金色の羽根、太陽の翼 2
偉大なる始祖ユリアによって提唱された虚構の大地オールドラントを統治する二大国家のうち――…、秘預言へ滅亡を予見され、最後の皇帝として名を連ねるピオニー・ウパラ・マルクト九世は、ペットとして可愛がるブウサギ達の遊び場のひとつ、王宮の裏庭でその光景を目の当たりにして、賢帝と謳われる慧眼を大きく瞬かせていた。
「だーっ!! もう、なんだよお前らはッ!! 離れろっ、しっしっ!!」
「ぶひーっ、ぶひひっ」
「ぷごーっ」
ご機嫌の時にしか聞けない声で鳴きながら、サフィールとルーク、それに最愛のネフリーが『それ』へ鼻を擦り付けるようにして懐いており、サフィールの鼻垂れ気付くと、うわっ、何しやがんだよっ! と、血相を変えて鼻水ブウサギの丸々と肥えた体を持ち上げる――、少年。
腰に一対の剣を携えている事から、二刀流の剣士なのだろう。赤いハイネックのシャツに襟元でヒラヒラと踊る白の飾り布。見かけない顔だが、どう考えても暗殺者の類では無いだろう。闇の住人から、太陽の匂いがするはずがない。――どちらにしろ、不審人物には違いないのだが。
「おーい、そこの少年。俺の可愛いブウサギ達をどーするつもりだー」
少し離れた距離から惚けた調子で呼びかければ、ブウサギ――主にサフィール――と格闘していた活発そうな印象の少年は、勢いよく振り返った。鳶色の瞳が余りに真っ直ぐに射抜いてくるのに、何故かギクリと身が強張るのを感じて、世界を分かつ大国を統治する若き皇帝は本能に従い全身に緊張を漲らせた。
「これ、アンタのペットなのかよ? つーか、ここど――…、うわっ! バッ! 鼻水つけんじゃねぇって言ってるだろ!! アンタ飼い主なんだろ! この丸っこいヤツ等、さっさと引き取ってくれよ!! なんか知らねーけど、さっきから纏わりついてきてっ…」
「ふむ」
「ふむ、じゃねぇって! ああもうっ!!」
ぴんく色にまんまるとした体、つぶらな瞳も愛らしいブウサギ達と戯れる少年から悪意や敵意は感じられないが、臆する気配も無い。お忍び行動が難しくなるという理由から無暗な露出は避けてはいるが、それでも城に従事する者ならば、この『顔』に反応しないはずがない。そうすると、全く外の人間なのだろうか、と首を捻る。しかし、この場所は警備の厳しい場所だ。幾らなんでもこんな子どもに易々と侵入を許すはずがないのだが、と疑問は尽きない、が――…。
「よーしよし、お前たちーそれ位にしよーなー。オヤツの時間だぞー」
ピオニーはブウサギに圧し掛かかられて潰れている剣士らしき少年へザカザカと遠慮無い足取りで近付き、ひょいひょいと慣れた手付きで順番にペットを持ち上げてゆく。そして、それぞれの背中をぽんぽんと軽く叩くと、彼らは一斉に、互いに競うように足を縺れさせピンク色の団子のようにながら、何かを目指して走り去っていった。
「はー、助かったー。って、うわっ、毛だらけじゃん!」
仰向けの姿勢から起き上がり、飾り釦が印象的な真紅の上着や錆色のズボンについたピンク色の毛を防手袋を嵌めた両手でポンポンと払う姿は、見事なまでに『普通の少年』だ。しかし、そうであればある程、違和感は強くなる。
「悪かったな。アイツ等は俺のペットだ。可愛いだろう?」
「可愛いつーか…、て、あれ?」
そこで初めて自分の置かれている状況を察したのか、ふと声の調子を変え、二刀を携えた剣士の少年はキョロキョロと周囲を見渡す。グランコクマはマルクト帝国でも随一の水資源を誇る都であり、王宮庭園は水と緑――そして、眩いばかりの光で溢れている。
「…エート」
「うん?」
「あのさ」
「ほい?」
「俺はロイド。ロイド・アーヴィング。よろしくなっ。アンタは?」
何も疚しい事など無いと、堂々と胸を張り負の感情の一切を持ち合わせない笑顔で名乗りを上げる姿は、最早清々しくすらある。身分を偽るべきかとの警戒は一瞬で見事に吹き飛んだ。これで少年の正体が、実は政敵から送り込まれた暗殺者であったのなら、色々な意味で相当な熟達者だ。
「…ああ、俺はピオニーだ。よろしくな、ロイド」
「よろしく、ピオニー…、さん、かな。
で、あのさ」
「うん?」
「…ここって、一体どこ…」
「…マルクト帝国、水上要塞都市『グランコクマ』だ。ニワトリ頭」
純粋無垢を絵に描いたような呑気な少年剣士の疑問に答えたのは、ひどく消耗した声色の、聡明にて高潔――己を律する信念と正義故に、過ぎた果敢を振るう王家の青年、だった。
オールドラントの勢力は二大国家と謳われる『キムラスカ・ランバルディア王国』『マルクト帝国』そして、両国に属さぬ独立組織として『ローレライ教団』。また教団の権威の下で自治区として運営される町もある。交易都市ケセドニアが、その典型として名高い。
ケセドニアと言えば、元々はキムラスカとマルクト両国の貿易中継地点として商売人達の手で作られた小さな波止場でしか無かったが、船舶技術が高まるにつれて海路の利便性が増し、自然と町は大きく栄えていった。物資の中継地点としての戦略的価値から、当然、キムラスカやマルクトからは属領として下るように幾度も書簡が届けられ、応対に苦慮した時の自治領責任者がローレライ教団へ救いを求めたことにより、自治区として不動の地位を気付いた。
