神々しき輝きを纏う神の鳥――レティス。
人の存在する現世とは異なる時空を渡る天翔ける黄金の神鳥は、闇魔神ラプソーンを人知れず追い続ける若き旅人たちにとって、非常に有難い助けとなっていた。
闇の世界の、と枕詞がかかるとはいえ、やはりラプソーンとて『神』と称される存在。人の力は希望を伴う最後の灯火、果ての無い暗黒を払う事が出来る唯一無二の光ではあるが、それだけでは敵わぬ時もある。例えば、空の彼方に在る天空の城や断崖絶壁陸の孤島にある洞窟へ挑むには、人の足だけでは、なかなかに困難である。そこで、神鳥の魂による移動が大いに役立つ。
――遥か上空より見下ろす地上は、遠く、広く、羨望すら覚える程に、愛おしく。
何故か――…、二度と地上へ戻れないのではないかと、悲しい錯覚を覚える事が度々あった。
「…困ったなぁ」
神鳥の魂――淡く黄金に輝くオーブを片手に、トレードマークの赤いバンダナを頭部に巻いた黒髪の少年は、馬車の荷台で心地よい振動に揺られながら小さく呟いた。
「なんだよ」
大して興味も無いと、おざなりに尋ね返してくる銀細工のような青年に、少年――エイトは、うん、と一つ頷く。ちなみに、外の見張りは賢者の末裔である火炎の魔法を得意とするゼシカ嬢と巨漢に相応しい非情なまでの殺傷能力を誇る刃――粉砕の大鉈を備えたヤンガスの二人に任されている。女性を戦闘に参加させるなんて、という者は、エイト一行には存在しない。そういう人間は今までことごとく、可憐な顔に似合わぬ豊満な肉体の才高き魔法使いの炎の餌食となっている。
「波長が合わなくなってるみたいなんだよね」
「――…は? 何の?」
「レティスと僕の」
「………」
突然に、神の鳥と謳われる彼の存在と波長が合わないなどと、意味不明な事を口走り始めるパーティの主戦力である剣士に、麗しの聖堂騎士は無言のまま、可哀想なモノを見る目つきをする。
「…ククール。そんな哀れんだ目で見られると傷つくんだけど」
「見られたくなきゃ、分かるように話せ」
「だから、ね」
ちょこんと小首を傾げると黒目がちの大きな瞳に、圧倒的なカリスマにて老若男女構わず惹きつける聖なる騎士の姿を映しこんで、エイトは神鳥のオーブを差し出す。
「レティスって、『神族』の部類に属しているんだよね」
「――それが?」
神鳥と呼ばれるからには『そう』なのだろうと、事も無げに聞き流すククールに、エイトは続けた。
「僕たちがオーブの力で空を飛ぶのは、レティスの魂魄に肉体という器ごと同化しているからなんだよね。でも、この同化行為――『完全生化』というのは、同じ神族同士、もしくは、更に上位の存在や対極の禍(マガツ)を対象としては無理なんだよね」
学識も知性も持ち合わせ無い辺境の近衛兵士と侮っていた相手の思わぬ博識に、聖堂騎士団の内でもその抜きん出た才能から名誉騎士の称号を授かる青年は、不審を抱いた。そう、感心でも驚嘆でもなく、疑念という二文字が相応しい感情。
「…なんでお前が神学理論の経典の深層戒則を知ってンだ」
「――…え?」
「なんだよ?」
詰問したのは此方のはずなのに、何故か酷く驚かれて、奇妙な居心地の悪さを覚えるククールだ。周囲をその奔放さで振り回す事が多い銀月の化身の如き美貌の主は、目の前の一見人畜無害そうな少年を相手にしてはどうにも旗色が悪いようで、戸惑う様子が見て取れる。
「あ、や、ゴメンゴメン。
今の内容が門外不出の経典のモノだってククールが知ってるのが、すっごい意外で」
