◆優しい未来の描き方(前篇)◆

日の本を東西に分かつ関が原が合戦場へ割り込み、大立ち回りの婆娑羅者。
東の徳川・西の豊臣
両軍の総大将を相手取りの三つ巴戦。
そこでまさかの大番狂わせ。
東の権現が異名で崇拝される徳川家康。
西の凶王の戦名で畏怖される石田三成。
東西総大将による命の凌ぎ合いをイタズラ小僧共の喧嘩と言い切り、年上の沽券か仕置きの名分にて二人を叩き伏せ、両軍が兵達が予想だにせぬ展開に唖然としているのを目端にしながら、加賀の風来坊は疲労困憊・満身創痍の感覚も鈍い四肢へ鞭を打ち、快心の笑みにて威勢良く華やかな超刀を頭上に振り回し大音声にて勝ち鬨を上げた。
加賀の風来坊が前田慶次が此度の戦の勝者である!
文句のあるヤツは前に出て勝負しろ、無いのなら二人は持って帰る。
無論、それは困ると東西総大将の腹心と忠臣は大慌て。
しかし敗者の処遇は勝者の特権なのだから、黙って従うべきだ。
心配ならついてくればいいよ、怪我の手当をするだけなんだしね。
そう言って満開の桜の如く清らかに朗らかに咲(わら)う風来坊へ、ならばと本多忠勝は己が剛臣の背を差し出した。
我が主を運ぶならば、自分に乗ってゆけとの意思表示だ。
戦場の男ならば、一度は憧れるだろう戦国最強を誇る寡黙な漢の背中。
珍しい物や面白い事に目が無い好奇心の固まりのような男は、一も二も無く申し出に飛びついて、悪いね、乗せて貰うよと気安い挨拶ひとつでカラクリ仕様の背中を借りる。
すると、もう一方(ひとかた)
西の総大将へ堅い忠義の心抱く忌み姿の武将は、ならば三成は我が運ぶと立腹するやら、心配するやら、あまりの必死さを前に請われるまま肯かざるを得ない。
そもそも、前田慶次という人物は情に厚く、姦計に疎く、戦国の武将としては考え得ぬ不殺の誓いを貫く人の好い男であるからして、情に訴える搦め手で攻められたなら、容易く折れてしまうのは当然の結果だ。
そこまで言うなら三成は任せるけど、アンタも相当消耗してるだろう?
加賀まで結構な距離を移動しないといけないんだよ。
気遣う言葉にソレの為ならば苦でも無いと豪語する怪蝶の男に慶次は苦笑。
そうかい? なら、任せるよ。
そんな事情で加賀の屋敷までひとっ飛び、戦利品と言う名の両軍総大将を手土産代わりに抱えて。目が覚めたら、今までより少しでも幸せな未来が二人を迎えられたらいいなんて、旧き親友(とも)辺りに、何を甘い事をと嘲笑われそうな夢想を胸に、関ヶ原の勝利舞台の立役者である色男は頬を緩ませた。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
加賀前田の屋敷にて、悪戯小僧共を迎えて丸一日。
武器を捨て己が肉体ひとつで戦場に向き合う東照権現たる勇壮なる武将・徳川家康は、不意に目を開けた。
よくある武家屋敷――機能美に長じた和装の天井はしかし、幾ら首を傾げ記憶を辿ろうとも見覚えの無い様相であった。
「……ここ、は?」
絞り出す声が掠れていて、そこで初めて家康は強烈な渇きを自覚した。
兎に角、水を求めて寝床より上体を起こせば、見計らったかのように冷たい清水が差しだされた。
「…ああ、すまない」
ヒリつく喉へ躊躇無く渡された水を飲み干して、あまりの警戒心の無さに相手は多少面食らったようだった。日の本の半分を同盟と言う名の絆の力で平らかにしてからも、内部の裏切りや西の暗殺者に対して気を張り続けていた東照権現の姿はそこには無く、日の本の大地を踏みしめ、有らん限りの力を尽くして生き抜こうとする、無様にも浅ましく、しかし、その生き様こそが美しいと人の心を惹き付けて止まない男の姿があるだけだった。
