二人の温度



 冥府へと導かれた人間達に大王を――…、ひいては冥界を含む六道全ての世界の命運を託す事となり、少しでもその手助けになればと宿泊場所の提供を申し出た鬼男の好意に甘え、閻魔庁の裏手に隣接している閻魔の居城の一室にて、倭国が飛鳥と呼ばれる時代から召された二人は、のびのびと寛いでいた。
「これ、いいですよねー。ふかふかしてるし。
 なんでも『ベッド』って言うらしいですよ。僕たちの国とは結構文化の違いがありますよね」
 ふわりと身体全体を包み込む上質のクッションに背中から転がり、妹子は気持ち良さそうに瞼を閉じて、心持ち弾んだ声で主である聖徳太子へ話しかける。その様はお気に入りのクッションの上で満足そうに鼻を鳴らす犬の仔のようで、ひどく可愛らしく微笑ましい。
「そうだなぁ…、これって中身はなんだろうね。妹子。
 冥界でしか用意出来ないものかなぁ、もし倭国にもある素材で出来てるなら是非取り入れたいよね。まぁ似たようなものでもいいけど。木材…かな。土台の上に布団を乗せてる感じだねぇ。けど、和室だと畳に痕が残ってそこから傷むかなー。それなら、そこだけ板間にするとか。…それに、建築様式も興味深いね。これだけしっかりした造りなら、寒さも充分に凌げるし。今回の件が落着したら技術者と話が出来ないものかな」
「………」
 何時になく真剣な様子で熱心に辺りを見回る太子に、知性溢れる統治者としての素養が垣間見え、決して口にはしないが妹子は心の奥底でそっと惚れ直す。またそれと同時に、普段からこうであってくれれば、自分ももう少し素直になれるのに、と苦さを感じて溜息をついた。
(出会った頃の太子は、ほんっとーにかっこよかったよなー…)
 冠位五位程度の豪族に倭国の支配者たる聖徳太子が目を留めるはずも無く、倭王の神輿に坐す姿は神々しくも畏れ多い、正しく神の名を冠するに相応しき賢人。
(……ホントは凄い人なんだよなー、太子って。
 氏や姓…生まれで身分の生き方も決まってた悪法を正して、能力で官位を授けるとか…。
 フツーは真っ先に自分の保身を考えるもんだし、思いついたとしても実行に移さないのが現実)
 ゴロリ、何となく面白くないものを感じて寝返りを打つ。
(…バカ太子。だから敵も多いんだってーの。いっつもヘラヘラしててさー。
 だいたい、政敵に命を狙われまくってるくせに、ふらっと護衛も付けずに出かけるってありえなくないか。バーカ。バカ太子。毎回毎回、僕がどんな思いでいるかも知りもしなくで…)
「いーもーこ」
「…わっ!? ななっ、なんですかっ、太子ッ!!」
「あ、起きてた」
「起きてますよ。太子より先に休むわけないでしょう」
 嬉しそうな締まりのない笑顔を向けられて、またも、釈然としない気持ちが湧きあがってくる。八当たりだと分かっているのに、言葉の端々に棘を散りばめて可愛くない受け答えをしてしまう妹子。
「? えーと、妹子? なんか機嫌悪い?」
「別に悪くなんてありません。それより、何ですか?」
 溺愛する部下にあからさまに刺々しい態度を取られて、しかしこれといった理由に思い当たらず、一人で慌てふためく青ジャージ。そんな上司の様子を横目に、妹子は極上の寝心地を約束してくれるだろう包み込む感触のスプリングから起き上がり、用件を問い質す。
「あ、うん。今、鬼男君がね。大浴場…、みんなで入るお風呂だそうなんだけど、を用意したから、是非疲れを癒して下さいって。ほら、こんなのも貸してもらっちゃったー」
 びろーん、と両手で広げて見せるそれは――…おそらく、服、なのだろう。薄手の白、格子と千鳥格子を交互に組み合わせた綺麗なデザインで、一枚の布地で袖が通せるように仕立ててある。それ一枚で出掛けるには色々と心許無い様子である為、室内着として活躍するのだろうが。
「…どうしたんですか。それ」
「えっへへー。浴衣、って言うらしいよ。この帯ってのを腰で結んで着るんだって」
