心臓が軋むほどの全速力でその場を離れ――酷い焦燥感と共に、冷えた夜を駆け抜けた。
混乱の余り、聖水の効果がとうの昔に切れてしまっているのを失念していた。そうと気付いた時には、先刻の虐殺の跡に充満する血臭に興奮した怪物の、狂撃が眼前に迫っていた。咄嗟に移動飛行の魔法を唱え難を逃れたものの、明確な目的地すら無く発動させた移動術は半端に途切れ、中空に投げ出されてしまう。慌てふためく暇にも黒々とした地上は迫り、次の瞬間、ほぼ無意識に思い浮かべた場所へ再度、魔力を発動させた。
マイエラの下に
「………」
満点の星が煌めく夜は、此方の心情などお構いなしで、今日も美しい。
遠くで羽虫の鈴なりが聴こえ、近い水音に、真紅の衣を纏う修道騎士は、亡羊としたままで半身を起こした。
「……ッ、テェ…」
着地を失敗した所為で、左足を派手に捻り、そのまま肩を強打した。動作で、痛みがダイレクトに響く。やってらんねぇ、と口中でボヤき、回復魔法を自身に施しながら、周囲を見渡した。
「……」
細く描かれた三日月を伴い、修道騎士の姿見が刻まれる意匠を凝らしたステンドグラスが、闇の中、内部からの光で荘厳に浮かび上がる。
余りの出来過ぎな展開に、擢んでた美貌と騎士として能力で、良くも悪くも人を惹きつける銀細工のような繊細な風貌の青年は、肩を竦め、誰とも無しに悪態を吐いた。
「…はッ。無意識に飛んでココかよ。
――胸クソ悪ぃ」
ご立派でお綺麗なのは体面だけで、蓋を開けてみれば、蛆虫どもの掃き溜めだ。
それでも、なんの後ろ盾も力無いただの憐れなガキ一匹が、飢えずにその日を凌ぐ為には、こんな胸糞悪い場所でも、世話になるしかなかった。
どんなにか、この虚飾と欺瞞に満ちた世界から飛び立つ事を願ったことか。
(………)
橋の手摺を支えに、ゆっくりと軋む身体を起こす。
立ち上がり夜を仰げば、満天の星空の輝きが降り注いでいた。
「………」
夜間は完全に閉ざされる修道院の重厚な門の向こうから、かすかに、饗宴の騒々しさが漏れ、随分な呆けぶりだと見目麗しき白銀の修道騎士は嘆息した。
「…ここの連中、兄貴が行方不明だってのに――」
思わず呟いてから、しかし、直ぐに己自身で考えを改める。
寧ろ、行方不明だからこそか、と。
辛うじて均衡を保っているものの、法と秩序が乱れ、混乱した情報が錯綜する今。理性のタガが外れ己の欲望を満たす為だけに走る輩が出たとしても、それは、決して特異な状況ではなく、自然の成り行きだ。
「…くだらねぇ…」
人間など、矮小で醜悪で小賢しく、実に取るに足らない。
人類の力の遥かに及ばぬ圧倒的な存在が、ひとたび立ち塞がれば、容易く欣司を折る。
そんな、屑ばかりを見てきた。
それが、人であるのだと――。
(アイツは――違ったけど、な)
ふ、と知らず口許に自嘲とも苦渋ともつかぬ笑みが浮かんだ。
底抜けに人がいいかと思えば、容赦なく他者を断罪する。呆れる程に慈悲深いかと思えば、全てを斬り捨てる冷徹な眼差しで、救いを求める者を安易に見限る。
完全に不安定な、歪に優しい、ご立派な好青年さま。
「……アイツ、ワケわかんねー…」
欄干に腕を縋らせたまま、ククールはずるずると腰を落とした。
此方を好きだと愛していると公言して憚らず、傲慢なまでの独占欲で縛り付けるクセに、本気で怒鳴り散らせば、悲しそうに落ち込む。知らぬうちにオンナを引っ掛けてくれば、何も口を挟まないくせに、切なそうに表情を曇らせる。
確かに、人道的な考え方からすれば、毎夜異なる女性と放蕩に耽れるのは決して美徳とは言えない。だがそれを、何故ただの旅の仲間である少年に、無言の重圧で責められねばならぬのか。その必然は無いはずなの――だが。