「大丈夫かい? 家康」
昏倒から目覚めたばかりの客人の容態を、そっと伺う声には確かに聞き覚えがある。そうか、ここは――…、と襦袢姿の若武将は僅かに口元を綻ばせた。
「…まだ全身が痛む。水も沁みる。全く、少しは加減しろ。慶次」
ここは、加賀前田の領地――…新しき縁(えにし)を結びし風の如く放縦で気風の良い風来坊が生家であり、本家でもある屋敷だった。
敵意も害意も一片足りとて存在しない、まるで泰平の世へ迷い込んだかのような和やかな空気に、特に傍にある暖かで寛容な気配に、東軍の総大将として極限まで研がれ、過敏になっていた神経が、くるり丸ごと優しく包まれてゆくようだった。
「無茶言うなよ。したくても出来ないって。
東と西の総大将が二人掛かりなんて、加減してほしいのはコッチの方だよ」
「!」
西の総大将、と聞いて、ハッと家康の顔色が変わる。
「そうだ、慶次! 三成は!? 三成は無事なのか!!?」
「無事だよ。まだ目を覚まさないけど、命に別状は無いだろ。
今は、元親が看てくれている。流石に一人にはしておけないしさ」
「…っ、もと、ちか、…が?」
瀬戸内の海を縄張りとする気の好い西国の友人を顔を思い出し、家康はバツが悪そうに言葉を呑んだ。
「ああ。わざわざお前らを心配して来てくれたんだ」
「…そう、か、……うん、有難いな。
その…、しかし、瀬戸内の方は大丈夫なのか?」
「関ヶ原の合戦が終わったばかりだし、平気じゃないかな。
安芸の動きは気になるけど、大谷の兄さんが警戒してるみたいだし」
「………」
「徳川軍――、東軍は取り敢えず本多さんと竜の兄さんが纏めてるよ。
メンドクセェから早く戻ってこいって、竜の兄さんから伝言」
「…、忠勝と独眼竜が…」
己が拳が砕きし絆は己が身を苦しめ。
己が拳が築きし絆は己が身を助くる。
戦世にて天の頂を目指すと誓った時に腹は決めたはずだ。
紡ぐ絆の重さに膝を折ろうとも、未来(まえ)へ、進み続けると。
「そうか、儂も寝込んでいる場合では無いな」
縋るように祈るように桜意匠も美しい水の器を握りしめるは、数年の間に逞しく成長した志も勇ましき偉丈夫の三河武士。しかし幾ら図体ばかり追いつこうとも、慶次にとって徳川家康という人物は、記憶に残る小さく幼い武将の印象が強く、どうにも年の離れた弟を可愛がるような心地が拭い去れない。
「…そういえばさ、家康。
お前、瀬戸内襲撃の件を元親に誤解させたままだろ。
何でもかんでも抱え込むのは良くないぞ」
くしゃり、と。
日によく焼けた硬い黒髪を大きな手のひらで掻き回し、慶次は優しく諭した。
「具合が良くなったら、ちゃんと誤解を解いておけよ。
一応、俺からも家康がそんなマネするわけないって言っておいたけど。
元親は三成が回復するまで加賀に逗留する予定だし、時間はあるだろ?」
「…慶次は、儂を信じるのか?」
「当たり前だろ。元親だってそうさ」
「そう…だろうか。
怒りや悲しみは真実を曇らせる。
儂が幾ら説明したところで、信じてくれるかどうか…テッ!?」
常に前だけを向いて疾走する太陽のような男が、珍しくも肩を落として俯く様子を見て取り、その無駄に広い額の面積に向かって慶次はでこぴんを一発お見舞いする。
「何をする慶次っ!」
童子の悪ふざけの範疇を越えぬ可愛げのある指遊びだが、仕掛けた相手が関ヶ原を制した武将では生半端な威力では無い。
猛烈に地味な痛みに抗議の声をあげる家康に、恋と喧嘩とド派手な祭をこよなく愛する奔放な傾奇者は、晴天の空に吹きぬける風のようにカラリ気持ちよく笑ってみせた。
「馬鹿な事を言ってるから、お仕置きをしたまでさ。
