左方肩甲骨の窪み辺りに深々と喰い込んだ、メタルウィングの刃痕は、既に跡形も無く癒えていた。しかし、時折刺創を執拗に抉り嬲られるのに似た感覚を訴え、激痛に呼吸さえままならなる事が頻繁にもなっていた。静止した刻(とき)の挟間に存在する月黄泉という世界そのものが人の身に刻んだ呪いは、実に厄介で難渋な――いっそ道化の如く愉快とすら言うべき様相を呈していた。



「御客人。月黄泉での刃傷沙汰はお断り致しますよ」
「なら、知ってる事を全部吐け」
「短絡や短気は美徳には成り得ませんよ。竜の瞳ともあろうモノが、随分な焦りようですね」
「無駄口を叩く暇に、説明しろ」
「…やれやれ」
 月黄泉の世界へと繋がる月の小径(こみち)は世界の至る場所に出現する。それらは不確定要素が多すぎて場所の特定は非常に困難ではあるが、唯一、ラプソーンの茨の呪に祝福されるトロデーンの王城だけは確実に異界――蒼の空間へと繋がるようになっている。偶然の産物であるのか、必然か、それはおそらく月黄泉の主にすら読み解けぬ事象なのだろう。
 既に勝手知ったる具合にまで通い慣れた一夜の月光の道を踏み越え、世界の法則を理解する存在であれば一目瞭然に【呪】の影響を悟る程に根深く侵食される竜の瞳に、イシュマウリは一抹の憐憫と同時に自滅の途(と)を辿る愚かさを嘲笑した。
「私の知り得る事など、幾許も無いと存じているでしょうに。八当たりは感心しませんね」
 喉元へ突き付けられるドラゴンキラーの切っ先を涼しげに見下ろして、月黄泉を統べる異界の住人は、ゆるゆるとハープを爪弾いた。元より、人の世の理でしか通用しない陳腐な脅しの効果など、微塵も期待してはいないエイトは、静謐な色を奏でる弦を一睨みして、低く唸り声をあげた。
「…竜の瞳(ドラグーン・クラウン)の特権は知っているな、イシュマウリ」
「ええ、存じ上げております。世界の理のひとつを、自在に。絶大過ぎて破滅的な、王の力」
「月黄泉の界から『音』を奪う事も出来るな?」
「…理を脅迫のタネにとは、品格を疑いますよ。竜の瞳」
「なんとでも言え」
 『生命』よりも『音』――月黄泉の主には効果覿面、能面のように平坦に、眉ひとつ動かす事も無い無表情が渋面となるのを、小気味良さ気に口調に勝利の確信を滲ませた。
「あまり、御勧め出来る方法ではありませんよ」
「――…やっぱ、知ってンじゃねーか。
 出し惜しみしやがって、この悪徳陰険ヤロウ。青々しやがって、ふざけんなよ」
 『脅し』としての体裁を整えるだけの形式上の刃を腰に収め、エイトは頭上で戦闘の乱れ髪を纏める赤いバンダナを片手で解いて深く呼吸を吐いた。傍目にも明らかな疲労の影の、その色濃さに、月光と音色、蒼の気配を支配する主は、些かの動揺を怜悧な面へ浮かべて見せた。
「…どうやら、随分と事態が切迫している様子ですね。
 そこまでこの世界に拘る理由を是非とも窺いたいものです」
「前に言っただろ」
「ええ。しかし、それでも得心がゆきませんね。
 愛を乞い求めるは、人の性(さが)。
 竜の瞳(ドラグーン・クラウン)と言えども、人の子として在る以上、それは摂理。
 それならば、愛しきを取捨選択してしまえば宜しいでしょうに」
「俺をナメるなよ、イシュマウリ。気に入った人間を、一人、二人なんてチンケな救いなんざ、竜の瞳(ドラグーン・クラウン)のやる事じゃねーな。神の名に泥を塗る愚行だ」
「…そうまでしても虚勢を張る気位の高さには、感服致しますよ」
 やれやれ、と半ば呆れ気味に肩を落とし、月黄泉の主である蝋人形のような無機質な存在感の人物は、苦しげな呼吸を整える、若き英雄たらんとする人の子の器に、求める答えを言の葉として捧げた。
