※(注)文章内のキャラフルネームは捏造です※
ぬばたまの闇に刹那の閃きがひとつ、得難き縁を追う。
足許さえ定まらぬ程の真なる闇に覆われ、唯一の導きとして目指し進む、遥かに遠き旅路。
しかし追い縋る程にそれは遠ざかる。
胸を圧し潰し想いを殺す虚無感に囚われ、滑稽なまでの必死さで前に前にと切なく伸ばされた腕は力無く項垂れ、固く踏締められた大地を蹴り飛ばしていた踵は、泥土に喰い込んだように動かない。
"諦めた"のは"彼"であった。
"遠き未来"は"己"であった。
――…何故、諦めてしまうのか、と憤怒にも似た虚しい痛みが胸を貫く。
悲嘆に暮れるだけならば、幼き子どもにも、か弱き女性にも、非力な老骨にも易き事だ。
"彼"の右手には戦う為の剣がある。
"彼"の左手には護る為の盾がある。
"彼"は強靭だ。
"彼"は傲慢だ。
慨嘆(がいたん)に囚われるは愚者の末路と嘲り嘯く超越の権化。
従属は喪心、反目は毒身。
救いは朽ち、望みは果て、枯れ逝く地へと振り下ろされる"破滅の魔王"が無頼の槌。
an ambitious person
「……?」
ふと気付くと、辺り一帯はひとつ塊とした大きな闇であった。
朧げかながらも、光を追ってここまで辿りついたのでは無かったかと、記憶を遡る。
ぐるりと背後まで見回しても、何もない。
頭上を窺えば、蒼白な月が、闇に刻まれた爪痕のようであった。
足許へと視線を落とせば、今度は瑞々しい蒼が視界を歓喜で潤した。
本能的に安堵を覚えた自身へ理屈が叶わずに、首を傾げて、それを見下ろし続けた。
すると。
ひとつ闇の世界で淡く仄かに煌めく円状の蒼をぐるりと囲う"何か"があると認識した。
神々しいばかりの偉容――だと言うのに、うつ伏せられた頭部も、長くとぐろを巻いた胴体も、一筋に透る凛と尖り切った尾の先までも、力無く横たわっていた。
それを眼(まなこ)へと戴くは人の身には過分である。
おそらく、"それ"は、真理を統べる高次の神族へ類するもの。
パキッ……、ッ……、ィィ ――ン 、
憔悴に息も絶え絶えに喘ぐ厳かな――"竜"は、空間が破裂するにも似た音に、ぐい、と鎌首を擡(もた)げ瞳を伏せたままでキュゥ、と掠れた声をあげる。すると、今の破砕音と共にパラパラと崩れた蒼い円の端の暗澹は、天の羽衣の如き虹の光沢を放つ竜鱗を数枚奪って、欠けた部分を補った。原形通りの真円に満足したのか、竜身を損ない疲弊したのか、神竜は再び頭を項垂れる。
「………」
眼前にした一連の行為に鳥肌が立っていた。
それが示唆する"事実"を知の彼方へ求めれば、胸の奥が漫(そぞ)ろに騒ぐ。>
不吉、不安、不穏。
……の理は何人(なんぴと)も暴いてはならぬと――…、
「……なんだっけ?」
………。
耳に届いた声が自分の寝言だったのだと気付くまで数秒を要し、ククールは憮然とした面持ちで上体を起こした。何だろう、夢見が悪かった、というヤツだろうか。妙に頭が重い。昨夜はそんなに深酒をしただろうか、と。不機嫌そのもので舌打ちながら片手で秀でた額を押さえ溜息を吐く。
「くっそ…、朝っぱらから辛気臭せぇ…。…今、何時だ?」
魔術の韻が施されるお陰で非常に正確に時を刻む月時計を窓際へ探して――、そこで初めて聖堂騎士団の誉である騎士は部屋の内装に見覚えが無いと、気が付いた。
「…ここ、…」
蒼。
不意に脳裏へ浮かび上がった単語へ直結する人物は、唯の一人しかいない。"ひと"の姿で"俗人(ひと)"の望みを叶え続ける酔狂な夢堕ちの君人。どうしてイシュマウリの支配下に保護されているのか、至る経緯が全く思い出せずに、聖堂騎士団の誉れである騎士は途方に暮れた。
「くそ…、……ダメだ。ぜんっ、ぜん思い出せねー…」
ぽすっ!