俺が知ってる長宗我部元親は、友達を信じられない薄情なヤツじゃない。
そんでもってさ、徳川家康って奴も真っ直ぐ友達を信じるいいヤツだよ」
「………。全く、敵わないな慶次には」
一拍置いて。
ぶは、と息を吐いた後に、くしゃりと破顔する家康は、寝倒れている間に着せられたらしい、薄く梔子色に染められた長襦袢の袖を打たれた額へ添えて喉を詰まらせる。
痛むのかい、と様子を察していながら空惚ける色男が、東照権現を名乗る若き武将にはいっそ憎らしく思えた。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
チチチ、チチチ、ピュ…チチチ。
野鳥の爽やかな囀り、小川の優しいせせらぎ、緩やかに流れ過ぎて行く時間。
長閑で平穏、何より領民が幸せそうだ。
領主の人柄をそのまま映した、良い国だな、と。
天下分け目の関ヶ原より、丸々一日が過ぎようとする頃。
四国の海と島々の覇権を、戦国最凶の智慧者・非情の謀将毛利元就と鬩ぎ合う西海の鬼・長宗我部元親は、加賀の国主・前田利家の屋敷の一室で、生欠伸を噛み殺した。
「しっかし…、これじゃあ戦のカンも鈍るってもんだな」
仮初であると知りながらも、これが天下泰平の日の本かと錯覚させる空気が、加賀の当主の屋敷をゆったりと包みこんでいた。
「…慶次のヤツが、あんな風に育つわけだ」
人を信じ、人を好み、人を愛する、戦国の世に於いて奇跡の存在たる不殺の武将。
彼の底抜けに明るく人情味溢れる性格の背景が”これ”かと納得する反面。
そう遠くない未来に、加賀の国主として領地(とち)と領民(たみ)を護るべき立場ある人間が、馬鹿が付く程の人の好さで大丈夫なのかと呆れるやら気が揉むやら。
「ま、イザとなったら、アレだ。俺達が力になってやればいいだけよ。
なにせ、関ヶ原で暴れてたお前を止めて貰った恩もあるしな。
なァ、石田?」
赤と青の擦過傷と打撲痕だらけの白皙の腕に小器用に包帯を巻き終えて、西海の鬼はニヤリと口端を持ち上げ、懐へ招き入れた美しき災厄へと同意を求めた。
「………」
「どうした。なーに、ぶんむくれてやがんだ?」
「五月蠅い」
西の凶王は、天命を決する関ヶ原が天下分け目の決戦に於いて、僅かな手勢のみを引き連れ西国の鬼の元を出奔し、”絆”と言う名の業深き傲慢で豊臣の天下に背いた仇敵へ挑んだ。
しかし、東西総大将の一騎打ちと言う因縁浅からぬ対決の場を、戦国の天下取りにも亡き太閤秀吉の仇討にも、全く興味も関心も無い大虚(おおうつけ)の横やりによって邪魔されてしまった。
闖入者の登場で予期せぬ三つ巴戦となった決戦は、真に屈辱ではあるが、無念の屍(かばね)が鉄錆に彩る修羅の途に、恋だの友だの空惚けてながら虚けの桜を舞わせる大傾奇者を勝者としてしまった。
意識を失う前、地に膝を折りながら、殺しに舞い戻ってやる、と怨念を吐き捨てたまでは記憶にあるが、そこから先は定かではない。
目覚めたこの場所が、憎々しい婆娑羅の故郷である加賀前田の屋敷である事と、大将不在の西の勢力が刑部が采により抑えられている事、そして、最大の怨敵である家康も同じく前田の屋敷の何処かで手厚い介抱を受けている事。
これら様々の背景を、土佐の国主である長曾我元親に説明を受けていた。
その顔はあからさまに不機嫌、眉間に寄せた皺は益々深く、苛立ちも顕わだ。
「そもそも、何故貴様がここにいる」
「お前を迎えに来たに決まってンだろが。
ったく、無茶ばっかしやがって。
なんで、テメェのトコの連中だけで攻め上がりやがった。
ヘタすりゃ、死んでたかもしれねーんだぞ」
「私の命など惜しいものかっ!
