黄金に輝く神の鳥レティスの魂に精神を委ね、果ての無い空と海の境界を飛び続けて見つけた、その村。緑の悪魔のような罪深き森、処刑人の鎌のような断罪の谷。それらに阻まれるようにして、ただ密やかに存在する『三角谷』は、突然の旅人達を歓迎もしなければ拒絶もしなかった。
 来るもの拒まず去る者追わず――…とでも言うのだろうか。
 あるがままを受け入れる彼らの生き様は、いっそ潔いとも言えたが、屍のようでもあった。運命に抗わず、盲従するだけの姿勢を『生きている』と評するには余りにも物足りない。  しかし、人知れず世界の命運を賭けた戦いへ挑む旅人達にとっては、この平穏は確かに有難いものではあった。異邦人の存在を騒ぎ立てずに日常として受け止めてくれるお陰で、無用な争いの火種を起こさずに済んでいる。
 ――…この三角谷には邪悪を払う強靭な結界が張ってあり、それを越えて来たからには不浄の存在で無いと言う何よりの証であるので、それらを踏まえての余裕の態度であり、無条件に相手を受け入れているわけでは無いのだろうが。



「……ッ、 ふ 」
 三角谷の村は狭く、少し歩けば直ぐに森へと踏み入る事になる。
 そこから更に数分歩けば、もう村の気配も遠くなる。
 余り奥深く進んでしまうと方向を見失うので、そこは無論加減してだが。
 夕刻――…、久方ぶりに訪れた三角谷にて、パーティのメンバーへ羽を伸ばすように言い渡してから、道具屋で魔法の聖水等、手持ちが乏しくなっている消耗品を買い足した。攻撃した相手の生命力を奪い取るという性根の悪さが気に入って愛用している剣は多少の刃こぼれが見られたため、鍛冶屋へ修繕を依頼して――腰の獲物が無いと落ち着かないと言う理由で、ついでに新しい武器を物色するかと、武器屋へ足を伸ばし掛けて、不意に襲ってきた背中の強烈な痛みに息を、止めた。その場で蹲らなかっただけ大した精神力だと己に賞賛を送りたい。
 しかし、こんな無様な姿を仲間に――特にククール辺りに見せるわけにはゆかない。一歩進むごとに背中から心の臓にかけて、鈍い刃物で肉を抉られるような激痛を訴える体を引き摺って、村を取り囲む森の中で苔むした大木を背に、エイトは大きく胸を喘がせていた。
「……さ、いあく」
 全身から噴き出る冗談のような大量の冷や汗がべっとりと頬を伝ってゆく。
 日々の戦闘で魔物から受ける傷のそれとは明らかに異なる疼きは、呼吸さえ止めかねない。

『呪い』

 何とも陰鬱な字面が脳裏に浮かんで、エイトは激痛を誤魔化すように嘲笑を漏らした。
(…… ま ここなら … あんぜ ん … か )
 強固な聖結界で守られる三角谷には邪悪な意志に操られる魔物は足を踏み入れる事は無い。野生の獣は勿論存在するが、こんな人里近くまで迷い込む事は稀だ。好ましくは無い。決して好ましくは無いが、これは気を失ってしまった方が楽だろう。
(…… 、 … くそ  … )
 次に、目を覚ましたら。
 あの月黄泉の世界管理人を問い詰めて、どうあっても呪いの周期を吐かせてやる、と不穏な決意を胸にする。そして、黄昏れる空へ魅惑的な微笑みを描く白銀を最後の光景に、ゆっくり、黒髪の少年は意識を手放した。



