「  闇夜に 啼く鳥  」



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堕天

第五話

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 腕の中で泣き濡れまどろむ疲労の色の濃い少年の背中をそっと撫で、慈しみに蒼の双眸を優しく滲ませた王者は、熱の籠った吐息に震えた。
「病…、か。呆気無い幕引きだ」
 ただ――我武者羅に在り続けた。
 死は酷く身近で、それこそ、道端の石のように転がる死体を、飽きるほど目にしてきた。
 余りに近すぎて――実感の伴わぬソレが、今、牙を剥く。
 闇に染まる夜の鳥が、羽ばたきを繰り返し、終焉を運ぶ羽が降り注いで。
 その祝福から、腕に眠る存在を護るように、全身で抱きすくめる。小さな命は、遠慮がちに身じろいで、やがて……そうと、赤く染まった空色の瞳に、灰色の世界を映した。
「……ブ、ルー…?」
 幼な顔の少年は、直ぐには状況を把握出来ず。ただ、視界から取り入れた情報を、言葉で反芻した。
 掠れた声が痛々しさを醸し、美しき野生は、手近の荷からペットボトルを取り出す。
「飲め」
 そして、器用に片手でキャップを外すと、茫洋としたままの愛しき存在へ、差し出す。口調こそ飾り気のないそれではあるが、随分と、優しい気遣いだ。孤高にて絶対の王として席巻したかつての彼の姿しか知らぬ者が見れば、腰を抜かしかねぬ 変わり様で。無論、誰彼なく与えらたりはしないが、それでも、蹂躙と略奪の二文字だけを傍らに、覇道を征き続けていた者の姿とは、到底思えぬ、在りようだった。
「……ん、ありが、と」
 ボトルを両手で包み込むように受け取る、その仕種は酷く儚く危うげだ。そっと傾けて口をつける動きを視線で追うと、ブルーは気怠げに瞳を伏せた。首筋が熱い――だが、病の峠を越えたのか苦しさは遠く、熱は、何処か心地よさすら覚える温もりで。この抗い難き感覚に全てを委ねた時が、己の最期であろうと、何か、本能的なものが告げる。
「……ブルー?」
 眉根を寄せ、何かに耐えるように表情を曇らせる王者の姿を不安に思ったのだろう。童顔の少年は元より白皙の肌を益々蒼白にし、華奢な指先で、熱のある頬を弱々しく辿る。
「…どうした…」
 愛しい温もりを灯す手のひらを、蒼の王者は、己の大きなそれで重ねるように掴まえ、接吻を落とす。くすぐったさと、心を蕩かす羞恥に、王の寵愛を一身に受ける少年――相葉昂治は可憐に頬を染めた。
「ブルー…、手……、その…」
「嫌か?」
 甘さに滲む蒼に射抜かれ、昂治は息を詰まらせた。嫌ならば振り払えばいいと、何処か傍若無人な在りようが、やはり、エアーズ・ブルーという人物は生まれついての『王』の器なのだと、妙に納得させられる。
「……イヤ、じゃないんだけど。……その、えっと。……? うわっ??」
 やがて、徐々に覚醒を始めた思考が、己の置かれる状況を正しく把握する。事に及んだ仲とはいえ、年下の男の腕に縋りつき散々に泣き散らした挙句に、まだ、抱き留められるような体勢のままだ。流石に羞恥が増して、昂治は慌てて飛び起きた。
「ごッ、ゴメン、俺ッ…。重かったよな、その…」
「……昂治」
「え?」
 離れがたき温もりが唐突に腕から失われ、名残惜しそうに、ブルーは美しく潤む蒼を細めた。ふ、と微笑み混じりの溜息と共に、捕えた右手を放し、距離を詰める。小柄な少年が身構える間も無く、吐息は深く合わされた。
「……ッ、ん」
 驚きに一瞬全身を強張らせるものの、背中に回された腕の――抱擁の力強さに、昂治は戸惑いつつも、相手を受け入れる。固く結ばれた唇の合間を熱い舌先が悪戯に舐め上げ、その先への侵入を許すように請われて、そのまま綺麗な野生に全てを委ねた。

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「……結局、ちゃんと説得出来なかったなぁ…」
