金色の羽根、太陽の翼 1
優しい――目覚めだった。
「………」
半裸の格好で毛布から白い肩を出して、満足そうに――…満腹そうにという方がこの際正しいのか――眠りこける幼い生命に、ふ、とレンズ越しでは無い譜眼の緋色を優しくさせると、素肌にローブを羽織っただけの姿で、死霊使いの戦名を冠する美貌の軍属はシェードで遮られた朝の輝きへ溜息をひとつ。
(……さて、どうしましょうか、ね)
何が――とは、最早問えない。
これでひとつ、問題がまた積み上がった。
しかも、結果的に自ら進んで抱え込んだ事になるので、自業自得だ。
生命の輪廻(を嘲り、幼い傲慢が生み出した技術は、神をも畏れぬ所業。
人の分際で求める事すら赦されぬ、禁断の果実は、甘く、苦い、蜜の味。
(……仮定の話は好きではありませんが…)
過去の物事に『もしも』は有り得ない。そんなものに時間を浪費するなど、愚の骨頂としか言いようがない。未来に起こり得る可能性を模索し、その対策を練るのであれば、多少なりとも思考する価値はあるが、後悔や自身を卑下するだけならば、全く以て人生の無駄遣いだ。
『お前なんか、いなけりゃよかったんだ!』
バチカルの廃工場で真正面から叩き付けられた剥き出しの感情が、今更に胸を抉るのを感じて、人並みに何を――、と、その人外めいた魅力と悪魔的な能力で世界を震撼させる艶やかな軍属は、自身を嘲る。
これが、傷付くという感情であるならば、随分と『ひと』に近付いたものだと、苦笑を禁じ得ない。
「…貴方に言われるまでもないですね。
けれど、貴方の誕生が無ければ、歴史は始祖ユリアの残した預言の通りに巡るだけ――…。
オリジナルであるアッシュはアクゼリュスの崩落と共に命を落とし、帝国は滅び、第九代皇帝であられる陛下は御首を玉座へ晒したのでしょうね」
命を燃やし尽くすような輝きで決して未来を諦めない幼き赤毛の子は、自身の誕生を嘆き贖罪の道を探してばかりだが、今一度、自分自身が辿ってきた軌跡を思い返してみれば良い。この無垢な魂に救われた人々がどれだけ存在する事か。鉱山の町アクゼリュスに於ける悲劇で責められるべきは、本来はルークでは無いのだ。滑稽な程に無知で愚鈍であった『親善大使』たる彼が、哀れにも己の過失から目を背け、保身の余りに周囲へ赦しを乞おうとしたばかりに、結果として仲間達の反感を買い一方的にその過失を詰られただけに過ぎない。
さりとて、ファブレ公爵家にて十年もの間飼い殺しとされた赤毛を、オリジナルの代用品として崩落する大地と共に魔界(へと、掛けた情ごと放げ棄てた彼が全ての元凶かと問われれば、否定を口にするしか無い。愚かな災厄の種を未来へと残した過去の為政者達でさえ、始祖ユリアが謳う預言の中に描かれた登場人物の一人に過ぎず、彼もまた――…預言に踊らされる操り人形だ。
天井から吊られている事に気付いて、四肢に絡む絲を振り払おうと足掻く憐れな人形の姿は、悠久の時代にオールドラントを提唱した始祖ユリアからすれば、さぞや滑稽な見世物に違いない。
切れた預言(が、主等(の命綱よと、愉しげに嘲笑むのだろう。
(…始祖ユリアの預言にルークは存在していない。
彼女が謳んだ未来には『聖なる焔の光』が常にキーとなるのに…。
今を以ても語り継がれる『偉大なる始祖』が、この未来を予見していなかった、と…?)
