煉獄
第四話
絡んだ 鎖
――――――――――――――――――――
相葉祐希。
VGの現パイロットにて、天才とも囁かれる実に優秀な人物だ。
そして、――…相葉昂冶の実弟でもある。
リーヴェ・デルタの学生時代から常に他者より頭一つ抜きんでた存在だったが、それが、極限の危機に瀕して、その才能を爆発的に開花させた。
現在は黒の戦艦の牙としてVGを繰ることから、鑑内有数の権力者の一人として名を連ねている。
だが、その無法者っぷりは相変わらずで、他のトップ連中には見向きもせず、己の分をこなしては無言で巣へと帰って行く。
その、丁度彼が己の塒へと戻ろうとしている時を見計らって、鑑の名目上の最高責任者である少女は声を掛けた。
「――なんか用かよ」
「ええ、カレンさんに渡して貰いたいものが…」
「……?」
そんなもの直接本人に渡せとばかりに、面倒そうにねめつけてくるパイロットの少年。
しかしその視線に怯む素振りすら見せず、ユイリィは握っていた数枚の資料を手渡すと同時に、その間に挟み込んでいた小さな紙片を、素早く祐希の掌に押しつけた。
(…読んで)
「お願いね」
すれ違いざまに囁かれた言葉と、責任者然とした口調での台詞とは、大幅にその内容が違っていた。
――眉一つ動かさず、癖の強い黒髪の少年は拳を握り込んで紙片を潰す。
そして、気丈な後ろ姿を見送ろうともせず、彼女とは全く逆の方向へと立ち去っていったのだった。
――――――――――――――――――――
艦内統一時間AM1:00。
謎の感染症の蔓延と、その対応として全感染者の完全隔離は、艦内に仮初めの平穏をもたらした。だが、クルーの半数近くを失った今、リヴァイアスはそれ自体が巨大な棺のようだった。
事故当初、この戦艦に乗り継いだ頃には厭が応にも他者の目に晒される苦痛にさらされたが、それも今の状況から思い起こせば贅沢な悩みだったのかもしれない。
――…死の匂いの充満する世界に取り残されてゆく悲壮を、思えば……。
深夜であることを差し引いても、……この静けさは異様、だった。
(……コッチのブロックには全然来てなかったからな…。
くそっ! 何考えてんだ、あおいはッ…! ンなとこに一人で……)
家が隣同士で自然に一緒に時を過ごしてきた幼馴染みの少女の事を気遣い、祐希は微か、苛立った。
面倒見が良く、快活で人懐こい笑顔が可愛い彼女は、その社交的な性格から顔も広くつき合いも多い。その気ならば、他の知り合いのグループに世話になるのも、そう難しくは無いだろう。
なのに、今、彼女――蓬仙あおいはたったの一人で、最初部屋決めを行った場所に留まっているとの事なのだ。
(だいたい、兄貴のヤツなんで……!
……はッ、バカバカしい期待するだけ無駄か。あんな駄目兄貴に。自分の身を守ることすら……、……)
「………」
何処か、思い詰めた色を険しい暗い群青の眼差しに秘め、祐希は丸められた例の紙片をジーンズのポケットから探り出した。
今、部屋に一人でいます。
話したい事があるので、今夜1時半に来て下さい。あおい。
紛うことなく、それは古馴染みの少女の見慣れた筆跡で綴られたものだった。文体の乱れもなく、無理矢理書かされた様子も見受けられない。それに、この手紙を政権の中央に居る自分に届けたのは、誰でも無い艦長のユイリィ・バハナだ。公明正大を絵に描いたような存在の彼女が、何か良からぬ企みを抱いているとも荷担するとも考えにくい。
よって、この手紙には差出人本人の意志だけが反映されていると見てよいのだろう。
一人でいます。
話したい事があるので。
(……兄貴のヤツは…どうなってンだよ……)
そもそも、あの情けなくて役立たずでどうしようもないバカ兄貴でも、傍にいれば――あおいの傍にいてやりさえすれば、彼女がこんな内容の手紙を出してくる事など考えられない。
なら――…、どうして?
