片恋 10
医療棟の中庭で男同士の話を終え、有事には背中を預けるだけの信頼に値する部下でもあり、心を砕く仲間でもある赤毛の少年と別れた隊長――最も若手のインペリアルナイツであるウェイン・クルーズは、想い人の姿を求めて施設の受付へ足を向けた。
(……ちょっと話し込んじゃったな)
尊敬と憧憬の対象である最古参のナイツは、その知的で冷静な美貌とは裏腹に、意外にも子どもっぽいというか、悪戯好きな処がある。その彼に手渡された謎の小瓶の正体についてハンスに聞き入っていたら、随分と時間が過ぎてしまっていた。
(………うぅ、思い出したら、恥ずかしくなってきた…)
問題の薬を服の上から押さえこみ、ウェインは先刻の愚考を思い起こし、余りの羞恥に消え入りたい心地となった。己の無知が、今更ながらに悔やまれる。どうせ、このようなモノを渡すのならば、その用途についてまでしっかりと教えてくれれば良いものを、と憧れの先輩に検討違いな八つ当たりまでしてしまう。
(…あの反応…、カーマインさんは分かってるんだよな……、コレのこと…)
軍部の一部に流用している、門外不出の一品。実際に出回っているのは上層部だが、その破壊的効能から下位仕官にまで大きく噂となっているソレだ。主にバーンシュタインで流れている物とはいえ、国家間の親善大使の役割も担っているカーマインが、それらを耳にしていても決して不自然ではない。
(…うわ…、もう俺…間抜け過ぎて、顔向け出来ない……)
性的な意味合いの対象となる愛しい人を相手取り、あの体たらく。この気恥ずかしさや気まずさを、どう表現すれば良いものか。唯一の救いは、救世の英雄たる青年が、少年の無垢さを受け入れ、敢えて事に触れないでいてくれたことか。
(しかもこれ…、使えってコトだよな……。使う…、………、――ッ)
その手合いの知識に乏しく、肉体的な欲望にも淡白で、また、そうであるが故により一層純粋に己を昂め続けナイツの称号に足る実力を手に入れた淡い黒髪の少年は、一人、邪な想像に赤面した。
(――…、そ、りゃ…、そういうことしたいって気持ちがないって言えばウソになるけど。けど、……そんなっ、急に…――)
純情が服を着て歩いているようなお子様にしてみれば、キスまで漕ぎ着けただけでも結果は上々だ。ただの、隣国の新米ナイツという立場から、随分と順位を上げられた気がする。これ以上を望むというのは、欲が深すぎるというものだ。また、今度の機会にでも――と、己の思考に一筋の疑惑が浮かぶ。
「……今度、か」
お互いに多忙の身だ。戦時下とは違い、戦で果てる可能性は低くあるものの、それでも、互いに国や民を護る騎士である以上――常に、その覚悟は出来ている。何時なんどき、命を落とすとも知れない戦いの道を選んだ事に一切の曇りも後悔も無い。仲間との切磋琢磨によって鍛え抜かれた武により、人々の笑顔を護る己の生き様に誇りさえ感じている。
「………今度は、何時――逢えるかな…」
武力だけでは模索出来ぬ道もあると、自ら刀を置き捨て、政(まつりごと)から国と民を導くべく歩みを進めた親友の、重き言葉が胸に響いて、自然に俯いてしまう。
後悔は――苦いものだから。
己自身について多くを語りたがらない優秀な親友は、人当たり好く、如才無く何事もこなし、その才能をやっかむ人間すら手玉に取り操ってしまう。そんな彼が、告げた――本心からの苦言だけに、心に残らぬはずは無い。
「…っし! クヨクヨしてたってしょーがない!! うん!!
