片恋 9



 水面に映る藤の花房に抱かれて儚げに微笑んでいた彼は、月の陰りが生み出した、一瞬の幻影では無いと知っていた。
 本意と掛け離れる行為に手を染めたのは、決して違えられぬ約束と、祖国への忠義の為に。己自身の嘆きすら欺き、世界を脅かす怨敵として、愛する存在を躊躇無く――。
「おはよう?」
「………」
 一日の始まりを告げる清々しい鐘の音が遠く、響いてくる。
 朝の日差しが窓辺から差し込んでくる。今日も、世界は如何に望もうとも遥かに遠い美しさに満ちていた。
「ぐっすり寝ていたね? 幾らなんでも、これは迂闊じゃないかい?」
 上品な薄藍のシーツに包まれてまどろむ黒羽の婀娜蝶の頬にそっと冷えた接吻を落とし、隣国の華麗な死神は、魅惑的な甘い声で囁いた。
「それに、なかなか挑発的なカッコウだしね。幾らこっちに服の予備が少ないからって、シャツ一枚で寝るなんて。――襲ってくれと言ってるようなものだよ」
 寝崩れた大きめの白シャツの裾から、無防備な腿が大胆に伸びて、指先でその感触を愉しむ不埒な侵入者に、蹂躙を甘受する麗しき救世騎士は茫洋としたままで、
「…随分と、機嫌がいいな。何かあったのか?」
 そう、彼の様子を評した。
「ふふ、秘密だよ」
 それより、と高貴な紫水晶の輝きを魂に宿す美貌のインペリアルナイツは、内腿を撫で上げる悪戯な愛撫に熱を籠める。
「そろそろ本気で抵抗しないと、……襲ってしまうよ?」
「――…オスカー」
 カーマインは、苦味の滲んだ口調で興に乗る上品な騎士を窘めた。一騎当千の証でもある、ナイツの白い装束が凛々しくも儚い風貌に映える青年は、それを耳にしても尚、指先を淫らに蠢かせた。
「ッ、オスカーッ…」
 普段ならば一言制止の意味合いで声を掛ければ止む行為が、今日に限って、異様な熱を孕んでいる事に気付き、月下に密やかに蕾を綻ばせる、凄絶な色香を纏う漆黒の麗人は、流石に狼狽する。満ち足りた猫のような彼には要注意だと、今までの付き合いで充分に察していた。
「…っふふ、男は皆オオカミだよ。危機感を持ってもらえたかな? それじゃあ、これ以上はウェインに悪いしね。止めて――」
 トン、トン、と遠慮がちなノックの音に、オスカーの台詞が奇妙な間をあけて、途切れた。続く、あどけなさを残した呼びかけに、意地悪く綺麗な口端が緩む。
「カーマインさん、オスカー先輩。開けていいですか?」
「いいよ、入っておいで。ウェイン」
 部屋の主が何事かを言い掛けるのを遮って、オスカーは柔和な態度で応じた。しかし、今のこの状況を目撃されてはあらぬ疑惑を呼び起こしかねない。起き抜けの力の抜けた両腕で、カーマインは慌てて、淫らな悪戯を仕掛ける青年の胸を押し遣った。
「オスカー…、退いてくれ」
「うん? そうやって表情を崩して抵抗されると――、燃えてしまうね?」
「オスッ…」
 性質の悪い酔漢に絡まれているようだ。それも、素面なので余計に手に負えない。相手が本当にタダの酔っ払いならば、強引に腕を振り払って有無を言わさず地面へ沈めてやるものを、仮にも質実剛健たる武の大国バーンジュタインが誇る一騎当千の騎士では、そう容易くはゆかぬ。逆に腕を捕られ、何事かと思う間もなく藍のシーツの上に、押し倒される。しどけない媚態を曝す救世の英雄に、加虐に駆られた死神は、昨夜の情欲の名残が疼くのを自覚した――。
「カーマインさん、オスカー先輩。簡単なものですけど、朝食の準備がッ…」
 中性的な愛らしさの顔立ちに相応しい、少し高めの声が、眼前の光景に怯むのを感じ取って、口腔を存分に蹂躙され、呆然自失としていた稀代の救世騎士は懇親の力で以って、己に圧しかかる重みを拒絶した。