(……みょーに、罪悪感を感じるんだよな…)
お陰で、最近は女性と姿を晦ませる事は殆ど無くなった。また、そうあったとしても以前よりも随分早めに時間を切り上げて戻るように心掛けている。
それなのに――。
此方が、余りに好きだ好きだと煩く付きまとってくる腹黒駄犬に、しっかり流されてしまっているのにも関わらず、だ。
「あのバカッ…。
くっそ、今度俺の事好きだとか、ぬけぬけとぬかしやがったら、グランドクロス見舞ってやる」
厚顔無恥にも程がある。
あれ程、無尽蔵に愛を囁いておきながら、此方の行動を縛っておきながら。自分自身は、よりにもよって――。
(…マジで、何考えてンだか…)
アイツと、だなんて。
アイツに、だなんて。
(………むかむかする…)
負の感情が胸の奥で行き場を失くしてぐるぐると渦を巻く。
分からない、知らない。
こんな不安と不信と不満だらけの、醜く捩れて複雑に絡まるだけの不安定な想いなんて。
(…そういや――あの時も、こんな感じだったな)
小気味良い小川のせせらぎ、澱み無い清き水の流れを橋の上から見下ろし、夜の水面にも一層美しく映える銀糸の髪の聖堂騎士はありし日を思い起こす。
まどろみの終焉、そして、皮肉な運命の幕開け。
不安を抱えて修道院のドアを叩いたあの日。
全ての命に等しく慈愛と祝福を謳うと陳腐な文句で、信者から莫大な寄付金を掻き集める、欲の亡者共は、貧相なガキに見向きもしなかった。
誰もが面倒を避け、修道院に迷い込んだ憐れな魂を黙殺していたのだ。
ある意味、隣人を愛せと説く、神の使徒の正しき姿とも言えるのだろう。
彼等は呆れる程に、己が心の中の欲望と言う名の隣人に普遍の愛を捧げているのだから。
『どうかしたのかい?』
優しい声。
『そうか。君も一人なんだね』
気遣う言葉。
『大丈夫。これからは、僕達が家族だ』
真っ直ぐな瞳。
『君の名前は?』
迷い無く差し出された手。
「……ク、ククール、」
『――…ッ、!!』
それは、ひとが憎悪に染まる瞬間、だった。
「……何か用かよ」
真紅の聖堂騎士の名は伊達じゃない。華奢な容姿や優雅な物腰から、一見ただのお綺麗な象徴のように認識されがちだが、清廉なる銀麗の輝きの青年は――聖堂騎士でも、屈指の強さを誇る。高等な治癒魔法や上位の真空魔法まで使役する能力を考慮すれば、おそらく、騎士団でも、一、二を争う腕前だ。
普段の在り様からは想像し難いが、油断無き彼の背後を取るのは、屈強なる戦士であろうとも至難の技。相手に、気配を消す気が無いとあっては余計に――だ。
「うん。追っかけてきたんだ」
最初から事を隠そうともしない潔さには、最早、怒りも通り越してしまう。さりとて、全てに得心がいった訳でも無く、ククールは無言で微かに揺れて映りこむ水面の月を見つめた。
「…ククール。怒ってる?」
戸惑う口調に悲しそうな色が滲む。
平素ならば、無防備に近付いて、無遠慮に踏み込んで、此方の都合などお構いなしで。
それなのに――、ほんの少しの距離。
後、一歩で伸ばした腕が届く。
そんな位置で、律儀に、立ち止まる。
「…ンで、俺が怒るんだよ」
何故だが、先ほどとは明らかに質の違う腹立たしさに、自然、声が低くなるのを自覚して。しかし、やはり理由が思い当たらずに困惑ばかりが募る。
「怒ってないならいいんだ。
でも、ちゃんと謝らせて欲しくて。
――黙ってて、ゴメン」
「…別にッ…! ……別に。俺には、関係ねーし。謝ってもらう事なんて、ねーよ」
一瞬激昂しそうになった自分自身を叱咤しつつ、儚き煌きの硝子細工のような美しさの造作の麗しの聖堂騎士は、更に、声を詰めた。
「ククール」
「ンだよ」
「本当に、関係無いと思ってるんだね?」
「……ッ、と、うぜん、だろ。知ったこっちゃねーよ」