明日の朝までは一緒にいられるんだし、ちゃんと告白の返事を貰って――…」
人気の無い廊下を意気消沈しながら歩いていたウェインだが、幾ら考え込んでも栓の無い事だと暗い気持ちを振り切って、意志の強い眼差しで真っ直ぐに前を向く。この角を曲がれば外来用のソファが並ぶ、少々広めにスペースを切り取ってある待合室だ。仮にも病棟であるので駆け出すわけには行かないが、足早に待ち人の下へと逸る心のままに赴けば――その、光景に……息を呑んだ。
隣国の年若きナイツである、真っ直ぐに世を見据える澄んだ黒無垢の瞳と、手触り優しい黒麻の髪をした小柄な少年が、部下である元気の良い赤毛の騎士と病棟の中庭で楽しげにジャレ合うのを、窓越しに眺めて、眩しさに互い違いの眼差しを伏せた。
「……栄誉と、未来ある――若きインペリアルナイツ、か…」
誰に聞かせるでもなく、そうと、溜息と同時に秘めた言葉が零れて落ちる。
最初から――異形の存在ならば、始めから人に愛されることもなく。ただ人に仇成す存在として、いっそ隔離されてしまえば良かったのではないかと、そうとすら思うのは幸福に在るからこその、驕りだろうか。
愛され――、そして、人ですら在り得ない呪われし身ながら、傲慢にも人を愛し、芽生えた感情が、人を恋しがる。
自ら引き寄せ、背徳に倒錯しながらも合わさった口唇の、その感触を思い出し――、世界的英雄たる凄烈なる美貌の青年は、吐息を重ねた。愛しいと感じたのは確かだ。己から、求めた感情を、ただの思い違いと否定するには、それは余りにも鮮やかに色づき息づいていた。
「………」
複雑な感情に絡んだ己の意思は、理性とは違う場所で軋みをあげて、崩れそうになる。降り積もる溜息の上に、思わず零れ落ちてゆく微かな本音を噛み締めて、カーマインは陽の光に煌めく幸福の情景に、そっと背を向けた。
「すまない。少し、確認したいことがあるんだが」
外来の患者が訪れる機会が非常に限られていることから、受付に常に空席の状態だ。銀色の呼び鈴を鳴らすと、奥から駆けてくる軽い足音がして、人の好さそうな顔立ちをした、黒縁眼鏡の良く似合う一人の青年医師が、穏やかに対応した。
「えっと…、なんでしょう? 生憎、普段受け付け業務を行っている娘が不在なもんですから、私で分かる範囲でしたらお答えしますが」
やや緊張の面持ちで謙虚に申し出る医師に、世界に名だたる英雄騎士は、不明なら後程の確認でも構わない、と断り、内容を切り出した。
「現在、入院しているバーンシュタインの騎士の話だが――、今回の治療費負担はどうなっているんだ?」
「ああ、彼らですね」
すると白衣の青年は、美貌の英雄からの問いかけに、事も無げに答えた。
「イェルガー将軍から、今回の彼等の治療費用に関して、ご自身が負担されると申し出がございましてね」
「……イェルガー将軍?」
聞き覚えのない名に眉を顰める夜の欠片を凝縮させたような美しい青年に、温和な人柄が言葉の端々に滲み出る優しげな医師は、意表をつかれたという様に目を丸くした。
「ええ、イェルガー将軍です――、ああ、申し訳ない」
そして、得心入ったとばかりに一人で納得し、破顔した。
「一介の研究医師に過ぎない私が、こう呼ぶのは失礼に当たるかもしれませんが。見逃してくださいね。猛将軍ウォレス殿の事ですよ。ウォレス・イェルガー様」
「……ウォレスが…、そうか」
救済の旅路の初期の頃から共に在り続けたウォレスの、そのファーストネームを今まで知らずにいたことに、今更ながらに自覚して、救世の英雄と謳われし青年は納得する。
「邪魔してすまなかった。用事はそれだけだ」
「いえいえ、邪魔だなんて。それじゃ、私はこれで」
