「  死渡る 昏き空  」



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堕天

第四話

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 『M-03』におけるキャリア、及び発症者の耳朶裏から首筋にかけて、まるで死神の優しき接吻の、その名残のように紅が咲く。
 それは、一般クルーには伏せられたままの事実であり、最後まで感染から逃れ、生き延びねばならないブリッジの人間だけに、提供された情報だった。
(……あの痕…中央の深い色合いから、外に向かって薄く散る感染者独特の文様…。間違いねェ、ブルーのヤロウは感染してやがる…!)
 昨晩一晩、網膜に焼きついた光景を、その可能性を。一見、短慮の乱暴者でしかない、誰彼牙を剥く野犬のような少年は、何度も打ち消しては、己の内の冷静な部分が肯定を返し。たった一つの答えを主張していた。
 感染者の発症率は80%以上、発症からの死亡率はほぼ100パーセント。――M-03は確実に死に至る病だと言い換えてもよい。中には感染者のまま発症しない人間もいるようだが、それでも、感染していることには変わりない。感染経路が確定されていないとはいえ、未感染者との接触は決して好ましいとは言えなかった。
「……ッ、アニキのヤツ…」
 居ても立ってもいられずに、黒の王国の時の権力者が一人である若き黒豹のような少年は、住処を飛び出したのだった。

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「おい」
「え、あ。はい、なんですか?」
 闇雲に艦内を捜索していた祐樹だったが、能率の悪さに白旗を上げ、うんざりとしていたところ。丁度前を通りかかった女生徒に見覚えがあり、声を掛けた。
 名まで知らないが、幼馴染であるあおいやリヴァイアスの狂気の覇王が大切に想う少女と、よく一緒にいたと記憶している。十人並み以下の容姿で、特に目立たない少女だが、それが却って今のリヴァイアスで生きるには好都合なのだろう。下手に可愛らしい姿形をしていれば、現状に絶望を抱いた愚鈍な連中に目をつけられることになる。
 実際、祐希の一つ上の実兄――相葉昂治も、表沙汰にならないだけで、水面下で数え切れないほどのヤロウ共から狙われていたのだ。死に至る病――【M-03】が艦内に蔓延し始めてからは、先ほどの危険が無くなっているのだが。
「アニキ――相葉昂治を探してンだけど。知らねェか?」
「相葉君…ですか?
 今の時間なら多分仕事じゃないでしょうか…あ、でも、今日だけいつもの当番じゃなくて、洗い場の掃除になっていたはずだから、多分そっちだと…」
「洗い場…? 何処だよ、それ」
「えと…、Cブロックです。C-03ブロック探してもらえば直ぐ分かると思います」
「そうか。わかった」
 挙動も落ち着きがなく、酷く脅えながら少女は答えた。兄と同級である彼女は目の前の少年より一つ年上で、ここまで卑屈な態度で応じる必要は無いのだが、力が支配する理不尽な王国の権力者『相葉祐希』という肩書きが、彼女から人としての尊厳を奪っていた。
 その態度に微かな苛立ちを覚え、これ以上問答はご免だとばかりに、祐希はサと踵を返した。しかし、ふと思いついて疑問を口にする。
「そうだ――、なんでアンタ一人なんだよ? あおいは? アニキといるのか?」
「……え?」
 天才の名に恥じない英気の持ち主である少年からすれば、本当に何気なく訊いただけに過ぎなかった。終焉に向かい迷走を続ける、死の艦リヴァイアスで、一人でいることは決して好ましいことではない。か弱い女性ならば特に、だ。感染症の所為で以前のような暴力沙汰が減っているとはいえ、やはり、単独行動はなるべく控えたほうがいい。
 なのに、訊ねられた女生徒といえば意外そうに目を丸くしているだけで。完全に固まってしまった相手を前に、祐希は焦れて声を荒げた。
「ンだよ、何かあんのか?」
「えッ…、い、いえ…、その……。
 し、知らなかったのかな、って、驚いてしまって……」
「ハァ? 何のことだよ」
 要領を得ない返答に、短気が服を着て動き回っているとの、不名誉な呼び習わせ方をされている少年は、語気を荒げた。
「ご、ごめんなさい…」
「ッチ、ンだよ別に怒ってねーだろ? どういうことか訊いてるだけじゃねーか」
「あ…、ご、めんなさい。
 その……、あおい…なんだけど、ね」
 VGのパイロットである強者の不興を買った事実に脅え、少女は青褪め、声を震わせながらうつむき加減に答えた。
「……あの……、もう随分前に……」
 ――随分前、に。
 ザァッ、と血の気が引く。
 緊張と恐怖のあまり紙のような顔色をする女生徒の、言わんとするを察して、カンの良い少年は目を見張った。
「………そ、の……感染症、で……」
「言うなッ!!」
「っ…」
 突然の怒声にビクリと身を竦ませる女生徒、恐怖がくっきりと浮かぶ両の眼には、うっすらと涙が滲んでいた。
 だが、恐怖に竦む女生徒を構うだけの余裕は、怒りを顕にする少年の方にも残っていなかった。
「……チクショウッ…!! アニキのヤツ!!!」
 固く握り締めた拳は、血の気が引いた色になり、細かく戦慄いていた。