切なそうに、声が震えるのを感じ取り。こーの、意地っ張り、とエイトは肩を竦める。お互いに持て余す程の強い感情で惹かれ合っているにも関わらず、夫々の確執ある生い立ちや、骨の髄まで腐敗し切った大人達の私欲の思惑によって、引き裂かれた兄弟。
ある意味、彼等二人は等しく――この歪んだ世界の被害者であるのだろう。
「フーン。それならいいんだ。
じゃ、俺、今から団長殿にツッこんでくるね」
「はぁっ!!?」
それまでの深刻な雰囲気は何処へやら、余りにぶっ飛んだ発言に、ククールはエイトを振り返って素っ頓狂な声を上げた。
「ん? だから、ダンチョーを犯してくるねって話。朝までには戻るけど、一発じゃ終わんないと思うな。
ああ、なんならククールも来る? 俺、二人纏めてでも満足させてやれるゼ?」
「〜〜〜ッ、ま、っ。ちょ、、、待て!」
内面の黒さなど微塵も感じさせない満開の笑顔で、物凄い事を口走るパーティのリーダーを務めるあどけなさを残す少年に、美貌の聖堂騎士は完全に混乱した。
「ん? 何?」
「…や。え…――、や。ちょっと待て。うん。
エイト、お前、マジであに――、アイツに惚れてンのか?」
女性とみれば見境無く口説きまわる百戦錬磨の愛の伝道師は、殊に、真面目な色恋の話となると急に余裕を無くすようで、妙に緊張した面持ちで、少年を問い質した。
すると、皐月晴れの雲ひとつ無い高く吹き抜ける空のように、
「やだなァ。惚れてなきゃ、なーんで、俺が、あんな剃り込みM時ハゲの何処でもイヤミになんざ押し倒さなきゃなんないのさ」
と、それはもう、ひたすら爽やかに言い放った。
「………」
ぐらっ、と眩暈を覚えて、思わずその場にへたり込みそうになるのを、なんとか堪えるククールだ。
以下、ククールが立ち直るまでの五秒間の思考となる。
ちょっと待てお前。いや、本当に待て。なんでそんなに被害者口調なんだ。っていうか、イヤなら押し倒さなきゃいいじゃないか。誰もそんなこと頼んでないだろうに。勝手に襲い掛かって犯ろーとした上に、この言い草はどうなんだ。いや、こんな暴言を吐く時点で、もう好きだとかいう感情じゃないのじゃないか。や、でも、コイツは少し一般規格から外れているというか、突出してるというか、平たく言うと変人だから、そういうものかもしれないが。しかし、そんな横暴な理由で強制SEXするからって、それを更に俺を誘うってのはどうなんだ。大体、俺に好きだとか愛してるとか言いまくってるのは、どーなったんだ。そうだ、その辺りを突っ込めば、こいつも正気に返るかもしれねェ。
「…エイト」
「ん〜? さっきから、どーしたのさ。
来ないなら、俺一人で行くよ。朝までたっぷりねっぷり時間をかけて犯りたいし」
「――その事について、確認なんだがな」
「うん?」
ちょこん、と小首を傾げて、くりくりとつぶらな黒無垢の瞳で見上げてくる姿は、まるでハムスターのような愛らしさがある。こんなナリで、兇悪無比の性格をしているのだから、本当にタチが悪い。小悪魔だとかいうレベルじゃない。魔王だ。いや、覇王か。
「俺に、――っ」
言いかけて、口に出す台詞の恥ずかしさを今更自覚して、真紅の衣が夜に映える憂いの聖堂騎士は、戸惑いと共に頬を微かに染めた。
――自分の事が好きなのじゃなかったのか、などと。
まるで、恋人に浮気現場を取り押さええて騒ぎ立てる小娘のような言い草だ。
「…アイツに惚れてるってンなら、好きにすればイイけどよ。
もう二度と俺に好きだのなんだのって言ってくるなよ。ホンキでねーのに、そーゆーこと言われて纏わりつかれたんじゃ、俺を待つ世界のレディに誤解されかねないからな」
少し、考えてから言い方を変える。