半民営化した軍の医療施設とはいえ、実際に治療にやってくる民間人は皆無であり。勤務する医師も、その殆どが研究員といった様子だ。受付にやってきた若い男も、日々己の研究に情熱を注ぐ類の人間なのだろう。眼前に、確かに息づく奇跡が煌いていると言うのに、お役御免とばかりに、サッサと奥へ戻ってしまった。無闇に人の注目を集める事の多い漆黒の艶に彩られた麗しき青年は、その淡白な反応に安堵し、人気の無い受付の長椅子に腰をかける。
「んだ、カーマインじゃねーか」
と、その途端馴染みの声が耳に届いて、名を呼ばれた光の救世騎士は、肩越しに背後を窺った。すると、鍛錬の賜物である威風堂々たる肉体を誇示するかのように、仁王と立つ剣士の姿が仰いだ先に認められ、違和感に首を微かに傾げた。
「……ゼノス?」
「おうっ、どーしたんだ。こんなトコで? まさか、怪我でもねーだろ」
「ああ、少しな。それより、お前こそ…何の用件だ?」
凡そ、病院という場所に似つかわしくない生命力に溢れた剣士に向かい、カーマインは率直な疑問を口にした。すると、自分自身でも消毒と薬液の匂いが充満する、病的に白い陰気な世界が相応しくないと理解しているのか、ゼノスは決まりの悪そうな顔で応じた。
「うー…、あー、なんだその、ちぃっと薬を貰いに、な」
「薬…?」
具合が悪い様子は無いが…いや、そういえば普段より少しだけ覇気に乏しい印象がある。一体何をやらかしたのかと訝しむカーマインの、妖しく露濡れた黄金と紫闇の対の迫力に気圧され、白輝の甲冑で全身を固めた剣士は憮然とした表情で答える。
「……二日酔いの薬を貰いに来たんだよッ、文句あっか」
「――誰も、文句なんて言ってないだろう?」
己自身が上げた声に反応して蹲る巨体を見下ろし、呆れたと言わんばかりの嘆息と共に、壮絶なる孤高の存在は、戦友の隣にしゃがみこんだ。
「全く…際限無く呑むからだ。仕方のない奴だな…」
そして、癖の無い、剣士らしく充分に日に焼けた赤銅の髪を指先で梳いて、そっと癒しの輝きを注ぎ込んだ。仄かに優しく響く、寄せてはかえす、包み込む想いの細波に、痛みにより強張っていた全身の緊張が解れ、ゼノスは肩を落とす。
「あ〜…、楽になった。悪ぃな、俺もウォレスのオッサンも、治癒系魔法は苦手で…」
言葉の途中で、歴戦の猛者たる風体をしたグランシル武闘大会の優勝者は、己の失言に気付く。見る間に渋面となる救世の英雄を前に、最早、言い訳のしようも無く。
「――…ウォレスも、か」
「いや、まぁ、なんつーか…なぁ?」
「なぁ、じゃないだろう。…全く」
魔導や医療技術が発達したローランディアには、癒しの魔法の使い手は少なくは無い。しかし、一国の将軍とあろう者が彼らを掴まえて、二日酔いの頭痛や悪心をどうにかしてくれと頼むのは流石に抵抗があったのだろう。こうしてコッソリ、ゼノスに使いをさせているという状況という事だ。
「それで――、ウォレスの様子は? 酷いのか?」
「いんや、オッサンはそーでもねーぜ」
「そうか…、なら薬で充分だな」
酷いようなら王宮まで出向いて治療を、と考えていたカーマインは、ゼノスの台詞にアッサリと意思を変更した。今回の件は自業自得な為、そこまで親切にしてやる事はないといった所か。基本的には人に優しい性格だが、ある程度遠慮を払った仲となると、容赦が無くなる光の救世騎士に、大剣を担いだ剣士は手厳しいことだと苦笑した。
「そういや、ウェインの奴は? 一緒じゃねーのか?」
キョロと辺りを見回すゼノスに、艶然たる風貌に、僅かに寂寥を滲ませて応じる英雄。その横顔に一瞬を胸を打たれて、金の手甲と白の大甲冑を纏った剣士は、口を噤んだ。
「…部下の見舞いだ。随分と話が弾んでいたようだから…まだ少しかかるだろうな」
「ああ、そーいや、ウォレスのオッサンが言ってたな。ハンスとシャル…なんだっけ、金髪の譲ちゃんが入院してるんだって。怪我は大したことねーって話だが」
「知り合いか?」
バーンシュタインの正騎士である少年等と、フリーの傭兵を生業としている凄腕の剣士にどういう接点があるだろうかと、カーマインは心底意外そうにして見せた。確かに、ゼノスは一時期バーンシュタイン王国に雇われていたが、今となっては、もう過去の話だ。