「――月黄泉の呪いは、因果応報の理(ことわり)に則って効力を発揮しております。
 その事象については既に身を以て御存知ですね、竜の瞳(ドラグーン・クラウン)」
「…回りくどいな、要点を言え」
「全く――…、では単刀直入に申し上げましょう。
 貴方が斬り捨ててきた魔物の怨念とも言うべき情念、それが月黄泉の呪いの"力の源"です。呪いは永久独立機関ではありませんから、力の循環を止めればいずれ効力を失います」
「…つまり、殺生全般禁止、って事か…。
 どれくらいで解禁になるものなんだ、それは」
 魔物連中は此方を殺すつもりで襲いかかってくるのに、此方は殺してはならないとは、なんとも理不尽な呪いだと、忌々しそうに舌打ち、エイトは剣呑とした目付きで月黄泉の主を睨みつけた。
「そうですね――…、推測ですが完全に効果が消えるまで、およそ人の世の時間で百年程」
「はぁっ!?」
「既に呪いは完全発動され、宿主を喰らい尽くそうと牙をむいております。その現状を脱するだけでも、おそらくは十年程かかりますよ。竜の瞳」
「……マジか」
 竜の理(ことわり)を以てすれば、人の世の百の歳月など光陰ひとつと何ら変わらぬ程度。しかし、人の器で生きる以上、百は言わずもがな、十の年月ですら長すぎる。全く、何の解決法にも成り得無い。
「……ッ」
 左手で頭を押さえお手上げとばかりに天を仰いでいた、黒髪黒眼の穏やかな風貌に灼熱の野望を抱く青年は、不意に襲う肩の痛みに思わず喉を鳴らして膝をついた。仄かに幼さを残す頬を伝う汗は、顎の先から床へ絶え間なく丸い染みを落とす。その苦痛は筆舌に尽くし難き、脆弱な人の身ではとうに堪え切れぬ程の、狂気の沙汰にすら近い、久遠の咎(とが)。
 ――…情深き故の強欲が引き招いた、自得の結果とは言え、流石に、
「……発作を、
 月黄泉にあれば発作を抑える位は、私にも出来ましょう」
 荒れた息を吐く若き――後世には勇者と讃えられるべき偉業を成す魔王殺しの剣士――の左肩、押さえた刃傷の辺りに片手を添え、イシュマウリはゆるゆると蒼の輝きを送る。それは蛍火の如く弱く、鬼火の如く不気味に凍え、しかし確かに苦痛は安まり、王の名を冠する人の子はどうにか呼吸を整え苦痛を呑み込むように嚥下の所作を見せ、未だ重い汗の残る額を拭いながら、一言。
「…出来るんなら、サッサとやれよ。この真性サドが」
「減らない口ですね。私の助力は不要ですか、竜の瞳」
「盟約を反故とするなら、それも由。
 真理に呑みこまれる覚悟があるなら、やってみろよ。
 賢者の始祖として然るべき賢明を期待するぜ、イリュマウリ」
「貴方のその無尽蔵な気位は、どうも這い蹲らせたい衝動を沸き立たせますね」
「月黄泉の主如きが、随分とデカイ口を叩くな?」
「覚醒前の貴方は、多少破天荒であろうとも、ただの人の子ですよ。エイト」
「………」
「何か?」
「…アンタに名前呼ばれると、すっげー違和感だな」
「おや、お気に召しませんか」
「……召すっつーか、召さないっつーか。なんかこう、ムズ痒いような…」
「ふふ、効果覿面ですね。そこまで嫌がられると、なんとも心が弾みます」
「…お前さ、月黄泉の主じゃなくて煉獄の司(つかさ)のほーが適任じゃねーのか」
「おや、これは手痛い」
 軽口皮肉の応酬を繰り返す内に苦痛は完全に去り往き、業と理を自在とする竜の瞳(ドラグーン・クラウン)の…卵、"人間"という脆き殻で必死に内に巣食う猛き産声を隠し通そうとする若き近衛は、掲げられた癒しの掌を忌むかの如く、自身のそれで払い除けた。
「…もう十分だ」
「そのようですね。しかし、なんとも怠慢なことです」