「へぇ…。でも、こんなものどうするんですか? 外に来ていけるような感じじゃありませんけど」
 披露された『浴衣』に直接触れて質感を確かめると、やはり室内向けの服飾ではないかと小首を傾げる妹子に、太子は何故か勝ち誇って見せる。
「はっはっは、甘いな。そんなんだから妹子は何時までたってもヘモでおまー。  私たちのジャージってここまでの戦闘でよれよれで汗もかいてるし。だから、洗濯してくれるらしいんだよねー。けど、風呂から上がってすっぽーんでいるわけにもいかないから、これを代わりに着ておいて下さいって鬼男くんに渡されちゃったんだー。むっふふーん」
「……はぁ」
 上官の得体の知れない上機嫌に嫌な予感を覚えつつ、妹子は着替えの白浴衣一式を受け取る。キチンと畳まれた中に慎ましく下着の替えも用意されている事に気付いて、流石閻魔大王の秘書だけあって、配慮は完璧だと妙なところに感心してしまう妹子だ。
「…うー。そうですね、お風呂…借りようかな」
 太子の妙なテンションが気に掛かるが、言われてみれば普段着にしている赤ジャージが汚れている――気がしないでもない。冥府から湧き出した魔物と戦い続けて限界まで酷使された体は疲労を訴え掛けていたが、今更この状況で寝直すのには大きな抵抗を感じる。
「そうと決まったら!! さ、いくでおまー!! 芭蕉さんもまってるでおまー!!」
「ちょっ、太子!?」
 今にも弾みだしそうな声の太子に急に腕を引かれて、体勢を崩して妹子は慌てる。風呂で汗を流したい気持ちは確かにあり、特に反対する理由は無い――上司の異様な盛り上がり以外は、であるが。この破天荒な倭国の王の機嫌が良とロクな事が無いと、誰よりも太子の生態に詳しいだけに、部下である五位の冠位を戴く童顔の青年は警戒する。
「…分かりました。ああもう、ひっぱらないでください。行きます、行きますからッ」
「ひゃっほーい! 早くいくぞ! 風呂場まで競争だ、妹子!!」
「は!? なんですか、それ。ちょっ、太子!? 待って下さい、太子!!」
 閻魔大王の居城は、主が不在とあって人の世界より導かれし者達へと貸し切り状態だ。誰に遠慮することも無いので、思う存分騒ぎたてながら大浴場へと移動する二人を、通りかかった鬼男が呼び止めた。
「今らか風呂か?」
「あ、鬼男さん。すみません、煩くしちゃって…」
 基本的に育ちの良い妹子は鬼男に気付くと、背筋を伸ばしペコリと頭を下げる。世話になっている以上、最低限の礼を尽くすべきだと考える真面目な妹子らしい態度に、地獄の獄卒鬼は苦笑を洩らした。
「そんなに硬くならなくていい。頭を下げるのは此方の方だ。
 風呂の温度は、一応、40℃に設定してある。入口の設定温度調整パネルを触れば温度の変更は出来るから、好きに調整してくれ。
 今着ている服は後から受け取りに行くから、適当に脱衣所の籠に纏めておいてくれると助かる」
「何から何まですみません。お世話になります。
 あ、でも出来たら下着は自分で洗わせて頂けませんか…?」
 ほんのり頬を染めて申し出る赤ジャージ姿の人間に、鬼男は意表を突かれたように目を丸くして――、褐色の肌に紅玉の瞳というエキゾチックな風貌に優しげな微笑みを浮かべた。
「それなら…、脱衣所の端に簡易なものだが乾燥機付きの洗濯機がある。傍に洗剤も置いてあるから、自由に使って貰って構わない。使い方は…確か、イラスト付きのマニュアルが傍にあるからそれを読んでくれ。多分、言語の問題はないだろう」
「有難うございます」
 鬼男からの提案に、ぱっと表情を明るくしてみせる妹子の直ぐ傍で、いい加減痺れを切らしたらしい太子が、グイ、と格闘家にしては細い腕を無理やり掴んで引っ張った。
「うわ?」
「ほら早く行くでおま! イモのくせに、摂政を放置プレイなんてなんてザマだこの赤イモ! オサツイモ! もう、ビックリして汁が出るよ。汁が。しょーとく汁は、ちょっとヌメってあまじょっぱぁーい♪」
「…分かったから歌うな! って、うわ、ホンキで汁を出さないで下さいよッ!
