正しいコドモのしつけ方
ラブリーわんこ
マスターが口をきいてくれなくなってから、二日が過ぎた。
「う〜……」
ころん、と。
一年前まで大きく余っていたはずのベッドのギリギリにまで両腕両足を伸ばし。何処か幼い表情の赤毛の青年は、不機嫌そうに唸った。
元・ピノッチアの青年、ランパートは寝返りをうつと再び小さく唸る。
いや、不機嫌というよりは途方に暮れている、といった方がしっくりくるのかもしれない。眉根を寄せ、考え込む姿は、明朗快活な彼としては珍しいことだ。
元々、細々した考え事は好きではなく、悩むよりも体を動かすタイプなのだから。
「なんでかなぁ〜」
全く以て、凹んでいる様子の元・ピノッチア。
「俺、何やったっけ。マスター、ずーっと怒ってンだよなぁ」
はぁ、と。
口をついてでるのは、愚痴と溜息ばかりなり、だ。
小さな頃から、自分を慈しみそれは両手一杯の愛情でもって育ててくれた親代わり。そして、今は愛する恋人である黒髪二枚目の青年へ、思いを馳せれば、ここ二日ろくに触れていないあのしなやかな肢体が思い出される。
「はぁ〜…。ぜんっぜん、俺、心当たりないんだよなぁ」
毎日のように肌を重ねていただけに、この状況はかなりキツイ。元々が淡泊に出来てるらしいマスターの方はおそらくそれほどの不自由を感じてはないのだろうが、健康な青少年としては辛い禁欲生活なわけだ。
ごろ〜ん、と。
大きめの花柄枕を抱えて途方に暮れる姿は、これはこれでなんとも笑える可愛さを醸し出しているのだが、当人、それどろこじゃない。
「弱ったよなぁ…」
心の底からの言葉は、おもーく沈んでいた。
「あら、待って。待ってくださいな」
「?」
買い物に街に出ていた黒髪の青年は、耳に馴染んだ可愛らしい声に呼び止められ、背後を振り返った。と、そこには、ちょこんと知り合いのシスターが微笑んでいる。
「こんにちわ、お買い物ですか」
「ああ…シスター、こんにちわ。ええ、食料品をちょっとね。
貴女こそ、こんな昼間に教会を出かけてられるなんて珍しいんじゃないですか」
極々小規模ながら孤児院をも経営する教会のシスターである彼女は、それこそ、子ども達が活発な昼間は、その世話に忙殺され街を散策する暇もないはずだ。
当然の疑問に、シスターはころころと笑った。
「うふふ、そうですわね。
けど、今日はリィナの誕生日ですのよ。だからケーキを焼こうと思ったんですけど、材料を買い忘れてしまって、慌ててこうしてやってきたんですよ」
「おや、…意外にそそっかしいんですね? シスター」
「ふふ、そうなんですの。私ったら、昔からあわてん坊さんで」
にこやかに道ばたで談笑する二人を、傍行く人たちはつい、まじまじと魅入ってしまう。 シスターもさることながら、青年の風貌もなかなかもので。美男美女の取り合わせに、どうしても興味本意の視線が集まろうというものだ。
「あら、そうそう。
これ、ランパートちゃんに渡しておいてもらえますかしら」
言って、シスターは小さな紙袋を手渡してきた。どうやら、これが用事だったようだ。
「…これは?」
きょとんとする青年に、楚々としたシスターは悪戯っぽい表情をする。神に仕える清廉潔白であるべき彼女がそのような仕草をするだけで、何故かドキリとしてしまうのは、男性として当然の反応か。
「ふふっ、よいモノですわ。
秘密ですけど……ランパートちゃん、貴方が口をきいてくれないって私に相談にきたんですのよ♪ 喧嘩なされたんですか」
「……! ……喧嘩という程のものじゃ……」
言葉を濁らせるマスターに、慎み深い女性は穏やかに謝罪をした。
「……ごめんなさい。
私が口を出すことではありませんでしたわ、お二人の問題ですものね」
「いえっ、そんなことはっ!」
女性を、特に、このような慎ましやかなレディに厭な思いをさせるのは男としてマナー違反だ。慌ててシスターの陰った眼差しに詫びれば、聖母のような微笑みをかえしてくれる。