苛立ちのままに間近の枕へ拳を打ち込むが、そのあまりに呑気な手応えに脱力して、肩を落とした。そうして冷静になって見直せば、シルクのような肌触りが心地良い、ゆったりとしたシャツ一枚の姿でいる自分の状況を把握して、まずは服を着替えようと前向きに気持ちを切り替えた――のだが、聖堂騎士としての制服が見当たらない。
そう広くも無い部屋には、天涯付きの無駄に豪華なベッドと、真横の棚の中の上には水差しセットが一式。薬の類は乗っていない。床は羊の毛のようなもこもこと短めの毛足の絨毯が敷き詰められていた。取り敢えず認識出来るものはそれだけだ。しかしながら上も下もご立派な成人男子が、白いシャツ一枚で歩き回る姿というのは如何なものか。
(……大体、なんで俺ここに…。昨夜は――…、と、そうだ…)
霞んでいた記憶が徐々に輪郭を取り戻すのに、ククールは胸を撫で下ろした。脈絡も無く見知らぬ環境へ放り出されていたものだから、少々混乱していただけだ、と自らを諭して少しずつ欠片を拾い上げて繋ぎ合わせてゆく、その作業へ没頭した。
(えー、っと。そう、そうだ。エイトのヤロウが案の定、宿を抜け出しやがったから、
……うん、後を追ったんだよな。
で、トロデーンの城門前で…――、)
「!」
途端、清廉潔白を謳う堂々たるマイエラ修道院が聖堂騎士の青年は、上から下へ刷毛でなぞられるようにして、顔色を蒼白に変えた。
「……え 」
ぐ、と己の左胸の上を薄い布地の上から握り込むと、口腔に滲んだ唾液を喉を鳴らしながら嚥下し、騎士の剣を会得するにしては随分と儚げな印象の指先が、その部位を確かめるように辿った。
「なんとも… ない … ?」
絞り出された声は戦々恐々とし、今にも掻き消えそうな弱々しさに充ちていた。
そんな馬鹿な、と。
サイズの大きなシャツを肌蹴て目視してみるが微かにも痕跡は無く、しかしながら自身の心音が遠ざかり、命の繋がりが末端から喪われてゆく、剥き出しの『死』の感覚が空事などであるはずがない。心の臓器から吹き零れた生温かく滑る感触を、これほど鮮明に思い起こせるのに。
あの、虚無が、悲愴が、絶望という名の安寧が。
全て夢であったなどと。
「おや、気が付きましたか。お客人」
「! イ、…シュマウ、リ」
半ば自失状態であったものの騎士としての戦歴がそうさせるのか、反射的に声に反応して、確かめるように名を擬える預かり人の様子に、月黄泉を司る静かの蒼はたおやかな微笑みを刷いた。
「目覚めの気分は如何ですか。何処かに異常を感じるようであれば――…」
淡々と問い掛けてくる姿がやけに落ち着いているもので、軽い混乱の渦中にあったククールは、ふ、と詰めていた呼吸を全て吐き出し、強張る指先からゆっくりと力を抜いた。幾許か沈着さを得た思考は、当座差し迫る危機が無い現状を正確に把握し、渇き切った口唇を舌先で湿らせる。
「…まず、俺が"生きてる"事が異常だって。どうなってンだよ…、くそ…」
自暴自棄といった様子で目一杯の忌々しさと共に吐き捨てる竜の瞳(ドラグーン・クラウン)の愛し子に、イシュマウリは慈愛の手を差し伸べた。
「どうやら蘇生前後の記憶が曖昧になっていらっしゃるようですね」
『生』の意味を欠漏させた仄蒼い指先が、極自然な所作で頬を撫でてゆくのを呆然と見送りながら、ククールは伝えられた内容を咀嚼し反芻した。蘇生。黄泉がえり。瞬きをひとつ、ふたつ。刹那の人の世に於いて神の名の下に行使される最大の奇跡。冥府へ逝く急ぐ御霊を現世へと連れ戻す、ある意味神への最大の侮辱とも人類の愚かさの集大成とも言うべき――…、
「……そ、うだ。 俺 … ……、 」
「無理に思い出す必要はありませんよ。時は尽きる事なくございます。ゆるりと思い出されては?」
