孤独の王



絶対たる王を失った冥界(せかい)は、少しずつ歪み始めていた。




「………」
 大王の魂に繋がる歪の前で佇む閻魔の秘書は、冷えた空気に白く残る呼気を意識して長く吐き出して、肩を落とし項垂れた。
 護れなかった、気付けなかった、助けられなかった。
 あんなにも長い時間を、共に過ごしてきたというのに、異変の欠片すら見落として。
「…情けない…」
 大王の補佐として、今まで自分は何を見てきたのだろう。
 今更、繰り言を口にしても何ひとつ事態は好転しない。閻魔を失った世界の秩序を守る事が、自分に出来る精一杯のそれだ。
 ――…本当は、彼ら――、大王の魂の破片を運んできてくれた人間たちと共に行きたい。死者を裁く無限の繰り返しの中で、砕けてしまった閻魔の想いをこの手で探し出したい。救いを求める声は、確かに、自分を呼んでいるというのに――…、けれど……ッ。
(閻魔を失った今、補佐である僕までが冥界を離れるわけには――…、)
 死神による魂の回収業務は一時休止状態にしてある。冥府の地で裁きを待っていた人の子の魂は、何処かへと消え失せてしまった。亡者の叫びへ取り込まれたのか、閻魔大王の魂が弾けた衝撃で現世へ強制送還されたのか――…、地獄へ堕ちていない事だけは確かだが。
 死神、と言えば現世では『命を刈り取る者』の印象が強いが、実際は『魂を導く者』だ。分かり易く例えれば、魂の運搬業者。死んだ人間の魂は自力で冥府へ辿り着く事は出来ない。そのままであれば、現世を彷徨うだけなので、そこで死神がわざわざ出迎えに行くというわけだ。家族や恋人、友を恋しがって現世へ在り続ける事を願う者も多いが、肉体を失った精神体は消耗が激しく、長く現世へ留まり続ければ魂ごと消滅してしまうか、正体(ココロ)を失くして悪霊と化す。理性を失っても、生前の執着はそのままである為――…自身の手で誰よりも愛した『モノ』を憑り殺してしまうという悲劇の連鎖が起こる。
「万が一、今回の一件が発端となって人魂の消失や大量の悪霊化なんて事になれば――、
 大王がその責を問われる事になるのは明白だ…。
 ……あのバカを無事に救出出来たとしても…、そうなってしまえば…意味がない……」

 あの人以外を
 あの人でなければ
 あの人しか――…、

 『大王』と、呼びたく、 ない。

  「――…ッ、くそっ…」
 肩が…震えて、押し殺し損ねた嗚咽が漏れる。
 こんなに、弱い自分は知らない。
 大王が不在であるこの時こそ、誰よりも毅然と前を向いていなければならないのに。

「だーかーら、何度も説明しているでおまー。このヘタレ芋め。略して、ヘモ! やーい、このヘモ〜♪ ヘーモヘモ〜♪」
「誰がヘモですか、このアホ摂政!
 だいたい、危険だからウロウロすんなって言ってあるのに、一人でふら〜っと出掛けるなんて、何してんですかアンタは」
「…ッ!」
 遠くから騒がしい声。
 倭国の歴史の中でも飛鳥と呼ばれる時代から、生きたまま大王の魂を宿してやってきた人間達だった。冥府の獄卒が、閻魔大王の秘書である鬼が不安に脅えている姿など、己の矜持に掛けて晒すわけにはゆかない。制服の袖で目許を乱暴に払い、ゆっくりと呼吸を整えた。凛と冷えた空気は直ぐに火照った頬の熱を奪い去ってくれて、大王の不在による気温の低下がこの瞬間だけ有難かった。
「あれぇ〜? 鬼さん…、え、っと。鬼男くんだよね? どーしたの、こんなところで」
「…ああ、歪から少しでも大王の気配が感じ取れないかと思って来てみたんだが…」
 流石にまだ目は赤いだろう。背後を振り向かずに、鬼男は歪へ集中しているフリをする。それに、あながち全てが嘘というわけでもない。ここへやってきた本来の目的は、それなのだから。
「……! なんッて上司思い!! このヘモに爪の垢でも煎じて飲ましてやりたいよ、全く!!   この半袖赤ジャージの変態ヘモがー、ツナおにぎりでも食べてろってんだい!」
「…この半袖ジャージはアンタが着ろって命令したんだろうが、もう忘れたのか、このアワビが!! あぁ!? いっぺん、ガタガタ言わすぞ!!」
「ぎゃぁあああーーーー!!」
「ちょっ…」
 ボギャッ、というエグい音に、鬼男は慌てて後ろを振り返る――が、目の前の光景に脱力した。
 何ということは無い、上司と部下という関係にある二人が仲良くじゃれあっているだけだ。妹子〜、ギブッ、ギブッ、と臣下であるはずの少年に間接技をキメられてもがく青ジャージの情けない姿が、在りし日の大王のそれと重なり――…懐かしいような寂しいような、複雑な心境になる。
「…仲がいいんだな」
「エエエエエ!!? この殺伐とした光景を見てその感想!!? よく見てこれ!! どう見ても、ドメスティックバイオレンスでおま!! しょーとくピンチ!!!」
「だ・ま・れ、アホ摂政〜〜〜ッ!!」
「鬼男くぅ〜…ん、だずげで…ぇ…ぐぇ」
 ギリギリギリ、と妹子に首を締めあげられて白目を剥く太子は、震える手を必死に伸ばして、弱々しく助けを求めた。
「………ッ!!」
 そう、助けを  ――… 求めたのだ。