 死の恐怖が充満する黒の棺の中で身を潜める知性を秘めたる破壊の化身は、やはり、リフト艦の奥に坐したまま、動かずに。必死の説得を試みる心優しき少年に、母なる惑星の蒼さにも似た微笑を与えるだけで。
「――…う。」
 二度目の逢瀬、互いを貪る行為に溺れて――話は有耶無耶になってしまった。己の不甲斐無さを後悔すると同時に、最中の羞恥が噴き出し、透ける白さの肌を可憐に染め上げた。
(……アレで俺より年下なんて、経験積みすぎ…)
 流石に自慰くらいは経験しているが、元々の性格的な淡白さと、実家では弟と相部屋という事情も相まってその回数は数える程だ。それに比べ、弱者は淘汰される絶対の掟の中を生き抜いてきた強き野生は、格段に手馴れている。そうでなければ、全くの初心者に対して快楽を導くなど、到底、不可能な話だ。全く、とんでもない年下だと溜息を吐く。
「………」
 そして――、二度目の吐息は、切なげに震えた。
 己の左首筋を反対の指先で辿り、脈動を感じる。生きている――感触に、発作的に胸に感情が迫りあがる。宇宙に打ち棄てられた巨大な残骸の檻の中、正気を保ち続ける生者は、大きく全身を震わせた。
「……ブルーッ…、」
 【M-03】の感染は、命の終焉と等しい。
 抱き合った躰は熱さを伝え、首筋の紅花弁は美しく散り、何よりも雄弁に、事実を語っていた。明日を信じる希望も、未来を夢見る力も、全て粉微塵に砕かれたような、酷い虚脱感の中、涙に滲む暗黒の世界から、そっと瞳を伏せた――。

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 当て所ない漂流を続ける閉塞された王国の中、支配者として名を連ねる粗野な印象の少年は、謎の感染症の蔓延により搭乗者の絶対数の激減した黒のリヴァイアスの通路を、一人、目的地に向かい急いでいた。死病が巣食う艦は、まるで其れ自身が巨大な棺のようであった。死者を乗せて向かう先には光など無く――それでも、子ども等は生きていた。
 緊急時以外の立ち入りを禁じられているリフト艦へ踏み込み、天才の名を冠するパイロットは、迷うことなく、奥の倉庫へと進んだ。それと、話をする為に。
「……よォ」
 王者の風格を失わぬ獣は、ただ、そこに堂々と在った。
 人の気配を察しても姿を隠そうと慌てぬところをみると、腹が決まっているのか、はたまた、既に事態に対処するだけの力を失っているのか。どちらかは、互いの表情も読めぬ距離からは、測りかねた。
「……なんの用だ」
 必要最低限しか言葉にしない蒼の野生の声は、病魔に侵されるそれとは思えず、威風堂々としていた。
「…テメェに、忠告に来た」
「………」
「俺は――、テメェと兄貴がどーあろうが、関係ねェし、艦の治安維持とやらにも、興味がねェ。イチイチ、ガーディアンズの連中に報告もしねーし、勝手にやればいい。それで感染して兄貴がどうなろうと、兄貴から他の奴に伝染ろうと、関係ねー」
「………」
「けどな、そう思わない連中もいる」
 吐き棄てるような独白に、ブルーは微か、眉根を寄せた。
「こんな――、動く棺桶みてーになってまで、生きることに執着しやがンだよ。そういう連中は」
「……何が言いたい」
「兄貴に近付くな」
「………」
「忠告はした、理由も伝えた。それでも――ってンなら、勝手にやれよ。俺は、関係ねェ」
 自分は無関係だと口先で嘯きつつ、兄の身柄を案じてわざわざ感染者の近くにまで足を運んでいる事実に、絶対の存在感を放つ王者は、ふ、と吐息を零す。
「なッ…、なんだよ」
「……いや」
「――…チッ! …っにかく、用件はそんだけだッ!」
 余裕面が気に食わないが、幾ら王国最強の王者とはいえ、病に臥す人間を相手に殴りかかるわけにもいかず、粗野で荒削りな魅力の少年は、面白くなさそうに短く舌打つと、現れた時と同様、迷いの無い足取りでリフト艦倉庫を後にした。
 その背中を視線で追いかけながら、ブルーは胸中で、語りかける。心配せずとも――もう、昂治はここへは来ないだろう、と。
(……随分、泣かせてしまったな)
 絶望の悲嘆からの涙は勿論、それ以外の意味合いでも――。
 これが最期の逢瀬と思えば無茶も致し方なしと、己の暴走を、王者は苦く受け止めた。

