一夜の泡沫、浮世から切り離された、刹那の輝きを永劫に閉じ込めたような閉塞された空間から、ただ独りきり移ろいゆく現世を見守り続ける。
それが、月夜の麗人に与えられた唯一の――存在、意義だった。
トロンデーンの夢
「ルーラって、便利な魔法だよな」
こっそりと、皆が寝静まった頃合を見計らって宿を抜け出した小柄な少年は、誰に聞かせるでもなく一人ごちた。
瞬間移動の魔法は世界を旅する彼ら一行にとって、無くてはならない移動手段の一つだ。魔法の才が無いものや、魔術の使役が可能であっても、ルーラの魔法が潜在的な能力の質の違いから覚えられない者も数多くいる。他の魔法は兎も角、これだけは本当に己の才能に感謝だ。と、少年――エイトは、正にその魔法を唱えながら、人の妄信が生み出した【神】へと、形ばかりの感謝を捧げた。
眩いばかりの光に包まれて、景色が高速で流れてゆく。ふ、と一息ついた瞬間には、目的地であるトロンデーン地方の大地を踏んでいた。
「今日も、いい月だ。うん」
煌々と静謐たる輝きで地上を遍く照らす、天上の美姫は、今宵も気高く夜空に映える。
こんな月夜は、過去とも未来とも区切りのつかぬ歪んだ空間への、小径が開く。
今晩も、少年は月の小窓を越えて、存在を異にする麗人の下へと通った。
「おや、本日もいらしたのですか。お客人」
「まーね。迷惑?」
月が一層美しく満ちる一夜だけ、人の子に夢の欠片を与えるという、透き通った存在感の青年は、既に顔見知りとなった毎夜の来訪者に目を細めた。
「いいえ、ここは永劫の時の狭間。
閉ざされし世界に新たな風を招きいれるお客人は、私にとって好ましいもの。歓迎いたしますよ。人の子よ」
しかし、と異世界の支配者――イシュマウリは不思議そうに、首を傾げた。
「人の子の貴方が生を謳う世界と此方側の途が現れるのは、月の満ちて、陰が小窓を描く瞬間のみ。毎夜事の逢瀬とは、なかなか酔狂ではありませんか」
「理屈は知らないけどね。
ラプソーンのヤツの茨の呪いの所為じゃないかな。トロンデーンの城に掛かる月の窓は、常に此処に通じている。まぁ、月が見えない夜は流石にムリみたいだけどね」
「……茨の呪い。
そうですか、トロンデーンという城に掛けられた果てなき憎悪の呪いが、我が月読(つくよみ)の世界にも影響を与えているということですね。――恐ろしいことです」
「………」
この異空間は【月読】というのかと、イシュマウリの何気ない台詞に感心しながら、エイトはそれより――と切り出した。
「彼、元気かな?」
「彼――ですか。元気というには、どうでしょうね」
悲しげに瞳を伏せる姿が堂に入っている。美形は何をしても絵になるのだと改めて思い知りながら、小柄な体躯に童顔という、人畜無害そうな容姿の少年は、溜息をついた。
「まぁ、そうだね。それじゃ、怪我の様子は?」
「肉体的なそれに限定してならば、快方に向かっていますよ。ですが、それも――この世界にあってのこと。狭間の世界【月読】は生も死も存在しない――よって、受けた傷は癒え、病魔は深い眠りへと落ちる。精神を引き裂くような苦痛も、ここでは漠然としか感じられないようになります」
「……ここに長くいると、生きた屍になるって事かな」
「否定は致しませんよ【月読】は【月黄泉】とも呼ばれます。強き意思が無ければ、生あるそれは、ゆうるりと腐敗して、心は朽ちてゆく。それが、この世界――」
しかし、とイシュマウリは宵闇のような美しい藍の髪を靡かせ、夜毎の来訪者に向き直る。
「全てが遠く、鈍くあるからこそ。精神の軋みが肉体を喰らわずに済んでいるのですよ。あの客人は、下界へと降れば、程なく潰えてしまうのではないですか」
「……頑丈そうなくせに、一旦ポッキリいくと弱いからなー」
揶揄る口調ではあるが決して相手への卑下や中傷の感情は篭らない、それ。どちらかといえば、愛しいものへの温情に近しい物言いに、イシュウマウリは理解が遠く及ばぬ、人の子の複雑な心の機微に、軽く頭を振った。
「人の子よ、貴方の寛大なる心には敬服しましょう。
しかし、疑問は尽きませぬ。彼と貴方は、俗世では『敵』同士。勝者の憐れみとも違う、その情けは何処から出ずるものかのか、非常に興味深い」
「――敵? そう見える?」
月の麗人の疑問に応じて、幼さを残す横顔に覇者の資質を秘めた少年が、面白そうに黒の双眸を輝かせた。
「違うとおっしゃるか?」
