れない微妙なトコだし」
面食らったようにして黙り込んだホド出生の剣士に、痩躯の男はシニカルな笑みを口端に浮かべて、低音を効かせた渋い声で淡々と答える。
「――…旦那の話題は、六割がお転婆王女、三割がレプリカ、一割が神託の盾の男の事だ。お前さんの話は一度たりとも聞いたことが無い」
話題にもならない相手に対して無闇な信用は如何なものだろうかと、ヨークの説明にますます不審を顕わにするファブレ家の元・下男の護衛剣士に、眼帯の男はそのまま続けた。
「目が、な。違うんだよ。普段の赤の旦那の目の色は、世界に存在する全てを等しく憎むそれだ。キムラスカの王女サマ相手に話してても、それは変わらない。けどな、お前さんを見るときだけは違うんだぜ」
「……どう、違うんだ?」
全く想定外の言葉に困惑を隠し切れないまま、呆然と剣士は尋ねた。すると、男は面白がるような口調で、自分で確かめな、と短く言い残してテントの入口をくぐり、外へと歩いて行った。
無幸の島――ホド。
故郷が地の底――魔界へ墜ちゆく様は、まさに地獄の光景だった。
あの悲劇を知る同胞は数少ない。
殆どの人間が、魔界に呑まれて死んだ。
ヨーク自身崩落から逃れたのも完全に偶然と幸運の成せる業だった。
一触触発の状態にある戦況に危険を察した島の住民は帝国へ避難を申し立てたが、予言(によって島の安全もマルクト軍の勝利も約束されているとローレライ教団の発表を受けた住民は、不安の中にも絶対の運命を定める予言の威光に逆らえるわけもなく、皆、島で生活し続けた。
――…たまたま、その日は島の外に用事があった。それだけだ。それだけなのに。
「……同郷のよしみ、か。我ながら、甘ぇもんだ」
最早、記憶の中の影すら遠い小さな故郷、取り戻す事など不可能だと知っても尚、いや知るからこそに愛おしい在りし日の輝き。ただただ平凡だった。何か特別な思い入れがあるわけもなく、あの島で生まれ、あの島で育ち、そして、あの島で極有り触れた家族を得た。二親は戦争で亡くした。築いた家庭はあんな時代と言うのに、温もりと笑いが絶える事は無かった。
「………」
火を点したばかりの煙草をゆっくりと吸い込む、そして、殊更長く、長く、吐き出した。
在るはずのない左目を使い古した眼帯の上から確かめるように抑え、薄く、ヨークは笑った。
「――くだらねぇ…」
あの日、一体何が起きたのか。
何も分からないまま無意味に年月を重ね、けれど、命を捨てるという選択は出来なかった。
死の予言より逃れ混乱のままに『救済』の象徴であるローレライ教団へ駆け込み、必死でホド崩落の事実を口走った途端に神官が顔を強張らせたのを、薄れてゆく故郷の思い出とは逆に、今でも鮮明に覚えている。それから施されたスープに毒が入っていた事も、今でも忘れない。そこで確信を得たのだから。教団は、ホドの崩落を知っていた。そして、知りながらも、予言を守るためにホドの住民を見殺しにしたのだと。
「…赤の旦那には感謝してる。
だから、恩返しの一つくれぇは、しねぇと、な」
ローレライ教団の特攻隊長である六神将軍鮮血のアッシュ。キムラスカ・ランバルディア王家に連なる血統の青年。等しく予言に運命を狂わされたファブレ公爵家の本来の嫡子。彼がもたらした情報はどれも信じ難くはあったが、虚言や妄言の類で無い事は明白だった。その瞳が、――万物への憎悪へ烈火の如く怒り狂いながらも、焔の底に孤独の陰りを抱えていたから。
「姐さん、ギンジはいるか」
いくつも並ぶテントの群から目標のそれを見出し、入口のほろに潜りながら、ヨークは咥え煙草のまま聞いたのだった。
予言に縋り、否定しても縛られ、操人形のように怠惰に生かされる人間と、予言を捨て、肯定する概念すら失われ、自らの意思で貪欲に生きる複製人間(レプリカ)。世界は滅亡の危機であり、再生の好機でもあった。飽きるほど聞かされた酷く壮大な理想世界の創造――それが利己的で軽薄な単なる独善だと気付いたのは、十三、四の頃だったろうか。
(……ああ、そういえば。妹は助けるんだったな。それに、ガイも――…。
アイツにも人並みの情なんて存在してんだな…)
いや逆か、と、騎士は口元を皮肉に歪ませた。
情深き、故に我は救う――。
あの男ならぬけぬけと言いかねない。
(……いや、違う。アイツは――…)
ある意味で、ひどく、情けが深いのだろう。
