「 死の鳥よ 祝福を 」
堕天
第二話
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『副艦長の、訃報をきいた』
頼りなげに体中を震わせる少年が、か細い声で虚ろに呟いた。
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『あおいも、いなくなった』
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それが、彼の幼なじみの少女を指すことは、なんとなく察せられた。
どうしてやることが出来るだろうか。
失われてゆく掛け替えのない存在を、再び与えてやることが出来るのならば、そうしよう。
しかし、悲しいかな『人間』は無力だ。
死した魂を現世へ呼び戻すなど、神懸かりな無理難題。
そう、絶対的に不可能、なのだから。
ただ、抱き留めることしか、出来ないではないか。
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泣き疲れて微睡むか細い躯を胸の内に抱き締め、ブルーは軽く溜息を吐いた。
黒の戦艦リヴァイアスの現状は酷く切迫したもので、一刻の猶予もなかろう。ただ一日一日を過ごす、それだけで人の命ははらはらと、まるで風雨に曝される花弁のように散っては消えゆく。
いや、本音を言うなれば『他人の生命』など、どうでもいい。
『金』という薄っぺらい紙切れのよりも、なお軽いそれを、重んじるような上品な教育とやらは受けてないのだ。
ただ――…。
(人の体温が…)
気持ちいい。
特に性的な興奮を求めたわけでもなく、多くの人間と関係を持ったのは、概ね、その理由として『人肌の温もり』だろうか。
愛情に飢えているなどと、そんな甘え切った泣き言を今更吐く程、愚かじゃない。
ただ、理屈ではなく。
「………」
腕の中、泣き腫らした顔で眠り続ける一つ年上の少年の髪に触れ、そろりと撫でる。と、ン…と小さく身じろぎした後、すり寄るような仕草をみせる。
「………」
ふっ、と。
凍り付いた眼差しを優しく滲ませて、そのまま犬猫を可愛がるような動作で髪を梳いてやる。
そして、軽く抱き締めて。
永遠に光を見ない黒の戦艦の、無機質な内壁を諦めた瞳で見上げた。
(このまま…、この場所で死ぬのも悪くはない…)
死に場所を求め彷徨う旅人のように、眼差しは儚く揺らめいて。けれど、そうする事の出来ぬ理由が、今、腕の中にある。
全身で感じる恐ろしさを口にすることも叶わず、必死で大丈夫だと虚勢を張ってみせる、か弱き生き物が――…どうしてか、こんなにも愛しい。
(俺が死ねば、……お前はどうする…?)
やはり、他の誰かの腕の中に縋り泣き崩れて弱々しい姿を晒すのだろうか…? そして、知り合いが死んだのだと、口にするのだろうか……?
詮のないことをつらつらと考え、女々しい己の一面をブルーは冷笑した。
ここの所の発熱の所為なのだろうか、気弱になっているらしい自覚がある。
身体能力の高さと心身の頑強さを自負する身としては、実に珍しい事に、ここ三日程、そう、丁度、昂冶と以前別れた辺りから。
――微熱が、続いていた。
「――…熱…?」
そこで、自らの考えに疑問符を投げかけるブルー。
生まれてこの方大きな病など発症したこともないこの身が、突然の熱に侵されている。そして、艦内に蔓延するのは謎の熱病『M-03』。
この奇妙な符号の一致に、まさか、と目を見張る。
が、直ぐに思い直して、いつものように表情を凍り付かせる。
(……リヴァイアスに在るならば…当然の結果か)
黒の戦艦に身を置く以上。決して逃れるられぬ行き先が、影のようにつきまとうのだ。
掃き溜めの如く現(うつつ)に産み落とされた時より、人は既に平等ではなく、血統や出生といった業を負う事になる。
唯一、万物平等に天が与え賜うものが、終焉。
生きとしいける生命全てにやってくる、死という名の黒鳥。
時期の違いはあれど、いつかは翼をはためかせやってくる死の鳥を、今、この場にて捕らえたからといって、奇妙な事などではない。
哀しませるだろうか。
そんな、埒もあかぬ事を思い浮かべ、ブルーは口の端を微か、つり上げた。