秀吉様の無念を晴らす事以上に大切なものなどありはしない!」
「それ、慶次の前で言ってみろ。
ゲンコツだぞ、ゲンコツ」
三成の激昂を余裕の態度で受け止め、迂闊な物言いを軽く嗜めるのは、瀬戸内の荒波を意気揚々と突き進む偉丈夫だ。
「戦の相手がアイツじゃなけりゃ、どーなってたことか」
敗戦の軍の処遇など、勝者の胸一つで決まるものだ。
かつて天下統一を目前とした太閤が忘れ形見、豊臣の威光の象徴である、石田三成。
これを捨て置けば後の世の禍根となる――、と。
戦に乱れる日の本の国主ならば、誰しもが凶王の存在を畏れ疎い、全力で排斥しようとするだろう。
「折角拾った命に、そういう言い草は止すんだな」
此度の天下分け目の乱入戦、三つ巴の相手がその日暮らしの根無し草、大虚の悪名高い加賀の風来坊であった事は、三成にしてみれば”あのような痴れ者に後れをとるとは”との屈辱の思いで一杯なのだろうが。
しかし、凶王の身柄を己の懐へ受け入れた元親からすれば、幸福以外の何物でもない。
本来ならば、亡き太閤の遺志を継ぐ狂相の走狗は、関ヶ原の戦場跡に頸を刎ねられ、無残な姿を曝していたはずだった。
「まァ、何にしろ。お前が無事でよかった」
心からの安堵が滲む吐息、優しく細められる隻眼、紡がれる慈愛の言葉。
なんて美しいものなのだろうかと。
腹黒く低俗な打算など、幾ら探してみても、眩しさに惑い、息苦しさに喘ぐ、ばかり。
「……っ」
無条件に手向けられる愛情に慣れぬ三成は、闇の天空(そら)へ掛かる三日月の如く、清廉な銀麗の眼(まなこ)をフイと逸らした。
豊臣が狂狗、呪われし遺児、災厄の申し子、と様々の畏名を馳せる凶王の、実に子どもじみた仕草に、思わず吹き出しかけて、元親は慌てて口元を引き締める。そうして体裁を整えてから、黒漆の薬入の蓋を開け片手にすると、これ見よがしに左右に振って見せた。
「ほら、左腕も貸しな。薬を塗りなおしておくからよ」
「………」
不承不承ながらも、三成は元親の言葉に応じ片腕を差し出した。
そもそも天下分け目の合戦場にて対峙した仇敵と闖入者は、一人は”武器”を投棄し拳で”絆”を語る厚顔無恥の肉体派武人で、もう一人はそもそも”刃”を携帯せぬ酔狂な道楽者だ。
そんな莫迦者二人を相手にしたところで、余程打ち所を悪くしない限り、致命傷になり得るはずが無い――というのに、西の鬼は実に甲斐甲斐しく細々と凶王の世話を焼いていた。
その姿は何処か楽しげですら――いや実際面白いのだろう。目覚めてからの三成の様子と言えば、時折癇癪を起こす以外は、まるで借りてきた猫そのもののしおらしさで、物珍しさから、ついつい過剰に世話を焼いてしまう元親だ。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
「…長曾我元親」
「どうした。沁みるのか?」
良薬口に苦し、妙薬肌に痛し、ちぃっとばかり我慢してくれや、と。
全く見当外れな事を嬉しそうに語る土佐の国主――風体は海賊そのものの益荒男ではあるが――に対し、凶事の申し子として戦世に畏名を轟かす痩躯炯眼の武将は、負傷の左腕に薬草が塗り込められ、包帯が巻き直されるのを待って、妙に改まった所作と口調で向き直った。
「貴様は…」
「うん?」
「何故、貴様は私を責めない」
「は? なんだそりゃ?」
心底意外と言うように、瀬戸内の荒海に吼える鬼の隻眼を、童子そのものの拙さでくるり見開く姿に、狷介(けんかい)の武人は怪訝そうに言葉を重ねた。
「……なんだとは…、どういう意味だ」
「どういう意味も何も、そのまんまだろ。
何で俺がお前を責めなきゃなんねーんだ?」
「当然だ。私は貴様に命を預ける虜の身。
私怨にて誓約を違え、貴様の許可も無く関が原へ刃を抜いた事実。
これは死罪にも等しき背徳ではないのか」
「…いや、死罪って。そりゃまた大袈裟だな」
「大袈裟なものか!
武士(もののふ)たる者が誓いは絶対ではないのか!!
盟約を手前の都合で破棄するなどッ―――!?」
極限にまで研がれた刃のように高潔な自身の信念に基づき、異様な剣幕で怒鳴り出す豊臣が狂狗の、昂ぶる躰を強引に引き寄せて、薄い口唇ごと抗議を封じた。
「……っ! ッ…、な、にっ……、」
突然の行動に驚き、大きく銀灰の瞳を見張る三成は、動揺のまま反射的に口吸いから逃れようと身を捩る――が、ギリ、と強靭な力に顎を掴まれ身動きが取れず、下手に暴れた事で口腔への侵入を許し、ぞくりと膚が粟立つ感覚に堪らず――…瞼を伏せた。
「……ふ、っ…、ぅ」
長すぎる接吻から漸く解放されたのは、三成の蒼白な頬に赤味が差し、血の気の失せた白紫の唇に可憐な桜色が宿ってからだった。
「……こ、 の………、
急に、何を……、する」
「お前があんまり可愛い事言うもんだからな。
我慢が効かなくなっちまったわ」
詰る言葉に返すは閨の睦言にも似た、甘い囁き。
「……っ! ば、莫迦な事をっ!!