商売の聖地として栄えるケセドニアを擁護し傘下とする事は、教団にとっても財源の意味で非常に魅力的であり。ケセドニアとしても、二大強国へ取り込まれ自治区としての在り方を失い、また常に敵国側の侵略に晒されるであろう恐怖を思えば、両国へ睨みを利かせられる教団へ縋るのが最も有効且つ現実的な手段であった。
またこれらケセドニアの成り立ちへ深く関与した二大大国の内、キムラスカ・ランバルディア王国は伝統と格式を重んじる保守的な国家として名を馳せ、懐古・原理主義の根強さは筋金入りだ。また、膝元に住まう住人の自尊心も一様に高く。自国を唯一国家として尊ぶ気風が強い。
対する、マルクト帝国と言えば――よく言えば前衛的、悪し様に酷すならば建設的に奇抜。それらは確かに現皇帝の執政の賜物ではあるが、元々マルクト帝国は多種多様な民族及び文化が入り混じる土地柄だけに社交的・開放的な国民性が特徴的だ。現皇帝ピオニー・ウパラ・マルクト九世の治世は、正しく、マルクトに住まう全の民を導いていた。
「うあー、やーっと、グランコクマとーちゃーく!!」
元々、身体を動かすのが趣味なところもある活動派なルークにとって、閉塞感のある飛晃艇での移動は窮屈なものらしく、帝都の整備された街路へ足をつけるなり大きく伸びをしてみせた。空を見上げれば見事なまでの快晴。突き抜ける蒼天に赤の髪が気持ちの良いコントラストを描いていた。
「あー、太陽がまぶしい…」
「アニス、大丈夫ですか?」
「はぁーい、アニスちゃんは元気元気ですぅ♪ 心配要りませんよぅ、イオン様ぁ♪」
キムラスカ王家の直系の血を継ぐ赤毛の青年に続けて、綿菓子のような形のツインテールを揺らして低く唸り声を上げる従者を気遣い、心優しきローレライ教団の最高指導者イオンは、少女のように可憐な相貌を曇らせて、様子を窺う。流石は、年若くともそこは導師守護役として抜擢されるだけあり、無様な姿を晒すわけにはゆかないと、何時も通りの笑顔を振りまくアニスだ。
「けれど…、アニス…」
「あー、あー、あー!
だーいじょうぶですってば、イオン様! 心配ご無用でぇーす!
アニスちゃんは、何時でも何処でも、元気100%! なんですから!」
周囲への過ぎた遠慮と慈悲が高じて、最終的に自己否定・自己犠牲へと思考が繋がってしまう、清く正しく『聖職者』たらん導師に、アニスは少々強引に話を被せた。身分や立場を考えれば不敬であると咎められる横柄な態度ではあるが、主従の関係だけに縛られない二人の間では然程問題とされず、そのような二人に口を挟む無粋者もパーティには存在しない。
「そうですか? それならいいんですが…」
「そうそう! こんなにいい天気ですし、塞込んでちゃダメですよぅ! ……って、あれ?」
「そんなところで話し込んでいては迷惑ですよー。アニス」
活動範囲及び移動速度を大幅に広げる手段として多いに活躍する飛晃艇は、帝都グランコクマに対しては海路で港に入港し停泊させるようにしていた。現在、アニスとイオンはアルビオールから伸ばされた足場の上で、言葉を交わしていたのだ。通路は狭く、当然後ろは詰まる。おそらく現パーティの内でも最大火力であろう恐怖の体現『死霊使い』の軽い窘めを受け、導師護衛役の少女は、エヘヘ、とすっかり板についている愛想笑いで応えた。
「あ、なんでもないでーす。ごめんなさーい」
「すみません、ジェイド」
軽やかな足取りで港の地面へと、生まれ育ちの所為なのか、お人好しの両親を反面教師として学んできた結果か、性格に多少の難はあるものの、基本的にアニスは聡明で世渡りの方法を知っている。ジェイド・カーティス大佐の言葉は基本的に全面肯定が得策なのだ。無論、ローレライ教団を統べる導師の大事となれば、また別の話ではあるが。
そう、導師の護衛という大役や仲間達との掛け替えのない時間。それらに比べたら、取るに足らない違和感。空を――掠めた漆黒の靄塊。不安を駆り立てられる暗黒の渦。けれど、それは一瞬の出来事で、再び視線を巡らせてみても、不吉の影など存在していた気配すら無く。つまらない事だと、アニスは切り捨てた。目撃したのが、金色や虹色をした蝶や鳥であったなら、珍品を欲しがる好事家辺りに高く売りつけられそうだが――、黒い塊なんて一銭にもなりやしない。と、如何にもらしい事を考えながら、人形士の少女は護衛の本分を果たすべく、イオンの傍へと走り寄った。
マルクト皇帝の膝下である豊かな水資源と音機関で栄える帝都グランコクマ、皇帝の居城である宮殿の人気の無い廊下を、カッ、カッ、カッ、と小気味良い靴音を響かせながら先を歩く凛とした背中。歩幅の違いの所為で気持ち小走りで追い掛けるのは、キムラスカ・ランバルディア王家の由緒正しき血統を受け継ぐ、紛いモノ。王族の証である赤髪はオリジナルのそれよりも色褪せて、聖なる焔の光たる最大の『力』、第七音素(の素養――『超振動』とて、素体となる人物より能力的に劣っている。が、それら、人の身に過ぎたる力は世界にとって脅威としかなり得無い。人の手で生み出された不完全な器に完全な能力が宿れば、暴走を引き起こすは必至。寧ろ、彼――、ルークにとっては、能力の劣化は理に則った必然であったと言えるだろう。
ただ、気に要らない事があるとすれば、ひとつ。
身長、――差。
能力云々は兎も角、フォミクリー技術で生みだされたレプリカは、本体と全く同じ外見を成す。
完全なる写し身として、体現するのだ。
(……アッシュも、俺と同じくらい…、だよな?