 無碍に払われた手を一瞥し、含みのある微笑みを浮かべ、イシュマウリはさやさやと朗じた。不服を申し立てるでもなく、不満を呈するわけでもなく、非難の気配は微塵も感じ取れず、ただ、月黄泉の主は愉しげに肩を揺らすのみ。その得体の知れぬ機嫌の好さが、いっそ不気味。激しく常軌を逸する異様の如く奇異に映る。
「エイト」
「…なんかムカつくから、名前呼びはヤメロ」
「ふふ、つれないことです。それでは、竜の瞳(ドラグーン・クラウン)と?」
「それも止めろ。ククールに聞き咎められたら、…面倒だ」
「おや、随分と気弱な事をおっしゃる。まぁ、宜しいでしょう。それでは、黒の王(ヌィイ・ツァーリ)は如何ですか。新しき理で編まれた言葉です。滅世界では非言語としてしか認識されません。如何な異能の持ち主であったとて、王の慈悲にて延命を施される世界の人類には、一音とて詠まれなど致しますまい。無論、この月黄泉にて羽を癒すもう一方(ひとかた)も例外ではございますまい」
「…なーんか、ひっかかる物言いだな…。
 まあいいさ、名前呼びより数倍マシだ。――…で、なんだ?」
 あくまで妥協の結果であるという鷹揚な態度を崩さぬエイトは、呪がもたらす激痛に硬直した筋肉解す動作を繰り返しながら、顎をしゃくってイシュマウリの言葉の先を促した。
「おや、そうでしたね。呼び名は本題ではありませんでした。
 件(くだん)の呪いですが、夜の蒼、静の月の挟間――つまりは、ここ月黄泉であれば、人界の七割程度の効力しか発揮出来ないようです。呪いを抑えられる私も控えておりますことですし、此方で百年程休まれては如何ですか、黒の王(ヌィイ・ツァーリ)よ」
「………」
「ほんの戯言です。狭量は感心致しかねますね、王(ツァーリ)」
 射殺さんばかりの勢いで睨みつけてくるのは、一層人相を悪くした仮初の人の子。どうやら、冗言を受け流せるだけの余裕も無いようで、切迫した様子に口が過ぎたかと、実に珍しく月黄泉の主は自身の軽挙を省みて、溜息を吐いた。
「…もうひとつ、呪いを解く方法が無い事もありません」
「どーせ、十年待てだの、百年待てだ、果てはこんなな真ッ青いトコへ監禁だの言い出すんだろ」
 丸ごと却下だ、と聞く耳持たぬとばかりの姿勢で、後へ大きく背伸びして、エイトは一杯に吸い込んだ息を一斉に吐き出してぼやいた。
「ったく、厄介なモン仕掛けやがって」
「念のため申し上げておきますが、自業自得ですよ。黒の王(ヌィイ・ツァーリ)」
「ウルサイ」
「驕慢ですね。それこそが王たらん所以でもあるのでしょうが…」
「どーゆー意味だ」
 月黄泉へ立ち寄ったついでに過度の寵を注ぐマイエラ兄弟の片方でも構うかと、取りとめも無い予定を思い浮かべていたエイトは、イシュマウリの言葉遊びに乗り、冗談めいた口調で返した。
「これは失礼。決して悪しき意味ではございません、王よ。
 僭越ながら、ひとつ助言を。解けぬ呪ならば、成就させてしまえば宜しいのですよ。
 対象の死によって、呪いはその使命を終えます。つまり、王よ。貴方の死にて購えば、月黄泉の呪から解放されましょう」
「………。」
「おや、如何しました?」
「本末転倒って言葉、知ってるか?」
 呆れを通り越して最早憐憫すら滲む眼差しで、戯言ばかりを口にする月黄泉の主を、冷淡に見下ろすエイトへ、イシュマウリは是非もあらんとばかりの、麗しい微笑みを履く。
「人の死とは何も生命の停止ばかりではありませんよ、聡明なる黒の王よ」
「……どういう意味だ?」
「ひとは、深き悲しみを以て心を壊しましょう。それも『死』と呼ばれるものの定義。
 例えば――…ですが。
 銀の御姿も麗しき御仁を不遇にも喪ったとして、貴方の心は壮健でしょうか。
 ――… 竜の瞳(ドラグーン・クラウン)」

