それは、城で下働きする一人の兵士から広まった、怪奇だった。
『夜中、人のいないはずの屋上から、女の囁きと、すすり泣きが聞こえてきた』
 サザンビーク城は開放的な国民性から、城の内部も一般公開されている。しかし、夕刻には城門は閉じられ、城の関係者は裏口から出入りを行うようになっている。そちらには、常に下働きの人間の目があり、また、定期的に兵士が見回りに来るために、一般の人間が忍び込むことは難しくなっている。
 そして、万が一の事故に備え、日暮れから夜明けまで屋上の扉は締め切られる。無論、その際には、当番の兵士が屋上に人がいないかどうかを確認してからとなる。それに、もし誤って屋上に取り残されたとしても、緊急連絡用のベルの存在は城に勤める人間なら、誰でも知っていた。
 その日は、ねっとりとした風の夜だったという。
 いつもは二人一組で屋上を見回る兵士たちだが、その時に限って、一人きりだった。
『普段通り、屋上の見回りをして、扉の二つとも施錠した。別に変わった様子は無かった』
 サザンビークの城下町を一望出来る城の屋上は、その見晴らしの良さから昼間は人が多い。夜になれば天空に輝く神秘の星々をより近く求められることから、天文学者や一部の天体マニアには人気の場所だ。しかし、夜からの立ち入りは王の許可が必要だった。
『別に、許可申請が出ている日でもなかった――。それに、誰か残っていれば、直ぐに気付く』
 それから深夜、再び屋上に上がる階段付近を見回りに来ていた兵士は、不審な物音に気付いたという。
『最初は、細雨の日に、外から聞こえるサーッというような音だったんだ』
 雨でも降り出したのかと思い、気にも留めなかった。しかし、屋上階段から降りてきて、外回りの兵士に話を訊くと、外は綺麗な星空で、雨なんて降っていないという。
 確かに聞こえたのだが、幻聴の類かと思い、首を捻りながらもその時は話を流した。それからまた二時間後、深夜二時過ぎ。再度、屋上階段へ見回りに行くと、やはり微かな雨音がする。可笑しなことがあるものだと、しかしそれでも、怪奇というより不思議な心持で――音の所在を確かめようと、兵士は屋上の扉を開けた。
 ギッ、と僅かに扉が軋み、雨音は――不意に途切れた。
『外から聞こえていたようだったが、気のせいか? と、思ったんだ』
 扉から屋上に出てみると、外は雲ひとつ無い満天の星空が広がっていた。
『別に問題も無さそうだ、とそこから立ち去ろうとした時だったんだ』
 生温かい風が首筋を撫でたかと思えば、耳元で恨めしい女の声がした。

【……みぎ…だか】

 飛び上がるほど驚いて、慌てて背後を振り向いてみても、誰もいない。その時になって、やっと事態の異常さを自覚した。ぶわっと冷や汗が浮き出て、得体の知れない恐怖が足元から這い上がってきた。

【……か……、ひだ……か】

 姿は無くとも、声はする。
 しかも、自分の耳元に、まるで怨念の塊を吹き込むようにして、だ。
 切れ切れの言葉と、すすり泣く気配。
 生きた心地がせず、真っ青な顔のまま恐怖で竦んでいた兵士は、徐々に女の言葉がハッキリとしてくるのを感じた。

【 みぎか ひだりか 】

 そう、聞き取れると同時に、両肩を凄い力で抑えるつける女の腕が見えた。横目で窺ったそれは、じっとりと濡れているようだった。
「み、右だ」
 どうにかこの恐怖から逃れたくて、恐慌状態に陥りながら、やっとそう答えると。怨霊の気配はゆっくりと兵士から離れた。おそるおそる怨形を窺うと、足元まで伸ばされた美しい黒髪と、胸元を大きく開けた純白のドレスに身を包んだ『それ』が、屋上の右端で丁度立ち止まっていた。やがて、ギ・ギ・ギと首を360度回転させて、硬直したままの兵士へと向き直る。その顔立ちは真っ白い紙のように何も描かれておらず。
「……ひっ…」
 余りの自体に仰天して、小さく悲鳴を上げる兵士に、『それ』はガッパと顔の中央から、半分に折れて、口を開いてみせた。ありえないほどに裂けたそこから、生々しい血が次々と噴出して、