(弱ェくせに…なんでも首ツッ込むから…)
自衛すら――敵わないのだ。
あの傷ついた…傷付けた腕では…。
右腕の怪我は、成長期の少年から相応の体力と腕力を奪ったのだ。
無理なら大人しくしておけばいいのに、己の力量も弁えずに、無茶な事にまで手をだしてくる。大変だとわかっているのに、分の悪い事でも関わってしまう。本当に馬鹿だ。
(くそ…)
今更悔やんでも詮の無い事だと、祐希は人気のない艦内を待ち合わせの場所まで急いだのだった。
――――――――――――――――――――
「祐希ッ!」
「!?」
誰もいないのか? と、カーテン代わりの敷布をそっと捲って部屋の様子を窺う少年に向かい、彼の名を呼びその胸に飛び込む存在があった。
「っ、あおいっ?」
虚を突かれながらも、その柔らかい体を受け止めると、相手は確かに幼い頃から共に育った、一つお姉さんの少女だった。
その大きな眼一杯に、溢れんばかりの涙と不安を溜めて見上げてくる。
何時も年上であることを何かと振りかざして説教する隣家の少女の、始めて見る頼りなげな表情に、祐希は素直に驚き、と、同時に全身に冷水を浴びせられるような悪寒を感じた。
気丈で魅力的な笑顔で皆に接する少女が、このように取り乱しているということ、は――原因はただ一つしか思い当たらない。
「――兄貴に何かあったのか」
「………」
嗚咽で声が出ないのだろう、あおいは目を潤ませながらこくこくっと忙しなく頷いた。
「…こ…じっ…、…居なくなっ……、〜〜〜。
ゆーき…はっ……、れ・…んらく……取れないし…っ。あたし、……〜〜たしっ……」
「あおい、それじゃわかんねェ」
幼児退行でも起こしているのだろうか、ぐずるばかりで何ら説明になっていない。困惑する祐希は、縋ってくる相手にどう対処してよいのか分からず狼狽えるだけだ。
充分に甘やかされ愛されて育ち、その過程の途中で自らの過失で愛情を断ち切ってしまった少年には、他人に愛されたいという渇望だけが強く、己の内にある情を他者へ分け与える術を知らずに育ってしまった。
なので、許容や寛容といった、自らが譲歩し受け止める立場に立たされると、一気にその脆さが浮き彫りにされる。
ただ、その場に縫い止められ銅像のように微動だにせずいただけだが、それでも一頻り涙して落ち着いたのか、少女はそっと、無言のままの少年の背中に回していた華奢な腕を解いた。
「ごめん、……やだな、こんなカオ。不細工…」
おどけてみせるように、悲哀の名残を手の甲で払って、幼馴染みの少女ははにかむ。
何でもない、と、気丈にしてみせる姿が健気であり、美しくもあった。
「昂冶…のコトなんだけど」
口ごもり、チラリと泣き腫らした赤い目で窺ってくる彼女に、リヴァイアスの支配層に地位を確立する少年は、不機嫌な様子をあからさまにさせた。
「兄貴がなんだよ」
それでも、兄の名が出た途端に踵を返さぬだけ、多少は此方の話しを訊く姿勢でいてくれるのだろう。
「――行方不明なの…ちょっと前から」
普段、煩わしい程にお節介焼きで元気一杯な少女が、心の内にある不安の為か、語る声を微かに震わせていた。
「…行方不明って…、どういう事だよっ?」
顔色を失くす一つ年下の少年に対し、あおいは泣き濡れた瞳を何度か瞬かせて、ハッキリと答えた。
「―……どうなってるのか、あたしには全然判らない。
けれど、艦長――ユイリィさんに訊いたんだけど…もしかしたら、昂冶は尾瀬に何らかの理由で軟禁されてるんじゃないかって」
「……ハァッ?」
途端に、祐希は呆れたというニュアンスを醸した。
「ンで、尾瀬が兄貴をとッ捕まえる必要があんだよ。例え一緒だとしても、どうせあのお節介バカが身の程もわきまえずに尾瀬を説得でもしてんだろ?」
尾瀬、の単語が出ると同時に、我の強い少年は態度を硬質化させた。
「………ゆうき」
泣きすぎて腫れぼったくなった重たい瞼を持ち上げて、少女は溜息を吐くように、幼馴染みの名を紡いだ。
「バカ兄貴の心配よりも、お前は自分のコトを考えろよ。
今の状況で、一人で部屋に残るなんて襲ってくれっていってるようなもんだろ。番犬だってアテにならねぇってのに――」
「っ! あたしのことはいいからっ、昂治を……!」
「兄貴の話は止めろ!」
「――…ぅき…」
思わぬ激しさで拒絶され息を呑むあおいに、祐希は決まりの悪い顔でそっぽを向いて見せた。
「……尾瀬と一緒なんだろ、なんにもねーに決まってる。
兄貴のコトなんていいんだ……よっ…!?」
リヴァイアスの権力者たる一人、相葉祐希の言葉を聞き終わらぬ前に、瞳を潤ませた症状の掌は少年の頬を打ち据えていた。
パシッ、という乾いた音が、数秒遅れて脳に届く。
「ん、なっ…!」
なにをするのかと、咎める感情が、少女の眼光の鋭さを前に霧散した。
「――…今の、」
震える口唇が低い音を奏でる。
「今の尾瀬がどういう状態か、祐希にだって判ってるはずでしょう!?