「うふふ、早く仲直り出来るといいですわね」
「……え、えぇ。まぁ…」
綺麗な女性の優しい心遣いをはぐらかしつつ、マスターはその場から逃げるように立ち去ったのだった。
残されたシスターの、何処か愉しげな表情には気がつかずに。
喧嘩、という程のものではない。
確かにそうなのだ。
こちらが一方的に相手に対して腹を立てているだけでは、それは喧嘩とは言わないだろう。無論、他方が痺れを切らして怒り出せばめでたく喧嘩関係の成立となるのだが。
とにかく、マスターは年若い恋人を無視し、視界に入れないように。声を掛けられようと、甘えてこられようと、ついには不埒な行為にまで及ぼうとしても。
思いっきり怒りのオーラを漂わせて睨み付ければ、まるで飼い主に叱りつけられた忠犬さながら、すごすご身を引くのだ。
喧嘩、なんてものじゃない。
なにせ。
「俺が何を怒ってるかさえ判ってないのに…、
……まぁ、俺もたいがい大人気ないけど…な……」
よくよく考えれば、いや、考えなくとも、相手は生後一年少しのお子さまどころか、赤ん坊レベル。真面目に腹を立てるのもバカバカしいのだが、しかし、見た目が立派な成人男子である限り、やはり世間一般常識に当てはめた良識を持って貰わないと困る。
そう、困るのだ。とっても。
「はー……」
二日前。
子ども達を連れてピクニックだと、皆が出払い静まり返った教会内で。
いつ、人が来るかも知れぬ……子ども達やシスターが帰ってくるとも知れぬ礼拝堂で、深く接吻を、それ以上の行為へ。
無論、その場は飼い主のプライド…ではなく、育て親としてのプライドにかけて難を逃れたのだが、余りの節操の無さに怒り出したマスターを前に、肝心のランパートといえば何を怒られたのか、まさに、きょとんとした不思議顔。
それを前に、起こり散らす気力も失せ。
かといって、わざわざ一から、こういう場合はダメだとか、説明する気にもなれず。
我ながら子どもっぽい当てつけだとは思うのだが、一方的な無視という手をとってしまっている。
考えあぐねて顔を上げれば、既に家の前。
シスターから手渡された紙袋がかさりと渇いた音をたてる。
「何時までも腹を立てていても仕方がない、か。
…ずっと顔も合わせず口もきかないってわけにもいかないし……」
ここ二日間ずっと、寂しげな視線を送り続けてくる育て子を意識の外に追いやるのも、そろそろ限界でもあることだし。
元々、養い子兼恋人であるランパートのことが可愛くて仕方がないのが、マスターなのだ。怒りに任せての行動とはいえ、黒の青年自身、今の状況は辛くもある。
普段、無駄に元気な恋人が、目に見えて落ち込んでいるものだから。
自業自得とはいえ、不憫にすら思えてくる。
「………」
正体の知れぬ預かり物を片手に、マスターはランパートの部屋へ足を向けたのだった。
「……ランパート、いないのか?」
軽いノックを二・三度、繰り返して、黒のロングコートを羽織った青年は控えめに呼びかけてみる。
いないならいないで、頼まれたものだけ部屋に置いておこうと。
そう思ったマスターが静かに扉を開けると、我が儘な恋人は軽い寝息をたてて、ベッドに仰向けていた。
(………寝てる。)
暖房が十分に効かされており、布団もかけずに、そのまま無防備にシーツの上に四肢を投げ出しているのだ。
幼い印象を与えるぱっちりとした琥珀は今は、瞼の奥に。そうすると、ガラリと雰囲気を変え、一人前のオトコのように見えるから不思議だ。
(…なにもかもが、まるっきり子どもっていうわけでもないけど…な)
傍のテーブルの上に預かり物を置くと、ベッドの横腹に背中を預けるようにして座り込み、マスターは小さく息を吐いた。
――…と、
「………」
やけにふかふかと温もった両腕が、優しく自分を包み込むのを知り、好きにさせる。
「…マスター」