びっくりしちゃった、と微笑む姿に、悪気も他意も一切含まれてはいないが、妙に空々しい。この天然腹黒剣士がこういう笑顔を見せる時には、大抵ロクな事を言い出さない。それは過去の経験からして、最早確信めいた予感であった。
「ね。どうして知ってるの?」
門外不出――それは決して口先だけの看板では無く。
進学理論の五層より深部は一般は愚か、神官や聖堂騎士にも基本的には公開されないのが常だ。それを知るという事は即ち、一神官、一聖堂騎士の権限以上の存在である事を暗に示している。
確かにククールは、マイエラ修道院の総責任者であったオディロ修道院長に、まるで身内同然の格別の寵愛を受けていた事もあり、その辺りの事情に明るくてもそこまでの不思議は無い。
「――…どーでもいいだろ、ンな事」
予想通りの反応に、エイトは心の底で黒い笑顔を浮かべた。無論、表にはおくびにも出さないが、それとなく良くない気配を感じているらしく、序々に雪花の美貌が翳り始め、慌てて切り返す。
「大体、訊いてるのはコッチだぜ」
「ん? ああ、そうだね。ゴメンゴメン。え、っと…」
素直に謝罪されるのがまた心臓に悪い。本当に、どうしてこの純朴そうな少年剣士がここまで不気味に感じられるのか。そこまで思って、自身の愚問にククールは軽く頭を振った。
「ククール?」
きょとんとされると、奇妙に居た堪れない。
なんでもねぇよ、と短く吐き捨てて、麗しき相貌の深紅の聖堂騎士は少年の返事の先を促す。
「…とても小さな頃に祖父から――だと思うんだけど、聞いたんだ」
「祖父からだと思う? なんだそりゃ」
言葉の中にある違和感をククールは即座に拾いあげて尋ね返した。それを柔らかく受け止めて、エイトは黒無垢の瞳を優しく細めた。
「とても昔の記憶だから、あまり覚えてないんだ。
祖父がどうして知っていたかは僕は知らないけれど、とても沢山の事を教えてくれた――…」
「…お前、家族…は?」
人知れぬ勇者一行のメンバーは誰もが年若く、それぞれに、癒えずにいる苦い痛みを抱えている。それ故、互いの私的な部分に触れる行為は禁忌の不文律となっていた。
その辺りの事情を悟れぬ程、けぶる春月の化身の如き美麗な聖堂騎士は愚鈍では無い。しかし、振り返るべき過去を抱えず安穏と生きているようにしか見えぬ少年の、その実を見出したい衝動に駆られて、疑問は口から滑り落ち投げかけられていた。
「祖父はずいぶん前にいなくなって。生きてるかどうかも分からないんだ。
他に家族もいなくて…。だから、今は一人だよ」
「…そ、か」
法王による治世の統治が徹底しているため、列強各国による戦火の無い世界は、――それでも、各地に跋扈出没する魔物や盗賊のお陰で命を落とす人間も多い。大国でも中流以上の家庭に生まれなければ、幼くして孤児となるのも珍しくは無いのだ。
それでも、千年戦争と呼ばれた過去の凄惨な大戦乱の混沌の時代には『一歩、歩けば友の陰。二歩歩けば、親の涙。三歩行くれば、我が命』の故事の通り、表を三歩歩けば命を落としていたのだから、少なくとも昔に比べれば良いと言えるのだろう。
「――で、ククールは?」
「……ッ」
唐突に話題を戻されて面食らうククールに、にっこりと、エイトは人の悪い笑みを浮かべた。
別に隠し立てするほどの事でも無いが、牧歌的な農業国家でのんびりとお姫様付の近衛兵をしてきた少年に対しては、煩わしい程に警戒してしまうククールだ。
「…オディロ院長に聞いたんだよ。
それと――、自由に読んで良いって言われて、経典の写しを保管してある地下の鍵も貰ってた」
「へぇ」
幾ら特別に経典の閲覧許可を持っていたからといっても、結局は当人が読まなければ宝の持ち腐れだ。圧倒的な美貌とカリスマに反比例する素行の悪さが有名な真紅の聖堂騎士様だが、意外に真面目な一面があるのだと、エイトは感心してみせた。