なのに、尾瀬といるなら大丈夫だなんて、そんな訳ないじゃない、どうして…ッ。祐希は昂治の事心配じゃないのっ? どうなってもいいって――」
重低音から、女性特有のカン高い喚き声に色を変えて、
「――死んじゃってもいいって思ってるの!?」
意地っ張りなコドモの、核心を刺し貫いた――。
――――――――――――――――――――
熱の 檻

冷たい感触に、一瞬だけ意識が上向く。
「………」
朦朧とする中で、かすか捉えるのは友の輪郭だった。
「…クミ…?」
己の吐き出す息にすら、熱が籠もり――辛い。
呻くようなそれで名を囁けば、優しく……額に張り付く汗を拭われた。
そこで始めて、先ほどから心地よさを与える根源に行き着く。
(……きもち、いい…な…)
氷嚢代わりに、冷水で絞られたタオルが熱を散らしてくれているのだ。
(………ねつ?)
そこまで考えて、ふと我が身の状況を顧みる。
(……あ、れ? ……俺、なんで……ここ、どこ、だっ……け?)
学校を卒業し、家を出て、宙行士養成所リーベ・デルタへと――。
そこで、ああ、そうかと、高熱に魘される華奢な少年は得心いったと息を吐いた。
(そっか……ここ、リーベ・デルタだった……。
……俺、風邪でもひいたんだ……っけ?)
現状へと至った詳しい経緯が思い出せないが、病床の身では思考も巧く纏まらない。
幼い顔立ちを上気させる少年は、早々に思考を放棄して、ゆっくりと重い瞼を下ろす。
「………昂治」
閉ざされた視界では声の主を確認出来ないが、耳に馴染み易い優しい響きのそれは、間違い無く親友のものであろう。
また、迷惑を掛けてしまったな、と。
申し訳無さに、心が痛んだ。
「……昂治……、目、開けてくれよ…っ」
(――…?)
それは、久しく聞かぬ、弱々しき懇願。
常にあるべきと心得るのは、気紛れな風にのる雲のように、正体も無く空を漂うばかりの軽やかさ。
誰とでも臆さず巧みな話術で親しくなる一方、一定以上踏み込まれるのを酷く嫌う――いや、懼れる、故に、己の本心を掴ませない悟らせない、望みなど決して口にしない。
そんな、友の性質を知る為に、切迫した願いは切なく感情を揺さぶった。
まるで底の無い沼に沈み込んでゆくかのように、意識が重たげな闇に溶け込んでゆく。生物の本能的三大欲求に必死で抵抗すると、残る力全てを振り絞って、瞼を持ち上げた。
「………こぉじ…」
霞んで見える世界に映り込むのは、酷く憔悴した親友の、悲壮に歪んだ表情(。
どうかしたのかと、問いつめたくとも潰れた喉からは、人の常温を越えた熱が吐息と共に吐き出されるだけだ。
「……昂治っ、……俺が判るか…? …なぁっ!」
「………」
切迫した友の様子を訝しむ存在には、その言葉に応えられるだけの余力も無い。
「………昂治ぃっ!!」
悲痛な叫びを最後に、病魔にその身を蝕まれる少年は意識を手放した
――――――――――――――――――――
現在リヴァイアスの政権を掌握する覇者『尾瀬イクミ』が、プライベートルームとして使用している教官室の一室へと、好んで足を運ぶ者は極端に限られている。
尾瀬の私設警備団と化したガーディアンズのリーダー達か、もしくは、尾瀬の第一の信望者と成り果てた頭の切れるクルー、ヘイガーだけだ。
そんな人気の無い場所で、更に人目を避けるようにして、彼はいた――。
「………」
封をされた手紙を手元で玩びながら、思索に耽る姿はその人物にしては非常に珍しい事だ。
幼い頃よりの馴染みの関係である少女の悲痛に背中を押されるようにして、この場に足を運んだ相葉祐希だが、その途中ある人物に気になる事を告げられていた。