「は? エイトのヤツがいない?」
 三角谷は聖域と呼ばれるだけあり俗世の娯楽が殆ど存在しない。
 享楽の街ベルガラックのようなカジノは言わずもがな、快楽を売る店も無ければ、怪しい麻薬(ドラッグ)の類もない。精々、個人の趣味半分で営業されている宿屋に申し訳程度に揃っている酒類を楽しむ程度だ。
 こんな行くところも無いド田舎の村で、夜半過ぎても部屋へ戻らないのは確かに不可思議な行動ではある。可愛らしい外見に反し強大な力を操る魔法使いの少女は、最も可能性のある聖堂騎士の部屋を訪ねたのだが、徒労に終わり気落ちした様子で溜息を吐いた。
「そう、ククールも知らないんだ。
 ホンット、アイツは。何処にいったのかしらね」
「…ガキじゃねェし、放っておいても勝手に戻ってくると思うぜ。
 だいたい、アイツの単独行動なんて珍しくないだろ」
「え? そうなの?」
 きょとん、と琥珀の瞳を瞬かせる仕草が年相応に愛らしく、如何に蓮っ葉に取り繕って見せても、やはり本質は筋金入りの貴族のお嬢様なのだと、ククールは妙に納得しながら頷いた。
「ああ。まぁ、確かにアイツの場合、仲間に無暗に心配を掛けたりはしないけど」
 ――夜中に黙って宿を抜け出して行く事はそう珍しくも無いが、それが誰にも見咎められないのは、勝手をした結果でパーティの行動に何らかの迷惑を被らせる事が皆無であるからだ。そのあたりの配慮は流石としか言いようが無い。計算高いというか腹黒いというか。最も空恐ろしいのは、それらの行動がほぼ無意識である事だろう。天然も良し悪しだ。
「んー、でも…、ちょっと気になるのよね。
 そりゃ、アイツがそこいらの魔物にやられるわけないのはわかってるけど。
 最近…、少し様子が変だったし…――」
「………」
 賢者の血を受け継ぐ所為なのかは定かでは無いが、パーティの紅一点である魔法使いは直感力に優れており、僅かな違和感でも見逃さない。彼女が指摘するのは十中八九、月黄泉で受けた背中の傷による影響の事だろう。
 何でもない素振りを演じてはいるが、怪我ひとつ無いくせに物陰で密かに己へ回復魔法を掛けていたり、蒼褪めたというのも青黒い顔色で部屋を出て行った事もあった。
 最も特筆すべき事は、最近の部屋割り。以前は無理やりに相部屋にしてきたくせに、あの一件から暫くして、各自に個室が宛がわれるようになったのだ。エイト本人は金銭的にもパーティの強さにも余裕が出てきたので、プライベートを優先させているだけだと人好きのする笑みで語っていたが、そんな見え透いた薄っぺらい嘘に引っ掛かってやる程お人よしじゃない。
「…レディを心配させるなんて、サイアクだな。変態野郎の分際で」
「変態は同意。けど…、やっぱ心配かな。…うん。ちょっと探してくるね。私」
「ストップ」
「ん?」
 軽やかなバックステップで扉から数歩離れた愛らしい魔法使いの少女を、麗しの聖堂騎士は惰性のように止めた。何事かと肩越しに振り替える仕草が酷く幼く可愛らしい。後姿だけでも分かる彼女のダイナマイト・ボディと、無垢であどけない顔立ちというアンバランスは、最早犯罪の域だ。これでいて戦闘では最大火力となりうる魔力の持ち主であり、いざとなれば腰に下げた黒革の鞭やガータベルトへ隠してあるキラーピアスで敵を仕留める熟達の魔導士なのだから、女は魔物だ。
「幾ら、この村が結界に守られてるっても、もう夜中だぜ。俺が探してくる」
「ククールが?」
「…なんでそこで聞き返すかな。レディ。
 普段の戦闘で俺の実力は披露済みでしょうに」
「あ、ちがうちがう。頼りないなーって思ったわけじゃないってば」
「………」
「あ…、や、ホントに違うってば! ククールが口ばっかじゃないのは分かってるの!
 そうじゃなくて、…なんていうか。エイトの為に積極的に動くのがちょっと意外で…」
 ゼシカ自身は被害を被っているわけでは無いが、それでもあの変態紳士の異常行動は充分に理解している――と、思う。琵琶歌にある天上人の如く儚くも切ない美貌の騎士へと寄せる想いは、真剣そのものであり、その体当たりな真っ直ぐさは見ている方が恥ずかしくなる程だ。しかし、悲しいかな。本人にその自覚は全く無いが。エイトという人物は。純度百パーセントの――変態だ。正直、自分があんなモノに言い寄られたら全力疾走で逃げ出す。応えるなんていう選択肢なんて最初から存在しない。少しでも気を許したが最後、色々な意味で、骨までしゃぶりつくされる危険人物だ。

 …何より…、決して認めたくは無いが、好きになってしまえば溺れてしまうのは此方だろう。

「…アイツの為じゃねぇよ。レディがこんな夜中にひとりでウロウロするのは危ないだろ」
「――…アタシなら平気だけど。ま、ここはお言葉に甘えておくわね。
 じゃあ部屋に戻るけど、何かあったら遠慮せずに呼んでよ?」
「ああ」
 己の魔力や戦闘能力の高さに誇りと自負を抱くだけに、か弱い女性扱いには我慢がならないゼシカだが、魔物を寄せ付けない強力な結界で護られる聖域のくせに、三角谷の森には得体の知れない薄気味悪さが渦巻いており、今回の申し出は正直有難かった。それに、あの節操無しの不誠実が服を着て歩いているような最低男とて、折角ならククールに心配された方が嬉しいだろう。
 ――…何故、自分がそこまで気を遣ってやらなければならないのかと、少々複雑な心地になるが、気にしたら負けだと早々に不毛な思考を切り上げて、絶大な魔力を誇る少女魔導士ログハウスのような造りの宿泊宿の部屋へと戻って行った。