「――と、」
 濃厚な一夜に宿され、未だに疼き燻り続ける肉欲の残り火に煽られるまま、カーマインに舌を絡ませていたバーンシュタインの高貴たる古参のナイツは、身軽に抵抗を受け流して、甘い感覚に痺れる舌先を薄く開いた口唇からチラつかせ、魔性の色香と共に笑んだ。
「ご馳走様。それじゃ、ウェイン。僕は先に下に降りているね」
「……! え、あ、――は、はい」
 去り際に、ポンと肩を叩かれ、ビクリと大きく跳ねてしまった。そんな様子から己の動揺をハッキリと悟られた気がして、真直ぐなお子様は所在の分からぬ悔しさを噛み締める。
(――なんか…、もやもや…する。なんで――キス、なんて…っ)
 以前に、オスカーは自分もカーマインに気があるとは言っていた。だがアレは、年若いナイツの恋心を揶揄る為だけの、その場限りの冗談でしか無かったはずだ。それなのに、今、まるで此方に見せ付けるように――愛しき人へと口唇を合わせていた。
 国を――民を、その強力無比たる武の力、冴え渡る知略で以って守護する、最高峰の騎士が一人、オスカー・リーヴス。華麗なる舞闘とも、死神の化身とも畏怖されし絶対の存在に、まるで裏切られたような――ジクリ、と胸の奥が軋んだ。
「ウェイン。悪いが、扉を閉めてくれ。着替えたら、直ぐに下りる」
「……はい」
 開け放った扉の前で微動だにせず立ち尽くす、淡い黒髪も愛らしい仔犬のようなナイツに、何事も無かったかのように声を掛け、カーマインは上品な香りの漂う寝台から起き上がった。白い――剥き出しの大腿がシャツの裾から伸びて、ドキリとする。慌てて瞳を逸らすと、ウェインは逃げ出すようにその場を後にしたのだった。



「え――、帰国命令ですか?」
 食事の後、何の前触れも無く、騎士としての目標で人物に告げられた内容に、ウェインは純粋さと無垢が混在する穢れのない瞳を驚きに瞬かせた。
「うん、そうなんだ。本来の休暇期間はとうに過ぎているからね。怪我の養生ならバーンシュタインでも可能なんだし、帰ってこいって。おエラ方がね」
「…そうですか」
 おエラ方――バーンシュタイン王国でも、一種の怨念のように、凝り固まった懐古主義を貫く貴族連中の事だ。賢王エリオットが戴冠されてから、伝統という都合の良い言葉で隠された悪習や腐敗は次々と改革され、国政に意欲的な新しき王に応えるように、民の間にも革新的な思想が広がりを見せていた。しかし、今尚、王国の中枢にまで届く醜怪な悪性腫は、心臓部にへばりついていた。
 どうせあの古ダヌキ共が申し合わせたように口を揃え『国家に於ける武の要であるインペリアルナイツが、護るべき国と民の傍から離れるとは何事かと』そういった類の文句でも言い出したのだろう。
 結局、連中が守らせたいものは国でも民でもなく、己等自身に過ぎないのだが。毎回のお綺麗なお為ごかしには、反吐が出る。あの連中が原因で、年若くして執政官の地位についた親友も、随分と苦労を強いられているのだ。
「今日伝えて、今すぐというのも酷だからね。急な話で悪いけど――明日、いいかな」
「分かりました」
「そういう事だから、うちの子をもう少しお願いできるかな。カーマイン」
「…俺は構わないが」
 まるで可愛がる犬の仔を預けるような気軽な口調の隣国の死神に、救世の英雄たる青年はやはり、気安く応じた。その片手には、年季の入った充分な厚さの書物が。食後の紅茶をゆっくりと味わいながら、魔術や魔導の心得が無い人間にとって記号の羅列でしかないそれを、淡々と紐解く姿は優雅で、また気品に溢れていた。