「……なんだ?」
「…まだ、怒ってんのかよ…?」
右の肩口に懐いてくる赤毛を片手で宥めつつ、若い恋人の不安に、マスターは微苦笑を浮かべた。
「……もう、外であんな真似しないな?」
「…………? って、さ。俺、なんかマスターの気に障ること…した?」
「…………」
やはり、根本的な部分から説明をしなければならないらしい。
変に拗くれて育たなかったことは有り難いのだが、ここまで純粋培養なものどうだろうかと、保護者として少々、責任を感じてしまうマスターだ。
「あのな、ランパート。
家の外や人目のあるところではキスしたりとか、抱きついたりとか、しないで欲しいんだ。わかるか?」
「………なんで?」
納得がいかないと言う風に理由を求めるランパートだが、何故と問われて事細かに説明するものでも、出来るものでもない。なので、
「――人間はそういうものなんだ」
と、細々した説明を全て切り捨てて簡潔に答える。無論、情熱的な恋人がその一言で引き下がるわけはないのだが。
「そういうものって、……言われても。
俺、何時でもマスターに触ってたいし、何処でだって欲情するぜ……? そーゆー時どうしろっていうんだよ、マスター」
「……ランパート、頼むから…もう少し言葉を選んでくれないか」
面と向かって『貴方に欲情してます』などという台詞を吐かれて、羞恥より何より、呆れて頭を抱えてしまう親代わりだ。
「じゃ、何ていうんだよ」
「せめて、ほら。『欲しい』とか『愛したい』とか、色々あるだろう…?」
いちいち、こんなことまでご丁寧な解説を行っている自分が如何にも滑稽で、軽く吐息をつきながらマスターは答えた。
「じゃ……さ。」
すると、ランパートは琥珀の瞳に悪戯な光を灯して、マスターに愛の言葉を囁いた。
「〜〜〜〜〜〜〜っ!!?」
見る間に頬を紅潮させる黒髪の青年は、陸揚げされた魚のように口をぱくぱくとさせ、二の句も告げない様子。
そして、とうとうすっかり頭を抱え込んでしまう。
「〜〜〜〜ランパート、その台詞。何処で覚えた…?」
「んー? カシスにだぜっ、こう言えばイチコロだって。以前、家に来たときにさ♪」
…………………………………あいつかぁぁぁっ!!!
百害あって一利無しとはよく言った物だ、正に、あの自称マダム・キラーを形容するに相応しい言葉ではないだろうか。
何を吹き込んだかと思えば……っ。
『腰、抜けるくらい悦くしてやるぜ…?』
と、きたものだ。
意外に良い声しているものだから、一瞬、ぞくりとしてしまった自分が情けない。
「…ランパート、カシスは少し普通と違うから、余り真似をするんじゃない……っ。何だ、ランパート?」
片手でこめかみの辺りを軽く押さえ、怒りをやり過ごす常識人な恋人。彼を抱き締める力を強め、やんちゃな雰囲気の青年は念を押すように呟いた。
「…外で、しちゃダメなんだよな?」
「――…ああ。」
「絶対?」
「絶対だ」
「どーーーーーしてもシたくなったら?」
「ガマンしなさいっ!」
「…………わかった。」
不貞腐れた声に、しかし、了承の意を得て、マスターは胸を撫で下ろしたのだった。
夕食。
愛しい我が子が『人形』であった時には特に食事の必要性が無かったため、何時も手軽なものしか作っていなかったのだが、奇跡の末『人間』となった恋人もいることなので、結構、食事はきちんとしたものを作る。
「うま〜っ♪ マスターってなんでも器用だよなっ、俺、目玉焼きもまともに出来ないんだぜ?」
嬉しそうにアサリとコンソメスープのパスタを頬張るランパートに、キッチンでパスタ用の大鍋を洗う長身の人はクスクスと上機嫌だ。
「……ついこないだまで食べる必要なんてなかったからなぁ。サロンの品評会でも料理対決なんてなかったし。
けど、卵くらいまともに割れるようにしないとな?」
「だーってさぁ、卵ってなんであんな直ぐに割れるんだよっ?