「そーゆー訳にいくか。こっちはまだラプソーンとの決戦が……、…ッ、 」
ズキリ、と脳髄を叩き割られるような鈍痛に呼吸を詰まらせた美しい客人へ、イシュマウリは柳眉を潜め白の紋蝶の羽音にも満たない密やかなそれで、心地良い水面の旋律を囀(さえず)る。
「………、悪ぃ」
慈愛の唄に全身を優しく労わられ、治癒と沈静を大人しく享受する深紅の騎士は、ふと、思いついた疑問を口にした。
「…そういえば、エイトの奴は?」
「現世へ戻られましたよ」
「……ふぅん?」
終末の日を齎(もたら)す古の悪魔・大魔神ラプソーンから世界を護る、などと非常識な程に立派で大層な使命を背負う若い勇者一行のリーダーの行動としては、当然のそれ。しかし、ククールの知る『エイト』という人物の像に照らし合わせれば、どうにも、違和感ばかりが奇妙に先立つ感覚。
(……アイツ…、
…自分だけ、サッサと戻りやがって…)
普段、あれだけしつこく自分に付き纏っている癖に、こんな時に限って姿が見えないとはどういう事なのかと、少々的を外した怒りに身を任せ、みるみる機嫌を下降させるククールだ。
それが、"寂しい"という可愛らしい感情に起因している事実には、露とも気付かずに――…。
皮肉な経緯によって諸刃の『月黄泉の呪』から解放された『竜の瞳』(ドラグーン・クラウン)――、もとい、トロンデーン近衛兵のエイト、エイト・ドラグーン。夕闇に染まる空の色のような淡い黒檀の髪、光も闇も生も死も聖も邪も隔てなく受容する、虚無と安息を戴く黒無垢の瞳の痛ましきかな。月黄泉が呪詛は彼の王の精神(こころ)も肉体(からだ)も散々にと蹂躙し尽くしたのだ。
三角谷への滞在をパーティへ指示してから数日、完全に行方を晦ましていたリーダーからの突然の宣言に、宿の一室に徴集された戦闘メンバーの間に険悪な空気が流れていた。
「アンタ、正気なの! ククール抜きで決戦に向かうなんて馬鹿じゃないの!?」
どん、と。
凶悪な存在感を誇る胸元を更に強調するように身を乗り出し、七賢者の末裔である優秀な魔法使いの少女は、突き付けられた決定項を前に驚愕し、宿のテーブルを勢い増し叩きつけながら立ち上がった。ひらりとガーベラの花のように広がるフレアスカートの繊細な白フリルの裾が、少女の急な動きに連動してふわりと空気を食んで揺れた。
「本気だよ」
童顔(ロリーターフェイス)に瑞々しい豊満な肉体のアンバランスが魅力的な、火炎と爆発、そして氷結系までもの凶悪な各種攻撃魔法に加え、戦闘を優位に運ぶ補助系魔法を使いこなす天才魔法使いは、横暴な言い草に憤りを覚えながらも、必死に感情を抑えながら切り返した。
「エイト、分かっているんでしょうけど。アタシは別に感情論だけで反対してるわけじゃないのよ?
ククールはアホだけど回復と剣技のエキスパートだわ。特にアイツの回復魔法は貴重な戦力よ。
ラプソーンとの決戦にククール抜きで挑むなんて、正気の沙汰じゃないわよ」
「負け戦を挑むつもりは無いよ。問題無い」
「な・に・が! ど・こ・が! 問題無いってのよ!!
大ありでしょ!! 玉砕に行くようなもんじゃない!!」
「ま、まぁまぁ。落ち着くでガスよ…」
「うっさい! て言うか、アンタはいいの!?
回復役無しで破壊神と戦うなんて、バッカじゃないの!!」
不思議なタンバリンを叩いた時以上のスピードでテンションを上げるゼシカと、冷静と言うよりは冷戦状態で猛抗議を聞き流すエイトの間で、オロオロと間を取り成そうとするヤンガスが少女の怒りの波動をまともに受け、ひぃ、と大きな図体を小さく折り畳んで部屋の隅へ逃げ出してしまう。
「ゼシカ、ヤンガスに当たらない。
意外と気が小さいんだから、可哀想だろ」
「かっ……、わいそうなのは、アンタに振り回されるアタシ等よ!!