「さて、それじゃ僕はこれで退散するね」
 伝えるべき全てを話し終え、お役御免とばかりに立ち上がる繊細な美貌のナイツに、幼く、中世的な顔立ちをした少年は訊ねた。
「バーンシュタインへ帰るんですか?」
「ん? その前に、馬車の手配をしてこようと思っているけどね。どうかした?」
 すると、馬車、の単語にウェインは小首を傾げた。
「馬車、ですか?」
「そうだよ」
「でも俺、空間転移指輪テレポート・リングが……」
 強大な魔力――グローシュの使い手、偉大なる魔導士のみが詠唱可能な空間移動術(テレポート)。その魔力の波長を精霊石に記憶させ、普段身に付けられるように彫金したのが、空間転移指輪だ。グローシアンが直接詠唱するそれとは違い、指輪を身につける本人だけしか移動出来ず、また出現ポイントも限られており、そして何より移動に因る精神疲労や衰弱が問題点ではあるが、通常ならば何日も掛かる距離を、一瞬で飛び越えられる利便性から、ナイツの面々は国家から指輪の支給を受けていた。
「ダメだよ、ウェイン。まだ、ココの傷塞がってないよね」
 指摘され、指の腹で左の脇を撫で上げられた。一瞬――ほんの一瞬ではあるが、肌が粟立つような奇妙な感覚を覚えて、頬を染め、硬直する可愛らしい後輩に、オスカーは密やかに囁く。
「…っふふ、タヌキ連中はなんとかしてあげるから。ゆっくり返っておいで」
「――せっ…、?」
 そして、意味ありげな微笑と共に、騎士としての才気を輝かせる若きナイツの掌に『何か』をそっと握りこませた。
「ちゃんと使わないと、最初は大変だからね。これはプレゼントだよ、頑張っておいで」
 ………プレゼント?
「ああ、余り激しくすると傷に触るからね。…まぁ、その辺りを考慮して、馬車で帰ってもらうから。多少はいいかな。けど、無茶はダメだよ?」
 ………激しく? 無茶??
 謎めいた台詞を残し去ってゆく憧れの人の背中を見送って、ウェインは右手を開いた。そこには、可愛らしい桃色の小瓶が。蓋を開けてみると、甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐった。指先で掬えば、とろりと垂れて、透明な糸を引いた。
「……? なんだろ、コレ」
 ナイツとしても人としても尊敬するべき、国の誉れ。最高峰のインペリアルナイツが、わざわざプレゼントとまで言い置いて手渡してくれたものだ、まさか害のあるようなそれではなかろうが、それにしても――含みのある言い回しを反芻して、ウェインは不思議そうに黒水晶の瞳をくるくるとさせた。
「…ウェイン? どうかしたのか?」
 と、呆然としている少年の様子を怪訝に思い、屋敷の主であるカーマインが声を掛ける。
「あ、いえッ、別に。ただ、ちょっと」
「…ちょっと?」
 手にしていた古めかしい書物を伏せ、凄絶な色香の漂う互い違いの妖眼で、光の救世騎士はウェインを捉えていた。綺麗な人――それも、想いを寄せる存在に真っ直ぐ見詰められるというのは、なかなかに忍耐が必要なのだと、若きナイツは胸を高鳴らせる。
「……オスカー先輩に、クリームみたいなの貰ったんです。プレゼントだって。あ、そっか。傷薬ですねっ、これ」
 しきりに脇腹の傷を心配していたオスカーの様子を思い出し、色艶事には呆れるほど縁遠く、またそれに伴う知識も絶望的に欠落している年少のナイツは、一人でそう納得した。
「…傷薬? 見せてみろ」
 しかし、あのオスカー・リーヴスたる人物が、ただの薬を用途も知らせずにプレゼントとだけ含ませ土産としてゆくものか。良くも悪くも、隣国の最強ナイツの内面を知り尽くしている救世の青年は、伸ばした掌に小瓶を受け取った。そして――、