【 お前のせいだああァアあァァァあああああああぁああああああ !!! 】

――女は、呪怨と悲痛にまみれた、断末魔の雄叫びを上げた。


サザンピークの怪



「…そ、それでどうしたでガスか?」
 サザンビークの城下町。バザーの賑わいによって、人と品の流通が盛んとなれば、自然に宿場も忙しさを増す。客で一杯になった店内で、給仕の女性が駆け回る中、闇の杖に支配された黒犬レオパルドを追いかける最中のエイト達は、ある意外な人物に食事を奢られていた。タダ飯は有難いが、食事時に怪談話は如何なものか。
 案の定、仲間は神妙な顔つきで黙り込み、食事の手を止めてしまっていた。
 元山賊という経歴を持つ強面の男など、外見に反して、この手合いの話が苦手らしく。可哀想なほどに真っ青になって、震えていた。
「うむ。それでだな――、なんとか兵士の詰め所まで逃げてきた兵士は、事の顛末を他の者に説明してだな」
 だが、この楽しくも無い怪談話を語って聞かせるソレも、見事に脅えていた。今、後ろから脅かしてみればさぞや愉快な結果になるのだろうと、鶏肉のソテーを頬張りながら、パーティのリーダーである少年は、人畜無害そうな顔立ちに黒さを滲ませた。
「何をバカなことを、と最初は他の兵士に笑い飛ばされたんだが。聞いて驚け――」
 ゴクリ、と一同が息を呑む。
 勝気ながらも意外な女性らしさを持つゼシカ嬢や、修道院で育ってきた聖堂騎士の青年までもが、緊張した面持ちであった。唯一、童顔に人好きのする微笑みを湛えて、如才なく世間を渡ってきた少年だけが、何事にも動じないふてぶてしさで語りを聞き流していた。
 バカ王子の世迷言など相手にしても仕方が無いと、隣席の銀の流れに瞳を細めた。相変わらず綺麗な髪だなぁと見惚れていると、随分と興奮した様子でサザンビークの後継者――チャゴス王子が、大声を張り上げた。
「なんと! その兵士の両肩には、人の手形にべったりと血痕が残されていたそうなんだ!! どうだ! 怖いだろう!!」
「ひぃぃぃぃぃ〜〜〜〜、怖いでガスよ。アニキ〜」
 食卓に突っ伏してガタガタと震えだすヤンガスの丸まった背中をぽんぽんと叩いて、エイトは、それで? と、先を促した。
「サザンビーク城の怪談話なら、もう結構広まってますよね。僕も町の人から、小耳に挟んだけど。で、その話をワザワザ聞かせるために僕たちに声をかけたんですか? 王子」
「馬鹿者だな。そんなわけ無いだろう」
「…へぇ」
 王族の権威を笠に着て、不遜に言い放つサザンビークが誇る天下一品のバカ王子に、元から悪いエイトの機嫌は坂道を転げ落ちるかのように、急降下してゆく。
「ボクは、こんなホラ話バカバカしいと思うのだけど。やれ、屋上付近で女の啜り泣きを耳にしたとか、悲鳴が聞こえてきただとか、城の人間がすっかり怖がってしまってるんだ」
 どうみても今回の怪談騒ぎに最も脅えているようにしか見えないチャゴス王子だが、それでも精一杯見栄を張って、平気な素振りをして話を続けた。
「それで、屋上へ続く怪談から閉鎖されてしまったんだ。これが、いい迷惑なんだ」
「……? なんで迷惑なのよ。別に屋上に行けなくても困らないでしょ?」
 先ほどまで中空に浮いたままになっていたスプーンを動かしつつ、向日葵のような鮮やかな可愛らしさと、成熟した肉体のアンバランスが魅力的な少女は、不思議そうに訊ねた。
「これだから下賤の民は。
 いいか、ボクは王子だ。必然的に自由も制限されるんだ。なにせ、高貴な身分だからな」
「……そうね」
 憐れみと呆れを多分に含んだ声が、少女の可憐な唇から零れた。
「だが、高貴なボクだからこそ、普段から王子としての心労を抱えストレスを溜め込んでしまっているからな。気晴らしが必要なんだ」
「――っほーぉ」
 段々先が読めてきたと、自戒を強く求められる修道院を事在るごとに抜け出しては、近くの宿場町で飲酒、ギャンブル、女遊びと、三拍子揃った不道徳に興じていた美貌の聖堂騎士だ。
「しかし、ボクの周りの人間は下等過ぎて、ボクの言葉を理解しようとしない。よって、ボクは果敢にも単独城を抜け出し、今まで、ベルガラックで心の洗濯を行っていた。だが、由々しき事態なのだ! 屋上への通行が閉鎖されてしまっては、夜中、自由にベルガラックへ行くことが出来ない! このままでは、ボクは心労から倒れてしまうかもしれない。
 いいか、このボクから直々に命令を受けられるなんて、名誉なことなんだ。お前たち、ボクの城の屋上にいる怨霊とやらを追い払って来い」
 自己中心的にも程がある。余りに身勝手な言い草に、一同は、頭痛を覚えた。心労で倒れるような繊細な王子なら、こうも丸々艶々としているものかと、誰もが思わずにはいられない。