少なくとも――、世界の在り方そのものに異議を唱え、反逆の徒として人々を支配する預言(へ弓引いたヴァン・グランツ謡将は、そう信じたのだろう。でなければ、世界へ牙を剥く無謀への道理が立たぬ。
(…あの崩落で、確かに『聖なる焔の光』は多くの人々の命と共に散った。今のルークは、以前のそれとは掛け離れ過ぎている。預言にある人の生死が、生命活動という観点に縛られないとすれば、預言は歪んでなどいない――…)
寧ろ、予定調和を擬えているではないか、と。
軍事大国として名高いマルクト帝国第九代皇帝の美しい懐刀は、そっと瞼を伏せ、長い睫毛を震わせた。預言(のままに紡がれる歴史を、死霊使い(の名に掛けて、決して赦しはしないと、口にするのは自身すら縛る呪いの言霊――…、
「ん、む…ぅ。じぇ … ど …」
「……ッ」
不意に耳に届いた舌っ足らずの呼び声に、暗い場所を這いずる醜悪な思想は霧散して、死霊使いの名を冠する麗しい軍属は、肩越しに赤毛の子どもを見下ろした。
「るー…、 」
ク、と呼びかけて、大きめのマクラに顔半分を埋めるようにして眠りこける幸せそうな赤ひよこが、まだ穏やかな眠りの中に在る事に気付き、ふ、口元を綻ばせる。戦乱の世において、敵は無論、味方であるがずのマルクトにさえ、無情なる魔物として畏れられた身でありながら、今更このような生まれたての子どもに翻弄されるとは、情けない話だ、と溜息を吐く軍属だ。
ベッドに枕元に無造作に置いた掌に、悲しい程に遠慮深く縋る指先に、そっと自身のそれを絡め、ジェイドは子ども高い体温に、心地良さを感じて情交の名残で微かに潤む緋色の瞳を伏せる。
「……人を殺めた数なら、比べるまでも無い。けれど、私は過去へ嘆きも悔やみもありません。
罪の意識に苛まれ続ける貴方が――…、不謹慎ですが、少し羨ましいですね」
襟足で後ろへ跳ねるひよこのしっぽに悪戯な接吻をひとつ――…非常識な程に恵まれた容姿の緋色の瞳の軍属は、閨に乱れた亜麻色の髪を気怠く掻き揚げ、ご満悦の表情で眠りこける幼い子を起こさぬように、可能な限りの注意を払いながら、甘い鎖で繋がれる優しい檻から足音を忍ばせ抜け出すと、簡単な身支度を整え――部屋を後にした。
奇跡のような一夜を越え――目覚めれば、部屋にひとりきりだった。
(……なんで…?)
慌ててベッドの上を確かめれば、汚れたはずのシーツは真新しいものに替えられ、自身も清潔な布で全身を拭われたような感触があり、ぱちぱちと翡翠の瞳を大きく瞬かせる赤毛だ。
「これ…、え …? え、 えええ? 何? え?」
昨夜に交わした情の気配など、部屋の何処を見渡してみても、欠片も存在しない。
「…… ゆめ オチ、 とか?」
まさか、と否定するにも段々と自信が無くなってくる。
長年想い続けた綺麗な年上の人に、触れて、口付けて、そのカラダの隅々まで確かめた。
生々しい感触や、最中の艶めかしい声まで、はっきりと思い出せるのに。
――…これは、どういう事なのだろうか。
「いやいやいやいや、え、ええ、と。ほら、だって…、え、えぇえええ??」
「……ふっ、くくく…」
「…ッ!! じぇ、イドッ!?」
混乱の余りに素っ裸でいることも忘れて、あわあわと一人で目を回していた赤毛の子は、背後から聞えた忍び笑いに、勢いよく後ろを振り向く。そこには、ベッドと壁の隙間に潜んで肩を震わせる愛しい人の姿が確かに――…あって。
「くっ、……くく、すみません。
隠れるつもりは無かったんですけど、丁度、シェードを開けようと此方に回ったところでして」
そうしたところで、貴方が起き抜けに一人百面相を始めたものだから、出るタイミングを逃してしまいました、と。惚れた欲目を抜きにしても強く美しい想い人は、肩を震わせつつ立ち上がる。
そんな年上美人に、人が悪いと詰るよりも、いい趣味だと唇を尖らせるよりも、先にもっと――…、
「ジェイドッ!!」
――…抱き締めたくて……。
「ジェイドッ、ジェイドッ…! ジェイドッ…!!」
力いっぱいに、全力で、抱き締めたくて…!