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 微かな物音に反応して、自然に覚醒したのは、艦内統一時間の夜半頃。元々宙行士としての訓練を受けていただけに、太陽の無い朝、月の見えない夜には慣れているが――こうして無機質にくすむ天井を見上げる、ふとした瞬間に、郷愁が胸をつく。
 地球から見上げる――空が、恋しいと切に……、
(……あ、れ…)
 幼な顔の少年は、全身を襲う酷い倦怠感と頭痛を振り切り、ようやっと上体を起こした。
 目蓋が腫れぼったく感じるのは、泣き疲れて眠ってしまった所為なのだろう。何度も目元を擦り上げ、喉の渇きを覚えると、傍のペットボトルに手を伸ばした。そして、一息吐いたタイミングを見計らうように、彼、は声を掛けた。
「起きたか、昂治」
「………、………え、?」
 粗末な布の切れ端で仕切りをしただけの部屋は、当初は数名で共用に利用していたものの、今や其々の理由により個室状態だ。無論、それは決して喜ばしい現実では無いのだが。その、部屋の持ち主である少年しか居るはずのない空間に、違和感は確かにあった。
 先ほどの戸惑いはコレだったのかと、今更ながらに思い返して、金茶の優しい色合いの髪をした可愛らしい容姿の少年は、異質へと、そっと視線を投げかける。
 異質――と言い切ってしまうには、真直な心を抱く少年にとっては、身近な。
 そして、今や誰よりも遠い――黒の王国(リヴァイアス)の覇者、刹那の支配者、尾瀬イクミ。
「……イク、ミ」
 眼前の光景が俄かには信じ難く、人畜無害を絵に描いたような少年は、パチクリと大きな空色の瞳を瞬かせた。
「ちゃんと、喰ってるか? 顔色、悪いぜ」
「え――、あ、ああ。俺は、平気、だけど…」
 手酷い中傷の言葉と共に断ち切られたはずの絆、それを、少しも気にした様子もなく、イクミは以前と一切変わらぬ笑顔を浮かべた。
「そっか、ならイイけど。昂治って、昔っから変にガンコで意固地なトコあるだろ。体、辛いときにはちゃんと休めよ」
「……う、ん」
「ンだよ、気の無い返事だな? 何、それともまーだ寝ぼけてる?」
「え? いや…、起きてるよッ? ……起きてるから、不思議なんじゃないか。なんで、イクミがこんなとこに居るのか」
 昔――と呼ぶのが相応しいほど、実際には過去の事では無いが。リヴァイアスの統治者として君臨する以前の彼であれば、この場所に帰るのが寧ろ自然であり、特に疑問も抱かずに済むのだが。
「なんで? って、俺が戻ってきたら、迷惑?」
 何処かおどけた仕種で機嫌を伺ってくる表情は、以前と変わり無く。優しい声が、空々しく心を通り抜けた。思わず眉間に皺を寄せた親友に、イクミは芝居掛かった調子で、一遍の光も差し込まぬ灰褐色の天井を仰いだ。
「なーんだよ、そんなつれない態度取らなくたっていいでしょ。こーじ君。確かに、今更俺がこんなトコに戻ってきても、困るだけだろーけどさ」
「………ッ」
 そんなことはない、と。
 咄嗟に喉元まで迫り上がった否定の言葉は、巧く、声にならず。不自然に唇が戦慄いただけだった。本能が不安を嗅ぎ取り、苦しさが染み出してくるのを理性で抑えられずに、少年は、俯いた。
「まー、そんなことはどーでもいいんだけどな。
 それより、コッチが本題。なぁ、昂治。お前が俺のことを今どう思っているかは知らないし、どう思われていようと構わないけど。俺はお前のコトも、ちゃんと大切だと思ってる。傷つけたくないし、傷つけられたくない」
「……イクミ…」
 ソレが、友情と呼ばれるものかのか、それとも強迫観念に駆られた支配者の情念によるものなのか。所在の分からぬ感情を受け止めきれずに、静かに軋んでゆく世界の中心で、抗う術を知らぬ小さな存在は、震えた。
「だから――、コレは純粋にお前を心配してなんだ」
「……なんだよ?」
 随分と前置きの長い話に、無意識に警戒を強めて、昂治は恐怖を司る来訪者と目も合わさずに、わざと素っ気無く返す。
「お前、何か隠し事してないか?」