「…あれ、でも今も王子は抜け出してきてるんじゃないんでゲスか?」
 素直に疑問を口にする悪人顔のオッサンに、丸々と肥え太った王子は、ふんと偉そうに鼻を鳴らした。
「わかっていないな。これだから貧相なヤツは。
 夜になれば城門は閉められるし、見張りの兵士が張り付いてる。裏口から脱出するのも難しい。だが、屋上は盲点なんだ。城には特殊な結界が張ってあるから、普通はルーラの魔法やキメラの翼は使えないんだがな。それはそこ、特別な方法がある。城の人間はそのことに気付いていないから、僕が上から抜け出してるなんて知らないんだ」
 自慢気に聞いた内容以上の事まで余計に語りだす、調子のよいボンクラ王子に、エイトは腹の底から湧き上がる黒い感情を諌めつつ、にっこりと営業用の笑みを湛えた。
「チャゴス王子。大変恐縮ですが、僕、オバケ退治は専門じゃありませんよ。ここは修道士さんや神父さんが適任じゃないんですか?」
「あー、ダメだダメだ。あいつ等は全くアテにならんからな。お父様が頼んだみたいなんだけど、屋上全体に酷い怨念が篭ってしまっているから、半年は人の立ち入りを禁止するように言ってきた。全く、何のために修道士や神父をやってるんだか」
 ――少なくとも、お前のためじゃないことは確かだな。
 裏の心で吐き棄てて、エイトは人当たりのよい笑顔のまま、仲間に声を掛けた。
「じゃ、みんな明日も早いから。そろそろ休んだ方がいいよ。上に部屋を取ってあるから」
「あ、私はそうするわ。もー、今日もクタクタよ。脚がむくんじゃって大変」
 エイトから部屋の鍵を受け取ると、サッサと席を立つゼシカ嬢。ぷるりと目の前で揺れる豊満な乳に、如何にもバカ面して見入るチャゴス王子だ。この阿呆が、この先サザンビークを治めてゆくのかと思うと、国民に同情を禁じえない。
「アッシはもうちょっと飲んでゆくでゲスよ。景気の悪い話聞いたもんでゲスから、それを忘れるくらい酒に溺れて寝るでガス」
 ぶるりと、大きく身震いする図体のデカイ男に、エイトは苦笑した。
「それはいいけど、飲みすぎると明日辛いよ。ほどほどにね」
「わかってるでゲスよ。アニキ」
 舎弟として兄貴分の了解に、我が意を得たりとばかりに生き生きと酒の追加注文をするヤンガス。ククールも、ついでにと己の嗜好にあったものを頼む。
「ああ、それなら俺も。ローズ・アンジェリカをボトルで」
「――ククールも、まだここにいるの? なら、僕ももう少しいようかな」
 と言って、半端に浮かせた腰を椅子へと戻し、エイトはホットミルクを頼んだ。
「おいおい、お前相変わらずお子ちゃまだなぁ。酒を頼めよ、酒」
「別に飲みたいって思わないからさ。そういうククールはちょっと控えたほうがいいんじゃない? もう、結構赤くなってるよ」
 気遣うように優しく囁いて、赤味の増した白皙の膚に触れる。すると、普段よりも少しだけ高い体温が、手の平からじわりと伝わった。
「よっけーな世話だ」
 酔いが回ってきている自覚があったのだろう、自分の状態を見抜かれ、注意まで貰うという不本意な事態に、綺麗な綺麗な銀細工の青年は、整った面差しに険を籠めた。
「〜〜〜〜っと、待て!! お前たちッ!!」
 と、そこで完全に存在を無視されていたサザンビークの第一王位継承者である、チャゴス王子が肩を怒らせて話を割ってくる。
「なんですか、チャゴス王子」
 満面の笑みで応じる穏やかそうな人格の少年に、チャゴス王子は食って掛かった。
「なんですか、じゃないだろう! 怨霊退治の件はどうなったんだ!! ここの勘定はボクが払ってやるし、それ相応の報酬だってだしてやる!!
 何より、王家の者からの頼みだ。光栄に思って、恭しく従うのが、お前たちの務めじゃないのか!!」
 我が儘の身勝手ぶり、ここに至れり、だ。
 一体どういう教育をすれば、こういう素晴らしきバカに育つのか。
 現・サザンビーク王は大層な人格者らしいが、自分自身の後継者の躾すら満足に出来ないのかと、ほんわかとした笑顔の裏で毒を吐く。
「王子、宜しいですか?」
「なんだ? 発言を許してやるから、言ってみろ」
 ………ビキ。
 何かにヒビが入った。
 不穏な空気を肌で感じ取って、付き合い自体はそう長くも無いが、命を助けられたことによりエイトに心酔し、兄貴分として慕う男は、そっとチャゴス王子から離れた。旅の仲間のよしみで、ククールにも危険を知らせようと目配せを送るが、どうやら上質の酒についつい杯が進んだようで、酔いの回った頭には、危機を察知するだけの機能や、仲間からの気遣いに反応するだけの余力が残されていなかった。焦点を甘くさせた瞳にヤンガスは匙を投げ、ひたすら兄貴分の怒りが爆発しないように祈る。
「噂がすっかり広まった所為で、屋上は確かに閉鎖されてますが、特に見張りはいないはずですよね」