不可能論


「………」
 夜半を過ぎて充ちる月に照らされる茨の王城――…の緑の棘が絡みつく正門にて、ひとり、闇に身を潜める影には微かな緊張。予め身に振り撒いた聖水が穢れを払うため、血の衝動に駆られる魔物の渇えた眼(まなこ)には、清冽たる聖堂騎士の御姿は映らず、城への潜入は然程労を要する事では無い。無論、多勢に無勢となれば単独行動中の己にとって、旗色が悪い事は明白である。
 千軍万場の出鱈目な武を誇る旅の連れであれば、この城を堂々と、それこそ鼻歌でも口ずさみ出しそうな陽気で、魔物を片っ端から斬り伏せ捻じ伏せ、修羅の花道を飾るのだろうが、と。過去の精算な場面を思い出し、よくやる、と繊細な造作の顔立ちに、些か不愉快そうに険を刻むのは、聖堂騎士でも最も栄誉ある名誉騎士の称号を戴く美貌の主だ。
「……くそ、」
 獰猛と凶悪さを増しているとはいえ、茨城の周辺やその内部を闊歩する魔物程度であれば、然程事の障害にはならない。念のため予備の聖水も用意しており、敵の目を欺く手段は万全だ。聖堂騎士として深紅の衣を纏うククールの足を留める理由はただひとつ、躊躇い、だ。
 明確な拒絶の意思――…を、あからさまに鼻先に突き付けられるような真似をされて、それでも尚に相手の懐を暴き心中へと遠慮無く踏み込む、その理由が見当たらない。
「………」
 あどけなさを残す顔立ちや柔らかな物腰からは思いも寄らぬ残虐性と狡猾さを備える、あらゆる意味で人並み外れたパーティの要の剣士は、あれから――…三角谷の端で倒れてから、明け方頃に一度目覚め、そして昏倒するように深い眠りにつき、次に目を開けたのは丸一日を経てからだった。  パーティーの面々にはエイトのアホが森の中で寝こけて風邪をひいたと、差障りの無い『嘘』を披露し、由緒正しき魔導士の縁者であるゼシカだけは不審がる様子だったが、根が単純なトロデ王と、元山賊の脳みそ筋肉なヤンガスはあっさり納得して、大事を取っての三日程の療養期間の了承を得るまでは順調に事が運んだ。
 それら根回しが全て終わっている旨を目覚めたエイトに伝えると、何時ものように見え透いた笑顔で白々しく感謝された。――顔色は、一時に比べて幾分マシにはなっていたが、回復したかのように見えた一昨日のような健康的な色には程遠く、何時通りの作り笑顔が虚勢にしか過ぎない事は易々と看破出来てしまい、それが余計に不安を駆り立てた。常の彼であれば、完璧に己を演じて周囲を欺き通す事など、造作も無いはずだ。
「……なーに、やってんだかなぁ…。俺」

 罪悪感から、か。
 義務感から、か。

 持て余す感情のままに、腹黒大魔王の背中を追ってしまう自身の不可解さが恨めしい。
「無様だな、ククール」
「!!」
 突如降って湧いた冷然とした気配と、無数の氷刃で貫かれるかのような、絶対的な存在の、声、に、咄嗟に銀嶺の麗しき聖堂騎士は息を止めたまま、大きくその場を飛び退いた。
「……っ、あに……、 ……アンタ、なんで…… 」
 驚愕に見開かれる対の藍緑色が捕らえたのは、一片の情の温度も感じさせない無機質な偉容。法王の法衣ではなく、聖堂騎士団長として空と海の蒼の壮大さをイメージした正装。幼少時代の心的外傷が余程強く影響しているのだろう、身構えた姿勢のまま反射のように竦む異母兄弟へ、不遜にて尊大、その身を喰らい尽さんばかりの狂気に満ちた野心に塗れる男は、相も変わらずの冷酷な態度で応じる。
「説明の必要は無い」
「………」
 止むに止まれぬ事情から幼き頃よりマイエラ修道院で共に過ごした相手だ。幾ら不仲を謳おうとも、いや、だからこそ互いの性質を誰よりもよく理解している。咄嗟に口をついた問い掛けなど、一笑に伏されるだけであると、とうに予想していたククールは複雑な心地ながら――腰の剣、その柄から手を引いた。