アイツ、なんか俺よりすこーし背が高いんだよな。…シークレットかなぁ…)
六神将軍・鮮血のアッシュ――、神託の盾(騎士団特務師団長として文字通り熾烈な花道を、数え切れぬ程の人間の血で濡らしながら歩んできた騎士たる青年の武装は、意外な程軽装だ。しかし、今ここで特筆すべきは足元を覆っている金属製のロングブーツだ。あの靴底には秘密があるのでは、と疑問を抱くアッシュの完全同位体である青年だ。
(…背、伸びないかなー。くそぅ…、15、センチ、か)
世話係兼護衛役として、十年来の友である四つ違いの金の髪をした青年とて、184センチ。それでも、肩で風を切るようにして颯爽と先を行く人には僅かに届かない。頭も顔も良くて、背も高いなんて卑怯だとルークは不平等な天に逆恨みを抱く。完全無欠のやたら見た目の良い軍人に、唯一欠点があるとすれば極悪非道な性格か。それすらも、ジェイド・カーティスという人物の人となりを知れば愛おしく思えるから、お手上げだ。何一つ、彼に胸を張れるものがない。
(……そもそも、俺…は、"ひと"ですら ――… )
古代イスパイア言で『聖なる焔の光』を示す『ルーク』の名すら、自身のものではない。赦されている幸福に甘えて良いものか。このまま、彼の隣にいてもいいのか。常に自問自答を繰り返すのは、存在している事にすら罪悪感を覚えるから。最も尊愛する師の手により生みだされた疑似生命体。創造主の望みは『オリジナルの代用品として預言に縛られた生涯を全うする事』だった。アクゼリュスの崩落と共に廃棄するはずだった出来そこないの人形が、何時までも目の前をチョロチョロと、遂には己の野望の妨げとなるような動きを見せるとあっては、さぞや目障りな事だろう。
「…ルーク」
「――…、え、あ、」
心地良い低音に囁くように名を呼ばれ、ルークは己の視線が足元にある事を自覚した。付け加えるならば、マルクト軍の正装の一部である青のロングブーツは、踵では無く、爪先が視界に映り込む。つまり、目の前の――…戦の庭にて敵味方構わず亡骸を漁る姿から死霊使い(の戦名を冠する戦慄の美貌を誇る軍属――は、何時の間にか此方に向き直っているという事実を示唆しており、
(……やばッ…)
旅の仲間には散々迷惑を掛け通しだ。特に、年長者の立場から実質パーティの責を負うマルクト帝国の軍属である人物――ジェイド・カーティス大佐には全く頭が上がらない。せめて、少しでも負担にならないようにと、なるべく落ち込む姿を見せないように気を張っているのだが、少し油断するとこうだ。無論、相手が聡過ぎるというものあるのだろうが――自責の念に囚われつつも、ルークは無理やり顔を上げて、謝罪の言葉を――…、
「…ごめッ…―――、っ 、 ! !?」
言い掛けたのだが、降って湧いた幸運に語尾を浚われてしまった。
ひょい、と屈み込む姿勢で重ねられた口唇。
想像通りに冷たい――、けれども存外柔らかな。
焦点も合わない程の距離で、ふわりと鼻腔を擽るオーデトワレの仄かな芳香に、クラクラする。
「………」
突然過ぎる接吻は、その訪れと同様に、不意に打ち切られた。
「……じぇ、 …いど?」
互いの口唇の表面を合わせるだけの、全く子ども騙しな、しかし七歳児には過分に刺激的。
全身を火照らせて、左の掌で先程までの感触を確かめるように、己の口元を覆いながら、途方に暮れて潤んだ翡翠の双眸を、悪戯なオトナへ向けた。意識しているわけではないのだろが、上目遣いが凶悪に可愛らしい。まるで、飼い主の意地悪にひゃんひゃんと甘え声で威嚇行為をする犬の仔のようだ。赤い頭に垂れた耳が生えていないのが不思議な程。
「…どうしました? ルーク」
我が身の醜悪から余りにも掛け離れた、実に愛らしい生き物を弄りながら、終焉の美貌を誇る悪魔は瓢々とした態度でシラを切ってみせた。
「どっ…、なっ、いっ、いまッ……!」
「おやおや、顔が真ッ赤ですよー? 熱でもあるんですか?」
「――…ッ!」
何を白々しい、と胡散臭い笑顔でいる三十五歳を、齢七つの子どもはキッと睨みつけての、精一杯の反抗の姿勢。しかし、誠に残念ながら完全に腰が引けている。尻尾が生えていたなら、くるんと丸められて後ろ脚の間に仕舞い込まれているに違いない。
「…そんな顔をして、ご褒美が足りませんでしたか?」
「へ…?」
にっこり、完璧なまでの営業スマイル。元の造作が良いだけに、酷く様になっている。儀礼用の薄っぺらな笑顔と理解っていても、綺麗なのだから見惚れてしまう。本当にタチが悪い。好きで、好きで、好きで、好きで仕方がないのに、翻弄されてばかり。
そう、今、この瞬間ですら――…、
「……ッむ、ぅ ッ 」