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「はぁ…、ここ全部の掃除を一人でなんて。ちょっと今日一日じゃ無理だって」
 洗い場の汚れを丁寧に落としながら、幼く愛らしい顔立ちが、まるで人の庇護を受ける愛玩動物のそれを彷彿とさせる小柄な少年は、重く溜息をついた。
 力仕事がないのが、不幸中の幸いだった。
 なにせ、昨日の今日なのだ――腰は重いわ、あらぬ場所に鈍痛が走るわ、あんな場所で行為に及んだ所為で体中のアチコチが痛いわで、とても重労働に従事できる状態ではなかった。
 本来なら今日は業務を休みたかったのだが、シフトで決められている作業をおいそれと放り出すわけにもいかなかった。
「えっと…あとは、隅からはわいて…ッ、………もぅ、やだな。
 なんだか――」
 まだ、足の間に何かが挟まっている感じがする、と口走りそうになり、思わず赤面する昂治だ。俯いて慣れない感覚をやり過ごすと同時に、そろそろと足を動かす。
 実は痛み自体は大したことはなく、どちらかといえば、内腿の間に感じる違和感のほうが問題だった。ふとした瞬間に意識してしまえば、濡れた舌の感触だとか、飢えた野獣の瞳の鋭さだとか、熱い楔を受け入れた瞬間のことだとか、思い出したくもないそれらが一気に溢れて、どうしようもなくなるのだ。
「……ブルーのばか…」
 うっすらと頬を染め上げながら、いっそ可憐な呟きを零してしまう。
 そして、無意識のそれに、ハッと顔を上げて周囲を窺う――が、当然一人きりでの作業なので、周囲に人気は無い。今更ながらに単独作業で良かったと胸を撫で下ろす少年はしかし、直後、今日に限って人目の無い区画にシフトを交代したことを、激しく後悔するのだった。