 凶暴な権力志向、貪欲な功名心、無限の泉から沸き続ける飽く無き、

 征服欲求――… 

 数え切れぬ野望も潰え途に惑う男には、未だ争う理由が無い、はず、だ。
 妙な胸騒ぎ――悪寒に総毛立ちながらも、ククールは冷静さを取り繕い、大袈裟な身振りに芝居掛かった口上を述べた。歴代の聖堂騎士でも髄一と誉めそやされる美貌には、大きくひび割れた道化の仮面。
「…私に何か御用でしょうか。団長殿――…、それとも、法王様とお呼びした方が宜しいですか?」
「ククール、貴様は世界の『死』を知っているか?」
 生まれついての気質に因るものなのか意図的にか、マイエラ修道院の聖堂騎士団時代には、数々の問題行動による武勇伝を作り上げた不出来な義母弟の厭味を聞き流し、淡々とした口調で紡がれる馴染みの無い単語――『世界』そのものの『死』などと、突拍子も無い言い草だった。
「…世界の? アンタ、急に何言ってんだ」
「成程。あの方は…、貴様には何ひとつ告げてはいないようだな。
 フン――…、まぁよかろう。
 何れにしろ、障害には違いは無い」
「………? なに言ってんだよ…? アンタ、ちょっと変……」
「早速、排除行動へ移る」
「ッ!?」
 神の名の下に戦闘行為を行う一派の長だけあり、『聖堂騎士団長マルチェロ』の実力は相当だ。聖地ゴルドの崩壊の折、大魔神ラプソーンの杖に操られた状態で降したこともあるが、おそらくは卑しき魔物風情の加勢など不要――… その強さは尋常では無い。
 かつて、恩師に仇を成した道化師ドルマゲスの前に膝を折った事もあるが。おそらくあの時――、時間(とき)の流れと共に傷を浅くした今だからこそ、冷静にそうであろうと推測されるのだが。
 おそらく、本気は出していなかった。
 理由は――分からない。
 誰人も寄せ付けぬ孤高、冷徹なるカリスマが、唯一心を許していた存在。
 そのオディロ院長を見捨てるに値する理屈など、考えもつかない。
 その男の鷹の如き眼力を秘めた双眸が――…、明確なまでの殺意を煌々とさせ、目前にあった。
「……な、……」
 悪意の一片すら含まれぬ、純然たる簒奪者の意思――いや、それもおそらくは違う。
「ん……、  で …… 」
 "処理"としての"ひとごろし"。
「……あ、 に ……  き ……」
 左胸――生命の鼓動を紡ぐ中心を、真っ直ぐに貫き通す白刃は、うっすらと紅く月光に妖しく泣き濡れる。おそらくは、致命傷――だというのに、痛みよりも狂おしい熱が渦となり、先刻まで正常に働いていた思考と感覚を、大きく歪ませる。朦朧と霞む意識を必死で追いかけながら、己を害する男の両肩へと縋りつくと、ククールは大きく噎せた。喉に血が逆流して、息も継げない。苦しさに滲む生理的な涙で世界の輪郭が喪われてゆくのに、焼け付く程の焦燥感に囚われた。
「…… し、 ―― て ……」
 憎まれている事など、とうに承知していた。
 いつか、殺されるかもしれないとも、薄々と予想していたし、覚悟もあった。
 それでも――…、実際に起こり得ればこれ程に、愚かな無様を晒してしまう。
「…… あ、 に …… 」
 切れ切れに告げる声は、掠れて、僅かに辺りの闇を震わせるだけ。
 悲しいかな、音にすらならぬ、叫び。
 薄れゆく意識の中、
 白手袋の中で騎士団長の証である指輪が、キィンと甲高く鳴いた、気が、 ――…した。