「………、……別に、何も」
 何もかも見透かすような凍りついた視線に一瞬顔色を失くした昂治だが、直ぐに、表面を取り繕った。聡い友には言い逃れは効かぬだろうと、警鐘が鳴る。それでも、全てを曝け出すには、今の『彼』は、余りに危うい。
「昂治、本当か? 本当に、何も、俺に隠してないか? 言えないような事は無いんだよな? 俺は、昂治を疑いたくない。だから、正直に話してくれ」
 淡々とした切り口で胸を裂いてくる声は、酷く、残酷な冷たさに満ちていた。  信じていると口先で嘯きながら、その実、少しも相手を信頼していない、疑惑の眼差しを全身に感じて、まるで、祭壇に捧げられた贄にでもなった錯覚に襲われる。
「……何もッ…! 何も、ないって言ってるだろ…、もう、帰れよッ……!」
 このまま尋問され続ければ、そうもしない内に、察しの良い少年に全て暴かれてしまうだろう。そんな確信に、昂治は温和な彼にしては珍しく、語気を強めた。らしくない態度が逆に疑わしい事実を肯定するであろうことは明白だが、それでも、今この場を逃れたいという意思が全てに優先された。
 何時にない親友の剣幕に、狂気の覇者として王国に君臨する少年は、乾燥した微笑を描いて見せた。
「そっか。昂治がそう言うなら――いいんだ。分かった。
 何にも無いのに、アレコレ詮索されるのは気分が悪いよな。悪かった…じゃ、俺はもう行くから。あんまり、無理するなよ。昂治」
「……わかってる。でも、大丈夫だから…、ありがとう」
 頑なな拒絶に目の色を変えることも無く、支配者たる少年は、ただ、暗がりの部屋を後にした。

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 一般生徒が身を寄せ合い生活する荒んだ下層区画に、ブリッジの人間は、殆ど近寄らない。悲惨な現状を己が眼に映し出されるのが怖いのか、危険区域での襲撃を恐れてか、はたまた、有象無象と王国を蝕む病魔に慄いてか。いずれにしろ、賢明な判断だ。
 だが、どのような事象であれ例外は存在する。黒の瓦礫を支えるVGの天才パイロットが下層を奔放に行き来するのは今更特別なことでも無いが、王国を統治する少年を、最下層の生活居住区辺りで見かけるなど、まず、有り得ないはず――なのだ。
(……尾瀬?)
 独善に陶酔する連中から、正義を体現する絶対的な存在――それこそ『唯一神』として熱狂的な崇拝を受ける少年――尾瀬イクミの姿を、戦友とも呼べる立場にある祐希が見間違えるはずも無い。特に用件もあるでなし、そのまま不審気に後姿を見送るが、ふと、彼が歩いてきた方向に視線を遣って――ザワリと全身が総毛だった。
 神――は、時に気紛れで、酷く残忍だ。
 既に『人』としての正気を手放しつつある彼が、王国の秩序と平穏を守る為に、何をも躊躇わぬ化生へと成り果てている事実は、その変化を最も身近に感じてきたVGのパイロットの良く知る所である。 
「……ッ、」
 まさか――と、否定しつつも、足は寝座とは違う方法へと向いていた。

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 粗末な布で仕切られた薄闇の部屋は、それ自体、さほど昔と景観が変化している訳ではないが、何処と無く薄ら寒く不気味であった。人の気配が失くなるだけで、ここまで様子が違ってくるのかと、改めて黒のリヴァイアスに於ける人口の激減を思い知らされながら、粗野な造りの顔立ちと、その容姿を裏切らぬ、暴君な性根をした少年は、そっと、ボロ布のカーテンを持ち上げる。
「………」
 キチンと端を揃えられ整えられた一人分だけの簡易な寝所に、部屋の奥の角隅には、最低限の生活物資と共に、微々たる量の私物。ただ、それだけだった。
「……ンだよ、いねェのか…?」
 薄暗い闇の中に朱色の海が広がるよりは余程良いが、余りに何も無さ過ぎて、肩透かしをくらった気分になり、天才の名を冠するパイロットは釈然としない気分のまま、主の無い部屋を後にする。
(……にしても、兄貴のヤツ何処に行きやがったんだ…? 仕事か…?)