「………」
「? どうかしたんですか?」
「……いや…、………。
 ウェイン。オスカーは、他に何か言っていたか?」
「え? いえ…、あ、そういえば。余り激しくすると傷に触るとか…、言われてましたけど。安静にしときないさいってコトですよね?」
「………そうだな。」
 可愛らしい桃色の小瓶には、蓋の部分には月と星を象ったマークが施されていた。これと全く同じものを、他の人間から見せられた事がある。用途・効能についても、その際に迷惑極まりないながらも、懇切丁寧に教えてもらった記憶がある。
「あ、折角貰ったものだし。今、使ってみます。カーマインさん、それコッチに下さ…」
「………」
「…? カーマインさん?」
 本当に――これが全て演技などではなく、心底から事を知らずに訊ねてくるのだから、なんと説明すればよいやら、漆黒に凛と咲く華のような美しい青年は、眩暈を覚えた。しかし、このまま傷薬として利用すれば、大変な結果になるのは目に見えている、全く、厄介な置き土産をくれたものだと、カーマインは眉間を押さえた。
「……ウェイン、」
「はい?」
「これは、傷に使うものじゃない」
「……そう、なんですか? じゃ、何に…?」
 当然沸いてくる疑問には答えずに、麗しき面の英雄は、問題のそれを少年へと返した。
「用途については、オスカーに直接訊いてくれ」
「……えっと、はい。わかりました」
 腑に落ちない様子ながらも、やんわりと追求を避ける相手に、これ以上食い下がっても仕方が無いと察したのだろう。年若く、色事に非常に無知なナイツが素直に引き下がるのに胸を撫で下ろし、カーマインはそういえば――と、違う話題を持ちかけた。
「お前の見舞いに来ていた騎士だが…」
「見舞いに来てたって――、ハンスとシャルの事ですか?」
 ヤンチャな印象を与えるソバカスが愛嬌タップリの、茶目っ気に満ちた赤毛の少年と、可憐な容姿を見事に裏切り、男勝りで勝気な性格をした豊かな金髪の少女を思い出し、ウェインは訊ね返す。
「ああ。一昨日の夜の事になるが、裏通りで暴漢に襲われていた」
「――え」
 初耳だとばかりに仰天する心優しきナイツに、カーマインは大丈夫だ、と付け加えて事の顛末を説明する。
「二人とも外傷は無いが――まだ、軍の療養施設だろうな。……心配か?」
「…二人とも、大事な仲間ですから」
 隊長と部下という関係以上の信頼関係で以って結ばれる二人を想い、ウェインは表情を翳らせた。その場に居合わせたという光の救世騎士の弁によれば、特に問題も無いのだろうが、それでも気に掛かってしまう。
「そうか…」
 護るべき存在故に、戦場を駆け、敵を討ち、そうして命を奪う様が同胞の恐怖を呼び、忌諱と憎悪の瞳を向けられたとしても――振り上げた力を、己が誇りと胸を張る凄烈たるナイツの位相、その宿業。それらを一重に負いながらも、人としての温もりを失わずに在る少年に、年嵩ばかりを重ねた強欲の権化等の毒気が清められる気がして、俗世に英雄としての群像が一人歩く苦悩を抱える青年は、ふと、表情を緩めた。
「…見舞いにゆくか? ここから、そう離れていないが」
「え…、や、えっと。
 厚意は嬉しいですけど、…遠慮しておきます。幾ら友好国同士とはいっても、一応、俺もナイツなんですよ。他国の軍施設に気安く立ち入っていいもんじゃないと思いますし」
「軍施設とはいっても、戦時下ならともかく、今は一般開放もされている半民間医療施設だ。特に知られて困る機密も無い――堂々と入ればいい」
