◆優しい未来の描き方(後篇)◆

西の総大将として、秀吉公亡き後豊臣の軍を纏め上げる凶王・石田三成の狂気殲滅の刃から、ほうほうの体で逃げ出した西海の鬼と前田の風来坊は、屋敷外れの薄暗い物置の中に、ふたり、勇壮な巨漢の肉体を押し合い圧し合いと気配を押し殺しながら潜んでいた。
「石田のやつ…、追って来ねェな?」
諦めたか? と、隆々と張る胸筋を撫で下ろすのは、瀬戸内が土佐の国主・長宗我部元親だ。瀬戸内の潮風に吹き曝しの銀色の髪をくしゃりと抱えて、安堵の息を腹の底より吐き出す。
「ようやく撒いたか〜…。
西の凶王さんは、相ッ変わらずおっそろしいねェ」
加賀前田の時期当主の責を負う放縦な傾奇者は、元親の死角を護るように左陣に腰を下ろし、ふへぇ、と気を抜きながら、天井近くの小さな窓口を見上げた。
「おいおい、天下分け目を制した男の言葉とは思えねぇなァ?」
「それはそれ、これはこれ。
大体、俺が乱入した時点で二人ともかなり疲れてたみたいだしさ。
トンビに油揚げとか漁夫の利とか、そういうやつだよ」
ワザとらしく煽て上げる元親の台詞に、慶次は過大評価だと苦笑ひとつ、へらりと様相を崩しながら自身の偉業を大したことではないと嘯いてみせる。
「お前ぇは、いっつも”そう”だな?」
「うん? 何が?」
「マジで戦り合わねぇし、そういう評価も逃げ腰だ。
俺と毛利の一騎打ちに割り込んで刃を止めるなんざ、並のやつには到底不可能な離れ業よ。
あんだけの実力(ちから)があるくせに、フラフラフラフラ、風の向くまま気の向くままってぇのは、ちぃっと勿体ねぇ話じゃねぇのか?」
「ちょっ…元親まで。
頼むから、まつ姉ちゃんみたいな事言わないでおくれよ」
身内に散々言わ続ける耳たこの台詞に、辟易と肩を竦める慶次に対し、元親は、くっくっ、と人の悪い笑みを二枚目の鬼面(おにづら)に縊(くび)りつけ意地悪く声を弾ませた。
「いいじゃねーか。そんだけ期待されてるっつぅことだろ?」
「うー、まぁそうかもしれないけどさぁ。
ああ、でもそっか。あの頃だね、元親と出会ったのってさ」
「おう、最初は鬼退治に来た桃太郎だとか、巫山戯た事を抜かしてやがったよな」
「よく覚えてるなー」
「そりゃァな。大法螺吹きの御目出度い花畑野郎を、海に叩き落すつもりだったからな」
「うわ、ひっど。こっちは悪名高い西国の鬼神に、決死の覚悟で臨んだってのにさ」
「悪名ってのは聞き捨てならねぇなァ。根無し草の分際で」
「そりゃあ、仕方ないよ。風の噂で、土佐の国主は泣く子も黙る海賊頭だと聞いただけだし。
それで、好印象なんて。どれだけ物好きだって話じゃないか」
「ははっ、ちげぇねェ」
世間の酸いも甘いも自在に噛み分ける癖に、妙に天然な慶次の珍しくも的確な突込みに、気風の良い鬼国主は自らの悪評醜聞を気にした様子も無く、暗い天井を仰ぎながらカラカラと豪快に笑い飛ばした。
「笑いごとじゃないってぇの。
まぁ、実際は気のいい兄さんだったわけだけどさ」
「噂っつーのはアテにならねぇってこったな」
「アテになるのもあるけどね。毛利の兄さんは噂通りの人柄だったし」
「ありゃ、しょーがねぇな。アイツは昔っから、あーゆー奴よ」
「あんな怖いお兄さんとご近所さんなんて、元親も大変だねぇ」
「そりゃ、お互い様だろ。俺だって、お世辞にも”良いご近所さん”とは言えねぇしな」
「確かに」
「納得すんな。そこは否定しておけよ、お前」
「いや、だってさ」
懐かしき想い出、一期一会の巡り合わせを、奇跡の邂逅として。
手負いの凶獣に狩立てられる危機も忘れ、尽きぬ話の花を咲かせる古馴染み同士。
互いの胸の内から零れる言葉は他愛無く、だが、これ以上無く心地好い。
しかし、ふと。
「あー、…のさ。元親」
「おう?」
古い馴染みは尻の坐り心地を悪くさせ、そわそわ、と。
気もそぞろ、とばかりに落ち着きを失くし、曇り無き心を映す明るい鴇色(ときいろ)を胡坐を掻く足元へ落としては、掠めるような目で藤色に染めた眼帯布をチラリと伺う。
「その、こういう事をわざわざ聞くのは野暮だってのはワカッテルンデスケド」
「俺と石田の事か?」
「……ハイ。」
豪傑の容姿に似合わず、繊細な感覚と聡明な頭脳の持ち主である土佐国主・長宗我部元親は、慶次の謂わんとするを察して先んじ自ら訊ねて返す。
「さっき見た通り、俺とアイツは恋仲ってやつだ。
頼むから、石田に気があるなんざ言い出さねぇでくれよ?」
「あはは、元親じゃあるまいし。
俺も結構守備範囲広い方だけどさ、流石に稚児趣味は無いから安心していいよ」
「おいおい、奥州の竜じゃあるまいし。俺にそんな趣味はねぇよ」
「えー、だって、三成って家康とおない年くらいだろ?