…の、じろじろ見るなっ!!」
間近に臨む瀬戸海の青藍の左目は、宥めるように、愉しむように、優しく沫立ち、
隻眼(ひとまなこ)の輪郭は嬉しげに意地悪く半月を描く。
猛烈な意心地の悪さに三成は悪態をつき、熱に潤んだ瞳で睨み付けるが、完璧に逆効果。
「へいへい、しょーがねェなァ」
などと、お座成りな返答をひとつ。
凶王の孤高の精神に呼応するような潔癖な銀髪の、サラリとした艶の感触を片手で味わいながら、情深い西海の鬼神は、羞恥か屈辱か奥ゆかしく色に染まる耳朶に、欲に濡れた舌をぞろりと這わせた。
「……っ、長曾我ッ!?
貴様、いい加減にっ…!」
ビクリ、と。
不埒な行為に跳ね上がる狂信の武将は、当然ながら鬼の懐で暴れる。
そんな抵抗をものともせず、痩せた躰を隆々と筋肉の盛り上がる片腕で易々抑え込んで、元親は耳元に寄せた口唇から婀娜な吐息を吹き込んだ。
「あまり、煽ってくれるなよ。
…怪我人じゃなきゃぁ、押し倒してるところだ」
「お、おしっ…!? 何を莫迦な事をッ!!
血迷ったか、長曾我元親!!」
ギャンギャンと朱色染まる目許で吠える姿も愛らしい、極上の銀色灰狐。
瀬戸内の海の恩恵を享受する温暖な土佐の国では、決して目に掛かれぬ白銀を纏う神秘。
何物にも代えがたい至高の宝。
それが鬼の掌中に収まり、まして意のまま望むまま。
譬えば、互いに心を寄せ慈しみ合う副官を討てと。
絶望的な命令を突き付けたとて、信義と忠義の間に惑い憂い焦れながら、それでも。
(…テメェの手で大事なモンを討つんだろうな。
こいつァ、そんなヤツだ。
ったく、真っ直ぐで不器用で…どうしようもねぇ)
元々、正直が過ぎて損をするような、不便な性格の人間は嫌いではない。
潔癖な凶王の生き様に、凛と気高い刃のような魂に、鬼が興を乗せられるのは必然か。
「分かった分かった、そう怒るなって。
興奮すると傷に障るぞ、早く治して一緒に土佐へ帰ろうや」
といっても、大半は船の上で過ごす事になるけどなァ、と。
ニッ、と白い歯を見せて豪快に笑う海の男の陽気さに、落ち着かぬ心地となり西の凶王の業を抱く武将は、怜悧な六花(りっか)の双眸を在らぬ方へと逃がした。
「…貴様は私や刑部が憎くはないのか。
瀬戸内襲撃の件は、刑部を自由にさせた私に責がある。
貴様にとって仲間は何物にも代え難い宝では無いのか。
卑劣な策謀に仲間を喪いながら、何故報復を考えない」
「まーだ、ンな事言ってやがんのか。お前は」
くしゃり、片手で存外柔らかな銀糸の髪を掻き回し、コンと正面から額同士合わせる。
三成の血の通わぬ皮膚の温度に、まだまだ養生させねェとなァ、とひとりごち。
「……っ、」
何を、と心乱す初心な反応を愉しみながら、元親は聞き分けのない幼子に、優しく言い含ませる物言いで、胸のうちを懇々と切々と語り聞かせる。
「…俺についてきてくれてる可愛い子分達ァ、何時海の藻屑になっても後悔しねェって腹ァ括った連中ばかりよ。こんな世知辛いご時世じゃ、テメェの命だけは安泰だなんて、だーれも思っちゃいねェさ。戦に散るも、姦計に散るも、……仕方ねェことなのさ」
「そりゃァ、仇は討ちてェさ」
「………」
自責の念に囚われる凶王の純粋が愛おしく、西海の鬼はふっと隻眼をたおやかに和ませた。
「けどな、ンなのは、不甲斐無いテメェへの免罪符だ。
それで救われるのは逝っちまった野郎共じゃねェ。
結局は守りてェのは、テメェの面目だとか体裁だとか、…心だとか、な。
そんなどーしようもねェものばかりだ。
野郎共の為なんて聞こえは良いが、結局はテメェの為よ」
「……っそれは…!」
「ああ、別にアンタを否定する気はねェよ。
あくまで俺の場合の話だ」
「………」
「それにな。俺はアンタを気に入っちまった。
どーしようもねェくらい不器用なお前を、どーにも放っておけねェ。