「……どうであろうと、……仕方のない事、か…」
先を思い悩んだところできたるべき結末は、無力な人の身では手の加えようもない。
今はただ、
この手の中にある命のぬくもりを、
護り続けるだけ――…。
絹糸のような手触りの髪を、さらりと梳いて。
その一筋に、ブルーは儀式めいた口づけを落とすのだった。
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ブリッジの良心的存在であった少女を思わぬ形で失い、リヴァイアスの覇者たる尾瀬の、妄執的な正義を諫める者は誰一人としていなくなった。
自害の事実は隠蔽される前に一般生徒に広がり、波紋を呼んだ。
ユイリィ・バハナという名を持つ少女に全幅の信頼を寄せていた生徒の中には、後追い自殺者が出るのではと懸念されたが、艦内は不気味な静けさを保ったままだった。
絶望の果てで、人の心はまるで、なみなみと水を湛えたガラスの器。
一杯になった感情が溢れるのが先か、器(が壊れるのが先か。どちらにしろ、結果が知れるのはそう先の事ではあるまい。
終焉の刻は目前に迫っていた――。
――――――――――――――――――――
親友(の狂気を止めることも、弟の暴走を抑えることも、出来なかった。
自惚れていたわけじゃない。
自分の存在を過剰評価していたわけでもない。
それでも、
――…自分が想う位には、想われていると、無条件で信じていた。
勝手に期待して。
勝手に信じて。
勝手に裏切られたと、傷ついて。
確かな絆を感じたわけでもないのに、全て、手前勝手な思い込み。
だから、想いを抱えたまま、吐き出すことすら。
叶わずに、――いた。
それら、様々な感情が混ざり合い濁流の如く心の堰を切り、……泣いてしまって、少し、楽になった。
溜め込んで来たものを、吐き出してしまえたから。
「………」
ゆっくりと覚醒を迎えた少年は、暫し、己の置かれた状況を把握出来ずに茫洋と瞬きを繰り返した。
頭と瞼が重い。
体は相変わらず鉛のようだ。
目が、ぱりぱりとする。
(……?)
けど、あったかい。
(…………そっか、俺……ブルーのとこで……)
無様に泣き出してしまったのだ。
迷惑だろうと、なんとか昂ぶる気持ちを堰き止めようとしたのだが、
突き放される痛みならもう慣れた。耐える術も知っている。けれど、こんなにも優しくされたら、……こんなにも、脆い。
「…起きたのか…」
頭上から落ち着いた声が届く。耳馴染んだ心地よいそれに、ほうっ、と、昂冶は息を吐き出した。
「……うん。」
「…………そうか」
髪を梳く指の感触が気持ちいい。
まるで毛並みを整えられるペットのようにうっとりとしていると、優しく名を呼ばれた。
「……?」
交錯する想いに揺れる澄み切った空色の眼差しが、陽炎の如く揺らめいて、蒼の逃亡者の姿を捉えた。
「………」
何? と、問いかけてくる視線の方すら見ようともせず、ブルーは薄布を一枚床に敷くと、細心を払い抱き留める細い躰を横たえた。
「………っ?」
途端、心細さに震えて泣きだしそうに歪められる双眸。
勿論の事、ブルーは決して腕(に抱く存在を疎んじてそうしたのではないが、他者に気を使いすぎる傾向が見受けられる少年にしてみれば、迷惑だったのだろうかと、心中穏やかではない。
「……昂冶……」
「………?」
優しい低音が、耳朶を擽る。
気付けば、凍り付いた眼差しが間近に迫り、驚きに息を呑む。
「ブルー……っ?」
瞬きの合間に、接吻は与えられて、いた。
――――――――――――――――――――
――キス、されることに、何故か嫌悪感はなかった。
現実感に乏しい極限に、まともな思考を奪れているのかもしれない。
世界に追いつめられる錯覚に溺れて、舌を絡めあわせる。
初めての感覚に、心と体が震えた。
「……ッ。ブルー……」
互いの唾液で濡れた唇は艶と熱を持ち、淫猥な気配を漂わせた。
「………黙っていろ」
「………っ」
全てを拒絶するかのように、常に孤高の輝きを放つ蒼色の双眸は情欲に濡れたまま、昂冶をその場に縫い止める。
そのまま、微かに濡れた口唇を肌に合わすと、ブルーは丁寧な愛撫を加えた。