どう考えても…、ていうか、独眼竜の兄さんはソッチ系じゃ無いし。
完璧に年上好きじゃん。それも物凄い姐さん女房…、や、違うかな。
あの人、竜の兄さんにだけ異常に甘くて尽くしまくりだし」
「なんだなんだ? 俺と石田の馴れ初めを聞いておいて、竜の惚気話か?」
「おっと、そうだった。ごめんよ、話のコシを折ってさ」
「気にすんな。それに、今の話は俺も興味あるしな。
それで? 奥州の独眼竜にゃ決まった相手がいるのかい?」
「………」
「なんだ、その顔は」
ポカン、と見事な大口を開け、意外そうに目を丸くさせる風来坊の、あまりに見事な反応に元親は怪訝そうに眉を顰め声を低くさせた。
「いや…、え、だって。
あの二人、ものすごーく、あっからさまだよ?
元親って意外と人の事視てるから、絶対に気付いてると思ってた」
「………」
命短し、人よ恋せよ! との。
場違い過ぎて呆れも通り越し最早清々しすら感じさせる戦場勝利の決め台詞を、勝鬨代わりに言い放つ男よりも、惚れた腫れたの色恋事情に疎いのは仕方無いだろうが、此処まで分かり易く示唆されては、聡明な鬼武将とて直ぐに事情を察して、はぁん、と口許を吊り上げた。
「なんでぃ、右目とデキてやがんのか」
「あ、なんだ。やっぱり分かってたんじゃないか」
「派手な高名の割りに、浮いた話がサッパリだからな。
真田幸村くれぇ奥手だってなら分かるが、初心なタチでもねぇだろ」
「あはは、独眼竜の兄さんだしね。
好いた相手を抱いて惚れされる位やってのけるんじゃない?
……っ!?」
ぱたぱたぱたぱた。
「…おい、」
「うん、誰か近付いて来てる。
もし三成だったらマズイから静かにしてよう?」
これ以上屋敷で暴れられるのは敵わない、と肩を竦める風来坊に元親も同意。
「…だな。もう少しほとぼりが冷めるのを待ったほうが良いだろ」
近付いてくる人物から殺気や敵意の類は感じられないが、高位の武人ともなれば、相手側に気取られぬよう、気の流れを自在にする事が可能だ。慢心は根の国へ繋がる。二人は気配を押し殺し、除々に大きくなる足音へと耳と澄ませ神経を集中させた。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
加賀領主の屋敷は、流石一国の主のものだけあり、それなりの面積に建てられていた。
軍馬にも競い勝つ駆け技”恐惶”を発動し、目を合わせたら確実に呪われるであろう深紅の瞳を炯々爛々と輝かせながら、物凄い速度で追撃してくる三成を、自滅転倒の隙に引き離し――そもそも障害物だらけの屋内で使うのが間違いだ――逃げ切ったまでは良かったが広大な屋敷の中で家康は――…、
「…参ったな」
完全に方向を見失い、迷子になっていた。
東照権現の戦名を轟かす若き武将は、特に方向音痴というわけでは無く、例え初めての他人様の屋敷であろうとも、普段ならば現在地の把握など造作無い。
しかし今回は、修羅悪鬼の形相で滅殺の刃を振り翳し、苛烈の勢いで迫り来る凶王から逃惑うのに必死で、周囲の様子を気に留めている余裕が無く、…それが敗因だった。
「うむ…」
辺りを見回すも下働きの気配すら感じられず、家康はさてどうしたものかと算段を巡らせた。
何時までもここで惚けていては、程無く、あの執念の塊のような闇武将に追い付かれる。だからと言って、無暗に動き回って三成とハチ合わせでもしたら、元の木阿弥だ。
やはりここは、憎悪を滾らせる凶つ王の怒りが収まるまで大人しく身を隠しているべきかと。
「家康、家康」
「…!」
そう結論付けると同時に、背中から聞き覚えのある”声”が、細々と呼び掛けてきた。
「慶次?」
振り返れば、すぅ、と目の前で隙間を開けられる引き戸、覗く顔に安堵して家康はやわく笑みを浮かべた。
「良かった、実は三成に追われていてな。
匿って貰えないか」
「あー、やっぱり。
一人でこんなとこブラブラしてるなんて、変だと思ったんだよ」
東の総大将に用意した寝所から、この屋敷外れの物置まで、結構距離が空いている。
厠に用を足しに行った帰り、では無い事は明らかで、警戒しながらも声を掛けてみれば案の定の回答に、慶次は、わちゃー、と頭を抱えその場へしゃがみ込んだ。
「慶次?」
「うん、もういいや。被害状況とか怖いから聞かない。
それより家康、早くこっちに来て隠れなって。
三成に見つかったら地獄の果てまで追い掛け回されるよ」
「本当にそうだから笑えないな」
物置の引き戸を静かに開けて、出来た隙間に素早く巨体を滑り込ませると、家康は元通りに木戸をぴったり壁へつけ直し、慣れぬ薄暗さを掻き分けるように、中腰で奥の方へと手探りながら進んだ。
「しかし、一体何をやったんだ?