 ひかり。

 おそらくは、回復系のそれ。
 癒しの祈りを以て注がれる、いや、これは――…、
 神の法術とも言われる、魂の回帰という奇跡を起こす呪文――『蘇生魔法』(ザオリク)。
 熟達の僧侶や聖堂騎士でも未だ成功例は記録に乏しく、机上の空論、世迷言だと、信心も薄き卑しき心根の者によく悪し様とされる――名目上はひとが唱え得る最高峰の祈り文句を、本来であれば唱える側の人間である自身が体験することになるとは皮肉だと、何処か冷静な意識が他人事のように己を嘲った。
 強烈なまでの蘇生の光の賜物か、鼓動は僅かに拍動を開始したが、肝心の酸素が足りないのだろう、実に弱々しく、細々しいそれに、再び訪れ来る闇を静かな心地で甘受した。
 が、次いで正しく死人のそれである口唇へ柔らかなものが触れる感覚――…、喉を堰き止める忌々しき箍が、忙しなく吸い出されてゆく――と、同時に急激に上昇する意識、そうと気付いた瞬間には激しく咳込んでいた。
「ッ……、カハッ…!
 ごほっ……、ッアっ……、ハァ ……ッ !
 は… 、 は …… ぁ、
 ハァ……」
 完全に『死んでいた』のだ、流石に全身が鉛のように冷たく重かった。
 彼岸を臨みゆき、危うく引き返せぬ旅路となるところであった聖堂騎士は、生物としてかくもあらんとばかりの痛烈な生存本能の欲求に従い、全身で新鮮な空気を肺へと送り込んだ。その間にも誰とも知らぬ癒しの手は絶えず力を分け与え続けており、その無限の魔法力もさることながら、蘇生魔法を成功させた実力へ驚嘆しつつも、心の底から感謝の気持ちを捧げた。
「……わり…、たすか……、った……」
 ゆっくりとだが確実に指先の硬直が解け、一度は生命の途絶えた肉体に血が巡るのを感じながら、切れ切れの吐息で言葉を紡ぐ。まだ、視界は戻らない。聖堂騎士として鍛錬を積み、常人よりも余程研ぎ澄まされた感覚も、今は酷く鈍く、ろくに働きもしない。正に、命の恩人である人物が不意に放埓の気を起こし、伸ばされる癒しの手に刃を携え、そのまま喉元へ突き立ててきたのなら助かる道は最早残されてはいないだろう。
 そこで、当然の如く沸き上がる疑問。この手の持ち主は、如何な人物であるのかと。
 徐々に正常さを取り戻す思考は、彼の存在が、異常である事に警鐘を鳴らし始めた。
 死の淵から救いの手を差し伸べてくれた蘇生術の使い手である彼――女性では無い事は口唇の感触で何とはなしに察した――は、確かに恩人である。
 しかし、
 冷静に思い起こしてみるべきだ。
 おぞましき茨の呪いが諸共全てを呑み込んだ悪夢の城、新緑深き魔物の巣窟となった禍々しき場所へ、誰人が好きこのんで、しかも大魔神ラプソーンの魔神力が強まる真なる闇夜の気配も色濃い渦中の刻限に、居合わせたりなどするだろうか。荒くれ集団の山賊連中でさえ、近寄ろうともしない曰くつきの土地なのだ。
「………」
 唯一、思い当たるとすれば月黄泉の護人と名乗る不思議な形代だけだが――…。
「…な、ぁ……」
 膨れ上がる不安に堪らず、絶え絶えの呼吸の合間を縫い、ククールは掠れた声で正体の知れぬ人物へ呼びかけた。
「……ッ! ぐっ……、 か、はッ……!!」
 しかし、幾ら奇跡の法術と呼ばれる蘇生魔法の恩恵を受けているとはいえ、死へ至る刀傷が早々に完治してみせるわけもなく、一言、二言の無理で喉は詰まり、蒼白な頬を自身の血で赤く染め上げる聖堂騎士は、盲(めし)いた世界の中での唯一の縁(よすが)の如く、神の奇跡を操る男へと反射的に縋りつき、痙攣を繰り返した。
「………ッ!」
 高位の法術を駆る男は、少なくない動揺を見せたようだったが、全身の骨を微塵に砕かれるような苦悶にもがくばかりのククールに、そのような細事構う余裕など残されていなかった。重傷の熱病に侵されたように、渇いた口唇、妬け付く喉。生存本能が『水』をと望んだ瞬間に、後頭部を支えられ口元にガラスの感触、次いで熱い乾きを潤すもの。無意識のままに貪れば、口腔に含んだ透明な味わいは、多くは飲み込み切れずに、輪郭をなぞるように溢れてゆく。水の軌跡の分だけ、赤い穢れは拭い去られていった。
「……っ、は、ハァ、…… はっ、 … はぁ……」
 危なげではあるが、それでも幾分かは呼吸を楽にさせたククールは、聖なる力を操る男に縋りついた指先から力を抜き、未だ戻らぬ視力に不安を煽られつつ、そのまま相手へ身を委ねた。幸多きとは言い難い幼年期からの経験が最たる原因なのだろうが、基本的に聖堂騎士を名乗る優雅な物腰の青年は、刹那に身を任せ享楽と放蕩に耽る堕落の生き様とは反対に、己以外の人間へ対する警戒の心が異常に強い。如何な非常の事態であろうとも、これ程無防備に『誰か』に頼り切るのは、『ククール』らしからぬ行動であった。
「………」
 余程、衰弱しているという事情もあるのだろうが、最早全幅の信頼を置いているといった態度で全てを任され、彼の者から伝わるのは戸惑い、緊張、そして――…、

「……神の御名に於いて、至れよ再生の輝き。
 我が右手には誓い、左手には祈り、回帰邂逅、未曾有に天恵を与え賜へ。
 黄泉比良坂(よもつひらさか)が闇の胎(はら)、その暗きに灯火――…」

 淀みのない、凛とした自信に満ち溢れた、祝福を乞う、祝詞(ことば)。
 奇跡の魔法と言われる蘇生の呪文。その構成、響き、正しき韻についての知識は部外秘でも何でも無い。神学真理を多少齧った程度の、街角の教会に在住する神父でも当然の様に知っている知識だ。多少の色のついた寄付金を詰めば、喜んで教えてもらえる程度の他愛も無いものだ。
 神の御力を体現すると言われる、最高峰の呪文の扱いの粗雑である事。
 だから、通りすがりの男が、その呪文を口にしたとて、然程仰天するべき事態では無い。

 それだけ、ならば――…、
 何も、
 そこで話が終わる、はず、なのに。

「……… あ、 に……、 ……」
 聴覚に刺激されるようにして、視覚が力を取り戻し始める。
 驚愕が、耐え難きはずの苦悶を凌駕していた。
 どうして、と。
 脳が、思考が、銅錆た螺子ように同じ場所に喰い込んで動かない。
「……ん、っ!?」
 目の前、手も届く距離で、祝詞を終えた『兄』が再び唇を合わせて――、喉に流し込まれるのは、そう、恐らくは聖水。それも、高純度高精製の緻密な魔力を含んだ味。おそらくは、聖地ゴルドのそれではないかと、思い至って。ならば、これが夢幻でも、魔物の化かしでも無く、実体を伴った紛れも無い現実であると。幾度目かの聖水の口移しで、ククールは漸く現状を把握した。