しかし、愛撫と呼ぶには児戯めいたそれ。
優しく肌の上を辿り、首筋を甘噛みし、右の掌でさらりと流れる金茶の髪を梳く。
慎重に事を進めることで、緊張を解そうとしているのだろう。
一見、他者を顧みぬように見受けられる蒼の独狼は、一度懐に入れた者には酷く甘いという一面を持つ。
「………ふ、ぅ」
吐息(が次第に弾みだす。
病的な白さの肌が淡い桃色に染まって、男を誘った。
「ぶるぅ……、や、めっ………何っ…、ぁ」
白のシャツをたくし上げられて、薄い胸を何度も掌で擦り上げられる。それだけでも、心が千々に乱れて、思考が纏まらない。
手首近い掌の腹で胸の尖りを押しつぶすように愛撫され、ますます昂冶は混乱した。
「…………っあ、く…」
戸惑いがちな嬌声。それを、快楽に染め上げてしまいたくて、凶暴な気分がじわじわと覚醒を迎える。
「……っ、あ、ブルーッ……め…」
カチャカチャ、という金属音が、いやにハッキリと耳に付く。
続くジッパーを下ろされる音、そして、慣れた手つきで微かに息づく花心を弄ばれる。
元々、こういう色事には疎く、色情にも淡泊な方なので、自慰すら同年代の子らに比べて少ない自覚がある。
なので、他人の手で秘所を暴かれ、散々に嬲られるという行為に晒され、いっそ、消えてしまいたい程の羞恥に襲われる。
「………」
明らかに『初めて』な反応をする獲物の淫らな可愛らしさに、そうっとブルーは欲に滲んだ眼差しを細めた。
……男も女も、一通りには経験している。
それなのに、まるで、昂冶の初さに引きずられるようにして胸が高鳴る。
「やだっ……、って、だめっ……」
ブルーの指先が、触れて、形を辿るだけのそれから、明らかに遂情を促す動きに変わってゆく。
何もかもが未知の体験で、与えられる感覚をやり過ごす事も耐える事も…到底、不可能だ。
だからといって、あっさりと全てをこの綺麗な野生の手の内に吐き出してしまうには激しい抵抗を感じる。
「…………やぁ……」
ブルーの腕と肩に手を掛けて、なんとか彼の愛撫を止めさせようと試みるが、快楽に呑まれて力など籠もるはずもない。僅かばかりの抵抗は、かえって男の自虐心を煽るだけだ。
「……昂冶……」
緊張と羞恥で固まり縮こまる中心を、ブルーは酷く優しく導いてゆく。
最期の時を一層激しくなった動きが促して、
「あ・あぁっ……!」
ついには、白濁を全て吐き出して浅い息を繰り返す哀れな獲物。
己の身に起こった事を把握出来ずに、ただ、茫洋と涙に濡れた瞳をうつろわせて昂冶は放心していた。
かくかくと、未だ絶頂の余韻に微かに震える大腿に、宥めるように接吻を落としながら、ブルーは下肢を包む全ての衣を剥ぎ取った。
「………ッ…」
だらしなく左右に割られた白の足の合間には綺麗な蒼色が、さらさらと流れ落ちて往く。
余りに恥辱敵な光景に、遂には声を詰まらせはらはらと泣き出してしまう昂冶。
「…………!」
流石に『泣かれる』のは予想外だったのか、少々面食らって、征服者たる蒼の野生は幼い子をあやすように何度も髪を梳いた。
「…………すまない…」
短い言葉は、常から寡黙な彼らしい、精一杯の謝罪。
「もう……しないから…、……泣くな…」
………泣くな。
――――――――――――――――――――
誰もいなくなった部屋の簡素な寝床で休憩を取りながら、昂冶はバンダナをじっと見つめていた。
あれから…ブルーは自分のバンダナで硬直したままの昂冶の花心を拭うと、そのまま服を元通りに着せ、気持ちが落ち着くまで抱いていてくれたのだ。
まさかその…処理に使ったバンダナをそのままいしておくわけにはいかず、洗って返すから、と、無理を言って貸してもらったのだが。
洗いたての綺麗なそれを手に、昂冶は赤い顔で『事』を思い起こしていた。
初めて他人に導かれた絶頂。
何もかもが真っ白になって、ただ、与えられる快楽に気が遠くなった。
(〜〜〜〜〜っ)
今、冷静になって思い出せば、とんでもない経験をした気がする。
――キスして、身体中触られて。
中心にまで指を絡められて、……暴かれた。
(うわわわわわっ……!)
恥ずかしさに七転八倒する昂冶は、寝床の上でごろごろごろと転がる。
(あ、あれって、やっぱ………セックス…だよな……?)