「それより、その波長がどうとかいうのは?」
何故だか分からないなりにも、旗色の悪さを感じ取って、ククールは半ば強制的に話の内容を方向転換させた。
「あ、うん。そうそう。
今までは騙し騙しどうにか飛べてたんだけど。それも、そろそろ限界で――…」
そこで、盛大な溜息。
この尊大無比な少年にしては珍しい行動に、ククールは形の良い柳眉を寄せた。
「なんだよ?」
「うん。レティスの力を借りないと移動出来ないところってあるから。旅に支障をきたす前にどうにかしたいんだけど、どうしたらいいかなーって考えてて」
そう零して、自身の左肩を撫でるエイトに、白銀に輝く髪を背中に束ねた聖堂騎士の青年は、微かに表情を曇らせた。この天上天下唯我独尊の眼前の絶対的に傲慢な存在は、その温和そうな外見に反して冷徹非情な戦闘能力を誇る。滅多に痛手を負ったりしない上に、ある程度の怪我ならば自身の回復魔法で勝手に完治させてしまう。そんな常軌を逸した強さの少年の今の行動が意味する事は、唯の一つしか思いつかない。
――左の傷。
鋼鉄の刃、メタルウィングの牙が深々と突き立ったその場所は、抉られた痕こそ既に癒えてはいるが、時折、無意識にエイトが自身の手のひらで擦っているのを幾度か目にしていた。
痛むのか、と訊ねた事も一度や二度ではないが、答えは決まって同じ。
「…そんな顔しないで。大丈夫だよ。痛いわけじゃないから」
「――…誰もきいてねーよ」
「そう? 心配そうな顔してたけど」
「自意識過剰なんじゃねぇの」
「あはは、手厳しいなぁ」
白皙の肌にこぼれる銀雫の髪、透徹の意思を秘めた澄み渡る水浅黄の眼差し、とても美しい人は、到底一筋縄では行かない。でも、そんな手強いトコロも、数多の想いを袖にする気位の高さも、全て愛おしいと、心が軋む。その理性を食らう甘美な痛みに逆らえるとすれば、それは――…、
「ね、ククール」
「…なんだよ」
不機嫌に答える年上美人な聖堂騎士に、少年剣士は、にっこりと隙の無い笑みを浮かべた。
「聖地ゴルドの『奇跡の水』って、関係者以外にも分けてもらえたよね?」
目の付け所は流石だと、ククールは胸の内で感心する。
伊達に『聖地』の名を冠しているわけではなく、世界地図で見た時に丁度中心に位置する孤島――ゴルド。そこは万病に効くと謳われる奇跡の水の湧き出る、世界で唯一の場所なのだ。
しかし、万人に分け隔てなく与えられないからこその『奇跡』の輝きであれば、そうも容易く譲渡されるはずも無い。
「その肩の傷に使うのかよ」
「そんなところかな」
「完治してねーのか?」
「ううん。傷は完全に癒えてるよ」
「なら――…ッ、」
何故、と問いかける透明度の高い声を自身の指先で遮り、エイトは極上の砂糖菓子のような微笑で、愛しい人の疑問を甘く包んだ。
「大丈夫。問題ないよ。ちゃんと、皆に迷惑を掛けないようにするから」
「……ッ」
優しい、拒絶。
幼き時分に両親を亡くし、帰るべき場所を失い、唯一の血縁である兄からは剥き出しの憎悪を浴びせられ。その秀でた才や恵まれた容姿に対し、周囲は嫉妬による誹謗中傷を重ねるだけで。
――悪意の中成長した子どもは、他人の感情に悲しい程に敏感になる。
自身の身の安全への危惧から決して口には出さず、表立ってそれと感じさせないように立ち振る舞ってはいるが、硝子細工のように儚く麗しい銀嶺の騎士は、パーティを率いる若きリーダーに一目置いていた。命を預ける相手だ、そうでなければ到底背中を任せて戦えない。旅を共にする連中にはそれなりに信用しているが、トロンデーンの近衛兵である黒髪の少年だけは別格だった。