 人々にとって、闇と魔物は抗えぬ『力』と『死』の象徴であり、絶対的な畏怖の対象であった。
 魔物にとって、人間とは力弱くありながらも貪欲で、小手先の知恵を少しばかり身につけた賢しい餌に過ぎなかった。
 何時からだろう――…、人が魔物に恐怖を感じなくなったのは。
 些細な切欠だったのかもしれない、魔物が人に恐怖を感じるようになったのは。
 ひとは、人である限り貪婪からの別離と解放を赦されない。
 愚かで罪深く――ある意味、不憫ですら、ある。
(………、 )
 ヒュウ、と右肩から吹き抜けた一際冷たい風が、想い出の中で感じる温もりを一掃して、心許無さに、ふ、と瞳を開けた。
(…ああ 、 そ っか。
 気…、失ったんだった… )
 夢を見ていた――…、物心もつかない幼い時分に、枕元で繰り返された寝物語。
 人の無知と傲慢さを嘆いたそれは、しかし、いつもいつも結末を迎える前に寝入ってしまって。
(……結局、 どうなったんだっけ…。
 魔物の懼れに竜の神が人々を焼き払おうとしたところまで…覚えてるんだけど、な…)
 無邪気な子供(あるじ)の興味と愛情を失い、憐れにも放り捨てられた人形の如く四肢を無様に投げ出した格好のまま、そろそろと呼吸を確かめてみる。背中から心臓に掛けて稲妻系魔法で貫かれたかのような非常識な痛みは過ぎ去っており、安堵に胸を撫で下ろす竜の血脈の少年。
(…… 手、は… 、 まだだな。
 うん、もう少しか。筋肉が固まってるな、コレ。いてててて…)
 完全に見失っていた意識が回復すると同時に、冷え切っていた全身に血が巡るのを感じて、指先に力を入れてみるがまだ巧く動かせない。完全復活にはもう少し時間がかかるようだと、溜息を吐いて力を抜く。
(くっそ…、ぜってーこれ、月黄泉の呪いだろ。
 流石にこれは洒落になんねーし。イシュマウリのヤロウ…、覚悟してろ)
 得体の知れない月黄泉の支配者の姿を思い起こし、正直余り関わり合いになりたくはないと苦虫を噛み潰した表情を浮かべる王たる資質を秘める少年だ。ラプソーンですら邪神として神族の縛りを受けるというのに、蒼き静寂の空間にてハープを奏で誰かの『願い』を吟い続ける、水面に映る月影のようなあの男は、世界の制約を一切受けずに在り続けるのだ。それが如何な異常であるのか、俗世の人如きには理解が及ぶまい。決して自ら世界への干渉を行わず、しかし渇える声には透き通る音色にて応え、心を潤すだけの『力』を無尽蔵に与える、気紛れな――…麗しき水連の主。
(…だいたい、ククールのが美形だっての…。性格だって捻子曲がってねーし。
 色男気取ってるくせにドーテーだし、イレギュラーに弱くて精神的に攻め込まれると慌てるし、そこがまた可愛いんだよなー。からかうと真赤になって怒るし、思った通りの反応するのが、ホンット可愛くって堪んないんだよなぁ…。そうそう、こないだベッドに押し倒した時の慌てッぷりったら、もー…)
 ヒュウ、と忘れた頃に渓谷からの突風が吹き抜けて、折角温もりかけた熱と思考浚ってゆく。ここでこうしているからといって、重大事にまで至るとは思われないが、呆けているには場所が悪い。せめて、もう少し雨風が凌げるような場所まで――…、と背凭れにしていた大木へ寄り掛かるようにして、漸く立ち上がる。無様な有様だと自身を嘲笑し、そして何処へ向かうかと思案する。
「……移動魔法(ルーラ)を使う位なら…。
 参ったな…、どこ、いくかな…」
 圧倒的に酸素が足りていないのだろう、平時であれば滑らかに回転する頭脳は空回りしてうまく結論を導き出せない。ひとつひとつ、今回の旅で立ち寄った街並み達を思い浮かべては、問題点が思考を掠めて、由と出来ずに頭を振る。
「……もー、あそこでいっか。
 トロデ…の、山小屋…」
 祖国の国領を南北に分断する大きな山脈、その南に位置する無人の山小屋を思い出し、エイトは意識を集中させた。茨の呪が一夜にして人々を呑み込んだ悪魔の城へと、足を運ぶ物好きはそうはいない。少し前まで山脈越えの旅人の休憩所として賑わっていた山小屋は、廃れ切っていた。但し、今の衰弱化した少年にとっては都合の良い場所だ。確かに周囲に魔物は出現するが――それよりも注意を払うべき対象は『人間』であるのだと理解していた。
(…… まだ、ちょーし… でないな …。
 ――…ま、山小屋なら魔物除けしてあるし…、だいじょー…ぶ、か… )
 僅かの動きで苦しげに息を切らせ肩を大きく上下にさせる姿は、今までに無く衰弱している様子だった。道化師ドルマゲスを追跡、拿捕の上、呪いにより醜悪な魔物や白馬へと姿を変えられた主君や姫君、そして茨により時を止める故国の人々を救うべく続けられた旅は、何時しか人知れず世界を救済するそれへと目的を変え、日々の戦闘も苛烈を極める中、一度たりとてこのような無残な姿を晒したことは無い。月黄泉の呪いへ脅威を覚えつつも、朦朧とする意識の中で呪文を――、
「このっ、バカッ!!」
「……ッ!!」
 ふわり、と魔法発動前の特有の浮遊感を感じた直後、右手を取られ、強引に地上へと引き戻された。行場失った魔力はパチンと軽い衝撃を伴って弾け、途端に全身から力が抜ける。しかし、背中へ感じるのは冷たく硬い地面の感触などではなく、愛しい人の温もりで、思わず漏らしてしまった安堵の溜息に――…息を呑む気配がする。
「…ごめん、ククール。すぐ…、退くから… 」
 視界が暗いのは日が落ちたばかりが原因ではないのだろう。意識が霞む、全身を包み込む気配にともすれば正気を失ってしまいそうだと、己を叱咤しながら、よろよろと立ち上がろうと――…、
「…なにしてんだよ」
 すると、離れようとする身体を不満そうに引き寄せられて、不機嫌さを隠そうともしない低めの声が、唸るようにして少年の意図を問い詰める。
「……ん。…いや、ククールが重たいかなぁって…」
「ナメんなよ。こちとら伊達に聖堂騎士様やってンじゃねーんだよ。
 第一、お前馬鹿力だけど、ウェイトはねーだろ」
「あはは…、 やだなー…、 華奢な… ククールには、 言われたくないなー… 」
 不自然な言葉の切れ目に、深紅の衣を纏う凛々しくも麗しい聖堂騎士は、眉間に皺を寄せた。弱っている。これ以上無い位に衰弱している。この所ずっと調子を崩していたのは理解っていたが、何でもない素振りで笑ってみせるものだから、ここまで事態が切迫している事には全く気付けなかった。
「キツいんだろ。こんなザマで…、何で山小屋なんか行こうとしてんだよ。お前」
「……。そこまで分かるんだ…。凄いなー、ククールは」
「魔法が弾ける前に魔力の軌跡を呼んだんだよ。で、何でだ」
 ぎゅ、と抱き締められるのが新鮮だった。普段はあれ程接触を嫌がるくせに、と苦笑が浮かぶ。
「……えー、と。…うん、そう、だね。
 ――… さんぽ 、 かなぁ …… 」
「正直に言え」
「…えー、ホントだよー…」