「……ああ、そうだが」
「今までも鍵のかけられた屋上の扉から何度も抜け出してたんですから、当然、扉の鍵は開けられますよね? 王子が今回の噂話を信じていないのなら、特に問題はないのでは?」
「……そっ、それは」
「それとも、サザンビークの時期国王ともあろうものが。こんなバカバカしい子ども騙しの怪談を信じているわけないですよね。偉大かつ聡明なチャゴス王子とあろうものが」
「う、うむ。当然だッ。ボクは聡明だからな。こんな話微塵も信じてはないぞ」
「なら、今回の話は無かったことに」
 爽やかに言い切る童顔の少年に、チャゴス王子は慌てて反論した。
「いっ、いや、いやいや。まてまてまて。
 あー…、ほら、アレだ。やはり、民の上に立つ者として、この現状を放っておくわけにはいかないんだ。時期国王たるもの、民を労わってやらんといけないからな」
「……ご立派な心がけですね」
 白々しい台詞に、エイトは心にもない賛辞を送った。
「うむ。そうだろう、そうだろう。だから、今晩にでも取り掛かってくれ。ほら、善は急げというだろう!?」
「――王子、何度もご説明しますが…、僕達は怨霊や死霊の類を払うことなど出来ませんよ。魔物とは違うものですから、退治と望まれましても、その方法について僕達には皆目見当もつきません」
 実態のある魔物を討伐するのとでは状況が違いすぎる。博愛の微笑みの裏に、自己愛を貫く素顔を隠す少年自身は、今回の怨霊騒ぎはタダの噂話だろうという否定的な考えだ。それに、放っておいてもアホ子の親であるサザンビークの賢王が事態を収拾させるだろうし、ワザワザ自分がしゃしゃり出る意味も無いと、全く乗り気ではない。
「何を言うか。お前はただの無能な旅の者かもしれないけど、コイツは聖堂騎士なんだろう? 幾らお前たちが無能でも、神に仕える人間なら、怨霊の一つや二つ、パパッと退治してみせるのが筋だろう!」
 高慢に言い切って、自分から左手に座る深紅の衣の騎士の、その絹糸のような銀の髪をグイと容赦無く引っ張った。
「痛ッ…、っに、すんだ…、」
 美酒に酔い痴れ、テーブルの上に肘を組んで半分寝入っていた美貌の騎士は、突然に襲い掛かる鋭い痛みに、不快感も露にボンクラ王子に食って掛かろうと――、
「な、なんだ? なにをするっ、放さないか無礼者っ!!」
 した。の、だが。
「エ、エイト?」
 繊細にて優美な銀色の流れ、その一房を握り込む王子の腕に、ギチリと第三者の指が食い込んでいた。一見肉が薄く、何処と無く男として頼り甲斐が感じられない体躯の少年だが、その実、凄まじい破壊力を秘めていることは、共に死線を潜り抜けてきた仲間がよく知っている。普段は剣や槍を好んで扱うが、必要ならばパーティ一の怪力が売りであるヤンガスの大斧や槌も軽々と振り回せるだけの腕力があるのだ。
「いたっ、いたいいたいいたいっ!!! イタイと言ってるだろう!!!」
 大袈裟に泣き叫ぶチャゴス王子は、堪らずに、指の間から見目麗しき銀糸を取り零した。それを横目で確認して、エイトはぶよぶよとした肉付きのしまりの無い腕を解放してやる。
「全く…! なんて野蛮なんだ!! これだから、下等な連中は!!!」
 まだ酷い痺れを残す左腕には、掴まれた痕が真っ赤に浮き上がっていた。痛みを残すその場所に、フゥフゥと息を吹きかけながら、小太りの王子は癇癪を起こした。
「お前!! このボクにこんな乱暴を働いていいと思ってるのか!!! 無礼者め、手打ちにしてやるからなッ!!!」
 赤ら顔を怒りで更に沸騰させながら、チャゴスは椅子から降りて地団駄を踏む。面倒な事になったと溜息を吐くククールと、如何な状況であろうともアニキ命の、厳つい図体からは想像もつかない程に忠実な舎弟の、心配そうな視線を平然と受け止めて、エイトは晴れやかに微笑んだ。
「お前、ちょっとツラ貸せ」
「………は?」
 人は、予測もつかない事態に直面すると思考が止まってしまうものらしい。如何に、不測の事態に迅速に対応出来るかが、その人間の、種としての生存本能の優劣を見分ける一因となるらしいが、そうすると、目の前で完全に固まってしまっている贅肉だるまは、下の下の下。野生に放り出されれば、ものの数分で捕食者の餌となる典型的な弱者だろう。
「ククール、ヤンガス。ちょっと裏でこのボンクラ王子と話してくるね」
 ガッシ、と有無を言わせぬ力でバカ王子の首根っこを押さえ込み、エイトは大切な旅の仲間にヒラヒラと手を振る。
「お、…おう」
「アッ、アニキ。一応、そのガキは王子なんでゲスから、お、穏便に…」
 及び腰で何とかそれだけをやっと口にするヤンガスに、エイトは高原を吹き抜ける皐月の風のような、爽やかな笑顔で応じた。
「大丈夫。バレないようにするから」