 ああもうっ、ヌルってしてる、ヌルって!! ちょ、放して下さいッ、太子!!」
「…あ、それと…。…、行ったか。ま、いいか」
 忙しなく立ち去ってゆく二人を見送る鬼男は、ひとつ、寂しげな風情で溜息を吐くと、手元の報告書を抱え直し、閻魔の私室の方へと足を向けたのだった。



「いっちばんのりー!!」
「ああもう、子どもじゃないんですから。走らない…ってこら! 飛び込むな、アホ太子!!」
 大浴場に響き渡るはしゃいだ声と、それを窘める呆れた風情の従者の声。
 続いて、バッシャーンと大きな飛沫があがり、たっぷりと張られた湯の中で悠々と手足を伸ばして湯治を楽しんでいた理知的な顔立ちの青年は、騒音の発生源へと視線を流した。
「あれっ、曽良くんだ。んー、芭蕉さんはいないなぁ?
 おーい、妹子。早くはいろー。何してんだ、このオソイモめー、略してお前なんかウナだ!」
「どう略したらウマになるんだよ!!…ったく、洗濯物回してるんですよ。
 直ぐに行きますから、少しは大人しく待ってて下さい。
 それと、曽良さんに迷惑かけないで下さいよ!」
「はっはっはー。バカめ。そんな事をこの摂政がするわけないで…うぎゃーーー!!!」
「! 太子ッ!!?」
 幾らアホでバカで情けなくてどうしようもない上司でも、仮にも倭国を統治する王である限り、身捨てるわけにはゆかない。護衛としての責を負う妹子は太子の悲鳴を聞き付けるが早いが、一目散に浴場へ飛び込んで――…入口で脱力した。
「…なにやってるんですか。アンタは…」
「いもっ、いもっ、妹子ッ!! なんかいる!! なんかいるって、お前!! そこ!! それ!!」
 浴場の上品な青磁色のタイルの上で、尻を出した格好で仰向けに転がり、あわあわと脅える姿は無様以外の何物でもない。どうしてこんなのに惚れたのかと、自問自答してしまう有様だ。
「…いるって、一体何が…」
 顔色ひとつ変えずに湯船に浸かっている曽良の様子を窺う限り、毛先程の危険も感じられない。
「わからん! わからんけど、なんか青くて、緑で、ふわーしゃー、もあーって!!」
「……ああもう、それじゃ分かりませんよ」
 頭を抱える従者に多少なりともの同情を覚えたのか、二人の会話に曽良が口を挟んだ。
「おそらく、空鬼をみたんでしょう。掌サイズの鬼で閻魔城の建築管理を任されているそうです。飛行中だけ、青や緑に発光するそうですよ。勿論、危険な魔物の類ではありませんから、脅える必要もありません」
「へぇ…」
 同じ時期に冥府を訪れたにも関わらずの曽良の博識ぶりに感動を覚え、妹子は風呂場のタイルに情けなく突っ伏す太子に構わず、掛け湯を済ますと湯船へゆっくりと浸かり込む。
「うわ…、やっぱり気持ちいいなー。んー」
 指先からじんわりと沁み込んでくる温かさに、栗色の髪も可愛らしい童顔の青年は気持ち良さそうに瞼を閉じた。官位五位から軽い放置プレイを受けた太子は、風呂場の隅で三角座りをして泣き真似を開始するという、面倒な拗ね方をしてみせるが、知らぬ存ぜぬを通す部下男だ。
「そういえば、曽良さん」
「はい」
「芭蕉さんは一緒じゃないんですか?」
「ええ、芭蕉さんなら少ししてから来るそうです。なんでも、一緒に入るのが恥ずかしいとか」
「へぇ。奥ゆかしい人なんですね」
 古風で温和な雰囲気を纏う壮年の姿を思い出し、言われてみればと納得する妹子だ。何処ぞのアホ摂政とは大違いだと感心さえしてしまう。流石に、人眼のあるところで不埒な行為に及ぶ事は無いだろうが、もしこれで大浴場に二人っきりというシチュエーションだったなら、相応の危険があったはずに違いないと、胸を撫で下ろす。
「……ん? どうしたんですか?」
 ぼんやりと思考に耽っていた妹子は、不意に強い視線を感じて曽良へと意識を戻した。すると、自身の行為を不躾と省りみたのか、いえ、と視線を外されて、ますます訳が分からないと小首を傾げる妹子だ。
「だめーーーーーーーーっ!!!