一端の剣士として前衛を任される自分がそんなことしたら、どうなるかなんて。完全に頭から吹き飛んでしまっていた。ギシ、と嫌な音がして、離さないと、力を弱めないと駄目だと誰かが叫んでいるのに、それでも腕の力を緩める事など出来ない。不器用過ぎるレプリカ・ドールは、拙く、幼い方法でしか、愛を伝えられない。
「ちょっ…、ルーク? どうしたんですか?」
肥大した軍組織に巣食う所謂『お飾り』な将軍とは一線を画し、名門軍家カーティスの名を負う麗しき軍属は、前線での戦いに慣れている。己を生かす為に敵を殺し、数多の戦場を経験した肉体は、無駄無く引き締まっている。――…が、本来の彼の専門は体術でも無ければ槍術でも無い。天才の名を確固たるものとしたのは、彼の指先から放たれる絶大な威力を誇る譜術なのだ。存外に華奢な身体は、加減の程を理解出来ない子どもに懇親の力で締め上げられて、呼吸もままならずに、痛みに喘ぐ。
「ジェイドッ……、おれっ、……俺ッ…」
しかし必死にしがみ付いてくる姿が、キュウキュウと、濡れた鼻を押し付けて寂しがる仔犬のようで、どうにも冷たく振り払えずに、どうしたものかと苦痛に天を仰ぎながら思案する『ルーク』に甘い死霊使い。
「……分かりましたから。少し…、落ち着きなさい」
寝起きのままで自由に跳ねる赤毛を、よしよしと撫でながら、ジェイドは痛みに漏れそうになる声を驚くべき精神力で押し殺す。
「…やだッ…! ジェイドッ、ジェイド…!!」
図体ばかりが大きくなった子どもは、あらん限りの力を振り絞って細いカラダを掻き抱いた。
「……ッ、ルークッ…、! いい加減に、離しなさい!」
――流石に、これ以上の無体を許すわけにはゆかず、ジェイドは咎める口調で愛すべき赤毛の子の名を口にした。途端に、大仰な程にビクリと跳ねて、おそるおそると腕の力を弱める赤ひよこ。
「……ごめん、 て、 ジェ、イドッ!?」
戒めを解けば直ぐにでも自分から離れてしまうと思われた綺麗な人は、寧ろ、縋るように全身の重みを預けてくる。予想外の展開に、翡翠の瞳をくるくるとさせて、両方の手を肩の上の万歳してしまう初心な赤毛に、年上美人な軍属は少々意地の悪い考えを巡らせる。
「…あまり強くされると苦しいですよ。ルーク」
「……ご、ごごご、ごめんっ、俺、その、か、考えなしで。
その、…じぇ、ジェイド、だいじょう…ぶ?」
恋しさが募るばかりの想い人のカラダを気遣うように小首を傾げて、先程とは打って変わった遠慮がちな仕草で背中に腕を回すルークだ。昨夜は夢中で気付かなかったが、ジェイドが縦に比べて厚みが全く足りていない。両腕ですっぽりと納まる細さに、ドキリと鼓動が跳ねるのを自覚すると同時に、起きぬけということもあり――…下肢へ容易く熱が集中してしまう。
「ジェッ、ジェイドッ。そ、そろそろ起きるよ、俺ッ。ごめんな、ホント」
声を不自然に裏返しながら、ルークはあわわわ、と抱留める愛しい人の身体を多少乱暴に突き放した。おや、と『ルーク』らしからぬ行動に柘榴色の瞳を丸くしたのも束の間、明晰な頭脳は直ぐに理由に思い当たって、先程とは比べモノにならない程の悪い顔をしてみせた。
「…ルーク」
そして、常のカーティス大佐の凛々しき在り方からは掛け離れた、淫らさを滲ませた甘やかな声で赤毛の子の名を囁き、ベッドの上へと回り込む。ちなみに――…今し方シャワーを済ませたばかりのジェイドは、軍服姿では無くラフな開襟シャツの格好で、微かに石鹸の香りを纏っていた。
「じぇ、じぇじぇじぇ、ジェイドッ!!?」