「……で、も。そういうことしたら、その――」
 星の降る夜、月の下。梢を揺らす風の音にのって届く、痛ましい告白。
『年若いナイツと、過去の英雄の交流を――、』
 ウェイン自信は上官、貴族の連中共に疎まれるのには慣れているので、今更何と言われようが動じる事は無いが。光の救世騎士、世界の英雄たるカーマインが今以上に追い込んでしまうのは、望むところではない。
 そんな年下の最強を冠する騎士が一人に微苦笑を零して、奇跡の結晶のように美しき容貌の英雄は、ついて来い、と短く言い放った。



 半民営化した軍施設というのは本当なのだろう。流石に患者はいないが、立ち働く医療スタッフは軍に従属する人間独自の飢(かつ)えに脅えた気配は無く、清潔で落ち着いた雰囲気があった。
 ただ、戦時下とは違い軍役に服する兵士の怪我が少ないため、医療施設というより、研究施設の意味合いが強くなっている。実際、簡単な怪我の治療ならば受け付けられるが、重症患者の処置となると、此方では難しかった。よって、入院患者も稀だ。その希少なる患者の見舞い人となると、これもまた珍しかった。
「…おい、アレ見ろよ」
「あぁ? っ、うわ。え、マジかよ?」
 一応、軍事施設という名目上、若い下位の兵士が病院の警備に当たっているのだが。――その誰もが、艶と毒を孕んだ絶世の美貌と、他を圧倒する絶対的な力を誇る存在を前に、固唾を呑んで、その一挙手一投足を見守っていた。
「すっげ…、噂には聞いてたけど――、美人過ぎて、人間じゃねーみてー」
「怖いくらい綺麗だよな…。あんなナリして、バーンシュタインのインペリアルナイツ並に情け無用で強いんだろ? ほそっこい腰してんのに…反則だよな」
 若すぎる兵士の中には、世界を救った英雄等に憧れて軍人を志した者もいるのだろう。伝説が目の前で息づく興奮に、空気がさざめいていた。
(う…っ、わぁ。なんかこうして実際、噂になってるの聞くと、実感するよな…)
 愛しくて、恋しくて、堪らないその人が、酷く綺麗なのだと。今更の自覚に、頬が熱くなるのを感じて、ウェインは少し前を行く人の背中から、視線を逸らせた。
「いやでも、今のインペリアルナイツってのも、華奢な優男らしいぜ。一人、オンナもいるみてーだけど、これまた美人だって話でよ」
「んだよ、ナイツや英雄様ってのは、顔がよくなきゃなれねーのかよ…」
「それじゃ、お前はまず無理だな」
「テメーにだきゃ、言われたくねーな。って、それはそれとして、後ろのガキンチョなんだよ。あんなヤツ、軍にいたっけか?」
 端でジャレ合いを始める見張りの兵士等の興味は、ローランディアが誇る救世の英雄の魔性めいた美貌から、その後ろを従順な仔犬のようについてゆく少年へと移った。
「いや…、知らねーけど」
「誰だか知らねーけど、伝説のグローランサーと一緒にいられるなんて、なんて羨ましいんだ、コンチクショウ!!」
 兵士達の噂話が聞こえているのかいないのか、眉一つ動かさず、完璧な鉄面皮でカーマインは病棟を歩いてゆく。流石に他国の軍事施設内ということから、やや緊張気味のウェインの耳には、しっかりと周囲の声が届いていて、くすぐったい優越感に浸った。
 綺麗で、強くて、優しい、大好きな人。
 英雄譚に語られる伝説の存在が、自分の傍にいて、名前を呼んで、――キス、をして。
「……ッ」
 先程の比ではなく体温が跳ね上がった。
 勢いに任せた、噛み付くような接吻が最初のそれ。誘い込まれるまま、戸惑いがちに合わせた柔らかな感触が二度目。けど、その前にもきっと。甘い蜜を、注ぎ込まれて。そして――、
(……あ。)