 気持ちいい。

 背中から全部優しい感触に包まれて、このまま恋しい人の腕で溶けて消えてしまえればいいのにと、決して叶わぬと知るからこその馬鹿げた想いが生まれては沫のように儚く消えてゆく。
「だいたい、こんな状態で移動魔法(ルーラ)を使ってもうまくいくわけねーだろ。
 途中で集中力が切れて落下すれば、どんなことになるか知らないとは言わせねーぜ。
 無茶苦茶な事して迷惑が掛かるののは、コッチだってーの。
 ゼシカ嬢もお前の姿が見えないって、随分心配してたんだぜ。そういうのをわかっ…」
 小刻みに震える少年のカラダを包み込みながら小言を延々口にしていたククールは、ふと腕の中の重みが増した事に気付き、修羅の如く凶悪な強さを誇る剣士の様子を窺う。冷えた頬、凍えた肩、傍若無人を絵に描いたような無茶な剣士は、憔悴して意識を失っているようだった。継続して掛け続けている回復魔法(ベホマ)も然程効果は無く、チッと短い舌打ちを洩らし、ククールは成長期の伸びやかな身体を肩に担ぎあげる――…、多少足元がフラつくが、筋力強化魔法(バイキルト)のお陰でなんとか持ちこたえ、宿へと足を向けた。



『――…王。我らが(しるべ)、破壊と創造を調律する強大無比なる我らが王よ』

 暗い――、闇の中で薄皮を隔てた彼岸から呼びかける声は、幾度となく耳にした。

『無力な人の身にとって月黄泉の(しゅ)は抗い難き(ことわり)
 聡明であれ我らが王よ。
 穢れは既に御身を食らい尽くさんばかりではございませんか』

 ――…分かっている。

『僭越ながら、竜の瞳(ドラグーン・クラウン)
 御意を賜りたく存じます。
 最果ての世界、枯れ行く未来を与えられし大地の復興をお望みか』

 ――…。

『…我等の意義は王の御心へ盲従すべきそれと心得てはおりますが。
 竜の瞳(ドラグーン・クラウン)よ、それは余りにも無謀。
 余りにも迂闊。
 若き御身に掛かる御負担は測り知れませぬ』