年上美人の絶世の美貌を前に、覚えた悔しさも何処へやら、呆けて魅入っていたルークは、ビクリと肩を揺らした。二度目の接触。けれど今度は先程よりもずっと容赦無い。割入ってくる他者の存在。ぬめる感触は、明確な意思で以て優しく蜜事に不慣れな子の口腔を蹂躙した。歯列を割り、口蓋を擽って、喉の奥へと逃げ込もうとするものを宥めるように舐めて、頬肉の手前を可愛がりながら通り過ぎる、幾度か繰り返されるオトナの悪戯。互いの境界すら融けてゆきそうな接吻を前に、合間の息継ぎすら覚束ないコドモは、
「……っ、ふ、…まッ……、」
「――…駄目だ」
当然、腰砕け。囁き、吐息、耳朶を甘噛みしながらの、無体な追い打ち。
「……ジェッ、じぇ…、 いど ……、 ンむっ」
何時の間にか、壁際へ追い詰められてしまって逃げ場もない。抵抗を封じるかのように、両手は顔の直ぐ横にそれぞれ縫い止められて。無論、純粋な力比べならば、槍術にも長けるとは言え、譜術士(としての姿が本分である死霊使いに負ける事など考えられない。
成長期の若者特有のしなやかな筋肉で覆われている為、前衛剣士としては華奢な体格ではあるが、ルークとて一端の剣の使い手だ。それも、王侯貴族の遊戯同然の真似事などではなく、数多の激戦を潜り抜けてきた。夥しい血の匂い、裂ける肉の感触、命の重みを受け止めてきた、それ。なのに、今は、こんなか細い術士の腕すら振り解く事も出来ない――なんて、ぐるぐる。熱くなる。
「……ふ、 ぅ 」
ペロ、とどちらのものとも知れぬ唾液で淫らに濡れる、悩ましく熟した赤毛の子の口唇を舌先でひと舐めし、官能的な時間の終わりを告げる合図として、ジェイドはふ、と目許を蕩けさせた。
「…満足しましたか?」
「―――…、」
ルークは答えない。いや、答えられるはずもない。
拘束から解放されると同時に、崩れた。
もう、抗議の声をあげることすら出来ない。
今なら、頭の上で茶が沸かせる。瞬間沸騰。妙な確信。
「…じぇいど…」
「はい?」
「……… 」
「…おや」
「………」
「…若さですかねぇ」
「……元凶のくせに…」
涙目に半泣きの声、流石に構い過ぎたかと、ジェイドは譜眼の制御装置でもあるトレードマークの眼鏡をすいと押し上げ、小さく苦笑い。これ以上苛めては本気で泣き出してしまうかもしれない。愛情の表現方法が常識の範囲を逸脱する為、手加減具合が難しい処。
「おや、それは失礼。なら、責任を取りましょうか?」
「…責任?」
「ええ。――、口でして差し上げられれば良いのですが、この後陛下への謁見がありますからね。手で、宜しいですか?」
「………?」
艶麗で意地悪な年上の軍属の謎かけは、色恋に幼いルークには少々荷が勝ち過ぎて、至極難解。稀代の死霊使いからの魅力的な誘い文句も意図が読み取れぬとあっては――、仕掛け人としては肩透かしも良いところだ。無論、そんな赤毛の子の鈍感さ具合も愛らしく感じられるのだから、ジェイド・カーティスともあろう者が、相当――、だ。
「ジェイド…? その、手で、って…?」
「ふっ…、く、くくっ…」
困惑のあまりに見開かれた大きな翡翠の瞳が、今にも零れ落ちそうな勢いだ。十七歳に相応しいのびやかな肢体に、七歳に相応の拙い性知識。無垢な白雪を汚す悦びとでも言おうか、『コレ』を好みに育てあげるというのもある意味一興だ。しかし、なかなか手強そうだとジェイドは小さく吹き出してしまった。
「ンなっ! なんだよ、ジェイド!」
「いいえ…、かなり直接的に伝えたつもりなんですが、それでも通じないとは。
いやはや、御見それしました」
これはもう、明らかに、疑いようも無く、馬鹿にされている。
性格に多少の難があるとはいえ、頭脳明晰、眉目秀麗、冷静沈着、といった言葉の数々で讃嘆される凄い人に、追い付こうと必死で頑張って、無理な背伸びをしてみても、この有様だ。どうしたら、この綺麗な生き物の近くに行けるのだろうかと。悔しくて、泣きっ面を顰めて小さく唸るのは、世界に生きる誰よりも貪欲で、脅える手を、震える指先を、応えるモノも無い虚空へ求めてばかりの寂しがりなレプリカ・ドール。
「……じぇーどのばか。へんたい。きすま」
「おやおや。バカと変態の汚名は謹んで返上させて頂きたいですね」
「…キス魔はいいのかよ」
「ええ、それは構いませんよ? 但し――…」
「!」
常夜の淵に咲き誇る彼岸の華のように、艶やかな緋の双眸が実に愉しげに閃いたかと思うと、性質の悪い年上美人な軍属は、触れるだけの接吻を再び子どもへ与えた。
「特定の人物にだけ、ですけどね?」
「〜〜〜ッ!」
老猾な死霊使い(に、十八歳――正確には二十八歳――も年の離れた若人は、いいように翻弄されてばかりだ。無論、そういう人物だと承知して惚れたのだが、そこはルークとて一端の成人男子としての意地がある。
「ッ、ジェ、ジェイドッ! もー、いい加減にッ……、」
収まりつつある熱を煽るように不意打ちのイタズラを繰り返すタチの悪い年上を窘めるべく、聖なる焔の光の名を冠する赤毛の青年は、今までに無い毅然とした面持ちで声を上げたのだが――、
―― コホン
「!?」