ジョーダンじゃないわ!! ヤンガスはそれで良くても、アタシはアンタと心中なんて御免よ!!
て、言うか。ククールは何処にいるの? そもそも、決戦に参戦出来ない理由は何?
今更、暗黒神の強大な力に怖じ気づきました、って話なら信じないわよ。ひゃくぱー嘘ね。
アイツがそんな事言うわけないわ。それ位は分かる程度には付き合ってきてるんだから」
「…そうだね。ゼシカの言うように、ククールは決して不誠実な人間じゃない。
詳しい事情は言えないけど、僕の眷族の暴走でククールが危険に晒されていてね。
――…暫く、安全なところへ匿いたいんだ」
「……眷族? 何よそれ、…止むを得ない事情なわけ?」
む、とゼシカは眉を潜めて、噛みつかんばかりの勢いを失速させた。
回復役の不在は確かに痛手ではあるが、のっぴきならぬ理由が在るというのなら、一方的に相手を責め上げるべきではないと判断したのだろう。良家のお嬢様らしく我儘で激情家ではあるが、高次の魔法使いだけあり、常に客観的な第三者の視点を忘れない冷静さは流石と言ったところか。
「癪だけど、どうしようもないんだ。
ラプソーンとの戦闘中に万が一狙われるような事があれば、幾ら俺でもカバーし切れない。
――…だから、これは完璧に俺の我儘になる事を承知の上で言うけど。
ゼシカやヤンガスにも、ここに残って欲しい」
「「……!?」」
静かな口調から伝わるエイトの覚悟を前に、賢者の末裔である少女と部屋の隅で縮みあがる元盗賊の主に横方向への巨漢は同時に息を呑んだ。
「…どういうことよ…」
「ラプソーンとの決戦には俺一人で行くよ。
今まで一緒に旅をしてきた皆には申し訳無いけど、ククール抜きじゃ――難しいと思う。
"ひと"の姿のままでアレを退けるなんてこと…、幾ら七賢者のオーブの力を借りたとしても不可能だからね」
「…なら、アイツを…っ!」
「駄目だ」
キリッと高く括ったツインテールを大きく揺らしながら必死に訴えかけるゼシカの言葉を、パーティの最大戦力とも言える【剣神】の称号を授かる少年は鋭く遮ると、決して心地良い居場所であった仲間の前では見せまいと禁じてきた、闇を孕んだ"竜の瞳"(ドラグーン・クラウン)としての修羅の面を穏やかな双眸に重ねながら、暴力的な強引さで再び単騎での最終決戦の意思を伝えた。
「あ、アニキ! アッシはアニキの決定に逆らいたくはないでガスが…。
それでも、一人でアンニャロウと戦うのは無謀でゲスよ…!
連れて行って欲しいでガス!!」
「…有難う。でも、駄目だよ。
今言っただろう、ククール抜きで戦わなきゃいけないんだ。
汎用回復魔法を使えるのは僕だけになるから――…、厳しいよ」
「な、なら、回復魔法を使える人間を雇えばいいでゲス!
パルミドには命知らずの腕自慢が集まっているでガスよ。
金を積めば、どんな危険な依頼だろうと――…」
「世界を滅ぼす伝説の魔神との最終決戦に参加して貰うには、どれ位の対価が必要かな。
それこそ、先払いの報酬を貰ってドロンが関の山じゃないかと思うんだけど」
「……う、」
「更に問題点。ククールと同レベルの回復の使い手がそうそう見つかるとも思えない。
あれでも、聖堂騎士団切っての実力者だからね。
中堅程度の実力しかない人間を雇って足手纏いになられる位なら、居ない方がマシだよね?」
「……うぅ …」
苦し紛れに捻り出した案を淡々と正論で説き伏せられ、元々、頭を使うよりも肉体で勝負の体力派な盗賊上がりの男は、グゥの音も出ない状態だ。
「で、でも! アニキが負けるとは思わないでゲスが、一人で行くなんてやっぱり無謀でガス!!