 ――…分かっているよ。

『なれば、何故に――…』

 ――…概念の異なる君たちに言葉で説明するのは難しいな。
 大丈夫。
 自分の道を見誤ったりはしないさ。
 果たすべき役割は心得ている。

『…御随意に』

Cage of thorn


 見慣れた天井に薄ぼんやりと明るい室内、幾度か瞬きを繰り返せば、そこが世界に残された聖域である三角谷の宿である事は直ぐに窺い知れ、記憶を静かに遡れば幸福の記憶へ辿り着いた。
(あー、そっか。うん、そうだった。
 ククールに運んで貰ったんだろうなー…)
 カッコ悪い事この上無い。気絶したところを惚れた相手に運ばれるなんて、金輪際遠慮したい。
(…背中は…、もう痛まないけど。
 まいったなー…、ホントどうするかな。ゴルドの奇跡の水でも効果ナシ、か)
 奇跡を授けてくれると評判の聖水、確かに傷口へ振り撒けばそれなりに苦痛を散らしてはくれるが、それでは根本的な解決にはなっていない。旅を続ける限り闇の眷属である魔物との戦いは避けられず、当然の事ながら呪いは進行し続ける。目下のところこれといった解決策が何も思い浮かばないのが現状だ。いや、あるにはあるが――…、
(皆を――…、身捨てるなんて論外だ)
 そんな選択をする位なら、月黄泉の呪に憑り殺される方がマシだ。無論、大人しく呪われ続ける程の腑抜けでは無いが、さりとて妙案は何一つ飛び出てこない。
(…こまった、な…)
 人の器を棄てる事は然程難しくも無い。一度脱ぎ捨てたそれを再び纏う事も可能だ。しかし、竜の瞳(ドラグーン・クラウン)の産声は咆哮となり、世界に見限られ、時の流れと共に朽ちゆくだけの最果ての世界を一斉に薙ぎ払ってしまう。決してそれを赦すわけにはいかなかった。闇魔神ラプソーンの侵略はこの世界が寿命を迎えている証拠だ。無慈悲な殺戮を繰り返す邪神の降誕は、そこへ生きる人々にとって純然たる恐怖の象徴であるが、竜の眼にて大局を踏まえ最果てを見下ろした時に、破壊の神であるラプソーンですら真理に準じているだけと知ることになる。
(この世界を滅ぼしたりしない。滅ぼさない。 …絶対に… )
 取り合えずは月黄泉の主への詰問が先決かと、そっと上体を起こして、具合を確かめる。呪による痛みは波が引くかのように消え失せ、軽く上半身を動かしてみるが問題も無さそうだ。しかし、世界救済の旅を続けるのが困難であるのは明白。恋い焦がれる深紅の聖堂騎士へ今回の件への詫びを添え、少し時間をもらえるように仲間に伝えてから、月黄泉へ向かうべきだろうと思案中に、タイミングを見計らったかのように部屋の扉が開いた。
「…目ぇ、覚めたか。このアホ。バカ。考え無し。偽善者。エロ剣士」
 目覚めた途端に鼻っ面へ浴びせられる罵詈雑言に、穏やかさを信条とするトロデーン王国の近衛剣士とて、苦笑を浮かべてしまう。心配させてしまったのだろう、銀色の翼を纏う天の使いの如く眩い美しさを誇る騎士の青年の空色の瞳は、そうと分かるほどに赤い。おそらく、一睡もしていないのだろう。心苦しさにチクリと胸が痛むが、同時に歪んだ歓喜が沸々と滾るのを感じる。
「ここまで誰が運んでやったと思ってンだ。つーか、なんであんな村外れにいたんだよ。今はもう具合は悪くねーのか? 熱も出てたみてーだから、薬湯も貰ってきたんだけど、飲んどいた方がいいんじゃねーのか?」
 左手に水を張った桶、もう片方には今しがたの台詞に出た薬湯やら水差しやらを乗せたお盆。それらを部屋の中央に鎮座するテーブルへと、やや乱暴に投げ捨て、ククールはパーティの中心的人物である少年を見返した。
「…エイト? なんだよ、まだ具合悪いのか?」
 その命を危ぶむ程に青黒く変色していた顔色は、本来の健康的な肌色を取り戻し、左肩の傷痕から派生する痛みも今は感じていないようだ。無論――…それらが全て『(フェイク)』である可能性も捨て切れないが、この後に及んでの虚勢など無意味も甚だしい。
「エイト?」
 謝罪も釈明も無く困惑した様子で眉尻を下げるトロデーンの少年剣士に、咲き乱れる薔薇の如く周囲を魅了する圧倒的なカリスマの持ち主は、訳が分からないと目に見えて機嫌を下降させた。
「なんとか言えよ。つーか、お得意の言い訳はどーしたんだよ。一応、きーてやる」
「………」
 随分と尊大な物言いでベッドの傍の安い造りの椅子へと、行儀悪く逆座りをするククールに、大きく黒無垢の瞳を瞬かせて暫く何事かを思案した後、上半身だけを大きく伸ばして、テーブルを自分の方へと引き寄せた。桶や水差し等が引き摺られる振動に合わせて台の上で小刻みに踊る。
「……? エイト?」
 ククールの疑問は届いているだろうに無言のまま、エイトは桶の水に素手の右人差し指を浸け込むと、滑らかな筆跡で乾いたテーブルへと文字を刻んだ。

『ゴメン、声が出ない』

「え。」
『僕の事、皆には伝えてる?』
「…村外れの森で寝こけてたって事にしてある」
『さっすが、ククール。愛してるよ』
「……お前は、どんな状況でもそういう戯言を忘れないな」
『ひどいなぁ』
「もう具合はいいのか?」
『ん。大丈夫。迷惑掛けて 、』
 水筆談のお陰で随分と浸水されてしまったテーブルの残された面積を滑っていた手を、突然に上から抑え込まれて、どうかしたのかとエイトは顔を上げた。
「迷惑なんて思ってねーよ。そういう事書くな、バカ」
「………」
 憎々しそうな口調で吐き棄てるように言う聖堂騎士の青年の、頬は愚か耳の先から首筋、項までハッキリと分かる程に赤い。聖地ゴルドの岩窟へ湧く清き泉を彷彿とさせる薄浅縹の瞳は、不本意そうに揺らめいて、強引に掴まれた掌も――…熱くて、 泣いてしまいそうな程に、愛おしい。