 幾ら、曽良君といえども、私の妹子をヤラシイ目付きで舐めるように見たらダメーーーーーーー!! それは、私だけの特権でおます!!!!」
「死ねッ!!!」
「び、びぼごっ…びど、ぶぐぐぐぐ…」
 先程までイジケテいたくせに、妙に必死になって恥知らずな事を口走り抱きついてくる太子を、拳一発で湯船の中へ沈める妹子に、陶器のように滑らかな肌を桜色へ染め上げて仄かな色気を漂わせる整った面差しの青年は、静かに口を開いた。
「…すみません。余計な誤解をさせましたね。
 魔物相手に格闘で戦り合っているにしては、随分と華奢な体つきだと思ったものですから」
「……う。やっぱりそう…見えます…か。
 これでも鍛えてるんですけど、筋肉付きにくいみたいで…。
 本当は、こうムキムキな感じにしたいんですけど」
 むん、と左腕で力瘤を作って筋肉を強調してみせる妹子は、確かに無駄な贅肉も無く引き締まった肢体をしているが――…絶対的に厚みが不足している。骨格の問題もあるのだろう。腕力で敵を圧倒するのではなく、俊敏さで翻弄するタイプの格闘家であるため、重量が増す重たい筋肉は必要ないのだろうが、本人は至って不服そうだ。
「ダメーッ!! 妹子がムキムキマッチョになるなんて、断固反対! しょーとく反対!! そんな事したら不敬罪で毎日ツナおにぎりの刑にしてやるからなー!!!」
「ちょっ! くっつかないで下さいよ、太子ッ!
 ああもう、ウザッ!! ウザい、このオッサン!!」
「ウザくてもいいから、マッチョはアカンてー! やめてぇなー!!」
 湯の中に沈んでいたはずの怪人X、もとい太子が水飛沫と共に必死の形相でしがみついてくるのに慌てる妹子。そして、二人のある意味微笑ましい遣り取りを静観する曽良。太子の余に脅えた様子に、試しにとばかりにムキムキ兄貴体型の妹子を思い描いて、僅かに眉根を寄せた後、パタパタと不気味な想像を追い払う。大概の事には動じない曽良ですら許容範囲越えだ。太子に耐えられようはずがないのも道理。
「あーもう!! 心配しなくてもなりませんってば!
 今、言ったとーりですって! 筋肉付きにくいんですって!!」
「ホフゥ〜〜〜〜〜、流石は私の部下。萌えツボを心得てるゾ! 妹子☆」
 グッと親指を立て何かを成し遂げたように誇らしげな表情を向けてくる太子へ、堪忍袋の緒もブチ切れそうにながらも、何とか耐えて見せる妹子だ。類稀なる資質を天より賜る代償か、時折頭を抱えたくなるような異常行動に走る君主を、生来の生真面目さと一途さで支える部下の青年の姿には、苦労の影が垣間見える。
「全くもう…。僕の事はいいんですよ。それより、曽良さんこそ…絲で戦うなんて凄いですよね。何か、特別な武道の心得でもあるんですか?」
「いえ、生憎と」
「ええっ!? そうなんですか?」
 純粋な輝きの琥珀色の瞳をくりくりと大きくさせて素直に驚きを表にする妹子へ、曽良は、はい、と極短く受け答えた。無表情や無愛想――…というよりは、他人との接触を意図的に抑えたその様子に、マッチョ妹子という悪夢を回避して安堵感と共にまったりと湯船に浮かぶ太子は、おや、と胸中で首を捻った。警戒心ゼロの茶色い毛並みのモフモフわんこに全力で懐かれれば、誰であれ態度を軟化させる。それなのに、随分と壁の厚い事だと、観察に力が入る。
「ふぇ〜…、じゃあ、それってもしかして独学なんですか?」
「最初は、隠密の方に護身術として教わりました。そこから先は独学ですね」
「お…ん、みつ?」
 飛鳥時代には闇に生きる将軍直轄の忍など存在しない。聞きなれない言葉を擬えるように反芻する妹子の戸惑いを感じ取って、曽良は説明に補足を加えた。
「隠密とは、主の命に従い暗殺や諜報活動を行う精鋭達の総称です。忍と呼ぶ事もあります」
「……はぁ。随分と顔が広いんですね」