三成のやつは、相当頭に血が昇っていたぞ。
儂のところに乗り込んで来た時の様子と言った、 ら……、」
「よォ、家康。久しぶりだな」
闇に慣れ始めた黄金が、狭い空間の奥に潜む鬼の輪郭を捉え、見開かれる。
重量級の怪武器を左肩に悠々と凭れさせ、長い足を床へ投げ出し、腕をガッチリと組み、堂々と胸を張りながら相手側を待ち構える余裕は、これぞ、瀬戸内が鬼神の偉相とばかりに誇らしげ。つい先程、泡食いながら凶王の前より逃げ出した人物と同一とは、到底思えぬ貫録の姿だ。
「……もと、ちか 」
傲慢な態度、不遜の表情、凶悪に閃く紫闇の双眸は”鬼”そのものの不穏さで。
「どうした、そんなところで固まっちまって」
「いや…、何でもない。
そういえば、慶次に聞いていたと…思い出してな」
「うん?」
「三成の身を案じて、…お前が来ていると」
「それだけじゃねぇけどな。
おら、サッサとこっちに来いよ。石田に見つかるとメンドクセェぞ」
「…ああ」
ほんの少し怯むような、微かな躊躇いを纏いながら、若輩の身ながらも勇猛果敢を世に馳せる東の総大将は、思い出したかのように今更鈍い痛みを訴える四肢を引き摺るようにして、鬼の右隣へ腰を下ろした。
ちなみに、慶次はとうに元親の左隣、元の位置へ胡坐を掻いて、二人の遣り取りに黙って耳を傾けていた。
「なぁ、家康よ」
「なんだ、元親」
「あー、なんだ。その、悪かったな」
「…元親?」
「お前に酷い事言っちまっただろ。
全部俺の早合点の誤解だって分かったんだ。
…悪かった。許してくれ、この通りだ」
西海の鬼神の矜持の高さは、ただ、無闇に他者を卑下する事で生まれるものでは無く。
自身の過失や誤謬(ごひゅう)を素直に認め、必要とあらば誰人であろうとも頭を下げ詫びる、懐の深さと性の潔さから滲み出るものだ。
今も、加賀の風来坊の前と言うのに気にする素振りも無く、ガッと額と両の拳を床へ擦り付け、古き友の言葉が是非のどちらであろうとも、全て受け止めるべく覚悟でひたすらに待つ。
「よっ、止してくれ、元親!
儂がちゃんと説明すれば良かったのだ。元親に非は無い」
そんな元親の男らしい謝罪を前に、家康は慌てふためき、兎に角頭を上げて貰えないかと願い出る。
「いや、あン時の俺は見境を失くしてた。
お前が何を言っても、耳を貸さなかっただろうぜ。
だから、本気でブン殴って貰って良かったわ。
堪えたけどな、お陰で目が覚めた」
「…すまない、あの時は」
「だーかーら、謝ってるのは俺の方だろ!?
なんでお前が頭を下げてんだよっ!!」
「わっ!?」
ぐぃ、と。
何時の間にやら逞しく成長した元・ちびっ子大将の首根っこを小脇に抱え込み、うりうり、と拳でかいぐる気の好い鬼に、止めないかっ、と困り顔の割に嬉しそうに表情を綻ばせ、ジタバタと冗談混じりに暴れる東の総大将。
ああ、やっぱり俺の友達はいい奴らばっかりだな、と。
亡き戦国覇者の旧友は、実に晴れやかな、和やかな、優しい気持ちで充たされる。
今生に於いて誰よりも愛し、誰よりも憎しみ抜いた男へ、ざまぁ見ろ、と悪態を吐いて。
俺の友達に悪い奴なんて居ない、だから、お前も――…、
この大虚(おおうつけ)めが。
呆れる” ”の声が聞こえた気がして、慶次はしてやったりと会心の笑み。
へんにゃりと緩んだ頬、楽しげに細められる情の鴇色に、ふわふわ幸福の華やぎを幾重にも咲かせた。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
仮にも戦国乱世に立つ国とは思えぬ程に長閑な景色が一面に広がる。
愛らしい小鳥の囀りや、優しい小川のせせらぎが。
終わりの見えぬ戦世に疲弊し、荒廃するばかりの人心を、優しく慰める。
加賀と申す国は、日本海側へ面する地形から冬には厳しい寒さを強いられるが。
領民の苦を思う国主の采配により、決して飢餓に苦しむ事が無いように、と。
食の大事を上は側近武家から下万人にまで徹底させ、農地開拓へ力を注いできた。
場合によっては、国主の利家自ら開墾作業へ従事し、その身分を飾らぬ分け隔て無い大らかな性格が、領民に大きく支持されていた。
お陰で、先天の明無き愚かな武将には、泥臭い地方武将よ。
戦国大名が土遊びとは、天下無双の豪槍使いも地に堕ちたものよ。
これら、口さが無い陰口を叩かれる事も、少なくは無いが。
常に民の隣に在らんとした彼(か)の信念に満ちた生き様が。
加賀前田のお家を百万石の領主へと押し上げた事実は、疑いようも無い。
「おのれ…、家康。何処へ隠れた…!」
そんな天下泰平が加賀国主の屋敷に於いて、復讐の闇迸る六花が凄烈な美貌に拍車を掛ける西の凶王は、ガン、と鈍色の刀を鞘ごと廊下の床へ立てつけ、足元へたわつく着物の裾を煩わし気にたくし上げると、腰元近くに大胆に結わい付けた。
ゆるくたわむ白布の合間から無防備に暴かれた白磁の膚が艶かしく、ある意味視覚的な脅威であるが、それを咎める者はこの場に誰一人として存在しない。過保護な副将か恋仲の鬼武将が目にしたなら、慌てて裾を元の位置へ引き戻すところだろう。
「…由。次は逃がさんぞ、家康め!