『 ククール 』

 口唇で愛しい名の韻を擬え、恭しい立ち振る舞いで、重ねられた指先へ触れるだけの接吻けを。
「…ちょッ…! 何してンだよっ!!?」
 清廉潔白を装う神の騎士の風体を見事に裏切り博打や色事といった火遊びに耽る愛しい存在は、突然の事に一瞬呆けて見せるも直ぐにキツク眦を吊り上げ、甘やかな拘束を振り払って怒鳴る。
 しかし、今のエイトに申し開きを行う術は無い。何時も通りの人当たりの良い――本性を知れば胡散臭いとしか思えない――微笑みを向けられて、ククールは出鼻を挫かれたように肩を落とした。
「…くそ…ッ。やりにくいっての。
 何か書く物探してくるから、大人しくしてろよ。勝手に居なくなるなよ。いいな。
 あと、滋養成分も入ってるらしいから薬湯も飲んどけ。いいな」
 一方的に捲し立てられてコクコクと頷く珍しく素直なエイトに対し、取りあえずは満足したのかククールは言葉通りに筆談に必要な道具を探しに出る。その真っ直ぐな後姿を眩しそうに見送ってから、声を失くした少年は湯気の立つ器へ手を伸ばす。ハーブの良い香りが鼻腔を擽る。緑と桃色がマーブルに混じり合って見た目は最悪――だが、味の程はどうなのだろうと、ペロリと舌先で確認。残念ながら甘みは感じられない。そのままほんの少しだけ口に含んで、う、と固まった。
(………うわ。)
 マズイ。
 脳天を揺さぶられるような強烈な味――とまではいかないが、兎に角、普通に物凄くマズイ。そこらの雑草を片っ端から釜へ放り込んで、そのまま一週間程煮詰めた凶悪な味がする。隠し味的な意味合いなのか、口の中で開墾したばかりの土の匂いがするのは何故なのだろう。先程までの爽やかなハーブの香りなど微塵も存在していない。
(……吐き出す…わけにはいかないか。…うぅ…)
 幸い、口にしたのはほんの少しだ。薬湯と呼ぶのもおこがましい謎の液体をどうにか飲み込んで、水差しの中の水で一気に口内を漱いだ。ほー、っと一息ついたところで、先程の同じように部屋の扉が開く。その手には何処で借り受けてきたのやら、ミニサイズの黒板と、チョークと黒板消し。キョトンとした表情を見せるエイトに、ククールは宿の主人に借りてきたと短く説明をする。
「ほら、使えよ」
「………」
 無言で筆談道具を受け取ると、エイトはそれをテーブルの上に据えた。ベッドの上だと後の掃除が大変になると判断してのことだ。少しの逡巡があり、カッカッ、と意外にキレイな筆跡で深緑の板の上に白い粉文字が刻まれてゆく。
『ククール、お願いがあるんだけど』
「…なんだよ」
 憮然とした態度で応じる不機嫌な聖堂騎士に、エイトは少しも臆さずに続ける。
『イシュマウリと話がしたいんだ。
 少しの間、皆にここで待ってて貰えるように上手く誤魔化しておいてくれないかな』
「……それは、かまわねーけど」
 ククールとて『今』の状況でエイトが旅を続けるには無理があると判断しているのだろう、純朴そうな少年の願いを素直に受け入れて、しかし、と不服そうに声を上げる。
「どうするつもりだよ、お前」
『大丈夫だよ』
「イリュマウリのトコにはどうやって行く気だ」
『キメラの翼で移動するよ。あのあたりの魔物は然程強くないから、魔法が使えなくても問題無い』
「………」
 沸々と腹が熱くなるのを感じて、類稀なる美貌と才華を以て真紅の衣を戴く聖堂騎士は、切れ長の瞳を剣呑と光らせた。苛立ちが喉元を迫り上がり、抑え込むのに必死になり、握り込んだ拳が震えた。本調子なら一発お見舞いしてやりたい位に腹立たしい。
「……それ、飲めって言っただろ」
 突然黙り込んでしまったククールに狼狽えるエイトは、脈絡の無い話題転換に目を瞬かせた。『それ』が指し示すのは、勿論のこと『非常にマズイ』薬湯だ。う、と眉根を寄せて少年は黒板へ文字を綴る。
『後から貰うよ』
「マズイから飲みたくないんだろ」
『…そんな事は無いよ』
「へー。じゃ、飲めよ」
『まだ気分が悪くて飲めないんだ』
「嘘つけ。ちょっと飲んでンじゃねーか」
『…気の所為だよ』
 ご丁寧に無言部分まで添えられた文章で応じ視線を逸らすエイトへ、ククールは攻撃の手を休めず畳み掛ける。千載一遇の好機とはこのことだった。見た目の人の好さとは反比例する黒魔人な少年に対し、イニシアチブを取れる事など滅多にない。
「へー、ふーん、折角の俺のお手製なのに、飲めねーって言うんだな。へー、そーなのか、フーン」
「………」
 何時も優位に立つ黒髪の剣士の困り果てる姿が面白くて、ククールは更に詰め寄った。決してサディスティックな気質では無いのだが、常日頃の意趣返しもあって、ついつい調子に乗ってしまう神の祝福を享ける麗しき聖堂騎士に、エイトは、む、む、む、と思案顔で意地悪モードの愛しい人とドロリとした質感の液体がたっぷりと残る器を見比べた。
 そして、一言。いや、一筆。
『ククールが口移ししてくれるなら、飲んでもいいよ』
「…はぁっ!? ばっ、何言ってンだ!! 誰がするか!!」
 思わぬ反撃に真っ赤になって怒鳴りつけてくる神の騎士へ、エイトは残念そうに眉を下げながら、スラスラとチョークを走らせた。
『えー、ケチだなぁ』
「ケチとかそういう問題じゃねーだろッ。可憐なレディなら兎も角、ヤローの口移しなんざ、誰が喜ぶんだよ。この色魔ッ、変態ッ、二重人格!!」
『ヤローの口移しは俺もお断りだけど、ククールのは歓迎』
 末尾にハートマークまで付け足されて眩暈を覚えるククールとは反対に、悪戯が成功した子どものように上機嫌のエイトだ。こんな無邪気な顔で愛想よく笑顔を振りまいていても、いざ戦闘となると悪魔も裸足で逃げ出す程の理不尽な強さを見せつけるのだから、本当に人間の本質というのは見た目では分からない。
「あーのーなー。大体、口移しって…。…お前が…、…っ、…… 」
『ククール?』
 全身の毛を逆立てるようにしていた先程とは様子を違え、もごもごと、恥じ入るような所作で何事かを抗議してくる可愛いらしい想い人に、エイトは不思議そうに小首を傾げた。実年齢よりも随分幼い外見からこうして無防備な仕草をされると、まるで此方が悪人のような心地になり、そわそわと落ち着かないククールだ。
「、そ、の …だからッ…」
『うん』
 穏やかな風貌のトロデーンの近衛剣士は、じっと、大人しく聖堂騎士の次の言葉を待った。その大きく輝く両の瞳に何故か責め立てられるような気持にさせられ、半ば自棄的に言いあぐねていたそれを吐き出す。
「だからッ、前にッ、お前が自分で言ったンだろッ!
 ――…キスはしないって、言った癖に…。
 ……そういう事…、……言うなよ… 」