すると、乳臭さの抜けない顔立ちが妙に年上受けする極悪な剣士は、心外だと言わんばかりにむくれた。そんな姿も逐一可愛らしいのだから、それがまた何故だか腹立たしい。
「ヤダよ。俺はマルチェロを抱きたいけど、ククールにだって、ヤラシーことしたいよ?」
「…性欲処理ならゴメンだな」
どういう言い草だと、肩を竦めてククールは鼻で嗤った。
「だーから、そういうんじゃ無いって…」
「そーいうんじゃなきゃどういうつもりだよ! お前はアイツの事がヤリたい程好きなんだろ? その上、俺ともヤりてーなんざ、ただの物好きな好色家が色恋を言い訳にしてるだけにしか考えられねーなッ!!」
「――…」
語気を荒くして強い口調で言い返すククールに、エイトは思わず息を――呑んだ。
そして、真っ直ぐに見つめる穢れの無い黒真珠の眼に、微かな、潤み。
「な、なんだよ…」
痛みを堪えるように逸らされた眼差しに、後ろめたさを感じ、ククールは狼狽した。
「…そう、なんだ」
「? 何が――…」
しかし、即座に一瞬でも腹黒魔人に同情した己自身の甘さを後悔する事になった。
「放せッ! バカヤロウ!! 死ね! 変態!! クソハゲ!!!」
「やーだなァ。ハゲはマルチェロだろ。
てーか、いい加減覚悟キメたら? 心配すんなって。俺、巧いから」
「ざッ…けんな!! なんで俺が男に突っ込まれなきゃなんねーんだ!!!」
「どーせ、マルチェロ辺りに味見されてンだろ? 今更ジタバタすんなよ」
「……ッ!」
図星だったのか、さぁっと木蓮の花のように白い膚に朱が挿す。
ある程度予測はしていたが、その事実を突きつけられるのは、やはりいい気はしない。
品良く技巧を凝らした寝台の上に、騎士としては随分華奢な肢体を組み伏せながら、人として大きく踏み外した行為に及ぼうとする少年は、どーしてやろうかと、不穏な思考を廻らせた。
「まァ、後ろは久々なんだろ。
取り合えず、フツーにワンラウンドした後で――」
普段はこの歪みまくった性格をどうやって隠し持っているのか、ドス黒い笑顔で、
「調教にはいろーか」
それはもう、何処からかマニアックな道具を次々と取り出して、朗らかに宣言した。
「ちょ、ちょうきょお……!? なに考えてんだ、お前!!」
「何って、ククールとナニする事に決まってんじゃん」
「〜〜〜!!!」
余りの展開に、被害者は最早理解力がついていかない。
あれから――。
そう、マイエラ寺院の正面の橋の上での遣り取りから。
笑顔でキレたエイトに有無を言わさず抱えられ、こともあろうか、主人不在の聖堂騎士団長の寝室に連れ込まれ、混乱の隙をつかれて――麻痺毒を仕込まれた。
相手の自由を奪って性的な乱暴を働くなど、男の風上にも置けないヤツのする事だ。
最低の最低の更に最低だ。
更に言えば、ここは、団長の寝室――ベッドの上。
よりにもよってこんな処で。
せめて他に場所もあるだろうに。
絶対、ワザとここを選んだに違いないと。銀灰色の輝きの潔白な眼差しに、情欲をそそる凄烈な色香をくゆらせながら、月の雫のように麗しい騎士は、己を力ずくで征服する雄を必死で拒絶した。
「ふざけんな!! 退けって言ってンだろ! この色魔! 変質者!! ホモヤロウ!!」
「ホモは酷いなー、ホモは。
俺は男が好きなんじゃなくて――ククールが好きなんだけど?」
「さっき、マルチェロのヤツを押し倒してただろーがッ!!」
「ああ、そーだね。じゃ、訂正。ククールとマルチェロに惚れてるだけなんだけど?」
外面ばかり取り繕った少年の、悪びれもしない言い草が憎らしい事この上無い。これだけ腹黒い男が、どうしてトロンデーンの王族に気に入られいるのか、永遠の謎だ。脅迫されて無理に優遇させられていると言われた方が、余程得心がゆく。