闇魔神ラプソーンの復活を阻止せんとする旅は、人間には過酷を極めた。例え、七賢人の血と魂を受け継ごうとも、如何ともし難い現実が行く手を遮るからだ。
それが何かと問われれば答えは一つしかない。
絶対的な、恐怖。
無力の代名詞のような人の子等には荷が勝ちすぎる、それ。
例え世界を異にするとはいえ、ラプソーンとて『神』。人智を超越した遥かなる存在。鼠が百獣の王に戦いを挑むも同然の無謀だ。それも、玉砕覚悟の突撃などでは無く、勝利を実現しようとするのだから、弱き人の身では耐えようも無い重圧だ。
それら全て――大丈夫だと奇妙な信頼を抱かせるのが、近衛の少年、エイトだったのだ。
仲間としての絆と想い寄せる相手からの線引きは、想像以上に苦い。それも、不意打ちであればあるほどに。これは完全に、虚を突かれた形だった。一方的な遮断。伸ばしかけた腕を払い除けられた時のような軽い喪失感。痛みは、容易に繰り返す。
「…勝手にしろ」
――…取り繕った場所での流暢な世辞文句は手馴れている。社交場での手練手管も見事なものだと自負がある。しかし、それらの全て取り除いた言葉は真紅を冠する聖堂騎士には、酷く難しい。結局、形と成ったのは心とは正反対の、不器用な台詞だった。
the Holy Dragon
「――それで。何故、私のところに来る」
「冷たいなー。構ってやんなかったから、スネてんの?」
「…あの時の傷が元で、とうにくたばったものと思っていたが。存外、しぶといものだな」
「何。心配しちゃった? やだなー、やっぱり? 俺って、愛されちゃってるなぁ」
「成るほど『バカ』は死ななければ治らないというが、死に掛けるとバカに益々磨きがかかるのだな。これは知らなかった」
月黄泉の世界は外界から遠く離れ、時の流れさえ等しくは無く、ゆったりと時が流れる。同じ理由から、治癒には非常に時間がかかる。法王の名を冠する険しい顔立ちの青年は、未だ床に伏したままであった。
無論、他人に弱さを曝け出す事を異常なまでに嫌う、激しき気性の鷹のような男が、破天荒且つ無礼な少年の来訪に対して、大人しくベッドの上の住人となっているはずも無い。その気配を感じ取るやいなや、手早く身支度を整え、愛用の実用性重視の騎士剣を手に敵を待ち構える。
重症の身でありながらそこまで動ける聖堂騎士団長を賞賛すべきか、彼にそこまでさせる黒髪の少年の人格を空恐ろしく思うべきかは、どちらも正しい感想なだけに、判断に迷う所だ。
「大方、ゴルドの奇跡の水の情報でも嗅ぎまわりにきたのだろう。
下賤なハイエナが」
「ひどいなー、嗅ぎまわるだなんて。イメージ悪いじゃん」
「事実だろう」
「…情報を貰いに来たのは当たってるけどさ」
部屋の隅――背を壁に預けて油断無く立ち構える法王の射抜くような視線を物ともせず、茨に呪われし王国、トロンデーンの近衛兵であった少年は、ベッドに腰を掛けて天井を仰ぐ。
「なぁ、マルチェロ」
「気安く呼ぶな」
「今後『マイ・スィート・ハニー』って呼ばれたくなきゃ、グダグダ抜かすな」
「……反吐が出る」
「で、マルチェロ」
「…なんだ」
どうやら先程のエイトの言葉が余程堪えたようで、今度は素直に返事を返す青年だ。しかし、不承不承という様子はありありと伺え、少しでも隙を見せれば襲い掛かり、喉元を引き裂かんとする、猛禽特有の不穏な気配を纏っていた。
「ゴルドの奇跡の水の在り処を知らないか?」
「……それで、月黄泉の呪いが解除出来るとでも?」