ひどく遠慮がちな咳払いに、ルークは飛び上がる程驚いて、慌てて周囲を見渡した。少し先の角に見える軍靴の爪先。凛とした立ち姿。先祖返りの影響で色濃い褐色の肌に、雪の結晶のように繊細な輝きの銀糸の髪、その特徴的な端正な容姿から、多くの者の目を浚う美丈夫――アスラン・フリングス少将その人が、困り果てた様子で廊下の角から姿を現した。
「…そろそろ宜しいでしょうか? 陛下がお呼びなのですが…」
「あっ、あっ、アスランッ……! い、いつから……!?」
「……申し上げても?」
含羞(と困惑が入り混じる弱り切った声音に、ルークは思い切り頭を左右に振った。羞恥で理性が焼き切れそうだ。アルビオールで帝都へ入港するなり、アスランはルーク一行から別行動を申し出ていたのだ。パーティの貴重な前衛戦力であるガイの一時離脱に対する仮措置として迎えられたフリングス将軍の仕えるは、やはり『マルクト帝国』であり、国と民を治める『現皇帝陛下』であるからだ。早速と、陛下への報告義務を果たして、皇帝の懐刀であるカーティス大佐を迎えに来たところを、こんな場面に出くわした、といった処か。おそらく、ほぼ事の最初から目撃されていたと見て間違いないだろう。
「覗き見とはよい趣味をお持ちですね。フリングス将軍?」
「…私がいることなどお見通しでしたでしょうに。…意趣返しのつもりなら、勘弁して下さい」
マルクト軍でも屈指とされる名門軍家の出身で、更に肩書だけでは無い能力の高さから異例の若さで将軍の地位にまで上り詰めている、軍属には似つかわしくない優し気な風貌をした青年は、降伏の白旗をあげてみせる。幼き頃より軍属としての英才教育を叩きこまれただけあり、鋼鉄の精神力を誇るが、それでも――…マルクト軍が誇る第三師団師団長の笑顔は心臓に悪いのだ。
「おやおや。意趣返しなど、人聞きの悪い。
これでも貴方の事は結構気に入っているんですよ?」
「…光栄ですよ、カーティス大佐」
「信用がありませんねぇ」
大袈裟に肩を竦めて悲しむ一連の芝居掛かった所作に苦笑を浮かべ、アスランは色々は次々と重なる衝撃的出来事にすっかり打ちひしがれ、ぐったりと床にへたり込むキムラスカ王家の写し身に気の毒そうな視線を送り、傍へと膝を折った。
「…その、大丈夫ですか? ルーク」
「……大丈夫じゃない…」
「そうです、よね」
真赤な顔でフルフルと小刻みに震える小動物――もとい、聖なる焔の光として望まれた青年に、実直と誠実が服を着て歩くマルクト軍の二重の意味での良心的存在は、申し訳ない、と頭(を垂れた。
「あ、ガイさん。どうですか、神子さんの調子は」
アルビオール一号機の専属飛行士は、背後に感じた気配に、操縦の手を休めずに尋ねた。口調は至って気さく。六神将『鮮血のアッシュ』に雇われ世界中を飛び回る彼は、朝露に濡れ咲く水仙を連想させる清楚な銀髪をしており、穏やかな人当たりと、優しげな風貌をした腕利き操縦士だ。
――件の暴れん坊将軍なアッシュと四六時中共に過ごしているだけあり、性格の良さは折り紙つきだ。
「ああ、やっと落ち着いたみたいで。ようやく眠ったみたいだ」
「そうですか、良かったー。真っ青な顔してましたもんね、あの人。
ええと、何て名前でしたっけ?」
「…ゼロスだよ。ゼロス・ワイルダー。
テセアラの神子――とか言ってたけど、テセアラなんて土地を知ってるかい?」
「テセアラ…、ですよね。うーん…」
飛行中ということもあり、大量の計器の類から目を離さずに考え込むギンジに、ガイ――柔らかな金髪に甘いマスクいった、まるで夢物語の白馬の王子の如く気障な容姿の剣士は、ギンジの座る操縦席の背凭れへ腕を掛け、特等席からの大空の眺望を視界で楽しみながら、短く頷く。
「ああ。俺は聞き覚えが無いんだが…」
「そうですね…、僕も知りません。
それに神子というのも引っ掛かりますよね」
濁す言葉の先を汲み取って、ガイは同意だとばかりに唸った。
「そーだよなぁ。ローレライ教団が与える預言(の影響は絶大だ。それこそ、新興宗教なんて発展する隙も無い位に、な。名目上、特にローレライ教団以外の…、ちょっとした土地神信仰なんかも辺境にはあるにはあるが、あくまで人々の基盤は教団だ。神子、なんて考えられないよなぁ…」
「そうですよね。信仰心の欠片も無いシェリダンでさえ預言に依存する節はありますからね」
「そっか。あ、それじゃ、エクスフィアってのは? 聞いたことはあるかい? 何か、新しい譜業技術とか、そういうので何か思い当たらないかな」
「……エクスフィア…、ですか」
足元のペダルでエンジン出力の微調整を行いつつ、ギンジは頭を捻った。ついでに、頭上に幾つも並んでいる空調スイッチを手慣れた様子で指先でオンに切り替えてゆく。ノエルの操縦技術も大したものだと感心させるが、素人目にもギンジの技術が彼女よりも上だと分かる。流石、ノエルが目標とするだけはあると、見事な手捌きに感動すら覚える譜業好きの青年だ。