 謎の死病が蔓延する現在も生活物資を受け取るための、労働が義務付けられている。健常者である兄弟が、己の生活の糧として、業務に就くのは自然な事だ。しかし――、
(それに、尾瀬のヤツ――ンで、この辺りをウロついてやがったんだ? 兄貴に逢いに来たんじゃねーのか…? いや、それ以外アイツがここに来る目的なんざ、考えつかねー。絶対、兄貴に逢いにきまってやがる)
 なら、狂おしいまでの正義を胸に高潔に在り続ける『神』が、わざわざ『相葉昂治』という人物の元に足を運ぶ理由とは、何であるか。それこそ、考えるまでもない。杞憂だと浮かんだ思考を一蹴出来る程、甘い相手では無いことくらい、重々、承知済みだ。
「バッ…カヤロウが…」
 兄の性格だ――手負いの獣を贄と差し出し、命乞いなどするはずもない。
 日和見主義の事勿れ思想の分際で、殊に、道義に反する行為に対しては、妙に頑で意固地な一面があるだけに、いざとなれば、己を盾にしても蒼の犯罪者を逃がそうという無謀に出るだろう。
 ――戦う為の、能力も持たず、方法も知らず、覚悟も、出来ぬくせに。
 愛するものに、全身全霊を懸ける姿が、その姿を――、
「……っかいなモン、背負い込ンでんじゃねーよ…。クソ…」
 罵倒は、誰に対してのものか。
 一瞬――、ほんの一瞬だけ悲愴な面持ちを垣間見せた少年は、次には、普段の不機嫌な面構えで、非常に不本意そうに今し方業務を終えたばかりのブリッジへ戻っていった。

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「……ブ、ルー?」
 尾行の可能性に気を配りながら、訪れた先で、純粋な愛らしさに満ちた少年は、遠慮がちに王者の名を呼んだ。相も変らずの暗がりに潜む蒼の影から、いつもの、ブーツの踵を壁に打ち鳴らす合図が届き、ほっと胸を撫で下ろす。
「ブルー…、よかった」
 物音の方向を辿り、望んだ姿を視界に認めると、昂治はそっと床に腰を下ろす王国の反逆者の傍に寄り添った。
「……何か、あったのか」
「――うん、ちょっと…」
 それきり口を噤む小鳥のような愛らしい存在の肩に自然な動作で腕を回し、ブルーは、より近く、貪欲に体温を求めた。
「わっ…、ブルー?」
 強引な王者の腕に、半強制的に抱き込まれる形となった空色の瞳が優しい少年は、気恥ずかしさに戸惑う。丁度、ブルーの足の間に横抱きの状態で、胸を頬に充て、鼓動を直に感じ取れる体勢だ。頬を染め上げ躊躇える獲物の可愛らしい反応を愉しみながら、蒼の野生は、襟元を指先で乱し、その白い首筋に甘く噛み付いた。
「ッ……、ブ、ブルーッ…」
 抗議の声は甘えを含んで響き、羞恥に潤んだ瞳は加虐を煽り、余計に、牙剥く野獣の欲が刺激された。
「…いいから、黙って…いろ」
「……ッ、ぶる…」
 他者に対し、完膚無きまでに、その存在意義を否定する非情の王者は、溢れ出す愛おしさのままに接吻を――、
「こんな場所に隠れていたとは――な。正に灯台、下暗しだ」
「!!?」
 余りに突然の出来事に心底驚いた様子の幼な顔の少年は、大きく身を跳ねさせ、反射的にブルーの腕の中から飛び退いた。一瞬にして愛撫の対象を見失った冷酷な王者は、少々不満そうに眉を寄せただけで、来訪者の存在を気にも留めない様子であった。
 一方、微かに足元を照らす非常灯に煽られ、招かざる人物は酷く渇いた気配を纏い、かつての王者と親友を無感動に見下ろしていた。
「……イ、クミ…。ど、……して」
「後を尾けてきたに決まってるだろ。流石に警戒されてたから、少し苦労したけど、な」
 所詮は、太陽系列の惑星圏でも、最も治安が良いとされる『地球』育ち。存分に平和を甘受し怠惰に生を貪ってきた人間を出し抜く事など、容易いのだと、覇者は薄く笑んだ。