 プツ。

 理性の糸が切れる音は、意外と軽やかななんだな、とか。
 どうでもよい事が思考の端を掠めたけど、本当にどうでもいい。それどころじゃない。
「………ッ、ンッ」
 無理やり腕を引っ張ってベッドに押し倒した華奢な身体は息苦しさにもがくけれど、放してなんかやらない。理性が焼き切れると同時に投げ出したチョークが床を転がる音とか、黒板が床を打ちつける音だとか、もしかしたらそれで誰かが駆けつけてくるかもしれなくて、だけど、衝動は抑えきれるものじゃなくて、幾度も幾度も、嫌がる銀色の獲物を喰らい尽くそうとするかのように、接吻ける。
「ばッ……、も、ッ……、 ンっ…ぁ」
 当然、舌を捻じ込んで、噛み千切られなきゃいいか、位の潔い覚悟で挑んで。顎を掴むなんて乱暴な真似はしたくないから、両手両足を抑え込むだけの比較的初心者向けの抵抗封じ。互いの唾液で艶めかしく濡れる口唇を舐めて、歯の並びを丁寧になぞって、口蓋の感じる部分を擽るようにつついて、息継ぎの為に一瞬だけ自由を許して、直ぐに噛み付く。逃げる熱い舌を追い掛けて絡め取り、吸い上げて擦って、優しく食んで――…夢中で繰り返すうちに全身の強張りが解けてゆく。十分程も過ぎた頃には、すっかり抵抗の意思も力も失いベッドに仰向けるククールの姿があった。
「………っ、… の …、 ばか… 」
 全身を息吹の季節に色付く桜の花弁のごとくうっすら染めあげ、呼吸を荒くしてぐったりと横たわる様子に、流石にやり過ぎたかと――餓えた野獣の如く見境無く襲いかかった張本人は反省の態度で、床に落ちた黒板と、二つに折れてしまったチョークを拾いあげ、カッカッ、と何事かを書き連ねた。
『大丈夫?』
「………に見えるのか、このっ…、ンっ…」
 抗議の声を遮るように――、口唇を啄まれて、息を、呑む。
 二度目のキスに先程の簒奪者のような激しさでは無く優しげなそれで、幾度か労わるように重ねられた後、惜しむように前髪の乱れ散れる白い額へキスを落とし、そっと離れた。
「………」
 物心ついた頃に二親とは死別、家名の没落と共に故郷を追われ、救いの場所である修道院へと縋ったものの、唯一の肉親である異母兄からは詮も無き憎悪を一方的にぶつけられ、逆巻く悪意の中で孤独の影に脅えながら安息無き幼少時代を過ごしてきたククールにとって、饐えた情欲を孕まぬ無償の愛は――…ひどく難しいもので、歓びよりも戸惑いと躊躇い、猜疑の心が強い。
 信じたい、信じられない、愛されたい、愛せない、触れたい、触れられない、不安定な感情は、常にゆらゆらと、想いの定まらぬ天の秤のように片方ずつに傾き続ける。
「…お前さ」
「………?」
「なんで、こーゆーことすんだ」
「………」
 仰向け状態でベッドの端に腰掛ける羊の皮を被った狼を睨みつけ、ククールは抑えた声で問いかけた。詰問では無く、純粋な疑問。好きだとは言われた、愛してるとも伝えられた。けれど、言葉は無力だ。ひとは、容易く嘘を口にする。無知ゆえに犯す罪は重く、取り返しがつかない。