姑息な姦計を敷きおって…あの恥知らずめが!!」
床板を踏み抜く勢いで前田領家の屋敷の廊下を闊歩する凶王は、実に忌々しげに不遜の輩へ批難の罵声を浴びせていた。
無論、それを受け取るべき男の姿は目の前には無く、まんまと敵の術中へ嵌りおおせた己の不甲斐無さに歯噛みするばかり。
コンッ、
それにしても奇妙なのは、先程から駆け回る屋敷の中に、全く人の気配が感じ取れない事実だ。
東西の総大将を受容れる事情から当然人払いをしてあるのだろうが、それにしても、ここまで派手に暴れていると言うのに隠密でさえ無関心とは――否、主の言い付けに只管(ひたすら)に従順であるのか――と、凶王・石田三成は日和見の腑抜けとしていた加賀国主への評価を改めざるを得ない。
コンッ、ココンッ、
戦国乱世を傾奇者回る虚(うつけ)の身内と思い侮っていたが、なかなかどうして、人心掌握術に長けた人物のようだと、
コン、コンッ
自軍の損害を一切顧みず、目的達成の為に無謀特攻を兵へ命じる非情の軍大将の様に見受けられるが、意外な程に部下へ目を配る一面を持つ西の総大将は、攻めるに堅牢な人の城を築く加賀の国へ、万が一戦となればどう手を打つべきか――…、と不穏な戦略を巡らせる。
が、しかし。
「五月蝿い!! 懺滅されたいのか!?」
一定の調子を取る軽快さが逆に不愉快な、耳触りの些音に思考を阻害され、三成は苛立つ音源へと射抜く眼差しをくれた。
「…キッ?」
すると――、穿つ視線の先には、紅白の結び紐も愛らしい小猿が、紅葉の様な小振りの両手いっぱいに団栗(どんぐり)の実を抱え、日当たりの良い縁側、丁度三成の目の前を悠々と横切ろうとしていたところだった。
「……小猿?」
先程からの音は、小猿が抱える木の実を取り溢すそれであったのかと得心したものの、何故こんな場所に猿が、と闇の最中に蠱惑の閃きを、光に曝されては背徳の煌めきを放つ銀刃の武将は、寸時考え込むと直ぐに凶相を牙剥いた。
「成程。見覚えがあると思えば、戯(たわけ)の供か」
刹那の速さで加賀風来坊の相棒――名は夢吉と言う―を左手に捕まえると、ぐ、と力を籠めながらか弱き生き物を容赦無く恫喝した。
「答えろ。貴様の飼い主は何処だ」
「…キッ、キィ……ッ」
絞め殺す勢いで迫る凶事の掌から逃れようと、必死で暴れる夢吉の懐から、拾い集めた団栗の実が、ころころと転がり落ちてゆく。
コン、コンコンッ、と小気味良い音が連続で響く、悲しくも小さな木の実達は、廊下の床板の上に好き好きに散らばってしまった。
「答えねば、このまま握り潰す」
禍々しき双眸の奥深く、果て無き奈落に本気を感じ取り、夢吉の中にある野生の本能が無条件降伏以外に命の助かる術は無いと、実に正確な判断を弾き出した。
「キッ…! キィキッ!!」
か弱き小動物というものは、肉食の獣に比べ劣る力の代わりに、知恵が十分に発達しているものだ。
ぴっ、と可愛らしく敬礼。
そして主人――つまりは慶次の居場所を、幼児のようなぷにとした指で迷わず指し示した。
「…フン、其方か。おい、貴様」
「…きっ!」
尊大な云い様に怯む夢吉の目の前で、三成は廊下に散かる大地色の木の実を屈んでひとつ残らず丁寧に拾い上げると、代わりに左手に握り込んでいた夢吉のふわもことした感触の毛並みを解放して、斬り込むような鋭さの一言を突き付ける。
「案内しろ」
集めた団栗を紅葉の手のひらに受け渡しながらの言葉は冷淡そのもの。
しかしながら、触れる指先の温度は心地良く、伝わる鼓動の暖かさに戸惑う。
現世万物一切を打ち果たさんとする狂乱の殺意はそこには無く、唯一残るのはぎこちない優しさの、
かけら、ひとひら、
はらりと。
「きぃ…?」
凶王の畏名を冠する武将の継接ぎ綻ぶ感情に、もふっと小首を傾げながらも、夢吉は団栗を胸いっぱいに抱え直し、きっきっとか細い鳴き声をあげながら、無明の禍ツ武将を主人の元へと導いた。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
文武両道・良妻賢母の手本のような女性、まつの腰入りのお陰で、屋敷の隅々にまで清掃が行き届いており、埃塗れる無様な顛末は避けられたが、それでも薄暗い物置の中に、体格の良い武将が三名もギュウギュウと詰められているというのは、異様な光景だった。
「…んー、大丈夫、そう、かな?」
こそりと引き戸の隙間から外の様子を窺うのは、加賀の次期当主となるべき立場の放蕩者で、むむ、と眉間に皺寄せ真剣な面持ちでいる姿は、年に数回目に掛れるかどうかの実に珍しき姿である。
そんな慶次のふんわりとしたひとつ結わいの髪の上、無駄に生えている羽飾りやらを片手で退けながら、同じく周囲に危険が無いか気配を探る銀髪の鬼神は、安堵よりも苦笑交えの呆れた溜息を漏らす。
「意外とこの屋敷ァ広いからな、若しかしてアイツも迷ってるんじゃねェのか?」
「あはは、東西総大将が揃って迷子かー。そりゃいいや」
「慶次っ、元親! 儂は別に好きこのんで迷ったわけでは…!」
「へいへい、分かってるって。石田のヤツに追い掛け回されたんだよな。
アイツ、滅茶苦茶だからな。”恐惶”とか、ありゃ反則技だわ」
「そうそう。あんなのと鬼ごっこなんて、そりゃ迷子にもなるさ」
既に体格だけなら、加賀の風来坊や土佐の鬼神に比べても遜色無い――と言うのに、どうにもお子様扱いの抜け切らぬ二人の態度に、過去には臣下に頼るばかりであった幼き時期を過ぎ、最早己とて乱世へ三葉葵の御旗を上げ一軍を率いる戦国武将の一人なのだと、あからさまに滲む不満に、年上の武将達は意味有り気に顔を見合わせ、クックッと不規則に肩を揺らした。