「んー、どうだろうね。客観的には『敵』になるのかなぁ。
でも、俺はそうは思ってないけど」
「それでは、なんと?」
――現世のしがらみから遠く懸け離れた【月読】の住人は、興味深く、人の子の言葉に耳を傾けた。
面白い――この、人の子は全く予想もつかない事を口にしては、それを実現させてゆく。その破天荒な魅力に、過去に遠く失ったはずの興が甦るのを、ヒタヒタと感じた。
「難しいこと訊くね? うーん…、仲間なワケないし、友達とかそういうのも全然違うし。そうだな…――」
ひとしきり唸り倒した後に、不遜な人の子は、傲慢さすら滲む口調で、酷く残忍に、優し気に【共犯者】かな、と言い放った。
「おいっす。調子どう?」
「……また、貴様か」
イシュウマウリが迎える月の祭壇から、更に奥、充分に贅を凝らした寝具の上で思索に耽っていた彼は、歓迎しかねる来訪者に睨みを効かせた。しかし、そのようなもの何処吹く風、飄々と傍にやってきては、気安く話し掛けて、気紛れに去ってゆく。ある意味、忌々しさだけが募る愚弟よりも御しがたいと、男は苛立つ。
「ご挨拶なコト言うなよ。法王殿?」
軽い、衣擦れのような微笑がカンに触る。
「――フン、嘲りに来ただけなら、早々に去れ。貴様と話すことなど何も無い」
「――…嘲り?」
どのような有様となっても、覇者の魂を持つ者というのは、常に気高い。無数の棘を滲ませた硬質な物言いで、王者の気質を抱く男は、意にそぐわぬ存在を疎んじた。
すると、その台詞に過剰に反応して、少年は心外だと眉を顰める。
「なんでさ。アンタ、法王になるんだろ」
「――…貴様がそれを言うのか…」
皮肉気に捲られた唇が戦慄く、今この場が、不可思議な力に形成されし空間でなければ、とうの昔に男は激昂していただろう。その様子を片目で窺って、仕方が無いな、と純真そうな微笑みの裏に、深い闇を抱えた少年は、淡々と語りだした。
「…今、世界中が混乱してる。アンタがしようとしたことも、聖地ゴルドが滅びたことで有耶無耶になった。式典に招待されていた連中の多くが、あの騒ぎで死亡してるしな」
「………」
「法王の即位の儀が性急だったからな、各国の王が式典に参列してなかったのが残念だな? みんな纏めて死んでくれれば、アンタが法王の座から、世界を掌握するのも容易だったろうに」
ピクリと、男の片眉が跳ね上がる。
「――貴様、何が言いたい」
警戒の色を強くする、手負いの獣に、少年――いまや、世界を救おうとせん英雄であるはずの彼は、挑戦的な口調で男を煽った。
「世界を獲ってみせろよ」
「――…」
無遠慮に距離を詰め、如何にも寝心地の良さ気な上質の寝具の上に、礼儀も品性も無く片足を乗り上げると、エイトは男の静かに情念を滾らせる瞳を真正面から覗き込んだ。
「俺、アンタのこと、キライじゃないぜ。
法衣を纏ったアンタのゴルドの演説は正直、ゾクゾクしたね」
そのまま、互いの吐息が感じられるほど、挑発的に、口唇を寄せて――、
「獲れよ――、俺がアンタを上へ押し上げてやる。世界を奪って、理想郷を魅せてみろ」
「……ッ、きさッ」
何を考えている――、と敵意すら孕んだそれで詰問しようとして、声を――奪われた。
宿の窓から見上げる月は、西へと傾き白く霞んでいた。東の空にいまだ朝日の気配は感じられないが、それでも、時刻は深夜を越え、丑三つ時も過ぎ、明け方といってもよい頃合だった。
「…ったく、何処行っちまったんだ。エイトのヤツ」
宿で部屋を共にするお子様の不在に気がついたのは、深夜過ぎ。普段は気にも留めないが、今夜は何故か月の光が眩し過ぎて、唐突に覚醒した。
妙に目が冴えたこともあり、そのまま何の気なしに窓の外からの景色を見上げていたが、はたと気付けば、隣のベッドがもぬけの殻となっていた。
最初は用でも足しに出たのかと、それから、何か用事でも出来たのかと、暫くして、この街にオンナでもいるのかと、最後に事態の異常に胸騒ぎを覚えて寝付けずに夜明けを迎えてしまったというところだ。
「クッソ…、のうのうと帰ってきやがったら、隼斬り喰らわしてやる」
寝不足も相まって、苛立ちは最高潮だ。隼の剣を片手に、不穏な空気を纏う白銀の青年である。殺気を込めて少年を待ち構えるククールだが、やがて宿の階段から、潜めた足音が聞こえてきた。無事に戻ってきたという安堵が、手前勝手な単独行動への怒りへと摩り替わるのに、そう時間は掛からない。足音が扉の前でピタリと止まったときには、憤怒の感情は頂点に達していた――、が。