「――…まぁ、こんな話をするために、わざわざ昂治を尾行して、アンタを見つけたわけじゃないんだ。単刀直入に、本題に入ろうか」
「……」
 手負いの蒼獣は、鷹揚に構える歪んだ支配者に一瞥をくれただけで、本能的な恐怖に震える少年の、ブレザーの袖を引いた。
「わッ…!?」
 ポスッ、という軽い音と共に、病に臥したる者のそれとは、到底思えぬ力強さの腕に抱きすくめられ、穢れ無き瞳の存在は体勢の気恥ずかしさに、耳朶までをも紅に染め上げた。
「………」
 一部始終をただ黙って眺めていた、悲壮たる正義を掲げる絶対の覇者は、ふ、と口許に自嘲を浮かべた。翡翠の煌きが、残酷に美しく、閃く。刹那に終焉を見据える瞳は、底無しに昏く、一筋の光明も無い。
「昂治を放せよ。エアーズ・ブルー」
 まるで己が言葉に盲従するのが当然とばかりの、高圧的な、感情の抜け落ちた声。
 ――これが、本当にあの『イクミ』なのだろうかと、いっそ、姿形の良く似通った別人だと説明付けられる方が、余程、納得がいく。
「ッ…、イクミッ、俺はッ…」
 しかし、余りに一方的な言い分を見過ごせずに、昂治は愛しき(かいな)から上体を起こし、沈痛な面持ちのまま真摯に訴えた。
「――俺は、俺の意思でここにいるんだ。ブルーのこと…、黙ってたのは、ゴメン。でも、こんな状況だし……とても、言えなくて……」
 徐々に声に力が失われるのは、心を冷たく浸す後ろめたさから――。
 黒の王国を純然たる『力』に寄って支配する、かつての親友への背信行為に対するそれか、それとも、全てと引き換えに望み、手に入れた、美しき獣との背徳行為への感情か。在り処すら掴みきれぬ曖昧なココロを不安定に抱えたまま、いたいけな瞳の少年は、恐ろしく崇高たる理念を掲げる時の支配者を、物言いたげに、見上げた。
 すると――、あまりにも滑稽に、彼は慈悲深く微笑んで、いた。
「大丈夫、分かってる。ソイツに脅されて仕方が無かったんだよな。それに、昂治は優しいから、放っておけなかったんだよな。大丈夫、俺はちゃんと分かってるよ」
「――…え、」
「俺と一緒に居れば大丈夫だ。俺が、絶対に護ってやる。護ってやるから、コッチに来るんだ。昂治」
「……違うんだ、イクミッ…! 俺は、ブルーに脅されたりなんてしてない! これは、俺がっ…、俺の意思で――…ッ」
「脅されて、いたんだよな?」
「……だからッ――」
 話の噛み合わぬ焦燥に思わず立ち上がり、真っ向から歪んだ独裁者と対峙すると、反射的に――息を、呑んだ。
 非常の支配者の右手に、旧世代に広く利用されていたという、無骨な鉛を弾き出すタイプの黒塗りの銃を認め、意気込んでいた少年は表情を凍りつかせた。
「大丈夫、分かってるさ。もう、何も心配は要らない」
 幼な子に言い聞かせるような、甘くやさしい、響きに、正直、寒気すら――。
「俺が護るから、全部、何もかも。だから、大丈夫」
 小型であっても、確かにそれは、人ひとりを死に至らしめるには充分で。無遠慮に――躊躇無く差し向けられた銃口に、命の尊きを学び知る健やかな命の持ち主は、物理的な恐怖よりも、その大元にある悪意を想い、奮い立つ。
「――…、ソレ、下ろせよ。イクミ」
「? 何? どうかしたのか、昂治」
「下ろせって、言ってるだろッ…!」
「――…」
 温和を絵に描いたような少年の何時に無い剣幕にも、まるで、別人に成り果てた親友は、濁り果てた翡翠の眼差しに、極上の狂気を奏でた。
「ダメ、だよ。昂治」
「……なんッ…、」
「昂治を助けた後は、後ろのコワイのを処分しないといけないからさ」
「しょ…ぶん…、…って」
「大丈夫、昂治は何もしなくてい。ただ、後ろを振り返らずに、部屋に戻るだけでいいんだ。俺が、助けてあげるから。――おいで」
 ぐ、と喉の奥に熱いものが込上げ、目蓋の裏側に、酷い圧力を感じた。
 これは――何なの、だろう。
 って、人殺しをくコレは――、何?