「………なぁ」
「なんでゲスか」
 数分後、楽しげに騒ぎ立てる盛り場の一角で、まるで生気の失せた青年と、男が二人。
「今までも、なんとなーく、そうじゃねーかって思ってたけどよ」
「……なんでゲス」
 左手で可憐な桜色を反射する液体を満たしたグラスを弄びながら、深紅の騎士は、山賊くずれの強面の男に艶めいた蒼の視線を流す。パルミドという掃き溜めで親に捨てられ孤児として育っただけあり、決して他人に誇れるような人生では無いが、基本的に人情家で真っ当な性質の男だけあって、抗いがたき色香を含む魅惑の眼差しにも、全く動じないヤンガスは、無愛想な面構えで質問を促した。
「エイトのヤツ、実は、相当イイ性格だろ?」
「……アニキのことに関しては、アッシはノーコメントでガス」
「オーケィ、その答えで充分だ」
 人畜無害そうな顔をして、なかなか油断がならない奴だと、とククールは関心を持つ。平和な片田舎の、世間知らずの坊ちゃん近衛兵という印象が、ここに至って、完全に覆った。そういえば、と思い起こされるのは騎士団長の男とエイトの遣り取り。聖堂騎士団の団長殿は、あの通りの性格なだけに、その周囲に群がる人間といえば――彼にただ心酔し盲従するか、その実力を嫉んで完全に敵対するか、ひたすら媚び諂いその恩恵にあやかろうと考える下衆ばかりだ。それなのに、修道院を旅立つあの日、団長室へ呼び出された少年はただ静かにマルチェロの一言一句を受け止めていた。そして去り際に悠々とヤツに礼まで言ってのけていた。
 あの時は修道院から体よく追い払われた怒りに我を忘れていて、周囲が見えていなかったが。そういえばエイトは、兄貴――聖堂騎士団の団長殿に向かい、何と言ったのだろうと、今更ながらの疑問に清楚な美しさの月雫の麗人は、首を捻った。
「なぁ、ヤンガス」
「? なんでゲス? アッシは何があってもアニキの味方でゲスよ」
「ああ、それはもういいんだって。じゃなくてさ、エイトの奴、あに――マルチェロ団長に世界地図を貰ったときに、何て言ったか覚えてるか?」
「そんな昔のことを聞かれても、覚えてないでゲス。確か、普通にありがとうって言ってたでガスよ。ああ…でも、ちょっとオカシナ事言ってたでゲスね」
「おかしな事? なんだよ」
「今なんか思い出したでゲスよ。『アナタに頂いたものは全て、僕が大事にします。ありがとう、団長殿』とかいうよーなニュアンスだったでガスよ。あのイヤミが寄越したのは世界地図一つでゲスし、何か他にも貰ったような口ぶりだったんで、変だなとはその時思ってたんでゲスがね」
 己自身をバカだと称する山賊崩れの男は、しかし存外、目端が利くようだ。給仕の女性に追加で注文した骨付き肉を豪快に齧り付きながら、そう答えた。
「ふぅん?」
 何処までも自己の利を計算し尽くして行動するマルチェロが、金も権威も無い一介の旅人にそこまで肩入れしてやるはずもない。別に、修道院からエイトに贈られたものなんて――と、ある事実に思い当たり、ククールは目を丸くした。



