世界に愛されて
雪の街のかたすみ
例えば、好きだという言葉。
例えば、愛しているという気持ち。
全て曝け出しても不安で、けれど、今以上になんて、これ以上、なんて――。
そんなジレンマで、今日も、身動きが取れなくなる。
紫水晶の高貴な眼差しに、菖蒲色に染まる艶気の美しい長髪。酷く整った容貌、耽美な面差しは、充分に道行く人々の視線を集めていた。スラリとした長身に純白の毛皮のコートというのも、人目を惹く一因か。この辺りは牧歌的な田舎街で、その日の糧も得られな程に貧しい家庭ないが、贅を凝らす人間も少ない。皆、質素に慎ましやかに、そして平和に暮らしているのだ。
そんなのどかな田舎の風景に、降って沸いた巨大な違和感。
当人が絶世の美貌の主ということも相まって、その注目度は推して計るべし、だ。
「マスター…、随分と遅いな」
思わず漏れた溜息は、白く、雲となって、凛と冷えた空気に融けた。
「お断りします!」
ドンッ、と高ぶる感情のままに樫のテーブルを叩きつければ、余りの剣幕に既に冷め切った珈琲で満たされた陶磁のカップが、勢いつけて空中へ跳ねた。それを無感動に見遣って、上質な牛革のソファーの上、男は優雅に足を組み替えた。
「そう興奮されることもないでしょう。相手はたかが『ピノッチア』ですよ。人形師であられる貴方こそ、よくご存知のはずだ。彼らは人に酷似しているが、決して人ではない」
モノクルのよく似合う中年の紳士は、白髪が混じり始めた頭を撫で付けて、皮肉気に言い切る。丁寧な言葉遣いや物腰で巧みに隠してはいるが、生まれついた身分故の傲慢が端々に滲み出し、静寂の夜を凝縮させたような隙の無い端整な顔立ちの青年は、一層苛立ちを募らせた。
「確かに、ピノッチアに関しては、私の専門分野でしょう。だからこそ、貴方の申し入れに応じることは出来ません」
男は、嘆かわしいとばかりに首を振り、皺の寄った眉間を軽く、親指の腹で押さえた。
「実に残念ですよ。ご理解いただけると思っておりましたのに」
「お分かりいただきましたなら、お帰り願います」
「……やれやれ」
紳士然とした態度に、高慢さを匂わせる男は、わざとらしく肩を竦めてみせる。煉瓦色の外套と白の毛皮で出来た帽子を壁掛けから手元に受け取ると、背中を丸めたまま、一言を言い残した。
「そういえば、貴方とご同居されている青年――」
「彼が何か?」
愛しい養い子、そして今では掛け替えの無い恋人でもある青年の存在を示唆され、一瞬肝が冷えるが、それも瞬間のことだ。下手に動揺してみせれば、相手に付け入る隙を与えることになると、黒の人形師は殊更冷淡に応じた。
「元々、ピノッチアだったという噂を小耳に挟みましたよ。バカバカしい世迷言だと思いましたが、『神の手』とまで呼ばれる、貴方程の実力の持ち主ならば、とも考えましてね。実際は、どうなのですか?」
「……私の腕を評価していただいているのは有難いことですが、現実的に考えて頂いて、人に変化するピノッチアなど有り得ませんね。もし、存在するとすれば、それこそ神の手によるものでしょうね」
「……ふむ、やはりそうですか。それでは、これ以上粘って貴方に本格的に嫌われては堪りませんからな。今日はこれにて退散しましょう」
愚かな提案を持ちかけた事の始めから、既に己へ向けられる感情の質を知っていながら、いけしゃあしゃあと嘆いてみせる痩せ型の紳士に、天才の名を冠する人形師――マスターは、心の篭らぬソレで丁寧に社交辞令を述べた。
「雪が降りそうです。足元には気をつけてお帰り下さい」
「……そうさせてもらいますよ。年をとると、寒さが堪えましてな」
古傷が痛みますな、と誰とも無しに呟いて、中年の紳士は背中を向けたまま、薄暗い部屋から立ち去った。