大谷を殺して、野郎共が戻ってくるなら、それもいいさ。
けどな、奴(やっこ)さんをとっちめても、アンタを苦しめる結果にしかならねェのは自明の理だ」
「…今の私など、」
太閤の仇も討てず、副官の暗躍も知らず、穢れ堕ちた我が身など。
謀られし貴様が気に掛ける程の価値など無い、と。
自己否定と自己犠牲ばかりを口にする薄儚い花弁へ、ベロリ、獰猛な獣が獲物の味見でもするように肉厚の舌を這わして、
「…っ!!」
思わぬ攻勢に竦んだ隙に、
「と、まァ、小賢しい理由を並べてみたが、要するにアレだ」
「……?」
「お前さんに心底惚れてるってこった」
西海の鬼神は、幾度も幾度も、重ねて告げた恋情を口にした。
「! …ばっ、莫迦か貴様ッ!!」
一国の主ともあろう者が、堂々と胸を張り晴れやかな笑顔で宣言する内容では無い。
このような科白を、何処ぞの間者にでも聞かれでもしたら何とするのかと。
先ほど、目の前の土佐の鬼へ思い切り抱き締められ、濃厚な接吻をされておいて、今更慌ててみせる三成の可愛げのある反応に、海風に吹きぬかれて鍛え上げられた屈強な男はますます上機嫌だ。
タタタタタ……
「おうっ、鬼だからなァ!!」
「それが何の関係がある!!
いい加減に放せ、バカモノ…っ!?」
ぐ、と強引に腰を引かれ、正座の姿勢は途端に崩れた。
乱れた雪白の足の間に割り入る狼藉者の――いや、狼藉”鬼”の硬い膝。
合わせの緩い着物の胸元を肌蹴るように辿る不埒な手のひら。
加賀前田国主の屋敷で何を、と、赤く赤く、緋色に咲く芥子の花弁の如く鮮やかに染まる、白皙の頬、潤む風花の、奥ゆかしく恥じ入る姿の何としたことか、瀬戸内が鬼神の餓えは最早抑えの効かぬ状況にまで追い込まれていた。
タタタタタ トトト トト……
「見境がねェのよ、鬼だからな…」
「……ま、まて、ちょっ、ちょうそかべ!!」
劣情を煽られた西国の鬼神の尖る隻眼は険呑と歪められる。
まさか、ここで――…、と。
四国の鬼の異常な興奮に中てられ、凶王の畏名(おそれな)と刹那の刃を携え、幾千の数多の戦場を血風一陣駆け抜けた、冷酷・秀麗無比たる武将は、憐れな程に狼狽えていた。
構わず――…そもそも、餓えた野獣が獲物の命乞いを歯牙に掛ける道理があろうはずも無く――長宗我部元親、四国の海を自慢の機巧船で暴れまわる鬼は、痩せて浮き出る喉仏に甘く噛み付きながら、薄い身体を褥(しとね)へ押し倒し――…、
スパ――――――――ンッ!!
「元親! 三成の具合はどうだい!?」
損ねた。
勢い良く左右へ弾かれた廊下向かいの障子、唖然、三者の空気が凍り付く。
天下分け目の決戦へ闖入した男の不作法ぶりは、天性の才能らしい。
「あ…、あれ?」
凶王の療養の為にと心付けられた屋敷外れの閑寂な小部屋。
そこへ漂う只ならぬ雰囲気に、呆気に取られる慶次は間の抜けた声を出す。
西国の友人と旧き親友の忘れ形見の、今まさに、秘め事に及ばんとする二人の微妙な位置と絶妙な距離。
数秒ほどの思考の停止、どうするべきか、数拍の空白を経て、至る結論。
「え、ええ…、と。
お、お邪魔だった、かい?」
頭上の浮かれた花と羽根飾りが印象的な歌舞伎者は、不味そうに鼻先を掻き、お愛想宜しく、引き攣った笑顔でヒラヒラと片手を振ってみせた。
「えーと、その…。御免よ。
終わったら声を掛けてくれればいいから。
それまで、誰も近付かないように言っておくから」
更には、履き違えた気遣いまでして見せるものだから。
「……ッ、………っ、き、さ、ま、らァァアアアアアアアアア!!!」
ブツン、と。
戦国の覇者と謂わしめた豊臣傘下最強の忠臣・石田三成。
彼(か)の武将の血管は一本残らず綺麗に弾け飛んだ。
「うわっ!!? い、石田ッ!!! ちょっと待て!!!」
「えっ、ええええ!? 俺もッ!?