「さぁなァ。何せ、イシュマウリ自身もサッパリな呪いだぜ。
片っ端から可能性に当たっていくしかねぇだろ。実際」
そのまま、ごろりとベッドに仰向けになるエイトにらしからぬ弱気を感じ取り――マルチェロはいい気味だと謂わんばかりに嘲笑を浮かべた。
「フン。古代より伝わる呪いか。いいザマだな」
「…可愛くねー。てか、なんで俺に月黄泉の呪いが掛かってるって分かったんだよ。
法王様ともなると、眼力で看破出来ンの? マルチェロ・さ・ま」
「気に食わん男だな。
――…正体も知れぬ呪いが看破出来る訳なかろう。月黄泉の主が勝手に話しただけだ」
「…やっぱ、イシュマウリか。ククールには言わないよーに口止めしとかなきゃなー」
外の世界の一切の興味を抱かぬ青き月の世界の主は、しかし、ふとした時に余分な讒言を行うことがある。それが的確なモノだからタチが悪いことこの上無い。
「で? 場所。知ってるの? 知らないの?」
気だるそうに口を開くエイトに――…残酷な程に整った顔立ちの男は、内心でふむと関心を寄せた。有り体に言うのならば、弱っている。弱体化というよりも、衰弱か。十中八九呪いとやらが原因なのだろう。
今ならば、容易に殺せそうだと、冷えた欲望に灯が灯るのを自覚する。元より、冷酷を身上とするマルチェロだ。常々、殺意の対象である男が無防備に横たわるのに、黒い衝動が湧き上がるのを抑えきれずに、丁度、獲物を前にして興奮した猛禽のように、スゥと深い闇を湛えた瞳を細めた。
「…止めとけよ」
「――…」
懐のナイフの柄に――青の外套の上から触れた瞬間、大して興味も無いというように、投げやりな制止の声が掛けられた。殺意を――明確に指摘され、落日の法王は忌々しげに舌打った。
「……月黄泉の呪いは」
「?」
「宿主が穢れを享受する度――つまりは、殺戮を繰り返す程に、その報いを自身に受けると聞いた。殺せば殺すほどに、穢れは毒となって己の身を灼き滅ぼす。諸刃の呪いだと」
「……どーりで」
世界には闇魔神ラプソーンの復活の影響を受け、変質、凶暴化した魔物や山賊、野党で溢れかえっている。そのような危険の最中を旅してゆく上で、襲い掛かってくる連中の命を奪うなとは、何とも博愛と自己犠牲の精神に満ちた憎々しい呪いだ。
「――…貴様程の戦いぶりでは、痛みも相応だろうな」
「…まーね」
しょっと、勢いをつけてベッドから起き上がる黒髪の少年に、威厳と尊厳の備わるかつての騎士団長は、逡巡の後に長すぎる溜息を漏らし、重い口を開いた。
「ゴルドの水なら、マイエラ寺院の私の部屋に少しだけ予備がある。他は、神殿の奥の礼拝堂に安置保管してあったはずだから、おそらく、無事に残っているものは無いだろうな。
部屋に鍵はしてあるが――…貴様には関係なかろう。好き勝手に不法侵入しているようだからな。ベッドサイドの棚の奥に青い瓶が3本程隠してある。好きに使え」
「……何。貸しってヤツ?」
意外すぎる台詞に、エイトはきょとんとして見せた。
悪辣大魔王のくせに、こんな無防備な表情もするのかと――その物珍しさに、法王の位を戴く自尊心と気位が天よりも高い男は、皮肉を返す。
「貴様には貸しばかりだな。竜の瞳(」
「…それも、イシュマウリに聞いた?」
何を――とは、敢えて口にせずに、少年は感情の籠もらぬ黒の瞳を迫力のある恵まれた容姿の男へ向けた。
言葉少なになるのは、核心に近いから。
優位に立つ相手を下から追い詰めるのは――…奇妙な征服感と陶酔を感じるのは、雄の性か。
「ま、アンタはカンもいいし、鼻も効くから…当然かもな。
でも――、そーだな。一つ、お願いがあるんだけど」