「…僕も全ての譜業技術へ精通しているわけではありませんから、絶対に無いとは言い切れませんけど、聞いたこともないですね。…確か、人体へ装着することで身体能力を強化する――でしたよね。その『エクスフィア』というのは」
「ああ、そう言っていた。詳しい事までは知らないけどな」
「そういった類の技術なら、私よりカーティス大佐の方がお詳しいと思いますよ。職人の街とは言いますけど、シェリダンの技術はあくまで譜業――、つまり無機質相手なんです。人体を対象とした技術は人道的な問題もありますし、国家の後ろ立てが無ければ開発や研究は非常に困難ですから」
「……そうか」
――…確かに、とガイは納得して言葉を呑んだ。
マルクト帝国の先代皇帝が提唱していた人工超振動の研究や、死霊使い(が目指したレプリカによる死者蘇生――研究機関として目指したのは人造兵器開発であるが。それらは全て『国』という強力な権力の下で行われた禍(つ行いだった。
「兎に角、グランコクマを目指しましょう。彼の事も勿論ですが、セフィラルに集まっていた音素(が暴発した件についても相談した方がいいと思いますし――…」
「…ああ。それに、アッシュの事も心配だしな」
「ええ。…プラネットストームへ巻き込まれるような事を言っていたのですが…」
「……そう、か…。アイツの事だから無事だとは思うんだが、やっぱり心配だな」
――あれから。
オールドラントに千年の繁栄を約束する、預言に謳われた王家の子に似た髪の色の、自らを『神子』と名乗った青年は『何か』にひどく狼狽えた――と言っても、暴れたり泣き叫んだりするような事は無く、ただ、顔色を失くし酷く恐ろしいものを目撃したように全身を強張らせて、指先で縋った。
先刻までの、人を食ったような瓢々とした態度は成りを潜め、ただひたすらに脅えた様子で――、ある一点を見つめていた。何もないはずの虚空を凝視し続ける姿は尋常では無く、天性の面倒見の良さもあるのだろう、剥き出しの肩ごと胸に抱き締めて温もりを分け与えるようにした――刹那に、目を眩ます程の光の洪水。おそらくは、セフィラルの暴走。人の形をした得体の知れない影は全て薙ぎ払われた。いや、取り込まれた、といった方が正しいのかもしれない。
負の情念を抱えた黒い霧が光の暴走によって一掃されると、見計らったかのようにギンジからの通信が入り、危険なので直ぐに帰還するようにとの指示。無論、奥地へ進んだもう一人の赤毛を案じたが、その彼から離脱命令であった事と、周囲を取り巻く空気が緊張を孕んで膨れ上がる気配を察知して、避難が最善だと判断した次第だ。
「その事なんですが、ガイさん」
「ん?」
「僕の勘違いかもしれないんですけど、アッシュさんの他にも誰かいたみたいなんですよね」
「…え、あんな場所にか?」
「うーん。そうですよね…」
ただでさえ人類未踏の絶壁の地。飛行石を搭載するアルビオールのような移動手段が無ければ、近付く事すら困難な場所だ。更に言えば、音素が収束し渦巻く土地には相応の瘴気も集まっている可能性が高い。惑星の中心の振動を抑え魔界(として畏れられてきた大地の液状化問題を解消したまでは良いが、オールドラントにはまだ数多の問題が存在していた。そのひとつが、旧大地を覆っていた自然や生物にとって毒となる瘴気。現在はひとまず外郭大地と固形化した古の地表の間に挟み込んで閉じ籠めている状態だが、大地のフォンスロットとでも言うべきセフィロトやそれらの規模を小さくさせたセフィラルなどにはそれらが漏れ出てくる事が充分に想定される。そんな場所へ、唯の人間が踏み込めるはずがないのだ。
「…考えられるとすれば、六神将の連中かな。アイツ等にはディストがいるし」
腐っても鯛。悲しい程のお馬鹿でも天才と謳われた人物。自称・薔薇のディストと名乗る六神将は、あれでも一応、マルクト帝国の歩く最終兵器とすら囁かれる人物と肩を並べていた研究者だ。天才の何に恥じない理論や研究の発表もさることながら、それらを実証すべき画期的な発明も数多い。『発明』という一点においては、帝国が誇る死霊使い(すら凌駕する――、のだが。残念ながらアレは誰もが認めるざるを得ない程の、れっきとした、見事なまでの『変人』…いや『変態』だった。あの珍妙な性癖さえ無ければ、と誰もが肩を落として嘆くところであるが、彼と近しい仲である幼馴染達の弁からすれば『変態』じゃないディストなど、穴の開いてない竹輪のようなものだ、との事だ。――平凡な人間には、なかなか到達困難な感性である。
「でも、争っているような感じじゃなかったですよ。
通信が雑音だらけだったんで、自信が無いんですけど――…、なんかこう…、」
「なんかこう?」
歯切れ悪く言葉を濁すギンジに、ガイは鸚鵡返しで先を促した。
「…うーん」
アッシュさんには言わないで下さいね、とチラリと横目で金髪の伊達男を窺ってから、ギンジは云い難そうに感じたままを口にする。
「ちょっと違うと思うんですけど…。安心してるっていうか、気を抜いてるっていうか…?