持ったらその瞬間に『グシャッ』だぜっ!」
「お陰であの時は二日間卵料理だったよな?」
「マスターってばさ、俺が捨てるって言ったら勿体ないって怒ってさ。俺、半日もかかって潰れた卵に混じった殻とりさせられたんだよなー……」
何処か遠くを見遣るランパートの赤い頭を、テーブルについたマスターが軽く小突く。
「当たり前だろ、食べ物を粗末にするものじゃないよ。
ほら、お代わりは?」
「ん、サンキュ♪」
空になった皿を預け、グリーンサラダにフォークを突き刺す食欲旺盛な青少年。普通、こんなものなのかもしれないが、自分がそれ程食べる方ではないので、最初は戸惑った。今は、こうしてお代わりを促す位には慣れたが。
「あー、あのさっ、マスター。
俺の部屋になんか紙袋があったんだけど、アレナニ?」
「ん? ああ、シスターがお前にって、昼間預かって来たんだ。そういえば、言うのを忘れれたな」
「ふー……ん?」
その、何とも微妙な返答に、マスターはたっぷりパスタを盛った皿を渡して尋ねた。
「お前が頼んでたとかじゃないのか?」
「俺、知らないぜ?
………なんだろ、お菓子とかならわざわざ俺宛にしないでも、マスターとで一緒にいっつもくれるしなー?」
「まぁ、なんでもいいさ。けど、お礼だけはちゃんと言っておくんだぞ?」
「へいへーい、わかってるって。マスター♪」
いまいち、充てにならない返事にやれやれと肩を竦め、エプロン姿の青年も食事の席に着いたのだった。
夕餉の片づけも終わり、マスターは懇意にしている貴族に頼まれたアンティーク人形の修理のため工房へ籠もってしまったので、ランパートはすっかり暇を持て余していた。
二階の自分の部屋、ベッドの上に仰向けになって、傍には散乱した雑誌類が。
一年間、みっちり『教養』を身につけたのだが、一般良識に疎いため、見識を広げる意味で暇な時は書籍や雑誌を手にするのが常だ。しかしどうにも、文字の羅列に没頭する気にもなれず天井を仰ぐ。
「あー…っと、そういえばシスターがくれたのってなんだろ?」
がさがさがさ。
茶色の、なんの変哲もない紙袋から、可愛らしいオレンジの小瓶に入った液体が出てくる。
「………香水?」
のように見えるが、わざわざ自分宛に届けてくれた荷物なので、実生活においてなんら必要性のない物が入っているとは考えにくいが。
首を捻りながら、ランパートは袋の下の丁寧に二つ折りされた手紙を手に取った。
「へぇ…? マスターに試してみるかな?」
そして、興味深気に両目を輝かせると、ぱたぱたと、しっぽ全開で喜びをあらわしたのだった。
腕の良い人形師であるマスターは、晩方から人形の修理にかかっていたが、どうしても足りない部品に嘆息した。
馴染みの骨董店へ都合をつけてもらえるよう、頼むしかないかと。
工房をそのままに、自室へと戻って支度をする。
と、黒のコートを羽織ったところで、軽く扉を叩く音がした。
「ランパート? どうかしたのか?」
確かめるべくもない来訪者を迎えるべく戸を開ける。すると、扉の向こうの人物は、いきなり何かを吹き付けてきた。
「ッ、? 〜〜〜っ?? ランパートッ?」
一瞬驚いて目を閉じ、その後、鼻孔をくすぐる柑橘系の香りに顔を上げて悪戯な真似をする青年の名を呼びつけた。
と、視界が上品なスタイルの小瓶の姿で遮られ、目を丸くするマスターだ。
その様子に、してやったりといった表情でやんちゃ坊主が笑いかけてくる。
「へっへ〜♪ ビックリしただろ、マスター♪」
「…ったく、何時まで経っても子どもみたいな真似を……。で、なんなんだこれは。香水?」