「まーな。何にしろ、大したことなくて良かったよな」
「…ああ、そうだな」
何処か、心ここに在らずといった様子で頷く麗しき英雄に、ゼノスはそっと肩を竦めた。
「なぁ、カーマイン」
「…なんだ?」
「お前、ウェインのこと…どう思ってんだ? ただ、年下をタチ悪く揶揄ってるだけ、ってワケじゃねーだろ?」
「……お前には関係ないだろう?」
素気無くかわされるが、しかし、その程度で引き下がるような可愛い性格では、この圧倒的な存在感を誇る美しき英雄とは付き合えない。肝の据わり方に自信のある猛々しい容姿の剣士は、ぐいと美貌の青年との距離を縮めて、問い詰める。
「まぁ、確かに関係はねーけどよ…。
全然関係ないって事なら…俺だって、他人の色恋沙汰に首なんて突っ込まないぜ」
「……? どういう意味だ?」
「――…今更、言い出すのもどうかなーとは、自分でも思うけどよ」
「…ゼノス?」
歯切れ悪く、まるで自分自身に言い訳でもするように言葉を切る歴戦の剣士に、艶深い黒髪と、透ける雪白の肌をした青年は、不審そうに声を潜めた。
人の気配の無い、まるで日常の空間から切り離されたような世界に、息づく命はただ二つのみで。暗い病棟から臨む窓の外に陽の煌きが溢れ、警備の兵士の足音が遠く響いてゆく。時を刻む巨大な柱時計が、コッチコッチと規則正しく秒針を鳴らしていた。沈黙が――此れ程痛々しいものだと、久しく忘れていた。居心地の悪さに、思わずカーマインは視線を眼前の猛々しい剣士より、無理やりに逸らした。その隙を――見逃すはずも無い。
「……ッ、ン!」
正しく、奪うような――接吻だった。
人の体温にしては随分と冷たい口唇を強引に捕らえ、合わせる。上から押さえ込むようにして事前に抵抗を防いでしまえば、後は純粋に力比べだ。幾ら魔術や武術に長けているとはいえ、生来の体格差による腕力だけはどうしようも無い。唐突な行為に驚愕するものの、咄嗟に跳ね除けようとした両腕ごと抱き込まれて、カーマインは全身の力を抜いた。
「……なんだ、抵抗…しねぇのか…?」
そっと、息継ぎの為に放された口唇で荒い呼吸を繰り返す腕の中の獲物に、ゼノスは、いっそ淋し気に微笑んだ。
「……しても、無駄だからな。
それより、いい加減…腕を放せ。馬鹿力」
「嫌だね」
「……ゼノス? 悪ふざけはここまでにしてくれ。何時、ウェインが帰ってくるともしれない。余計な誤解をされれば、お前だって迷惑だろう?」
一見粗野なだけの男に見えるが、その実、非情に義理堅く情に厚い男気溢れる性格をしたゼノスが、男好きなどという不名誉な噂を好むとは思えない。軽く嗜めると、カーマインは己を抱く鍛えられた二の腕をそっと押した。
「……放してくれ、いい加減苦しい」
相手の生死を問わぬのであれば、このような力任せの戒め直ぐにでも破れるものの、まさか戦友相手にそこまでの強硬手段を採れるはずも無い。相手の道徳や倫理に訴えかけて腕の檻を破ろうとする――愛しい存在を――ゼノスは、遠慮なく掻き抱いた…!
………。
目の前の光景が、余りに現実離れしていて――少年は、ただ呆然と立ち尽くした。
綺麗な人、綺麗な存在、綺麗な――…偶像が、ボロボロと剥がれて落ちて、醜悪な感情が破裂寸前にまで盛り上がる。五月蠅い位の己の鼓動と共に、それはドクドクと脈打ち、何か、凶悪なモノが心臓の裏側で咆哮を上げた。
衝動に血塗れた牙は、無残に理性を食い荒らしてゆく。まるで、戦場にて命を狩る瞬間のような――倒錯的な悦楽と高揚感を覚えて、黄金の大鎌を繰る小さき騎士は、病棟独特の無機質な白の壁に凭れ掛かり、崩れ落ちた。
「――愛してる。カーマイン」
「……ッ…、ゼノッ…」
「念のため言っておくけど、別にウェインに触発されて、ってゆーんじゃねーぞ?