相手は、七賢人が封じてきた伝説の魔神でガスよ! 幾らなんでも――…、」
「――…無茶よ。何、アンタ死にに行くつもりなわけ?」
「まさか。…ああ、でもそうだな。在る意味そうかもしれない、ね?」
「ッ! の、バカッ!! ふざけんじゃないわよ!!」
拙い語彙を掻き集めて必死に説得を試みるヤンガスの後を浚い、賢者の血を継ぐ名家出身の魔法使いの少女は、誰もが目を奪われる愛らしい顔立ちを大層険しくさせ、腹の底から沸き上がる怒りを涼しげな表情でいる黒髪の剣士の横っ面へ叩きつけた。
「……気は済んだ?」
少女の制裁の一撃に甘んじて赤く腫れる左頬もそのままに、闇を孕み黒々とした虚のように存在する双眸を伏せ、静かに問い掛ける。その徹底した拒絶の姿に真っ直ぐな心根の少女は、僅かに怯み、理不尽を突き付ける少年を発作的に打ち付けた己の右手を血の気が引く程に握り込んで、小刻みに肩を震わせた。
「………っ、 」
ポロポロ、と。
絶望的な距離に、届かぬ想いに、悔しさで次々と溢れる涙を止める術も無く、こんな最低な奴の為に泣いてやるモノかと固く思う程に、昂る感情は理性を振り切っていってしまう。
特別仕立ての高級な生地にしわが寄るのも構わず、ゼシカは戦慄く両手の華奢な指先で、八重華のように可愛らしいスカートをくしゃりと握り締めた。
「……ばかっ、 ばか…っ、
意味分かんないっ……、ばか、ばかっ、ばかばかばかばかばかっ!!」
「…理解して貰おうとは思わないから、いいよ。
ただ、地上(ここ)に残ってくれればいい」
「それが納得出来ないって言ってるでしょう!?」
カッ、と頭に血を昇らせ、ゼシカは再び右手を大きく振りかぶった。今しがた、無抵抗の護衛剣士の頬を打ち付けたばかりのそれは、痺れるような熱さを孕んだままで。暴力へ訴えかけたい訳ではない。しかしながら人が操る"言語"は、拙く、幼く、余りにも――…、
「――…っ、ふ、ぅ 」
避ける素振りも無かった。
二度、少年の頬を叩いた右手は、まるで自分の物では無いように、重く、後悔の念に塗れ。
「…ごめん、ゼシカ。泣かないでよ」
「うるさいっ、うるさい、うるさいっ!! 馬鹿、ばかばか、バカバカバカバカッ!!
アンタなんて大ッ嫌い!! スッゴイ嫌い!! メチャクチャ嫌いなんだから!!」
「…うん。」
「ばかっ、ばかぁああああああああああああ!!!!」
バタンッ!!!
とうとう限界値を越えた感情を爆発させ、賢者の血を継ぐ愛らしい魔法使いは精一杯の憎まれ口と共に部屋を飛び出して――…、
「……ねぇ。ククールと同レベルの回復役が居ればいいのよね」
行ったはずなのだが、数分と経たずに、ひょっこり開け放した扉から顔を覗かせた。
快活な自信に輝きに満ちた少女の明るい瞳は未だ悲しげに濡れてはいたが、その凛々しい双眸に強い意思の兆しが戻り始めていた。
「…随分早く戻って来たね」
さて、如何にも人らしい優しさでゼシカの後を追うべきか、人でなしの鬼畜らしく放置すべきか、冷め切った紅茶を口に運び直したところでの意外な展開に珍しくエイトは目を丸くし、少々的の外れた感想を漏らした。
「いーからっ、答えなさいよ。
アンタの言い分だと、今回の決戦にはククール抜きで挑まないといけない。
けれど、ククール抜きだと戦力的に厳しい。
だから、アタシやヤンガスは連れていけない。そうよね?」
「…そうだね」
「ククールを連れて来れれば何も問題無いけど、それは出来ない。
だったら、アイツと同じ位の使い手が一緒にいればオッケーって事よね?」
「万が一にでも、そんな在り得ない人材がいればね。
ククールの抜けた穴を埋められる程の人間がそうそう居るとは思えな――…」
「私では不満か、『竜の瞳』(ドラグーン・クラウン)」
確かに聞き覚えのある威厳に満ちた声、不遜な面に高慢な眼差し、地上に在る全ての生命を劣等種であると両断し、己の優位へ揺らがぬ確信を抱き続ける歪んだ高潔の――…、