俺は関係ないって、キレるなら元親だけにしてよっ!!」
枕元へ鞘ごと寝かせられていた愛刀を咥え、戦刻暴走状態の凶王。
西海の鬼神と天下分け目を制してみせた婆娑羅者は、情けなくも二人揃って脱兎の如くの有様で、怒り狂う懺滅の刃から逃げ出した。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
戦続きの中に久方味わう床の間で、戦国が世の武将の性(さが)か、日の本の行く末に茫洋と思いを馳せていた勇壮なる若武将・徳川家康は、ぎくりと身を竦ませた。
刹那の刃が巻き起こす”風”の軌道、豊臣が天下・太閤が覇道・横たわる障害の全てを、一刀両断に斬捨ててきた苛烈そのものの、走狗の気配――を、ビリリと首筋に感じたからだ。
「――…三成…」
決して、二度と、死して尚、赦しを請う事すら――…、
取りとめのない思考が、思い出の断片と共にバラバラと降り注ぐ。
無事で良かった、と胸を撫で下ろす反面。
再び、刃を交えねばならぬのかとの、重苦しさ。
ふと気づけば、豪奢な布団の面に施された雅な三日月の刺繍を、震える拳で握り締めていた。
歪に潰された銀白の孤月、趣に舞う夜桜の風散る花弁が、骸が血雨が如く。
「…ああ、いけない」
こんなに力任せに握っていては。
儚く美しい夜具の生地を傷めてしまう。
醜く引き攣れた傷は決して治らないというのに。
何時も何時も、大切に想い願う”モノ”程。
望めば遠ざかる、喪失に足掻けば、夢の残骸だけが堕ちてくる。
「…後悔ばかり、か。儂もまだまだだな」
不退転の決意は胸を焦がす。
掛替えの無い友の、神を殺めた終焉の日。
幾千の罵倒・幾億の憎悪に充ちる天下であろうとも。
「………」
力を抜いて、手を放す。
風韻の月は皺に塗れ、桜花は踏み散らされたかの如くの有様で。
身の丈を弁えぬ暗愚の末路は、破滅のみ――…、というのに。
「……儂は――…、」
駄々を捏ねては泣き喚く愚かの理屈に、幾度も幾度も、卑しき天下人は大義名分を高々と振り翳す。
日の本を二分する東が一大勢力徳川が若き勇猛の将・東照権現のそれとは思えぬ遣る瀬無さは、彼の胸をそぞろと騒がす内なる葛藤に因るものか。
国や臣民を愛するが故の崇高な理想と、戦国乱世に染まる修羅の業因が、互いを否定し喰らい尽くそうと熱(いき)り立つ。
決して共には歩めぬ二律背反に、在りし日を擬えるかの如く、膝を抱え背なを丸め。
幾多の敵を打ち据えた "絆”と嘯くも浅ましき血塗れの掌で、脆くも剥がれ落ちんとする総大将・東照権現が『徳川家康』の堂々たる顔相を、堪えるように被せ直した。
「――…ワシの、あの日の選択が、
真に、正しき方便であったかなど、」
疲弊し乾涸びた、信念が、理想が、希望が。
ざらざら、ざらざら、ざらざら。
抱えた矛盾が砂礫の如く、覆い隠した面(つら)の隙間から、無尽蔵に溢れ堕ちる。
万が一、違う未来を描けていたとしたら、今よりも少しは幸福であっただろうか。
戦国の覇者として天下へ武勇を馳せた男の望んだ未来が、弱きに優しく強きに頼もしく、数多の人の命が等しく愛し愛されるものであったとしたら――…。
「…はは、は。はははっ…。易き夢想に耽ってなんとする。
どうにもいかんな…、慶次に殴られてから調子が狂いっぱなしだ」
常世に日の本を照らす日輪であれと誓い上げた往時より、心身共に果敢にて鷹揚な武将であらんと邁進してきた雄大な光は、天下分け目の決戦を経て終に膝を折り、しくしくと傷む胸の内をほんの少しだけ吐き出した。
「何処に逃げた!! 長宗我部!! 前田慶次ッ!!!」
シュパ――――――――――ン!!!
「……ッ!?」
一瞬で細切れの木片と紙片と成り果てた襖の残骸が、文字通りバラバラと掛け布の上に飛び散って、逝った。
予想外の事態に息を呑む家康の眼前に、加賀前田の屋敷中に響き渡る列火の蛮声。茫然と瞬く黄金色の眼(まなこ)に、天をも焦がす勢いで迸る憤怒の紫焔が映り込む。
「何処へ隠れた、あの虚仮(こけ)共めッ!