「……慶次。元親…っ」
そんな旧縁の戦武将達に対し、むぅ、と悔しそうに眉を寄せ唸るのは、若き東の総大将。
戦国の世に名乗りを上げた武将は数知れず、既に先人の具足で踏み荒らされた天下覇道を遅ばせながらに追い上げ、漸く有力国主達の隣へ肩を並べるに至った若造如き、
何が成せようぞ
自軍が勢力を拡大させる為出向いた交渉の先々で、陰に囁かれた中傷、侮蔑。
遅漏が豊臣の小童(こわっぱ)如きに総べられる天下であれば、寧ろ、くれてやるわとまで。
幾千の兵卒の命を預かり、自らも我が身ひとつに全てを賭ける戦国武将。それを莫迦にするにも程がある。数々の屈辱に耐え忍んで見せたのは、泰平の日の本を真に望む不動の信念故に、未熟の半人前扱いも、童子未満の侮りも、甘んじて受けてきたというのに、
(ただ、性質悪く揶揄られているだけだ。
慶次も元親も、年の差で相手の力量を軽んじる蒙昧の輩では無い。
…分かっている。分かっているのだが…)
幾年重ねようとも追いつけぬ広い背中、遥かな昴みを見上げるばかりのもどかしさ、焦がれるばかりに伸ばした腕は虚を掴んでは項垂れる。
「……、悔しい、な」
「ん〜? 家康なんか言った?」
「え…? …あっ?
…っと、いや。何でもない、独り言だ。
それよりも、慶次、元親。外の様子はどうだ?」
鬱積した心地に追い詰められ、無意識の内に、声が外に漏れていたらしい。
珍しくとっちらかした様子で体裁を取繕う家康に、慶次はふぅん、と鼻を鳴らし態度の可笑しさを流して見せた。
相手が言いたくない事は決して追及しない。隠そうとする物からはさり気無く目を逸らす。理屈では語れぬ無条件の信頼、肩を並べて重ねた笑顔の数だけ、厚みを増した幸福の絆を、最も無残な形で裂かれた風来坊独自の切なき処世術だ。
「大丈夫そうだね。何時までも隠れていても埒が明かないしさ。
取り合えず、一度外に出て――…、わっ?」
「キィッ!!」
くるりと後ろを振り返る風来坊の胸に、ぴょんと突然に飛び込んで来たのは、片時も離れず苦楽を共にする小さな友達――、飼い主よりも余程利口な小猿であった。
「なんだ、吃驚させないでおく――…、
……夢吉?」
団栗の実を両手に抱え込みながら、何とも器用に足だけで慶次の頭へよじ登り、キィキィと必死に喚き散らす様子に不穏なものを感じ取り、加賀前田の風来坊は、独特の甘い余韻を残す声を不審気に潜めた。
「慶次! 馬鹿、避けろ!!」
と、同時に瀬戸内の鬼武者に黒襟を物凄い力で引かれ、みっとも無く背後に転がりながらも、何とか襲撃の一閃の回避に成功する傾奇者。鈍色の切っ先に奪われた己の鳶色の髪先が、ハラハラと鼻先を掠めるのを、うわぁ、と茫然見遣るばかりに、恐怖が後からじわりと心の臓を掴まえた。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
「…漸く…見付けたぞ。
覚悟しろ!! 長宗我部! 前田慶次!!」
跡形も無く細切れとされた引き戸の向こう側、姿を現したのは予想通りの漆黒の艶も美しい闇色に塗れる西が総大将。凶王の名に相応しき狂おしさで、ただ、闇雲に駆り立てられる憎悪のまま刹那の刃を振るうばかり。
「貴様らの腐った性根を叩き直してくれる!!」
「いやいや、今のは明らかに殺すつもりの一撃だから!」
「この程度も避けれぬ腑抜けならば尚の事、私に懺滅されるがいい!!」
凶王の狂気を孕んだ殺気を見過ごしたのは、警戒範囲外から一気に間合いを詰められた所為だろう。疾風迅雷。居合い斬りの達人である神速の軍神と同等――いや純粋な疾さだけなら、神をも超える絶影の移動術だ。
「…もー、ムチャクチャだし。
元親〜、頼むよ。凶王さん何とかして……、元親?」
へたり、と物置の床の上に腰を落し上半身を半端に仰向けながら、降参とばかりに苦笑する慶次は、武家の生まれに不似合いな雅の諸手を両脇に添え上げ、怒りの矛先を変えようと精一杯に戯けてみせる――が、普段ならば打てば響くが如く、実に小気味良い科白を即座に転がす機転に富んだ相方からの反応が皆無で、ひょっこりと首を捻って不審がった。
「おーい、もとちかー?」
乱世に終焉無き永劫の恐怖を刻む狂気の刃・凶王 石田三成の姿を目にした瞬間から、奇妙に空気を張り詰めさせた土佐国主。彼の肩で波に踊るように揺れる牡丹色の西洋の衣が、鯔背(いなせ)な背中に緊張と抑圧された憤怒を感じ取り、慶次は軽薄な調子を即座に収め手探りの口調で再びそろそろと呼び掛けた。
「…元親?」
他人の色恋沙汰に目の色を輝かせる酔狂者の穿つ呼び声も、優しき縁の友には届かない。黒の下足袋を履いた荒足で大きく踏み込んで、西海の鬼神はガツ、と信念・信条・信義、その全てを身受ける西の凶王の痩せた両肩へ手を掛けた。当然、右肩へ担ぎ上げていた碇槍は不穏な音を立てて床へ減り込む。この一連の騒動による前田家の甚大な被害状況に、何処か冷静な頭の隅で、絶対土佐に修繕費を請求してやる、と誓う慶次である。
「……っ、何のつもりだ、ちょう――…、」
「何っつぅ格好してんだ、石田ァ!!!」
「……な、に?」
予想外過ぎる一喝に思わず怯む凶王は、ぱちくり、吊り上げた眦が驚きにくるり見開かれ、酷く無防備で幼い表情と反応を返した。
「何? じゃねェだろ! 馬鹿かお前ェは!!