「…なんだ」
普段の元騎士団長の人格ならば『知らん』の一言で切り捨て終いであろう申し出を、如何な気紛れか、静かに先を促した。懐のナイフはとうに収められている。最早、牙を剥く興も削がれていた。
「…俺の事、ククールには言わないで」
「――…」
やはり、何をとは正確には語らず、抽象的に少年剣士は懇願した。
月黄泉の呪いの事か、竜の瞳(の事か、はたまた、今日ここに足を運んだ事実なのか。幾度の可能性を含んだとらえどころの無い願い(は、青の世界に儚く染みる。
「――マルチェロ」
「なんだ」
「俺は、アンタをもう一度法王にするよ」
「…馬鹿にしているのか。貴様」
自尊心の高い男だけにエイトの台詞に侮蔑を感じ、失われし聖地の頂きに立つ鷹の瞳に敵意を顕わにして、マルチェロは忌々しそうに吐き捨てる。
「俺が、そうしたいんだ。アンタの意思なんて関係ない。
――この世界を捨てるには、俺には大切なものが在りすぎる。
だから、俺はアンタをこの世代の法王にする」
「……負け犬宣言か。腑抜けたものだな」
竜の名を冠する少年の意図を測りかね、マルチェロは腕を組みなおすと、フンと鼻を鳴らした。表を向くカードだけで判断するならば、単なる闇魔神との戦いを前にしての、気弱。過酷な運命へ己の無力さへの泣き言。しかし、法王たる男が知る限り――エイトという剣士は、人々に降臨する恐怖の対象『ラプソーン』など歯牙にもかけていないはずだ。ならば、この言葉の裏には――…、
「マルチェロ」
「…今度はなんだ」
億劫さを隠そうともしないくせに、律儀に応える偉大なる元騎士団長殿を愛しく思いつつ、エイトは愉快そうに肩を揺らした。
「愛してるぜ。今度、イれさせてな」
「――…死ねッ。」
真紅の騎士とはまた趣を異にする端麗な容姿の法王は、その額に大きく青筋を立て、手近にあった青く透き通る飾り皿を投げつけた。無論、そのような雑な攻撃の効く相手では無いので、エイトは素早くベッドから起き上がって一撃をかわす。ぽすっ、とも、とすっとも、場の険悪さに似つかわしく無い間抜けな音をたててクッションに沈む皿を横目に、性悪そうな表情に戻った少年は、強気に愉しげだ。
「アッハッハッハ、血圧上げると傷に触るぜー、法王様。
じゃーな、また来るぜ。マイ・スィート」
「失せろッ!!」
叫ぶと同時に投げられた殺意のナイフを悠々と避け、エイトは軽やかな身のこなしで月黄泉を去ったのだった。
基本的に、パーティ管理は自然と年若い剣士の仕事となっていた。
資金繰りや物資補充、旅の大まかな行動指針などがそれに当たるわけだが。
そもそも今回の旅は、トロデ王とミーティア姫が自身と国が受けた忌まわしき呪いを解く為に、呪手である道化師ドルマゲスを追って始まった。
旅など経験したことも無いトロンデーンの王と馬姫様だけでは、旅立ちすら危うかっただろうが、茨の呪いから奇跡的に唯一人無事であった近衛兵がそれを可能にしたのだ。
よって後ほどから加わった三名――つまり、パーティの責任者であるエイトを異様に慕いあげる山賊あがりの巨漢と、兄の仇討ちという悲壮な決意を胸に秘める良家出身の魔法使いのお嬢様、そしてマイエラ修道院を体良く追い出された真紅の聖堂騎士は、後入りの慣例として、エイトの決定に従っていた。
無論、不満があれば遠慮なく口にする。また、リーダーを務める少年も決して偏った独断で暴走をする事は無く、今後について皆と相談したり、説明したりと、細やかな配慮を行っていたので、特に大きな問題も無く旅は順調であった。