「鬼男くんっ!! 鬼男くん、ストップ!! 頼むから!!!」
 悲痛な叫びに、は、と我に返ると、目の前には飛鳥の時代より召された幼い顔の――…、
「ッ!!」
 次の瞬間に、鬼男は己の行動に、息を呑んだ。
「…あ、――…、」
 妹子のジャージの胸倉を掴み上げ、その喉元に凶器と化した自身の魔爪を突きつける。それはまさしく、怒りに猛る冥界の『鬼』の姿、そのものであった。
「……ッ、ゴホッ、ごほッ…」
「妹子!」
 紅に閃いていた瞳に正気の光が灯ると同時に、妹子を持ち上げていた左手は力を失い、人外の力による暴力から解放された妹子は、ゼェゼェと苦しげな呼吸を繰り返した。そんな妹子の傍に寄り添い、気遣うように背中を擦る太子は、呆然とする鬼男へも優しく問いかける。
「…大丈夫かい? 鬼男くん」
「………、え …」
 一瞬、掛けられた言葉の意味が理解出来ずに、太子の顔を凝視してしまった鬼男に、もう一度、確かめる口調で、太子は同じ言葉を繰り返した。
「君は、大丈夫? 鬼男くん」
「…僕、は…、 な、ぜ…… 、
 申し訳ない…ッ」
「…だ、ッ、……だいじょ 、ぶ… 、だか、ら 」
 ヒュー、ヒューと喉を鳴らす姿は、どう見ても『大丈夫』では無いだろうに、にっこりと笑顔を向けてくれる妹子の強さと優しさに、鬼男はどう応えて良いか分からずに、ただ、申し訳無い、と力無く繰り返して俯いた。
「妹子〜、ホントにヘーキ?」
「だいじょーぶだって言ってンだろ、アホ太子。
 あー、でもちょっと仰向けになります。もうちょっと、酸素欲しい…。
 なので、太子は離れてて下さい。新鮮な空気にカレー臭が移ります」
「おまッ…! 上司が心配してるのに、なんて失礼な態度! 今度、お前の給料袋にツナ入れておいてやるからなッ!」
「そんな真似したら、マジでブッ殺しますよ。太子」
「…ごめんなさい」
 部下の黒い殺気に呑まれて、しおしおと小さくなってみせた太子は、さて、ともう一人を振り返った。褐色の肌に、威嚇の意にしては随分と可愛らしい黄金の角。口元には牙、指先の爪は自在に伸びて岩にも穴を開ける硬度を誇る、冥府の鬼――…閻魔大王の秘書である、獄卒鬼。
「…ほら、妹子も大丈夫って言ってるし、もーそんな顔しないでいいんだぞー?」
「……本当に、申し訳ない……」
「いいっていいって。んー、多分アレだよね。私が考え無しに、鬼男くんに、たすけてーなんて言っちゃったのがマズかったんだ。きっと、だいおーさんの事、思い浮かべちゃったんだよねぇ」
 ぽんぽん、と、肩を叩いて慰めると、ぐ、と涙を堪える表情を見せられて、太子は己の内のもう一つの魂――おそらく、閻魔大王なのだろう――が、愛おしさに震えるのを感じて、ぎゅう、と思わず鬼男を抱き寄せる。
「…っ、た、太子、…ッ」
 突然の行動に動揺はするものの、生きた人間を相手にした時の力加減を測りかね、鬼男は微かに身じろぐだけで抵抗らしい抵抗も出来ずに固まってしまう。
「よーしよし、ごめんねぇ。ちょっとね、ほら、なんだ。
 私の中の大王さんがね、鬼男くんをぎゅーってしてくれ、ってきゅーきゅー騒ぐものだから」
 だから、ちょっとこのままでもいいかな、と悪戯めいた表情で問われては、無言で頷くしかない。
(…………大王…)
 人の手で抱き締められる温もりの中、鬼男は、小さく、小さな、ひどくか細い声で、主を、…求めた……。



何だかんだ言っても太子はアレです
三人の上司の中でも特に王の器というか
ひとの上に立つ器だと思います
包容力もあるし、行動力もある感じですよね
芭蕉さんは優しすぎて、閻魔は達観し過ぎな感じ
でも、そんなところが彼らの魅力だと思います