『――…少し、いいかしら』
『……あ? なんだよ』
激しく威嚇する眼光の鋭さに、困惑の微笑を浮かべて、彼女はそっと近づいた。
『相葉昂治くんの処へ行くのよね…? なら、これを――』
『――?』
警戒態勢を敷きながらも、手渡された封筒を黙って受け取る少年に彼女――リヴァイアスの艦長であり、ツヴァイの統率者でもある、ユイリィ・バハナは安堵した。
『その…おかしなことを言うと思われるでしょうけど……。
万が一、相葉君が具合を悪くしているようなら、この手紙を読んで欲しいの』
『……どういう事だよ』
『――…ごめんなさい、でも…お願い』
多くは語れない――そんな雰囲気だった。
仮にも、数多くの生徒達の人望を集めるだけの器の持ち主だ、悪意ある真似はするまいと祐希は真白いそれをポケットに突っ込んだのだった。
――――――――――――――――――――
そんな先刻のやり取りを思い出しながら、やがて硬質な黒髪と好戦的な野生の眼光が特徴のエースパイロットは、深く溜息を吐いた。
(――…ンで、俺がこんな真似ッ…)
世話好きで気さくな性格の隣家の少女が、嘆きの表情で口にした願いを叶えるべく、リヴァイアスの実力者が一人、相葉祐希は、尾瀬が個人的に利用する教官室部へ単身乗り込むべくいる。
その顔色は、決して朗らかではなく、苦々くすらあった。
(第一…、何処の馬の骨とも知らねェ奴等に拉致されたとか、そういうんじゃねーだろっ!? 尾瀬と一緒で何の問題があるってんだよッ……!)
確かに、今の尾瀬イクミは人が人間として存在する為に必要な螺子が、一本と言わず、纏めて十本くらい飛んでいる。おそらく、現在の彼の意志に反すれば容赦無き制裁が、そう、神の鉄槌の如く振り下ろされる事になるだろう――誰であろうとも、だ。
狂気と正気の合間に危なげに己を保つ今の尾瀬に、まともな判断力など望むべくもない。
しかし、そうあっても尚――あの男は……。
(……バカ兄貴が一番安全な場所だろ…トチ狂ってるとは言え、あの野郎の傍なら……)
尾瀬が絶対的支配者として艦内全てに睨みを効かせていても、どうしても、端々にまでは目が届かない。
いくら黒の戦艦そのものが得体の知れぬ疫病に冒され、健康体であるクルーの数を激減させていても、やはり、時と場合を弁えない出来損ないというのは存在するのだ。
そうなると、最も気がかりなのは――兄の身柄、その安全。
不本意ながらも、自分自身の肉体が、相葉昂治なる人物と血縁関係にあるのは如何ともし難い事実であり、また、尾瀬にとって最も親しくしていた友であることも、今更否定してみたところで、変えようの無い過去なのだ。
支配者階級に籍を置く尾瀬や相葉祐希、彼らに対する不平不満の一切が何処へ向かって流れてゆくのか、阿呆でも予想がつく事だ。
尾瀬の傍にいれば、少なくとも愚者共の乱暴からは、逃れられる。
桔梗の花弁のような髪の色をした少女は、その尾瀬の変貌が昂治すらも傷つけるのでは無いかと気を揉んでいるようだが――。
(……ねェよ、ありえねー。アイツが兄貴を…なんて)
理屈では無く、半ばカンのようなものだが、それは粗野ながらも整った印象を受ける面差しの少年の内で、確信ですらあった。
(………ありえねーし、もし……あおいの言う通りになってたとしたら…)
――――――――――――――――――――
――…万が一にも、兄の亡骸をあの部屋で目の当たりにする結果となったなら――。
――――――――――――――――――――
「―――ッ!」
悪寒が強烈な衝撃となって、成長過程の少年の身体を縦横に巡った。
(バカバカしいっ! 行ってみりゃ済むことだろッ!)