 穏やかでは無い響きにギクリを身を竦ませて、妹子は表情を強張らせた。常に、政敵に命を狙われる国主の護衛を任される立場であるだけに、身近過ぎる響きを悪い冗談と受け流せるだけの度量はまだ備わってはいない。
「いーもーこー」
「うわっ! ちょ!! なんですか!!」
 と、突如背後から襲った激しい悪寒に妹子は身の危険を感じて、その場を飛び退く。チッ、と悔しそうに舌打ちする姿に、半ば呆れつつも義理堅い性格から仕方なく話を振ってみる。
「…どうしたんですか、急に」
「だーって、妹子がヘイモの分際で私を放っておくから、ちょっとお仕置きに、あつぅ〜いチッスの一つでもかましてみようかなーって」
「ドアホォ!!!!」
 ドガスッ、とキレの良い右ストレートが見事にセクハラ上司の左頬へ炸裂して、勢い余って大浴場の入口へ吹き飛ばされる太子に、更に追撃を掛けたい気持ちをどうにか堪えると、妹子はお湯の熱さばかりの所為では無く頬を染め上げ、ぷるぷると全身を震わせた。
「グハァッ!! い、…いもこ…、流石に手加減無しだと死ぬ…。ほんきで…死んじゃう…。ぱたり」
「死ねッ!! いっそ、死んでしまえ!! この恥知らずッ!!!」
「ちょ! まっ! 待って、タンマタンマ! ロープロープ!!」
「………」
 ――…飛鳥、と呼ばれる朝廷の時代を統治、その聡明さと政治的手腕にて後世に名を残す倭国の王・聖徳太子と、官位五位という身分にありながらも、遣隋使として海を渡り主君の名代を立派に果たした臣下の鏡である小野妹子、それら歴史に名を刻む偉人達の――…所謂痴話喧嘩に、曽良はやれやれと肩を落とし、我関せずを決め込んだ。
「…ふぅ。騒がしくてすみません、曽良さん」
 どうしようもない上司を拳で黙らせてから、仕切り直しとばかりに湯船へ浸かり直す妹子は、人懐っこい笑顔を浮かべて再び世間話に花を咲かせる。
「芭蕉さんとは、ずっと二人で旅を? 他にお弟子さんはいないんですか?」
「二人旅ですね。他に弟子はいません。尤も、弟子入りを望む者は後を絶ちませんが」
「へぇ…、やっぱり芭蕉さんって凄い人なんですね」
 一見したところ、縁側で猫を傍らに愛でながらお茶を楽しむ御隠居のようにしか見えないのだが、能ある鷹は爪を隠すということなのだろう。大体、河合曽良という破綻した人物に、師として仰がれている事実だけでも、十分過ぎる程凄い。
「ええ、…尊敬しています」
「………!」
「…どうかされましたか?」
「あ、や、なんでもっ。なんでもないッ…です」
 ――…『尊敬』なんて意外過ぎる言葉を、それはもう、見ている方が赤面してしまう程に甘く幸福で満たされた微笑みで口にされたものだから、感情を抑えるのを不得手としている妹子は、そのままストンと真赤になって慌てふためいてしまう。
「そうですか。それでは、僕はそろそろ上がりますね」
「あ、はい。じゃあ、また明日」
「ええ。余り長湯をされると体に毒ですから、お二人も程々に…」
「…? はい、有難うございます」
 何処か含みを持たせた言い方に小首を傾げつつも、素直に忠告を聞き入れるのは、飛鳥の時代を君主に義を尽くし生き抜いた――…忠臣である小野妹子…、いや、こうしていると愛し愛される術を知る無邪気な仔犬のようだ。全力で主人に懐き、命すら賭して大切な者を護り抜く健気な…――、

 自身の生き方とは相容れぬ、愛される為に生まれたような、純真な輝きを放つ真っ直ぐな魂。

「…それでは、失礼します」
 不毛な思考を無理やり中断させて、タオルを腰に巻き直し、曽良は早足で入口へと向かった。一人、取り残された妹子は、やっぱり気難しい人だよなーとか、でも、話してみると結構いい人だよなーとか、そういえば曽良さんって、ほんとーにカッコイイよなぁ…とか、徒然と廻らせながら筋肉を解すように四肢を伸ばした。
「いもこーーーーーーーーーっ!!!」
「うわっ!!? 」

 バッシャーン!!