要するに、闇魔神の復活を阻止すべく奮闘するパーティの誰もが、自身等のリーダーを信頼していたのだ。よって、例え真夜中に何処かへ姿を消そうとも、明け方近くに戻ってこようとも、その行動を見咎める者は誰一人としていなかった。
――…いなかったのだ、それまでは。
「…よう。お早いお帰りだな」
「あれ、ククール。まだ起きてたの?」
必要な情報を聞き出せた上に、愛しい法王様をからかい倒すという娯楽に興じてきたエイトが上機嫌で宿へ戻ると、不貞腐れた響きの声に迎えられた。
「起きてちゃわりーか、このヘンタイヤロウ」
「出迎えで悪態は酷いなー。
もう眠らないと、明日が辛くなるよ?」
妙に絡んでくるのは深酒の所為なのだろう。宿の丸テーブルの上に空になった酒瓶が結構な数で放置されている。僅かに残った酒が横倒しになった瓶の口から零れて、床に褐色の染みを作っていた。
――まるで、乾いた血痕のようだと不吉な想いに囚われ、エイトは失笑した。馬鹿馬鹿しい妄想だ。
「もう、今日ダロ。バーカ」
「…ククール。ずいぶん酔ってるよ? もう休んだ方がいい」
脈絡の無い可愛らしい暴言に、黒無垢の瞳をした人畜無害そうな外見の少年は、今度は優しい微笑を浮かべる。
「…るっせェ、俺に指図してんじゃねー」
「はいはい。じゃあ、そのまま飲んだくれてていいよ。
僕は少し出てくるね」
「…こんな時間にか?」
パーティのリーダーである少年は夕餉の後の自由時間に姿を消すことはあっても、流石に、夜明け近くになって行方を眩ます事は無かった。珍しい――というよりも、不審な行動だ。
「うん。――少し、ね」
「何処に行くんだ」
「風に当たってくるだけだよ。
もう夜明けだ――朝日を浴びたくなっただけだから、直ぐに戻るよ」
「………」
純朴そのもの、名も無き村の少年、といった凡なる人間にしか見えない近衛少年の、無表情(や嘘(は非常に看破し難い。人当たりの良い微笑みと、口当たりの良い言葉で、欺瞞を振りまく真性の悪魔――得難い存在だと思う。
「…エイト」
「ククール?」
少しの荷物だけを手に部屋の扉からするりと抜け出して行く背中に、真紅の聖堂騎士は所在の知れぬ苛立ちを覚え――呼び止めた。殆ど、無意識の行為で。不思議そうに振り返ったエイトに対し、逆に焦る。何故か、黒の瞳と髪の少年は立ち止まらずに行くと核心してたのだ。
「…な、んでもねーよ」
何故、コチラの呼びかけに応じて足を止めるのかと、理不尽な怒りまで湧いてきて、完全に完璧に麗しき騎士の御仁は混乱していた。
「うん? ならいいけど…。気持ち悪いなら、ちゃんと薬飲んで寝てね」
消える――遠く、離れる。
咄嗟に伸ばした腕、指先が空に溺れるように、宙を掻いて。
「エイトッ!!」
噛み付くように、叫んだ。
俺は、世界の王になるよ
暗転する意識の中、色鮮やかに思い出したのは、不遜な口調、決意の眼差し。
あれは、誰の言葉だったのか。
そんな当然の答えすら導けずに、春の宵に掛かる儚き月のような騎士は、記憶も意志も何もかもを手放した。
青く青く、永劫の時空を彷徨う月黄泉の主は、人の身の丈を軽く越すハープの爪弾きを止めた。
「……王が、来る」
盲目の目蓋の裏に――凄烈な輝き。圧倒的な質量、存在感。王者の風格。逆意すら愚かな。
迎えなければ。
それが太古よりの慣例であり、儀礼。
青と月と夜との狭間に住まう彼の主は、やがて訪れる滅びに、恭しく頭を垂れた。
『人の器に執着し過ぎでは無いか。竜の瞳(』
――声、いや、響き。
『我らは世界の均衡を守るのが運命(――…』
遠く、大きなところから届く。
『余剰な干渉は、不文律を乱す』
確かに聞こえているのに、輪郭を掴もうと意識を伸ばせば、砂礫のように崩れゆく。