 柔和な態度と、一見地味な装いで判りにくいが、意外に整った顔立ちの少年に連れられて戻ってきたチャゴス王子は、まるで借りてきた猫のようにすっかり大人しくなっていた。
 一体何があったのだろうと恐ろしさに震えるヤンガスと、この大ペテン師めと眇めた視線を寄越すククールに向かい、エイトは実に意外な一言を放った。
「とりあえず、今晩だけ城の屋上で様子を見ることにしたから」
「は?」
「…って、アニキちゃんと話を聞いてたでゲスかっ!? あの城の屋上には怨霊が憑り依いてるんですぜ。幾らアニキでも、そんなもん相手にするなんて無謀でガス!!」
 ずんぐりとした体をコミカルに左右に振り、大袈裟な身振り手振りまで加えて兄貴分の身を心配するヤンガスに、エイトはのほほんと答えた。
「大丈夫だよ。ついて来いなんて言わないから」
 チャゴス王子の平坦な語り口だけで、あれだけ脅えていたヤンガスに、問題の心霊スポットに供をさせる気は毛頭無かった。流石にそれは穀というものだ。
「――え、でっ、でもそれじゃ、アッシを抜かした三人で行くんでガスか?」
 あからさまな安堵の表情を浮かべる目付きと体格は悪いが、存外気が小さく人情家なところがご愛嬌である男は、そう口にした。すると、静かにエイトは否定する。
「僕、一人で行ってくるよ。別に魔物退治ってワケでもないし、大丈夫。それじゃ、二人とも程ほどにして部屋に戻りなね」
「ちょっ…、アニ…ッ!」
「待てよ、エイト」
 幾らなんでも得体の知れない化け物相手にたった一人では心許無さ過ぎる。恐怖心をなんとか捻じ伏せて、慌てて後を追おうとしたヤンガスは、一足先に目の前を横切った赤い影にお株を奪われてしまった。
「? ククール?」
「…俺も行く。俺は修道士じゃねーけど、祈りの文句も一通り諳んじてる。何かの役に立つだろーよ」
「そっか。ありがと」
 心底から嬉しそうに微笑まれて、その無邪気さにククールは顔を顰めた。こんな風に――世界の裏側、汚れた部分なんて何一つ知らずに育ちましたとばかりに呑気な面で構えているくせに、その実酸いも甘いも噛み分けて、必要とあらば笑顔で他者を切り捨てるなんて、詐欺もいいところだ。このカマトト純情坊ちゃんと違い、本当に世間知らずなあの姫は、この少年の二面性など想像もしないのだろう。
(……兄貴に正面切って喧嘩売るなんざ、いい性格してるよな。ホント)
 深紅の衣を纏った聖堂騎士にゴチャゴチャと心の中で文句を付けられていることなぞ、露知らず。エイトはヤンガスに言付けを頼む。
「じゃ、行ってくるから。ゼシカには事情を説明しておいてくれるかな。後、今夜は徹夜になるから、明日までここに泊まりだね。いい?」
「了解でゲスよ。ちゃんとゼシカに伝えておくでゲス」
「うん。じゃ、行ってくるね」
 にこやかに手を振る幼な顔の少年は、未だ顔色を悪くしたままの王子に向き直り、ワザとらしく馬鹿丁寧な動作で礼をとった。
「それでは、参りましょうか? チャゴス王子」



会談モノですね。怖い話は結構好きです♪
後半もいずれかきます


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