 奇跡の光景を映し込む黒無垢の瞳が、大きく、揺れた。

 ひたすらに。
 ただ、ひたすらに。
 立ち竦む、だけ。

 無力を呪うだけの力すら、残されない。

 まるで、空っぽの木偶人形のような、無様の有り様。
 剣を生業とする人の身では、どう愚かしく足掻こうとも、奇跡の術の使役は不可能。
 彼の者――、脆弱とはいえ、神の力を繰る人物に頼る以外に、愛しきひとの助かる道も無く。
 抑えに抑えた竜の波動で魔物を牽制し、弱き人の子等の無事を確保しながら。
 僅か数歩の距離に成り行きを見守る――、それが。

 ひどく、遠い出来事のようで。
 決して、届かぬ場所のようで。

 何故か、手酷く打ちのめされた心地に、なった。



「なんという有様ですか、竜の瞳(ドラグーン・クラウン)」
 次元の裂け目、世界を律する法則を歪めて存在する異界――月黄泉を司る人物は、度し難い、とばかりに月光充ちる静謐の部屋の片隅に、膝を抱え顔を沈める暴君の姿を諌めた。
「……黙れ、構うな」
「貴方のような無駄に甚大な気を発するモノが支配下にあれば、否が応でも気になります。
 構われたくないのなら、早々に私の世界を後にして頂きたいものですね」
「…追いだしたら、しつこく恨むからな」
「そのつもりなら、とうにそうしてます。
 御期待に添えず申し訳ございませんが。
 私とても、そこまで非道ではありませんよ。竜の瞳」
 突如『兄の姿を模したモノ』の襲撃に倒れた銀嶺の如き清廉たる美貌の聖堂騎士を死の淵より救ったのは、他でも無い、かつて魔王の破壊の意思と共に、世界の最高峰へ昇りつめた飽くなき強権の男の、尽きぬ野心を土壌として育まれた魔力――法力、だった。
 机上の空論と誹られてきた、不遇の奇跡の術。
 完全蘇生魔法(ザオリク)。
 それを辛うじて、という枕詞付きとは言え成功させた後、精魂尽き果て、男――マルチェロは、その場で昏倒した。その兄の様子に慌てて身を起こしたククールも、空の器に強制的に逆流した魂魄の質量に耐え兼ねた肉体が拒絶反応を起こし、現れたのは急激な高熱の症状。覚束ない足元に膝を折った。兄の身を想ってか、健気にも意識を失うまいと必死になるククールは仲間の――、エイトの姿を捕らえた途端に、ふつりと事切れた。おそらくは、安堵の為だろう。正しく、糸が切れた人形ように、といった様子で。咄嗟の支えが少しでも遅れていれば、頭蓋を強打していたところだ。
 ――無論、何がなんでも、ククールをそのような目に合わせるつもりは毛頭無いのだが。
「お二方とも、命に別状はありませんよ。安静にしていれば、時期に目を覚まします。
 白銀も麗しき騎士の御方には拙きながらも月黄泉の術も施しました」
「………」
 何時もの定位置――…、部屋の中央の丸い祭壇のような場所に据えてある椅子に腰を下ろし、随分と可愛げのある風情で意気消沈する『竜の瞳』を肩越しに一瞥した。丁度、背中を向き合わせるような位置で、ひとつ、溜息を吐いて、イシュマウリは更に提言を期す。
「そう言えば、眷属への糾弾・制裁を行われていらっしゃらないようですが」
「………」
「随分と寛容な事ですね。黒の王(ヌィイ・ツァーリ)」
「………」
「これを黙認すれば、眷属は幾度と無く災厄をもたらしますよ」
「……っさい。」
 言われるまでも無い、といった様子で不貞腐れた声のまま返事を寄越す年若き竜の子に、イシュマウリは、やれやれと頭を振り、周囲に立ち込める陰鬱な気を払う如く、優しげな音色を爪弾き始めた。月黄泉の時の流れは、外界の理より独立しており、主の望むがままに時を刻む。未だ、世界は闇であった。殊更、時の刻みを遅くさせているのは、一体、誰人への配慮であるのか。
「……こんなに、好き…なのにな…」
 人の理での二刻を、まんじりともせずに過ごした竜の瞳の言葉は、本性を知ればこそ、余計に痛ましい。覇気も失せ、苦悩に満ちた横顔を見せる若き王の姿に、月黄泉の翳りを儚き音で癒し続ける護人は、容易き心慰めは無粋と空言を呑み瞳を伏せ、揶揄の響きでもって口を開いた。
「しかし、そうしていると、とても竜の瞳(ドラグーン・クラウン)とは思えませんね。
 特に――…、先代は調律者としての生き方を正しく全うされておりましたから」
「…血も涙も無い、って?」
「悪しき風聞ばかりではありませんよ。先代を支持する古参も多く存在しました。
 今回の件も、先代派の一部が暴走した可能性がありますね」
「じーさまは、アイツのやり方はキライだったみたいだけどな。
 つーか、なんでそんなにコッチの事情に詳しいんだよ。アンタ」
 重要な役割も意味も持たぬ、無数に点在する、ひとつの次元、ひとつの空間を統べるだけの守役が、随分と真理の中心に精通しているものだと、見過ごせぬ違和感を疑問として、エイトは肩越しにイシュマウリを振り返った。
「私は先代と古き縁を結んでおりました。故に、多少を聞き及んでいるだけですよ」
「…ふーん」
 正に寝耳に水ではあるが、荒唐無稽と笑い飛ばすには、既に理を知り過ぎた。
 竜の瞳(ドラグーン・クラウン)として在り続ける、その途の先に待つものは、絶望に埋め尽くされた病み代の如き虚無だ。