――…ずっと、前から。お前の敵だった時から……お前を、殺さなきゃダメだって時から…、どうしよーもねーくれー好きだった。……未練がましいけどな、今でも……好きだ」
聞きたくのに、意思に反して流れてくる台詞を脳が追ってしまう。早く――この場から離れないと、と気持ちばかりが焦るが、まるで鉛の塊にでもなったように四肢は重かった。
「……急に、こんな事言われちまって、困るのも分かるけどよ…――。
俺は、本気だぜ。カーマイン。だから、お前も本気で考えて…答えをくれ」
「……ゼノ…」
「結論は今すぐじゃなくていい。けど、このまま無かった事にだけはしないでくれ」
「……、……ッ、…わかった」
「――サンキュ。……お礼ついでに、もう一回、な?」
「…? ゼノス…?」
視界に無くとも――気配で、接吻を交わす二人の姿が容易に想像つく。武神の寵愛を受け、才気溢るるナイツの少年は、ぐ、と己の胸の辺りを掌で押し込んだ。
「………ッ」
醜い――いっそ、目を背けたくなるような、酷く昏く爛れた情念が、歪に吼える。
(――…な、んだよ…コレッ…、くっそ、収まれ、よっ。
こんなの…分かってたことじゃ……ないか。あの人は…カーマインさんはッ…光の英雄騎士で、だから、沢山の人から想いを寄せられたって……そんなの、当たり前で……)
――…暗い空虚から、脳髄を削る不快な音が警鐘のように、鳴り響く。
(……カーマイン、さん…。抵抗…してなかったよな…)
対格差があるのは分かる。だが、それでも、本気で嫌悪を覚えていたのなら、黙って接吻を受け入れるだろうか。
(…今朝、オスカー先輩とも…キス、してたよな……)
胸の辺りが気持ち悪い――今までに感じたこともない紙一重の激しい感情に、隣国の仔犬のような容貌のナイツは、完全にその場に蹲ってしまった。立てた両足の上に腕を組み、頭を伏せて、内部で蠢く、嘔吐感すら伴う何かに耐えた。
「……ウェイン?」
「――ッ」
全ての意識が内に向かっていた為、完全に無防備だったところに、酷く心配そうな声で名を呼ばれ、淡い黒髪の少年はビクリと大きく肩を震わせた。
「どうかしたのか? 気分でも…悪いのか?」
「………」
そっと、冷たい指先が優しく髪を撫でる――感触に、心の臓が震えた。ザワリと血が逆流する感覚に、奥深い場所で魔獣が唸りを上げた。
「…カーマイン、さん」
声、が。まるで、自分のモノでないように、酷く無感動に零れた。不意に名を呼ばれた絶世の美貌を麗しき面に履く救世の英雄は、一途で真っ直ぐな魂の持ち主である童顔のナイツを、そっと気遣うように窺う。世界の未来と、終焉を、同時に宿す神秘の眼差しが、愛おし気に少年を映しこむが、その想いの深さを知り得るには――少年は、余りに混乱し過ぎていた。
「具合が悪いなら…、空いてる病室で少し休ませてもらうように…頼んでくるが」
ユングとの戦闘で受けた傷が完治しない上に、昨夜の深酒だ。隆々と盛り上がる肉体を誇る、年齢や身体的なハンデを全く感じさせないローランドの将軍や、白輝の甲冑が似合グランシルの覇者においては、自業自得なので特に同情の要素も見当らないが。隣国の若きナイツである少年は、上記の二人に逆らえず無理やり付き合った経緯もあり、カーマインは極力、優しく気遣った。
「………」
そうではないのだとの、その一言が、何故だか喉に張り付いて巧く声と成せずに。手前勝手な想いの暴走で、愛しい人に迷惑を掛けてしまっている現状が情けなく、酷く、惨めであった。
「……すみませんッ…、俺ッ」
自身を叱咤し、切迫した無垢の瞳に痛ましさを滲ませ複雑な表情のまま、光の救世騎士を見上げた少年は――その背後に、悪意を、認めた。