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 ――嵐は、突然にやってきた。

「アニキッ!!!!」
「っ!?」
 聞き覚えのある――そして、聞き違えようのない、乱暴な、先が掠れて弾む独特の調子の声は、確かに自分を兄と呼ぶ。
「……祐希?」
 幾らリヴァイアスに四百余名の生徒が搭乗しているとはいえ、この世界でも、自分をアニキ、という名称で呼ぶのは唯の一人だけだ。そう、血の繋がった一つ下の弟――相葉、祐希。現在の黒の王国にて時の支配者となった親友の隣で肩を並べる、一人。
「………なんだよ?」
 力こそ全てと、やるせなく惑ってゆくリヴァイアスに於いて、最重要人物である弟がこんな場所にまでやってくる理由が分からず、昂治はひたすら目を丸くしていた。
「ッ〜〜〜、だッ!!」
 全力疾走してきたのだろう、かなり呼吸が荒い。
「……水、飲めよ」
 忙しなく上下する肩と、息苦しそうな表情に、止せばよいのについつい構ってしまう。当然、紙コップに注いで差し出した水は強く振り払われて、無残に床へと広がった。
「ッ、祐希。俺にあたるのはいいけど、モノを粗末にするな!」
 終焉の片鱗を覗かせつつも、針の切っ先に乗っかったまま、均衡を守る黒のゆりかごに、生きる人々にとって有限の物資は、例え水の一滴であろうとも粗末に扱われるべきではない。普段、滅多に声を荒げない昂治とて激昂したとしても、無理のない話ではあるのだが。
 その、如何にも年上然とした態度が、却って我の強い少年の神経を大きく逆撫でた。
「ウルセェッ!! アニキ面すんじゃねェ!!」
「………」
 反抗期真っ盛りといった実弟の乱暴さは今更始まったことではないので、昂治はひとまず、床に飛び散った水を手元の雑巾で拭き取り始めた。かまえばかまう程、血を滾らせるのだ。分かっていて、これ以上無駄な問答をする気は無い。
 しかし、今回に限っては、その無関心を装う兄の態度が益々逆鱗に触れたようだった。
「フザケんなッ!!」
「……?」
 いつに無く憤慨し、激昂する弟の様子に、兄である金茶の髪も愛らしい少年は、不審そうに眉根を寄せて向き直る。
「…一体、何の用なんだ。祐希」
 まさか、元気にしているか見に来たとか、ちょっと顔を見せにとか、そういうワケでもないのだろう。別段特別仲良しでもなくとも、普通の兄弟なら当然のようにある間柄が、現在、絶望的な関係にある自分たちには到底、求められるものではないと、よく理解していた。理解しているからこそ、さしたる用件も無く、弟である祐希が自分を訪ねることなど、有り得ないと確信していた。
「……あおいは……どうしたッ……!」
「……ッ」
 ビクリと、大きく肩が竦んで、故郷の情景を映す澄みきった空色が驚愕に歪む。一瞬で蒼白となった顔は、強張り、凍り付いていた。何か言わないと――誤魔化さないと、と空回る思考の外で、何処か冷静な声が、もう何をどう取り繕っても無駄だと囁いていた。
「――いつ、だ……」
「……え、?」
 緊張のあまり巧く回らない思考がもどかしい、呆けたそれで訊ね返せば、憎悪の眼差しに灼かれた。
「あおいは、いつ――って、訊いてるんだッ!」

 いつ――死んだ、のか?

 声に出せば全ての事実を受け入れてしまいそうで、そうすることで、際どく保たれている均衡が、精神のバランスが崩壊してしまう予感がした。己の内にある脆弱さを認めれば、この狂気の世界に呑み込まれると、本能が危険を告げていた。
「……三週間に、なる」
 天才の呼び声も高い、リヴァイアスの誉れであり、最強の矛と盾VGパイロットである少年の問いかけを正確に察して、昂治はぽつりと溢した。告げられた事実に、粗野な風貌と性格が元々の造作の良さと相まって人目を惹く、良くも悪くも存在感の大きい少年は愕然とした。