見つけ出して懺滅してくれる!!」
眦を苛烈に吊上げた悪鬼羅刹が武将・狂おしき君子殉凶が、双肩を怒りに打ち震わせながら、白地の小袖を――衣の丈が全く合わずに裾を引き摺っている辺り、おそらくあの着物は慶次の体格で仕立て上げられているのだろう――乱し、袂を分かち不倶戴天の仇と定めたかつての同胞が寝所へ押し入って来たのだ、これには常に大局を見据え不動に構える若武将とて、声を無くすしかない。
「みっ…、」
呼び慣れるはずの名が、喉の奥に閊えて音に成らぬまま、家康は唾を飲み込んだ。
「…フン、幾ら逃げても無駄な事だ。
彼奴等纏めて、私の刀の――…ッ、うん?」
乗り込んだ部屋に目標の姿が見えぬと知るや否や、隣室へ繋がる襖の全て斬り捨てるべく、額に青筋を浮かべ断罪の刃を閃かせる凶王の意識が、切り伏せた部屋の真ん中、夜具の端を握り締め硬直している何者かの気配を捉えた。
「………ッ、き、」
「み、三成。ぶ、無事で…なにより―――…、」
「――――っさまァアアアアアアアアアア!!!
イエヤスゥウウウウウウウ!!
懺滅してくれるゥウウウウウウウウウ!!!」
「わっ、ちょ…っ、ま、まてまてまてまて、三成ッ!!!」
そして、案の定、全く以て予想通りの反応。
用意された筋書きを、演じ徹す如き見事な予定調和。
逡巡の間すら与えぬ、無慈悲な刃の軌道は正確無比。
しかし、感心している場合では無く。
このまま呆けていては刀の錆にされてしまうと、家康は血相を変え布団から飛退いた。
枕元の手甲を反射的に掴んでいる辺りは、流石は百戦錬磨の戦武将といった処か。
「貴様ッ! 避けるな、家康!!」
「無茶を言うな! 避けねば死んでしまうだろう!?」
家康の言葉通り、咄嗟の判断で身を退いていなければ、確実に冥府の門を潜り抜けていた。風雅な意匠の掛布は怨念の塊にも似た暗黒に畳や床ごと姿半分を喰われ、無残な結果を曝していた。今の技をマトモに受けていたら、肉と骨の半分を削ぎ取られていただろう。何ともゾッとしない想像だが、事実なのだから仕方ない。
「当然だ! 殺すつもりなのだからな!!」
「……っ、全く。殺す云々はこの際構わないが。
ここは加賀の国主の屋敷の内だ、無闇に暴れて家屋や家財を壊すのは良くない」
「知った事かァアアアア!!!」
業腹の怨敵の分際で、旧知の仲のように気安い口調で――実際旧知ではあるのだが――窘める家康の臆面の無さに、紙縒りよりも余程切れやすい三成の堪忍袋の緒が、ブチリと音を立てた。
「うわっ、まっ、……まてっ!!
三成、後で幾らでも立会いは受けよう。だが、屋内(ここ)でというのはいかん。
恩人である利家殿に迷惑を掛ける、お前も恩を仇で返す不義は望むまい!?」
「…今の私に、貴様を討つ以外の大義はありはしない!!」
『不義』の言葉に瞳孔を薄く尖らせるものの、退く気は無いのか。禍々しい闘気を纏ったままで、亡き太閤の遺志に憑かれる復讐の王は刃の柄を握り直し、孤高の月を描く怜悧な双眸に暗澹たる殺意を込めた。
「…三成っ…」
背信の愚将の言葉など聞く耳持たぬとの高き矜持に、家康は忸怩(じくじ)たる思いに駆られた。右手に攫う、藤黄に輝き闇を反射する光の手甲を、ただ口惜しいとばかりに握り込んで奥歯を噛み締める。
そうして一拍の呼吸をおき、新たな決意を飲み干して態度を強きに改めた。
「三成!! どうしても退かぬというなら、表へ出ろ!!
この徳川家康、全力でお前の相手をしよう!!」
「…ふん、良いだろう。>
ついてこい――――、 なっ、 家康ッ!!?」
散々に『卑怯者』『裏切り者』と古き縁(えにし)の男を罵倒しておきながら、無防備に晒した背中を襲われるとは露も思わぬのか、迷い無く踵を返す凛と気高き闇色の武将の隙をついて、刃の武装を解き己が拳ひとつで乱れ堕ちる戦国の世を揚々と進み往く東照権現は、脇目も振らず、その場を一目散と逃げ出した。