「……、イクミ」
「ん?」
「俺は、お前の傍には行かない。助けてもらう必要もない。今回の件に関しては、ちゃんと後から説明に行くし、幾らでも謝る。
 だから――、今は…っ、今は返ってくれ…ッ!!」
「………」
 スゥ、と奇妙に歪んだ輝きの翡翠の対が、剣呑と細められた。
 無言のまま構えなおされる銃口、籠められた殺気に、真っ先に反応したのは、またしても、この場に居るはずもない人物だった。
「止めろッ! 尾瀬ッ!!」
「――! ゆうき…」
 攻撃的な口調に敵意を漲らせた気配。聞き間違えるはずもない、誰よりも近しく、何よりも遠い『弟』の登場に、最も驚きを隠せずにいるのは血縁者である少年で。
「何か用か? 祐希」
 あらゆる全てに対し、無慈悲なまでの平等さで断罪を行う、絶対の――独裁者。
「いいから、ソイツを仕舞え。話はそれからだッ」
「……だって、昂治。早く、コッチにおいで?」
「俺はッ…、」
 堂々巡りだ。まるで、言葉の袋小路に迷い込み、出口の無い暗闇で希望を手探るような、得体の知れない恐怖に、身が竦んだ。
「まだ、駄々をこねるのか。――全く、仕方ないな…」
 かつて『友』と呼び習わした人形(ひとがた)が、懐かしい、道化た調子で溜息を吐き。
「なら、カラダに分からせるしかないよなァァァッ!!!」
 憎悪と怨念に凝り固められた、浴びせられれば、その場所より爛れて崩れる、腐敗した殺意が一瞬で弾けた――!

――――――――――――――――――――


 気付いたその瞬間には、熱い腕に、温かな鼓動の胸に、しっかりと抱すくめられて。
「………あ…」
 大きな肩越しに広がる視界の先には、心の離れて久しい『弟』と、狂の虜と化した『親友』が、硝煙の臭いのする凶器を争い激しく取っ組み合う光景が、在った。
「! ッ、祐希ッ…」
 惚けていたのは、ほんの数秒で。
 即座に我に返ると、まずは、無茶な行動に出る向こう見ずな弟の心配。慌てて加勢をと身を乗り出しかけて――足元を、ぬるりとしたものに、掬われた。
「……? …――え、?」
 夥しい、赤の、洗礼。
「………、……ッブ、ルー…?」
 出血や、流血などというような可愛い表現では到底――間に合わぬ。
 脇腹と――肩、左半分を完全にそぼ濡らす朱色の重みに、透明な空色の瞳が、芯から、震えた。
「……ブルーッ…、なんでッ…。
 ごめんっ、ごめん、ごめんッ…、俺を、かばッ……」
 混乱と後悔の苦さから、やっとのことで吐き出した贖罪は、悲しみに濡れて。世界は、次第に輪郭を滲ませてゆく。酷い嘔吐を伴う喪失感に、力の入らぬ指先で縋れば、充分に湿った鉄錆の感触に、余計に眩暈が――した。
 自責の念に駆られ見上げた先には、死相に一層映える、蕩けるような、極上の微笑み。
「……ブ、ルー? …」
 寄る辺無く吐息を漏らす愛しい小鳥の眦を口唇で、そっと、辿り。
 そのまま、熱を奪い――、与えた。
 合わさる柔らかな感触に、素直に応える命が、いとおしい。
 燃え尽きる空に、羽音が、聴こえる。
 終焉を運ぶ黒の――、
「……昂治…」
「………」
 長い――長い接吻に、呼吸を切なく乱す、無垢たる欠片の結晶を。あらん限りに掻き抱いては、その華奢な肢体を、心に刻みつけ、幾夜の闇を越えて羽ばたかんと。
「……お前は、」
 ヒュ…、と喉の奥が鋭く鳴る。
 光が、もう、――…遠い。
「……生きろ…」
「……ブ、ルー、……?」
 意思の力を失った躰は空っぽに、暁に染まる。
 崩れ落ちる重みを受け止め――切れずに、そのまま、背中に灰色の壁の硬質な冷たさを感じた。
「………ッ」
「……うあッ!!」
 ガウンッ、と心臓に響く耳障りな音に、呆然と視線を上げれば、左腿を押さえ蹲る影が。
「……邪魔をするな。お前を喪う事は許されない」
「テ、メェッ……」
 誰彼構わず噛み付く狂犬のような性質を内包しているとは言え、やはり、太陽系の惑星の中でも最も護られた地球(ホーム)で十四年育ってきた甘さがある少年は、銃で撃たれた痛みと衝撃に、低く唸った。
「……ッ、祐希ッ!!」
 血塗られた光景に、悲壮に駆られた表情で反射的に弟の名を呼ぶ。それに、最も反応したのは、支配する倒錯と悦楽を孕んだ制裁者だった。今し方断罪を終えた手は、微かに震えていた。しかし、その狂気は膨張するばかりで、とめどない。
「…ああ、よかった」
「………?」
「無事だったんだ。昂治」
「……イクミッ…」
「コッチにおいで。大丈夫、その死体は俺が処分しておくから」
 ――…した、い?