 ――三週間、もの間。

 少女の死を知らずに、知らされずに、彼女の乗るこの戦艦を護るのだと息巻いていたのかと思うと、奈落の絶望と共に、果ての無い激情が噴きあがった。
「……なんで…、黙ってた……」
 憤怒の感情はしかし、表面上には現れずにジリジリと内側と灼きつけてゆく。
「……悪かった…」
 手放されるようにして投げ出された、謝罪。
その鷹揚さに祐希は言いようのない憤りを覚えて、これ以上無く語気を強めた。
「謝れって言ってンじゃねェ! なんで黙ってたのかって訊いてンだ!!
 ――三週間ッ…三週間もの間…、俺がとっくいないヤツのために、薬を届けてるのは面白かったかよ!? 仕官部屋に移動させようとしても、みんなと一緒にいたいから断るって伝えてくれ、ってアンタが言ったよな? 確か、二週間前だ!  ………俺をコケにするのは、楽しかったか……?
 アニキ、アンタは腹の底で嗤ってたんだろ!! ゆッ……るさねェ、ゆるさネェ!!!」
「……祐希、違うッ!!」
 幼馴染の少女の死を、既に祐希に知られていた事実に呆然としていた昂治は、余りに歪んだ解釈をする弟の言葉を慌てて全身で否定した。
 少女の死から既に三週間もの時が経ち、その間、彼女を心配する弟の目を欺き続けたのは変えようも無い事実だが、決して愉快犯的な心理で嘘を吹き込んだわけではない。
 なぜなら、昂治自身、幼い時分から隣り合う距離で成長を共にしてきた少女の亡骸を目にしておらず、死の瞬間を看取ってもいないからだ。
 いつものように、その日の業務を終え、彼女の班が使用する部屋の前まで送り届け。あくる朝、時間になっても一向に姿を現さない少女を訪ねてみれば――『M-03』に発症したのだと、告げられたのだから。
 『M-03』の特性として、発症すれば潜伏期間に違和感程度の微熱から始まり、発症と共に急激に高熱を発し、その後、心地よいまどろみ全てを手放し、二度と目を覚ますことなく死に至るという事が知られている。
 ひと時の高熱からの苦痛が過ぎた後は、ただ優しい死が両手を広げて命を受け止めるだけだという。
 発症してから七日間眠り続け、呼吸と心臓が止まるという『M-03』は、発症が認められた時点で感染区域に強制移動させられる。
 未来永劫醒めることのない夢を見続ける少女の寝顔を、最後の別れと目蓋に焼き付けることすら適わずに、一週間後、ただ『死んだ』という結果だけを知らされた。
 そんな時に、ブリッジに行ったきりの弟に訪ねてこられて、二人分の薬を手渡され『あおいは無事なのか?』と確かめられたのなら、咄嗟に、頷いてしまっても仕方の無いことではないか。
「お前を騙そうと思ってたわけじゃない!
 確かに、黙ってたのは悪かった…けど、言えない…言えるはずないだろッ!」
 悲痛な訴えは、しかし、己の痛みだけに目が眩んで激昂する少年には届かない。
「…被害者ヅラすんなよッ…、俺がアンタに渡した薬はどうしやがった!! ブルーのヤツに渡したんだろッ!?
 俺を騙して手に入れた薬をアイツに流しておいて、何が言えなかった、だ! 『言わなかった』んだろ!! アンタは!!」
「―――!?」
 思わぬ人物の名前を出されて、昂治は反射的に息を呑んだ。嘘を吐けない体質というのだろうか。既に他界した少女の分として預けられた薬を、手負いの青き獣へと手渡していたのは、揺らぎようも無い事実だ。
 いや、それよりも――、
「祐希…、お前ッ――どうして…?」
 自分が人知れず黒の王国の反逆者を匿っていることを知っているのか、と驚きに目を剥く昂治に、血の繋がった実の弟である少年は、薄暗い微笑みを粗雑な魅力を醸す横顔に浮かべた。
「…一人でコソコソしてやがるから、後を尾けただけだ。
 随分、仲良さ気にしてンじゃねーか、アニキ。アイツが俺たちに何をしたのか、まさか忘れたワケじゃねェだろ?
 ――…信じられねーな、正気の沙汰じゃねェぜ。アンタ、これ知られたら無事じゃすまねーゼ。今の尾瀬は容赦がねェ…どんな目に合わされるンだろーな?」
「……ッ、もう、イクミには云ったのか?」
「まだ誰にもいってねーよ。アンタに一度、何考えてるンだか確かめようと思って、な」
「………」
 張り詰めた緊張に強張っていた頬が一瞬だけ安堵に緩む。己への処罰を不安がるよりも先に、高潔なる王者の存在を気遣うその態度が余計に癪に障った。
「そんなにアイツが心配かよ?」
「ッ…、お前には…関係ないだろッ!」
 間近で凄まれて後退する気持ちを奮い立たせ、幼い顔立ちに愛らしい笑顔、如才ない才能と穏やかな人柄が、密かに他人を惹きつける少年は、逆に食って掛かる。
 幼馴染の死を告げなかったことには、確かに引け目を感じるが。しかし、それとブルーのことは別口だ。己の心が信ずるがまま彼を庇った行為を、決して後悔などしていない。
「……関係、ねェ…だって?」
 カァ、と血が沸騰する。
 全く同じ台詞を、もう一人、酷く気に食わない奴から吐かれていたから、だ。
『お前には、関係ない』
 記憶がフラッシュバックを起こし、やり場の無い怒りが倍増した。と、同時に無理やり呼び覚まされる隠避な光景。脳裏に鮮やかに蘇るそれに、怒りは消えうせ言いようのない苛立ちが募る。
「関係ないわけねェだろッ、アンタは…! アニキはッ!!
 ――チクショウッ!!!」
 ドンッ、と激しく拳を壁に叩きつける、衝撃にビクリと身を竦ませた兄の姿を、苦悶の眼差しで一瞥し、粗暴な少年は場を後にした。
「………」
 一体なんだったのかと、まるで台風が行過ぎた後のような慌ただしさの中、呆然と取り残されていた昂治だった。が、ハッと息を呑んで、顔色を変える。
「ッ、ブルーッ…」
 彼の所在を祐希に知られてしまった。
 自分の処遇に関しては、ある程度覚悟の上の行為なのでこの際後回しでいい。それよりも、あの強靭な美しさを誇る青の野生に、身に迫る危険を伝えなければ。
 一つ、年の離れた弟の考えも行動も最早、小さい時分とは掛け離れすぎていて予測もつかないが、それでも、このまま黙って見過ごしてくれるとは思い難かった。
 心優しき少年は、ひたすらに彼の人の無事を願って急いだのだった。