しかし、こんな据え膳を絵に描いたような絶好の機会にも関わらず、聖なる炎の代替として生み出された赤毛の子は、腰回りへ毛布をたくしあげつつ、ベッドの奥―― つまりは壁際へと追い詰められるように後ずさった。
「…どうして逃げるんですか。ルーク」
「ジェ、ジェイドこそ、なんでベッドに乗って…ッ、わっ?」
眼前に迫る整い過ぎた顔立ちに、ルークは己の状況も忘れ魅入ってしまう――隙を狙って、タチの悪い大人は、すい、と綺麗な指先で緩く起ち上がり掛けている赤毛の子の分身を、悪戯に撫で上げた。
「じぇいどっ!!」
幼子の存外逞しい体が突然の行為に驚き跳ねたかと思うと、完全にひっくりかえった声で、ルークは悪いオトナを咎めた。…混乱と羞恥のあまりに目尻にうっすらと涙を浮かべている様子が、凶悪な程に可愛らしい。恥じ入る姿をもっと見てみたいと思うのは、溺れている証拠なのだろうか。
「…泣かないで下さい。苛めたいわけではないんです」
朱色に染まる目許に優しく口唇を落とすと、益々赤味が増して、逆効果だったかと苦笑する美貌の軍属は、翻弄されるばかりの赤毛の目にはどのように映っているのか。
「……してさしあげますから、力を抜いて下さいね?」
それはまるで悪魔の囁き、抗い難き、禁断の果実への誘惑。
「ジェッ、ジェイドッ…。だ、ダ、…」
――メだと、続けようとした言葉は、熱に浮かされる甘い緋色に射抜かれた時点で、力を失った。
「…どうされました?」
軍事大国であるマルクト帝国軍から支給される群青の軍服を着込む褐色の肌の青年は、飛晃艦アルビオールの少々手狭な食堂で、ぐったりとテーブルにうつ伏せる赤毛の姿に、面食らった様子で声を掛けた。
「…ほうっておいてくれ」
「と、おっしゃられましても」
どんよりと背中に澱んだ空気を漂わせる姿は、尋常な落ち込みようでは無い。携帯用の粉末珈琲をお湯で戻して、たっぷりのミルクを落とし込み、ルークの前にそっと差し出す。そして、自分用のミルク無しの珈琲に口をつけながら、ずっしりとへこむお子様の正面に腰を下ろした。
「本当は、豆からキチンと挽いたものをお出ししたいのですけど」
申し訳なさそうに眉を下げる褐色の肌も美麗なマルクト帝国の将軍へ、アニスはツインテールを揺らしながら、事も無げに言い捨てる。
「そんなの気にしなくていいですよぅ〜、フリングス将軍☆
ずーっとこの調子でうっとおしいったらないです。構うだけ、時間の無駄でーぇっす」
朝食として用意されたサンドウィッチに齧り付きながら、本日も色々な意味で絶好調な神託の盾(オラクル)騎士団の人形士は、失意に項垂れる仲間の様など微塵も意にも介さぬ様子だ。
「…タトリン殿、他の皆様は?」
「えぇっとぉ、ナタリアは夜の見張りだったから、もう休んでますぅ。ティアは甲板で、大佐は多分ブリッジだと思いまーす。なんでも、情報収集の為に一度グランコクマへ戻るらしいですよー? ついでに、少将を貸してもらったお礼を陛下に言いに行くそうですよ。あ、私の事はアニスって呼んでくださーい」
「…では、私の事もアスランとお呼び下さい。アニス殿」
「きゃは☆ アニス殿なんて、もー、他人行儀なんだからぁ。アニスでいいですよー、仲間なんだし」
「……しかし、女性のファーストネームを軽々しく呼び捨てるのは…」
「きゃぁーん! 将軍って礼儀正しいんですね。アニスちゃん、感激でぇ〜すッ!」
とうの昔にドス黒い正体が知れているというのに、相も変わらずのアニスの媚び媚び玉の輿狙い撃ちモードに、ルークはどん底にありながらも、呆れ声で横槍を入れる。