思わず浮かんだ陰鬱な想像を乱暴に振り払って、祐希はキッと目的の場所を睨み付けた。
――すると、丁度ヘイガーが尾瀬を呼びに来たのが窺えた。
慇懃無礼な態度を旨とする狡猾なクルーは、手元の薄い電子ノートを開いて何事かを尾瀬に申し立てていたようだが、そうもしない内に二人揃ってブリッジの方へと去っていった。
(………暫く、帰ってくんなよ)
彼らの気配が完全に消えるのを確認して、天才の呼び声高いエースパイロットは俊敏にその身を翻したのだった。
――――――――――――――――――――
室内は照明が最低限にまで絞られていた。
薄暗い灯りの下で、用心深く周囲の様子を窺えば、直ぐに目標の補足に至る。
(……兄貴…)
――…やはり、尾瀬の処に居たのか、と。
普通に浮かんだ感想に、普通じゃなく胸が痛んだ。
とりあえずこれで、行方不明という不安要素の一つが解消されたわけだが……。
(……氷水?)
気配を殺しながら直ぐ傍まで近づいてみると、兄が横たわるベッドサイドに用意されたものに、目がゆく。触れてみると、指先がヒヤリと痛んだ。
「………」
熱でも出して――それで、ここで寝込んでいるのかと、真っ先にそう当たりをつける。
「……おいっ」
病が原因で尾瀬の部屋で養生しているというのなら、何の問題も無い。その旨を、幼なじみの少女に説明し、不安を拭えば済む事だ。
「おい、兄貴…ッ、起きろ」
病床の身に容赦の無い態度で、祐希は兄の肩を掴んで軽く揺すった。
「………?」
意識を混濁させながらも、外界からの強い刺激に強制的な覚醒を促され、昏倒する少年はうっすらと眼を開けた。
「――…アニキ、判るか?」
「………」
声を紡ぐ為に口唇が微かに戦慄(わなな)くが、言葉とするには力が及ばない。
仕方なく、昂治はほんの小さな仕草で頷き返した。
(……ゆうき…?)
その瞳は何よりも雄弁に、実弟の存在を訝っていた。
実の兄弟――兄である自分を何処までも否定する頑なな弟が、今、ここに居る事に信じられない心地であったからだ。
「…そんな目しなくても、用件が済めば直ぐ出ていくぜ――アンタ、別に尾瀬のヤツに監禁されてるわけじゃないんだよな?」
そんな兄の心情を悟って、黒髪の天才少年は苛立ったように吐き捨てた。
(……おぜ…? ……イクミ……に…?)
相手の言葉の意味を理解するのに十数秒程必要とするのは、仕様のない事だ。一向に引かぬ熱は、全身を巡り巡って、脳にまで籠もってしまっていたから。
(………かんきん…、……? ………何、言って……)
完全に理解不能な弟の言葉をよく呑み込めずに、昂治は二、三度ゆっくりとした瞬きを繰り返した。
「……とっとと答えろよッ、何でもなけりゃもう用はねェ…俺は帰るぜ」
ものの数秒で機嫌を損ねた弟の、その余りにらしい物言いに何処か懐かしさすら感じて昂治は光に眩むように目を細めた。
「………っ、ぃ」
何か――返そうとしてヒュッと喉から空気が漏れる音がする。
だが、それだけだ。
辛そうに充血した瞳を伏せ、熱くなりすぎた呼吸を吐く。
(……なんだよ、ンなに…キツイのか…?)
そこで始めて――病床の兄が尋常ならざる状態なのではと、横顔に不安を色濃くする、権力者が少年。
(……そういや、コレ)
人が心配しているというのに、呑気に寝台で養生している兄の態度にカッときて直ぐには思いつかなかったが――艦長から託された手紙を、祐希は躊躇わず開いた。
「―――!」
一言、――たったの一言で綴られた事柄は、簡素なだけに疑うべき要素も見つからず。
厄禍を伝えるその紙を中身ごと消し去るように、握りつぶしたのだった。
――――――――――――――――――――
己の確立する政権、そこに最も大きく貢献するクルーに呼び出された尾瀬は、リヴァイアスの稼働率における、低下異常についての報告にブリッジで目を通していた。
(……まだ、そう深刻な事態じゃないが――原因が不明ってのは気になるな)
航海に支障をきたす範囲では無いが、やはり放置しておくわけにはいかない。いつ何時重大な事態を引き起こすともしれないからだ。
(――…まさかとは思うが、M−03が関係している…?)