こんな格好で何ウロついてんだ!!
ああ、もう、チクショウ!! 自覚がねェにも程があンだろ!!」
ぐい、と腰元へ結わいつけた着物の裾を乱暴に引き摺り下ろされ、訳も分からぬまま、瀬戸内の海を泰然自若と往く鬼神へ、膝を折り頭(こうべ)を垂れ、滅殺の刃と成るを誓いあげた凶王は激しく動揺した。
「何をする、長宗我部! これでは身動きが……っ!」
「良いんだよっ、これで!!
第一、怪我人が刀振り回して暴れてンじゃねーよ! 大人しく寝とけ!! 馬鹿野郎!!」
「なっ…! にを、そもそも貴様が元凶だろうがっ!!
私にあのような真似をしておきながら、ぬけぬけと野放図を口にするな!!」
忙しなく吼え立てる下弦の銀月の如き朧に美しき闇武将――の、頬は蒼白から朱へ、サァと紅を履く艶やかさに、目を奪われたのは恋し愛しの銀も仄かや白髪の鬼輩、
だけでは無く、
唖然、声も無く、息も失い、瞬きも忘れ、
ただ、焦金(こがね)の太陽は身震い戦慄いた。
抑圧された”何か”が。
胎の底に含み続けた赤黒く醜い”何か”。
無意識のうちに目を逸らし、知らぬ存ぜぬと遣り過し、手放した、諦めた、どうしても。
”ホシカッタモノ”
御し切れずに肥大する欲望は、異端へと堕ちる変貌に音啼く雄叫ぶ。
嗚呼、何故、アレは――…、
(ワシヲ ミナイ ノ ダロウ)
「…家康?」
「……っ!!」
気遣うように覗き込まれる、柔らかく穏やかな風が頬を撫で、鴇色の瞳がまるで吐息を紡ぐように滲んだ。
ふわり、思わず圧倒される豪壮の体躯から薫る、甘く愛くるしい香りに狂気の獣はくるり宥められ、優しき友が望みのまま、大人しく耳を伏せ威嚇の牙を収めた。
(……そうだ、いけない、儂は、)
日の本の闇を普く照らし、偉大なる光であれと。
誓い上げる拳が、無数の血骸で染まろうとも。
絆を語る浅ましさ、業に灼かれ煉獄へ魂を堕そうとも。
「…慶次」
「うん? 何だい?」
「三成は…、幸せなのだろうか…?」
「…家康はどう思うんだい?」
「――慶次は意地が悪いな」
答えるまでも無い。
神と崇めた唯一の光、”復讐”と呼ばれる呪詛に縛られ、己が無念が生み出した亡霊に未来を蝕まれ。
亡き太閤の威光に縋り、悲願に憑かれるがまま、生ける屍の如く正体無く狂い逝く友の姿を――嘆かぬ日など一日足りとて、無かった、というのに。
「少し妬けるな。以前の三成なら、真っ先に儂に向かっていたのに。
気付いても貰えぬとは、儂の矮小さを思い知らされるようだ」
「あの凶王さん相手に、よくそんな言葉出るよなー。
挨拶代わりに刃を向けられるなんて、おっかなくて御免だね」
「ふふ、それも三成なりの親愛の証と思えば、そう悪いものでもないぞ?」
「…うわ、ホント大物だよ。お前さんは」
呆れたとばかりに大仰に肩を竦める仕草、そんな芝居染みた風雅者の懐で、小さく愛らしい友が、きぃ、と相棒の嘆息に賛同するかのように短く鳴いてみせた。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
リリ…、リリリ、リリ…。
晩秋の風に揺れる薄に混じり、涼やかな羽音を夜に奏でる、鈴虫。
加賀の冬は真白い雪に大地を覆い尽くされ、美しくも非情の銀世界が一面に広がる程に厳しい――が今年は冬入りが遅く、秋枯れの景色に中秋の名月が如き好き加減の輝きが、深々と澄み渡る夜空を照らしていた。
「よっ、どうかしたのかい。家康」
「慶次か」
縁側に胡坐をかき、煌々と闇に浮かぶ月を無心に見上げていた家康は、廊下の奥より響く僅かな軋みをとうに察しており、右斜め後方より突如掛けられた声に驚く素振りも無く、堂々と受け答えた。
「お前こそ、こんな時分にどうした。
儂の事なら心配要らんぞ」
「言われなくとも、心配してないよ。
じゃなくてさ、こいつを持ってきた」
「うん?」
振り返る鼻先にのっぺりとした質感の徳利が突き出される、まぁるい陶磁の後ろで実に得意げな表情を浮かべるのは、一国の主たるに相応しき品格の檜皮の着物を卆なく纏う美丈夫――珍しく髪も下ろして、随分と落ち着いた出で立ちであったが、見慣れる派手な歌舞伎衣装よりも余程風情を感じさせた。