「……いちおー、言っとくけどさ。もう、猫被っても、ムダだと思うぞ。本性バレてるし」
「…やっだーぁ、何の事ですかー? ルークさまぁー?」
きゃ、と両手を頬に添え、ワザとらしく黄色い声を上げてみせるアニスの――…、その瞳は決して笑ってはいなかった。『黙れ』と無言の圧力を掛けられて、ビシッと石化する齢七歳のお子様に、フリングスは穏やかに微笑んで、そっと癖の強い赤毛を撫でつけた。
「寝癖がついたままですよ、ルーク。
食事を終えましたら一度部屋へ戻りませんか。整えさせてください」
「えぇ? いやっ、いいよ。自分でするからっ」
他人に傅かれるのに慣れる王位継承者の青年とって、世話を焼かれる事自体に抵抗が無かった。しかし、この数ヶ月の旅の中で世界を知るうちに『他人に面倒を見てもらう』=『未熟』の図式がすっかり出来上がっており、男の沽券に関わる由々しき問題だと慌てて申し出を断る。
「後ろですから、自分では難しいですよ。遠慮なさらずに、ね?」
「やってくれるって言ってるんだから、素直にお願いすればいいじゃん。
ルークってば、こーどもー」
「……アニスッ…!」
「はい、じゃあアニスちゃんは御馳走さまー、っと。
将軍、ルークの世話を焼き終わったらブリッジへ顔を出して下さいね?」
「承知致しました」
実年齢や中身は兎も角、外見的には自分よりも余程『コドモ』なアニスに茶化されて、何事か反論しかける赤毛を華麗にスルーして、ツインテールが愛らしい人形士は向日葵のイラストが施されたマグカップのミルクを一気に飲み干すと、玉の輿用の可憐な笑顔をフリングスへ振り撒いてその場を立ち去ったのだった。
乗組員が少ない事もあり――、一人一部屋を宛がわれる飛晃戦アルビオールでは、プライベートは完璧に確保されていた。これが町の宿であれば就寝中の襲撃へ備え男女でそれぞれひとつの部屋を借りる事が多い。また、止む無く野宿と相成った日には、交代の見張り番を置いて残りは雑魚寝になる。偶発的な事故による旅の始めを思い起こせば、随分と楽になったものだ。そして、あの時からは酷く遠い、掛け離れた場所まで来たと、思考は取り留めも無い。
「…どうかされましたか? ルーク」
「あ、いや。なんでもない」
「そうですか」
道具が揃っているので都合が良いと、少将の部屋まで連れてこられた王家の青年は、ピンと赤い頭の先から爪先までピンと背筋を伸ばして椅子に掛けていた。緊張に隅々まで強張る様子は、まるで毛並みを整えられる感触に尻尾の先まで張り詰める仔犬の姿そのものだと、キムラスカの象徴である燃えるような赤髪を優しく手懐けるアスランは、忍びやかな笑みを漏らす。
「………? アスラン?」
「なんでもありませんよ。…痛くはありませんか?」
「ん、ヘーキ。アスランってこういうの上手いんだな。意外というか、やっぱりというか…」
『将軍』の肩書からは想像もつかないが、ルークの髪を整える銀髪の軍属の様子は随分と手慣れており、貴婦人にそうするかのような扱いに、そわそわと手持無沙汰になる幼い命の青年。
「…ある程度髪が長ければ癖がつくこともないんですけどね。
この位だと、丁度襟足が跳ねて癖になり易いんじゃないですか。普段はどうされてるんです?」
くすくす、と忍び笑いを洩らされて、全力の子ども扱いにどうにも居心地が悪いルークは、小さく反論してみる。
「…や、別に。普段はそんなに寝癖とかつかねーし。こう見えても、寝相は結構いい方だしさ」
「では、昨夜は寝姿を乱すような事でもされたんですか?」
「………ッ、べっ、べつにっ!!