「そんなにイヤなら抵抗してイイんだゼ。ク・クー・ル。
まー、身体に力入らないだろーし。封魔術(がかかってるから。無駄だろーけど?」
「…ッ!」
そう――。
通常の聖堂騎士は、武の技術こそ、その誰もが素晴らしい資質の持ち主ではあるが。蘇生術とまで言われる高等回復魔法や、神風と呼ばれる上位真空魔法まで使役可能な者は、極僅かだ。その、稀有なる存在でも、特に優秀な者に鮮やかな真紅の衣が贈られる。
名誉の色彩にて己の価値を内外へ知らしめる麗しき風貌の騎士――ククールにかかれば、幾ら四肢の自由を奪おうとも、その天の寵愛を受けた魔力で敵を打ち倒す事など容易い。
だが、それすら封じられては――。
手も足も出ない、とは、正に現状を的確に言い表す言葉だ。
「さ、て…――と」
ぷち。
自堕落で開放的な性格とは真逆に、襟元まで着込まれた聖堂騎士の正装に手を掛ける。
「ばッ…! さてと、じゃねーだろ! 脱がしてんじゃねーよッ!! この、腹黒二重人格ヤロウ!!!」
「やーだなー。脱がさないとSEX出来ないだろ?
あ。もしかして、着衣のが燃えるとか? なら、ククールの意思を尊重してもいいけど」
半端脱衣なんて無理やりって感じがして、エロいしねー、と。
空恐ろしい事を実に無邪気に口走る、笑顔が爽やかにドス黒い少年に、まるで悪魔の祭壇に捧げられた生贄のような心地を味わう芳る美貌の聖堂騎士。
「キス――は、しない。
俺の言葉、信じてないしね」
「……? エイ…」
肉食の野生に捕食されるだけの哀れな獲物の着衣を乱しながら、翳りを帯びた闇色の眼差しが、胸の奥に押し遣られた想いに微かに揺れた。
「だからもういいんだ。
抱いて――俺のモノにするって決めたから」
「ちょッ…! ちょっと待て! なんで、そーなるんだッ!!」
世間の目を見事に欺く、朗らか清らか爽やかの三拍子揃ったトロンデーンの少年剣士は、晴れやかな笑顔でそう宣言した。
『リ・ルーラ』
月の小路の渡りである敷石を乱暴に踏み鳴らし、笑顔で怒りの様子を隠そうともしない客人は、静謐なる音と時の世界を司る麗人に、開口一番。
「ふざけンな。このひょろ青ストーカー」
「おやおや、余りな言い草ですね。竜の王(」
美しい造詣のハープの爪弾きを留めぬまま、イリュマウリは楚々たる笑みに口角を微かに持ち上げる。
「いいから、ククールを寄越せ?」
瘴気と見紛うばかりに煮詰められたドス黒いオーラが、近衛を名乗るには幼く頼りない印象を与える少年の背後から、凄まじい勢いで立ち昇っていた。
――その手には、鈍く蒼の輝きを反射するメタルウィングのツバサが、飛び立つ瞬間を今か今かと待ち望む。時の狭間、人の世に常に寄り添いながらも決してその流れに交わる事の無い、永劫の孤独を歩む瑠璃の麗人は、ゆうるりと首を振る。
「お断りいたしますよ」
「……へーぇ」
純真無垢の装いを全て取り払った少年の背後から立ち上る気配が、一段と闇を増した。
「それに今なら、真紅の装いの麗しき御仁をこのまま略奪するよりも、もっと面白いものが見れますから。邪魔をするのは無粋というものでしょう」
「…面白いもの?」
俗世の機微に疎い月の護人の台詞にしては、妙に含みを持たせた物言いであり。そのらしくなさに興味をひかれたエイトは武装を解いた。
「ええ、面白いものです」
イシュウマウリの微笑みが妙に胡散臭く感じられ、冷酷非情の悪鬼の形相を人好きする笑顔の仮面で巧みに隠して過ごす少年は、鷹揚な態度で腕を組む。
そして――、
「ああ、…確かに、面白いかもなッ!」
不遜な捨て台詞と共に、身軽に背後へ飛びのいた。
「……フン。避けたか」
「なんだよ。俺に逢えなくて寂しかったからって、お出迎えか?