ヘイガーが纏めたファイルをよくよく観察すると、丁度、この戦艦に奇病が流行し死者が出だした辺りから徐々に機能の落ち込みがみられるように――。
(いや、ただの偶然か…それともクルーの絶対数激減が作業効率に影響しているだけか)
いくらこの場で考えを巡らせようとも栓のない事だ。
無駄な思考を断ち切り、黒の王国の覇者は疲労を感じて背もたれに自重を預けた。
(……昂治…)
部屋を後にして、もう二時間ばかりが経過している。
熱は多少落ち着き、安定してはいたが、それでも高熱が続いていることには変わりない。片時とて傍を離れたくなかったが、自分が部屋に籠もればまたリヴァイアスは乱れる。
治安維持の為に、馬鹿共を常に牽制する必要があるのだ。
刃向かう気概すら起こらぬように、決して敵う事の無い力の差を、歴然と見せつける必要が――。
油断のならぬ事情だけに、己の都合を優先させるわけにはゆかぬが、それでも可能な限り尾瀬は病に伏す少年を甲斐甲斐しく介抱していた。
「……部屋に戻る。後は任せた」
「はい…――」
今も、最低限の指示を片腕の地位につく冷静なクルーに出して、ブリッジを後にした。
虎の威を借る狐――とはよく言ったものだが、尾瀬を積極的にサポートするヘイガーにとっても、覇者である彼がリヴァイアスの多くを自分に委任してくる事は実に好都合。
――…尾瀬イクミの名を借りての横暴が可能となるからだ。
「私めに、お任せください」
尾瀬には決して見えぬ角度で口の端を上げて、ヘイガーは厭らしく笑んでいた。
――――――――――――――――――――
シュン、というエアー音と共に、部屋の照明が灯された。
眩しさに不愉快そうな顔をして彼がその場に居る事に、王国の覇者である少年はさして驚きもせずに事実を受け流した。
「――…無断で部屋に入るなよ、それくらいの躾も出来てないのか」
「…ブチギレ野郎に説教される謂われはねェな」
刺々しい言葉の応酬は、しかし、病を患う昂治の事を思いやって酷く潜められていた。
「…何の用か知らないが、話なら後から聞く。今は出ていけ」
「――後? ンな悠長な事してられねェな。てめぇ、なんで感染した兄貴をココに置いてるんだ」
周りくどい言い方をし、互いの腹を探るような真似は趣味じゃないと、荒々しい気性の少年は低く唸る。
「……誰に入れ知恵されたのか知らないが、昂治のはただの風邪だ」
「――…へぇ」
あくまでシラを切り通すつもりかと、対峙する黒髪の方が剣呑と瞳を歪めてみせた。
「面白い言い訳じゃねェか。けどな――…」
そっと、祐希は兄の病んだ身体を覆う掛布を捲り上げた。
顕わになった首筋、その耳に掛かる茶金の髪を労るように掻き分けて、上気する肌に慎重に触れた。
「……この痣、感染者の証拠だってな?」
「――…で、何が言いたいんだ。お前は」
何処から情報を嗅ぎつけたものか、おそらく大方の事情に精通している少年相手に幾ら惚けてみせても無駄だろうと、尾瀬は観念したようだ。
「何が…じゃねぇだろ。
テメェがやってる事だろ、感染者の隔離計画とやらはよ。なのに、兄貴をココに匿うってのはどういう了見だ」
平素から挑発的に輝いている黒い両眼が、今や、野生の獣を想わせる獰猛さで睨み付けてきていた。
「…下らないな」
しかし、年を一つ下にする少年の怒りを軽く受け流して、新緑の瞳に深い闇を抱えた覇者は薄く嗤う。
「……下らない、だと?」
尾瀬のその嘲笑が余程腹に据えかねると見えて、祐希は更に目つきを険しくした。
「ああ、下らない。そんな事はどうでもいいから、退けよ――」
言い捨てて、狂王は病の床に伏す愛しい存在の傍へと足を運んだ。
「……大体、お前は俺の事も昂治の事も、どうでもいいんだろ。自分以外の人間なんて、クズなんだろ。――…だったら、放っておけよ。天才ボーヤ」
淡々とした口調に無象の悪意。
一瞬迫力に呑まれかけて返す言葉を失う祐希に、ククッと尾瀬は不吉にも艶やかな微笑みを浮かべた。
「――…なぁ、昂治…」
そして、第三者の身であるにも関わらず思わず身を竦ませてしまう、その毒を孕んだ甘い囁き――声。
「……愛してる…」
「…ッ!?」
無法な侵入者の手で剥がれた掛布をそっと肩まで戻してやりながら、尾瀬は昏睡する昂治の乾いた口唇に、優しく、優しい――…。
接吻を。
――――――――――――――――――――