更に、ごろごろごろ。
幾らそういう方面に疎いとはいえ、人並みには興味くらい持っている。あの行為が、どういう言葉で呼ばれるものか、知らぬほど鈍くはないのだ。
が。
世間一般的な情事。セックス、と呼ばれるそれらと。自分とがどうしても結びつかない。
大体が、あういうのは思い合った男女が交わすものではないのか、というのが真面目な昂冶らしき見解なので。
ブルーに自分が『抱かれる』なんて、思考の範囲外だ。
更にタチが悪いことには。
(………………嫌、じゃ……………なかった……)
恥ずかしさと驚きで泣き出してしまったとはいえ、行為そのものはさほどの嫌悪感を感じていなかったのだ。いや、それどころか、全てを委ねてしまいたいという思いにすら駆られた。
(……大体、ブルーはどういうつもりであんな……)
年上を揶揄っただけとも思いがたい。そもそも、そんな子どもじみた悪戯をするような性格でもない。
(………そういえば、なんか場慣れしてた…よな?…)
随分と慣れた手つきだったと、ふと、昂冶は思ってしまってから何かもやもやっとした気分を胸に抱えてしまった。
「…なんだろ、なんかムカムカする」
ブルーのバンダナを綺麗にたたんで枕元に置くと、これ以上余計な事を考えるのは止めようと、昂冶は浅い眠りについたのだった。
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謎の病魔の所為で、艦内は人の気配が殆どしない。
静まり返った黒の戦艦は、それ自体がまるで巨大な棺のようだ。黒のリヴァイアスを最高の鑑(ふね)だと歓呼した日は、既に遠い昔のこと……。
「兄貴」
「……………ん」
「兄貴」
「………んんっ…?」
「起きろよ、兄貴」
「…………?」
リヴァイアスにクルーは数多くいれど、相葉昂冶という人物を『兄貴』と呼ぶのは、世界にもただ一人きりだ。
血の繋がった、正真正銘の兄弟である、弟・相葉祐希。
その、神に愛された才能を如何なく発揮し、今では黒の戦艦の権力者として名を連ねる時の人。……ちなみに、兄弟仲は最悪、なのだが。
「………祐希っ?」
間違っても、自分から兄の元へとやってくるような性格じゃないひねくれ弟の、突然の訪問に、昂冶は驚きを隠せずにいた。
「…騒ぐなよ。」
言って、未だよく現状を把握し切れていない兄の掌に、祐希は何かを押しつけた。
「?」
「……ブリッジの連中にだけ配られた特別仕様の抗体カプセルだ。
飲めよ」
「………」
不遜な物言いではあるが、兄を気遣ってわざわざ一般クルー区画にまで足を運んだのだ。
艦内に生活する多くの者が無気力に日々を送っているのだが、中には、他人のポイントを奪ったりする悪事を働く者も少なくはない。
そのような輩にとって、ブリッジの権力者達は絶好の獲物だ。彼らのIDを盗み出せば、そのポイント無制限の恩恵にあやかれるのだから。
その辺りは、ブリッジの人間もよく理解していて、一般クルーの居住区画に迂闊に足を踏み入れたりはしないのだ。
「……あり、がとう」
一応、礼を言うのが筋というものだろう。
複雑な想いにかられながらも、昂冶は弟の行動に感謝した。
半身を起こしてカプセルを手に取ってみると、ふと、一つの疑問が湧いてくる。
「……なぁ、これ。他の奴らには配らないのか?」
「数が無い。
ブリッジ連中の分と、あと少し余ってるけどな。下手にこんなもん配ったらパニックになるだけだ。残り少ない薬を奪い合ってな」
だから、このことは黙っていろ、と。
言外にきつく含ませる。
「………そ、っか。」
翳りを帯びた表情で微かに瞳を伏せる姿に何を感じ取ったのか、黒の戦艦の権力者たる少年は、ギッ、と睨んで兄に詰め寄った。
「……飲めよ。必ずだぜ、兄貴……!」
「うん、…わかった」
「………ンとに、わかってンのかよ!」
「わかってるよ…あ、ついでにあおいの分も貰えないか。渡しとくから」
「ああ…元々アンタに任せるつもりだったし」
言って、祐希は懐から小さなビニールに入れられたカプセルを取り出し、兄へ託す。
「ちゃんと渡しとけよ、後、コッチは絶対自分で飲めよな…」
「わかってるって、…ありがとう」
「ッ…!」
穏やかに返す兄の言葉が、何故か儚くて、信じ切れなかった。
もどかしさの余りいつものように手が出かかるが、ふいに、起き抜けの乱れたシャツの合間に散る花弁に目を取られて固まってしまった。
「………? 祐希??」
「…………!! …………!!!」