「まつねーちゃんの目を盗むのに苦労したんだぜー。
というわけでさ、一緒に飲まないかい、家康」
会心の悪戯を成功させた童子(わらし)のように、嬉しい戦利品を片手に邪気無く笑う友の姿に、家康は眉尻を下げ、申し訳無さそうに頭を掻いた。
「すまんな、気を遣わせて」
「だーかーら、そんなんじゃないって。
お前とやりたくなっただけだよ、ちびっこ大将がどれだけ大人になったのか、具合を確かめにね」
「妙な言い回しだな。好からぬ事を企んでいるのではあるまいな」
「やだなー、疑り深いよ。そんなわけないって、さっ、まずは一杯」
「言っておくが、儂は一応怪我人だぞ?」
「細かい事は気にしない気にしないっってね。大体、俺だって怪我人だしさ。
ほら、しっかり持ってないとこぼれるよ」
「…っとと、こら、慶次。注ぎすぎだ」
受け取る朱色の杯から伝い落ちる雫に苦笑いを、内面に桜と祭花火の意匠が施される器の美しさに瞳を細め、ぐい、と勢いをつけ一気に飲み干した。
「おーっと、いい飲みっぷりだねぇ。
あんなに小さかった家康が、こんな伊達男っぷりを魅せてくれるなんて。
いやー、夢にも思わなかったね」
「ふふ、煽てても何も出らんぞ」
空になった器に即座に注がれる透明の液体――かなりの上物なのだろう、円やかな喉越しに深みのある味わいが心地よい――の表面には緩く波紋を描く孤高の白銀月、その刹那の煌きは粉雪のように盃の内側に光を熾り成し舞い散る。
暫く、互いに物も謂わずに一つの盃を交し合った。
月影に暮れる夜、涼しげな晩秋の折、沈黙と近しい温もりが妙に心地好く、武の者達は揃い舌鼓の手酌酒に酔い痴れ時を忘れた。
「…美しいな」
ややあって、紅に夢酔い千鳥気に誘われるがまま、東の総大将はほろり口を滑らせた。
幾度も飲み交わしては濡れた朱塗りの盃の縁、黄金(きん)の双龍の彫りが月明かりに際立つその内へなみなみ注がれる酒を、美味そうに喉を鳴らしては飲み干し、空いた器を天の堕ち往く西方へ高々と掲げてみせる――姿、の。
かなしさよ。
押し寄せる寂寞から目を叛け、調子染みた言い草で場を凌ぐ、関ヶ原を制した天下の傾奇者。
「家康〜? なんだい、もう酔っ払ったのかい?」
「この程度で儂が酔うわけが無かろう」
「おっ、強気だねー。
それじゃ、次は俺の番だよ」
「………」
「いーえーやーすー?」
「………」
何度呼び掛けてみても、宥め賺しても、恍惚と仰ぐ先の魔性の清艶に魅入られる若き勇猛には届かない。頑なな小僧っ子の様子に、関ヶ原合戦を制した型破りの傾奇者は、やーれやれ、と凛と神々しくも麗しい天井の美姫を見初めた。
「家康」
そうして、珍しくも聞き分けの無い東の総大将へ、
「――幾らお前でも、月の光は酌めないよ」
敢えての突き放した声音で、痛烈な一言を、放つ。
ぴしゃり、頬を打つ痛みに、日ノ本が天照の将は我に返り、金色の相を遣る瀬無く彷徨わせた。
「……っ、分かってる。
分かっているとも、そのようなこと。
…分かっておる…!」
謂わんとするを察して、家康は苦々しさに長息を吐き出し、ぐい、と空の杯を優しい鳶色合いの髪の友の鍛えられた硬さの腹筋へと聊か乱暴に押し付けた。
「……。なぁ、家康」
「なんだ、慶次」
少し、大人気無い真似をしたかと、稚拙な自身へ嫌悪と後悔の念を過らせる東の若大将に、朱色の盃へ手酌で酒を注ぐ風来坊は、華やかな色の相貌をたおやかに締まる頬を緩ませ――堪え切れぬとばかりに盛大に吹き出した。
「くっくく、もうダメだっ、あはははっ!!
そうやって拗ねてると、ちびの頃思い出すよ。
かーわいいなー、家康!!」
「うわっ、何をする慶次!?
大体、儂は拗ねてなどおらんっ!!」
わしわし、と頭を抱えられ風来坊の雅な指先に乱暴にかいぐられる、ムキになって抵抗する姿が益々面白可笑く、慶次は愉快そうに肩を揺らすばかり。
「うんうん。だーいじょーぶ、大丈夫。分かってる、分かってるって」
「っ…、絶対分かってないだろう。慶次。
いい加減に放してくれ、重いし暑苦しい」
「…ぶはっ! あっはっはっはっは!!