病棟のそれにしては大きめの、人の手の行き届かぬ薄く曇った窓から差し込む橙の光が、温もりの欠片も感じられぬ白壁を鮮やかに染め上げ、四角い狭い世界を、照らし出していた。
「……? …」
もう――夕刻なのかと、斜陽に眩しさを覚え、月下に凛と咲く白の花弁の如く高貴な輝きを纏う漆黒の青年は身じろぎをして……違和感に、綺麗に整った柳眉を寄せた。
――両腕が、頭上から動かない。手首が、まるで締め付けられているように、ジンと痺れて、感覚が遠かった。覚醒して程なくは寝起きの所為かと思い込んでいたが、どうも…状況は、思わしくないようだった。
現状は所謂――拉致監禁と言われるような犯罪行為にあたる。首謀者の姿が見当たらないが、いずれ、この場に現れるだろう。なにせ、救世の英雄である光の騎士の誘拐だ。単純に身代金目的ならば、資産家や貴族の血縁者を狙う方が余程率が良い。ならば、自分でなければならぬ理由があるはずだ。そうして、大抵その内容というのが――、
「お目覚めですか、グローランサー殿」
ロクな物であった試しが無い。それ等は所謂、好事家と呼ばれる下賤の爛れた欲望であるか、国政に携わる下衆の腹黒い野心であるかの、どちらかであることが多い。
「先程の…医者か。ウェインはどうした」
実行犯であるらしい白衣の青年の顔には、確かに見覚えがあった。つい、今しがた受け受けで言葉を交わしていた相手だ。極短い遣り取りだったとはいえ、まだ風化する程の時は流れていない。
「ご自身よりも、まずは連れのご心配ですか。さすがは、救世の英雄。お心が広くいらっしゃる」
「………」
「そう、怖い顔をされるものではありませんよ。私とて、無闇な殺生は好みませんからね。貴方が大人してくださるなら、彼は無傷で返しましょう?」
人好きのする笑顔を浮かべたままで、温和な印象そのままに、青年医師は世間話でもするような気安さで不穏な内容の言葉を連ねた。
「……何が目的だ」
「おや、わざわざ確認するまでも無いでしょう。
英雄である貴方を敵視する人間は、決して少なくはありませんからね」
医者というのは本業ではないだろうが、随分と慣れた手つきでアンプルを折り、不吉に照り返す鋭角な注射針の先から透明な薬を吸い上げる。中の空気を抜くために先端を天井へと上向ける仕種が、異様に様になっていた。
「――まぁ、個人的には貴方に同情致しますよ。世界を救った英雄だ救世主だと散々に祀り上げられて良い様に利用された挙句に、目障りになれば容赦なくこの扱いですからね」
「………」
飄々としながらも男の眼光は鋭く、それは、獲物を捕らえた暗殺者の瞳であった。
肉体的な欲望の対象にされているのならば直ぐに命の危険を伴うような事は無く、寧ろ、幾らでも隙を窺う事が可能であり、そのあしらいや切り抜け方も慣れたものだが。
悠長に構えている時間は無さそうだと、救世の英雄である漆黒の美貌の主は、両腕の戒めに力を籠める――が、徒労に終わる。多少暴れた程度で獲物に逃げられるような甘い縛では無いようだ。
ならば、と精神を集中し魔導の力を錬る麗しき獲物は、直ぐに己の周囲に漂う世界の密度の違いに意識を留める。すると、見透かすように医師に扮した暗殺者は囁いた。
「貴方が剣術だけでなく魔導の力にも長けていることは、周知の事実ですからね。私とて、この道を生業にしている以上、それなりに用意をして当然でしょう」
楽しげに嘯く赤く焼けた髪と、太すぎる黒のフレームが印象的な白衣の青年は、背後の壁をこれ見よがしに一瞥して見せた。追った視線の先、橙に染まった壁一面に――呪札が、無造作に貼り付けられていた。
「……秘紋術…」