 ――正しく、過酷。

 故に、調律者の定めは精神的・肉体的に強靭である『竜族』に宿るのであろうが。
「アンタに泣き事でも言いにきてたのか。アイツ」
 人相を悪くさせて何処か意地悪く問いただしてくる未だ目覚めを拒む新しき理の王へ、イシュマウリは、ゆるりと首を振って否定の意を伝えた。
「いいえ。ただ、一夜の夢を」
「なんだ、愛人だったのかよ」
 詰まらなそうに吐き棄てるエイトへ、蒼と慎ましい月光、そして涼やかな爪弾きに充ちる月黄泉の主は、在りし日を懐かしむように穏やかな表情を浮かべた。
「契りなど恐れ多い。言葉通り、ただ夢を求めての来訪でしたよ」
「…へー。アイツが夢、ねぇ……」
 訝しむ台詞に、イシュマウリはおや、とたおやかな仕草で首を傾げて見せた。
「先代がお嫌いですか。黒の王(ヌィイ・ツァーリ)」
「…調律者としては尊敬してるさ。何せ――…、…… 」
 剥き出しの感情がそのまま切っ先鋭き言葉となるところを、エイトは辛うじて呑み込んだ。弱味を見せ過ぎるのは得策では無い。ここから先は、何人とも立入禁止。深き暗き、竜の心の在り処、だ。一介の異界の主程度に晒す無様は赦されない。
「いいや、アンタに言っても仕方ねーしな。
 それより、先代が見たがった夢ってな、どんな内容なんだよ」
「それを申し上げるわけには参りませんよ。黒の王(ヌィイ・ツァーリ)」
「けち」
「可愛く言われても、ダメなものはダメですよ」
「…チッ」
 ドス黒い笑顔で舌うちを、そして漸く幾分かの気力を取り戻して、エイトは膝に力を込め立ち上がった。後ろへ大きく伸びを、その辺りに放り出していたバンダナを拾い上げて、額へと巻き直す。行く先は月黄泉の出口――…、外へ、この世界の救済のために『人』として成すべき大事を全うすべく、足取りに迷いも曇りも無く。
「おや、愛しき人の子等を見舞われずとも宜しいのですか?」
「いーんだよ。
 …もう、いいんだ」
 愛しき――…、おそらくは二度と無き刹那の想いを振り切るようにして、エイトは未練に淀む自身の感情に苛立ちながらも、寄る辺無き風情のまま凛と示すは――…万感籠りし決別の意志。
「彼(か)の世界を諦めるおつもりで?」
「そのつもりなら、わざわざこの姿でラプソーンの相手なんざしねーよ。
 それより、ククールを頼む。暫く、ここに匿っておいてくれ」
「眷属からの申し立ては、如何なさいますか?」
「無視しろ。何か問題があるなら、知らせて来い。対処する」
「畏まりました」
「マルチェロは好きにさせていいぜ。
 あの法王様が連中の姦計にハマるとは思えねーしな」
「御随意に」
 ひらひらと片手を振りながら月黄泉を後にする竜の瞳の背中を見送るイシュマウリの、その静寂の盃の如き眼には、かつて交わった様々の王の姿が重なって映る。強き王、悲しき王、愚かな王。人に恋し、人に焦がれる竜の瞳(ドラグーン・クラウン)は、その何れと成るものかと、近しき未来を憂い旋律を爪弾いた。



許して下さい
私の愛は、貴方を追い詰めるだけ

どうか、赦して下さい。


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