始めのうちは、周囲が暗くて気付きにくかったのだが、よくよく見てみれば、首筋から胸板、さらには下の方にまで。
「なんだよ、どうかしたのか? 祐希」
一方、自分の躰が凄い事になっている事を、まーったく自覚していないお兄ちゃんは、きょとーんと、平和な顔だ。
「………あ…にき」
「? ん?」
ややあって、ようやく祐希が絞り出した声は驚愕に引きつっていた。
「…っ! 変な連中に絡まれたりとかしてンのかッ!? なぁ、なンかされたりとかしてンじゃねーのか!?」
「え? えぇっ?? な、なんだよイキナリっ」
弟の剣幕に、タジタジとなる昂冶。つぶらな空色の眼が、更に大きく見開かれている。
「――…、別にっ、なんでもねーならいい」
嘘や隠し事全般が苦手な真っ正直人間の兄だけに、とぼけているわけではなさそうだと、祐希は自ら一歩退いた。
けれど、これだけは言っておかなければ、と。
到底、自分より一つ年上とは思い難い可愛らしさの兄のはだけた胸元を乱暴に掻き合わせて、
「……こんなカッコで外ふらふらすんじゃねーぞ…!」
「???」
訳が分からない、と、素直に不思議そうな顔でいる兄を、ばっと突き放すと、黒髪のエースパイロットは小さく舌打って帰ってしまった。
「?? なんだよ、アイツ…」
一人、取り残された極天然仕様の少年に、弟の気遣いが知れるわけはなく。昂冶は弟の支離滅裂な行動に眉をひそめるのだった。
――――――――――――――――――――
孤高の天才の異名を駆る弟の精一杯の兄への親愛の証であろう、感染症の薬。
一部の人間にしか配布されない抗体カプセルと、清潔な香りのするバンダナと、多少の必要物資を手に、華奢な体躯の少年が人気のない通路を静かに歩いていた。
不器用な弟の精一杯の親愛の証である抗体カプセル。無論、自分でも既に飲んでいる。
…既に亡き、無遠慮な程に明るい太陽のような笑顔を思い出に刻む少女に与えられた分は、心を占めるしなやかな野生。彼にこの薬を届けようと、貰った瞬間に決意していた。
(う〜…っ、それにしても……どんな顔して会いに行けばいいのか……)
なんといっても、昨日の今日だ。
はぁっ、と、溜息をついて、昂冶は思わず止めた足を踏み出した。
(……別にっ、普通にしてればいいんだよなっ……。
昨日のことは……は、はずみ、みたいなものだしっ……)
そう。その場の勢いというか、若気の至りのようなものだと。自分を無理矢理納得させて、覚悟を決めると蒼の逃亡者が潜む暗がりへと――…。
「ブルー?」
そうっと、彼の名を呼ぶと、普段通りに靴音を鳴らす合図があった。
「………」
何時もと変わらぬ様子に安堵し、昂冶は倉庫の更に奥の方へと進む。
……無意識のうちに、恥ずかしさで瞳が潤む。そんな自分を叱咤しながら闇に潜む美しい野生の姿を捜す――と、
「………っ!」
後ろから、ふわりと抱きすくめられて、肉食獣に追いつめられた仔ウサギのように四肢を緊張に強ばらせてしまう幼い容姿の少年。
「……な、な、な、なにっ? ブルー…」
動揺の余りに、声が裏返ってしまうのは仕方がなかろう。
「………待っていた」
「…………っ、」
ハスキーな色気の低音で耳元に囁かれて、昂冶は一気に心拍数を跳ね上げる。
腕の中でかちんっ、とお地蔵さん化する愛しい存在を気遣って、ブルーはひとまず少年を解放した。
「……悪かった」
そうして、定位置の奥の壁にもたれ掛かると、傷ましい表情で告げてくる。
元々の造作が酷く整っているだけに、物憂げな顔つきもまたきまるのだと、一瞬、その格好良さに見惚れて動きが止まってしまう昂冶だ。
「え、……何、が…?」
「………」
ブルーの言葉の意図を計りかね、しぱしぱと、つぶらな空色の双眸を瞬かせる、愛玩動物のような仕草の昂冶。
そんな幼い愛らしさでいる心音の優しい少年の疑問には答えず、ブルーは普段、怜悧に輝く眼差しを優しくさせる。
「――今回は、随分早いな…」
そして、さりげなく話題を逸らせてしまう。
「え、――あ、うん。
今朝なんだけど、祐希から薬を貰って……」
いきさつを話し始める昂冶と、その言葉に静かに耳を傾けるブルー。二人が共有する世界はとろけるように甘い。
知らず知らずのうちに、その雰囲気に酔い、互いしか見えなくなる。
研ぎ澄まされた蒼き野生すら、優しい気配と己の内に籠もる熱にその感覚を鈍らせ。
彼らを影から見張る存在に、気付くことは無かった――。
――――――――――――――――――――