そ、そーいえば、夕べ俺の部屋に来たよな。アレって何だっ…、た…」
昨夜の事情へ追及の手が伸びる前に逃れようと必死で口にした話題は――、完全に墓穴だった。その事に途中で気付いても、最早後の祭り状態。後悔先に立たず。寝ぐせ直しのワックスを馴染ませる指先がピタリと止まり、そして再び動き出すまでに三秒ほどの空白の時間。
「………」
「大した用件ではありませんよ。
例の話が途中になっていましたから、時間があればと思っただけです」
「…ごめん。」
「謝罪の必要はありませんよ。大佐がいらしてたのなら、仕方ありません」
「………ぁぅ」
家名制度を廃止から、実力・能力主義へ切り替えによって、特に優秀な人材を揃えるマルクト軍でも、年若くしながら『将軍』の地位にある青年に、世間知らずのお子様が必死で主張する空言など通用しない。片っぱしから昨夜の事情を見抜かれていて、情けないやら、気恥しいやら、――申し訳ないやら。居た堪れなさに言い訳も立たず、漏れたのは言葉では無く呻き声だ。
「それで、今朝はどうされたんですか。
まさか大佐と喧嘩でも?」
「……そんなんじゃないけど」
「そうですか? …はい、出来ました。
まだワックスで濡れてますから、寝転がらないで下さいね」
「あ、ありがと…」
恥ずかしげに礼を口にする赤毛の子の髪をさらりと指先で梳きながら、アスランはその項垂れた肩を背中からぽん、と叩いて、解放の合図とする。
「どういたしまして」
カチャカチャと整髪料やら櫛やらの細かな道具を片付ける音を背中にしながら、ルークは自身の手のひらで後頭部を撫でつけてみる。不格好な跳ねは全く感じられず、器用なものだと感心して、肩越しにマルクトの一武将である紳士的な青年を伺った。
「…あのさ、アスラン」
「はい」
「……その、…」
「大佐の事ですよね。遠慮なさらずに、どうぞ?」
パタン、と木製の箱へ一通りの小道具を仕舞いこんで蓋を閉じると、北方に位置するマルクトでは珍しい褐色の肌の持ち主である冠絶の軍属は、穏やかな微笑みを浮かべて、言い淀む言葉の先を促した。話相手にでもなれれば良いと半ば強引に部屋へ連れて来たのだ。質問や相談事は寧ろ歓迎するところだ。無論、繊細な内容だけに無理に聞き出すつもりは無いのだが。
「……う。もうなんか、アスランにはバレバレだよなー…」
「家門だけで少将の地位にあるわけではありませんからね。大佐程ではありませんが、観察眼には自信があります」
――…そうでなくても、ある程度彼らを知る人間であれば、余程の鈍感で無い限りその変化に気付くだろうが、敢えてその辺りの忠言は控えることにするアスランだ。こういった配慮は流石の機転と感嘆せざるを得ない。余計な事を吹き込めば、大佐との関係を意識し過ぎたお子様が暴走してしまうのは、目に見えている。
「…じゃ、あのさ」
「はい」
身体の向きをくるりと反転させ、椅子の背凭れを両腕で掴み、むーっと照れた表情でいる初心なキムラスカ公爵家の子爵へ、アスランは相変わらずの折り目正しさで応じる。
「ジェイドって…、そういう事慣れてるのかな…」
「…? 艶事に慣れているか、という質問ですか?」
「……ん。っていうか、こんな事アスランに訊いても仕方ないよな。…ごめん」
「構いませんよ。…そうですね、慣れの度合いについては存じ上げませんが…、
あまり浮いた話は聞きませんね。陛下との噂は事実無根ですし」
「……その割には…、 その…」
頬を染めあげてバツが悪そうに視線を逸らしながら口籠る赤毛の子の、恋の苦さも愛の重さも抱えない純粋で無垢な想いに、微笑ましさを感じると同時に目許を優しくさせる銀髪の軍属。
「失礼ですが、貴方が慣れていない事で『そう』感じるだけかもしれませんよ」
「……う。そりゃま…、慣れてないけど」
的確過ぎる指摘に、耳を伏せるようにしてたじろぐ毛並みの良い仔犬に、アスランは己の失言を直ぐ様後悔し、率直に詫びる。
「口が過ぎました――、お許しください」
「わ、べ、別にいいんだって! そんなマジに謝られると逆に居心地悪いじゃん!