あ、ホントに内緒ですからね。本人に聞かれたら照れ隠しに斬り付けられますもん」
「………」
「…ガイさん?」
人の好い銀髪の操縦士が漏らした思わぬ単語に、ガイは素で数秒言葉を失った。
安心していた、とか。気を許している感じ、だとか。その辺りはまだ理解可能な内容だ。ヴァン・グランツ揺将に膝を折る六神将は、各々が自身の信念や思惑に則って行動している。決して盲目的な崇拝に溺れているわけではないのだ。万が一、傍にいたのが六神将であったとしても同じく離反している可能性もあり、ならば共犯者としての一種の疑似信頼関係が成立したとしても不思議では無い。だから、問題なのはそこでは無く、それよりも。
「……照れ隠し、…?」
「ですよー。アッシュさんって凄く頭がいいんですけど、子どもみたいなとこありますもん。図星突かれるとどうしていいかわかんなくなって、わーってなるんですよね。六神将の『鮮血のアッシュ』と言えば情け容赦無い鬼人のような人だって話でしたから、物凄い厳つい般若みたいな殺人鬼を想像してたんですけど、噂と全然違いますよね。真っ直ぐに不器用で、吃驚する位に照れ屋だし、横暴なとこもありますけど優しくて。本人に自覚は無いと思うんですけど、こー、ふわーっと甘えてこられたりすると、なんか手の掛かる大きな弟が出来たみたいで可愛いなーって」
クスクス、と忍びやに微笑む姿は心の底から楽しそうで、ガイは先程とは違う意味で言葉を失った。後頭部を鈍器で殴り付けられたような重苦しい衝撃に、二、三歩後ろへよろめく。無論、そんなマルクト皇帝のお気に入りの傍付き剣士の変化に気付く由も無いギンジは、そのまま何気ない様子で世間話の続きとばかりに――微かに声を潜ませ、紡ぐのは、痛み。
「…多分、僕が預言(だとか、国同士の確執だとか、教団だとか、戦争とか――。
そんなものから余り関係の無いところに居るから…だとは思うんですけどね。
……時々、本当に時々ですけど。年相応の表情とか、本音とか、見られるんですよね」
「………」
チリチリ、胸の奥が灼熱で炙られるような、焦燥感。
二十一年間の生の中で一度も覚えの無い剥き出しの感情――おそらくは、嫉妬、と呼ばれる。
「…ギン、――」
「で、」
無意識に何事かを云い掛けたガイの言葉を遮るように、カチカチカチッ、と勢い良く天井の切り替えスイッチを連続してオンに、更に別の位置に在るつまみはそれぞれ慎重に指先で具合を確かめて、調整を行うギンジ。絶妙なタイミングに、作為か天然かとと訝しむが、大空の蒼さに魅せられ鋼鉄の翼で空中を駆るエア・ジャンキーである事を踏まえれば恐らく後者だろう。
「ガイさんの事もよく話題に出るんですけど。…聞きますか?」
「え?」
思わず操縦席に噛み付くように寄り掛かる金髪の駿足の持ち主へ、ギンジは想像以上の喰いつきに両肩を笑いで震わせながら、ガイにとっては福音とも言うべき最大のヒントを、告白をした。
「オウ、来たか。ジェイド。それに、ルーク」
オールドラントに於ける二大国家、世界の東方を担うマルクト帝国を統治する賢帝ピオニー・ウパラ・マルクト九世は、悠然とした態度で自らの懐刀として重用する死霊使いジェイド・カーティスを迎えた。机上に散らばる書類に頓着せずデスクへ腰を落とし、彼にしては珍しく考え込む様子で表情を硬くしていたのだが、気心の知れた幼馴染みの登場に相好を崩して見せた。
「………」
「し、失礼します」
苦手意識が先立つマルクトの皇帝に対し、ルークは歯切れ悪い挨拶をして部屋へと足を進めた。しかし、今この場所で誰よりもピオニーと親しいはずのジェイドは、無言。どうかしたのかと横目で窺えば――燃え盛っていた。それはもう、色々と。物凄い勢いで。
「ジェ…、ジェイ、ド??」
思わず後ずさるルークには構わず、マルクト帝国最強最悪の生きた最終兵器として君臨する美しい軍属は、うっとりと、いっそ優しげに口元を歪めて魅せた。途端に部屋の空気が凍て付く。体感温度が確実に二、三度は下がった。半袖へそ出しスタイルの赤毛の子は、肌を刺す冷気に思わず首を竦めて身体を縮こまらせた。
「お、オイ? ジェイド? な、なに。どーしたんだ、オマエ…」
最早殺意に近い絶対零度の炎の対象は誰に目にも明らかで、案内役を果たしたフリングス将軍は極小さく退室の挨拶を行うと、触らぬ神に祟り無しとばかりにそそくさと立ち去った。長年、彼らの傍にあるだけあり流石に心得ている。この辺りの抜け目の無さも軍で頭角を現すのに必要な素養なのだろう。完全に事態に置き去りにされる青年は、取り合えず、扉側の壁へ張り付くようにじりじりと避難した。実年齢七歳を思えばなかなかに賢明な判断だと感心させられるところだ。
「…おや。全く心当たりが無いとでも?」
「そ、え、う…」
こうなっては如何な軍事帝国の皇帝と言えども、蛇に睨まれた蛙だ。恐怖で引き攣った笑顔に脂汗を浮かべて、何か良い逃げ口上は無いものかと必死に考えを巡らせる。頭脳戦や舌戦でジェイドへ敵うはずも無い。しかしこのまま手痛い制裁を受けるのも勘弁願いたい。そうして思い付いた作戦は、幾ら追い詰められているとはいえ、なかなかに情けない内容だった。
「……、ジェ、ジェイド。お、落ち着けー、落ち着いてくれー。頼むから。な?
今この部屋で暴れたら、今日提出の書類が被害にあうぞー。ほーらほらー」
尻の下に敷いていた一枚を抜き出して、これ見よがしにヒラヒラと振って見せる様子に、最早、歴史に名を刻む賢帝としての威厳も風格も見事に吹き飛んでしまっている。しかし、こうでもしなければ地獄行きは確定とばかりに悪魔の笑顔が物語る。慄然たる恐怖へ晒されるピオニー本人は至って真剣だ。正に命懸けとも言うべき水面下の死闘に、ルークは本能で危険を察知し、扉近くの壁から更に部屋の隅へと安全地帯を求めてそーっと移動した。
「…陛下」
「お、おう」
重要書類と思われる数枚のそれを油断無く盾にしながら、ピオニーは上擦った声で返事をした。
「その手にある青百合の紋章の書類――…、確か期日は先週でしたね?」
「…そ、そうだったか? お前の勘違いだろう」
すっとぼけて目を逸らすピオニーに、ジェイドは猫撫で声で追撃を加える。
「足元へ投げだされているのは、家紋からして……グリフォス伯爵の書状ですね。確か、そちらは急を要する内容だと聞いておりましたが。何故、まだそこにあるんですか?」
「…こ、これは口頭で返事をしてるから、大丈夫だぞっ…! 忘れてるわけじゃないぞ、断じて違うからなッ!!」
「それに陛下の御座に敷かれていらっしゃるのは研究所からの報告書ではありませんか? 随分と放置されているように見えますが、可能な限り私に連絡を頂けるようにお願いしてあったはずですよねぇ……?」
「……こ、これは、まだ届いて三日位しか…、だぞ。そんなに放置してたわけじゃない…ぞー」
「…おや。三日『しか』ですか?」
にーっこりと、正しく悪魔の笑顔(とも言うべき嫣然たる妖華の微笑みに、物知らずの一兵卒ならば見惚れるだけだろうが――…死刑宣告に等しきそれに、ピオニーは言うまでも無く、第三者であるはずのルークまでもが顔色を失くした。
「…天光満つる処我はあり、黄泉の門開く処に汝あり――…」
「っどっわぁああああ! ばっ!! ジェイド、おま、それ、ストップ!! 死ぬ!! 絶対死ぬ!!無理!! 無理無理無理無理!!! 俺が悪かった!!!」
「安心なさい。殺さない程度に痛めつけるのは大得意です」
「いやいやいやいや、恐いから! サラッと言ってのける内容じゃないって!! マジで!!