「マスターが預かってきた紙袋だよ、ほら、昼間の。
――…って、」
そこまで話して、ランパートは恋人の出で立ちに目を丸くした。
「……マスター。どっか出掛けンのか?」
「ああ、古翠堂にな」
「なんで? こんな時間に? そりゃ、あそこは夜間営業だから開いてるだろうけど」
「人形の部品が足りないんだよ。早めに頼んでおかないと、なかなか届かないしね」
「ふーん…。なぁ、マスターッ、俺も行くから。ちょっと待っててくれよ」
言うなり、忙しい恋人は自分の部屋へとって返す。
「ちょっ、…って、」
此方の言い分など始めっからきく気など無いのだろう。
もう遅いし、行って帰るだけだから、と。
そんな言葉を言う暇も与えない素早い行動だ。
「……まぁ、いいか。
それにしても、この匂い…。思いっきりつけてくれて…全く、あの子は」
全身から立ち上るオレンジの香りに、マスターは少し顔を顰めた。かといえ、今から風呂に入って匂いを落とすのも手間なので、
「マスターッ、待たせてゴメン! 行こうぜ!!」
慌てて外出着に着替えてきた恋人と共に、出掛けたのだった。
古翠堂についてから、人形師と店主とのなにやら小難しい話があり、時間を持て余したランパートは大して興味もない骨董品を見て回っていた。
古めかしい人形やら、絵画やら、食器や……扱っているものに統一性は無いが、どれも年期だけはありそうだ。
無論、そんな年代物のアンティークなど見てもつまらないだけだが。
薄暗く整然とした店内には、埃の類は見あたらず、掃除が行き届いている。
(なんか、骨董品に混じって変なのもあるなー……。
なんだよ、このブリキの玩具。これも値打ちもんなのか?)
相変わらず胡散臭い店だと、赤毛の青年がウロウロとするのを横目に。
マスターと店の主は重厚な造りのテーブルで向き合い、夜の静けさを乱さぬ様に、化石のような世界を護る様に二人で言葉を交わす。
「ああ、……R−223番の、古い型の方なんだが…。
25年に流行した、ロジロリック手法で造られた……そう、原型はあったはずだが…」
「ええ、しかし…取り寄せに時間がかかりますが」
「それは仕方がないが…成る可く早く……」
片眼鏡(モノクル)が良く似合う、上等なスーツ姿の紳士が、この古翠堂の店主だ。年は三十前半頃。外見は若いが、実に落ち着いていて、物腰も柔らかい。
「ええ、承りました。
では、依頼書に必要事項の記入を…、おや?」
ペンと依頼書を取り出す店主は、得意客である人形師の様子がおかしい事に気が付く。
「ご気分でも優れませんか、人形師殿。」
「あ、いや……。
少し、香りに酔ってしまって…」
口元を軽く押さえていた黒の双眸の青年は、慌てて取り繕った笑顔を浮かべた。
「ああ…、そういえば。
よい香りをさせていますね?」
「……子どもの悪戯で、出掛けに香水を掛けられてしまって。
すまない、ここの商品に香りが移ってしまうな……」
「いいえ、気にされないでください。
それに、移り香というのも、なかなか風雅ではありませんか」
にっこりと、真顔で言われるものだから。
返答に詰まってしまう。
「……と、依頼書に記入をするんだったな…?」
「ええ、お願いいたします」
思いっきり話題を逸らせる顧客に、しかし、店主は気に留める素振りもなく必要な手続きを済ませた。
「では確かに。後は、領収を切りますので、少々お待ちください」
そう言い残して店の奥へと引き込む紳士の背中を目で追いながら、マスターは小さく吐息をついた。
(……? なんだか、本当に熱いな……?)