『次代の長よ。定められし王よ。人の器で何を惑う。
放逐されし世界の果てに、何を迷う。
生きた世界へと戻られよ――竜の瞳(』
目覚めた時、窓の外は十分すぎる程明るかった。
「おはよ。ククール。もう昼過ぎだよ」
眩しさに重い目蓋を無理やり持ち上げると、同室の少年が聖水の小瓶に似たガラス容器を手の中で転がしている姿が飛び込んできた。
「………」
何をしているのかと問おうとして、酷く渇いている事に気付いた。
完全に酒に呑まれたらしい――自身の不甲斐無さに機嫌は急下降する。
「急性アルコール中毒かと思ってビックリしたけど、何とも無くて良かった」
差し出される冷えた水を受け取って、ククールは無言でそれを飲み干した。
「ぷっ、…ハァ。
あー…、生き返った。てーか、頭イッテェ…」
「飲みすぎだよ。二日酔いに効く薬湯作ってこようか?」
「あー…、頼む」
「ハイハイ」
仕方ないなぁと、溜息をひとつ。
手間の掛かる子程可愛いと言うが、なかなか言いえて妙だ。
愛しい人に無防備にされるのは、心地がよい。
普段はなかなか隙さえ見せない高嶺の花な聖堂騎士だけに、頼られれば嬉しいのだ。
「じゃ、大人しく寝ててね。ククール」
「ぉ〜…」
此方の指示に素直に応じる辺り、本格的に具合が悪いらしい。苦笑を浮かべつつ薬草袋を片手に部屋の扉へ向かうエイトに、不意にククールは思いついたそれを口にした。
「……エイト」
「うん?」
「今…ここに。お前以外の誰か……、いた、か?」
一言漏らす度に吐き気が襲うのか、紙のような顔色の美貌の青年が搾り出すようにして投げかけた疑問に、エイトは不思議そうに首を傾げてみせた。
「ううん、誰もいなかったよ?」
「……、そ、か。……なら、いい。
わりー…な、妙な事……、ぅぷ」
「ほら、そんな事は別にいいから。大人しく寝る。
ったく、こんなになるまで飲むなんて、バカだなぁ」
二日酔い真っ只中の奔放な聖堂騎士を優しく咎めながらも、エイトは薬湯の用意が先決と、部屋を後にした。その後姿をベッドに横たわったまま見送り、ククールはゆるりと瞳を閉じる。
(――…気の所為、なのか?)
確かにきこえていたのだ。
幻聴と云われればそうなのかもしれない。
『今』の自分が決してマトモだと胸を張れないだけに、断定するにも情報不足だ。
昏々と考え込むうちに、思考は安らぎの場所へと沈んでいった。
『嘆かわしい――、実に嘆かわしい。
何故にそこまで人の器に執着するのか。
直ぐにでも器を捨てなければ、穢れは竜の御身を害しましょうぞ』
やはり、聴こえる。
威圧的でも居丈高でも無く、ただ冷静に。
しかし、根本に深き愛情を以ってする諫め。
「分かっている――…」
『では、如何に』
「………」
『我等が大義をお忘れになるな。竜の瞳(』
「…分かっている」
響く声に滲む苦々しさは、全てを理解、承諾した上でのそれであった。
夢を――見ているのかと思う。
音は酷く近く、酷く遠く。
不鮮明に不透明に、ゆらゆらと、意識の端を掠めるように泳ぐ。
「分かってる…。
けど――…、俺は…」
耳に馴染む声には確かに覚えがあるのに――…痛みに耐えるよう惑い震えるそれは、まるで別の存在の言葉のよう、だった。
My Dear Holy Dragon
我が愛しき――、
貴方を喪いたくない。この世界を消したくない
そう、願うのは傲慢ですか
君を想うだけで、僕は罪を犯すよ
君は、僕を忘れて、ただそこで、笑いて下さい
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