 余り思い出したくない一件が甦り、機嫌を微妙に下降させる若きナイツだ。
(フツーに……キス、してたよな…。オスカー先輩と)
 もしかしてあの程度、世界に名だたる英雄によっては挨拶代わりなのだろうか、と疑念を湧かせるウェインだ。友情程度の感情があれば、誰とでも交わす、その程度の――。
(……まただ。なんか、この辺りがドロドロする…)
 ぐ、と強く心の臓を押さえ、武の大国にて最強の称号であるナイツを戴く少年は、己の内で蠢く昏い感情を否定するように、深く俯いた。
「あっれー、師匠? それに、カーマインさんもっ」
 溌剌と響く愛嬌のある声が、素っ頓狂に裏返るのを耳にして、ウェインは弾かれたように顔を上げた。その先に、見慣れた赤毛がピョンピョンと跳ねて近付いてくる。
「……ハンス」
 途端、己が内側を灼き始めていた、酷く醜劣な情念は消え失せ、ほうと息を吐く。
「ハンス。無事でよかった」
 病室の殆どが利用されていないために、多少大声を出しても咎められる事は無いが、それでも周囲を気にした様子で、ハンスはしぃと全身を縮込ませ、声を潜めた。
「今、丁度シャルが寝たトコだからさ」
「そっか、じゃ、外に出て話すか?」
「おっけー。ゴメンな、師匠。折角来てくれたのに」
 心底、申し訳無さそうに謝罪の言葉を口にするハンスに、ウェインは気にするなと、短く答えたのだった。



「それで、シャルの様子は?」
 病棟の合間に存在する中庭の、その中でも特に樹齢のありそうな大木の幹に背凭れ、腰を落ち着けながら、童顔からは想像もつかぬ鬼神の如き鮮烈な妙技で魅せるインペリアルナイツの少年は、己を師を慕ってくる相手にそう切り出した。
「全然元気だぜ、師匠。ただ、後、2~3日は手足に麻痺が残るからってコトで、まだ入院させてもらってるんだけどさ」
 純グローシュの波動を正面から浴びた影響で指先に痺れを残すものの、それ以外は全くもって心身に問題は無いらしい。麻痺状態も数日で回復すると知って、少女の直接の上司であるウェイン・クルーズは安堵した。
「にしても、カーマインさん。何処行っちゃったんだろーなー」
 世界を未曾有の危機より救った稀代の英雄は、所用があると言い残し、受付へ戻ってしまった。今ここには、バーンシュタイン王国に籍をおく少年二人だけだ。その現実に、不満気に口唇を尖らせ、素直に拗ねてみせるハンスに、ウェインは苦笑した。
「なんだ、カーマインさんと話したかったのか?」
「そりゃ、とーぜんだろー、師匠。なんたって、英雄だぜ、英雄!! 光の救世騎士!! それでなくても、すっごい美人だしさー。傍にいるとなんだかいい匂いまでして、オイラ、もー、ドキドキしっぱなしだって」
 気持ちは分からないでもないが――というよりも、よおく分かる。寧ろ、共感出来る。
 数多の戦場を華麗に駆け抜け、幾多の敵を容赦なく切り伏せた畏怖と畏敬の存在ながら、まるで穢れの無い白皙の肌、怜悧に閃く神秘の妖眼、艶深い漆黒の髪で縁取られた面は、清廉な神々しさと魔性の淫猥さに謎めいて、それこそ、この世のものとは思えない程に。
「最初はさ、キレー過ぎて人間味がないって言うか…、感情の無い人形みたいで怖かったんだけどさ。全然、そんなコトないのな。キレーで強くて、カッコイイなんて。オイラ、憧れちゃうよ。師匠」
 隣に座り込んで、恍惚と溜息を吐くハンスに、ウェインはそうだな、と軽く同意する。
「すごく…綺麗な人だよな。カーマインさん」
「ななっ? 師匠もそう思うだろ? オスカー様やダグラス卿も美形だけどさー、なんていうか、ほんッと、オイラ達とは住む世界が違うって感じだよな」