 カッ、カッ、カッ…。

 声を媒体とした意思疎通は不可能な為、エイトは携帯サイズの黒板を抱え直し、先程の文字を消して短い言葉を書き落とした。

『好きだよ』

「…嘘つけ」
『本当だよ』
「嘘だ」
『嘘じゃないよ』
「信じられねぇ」
『どうして?』
「…お前が、マルチェロに惚気を起こしてなきゃ信じたかもな」
『俺は、二人とも愛してるよ』
「――…はッ、で、次は? 酒屋のバニーレディか? それとも気風のいい傭兵レディか?
 そのたびに、お前は同じ事を言うんだろ。"僕は全員に真剣です" "皆の事を平等に愛してます" ってな。こちとら、博愛主義に付き合える程、お人好しでも気長でもねーんだよ」
 語気を荒げる事も無く、淡々と、溜息と共に諭してくる見目麗しい銀髪の聖堂騎士へ、枯れゆく世界の命運を握る剣士である少年は、むぅ、と眉間に皺を寄せて、カッカッと、無残に折れたチョークの欠片を器用に摘みながら、文字を綴った。
『俺が好きなのは、ククールとマルチェロだけだよ』
「…どーだか」
 不誠実な奴ほど、聞こえの良い事を云うのだと、ククールは頭を振ってベッドから起き上がる。
「薬湯、マズいなら飲まなくていいぜ。床は片付けといてやる」
『ククール?』
「他の連中に説明してくる。取り敢えず三日はここに待機って伝えてくるから、お前はサッサとイシュマウリのトコへ行ってこいよ。ラプソーンの侵略はもう始まってる。そう猶予は無いぜ」
 拒絶の背中に不安を掻き立てられ、エイトは思わず脇を通り抜けようとするククールのマントの裾を掴む。思わぬ抵抗を受け純白に仕立てあげられた鞣革のブーツに守られた長い脚が、ピタリと歩みを止めた。
「離せよ」
「………」
 硬質な声を受け、純真そうな幼い顔立ちの少年は、ますます指先に力を籠める。単純な力比べなら線の細いククールよりも分があるのを知っての暴挙だった。本気で嫌ならマントを犠牲にして逃げる事も出来る。相手に逃げ道を残す臆病な有様は、余りに自分らしくなくて、情けない。
「…何がしたいんだよ、お前は」
 三分程した頃に膠着状態に焦れたククールが容易く根を上げて、くるりと身体の向きを直し、呆れ気味に尋ねた。不機嫌そうに潜められた眉根も、不満そうに曲げられた口角も、不服そうに鉛く光る蒼の双眸も、全てを愛しているとこんなにも想っているのに、どうして伝わらないのだろう。

 カッ、カッ …… カカッ、 コツッ… 

『俺は、』

 書いては、躊躇い、迷いは文字を濁らせる。
 大いなる流れ、摂理への反逆は存在の消滅へ繋がる重篤な罪。
 竜の瞳(ドラグーン・クラウン)としての己の力を以てしても、巨大なうねりである『それ』へ背くは相応の覚悟を要する。謂わんや、人の子の脆き儚き事よ。
『この 世界は 滅びへ向かっている』
「……ンなの。だから、ラプソーンのヤツをどうにかすンだろ」
 何を今更――…、と胡散臭げな態度を隠そうともしないククールに、ふるりと首を横にして、エイトは運命の片鱗を、使い古された黒板の上へ書き出した。
『そうじゃない。
 そうじゃないんだ、ククール。
 でも、大丈夫。
 俺が護るよ。
 ククールも、皆も、この世界も、全部』
「……どう、 いう事、だ?」
 差し出された黒板へ億劫そうに視線を落として白い文字を追うと、惑うように瞬きを繰り返し、枯れゆくこの世界で失われた神へと祈りを捧げる聖なる騎士は、懐疑に強張った。  ひとが知り得る真実は、ただのひとつだけ。
 遥か昔に七賢人が封じた災厄、天より降り注ぐ悪夢、闇魔神ラプソーンの破滅の波動によって滅びゆく世界を救う。その為には、同じく七賢人の力もて、破壊の化身たる『神』を再び封じるしかないのだと、個々の事情や私怨から始まったそれは、何時しか救世へと目的を変え、今に至るのに。
「…お前。俺達に何を隠してる。エイト」
『俺を信じて』
「……信じて欲しいなら、ちゃんと説明しろよ。
 お前、一人で何をするつもりだ」
『好きだよ。ククール』
「エイト、誤魔化す…、 」
 効き腕を取られ乱暴に引き寄せられ、もう一度、軽く触れるだけの一方的なバードキス。
 接吻の甘さとは裏腹に、目の前に突きつけられる、絶望的な拒絶。
「…くそっ…、勝手にしろッ!」
 空っぽな笑顔を振り撒く最強最悪最低な少年の、その両肩へ圧し掛かる目には見えない重圧を感じ取り、マイエラ修道院に仕える聖堂騎士でも特に、十六夜の月の如く喪失を経て輝きを増す廃頽的で幻想的な美しさと類稀なる剣武の力量にて、方々へと名声を轟かせる聖堂騎士は、苛立ちのままに荒々しい足取りで部屋を後にしたのだった。



そこは茨の檻
痛みと傷が増えてゆく世界
ただ願うのは
彼らと共にある未来
そんなささやかなものすら

この世界では


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