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「 昏き海に  堕ちる 」


 ブルーが身を潜める区画は何時もの静けさに満ちて、一見、何の変哲も見られなかった。ひとまずの安堵を覚え、昂治は胸を撫で下ろす。しかし、しっかりと無事を確認するまで不安は消えなかった。
「……ブルー…?」
 祐希の一件を気にしてか、かなり控え目に高潔を抱く王者の名を呼ぶ昂治に、だが応えは無かった。常ならば、先に此方の気配を察して様子を窺っているはずなのに、だ。
 まさか、と不安が一層掻き立てられる。
 祐希の言葉を信じれば、蒼き獣の身柄はまだ拘束されていないはずだが――。万が一にも、他の人間の目に留まって既に彼が捕らわれていないとも限らない。
「ブルーッ、ブルー…」
 顰めた声で何度も孤独と共に在る王者の姿を捜し求めれば、やがて、コツとブーツの踵を硬質な――床に打ちつける音が響く。しかし、それは何処と無く弱弱しく。普段の覇気が感じられない。
「……ブルー…?」
 無造作に積み込まれたコンテナの影に身を潜める姿を見つけて、緊張を解すのも一瞬だけだ。黒い質感の床に長い足を投げだし、片足を立て、その上に両腕を組み、まさに手負いの野獣といった気迫で己の前に現れた存在を睨めつけていたのだから。
「ブ、ルー?」
 視線だけで敵を射殺せるのでは無いだろうかと、そう思わせるだけの王者の野獣性を増した眼差しに曝され、心の臓を直接わし掴みされたような恐怖に声を失う昂治だが、必死で己を奮い立たせ、蒼き獣の領域を無闇に踏み荒らさぬように用心しながら、近付いた。
 あと一歩で、手が届く距離まで、そこで、座り込む。
 決して逸らされぬ荒々しい眼光の鋭さが、却って空恐ろしく感じられて、昂治は固唾を呑んだ。
「……ブルー…」
 具合が、悪いのだろうか?
「あの…話が、あって…」
 億劫そうに、壁にもたれたまま。
「その…弟の、祐希のことなんだけど…」
 呼吸が浅く…早く、乱れて。
「……ゴメン、ブルーのこと…知られ…ッ、!?」
 腕が、不意に伸ばされた。
 突然の行為に母なる空と大地の情景を織り込んだ、たえやかな瞳は大きく見開かれ、そうして、熱い胸へ抱きとめられる。
「……ブ、ブルーっ?」
 孤独を好む寡黙なる王者は、無闇な接触を由としない傾向が強い。意図や意味のあるものなら、そうではないが。このような、脈絡のない行動は本来、彼にしては珍しいと云える。
「…お前の、弟――か」
「あ、うん…。ごめん…ブルー。それで、出来ればこの場所を移動してもらいたいんだ。リヴァイアスは、今、こういう状況だし。人目につかない場所なら探せば結構あると思うんだ。……このままココにいれば、もしかしたら誰かがくるかもしれない…だから」
 傍らから失って久しい人肌の温もりを一杯に感じながら、昂治は窺うように、懇願した。頬の触れる場所から伝わる鼓動が、酷く、心地よかった。生きている――、証。世界に独りきり、取り残されたようにして過ごす日々の中、この瞬間だけ、生命ある今に歓喜する。
「…アイツは、お前に何を言った…?」
「え…? …っと、うん。
 うん…その、色々、と?
 ほら、俺と祐希ってあんまり仲が良くないからさ…うん」
 交わされた言葉の内容を問われて、瞬間的に思い起こされたのは罵倒と非難のそれ。リヴァイアス――黒の王国における最大の反逆者、最上の裏切り者を隠匿するとは何事かと。
 当然と言えば、当然の追求ではあるが、それを当人を前にして口にするのは、やはり大きく躊躇われた。
「アレなら…おそらく、問題はない」
「――え?」
「……お前の、弟だ」
「え、え、そ…っかな? でも、万が一ってこともあるし…やっぱり、俺は、ここを移動したほうがいいと思うんだ。
 祐希――アイツ、妙に意地になって、俺にあてつけてくるトコあるから…」
 兄として把握している実弟の性格と、鮮烈なる逃亡者の言葉の信憑性を天秤に掛けてみれば、やはり、前者に分がゆく。蒼の野生たるブルーを心配する気持ちが、上乗せされる以上、所謂、当然の結果だ。
 本来ならば相手の意思に対し、出来うる限り、妥協の姿勢を見せるのが、他人との無駄な闘争を嫌う相葉昂治という少年なのだが。今回ばかりは、ここで折れて蒼く気高い人に何かあっては大変との、必死の自己主張。
「――問題ない…」
「ブルー…、でもっ…」
「……構うな…、細事だ」
 説き伏せる声の、語尾が微かに上ずって切なく途切れる。
 途端、何か強烈な違和感を覚え、度重なる心労と連続する身体的疲労により、元より華奢な姿をまるで淡雪のように儚くさせる少年は、指先に緊張を奔らせた。
「……ブルー…?」
  い――膚。
 無粋な衣を剥ぎ取り互いに全てを曝け出し、愛し合った――甘美な一夜を彷彿とさせる、体温。熱い――灼熱の、鼓動。
 ドクリ、と中心が波打って、ザワリと、全身が粟立った。
 熱い――熱すぎる体温、膚、ひとのぬくもり。
 何せ夢うつつの出来事、どうにも定かではないが、行為に及ぶ前ですら、事の最中すら、おそらく、こうまでも――ここまでも……熱く、あっただろうか。
 首筋を撫でる真白い指先の可憐さが、記憶の闇の合間にくっきりと、青白き光を帯びて浮かび上がる。