「……マル、チェロ ……」
傲慢たる人の子の名を、マルチェロ・ゼネス・ロッツァリア。
滅びゆく世界の祝福と繁栄を約束し、神を慈し神を殺す法王の名前として後世へ伝えられる。
終焉の王の真名である
「なぁ、ここから出せって!」
月黄泉――と言うらしい――の世界に、どうやら自分が軟禁されているらしいと感づいたのは、奇妙な夢より目覚め数刻程してからだった。
「誠に申し訳ございませんが、承りかねます」
衝撃の事実に愕然とすると同時に宛がわれた部屋から飛び出し、異世界の住人であるイシュマウリが常に繊細な旋律で充たす中央の広間に、不自由を強いられる聖堂騎士――ククール・アスクアールは眦を上げ銀水華の美貌を怒りに咲かせていた。
「なんでだよ! テメッ、どういうつもりだ!!」
「お静かに、御客人。そう声を荒げるものではありませんよ。お体に障りましょう」
「これが静かに出来るかよ! くそっ…、なんで…っ! 俺は戻らなきゃなんねーんだって!!」
「…何故?」
「な、ぜ、って…、そりゃ、決まってンだろ! ラプソーンのヤツをどーにかしねーと…っ」
突き放した月黄泉の主の言い様に、ひやりと、冷気の刃に首筋を撫でられた心地となる。一瞬怯んで見せた瑞々しい美しさの聖堂騎士は、しかし即座に自身を持ち直し言い募る。
「ラプソーン…、闇の魔王。破滅を呼ぶ、絶望の偉大なる魔祖。
哀れですね――、『アレ』もまた自身の定めに殉じているに過ぎません。
『アレ』を退けたとて、御客人の世界の滅びが回避されるわけではありませんよ」
「……、な、に、云って… 」
「古の七賢人。彼等はラプソーンを退け世界を救ったとされているようですが、史実が常に事実を伝えるとは限りません。彼等は破滅の祖であるラプソーンに世界の延命を願い出たに過ぎないのですよ。ある『条件』を提示し、それを呑む事で――…未来に確実な滅びを喚び込む事となってでも、『今』を生き延びる事を切望したのでしょうね」
たおやかな白魚の指先がハープの弦を切なく爪弾いて、静寂の青に悲しい旋律が充ちて行く。
「……、何の話だよ…。俺は、此処から出してくれって話をしているだけだぞ?」
「先程も申し上げましたが、承りかねます」
「理由は」
苛立ちを抱えながらも、月黄泉の司――イシュマウリの受け答えが微妙に、何かの核心に触れている事実を感じ取り、ククールは殊更見せつけるように大きな溜息を吐くと、腕を組んで短く問い正した。
「お連れの方から、そう望まれています」
「エイトか?」
「現世(うつしよ)の名では、そのように」
「……何で、アンタがエイトの言葉に従うんだ?」
「盟約故に」
「めーやく? どーにも話が見えないな。
アンタ、アイツとどういう関係だよ?」
訝しげに眉を顰める銀の御髪も美しい客人へ、イシュマウリは揶揄の気配を滲ませながら、殊更意識を込めた猫撫で声で優しげに嘯いた。
「おや、御心配なさらずとも、私は潔白ですよ。御客人」
「…何が?」
「人の恋路に横恋慕する趣味はございません。ご安心を」
「………。ちょっとマテ、今のどういう意味だ」
「それよりも、御客人。何か聞きたい事があるのではありませんか?」
一分の隙も無く完璧な笑顔を浮かべるイシュマウリは、不快さに眉を潜めた客人の気と話題を見事な手並みで逸らし、ポロロンと珍しく大きな音色を、水底の惑いにも似た世界へ響き渡らせた。
「見事にスルーだな。ま、いいか。不愉快な話題に違いないだろうからな。
それよりも建設的な話をした方がずっと良い」
「ふふ、聡明でいらっしゃる。流石、双方の王より想われるお方ですね」
「……どうもアンタと話してると、論点がズレがちになるな。
取り合えず、エイトから言われて俺をここから出す気が無い事は理解した。
で、何時になったら出して貰えるワケなんだ?」