でなければ、ユリアの予言に縛られる世界を滅ぼして、レプリカだけの新世界を創造するという狂気を実行しようとは思わない。誰もがこの何処か歪んだ世界への疑問を口にしながらも、それを受け入れる。誕生から終焉までを予言に操られていると言う事実に、目を伏せ、素知らぬ素振りをして傀儡の人生を送る。下らない。実に情けない群衆に成り替わり、あの男は立ち上がった。
(――…バカなヤツだ。…本当に、不器用で……、… )
もっと他の方法もあっただろう。
今の遣り方では当然のように抵抗も反発もある。それと知らせずに世界を滅亡させる事など、師と仰ぐあの男の度量と実力であれば可能なはずだ。何も、真正面から抵抗勢力と争う必要など無い。そう、あの男はまるで――…、
「…試している、のか…」
人々の生きようとする強い意志、未来を信じる心、一方的に与えられる模造の希望では無く、空に輝く真実の希望の輝き。それらが、己を阻めるものなのか。試練を与えているようにも見える。ヴァンデルデスカが本気で世界を破滅させようとするのならば、目障りな劣化レプリカ率いる一行をいつまでも黙認しているわけがない。幾ら、実の妹や、痛みを分かち合う主人をそこに含んでいるからといっても、手段を選ばなければそこはどうとでもなる。消すだけなら、それこそ、暗殺でも何でも。
「…どちらにしろ、止めるしかねェ…。
もう、俺には時間が無い。早く――、……」
問題は目の前に山積みだった。
自身が志半ばで朽ちたとしても、『ルーク』が代用になるのならば、と考えた時期もあったが、所詮複製品。
己の中にある超振動の素養を継承してはいるものの、その威力は全く以て子どもの稚戯程度。そんな中途半端な能力しか持たない写し人形に、運命の全てを委ねるのは不安しか残らない。この世界には、まだ、心を残した存在がある。だから、破滅も消滅も許さない。
――コン、コンコン。
不意に、部屋の扉が叩かれて、アッシュは視線を遣る。
飛空艇アルビオール一号機には、今のところ自分を含め二人だけ。残りの一人は、操縦者のギンジだ。この巨大な艇をたった一人で動かしてみせるのは、流石としか言いようが無い。相当に空と譜業機関が好きらしく、多少の無理にも付き合ってくれる、孤立奮闘する現在のアッシュにとっては非常に貴重な人材である。
「…ギンジか? どうした」
重苦しい黒の甲冑を脱いだ黒のシャツ姿でオールトランドの全域地図を睨みつける姿は、綺麗に整った横顔も手伝って、とても六神将軍『鮮血のアッシュ』の異名を獲る騎士とは思えない。繊細な深紅の長い髪、成長期独特のしなやかなラインの肢体、ベッドサイドに立てかけてある金華文様の黒鞘が、ひどく、場違いな印象を与える。
――…ギィ、ィィ。
無言のまま、扉が開かれ。人の気配が、中へ移動する。
敵意や殺気は全く無い。寧ろ、心地よい温度が伝わってくる。
視線は地図に落としたままなので、相手が『誰』であるかはアッシュは確かめない。
確認などせずとも、ここには、決まった人間しかいないのだから。
「…丁度いい。次の目的地だが、少し難しい場所になる。
お前の腕なら問題ないだろうが、――迎えのタイミングが全く読めない。この前、互いに離れていても連絡が可能な譜業機関の話をしていたな。それは、どれ位実用性が――…、ギンジ?」
気配は、直ぐ横にあった。そこまでしても、相手は何も言わない。確かに職人肌ではあるが、決してギンジは無口な方ではない。最近は此方の機嫌を伺う知恵を身につけたが、少し前までは所構わず譜業に関してのマニアックな知識を一方的に披露されて、辟易していた。それほどに口数の多い男の無言は、確かに違和感だった。
「…お前、どう――…、ッ、!!」
顔を上げて目を、見開く。
バツが悪そうに目線を逸らして後頭部を掻く――クセ。
何時からか焦がれ続けた黄金の輝き、決して悲しみも憎悪も知らないわけでは無いのに、高く澄み続ける空色の双眸。困ったように微笑む顔が好きだった。笑顔の裏側にある、物言わぬ瞳の中の悲しみが酷く切なかった。仇敵の息子――憎むべき相手を、忌むべき子を、全身全霊で護ろうとする彼の不器用な生き様が――堪らない程の痛みを感じさせる人。
「……ガ、…イ…」
決してこんな場所で相見えるはずも無いその青年が、見上げた先で、酷く居心地悪そうに立ち尽くしていた。
ガイとジェイドは共犯者
だからこそ理解しあえる部分がある
そんな二人の関係が好きです
ガイは無自覚にアッシュに一目惚れですが
アッシュは長い時間をかけて
ガイへ心を寄せていったんだと思います
そんなアッシュサイドも表現出来るといいです