俺の方こそ、ヘンな質問してホントにゴメン」
「いいえ、お気になさらずに。
こちらこそ、ひとつお尋ねしたい事があるのですが。
…御耳を拝借頂けますか?」
「え? 何々? 内緒話?」
「…そうですね。内密の話です」
実直で堅物といった印象の強い、マルクト帝国が誇る若き少将からの思い掛けない申し出――秘密の共有に、ルークは翡翠の瞳をくるりと瞬かせて、素直に耳を傾ける。聖なる焔の光の代わり身として生を与えられた青年は、全く以て無防備だった。万が一、自分が帝国から子爵暗殺の密命を受けていたのならどうするのだろうかと、その警戒心の無さに呆れと愛しさを感じつつ、胸中で溜息をひとつ。
「実は――…」
そして、大人しく言葉を待つルークの両肩へ己の右腕を回して、ぐ、と身を引き寄せ――それこそ抱き寄せるような格好で――力を籠める。
「…っ、あ、アスラン…?」
不自然な体勢に戸惑うルークを宥めるように、鼻先が触れ合う程の間近で水浅葱の瞳が微笑む。
「……ッ」
思わぬ表情につい抵抗を忘れて見惚れてしまったお子様の、その微熱を孕む耳朶へ口唇を寄せて――…吐息を吹き込むようにして、そっと――…、
「おや、お邪魔でしたか」
「! ジェッ…!!」
低めの声色に多少の不機嫌が籠る、マルクト帝国賢帝ピオニー・ウパラ・マルクト九世が懐刀の唐突な登場に微塵の動揺も見せずに、褐色の肌に銀白の髪が際立つ諸刃――『反逆の騎士』(リヴェル・リッター)は、涼しげな顔で応じて見せる。
「そうですね。丁度、これからが良いとこでしたから」
「あ、ああああ、アスランッ!!? 何言って!!
ちがっ! 違うから!! ぜってー、ちげーからな! ジェイド!!
てーか、アスランッ…! 腕っ、ちょっ…はなしっ……」
予想外の展開に目を回して慌てるルークはどうにかもがいて褐色の腕から逃れようとするが、そこは流石職業軍人――易々と捕縛されるお子様の必死の抵抗など意にも介さずに、話を続ける。
「ご用件はなんでしょうか。大佐」
「…大した用件ではありませんよ。あと小一時間もすればグランコクマへ到着しますから、それまでに支度を終わらせてブリッジへ集合するように伝えにきただけです」
「了解致しました。ご足労頂きまして、大変申し訳ございません。定刻までには伺わせて頂きます」
「………」
「お話がお済みでしたら、ご退室願います。
それとも――、そちらでご覧になりますか? 生憎と、観覧席の用意はございませんが」
挑発的な言い回しに――…、はぁ、と盛大に死霊使いの異名を頂く怜悧な軍属は肩を落とした。
「…アスラン。『それ』を放して下さい。どうせ、陛下の差し金でしょう」
「! ――…お見通しですね。」
「…うわっ!!?」
頑なに閉ざされた檻の中からどうにか脱出を図るべく暴れ続けていた赤毛の子は、唐突な解放の反動で後ろへ仰け反り返る。そのままの勢いで背後の机の角にしたたかに頭を打ちつけ、いっ、てー、と椅子の背凭れを抱え込むようにして蹲ってしまった。
「注意力散漫ですよ。ルーク」
一人で賑やかなお子様に呆れつつ、マルクトが誇る最強の刃は、痛みに呻くキムラスカ王家の子の傍へ近付く。
「…瘤が出来てますから、大丈夫ですよ。
痛むなら冷やした方がいいでしょうね」
「う…〜〜」
「ほら、手をどけなさい。ルーク」
「…うん」