 折角、静かになったと思えば再び訪れた騒音元。先程まで大浴場の端でK.Oされてノビていた太子が目を覚ましたらしく、ひどい、ひどいと泣き喚きながら、バッシャバッシャと湯の中を犬かきで泳いで向かってくるものだから、気持ち悪いことこの上無い光景だった。
「…太子、そのままコッチ近付いたら撃ち殺しますよ」
「ウェエエエエッ!? ちょ、狙撃ッ!? それが護衛の言う言葉!?」
「生憎、ここは冥府で倭国ではありませんから、身分や役目なんて知った事じゃありませんね」
「チクショー!! 覚えてろ、この冠位五位めぇー!!」
 湯の中で地団駄を踏むアホ上司を冷やかな視線で見遣ってから――…、流石に茹だってきたと風呂の縁へ座り込む妹子だ。無論、対・変態太子対策としての鉄壁腰タオルは忘れない。
「ねぇ、太子」
「んあ? なんだ、妹子」
「曽良さんって、本当に芭蕉さんの事好きなんですね。
 普段がアレだから分かりにくいけど。
 それを知ってるから芭蕉さんも寛容でいられるんだろうなぁ」
 パシャパシャと足の爪先で湯水を弾きながら、まるで自分の事を語るように、愛らしくはにかんで見せる愛らしい部下の姿に、ニマニマと変態臭い笑みを浮かべていた太子は、コホンと咳払いをひとつ、まるで教鞭を執るようなワザとらしい口調で指摘を入れた。
「なーに言ってるんだ妹子」
「へ?」
「曽良くんが、芭蕉さんの事好きだなんて、当然じゃないか。
 そーゆー関係だぞ、あの二人」
「………へ?」
 目が点、とはこのことだろう。くりりっと愛らしい妹子のつぶらな瞳が、それはもう皿のようにまんまるく、大きく見開かれて。口元は、ポカンと開いたままになる。五位の冠を戴く身分のくせに、純情の上天然な護衛の青年は、三十秒程固まってから、一気に声を張り上げた。
「えええええええええええええっ!!!?  ええ? えええええ!?
 なっ、ええええ!!?
 だっ、えっ、そっ、そんなっ、そ、そういう関係って、そ、そ、そういう関係ですかッ!??」
「んー、そうだよー。『こういう関係』ね」
 妹子の動揺に付け込むように、その細い手首を掴み引き寄せると、ちゅっ、とワザと大袈裟な音を立て首筋に接吻を仕掛ける太子。タチの悪い君主の掌の上で、良い様に弄ばれる家臣の青年は、真っ赤に熟れた顔で、ぱくぱく、と口を開けたり閉めたり忙しい。
「な、なにしっ…、や、それより、え、……ええええぇっ……」
 常に冷静沈着――…と言うありがちな枠などに収まり切らず、感情欠落者のような立ち振る舞いを披露する、切れ長の眼差しも魅力的な迫力美形の青年に、そういった機微が存在している事自体が在り得ない。いや、最早奇跡と言わざるを得ない事態に思考が空回りする妹子だ。
「たっ、たたた、……っ、たい、」
「んー?」
 いっそ面白い位に動転して見せる恋しい相手の心根の素直さに、可愛いなぁ、とご満悦状態の太子は、必死に何事かを口にしようとするワンコのような護衛に生返事をする。
「…た、太子は、どうしてそんな事を御存知なんですか?
 芭蕉さんや曽良さんとは、此方で初めてお会いしたはずですよね?」
「ああ、そんなの簡単な事だよ。妹子」
 当然湧いてくる疑問に対し、ハッハッハッハ、と何処か勝ち誇った顔で踏ん反り返る太子へ、多少の苛立ちを覚えながらも、なんとか怒りを遣り過ごす妹子の賢明さは称賛に値する。
「妹子君、チミは気付かなかったようだがね。
 曽良くん――、彼の首筋とか、項とか、脇とか、内腿とか、うっすらキスマー…」
「変態ッ!!」
「ほべっ!!!」
 言い終わらぬ内の鉄拳制裁に、軽く吹っ飛ぶ太子。修羅の様相で、両手の指をゴキゴキと鳴らして、ゆらりと仁王に立つ妹子。無論、風呂場のタイルへうつ伏せ打ちのめされる当の人物は訳が分からずに、あわわわと四つん這い状態で逃げ惑う。
「き、急に何するでおま!! この危険イモ! ドメスティックイモ!!」
「うるさい、この変質者…ッ!! 僕が気付かなかったキスマークに気付くなんてッ…!!