そんなに焦らなくても、たっぷり後から可愛がってやるぜ?」
「…貴様のその沸いた脳をブチ撒けてやる!」
小型の携帯用ではあるが、十分な殺傷能力を有する白刃のナイフが、ヒュ、と風を切る。
「んー、熱烈告白。愛してるゼ、マルチェロ」
メタルウィングは腰に下げなおし、ライトシャムシールで打ち付ける刃を受け流すエイトは、余裕綽々の態度で殺意の籠った攻撃を加えてくる、堕天の法王に愛を捧げた。
「…その戯言ばかりの声、潰してやろうか」
厚顔無恥を地でゆく不敵な少年に、誇り高き法の王は青筋を立て怒りを顕にした。
「いいゼ。そのキレた顔、ゾクゾクする。
けど、すこーしおイタが過ぎるよなァ。きつーく躾をしてやんないと」
月黄泉を護る主に眉を顰められる結果を避けるべく使用を控えていたメタルウィングのツバサを取り出し、右手で重い一撃を受け止めながら、左で器用にそれを放る。
案の定、無節操に世界を切り裂く鋼鉄のツバサに、肩を竦めて嘆く護人を意識から除外し、視線の端で放物線を描く投具の行方を追う。
「くだらんッ!」
しかし、仮にも武と勇に名を馳せた聖堂騎士団の頂点に君臨していた男が、見え透いた攻撃に遅れを取るはずもなく、背後に迫る刃翼を一閃にて弾き返した。
「さッすが、だんちょー、サ・マ。イカスぅ」
かつては辺境の牧歌国のただの一近衛でしかなかったが、今や、世界を席巻する脅威に先陣切って立ち向かう果敢なる勇者の立場である少年とて、所詮、様子見程度として加えた攻撃だ。ワザとらしく揶揄る口調には、余裕が滲んでいた。無作為に周囲を破壊するブーメランでの攻撃は、今回の件を謀った蒼の月人への意趣返しの意味合いもあった。
――…しかし、事態は思わぬ方向へと転がる。
「! ククール!!」
さして殺気も篭らぬ、戯れ同然で投げたメタルウィングは労せずにあらぬ方向へと弾かれ飛んだ。そこまでは良い。特に問題も無い。予測の範疇の展開だ。
その、蒼く不気味な輝きを増して回転するツバサの切っ先が、愛しき人の喉元を引き裂かんとばかりに一直線に向ってゆくのは、完全に、完璧に、想定の範囲外。
――それはもう、反射的にとしか言いようの無い、反応だった。
「ッ…」
無闇に周囲を切り裂く刃のツバサを撃ち落す間も、兇刃に晒される愛しき存在を安全な場所へと引き寄せる間も、皆無であった。
残された唯一の選択肢を実現出来た事に安堵し、エイトは痛みに震える吐息を零す。
背中から――それこそ、ツバサのようにして、月黄泉の世界に満ちる蒼の光晶を反射して煌く片翼。その、付け根からはとめど無く溢れる朱色が、影の映らぬ床をしとどに濡らした。
「ばっ…、なにやってンだ! エイト!」
一瞬の出来事に呆けてみせた真紅の騎士は、美貌の面を乱し、己を庇い深手を負った少年に――未だ、感覚の戻らぬ指先で治癒術を施した。
「…チッ」
場の流れに興を殺がれた強欲なまでの野心家である男は、小さく舌打ちし、武器を収めた。そうして、普段からの全てを侮蔑する傲慢な態度で護人の部屋を後にする。
「全く、散々暴れまわったと思えば。今度は、夥しい血で私の世界を穢してくださる。