『M-03のキャリアはね、ここに小花が散ったような痣が現れるの』


 連続する終末の夢に絶望を見出し、自ら己へ終止符を打った憐れむべき、気丈たる少女の、最期の笑顔が、まるで胡蝶の華のようにさざめく。
「――ブルー……」
「………」
 縋る、腕に刹那――声を成さぬ、想いが籠められて。
「……どうしてッ…、イヤだ…イヤだッ、厭だ…ッ!!」
「………」
 抗いえぬ運命と、理解しても尚、いや、一層――悲壮が迫り勝る。
「……いやだ…っ…」
 まるで、言葉を知らぬ幼子のようにたどたどしく、まるで、人肌を恋しがる赤子のようにいたいたしく。最後の寄る辺と縋りつくか細い肢体を、病魔に臓腑から蝕ばれてなお、王者の風格を損なわぬ強者が無言のままに、両腕を以って受け止めた。
「……泣くな…」
 自分が死んでしまったのなら、やはり、つぶらな空色の瞳は――悲しむのだと。くだらない確信に充足感を覚え、蒼き野生は抱き留める小さな存在を宥めるように、慈しむように、嗚咽の止まらぬ背中を何度も、繰り返し、撫で擦った。
「………ッ、や、だッ…」
 運命、だと。
 抗いようもない、絶対的な力に決定付けられた因果律。
 死の烏の声は傍らに響き、命を駆り出す翼の風は一層強く吹き付けた。
「……いや…、ブルー…ッ、いやだ……」
 声も、涙も枯れてしまうまで、泣いて泣いて、泣きとおし。
 精も魂も尽き果てて、遂には人に過ぎた熱を、肌に感じたまま、眠りにつくまで。

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 ――は、今も、明日も、その先も。
ざされたまま、明けることは、ない。


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