「【竜の瞳】(ドラグーン・クラウン)の御意志に依るとしか、申し上げようがございませんね。
そう、恐らくは。ラプソーンを退けた暁に、でしょうか」
「…っ、はぁっ!? 回復役(オレ)抜きでラプソーンと戦うなんざ、ありえねーだろ!」
難しげに組んでいた両腕を思わず勢いつけて解き、大きく左右へ振り被る興奮した仕草に、月黄泉の主は酷く冷静であった。
「その点は問題無いでしょう、【終焉の王】(ラ・ヘルーダ)が助力加勢へ駆けつけております故」
「ら・へるーだ? さっきから、訊いてればアンタ。
【竜の瞳】(ドラグーン・クラウン)だとか、双方の王だとか、終焉だとか。抽象的過ぎンだよ。
分かるよーに話せ、分かるように。自己満足過ぎて意味わかんねーだろ 」
「おや、手厳しい。しかし、御客人の主張も確かに一理ございますね。
では注釈を、終焉の王とは貴殿の兄君の未来斯くあるべき姿。そして、竜の瞳(ドラグーン・クラウン)とは、宇宙の真理を律し、摂理を奏でるモノ。簡潔に言えば、人の子が"神"と呼ぶそれの最高位の存在の体現です」
「………エート。終焉の…、って方は取り合えず置いとくとして。いや、そっちにも突っ込みを入れたいんだが、それよりも。ナンダ、つまり、エイトの野郎がカミサマですって言いたいのか?」
「如何にも、【竜の瞳】(ドラグーン・クラウン)とは宇宙の意思にも等しき尊様」
「…あのな、そういう与太話は余所でやってくれ。
大体、アイツがアンタの云うような? ご大層なカミサマ? だってなら、ラプソーンの一匹や二匹簡単に片付けられンだろ。何でしないんだ? 出来ないのか? それとも、カミサマの気紛れとやらで人の可能性とやらを測ってるとでも? 反吐が出る話だな」
異世界の伶人の厳かな言説に、神への信仰心など微塵も持ち合わせぬくせに、聖神騎士団へ属するという最大の不遜を天へ見せつけ、人心を深淵へと誘い堕落させる破滅的な美貌を誇る紅き衣の悪魔は、全身全霊を以て否定の意思を蒼の支配者へぶつけた。
「…いいえ。人の心とは、宇宙の理と同様に真に難解。実に計り難く。
故に、【竜の瞳】(ドラグーン・クラウン)は疲弊し、憔悴し、そして、望むべく未来の一つを儚んだ」
「どういう事だ」
「人も、動植物も、世界も。生命授かればこそ、いみじく終焉を迎える。
貴殿の世界に何故闇魔神ラプソーンが出現しているのか、その意味を考えた事はありますか。
彼の神の役割は、死する惑星を流転の理(ことわり)へと回収する、それに尽きますよ」
「……死、 する 惑星 ……?」
「如何にも、御客人の住まう惑星は既に限界を迎えています。
過去の七賢人は、潰える世界に僅かな延命措置を図ったに過ぎないのですよ」
「先程も言ってたな、それ。聞いてやるから、詳しく話せ」
「おやおや、随分と驕慢な言い草ですね。
ふふ、貴方といい、【竜の瞳】(ドラグーン・クラウン)といい。
脆弱な人の子風情が虚勢を張る姿の、何と愛おしい事か」
「厭味はいいから、早くしろ」
「…ふふ、生き急ぐ人の子の<心>の何と美味なるかな。
宜しいですよ、お話しましょう。
――手短に、とのご要望であれば、そのように、乏しき人の知識を私は愛しくさえ」
人の姿を模してはいるが、所詮、蒼の月守とて人に在らざる異形であり異容、不吉の懸濁。
己を取り巻く偏狭なる世界へ抱く疑問と焦燥と、…酷く胸を騒がす不安、いや、それは――…、
懼れ。
痛みと嘆きと侘しさの織り成す、人の身には余る途方も無い喪失感とも顕すべきものか。
これらの如何ともし難い苦みを胸中へ渦巻かせ、化生の懸想を一身とする奇跡の青年は、静謐なるひととき、月黄泉が主の承服し難き言葉へ耳を傾けた。
”ひと”であること
”ひと”でありつづけること
それに価値があるのというの?
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