やっぱり可愛いなー、お前」
「………。何故笑われているのか儂にはサッパリだ。
慶次、お前…。顔には出ておらんが、相当酔っているだろう?」
むぅ、と不機嫌そうに眉を潜め、性質の悪い酔漢と化した年上の腕で不貞腐れる家康は、そうしているとまるで年相応の――それこそ”童子”のようで、慶次は年の離れた弟を可愛がる心地になる。
大凡”東照権現”らしくない悪態が、甘えの証拠なのだと、指摘されなければ気付かない程に気を許されている。そんな事実がくすぐったいながらも大変に嬉しく誇らしく。しかし同時に、無条件に寄せられる信頼に胸の空隙が軋み、戦国の世に於いて最も困難な道を模索し続ける無謀な虚(うつけ)は、酒気を帯びた息を寂しげに吐き出した。
「……なぁ、家康」
「なんだ、酔っ払いの戯言なら聞かんぞ」
「うわ、冷たっ!
もー少しさぁ、年上を敬う気持ちを持ってくれてもいいんじゃない?」
「年上として敬わせたいのなら、離れてくれないか」
「それは却下〜」
「…慶次」
全くこの酒乱は、と背中から抱きついてくる巨漢の男のくるりと跳ねる鳶色の髪を、咎めるように軽く引っ張るのは、陽の化身のような光の若武将。
「あのさ、…家康」
「なんだ。先程から歯切れが悪いな。お前らしくもない」
「俺だって、言い難い事位あるってー」
「…それより、呑まないなら盃を貸してくれ」
「まーだ呑む気なのかい。こーの、のんべぇめ」
「今のお前にだけは言われたくない気がするな」
朱塗りの器を受け取り小さく苦笑するのは、戦国武将としての貫録を見せつける年下で、それが気に入らないと、繊細な織目の渋味が粋な着物を着こなす色男は、てしてし、と右の掌で生意気なツンツン頭を何度も八当たりに撫で付ける。
「…けいじ」
家康の弱り切った声音に、ザマァミロ、と何かの溜飲が下がるのを感じて、満面の笑みを浮かべるのは、実に大人げない真似をしてみせる加賀前田の次期当主様だ。
「うん。…うん」
「随分と満足そうだな。儂を困らせて楽しいのか、この酔っ払いめ」
傾けた徳利から最後の一滴が、銀月の姿を映し円錐の器に落ちるの惜しむように追いながら、現世(うつしよ)の栄枯盛衰・酸いも甘いも噛み締め深味を増した声音で、だらしのない大人を窘めるのは、かつて幼くも果敢な雄姿を見せつけ、三河武士の意地を古今東西に知らしめた矜持高き若武将。
「あはは、楽しいよー。
家康なんて、もうすっごく、困ればいいんだ」
「…ふふ、ひどいな」
バンバンと容赦の無い平手で肩を叩かれる、親愛の証なのだろうが、刃乱れ立つ戦世の天下人達と堂々渡り合う巨躯の武将の愛情表現は少々度が過ぎて困る。
「そうだよ、俺は酷い人間だからね」
「………」
「分かってるだろーけどさー。
お前が戦を起こした所為で、
泣いた人がいて、苦しんだ人もいて、命を奪われたやつがいるんだよ」
「……ああ」
今更、改めて突き付けられるでも無い事実に、家康は口の端を微かに吊り上げた。
偉大なる太閤へ愚かにも反旗を翻し、豊臣が平定を待つばかりの日の本へ再び戦火をまき散らした。在りし日の決断は己が信念が選び抜いた覇道(みち)であると、胸を張って誇れる。しかし”それ”が如何な惨劇を生み出し、悲劇を齎したのか、言われずとも。
「だから、お前はさ。責任を取るべきだと思うんだよね」
「……」
「もぅさ、泣いて、苦しんで、困って」
「………」
「そんで、…そんで、ひでよしの…ぶんまで、生きて…ゆるされ、て…」
「………!」
「…しあわせ… に、 なれ … ばか や ろ… ぉ」
「………」
すぅすぅ、と規則正しい寝息が背中から聞こえ始め、あまりの衝撃に詰まらせていた呼吸(いき)を家康はゆっくりと解し、両の手のひらで秀でた額ごとくしゃり歪む顔を俯きながら覆い尽くした。
「……どういう…、言い草だ…」
嗚呼、もう参った。
本当に、本当に、放埒な風の如く人の心を惑わす、この婆娑羅は性質が悪い。
「幸せに…なれ、などと。本当にどの口が…」
有り得ない、いやしかし、成る程『前田慶次』という男らしくもある。
古き縁の仇敵(かたき)として唾棄すべき相手へは、罵詈雑言や恨み辛みの呪言が相応であろうに。
大虚(おおうつけ)の呆け者と諳んじられる風来坊の口から飛び出たのは、最愛の親友(とも)の無限の未来を、再び隣合い笑いあう幸福の可能性を、無残に奪い去り、絆の跡形すら破壊し尽くした偽善の覇者への祝福の言葉。
「……重いな、」
背中に無遠慮に凭れかかる重みは、しかし、
「…けど、温かい」
優しい秋風にふわり綿毛の箒頭を揺らす薄の群れ、月は透き通る天空(そら)に一輪咲き続ける。決して届かぬと知りながら、我武者羅に腕を伸ばす姿が何とも滑稽で浅ましい事よ。武骨な指では何を求め掴もうとも、全て、壊してしまうというのに。愚かな欲望への決別を、それが、幸福を願ってくれた友への唯一の、
「…あたたかいな…」
背中から伝わる人の温もり、絆の重さ、いたみ。
俯き、表情を隠したままで。
東照権現の戦名を天下へ轟かせる勇将・徳川家康は、華やかな朱色の盃に残る苦い残滓を飲み干した。

2011/4/24 初稿