 言って、後頭部に腕を回し、そのままズルズルと草むらに寝転んだ。優しい葉擦れの音、渡る空の歌、木漏れ日がチラチラと踊る中、ハンスは赤毛を風にそよと揺らす。
「だからさ、師匠…っ」
「ん?」
 っしょ、とイキオイをつけて上体を幹から起こし、未だ発展途上のカラダをうんと伸ばすと、悪戯っぽい瞳でソバカスの少年は師と仰いで慕う若きナイツを見下ろした。
「けっこー、大変だと思うけど。オイラ、応援すっから、ファイトだぜっ!」
「………は?」
 一瞬、何に対して声援を受けているのか判断がつかず呆けるウェインに、ハンスは、ずいっと身を乗り出し、非常に真剣な面持ちで続けた。
「師匠達が来る少し前なんだけどさ、ゼノスさんと、えっと…ウォレス将軍さんが見舞いに来てくれたんだ。それで、その時聞いたんだけど。師匠、カーマインさんの事、好きなんだろ?」
「……ッ!!! な、え…、えええぇっ!?」
 ガツーン、と。
 鈍器で後頭部を思い切り殴りつけられたような衝撃と共に、洗い立ての仔犬のようなふわふわとした黒髪をする少年は、真っ赤になり反射的に立ち上がった。
「オイラじゃ、全然力になれないかもしれないけど、なんかあったら相談してくれてオッケーだから。がんばってくれよなッ、師匠ッ!!」
 欠片も悪気や悪意が無い辺りが、余計に始末に負えない。ガシッ、と熱く両手を握られて、ウェインは気が遠くなるのを感じ、それと同時に、意外に子ども染みたタチの悪い大人二人に胸中で恨み言を吐く。これが隣国の猛将軍やグランシル武闘大会優勝者である豪傑が相手でなければ、悪夢ナイトメアで斬りかかっているところだ。
「あ、れ? なんか落ちたぜ、師匠」
 両手を握り締められ、力無くガクガクと前後に振られるままのウェインの懐から、陽光を反射して綺麗に輝く小瓶が零れ落ちて、ハンスは身を屈めてそれを拾い上げた。
「あ、サンキュ。――…ハンス?」
 右手で持ち上げた小さな落し物を持ち主に返そうとし、奇妙な間をあけたままで、手の中のそれを凝視する年下の正騎士。普段に無い様子を不審に思い、若輩ながら神の寵愛を受け文武の才気に溢れる、ナイツの称号を戴く少年は、相手の表情を伺うようにした。
「…師匠ッ、これ。なんで持って…っ」
「? オスカー先輩に貰ったんだけど。それ、どういうものか知ってるのか? ハンス」
「ええっ!? 師匠、知らねーのッ!?」
 凄い剣幕で訊ね返されても目を丸くするばかりである。コクコクと頷く武の師を前に、ハンスは何をか考え込むと、ぐいと、その腕を引っ張り、若草の匂いが気持ちよい地面へ二人揃って座り込んだ。
「まぁ…、師匠は、コッチ方面疎いからさ。知らなくても…当然なんだろうけど」
「……?」
 チャームポイントのソバカスが茶目っ気を醸し出す頬をうっすらと染め上げ、云い難そうに戸惑う赤毛の少年に、ウェインは不思議そうに黒無垢の瞳を瞬かせた。
「流石に、大きな声で言うもんじゃないからさ。ちょっと、耳かしてくれよな。師匠」
「…? いいけど?」
 素直に耳を傾けてくる、バーンシュタインが誇る騎士としての最高の栄誉を与えられた若きナイツに、軍に属するが故にその手合いの知識が充分に与えられ、年相応の興味が健やかに育まれた正騎士の少年は、己の見聞の一部を、囁きにて披露したのだった。



オスカーは攻めです。でも最近リバでもいけます
オスカーがカーマインに性的悪戯をするのは
もうデフォルトでいいと思います

変態という名の紳士参上☆

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