「可哀想に、もう大丈夫だ。俺に任せてくれれば。さぁ――」
 シタイ、シタイ、――死んだ、カラダ。
「……ッ、イ、ヤだ」
「昂治?」
 優しい――、優しい声だった。
 まるで天上から降り注ぐ唯一の光明のような。この安堵に全てを委ねて、幸福感に身を染めたいと、強烈に不安に占められた心が嘱望する――反面、華奢な腕に抱き留める抜殻の、その重みが、失いかける正気を現実に繋ぎ止めた。
「イヤだ…、どうして……、ッどうして……」
「昂治、余り俺を困らせるなよ。ほら――」
 傲慢な正当性によって迷い無く伸ばされた残虐の手に脅える憐れな命。ビクリと大きく肩を揺らした動作で、受け止めていた重さが体勢を崩す。咄嗟に腕の力を込めなおすと、濁り果てた対の翡翠が、瞳孔を大きく開いたまま、凍り付いていた。
「――…ソイツ、感染者…だったんだな…」
 網膜に焼付く、緋牡丹の如き、美しく紅い大輪の痕跡(あと)
 一瞬、何を言われたのか理解できずに、鮮明な朱に抱かれ絶望にそぼ濡る空の瞳に、黒の王国を恐怖によって余すことなく支配する独裁者を映しこんだ。
「……そっか、そうだよな。
 ずっと、一緒にいれば――当たり前だよな。……ハ、ハハハハッ…、アハハハ」
「……イク…?」
 思い出の中の面影の一切を欠落させ、その分だけ、造作の良さが際立つかつての『親友』は、パックリと開いた傷口から、腐臭を上げ、躰が軋むような苦痛を感じた。
 ――この、痛みは……ドウスレバ、
「最初は、小花が散る痣。朱の色は次第に広がり……やがて、一つの牡丹の大きさになる。そうなった時にはな。もう…、絶対に助からないんだ。昂治」
 ガシャ、ン。
 金属的な音が、遠いところから、届いた。
「……や、めろッ!! 尾瀬ェッ!!!」
 撃たれた場所を庇うようにしていた天才の名を冠する少年が、灼熱を訴える痛みに耐え駆け出そうとするが、予想以上の激痛に、足を縺れさせた。残酷な支配者の瓦解した正義を抑止するだけの手立ては、最早、何ひとつ無く。
「個体によって、症状が出るタイミングはそれぞれだ。
 けどな――、そこまで咲いてしまうと……死ぬよ。昂治」
「………」
 ああ、――そうか、と。
 突きつけられた凶器に、痛ましさを募らせる幼い少年は、全てを悟る。
 抱留める愛しき人の温もりを、最期まで感じて。
 遥かに遠い、空を切る、命を喰らう終末の鳥。
「さよなら…、昂治」
 最早、人の形を保つ、それ以外の何かに変質した優しい親友の、葬送の言葉が闇にあえやかに溶けて――ゆく。
「止めろォォ、尾瀬ぇぇぇええええ!!!!」
 喉を裂かんばかりの絶叫が――世界を軋ませた。

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に――無数の星の煌きと、薄藤色の少女の面影。
 それが、最期に刻んだ……んだ記憶。


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