おそるおそる患部を庇うように重ねていた掌を宙へ浮かせば、ひやりと冷えた空気がズキズキと痛む場所を包み込む。それが恋い焦がれて切ないばかりの綺麗な年上の人の譜術によるものだと直ぐに理解して、ルークは心地よさそうに瞳を閉じて優しい感覚に身も心も委ねた。
「それで…、アスラン。陛下はどのような命令を貴方へ?」
「…申し訳ありません。その…、陛下から固く口止めをされておりまして…」
鋭利な美貌を知的に際立たせる譜業眼鏡を、空いている左の中指で押し上げながら詰問するジェイドに、アスランは苦味走った表情で答えを口にするのを渋る。しかし、マルクト帝国が皇帝マルクト・ウパラ・ピオニー九世が懐刀と称えられる歴史に名を残すであろう天才を前にして、黙秘権の行使は通用しない。
「……アスラン。ヘタに庇い立てすれば、貴方も同罪ですよー?」
冷酷冷徹非情にて甘美なる堕落の悪魔――…死霊使いジェイド・カーティスの猫撫で声に、明哲な頭脳と稀なる判断力を有する優秀な将軍は、早々に白旗を振って見せた。大佐が『優しく』見える時ほど、逆らうべきでは無い。その事を誰より――おそらく、幼馴染みの間柄であるマルクトの現皇帝・ピオニー・ウパラ・マルクト九世よりも――理解するだけに、だ。
「…申し訳ありません。
実は、お二人の様子を探るように仰せつかっておりまして…。
――…非常に申し上げ難いのですが、その……、
横恋慕といいますか、間男といいますか…、そういう役割をしてこい、と… 、その……」
偉大なる賢王と謳われる――世界に名高い軍事大国の皇帝からの勅命にしては、酷い有様だ。放埓で破天荒な性質の君主が、さも楽しげに真面目な傍付きへ無茶な命令を下す姿が容易に想像つき、怜悧な美貌の中にも艶めかしい色香を匂い立たせる軍属は盛大な溜息を吐いた。
「…とことんバカですね、あれは」
「陛下なりに大佐の事を心配されて…の事ではないでしょうか…。多分」
最大の被害者であるにも関わらず主の威信を守ろうと弁明を行う少将の忠義ぶりは、健気を通り過ぎて最早憐憫の情すら覚える。
「それはそれは格別のご厚情いたみいります。
グランコクマの到着が楽しみですねー。早速、陛下へ御挨拶へ伺いませんとね」
「…お手柔らかにお願いします」
しかし、如何な忠臣アスラン・フリングスとも言えども、今回は相手が悪過ぎる事もあり、到底庇い切れるものでは無い。自身の不徳が招いた結果であるならば、万民の命の責を担う一国の皇と言えども、相応の業報は受けて然るべきである。
「ええ、殺しはしません」
大気中に存在する音素(フォニム)を無尽蔵に食らう――禁断の術式に染まる彼岸の瞳が、愉しげに三日月の輪郭を描くのに、褐色の肌に銀の髪という稀有な容姿をした職業軍人は背筋が凍りつくのを感じた。――幾ら、明主の願いであったとはいえ、莫迦な真似をしたと後悔するも既に時遅し。おそらくは相応の報いどころではなく、相当の報復が待っているのだろうと近しい未来に苦さを覚えるばかりである。
「…ルーク殿。失礼の数々、誠に申し訳ありませんでした」
ひとまず、唯一この場で即実行へ移せる贖罪としては、影武者として『死』の運命を役割として与えられながらも、それらを覆し力強く生き抜く真っ直ぐな命の子へと、アスランは謝罪の意を以て深々と頭を下げたのだった。
最後までヤってません、ペッティング&チューどまり
朝勃ちしたルークを、口で抜いてあげたりとか
悪いオトナな大佐が大好物です
そんなジェイドですけど、SEX経験は無いと思います
他者との生接触に嫌悪するタイプなので無理なんじゃないかと