けれど、突然の体の不調だ。首を傾げるより他にない。
(――参ったな、今夜は早めに休んだ方がいいかもしれない……)
「人形師殿、では、こちらを。商品引き替えまで保管なさってください」
「あ、ああ。わかった」
バッグに領収をしまい込むと、マスターは席を立って連れを呼んだ。
「…ランパート、帰るぞ」
「! あ、マスター。もういいのかよ?」
耳馴染みのよい低音に名を呼ばれて、手にしていた小物を放りだし、主人に手招きされるわんこよろしく嬉しそうに駆け寄っていく。
そして、
「………マスター?」
具合が悪そうにしている恋人に、目を丸くして驚いた。
透けるように白い肌に薄く紅がさし、微かに夜の双眸がそぼ濡れている。
「マスターッ、どっか調子悪いんじゃ…」
「ん? ああ、少し熱っぽいみたいだ。構わないから、早く家に帰ろう」
「う…ん、マスターがそう言うなら…イイケド。
マスター、ギリギリまで我慢するだろっ。そーゆーの止めろよなッ」
年下の恋人に、拗ねた表情で自分の悪癖を窘められる。
「…わかったよ、ちゃんと言うから」
「約束だぜ? 守れよなッ、マスター」
「ああ。」
何度も念を押してくるランパート、その全てが自分を心配してのものだと、わかるだけにくすぐったい気分にさせられる。
「よっし。じゃ、帰ろうぜッ、マスター」
見た目の優男っぷりに反してかなり頑固者な恋人の、その、素直な返事に満足したらしい青年は、全開の笑顔をマスターに向けたのだった。
「ッ、ランパート…。すまないっ……待っ……」
「? マスターッ?」
黒のコートを着込む青年より、半歩先を歩いていたランパートは、辛そうな声に肝を冷やした。
慌てて後ろを振り仰げば、すっかり路にへたりこんでしまっている恋人。
そんな姿に、人生経験も浅い若者は益々狼狽した。
直ぐ傍にしゃがみ込んで、いたましそうにマスターの様子を伺う。
「っ、マスター…。
俺っ、医者呼んでくるから…! ……? マスター??」
流石に、ただごとではないと判断したらしいランパートは最寄りの医者を呼びにいこうとするのだが、マスターは腕をとって止めさせた。
「……いいっ………から……」
「………ッ!!」
その、頑なさが。
今、この場面においては裏目でしかない。
「マスター! いいわけなんだろっ!!
いくら俺がピノッチアだったからって言っても、すっげぇ具合悪いって位わかるぜ!!」
きゃんきゃんと、吠える声が頭に響く。
マスターは震える指先に力を込め、言葉もなく、ふるふると頭を振った。
「……マスター……」
途方に暮れてしまって、ランパートは、ただただ琥珀を瞬かせるだけ。
常人なら、ここで病人の制止も振り切って医者を呼びに行くところだが。ピノッチア気質とでもいうべきか、どうしても『主人』の言いつけを守るのに躊躇いが残る。
「いいから……っ、……」
「――…じゃ、せめて教会で休もうぜ? マスター。
な?」
幸い、懇意にしているシスターが勤める教会が直ぐ近くにある。それ程離れた距離ではないので、そこで一休みして落ち着くのを待つという提案に、やっとマスターは頷いたのだった。
教会の内部はしんとして、ステンドグラス越しに届く星々の輝きは仄かに信仰の対象である神像を照らし出す。
十字架に張りつけられた痛々しい像に、幼い頃、どうしてこんな酷いことをするのかと主に泣いて訴えた事がある。
そんな、古い記憶を懐かしみながら、ランパートは長椅子に横たわるマスターの夜のような黒髪に指を絡ませる。
「マスター…」
囁くように名を呼べば、ぐったりとする人形師は微かに震えて、濡れた黒の眼差しで見遣ってくる。
「――ッ。」
その、色っぽさに一瞬どきりとしてから、慌てて不埒な考えをうち消した。