「あれ、ククール。起きてたんだ?」
未だ眠りの中であろう同室の人間を気遣って、極力物音を立てぬように開かれた木のドアの隙間から、少年はするりと部屋に潜り込む。そして、大切な旅の仲間でもあり、そして恋心を募らせる綺麗な人の姿を視界に留めて――ふんわりと微笑む。その、余りの邪気の無さにすっかり毒気を抜かれて、ククールは大袈裟に肩を落とした。
「おッ…前なァ。あれ、起きてたんだ? じゃ、ないだろ。何処行ってたんだよ?」
「トイレだよ」
「ウソつけ」
「うん、ウソだよ」
顔色一つ変えずに嘘を吐き、更にそれが見破られても、微塵も動揺しない可愛げの無いガキンチョをひと睨みして、ククールはお手上げだとばかりに天井を見上げた。
「ったく、別にお前が何処で何してよーが興味ねーけど、あんま一人で出歩くなよ。ただでさえラプソーンの影響で、影の魔物が増えてきて危ないっていうのに」
「心配してくれてたんだ?」
心底、意外そうに目を丸くしたエイトは、直ぐに嬉しそうに破顔してみせた。あるはずのない尻尾が背中ではち切れんばかりに揺れる。そんな真っ直ぐな反応に、美貌の聖堂騎士はワザとつっけんどんな態度で、少年を突き放す。
「そんなんじゃねーよ、バーッカ」
「ええー」
「いいから、もう寝ろよ。ほらッ」
不満そうに唇を尖らすお子様の随分と幼い抗議を聞き流すと、清楚な容貌からは掛け離れた素行の悪さを誇る青年は、その腕を強く引いて、ベッドへと放り投げるようにした。
「う、わッ…」
咄嗟のことで仰天するエイトはそのまま宿屋の質素な寝台の上に転がり込むが、そこは流石と言おうか、しっかりと事を仕掛けた相手のシャツを掴んで、一緒に倒れこませた。
「ぶぁッ…! て、ッメェ。エイトッ!」
「あっははははは。お返しだよ。ククール」
無邪気に笑う姿は無垢そのもので、これが普段から自分に『抱かせろ』や『犯らせて』といった眩暈を覚えるような台詞を臆面無く吐いてくる漢(おとこ)と同一人物かと思うと、頭痛がした。
「…はぁ、ったく。放せよ、エイト。俺も、出発までもう少し寝る」
「やーだよ」
「おいッ…、エイ――…、……」
小柄ながらも、戦闘ともなれば先陣を切って敵へ斬り込むだけあり、随分と鍛えた腕は騎士の青年の細腰を抱えたままビクともしない。強引に逃れようとすると、逆に力を込められて余計に戒めがキツくなった。いい加減にしろと声を張り上げそうになって――、鼻腔をくすぐる微かなそれに、銀の雫で織り込まれたような繊細な面の青年は、息を呑んだ。
「? ククール?」
強く抱きすくめた腕の中、唐突に抵抗を止めた極上の獲物の変化に、エイトは不審そうに彼の名を呼んだ。すると、妙に張り詰め強張ったそれで、深紅の騎士は問う。
「お前…――、何処に…行ってた」
「……? 急に、なに――…ああ、そっか」
全く事態が飲み込めずに、不思議そうに黒く澄み通った瞳を瞬かせていた少年だったが、理由に思い当たり、両の腕(かいな)の戒めを解いてやると、ダボついた袖口を鼻先に寄せ、野生じみた仕種で匂いを確かめる。
「一緒にいたから、移ったかもな」
「ッ、何処に行ってたかって、訊いてんだろッ!!」
思い詰めた苦悩の瞳に、滲む切なさを――エイトは、底意地の悪い笑みで一蹴した。
「教えない」
「…ッ、……そうかよ」
決して諦めたわけではないのだろうが、徒労に終わると分かり切った質問を質問を繰り返すのは無駄だと悟り、ククールは舌打ちと共に、極悪な一面を覗かせる少年の上から退いた。
「拗ねないでよ。ククール」
「………」
黙りこんだまま自分のベッドに潜り込み、頭から毛布を被ってしまった青年に、エイトは苦笑を漏らした。
「そのうち、教えてあげるから。ね?」
「………」
「大好きだよ、ククール」
「……ウルセェ、エセお人好し。人格破綻者。腹黒。根性曲がりの温室近衛ヤロウ」
「そこまで言うことないと思うけどなぁ」
思いついた悪口雑言を片っぱしから吐き捨てるように口にする毛布の塊に、エイトはどうしようもない愛しさを募らせて、酷く優しく微笑んだ。
やってません。(後書きの第一声が、それってどうよ?)
いや、とりあえず、そこは明確にしておくべきかなと。
エイトはククに恋して、マルは愛しさを感じています
うちのエイトは、こんなカンジです。