てか、その技で手加減とか不可能だっての!!
ほ、ほら、しょ、書類が燃えちゃうぞー。な? なっ? や、やめとこう?」
「お話を窺わせて頂いている間に、勝手ながら室内にはマーキングを施しました。
少しくらい暴れても何の支障もありませんから、心配ご無用です。…陛下以外には、ですが」
「ちょ! ついでに俺のマーキング外しただろ!? 鬼ッ! 悪魔!! ひとでなしー!!」
本気で涙目になり掛ける君主の姿に、酷く満足そうに酷薄な笑みを浮かべる見目麗しき軍属の体内で、高純度の音素(が見る間に密度を上げてゆく。
「出でよ、神の雷(…ッ」
人の器の中に限界にまで集束させた音素を一気に解き放つ――おそらく、暗黒雷撃系の譜術では威力範囲共に人類史上初最強の対人用攻撃譜術。死霊使いジェイドの真骨頂とも言うべき黄泉の冥力(を現世へ具現する秘奥儀だ。全力で呪い詠(えば水上都市グランコクマが丸々地上から消滅する破滅の刃――美しい指先から奏でられる死の旋律。
「…インディグネッ……」
「ジェイド!!」
「ッ!?」
ガキンッ!!
突如の襲撃者を前に、その場に居合わせた全員が驚きに目を丸くさせる中、赤毛の剣士は大切な想い人を背に、反射的に引き抜き返す刃で迫る双剣を受け切っていた。
「…なんかわかんねーけど、一宿一飯の恩! 恩義を踏み躙ったとあっちゃあ、ドワーフの誓いが地に落ちる!! ってわけで、微力で助太刀するゼ!!」
澄み切った鳶色の瞳と髪、凛々しくありながらも憎めない愛嬌を横顔に残す、二刀を自在に扱う少年が物陰から急に飛び出してきたかと思えば、マルクト皇帝の懐刀と称される人物へ斬り掛かったのだから、事態は思わぬ方向へ急展開だ。
「あのな、微力って…。全力で助太刀してくれないのか、ロイド?」
「だって、アンタが悪いっぽいじゃん。なんていうんだっけ? 事業自得?」
「それ言うなら、自業自得だっつーの」
「一体、これはどういう事ですか。陛下」
「それを説明する為に呼んだのに、お前がイキナリ怒りだしたんだろー?」
「誰の所為だとお思いですか…?」
「わ、悪かった。スマン! このとーりっ!!」
一連の遣り取りですっかり毒気を抜かれたジェイドは、臨界点まで達していた音素を手早く解呪(させた――のだが、一瞬で怒気が膨れ上がった。流石にこれ以上ジェイドの怒りを買うのは得策では無いと、早々に謝り倒すピオニーは、ロイド、と名を呼んだ少年にも剣を引くように声を掛けた。
「ん、りょーかいっと」
元々、本気で襲い掛かってきたわけではないのだろう。言われるがままに扱う剣を二本とも鞘へと納めると、悪びれない態度で『お前、反射神経いいよなー』と、己の剣を受け止めた相手に手放しの称賛を送った。
「え、……お、俺? そ、かな?」
「ああ、スゲーって! 完全に気配消してたつもりなんだぜ。完璧に太刀筋読まれてたし。お前、凄いよな!
あ、でもアレはちゃんと手加減してたんだからなっ! 俺の本気はあんなもんじゃないぜ!!
そだ。俺の二刀流は我流なんだけどさ、お前のは? どっかで習ったりしたの? 流派とかは?」
「へ? …え、 えっと…」
期待に満ち熱心に見つめてくる瞳を気圧されて、ルークは思わず返す言葉に詰まった。
鉱山都市アクゼリュスの崩落事件以来――、正しくは自分自身がオリジナル・ルークの模造品(であると自覚してから、行き過ぎた謙虚さで己を卑下し否定し続けてきた赤毛の青年にとって、久しく目に掛からぬ無邪気な輝き、曇りも迷いも無い好意が透けて見える真っ直ぐな言葉。
何故か、
涙

が零れそうになった。
目蓋の奥へ籠る熱を必死で遣り過ごし何とか表情を取り繕いながら、ルークはもう何十年の昔のように感じられる剣稽古の風景を思い浮かべ、質問に答えた。
「俺のは――、アルバート流だって聞いてる。ちゃんと師匠(がいたよ。
っても、基本を教わってただけだから、もう半分我流みたいなもんだけどさ」
「へー…。そういや、アイツもアルバート流だとか……、あれ?
あのさ、ルーク…、だっけ? なんかお前さ…」
アッシュと、似てないか?
ロイド君はテイルズ史上最強の天然タラシ主人公
お馬鹿さんですが一番いい男だと思います
そして七歳が可愛くて仕方の無い三十五歳
これがノーマルCPならジェイドロリ説確定
物凄くジェイルクに見えますが
あくまでルクジェと言い張ります (`・ω・´) b