「す、少しは具合良くなった…? マスター」
「…………ず」
と、黒髪の綺麗な青年は視線を逸らせ、何事かを小さく訴えてくる。? と、ランパートが訊き返すと、再び吐息だけのそれで、
「……水、もらえないか……」
「…みず? わかった、ちょっと待っててくれよな」
祭壇の横に用意されている水差しを全部グラスに注ぎきって、ランパートは病人の元へとって返す。
「マスター、……飲めるか?」
「…………っ」
グラスの、半分ほどにまで満たされた清水。
渇きを癒そうとする意思はあるのだろが、何分、熱に浮かされた体では動きを制限される。諦めたように黒曜の対を閉ざす人形師に、その恋人は一時の躊躇いもなく口移しという行為に出た。
「………!」
当然のことながら、マスターは驚きに目を見開く。
理性の働きによって両腕を突っ張り若い恋人を引き剥がそうとするが、直ぐに本能的な快楽の波が寄せて、全身から力が抜けていってしまう。
「…マスター、もっと…いる?」
不必要な程に長い接吻が、互いの口唇を妖しく艶めかせる。
「…………もっと…」
十分にとろけた甘い声音で、切なく懇願されて。
欲しいのは『水』のことなのだと、わかっていてそれでも、あらぬ場所が熱くなってしまうのは、若さ故か。
もう一口、二口、強請られればその通りに。
濃厚な口づけで水を移して、グラスの中身が空になったのに気が付いた赤毛の青年は、水を取ってくるから、と、その場を離れようとして――…。
ぎゅう、と。
頭を抱えるようにして抱き締められ、耳元に熱っぽい囁きを込められたのだ。
「…して………」
「………………………………………………ええぇぇぇぇっ!!!?」
色気もへったくれもない素っ頓狂な悲鳴を上げて、固まってしまう年下の恋人。真っ赤な顔をしている辺り、なかなか初心(な反応だ。
そんな様子にも構わずに、マスターは言葉を重ねた。
「………早………もっ、……ん……ン」
魅惑的な眼差しを欲望に濡らして誘惑されるのだ、据え膳とはこのことで、断る理由など何一つあるはずもない――のだが。
(うわーうわーうわーうわー、なになになに!!? どーなってるんだよ!!??
してって、やっぱりお誘いなんだよなっ? でも、マスターに外ではダメだって怒られたばっかだし、また口きいてくんなかったりしたら困るし。
第一、具合悪いんだよな?? ンなことしたらよくないんじゃないのか??
ってか、
…………………………マスター、すげぇH臭い……、犯りたい……。
ってぇ―――何考えてンだ俺!! ダメに決まってンじゃんか!! そもそも、なんでこんなことになったんだーーーー???)
などという葛藤が、ランパートの心の内で繰り広げられる。
そうして、なけなしの理性を掻き集めて、
「マスターッ。ダメだって、俺、ホントヤバイ…。」
やっと、お断りの台詞を口にするのだが、結局は徒労で終わるのだ。
「……きて………」
とまで言われて、我慢が効くほど大人じゃない。というか、お子さまなので。
「…もう止まンないからなっ……!」
オレンジの芳香をたち上らせる熱いカラダを隅々まで蹂躙すべく、まずは、本気のキスから――…そして――。
子ども部屋に置き去りにされた、飾りっ気のない茶袋、その横に無造作に置かれた手紙に。
奥手な恋人を積極的にさせる魔法の香水ですわ。
どうか、早くお二人仲直りなさってくださいね。
シスター・アリア
と、書かれていることにマスターが気が付いて、カミナリが落ちるのは、翌日の昼過ぎの話。
そういうだけで、駄犬の躾けはなかなかのようです
でも、ご主人様好きパワーだけは誰にも負けません
そんなダメわんこと、甘やかしなご主人様