本当に迷惑なことこの上ない客人ですね」
唯一、時の流れにも人の理にも縛られぬ狭間の主だけが、悠々と事態を受け止めていた。
「…る、っさいぞ」
自身でも治癒の魔法を唱えながら、エイトは口の減らぬ蒼の麗人を肩越しに睨み付ける。
「この世界で魔法は余り効果がありませんよ。
――まぁ、だからといってその傷で外界へ出れば失血のショックで亡くなるでしょうね」
「…セーカク悪いな。お前」
「貴方に言われるとは、心外ですね」
はぁ、とこれ見よがしに溜息を吐き、イシュマウリは、遠く、高く、世界を支配する音色を爪弾く。癒しの響き、贖罪の声。拍動と共に苦痛を訴える傷口は、心地よい熱を孕んで流血は瞬く間に収まった。
『リ・ルーラ』
そうして、聴き慣れぬ呪文を謳えば、少年の背に深々と突き刺さった翼刃がカランと軽い音を立て、血塗れた姿で床に落ちる。
「――…」
初めて目にする物質転移の魔法に、驚きを隠せぬ様子のククールとは裏腹に、エイトはやけに得心した様子で。
「ふーん。これでククールを掻っ攫った訳だ?」
と、微妙に腹黒さを滲ませた台詞を口にする。
「ええ、そうですよ」
そんな見た目と内面の絶妙なアンバランスさがいっそ魅惑的な、俺様な来訪者の様子を歯牙にもかけず、イリュマウリは蒼白なままで癒しの術を行使し続ける真紅の騎士に蕩けるように優しく語った。
「さて、後は半刻程で傷が癒えます。外界へ出れば多少痛むでしょうが、まず死ぬ事はありませんから。――そのようなお顔はお止めなさい。美しいお客人。今回の事は、竜の王(の自業自得です。貴方が、お心を悼める事はありませんよ」
「…うっわ。ホンキでヤな奴だな。お前」
己が放った凶器のツバサが抉った傷口はまだ苦痛を訴えるだろうに、あくまで余裕のスタイルに毒舌を崩さぬ強情さは、最早、賞賛に値する。
「ま、そーゆートコもキライじゃねーけど」
喉の奥でくぐもった笑いを響かせ、エイトはそこで初めて真正面から、白蓮の華のように美しい聖堂騎士を見つめた。
「何にしても、ククールに当たらなくて良かった」
「…バカか、お前!! 他人の心配してる場合かよ!!」
「あー、でも、まぁ」
「……?」
癒しの力で淡く発光する掌を左手で握りこみ、フォーマルな騎士手袋の上から、恭しく接吻けた。
「ククールが無事でよかった」
「……ッ」
かぁっ、と。
殆ど日に焼ける事の無い白皙の膚が、その肢体を覆う衣に負けぬ鮮やかな朱色に染まる。数多の女性相手に色恋で慣らした色男も、自分が口説かれ愛を囁かれる立場にされると、何時ものように己の流れが掴めずに、躊躇えてしまうようだ。
結局――その、憎まれ口しか叩かない艶かしい唇からは、
「黙れよ。怪我人のクセに」
という、照れ隠しのぶっきらぼうな言葉が返されただけだった。
エイト様は最低です
そんな最強最悪最低の少年の野望は
聖堂騎士団の兄弟をてごめることです
・・・うん、最低ですね(にこ)
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