「おや、東の国に伝わる秘術をご存知でしたか。流石、文武に冴える英雄殿。そう、札に魔封の術を封じ込めて、この部屋からグローシュを排除しているのですよ。
いかな魔導の使い手なれど、力の源となるグローシュが無ければ、どうしようもありませんからね」
不気味な微笑を湛えたままの青年は、手にした清潔な医療器具を、夕日に透かし、殊更に強調して見せた。
「――コレ。なんだかお分かりになりますか?」
橙色の光に影となって落ちる器具の中身は、やはり透明に反射していた。
「……カーマインさんッ…!」
自分自身の叫び声に驚いて飛び起きた幼さの際立つナイツは、一瞬、状況が呑みこめずに目を丸くさせた。
「……? ここ…、あれ?」
翳り始めた太陽が、西の空を茜色に染めていた。その眩しさに眉を顰めて、ウェインは改めて周囲を見回す。温かみの欠片も感じさせない無機質な壁、清潔な白のシーツからは消毒液の匂い――病室、だった。それも、広さから考えるとどうやら個室のようだ。
「……?? 俺、どうしたん……」
自問自答する少年の思考を、力任せに叩きつけられた病室の扉が中断させた。
「ウェインッ! 無事か!?」
「………ゼ、ノスさん?」
ぱちくり、と心底不思議そうに琥珀の瞳を瞬かせる童顔の少年騎士に、豪胆で情に厚い性格の白鎧の剣士だ。黄金の手甲が、斜陽に反射して酷く眩く輝く。圧倒的な美貌を誇る艶深い英雄とはまた違う存在感で、精悍な剣士は大仰に肩を落として溜息を吐いた。
「気ィ抜ける顔しやがって…、まぁ、無事で良かったけどな」
「……どうかしたんですか?」
大きく開け放たれた扉、ゼノスの鍛え上げられた大柄な肉体を強固に包む白甲冑の背後に、仰向けになり白目を剥いて倒れている数人の男達に視線を遣り、ウェインは表情を強張らせた。
「――ああ、無事ならお前も手伝え。
この施設に、カーマイン狙いの暗殺屋が入り込んでいやがる。後ろの連中はただ雇われ下っ端で、黒幕の事なんざこれっぽっちも知らねぇときてやがる…!」
「暗殺……、」
幾ら世界の未来から甚大な脅威が取り除かれ、各国間の戦争も終結を迎えたとはいえ、このご時世だ。暗殺者の存在は特に珍しくも無く、またそういった人間に命を狙われる機会も、世間に名が知られれば自然と増えてくる。その意味では、世界に名高い光の英雄が命を狙われるのは、必然だ。相手が英雄とはいえ、それを疎む人間など幾らでも――、
「!! カーマインさんは!ッ? 医者の格好したヤツに襲われたんです!! いきなりヘンな薬を吹きかけられたと思ったら急に意識を失くしてッ!!」
火急の事態を呑み込んだウェインは、掴みかからんばかりの勢いで大剣を担いだ剣士に詰め寄る。それを、年上の余裕かはたまた潜り抜けた修羅場の違いか、軽くいなすゼノスだ。武の腕は確かであるが、若さゆえ激情に身を任せや易いナイツの両肩を手のひらで押さえるようにし、真剣な面持ちで少年を見据える。
「落ち着け。外の兵士連中に外を見晴らせてるから、既にココから逃走しちまってるってこたぁ無いはずだ。カーマインも暗殺者も、まだ病院内部にいる。俺は東棟を探すから、お前は西棟の病室を探してくれ」
「……わかりましたッ」
「よし、行くぞ!」
一般普及している腕輪型のリング・ウェポンと違い、ナイツのそれは指輪の形で収まっている。銀色に輝く繊細な彫刻の指輪に意識を集中させながら、ウェインはひたすらに愛しき人の無事を祈り、茜に照らされる病棟を駆け抜けた。
片思いの暴走ヤキモチわんこ
好き過ぎて色々グルグルすればいい
天然誘い受けなカーマイン萌え
邪魔ならば殺してしまえ不如帰
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