 どれだけイヤらしい目で曽良さんの事を見てたんですかッ、うっ、内腿とかッ…!!
 このっ…、ド変態ッ!!! エロ摂政!! 死ねッ!! ホントに死んでしまえ!!」
「どぉわあああああっ!! い、妹子ッ!! 誤解でおま!! や、やめっ、アーーーッ!!!」



「…『それ』はどうしたんだ?」
 籠に纏めてある洗い物を回収に来た金髪の獄卒鬼は、広々とした浴場で疲れを癒してもらうはずの人間の客人等、その内の一人であるはずの偉人が、ボロ雑巾のように脱衣所の床に捨て置かれているのを見て、困惑のままに臣下の青年へ問いかけた。
「いいんです。気にしないで下さい。
 あ、お風呂ありがとうございました。とてもいい湯加減でした」
「あ、ああ」
「この…、ええと、浴衣? ですか? も貸して頂いてありがとうございます。助かります。
 僕たち、本当に着のみ着のままでココに来てしまったものですから」
「あ、ああ。そんなもので良ければ、貰ってくれても構わないんだが…、その…」
「……、い、いもこの、なまあし…」
「死ね」
「げぼぉっ!!」
 セクハラ発言の上司を容赦なく踏みつける妹子は、千鳥格子模様が薄い生地にアクセントのように織り込まれている白の浴衣を、臙脂の帯でキリリと着こなしていた。可愛らしさの中に凛々しさのを感じる姿は、流石は倭国の客人と感心するところだ。
「全く…。僕は洗濯物とってきますから、サッサと起き上がって着替えてくださいね、太子」
 冷たく言い捨ててスタスタと乾燥機付きの洗濯機へ歩いてゆく臣下に、おにぃ〜、と呻きながらひいこら上体を起こす太子に、呆れ気味ながらも鬼男は脱衣所の上棚から大きめのタオルを取り出し、その冷えた肩を包み込むように掛けた。
「…鬼男くんったら優しい」
「………」
「鬼男くん?」
「…なんでもありま…、っ、…なんでもない」
 じーん、とタオルにくるまりながら起き上がる太子に――、決して容姿が似通っているわけでもないのに、彼(か)の面影を重ねてしまい鬼男は慌てて視線を逸らした。秘書を務める鬼の小奇麗に纏まった顔立ちの目許がほんのり赤く染まっているのを見てとり、倭国の王は首を傾げた。これは、好かれているのだろうか。自惚れていいかな、撫でても大丈夫かな、と恐る恐る。手を伸ばし掛け、て――…、
「たいしー、着替えましたかー?
 って、アンタまだすっぱだかで…、なにやってんですか! もー!!
 ホラ、着替え!!」
 閻魔大王の秘書と、その魂の欠片を宿した二人の間の微妙な空気を、柴の仔犬のような容姿の臣下が無意識に打ち破る。
 どうしようもない上司を叱り飛ばしながらも、生来の面倒見の良さから、用意された浴衣を手に取って座り込む太子へ投げつけた。
「どわぁっ!? ちょ、妹子!? 私、上司だよ!!? なにこの扱い!!」
「ウルサイ。ちったー上司らしい事してから言え。このダメ男」
「ぬじゃらぽー!! おまっ、この上司にしたい有名人アンケート上位独走の聖徳太子様にむかって!!」
「はいはい、分かった、分かりました。じゃ、上司にしたい太子様。服を着てください。早く」
「むっきょーーーーーー!!」
「………」
 例の如く微笑ましい言い合いを始めた二人を、仲の良い事だ、と呆れつつも――…チクリと胸の奥底へ感じる棘のような痛み。緩やかにそれを振り払いながら、鬼男は静かに賑やかな脱衣所を後にした。



鬼男 ⇒太子フラグが立っていますが
閻魔の魂が宿るのでどうしても…、という感じです
そんな事を言えば、芭蕉さんもですけど
同じ「王」という立場と、そのオープンさから
太子のが面影を追いやすいんですね
太子もヘタに閻魔の欠片を持ってるものだから
鬼男が可愛く見えてしまう
びみょーな関係に気付いてしまって
焼きイモができればいいと思います