遂に、灰色の雲の隙間から、チラチラと白く小さな欠片が落ちてき始めた。こんなことなら、手袋もしてくればよかったと、悴んだ両手に吐息を吹きかける。気休め程度の温もりは直ぐに失せ、身体の芯まで凍りつく寒さがシンシンと迫ってきた。
(……寒い。冷たい。――痛い。
人間なんて、結構不便だな。こんな不自由な身体で生きているなんて、尊敬に値するね)
ただの人形であった時分に心の底から渇望した感覚は、共有してみれば、意外にも有難くないものが多い。だが、これが人であるということなのだと、苦痛すら愛しくあるから奇妙なものだ。寒さに凍えるからこそ、温もりをより深く、身近に感じられる。心は確かにそこにあっても、感覚を異にする限り、自分は所詮『人形』なのだと、昔は沈み込んだものだ。そして奇跡としか言い様の無い神の慈悲にて『人』となった今でも、まだ、それでも――あの人には、遠い。
(馬鹿げた感傷だな。……マスターはボクのことを愛していると言ってくれた。家族としてでなく、恋人として。身体も心も貰っているのに、今以上、何を望むというんだ)
ピノッチアから人へと変化した――それは、喜ばしい結果ばかりをもたらしはしなかった。高名な人形師が溺愛していたピノッチアが突然消えて、それの生き写し――この場合は、人形のモデルか――としか思えない青年が彼の傍に現れたと合っては、蛇の道はヘビというように、何処からか有難くもない噂も流れ始めていた。
――神をも恐れぬ所業よ、生き人形を造る男は、遂に人の命までも生み出したのではあるまいか。なんという背徳。なんという冒涜。汚らわしき存在よ。
(……神サマなんて、クソクラエ)
奇跡の腕の持ち主と聞き及びました。悪いようには致しません、是非、貴方の力で私の人形にも命を吹き込んでくださいませんか。
(好事家の豚ヤロウが)
ぐるぐる、ぐるぐると、思考が空回る。
目の前で巨大な歯車が軋みを上げているような幻聴――錯覚、そして孤独。
ブル、と大きくカラダが震えた。
薄暗くなった空を頼りなく照らす街灯の明かりが頼りなく、瞬きを繰り返す。凍えた息の先に、純白に舞い落ちる欠片を認めて、得心した。ヤケに寒いと思ったら、雪、か。そう胸中で呟いて、青銅で削りだされた古めかしい街路時計に目を遣る。約束の時間は、とうに過ぎていた。雪の降り始めた街角には、もう人影も無い。不安が、底から這い上がる。紫水晶の瞳に映りこむ世界は、永遠の灰色にくすんでいた。
「……マスター」
切なさを言葉にすれば、余計に胸が締め付けられた。
どうしたのだろう、何かあったのだろうか、事故かもしれない、外せない用事が出来たのかも――それとも、それとも――。
もう、
不出来な人形ですらなくなった、存在など。
「クラレンスッ!!」
「……ンッ、や、めッなさ……、クラレンッ…」
純毛の真白いコートで互いの姿を包み込むようにして、精一杯の力で細い腰を掻き抱くと、喰らいつくような接吻を仕掛けた。二人分の体積で奇妙に膨れた白い塊は、静かに雪落つる乳灰色の風景に馴染み、忘れたように時折、遠くを歩いてゆく人は何物にも気付かない。
「クラレッ…、背中、腕っ……、いた、いから」
漸く口唇を解放された漆黒の人形師は、吐息を甘くさせながら、喘ぐように抗議する。幼い時分なら兎も角、すっかり青年の体格となった愛し子に、力の限り抱き締められては、線の細いマスターとしては堪ったものではない。呼吸を紡ぐのも苦しく、平手で突然の暴挙に出た恋人の肩を軽く叩いて、早く緩めるようにと急く。
「……ん。すまない、マスター」
抱き留める姿勢はそのままで、戒める腕の緊張を解す性急な恋人に、マスターは婀娜っぽさと愛らしさを混在させる魅惑の双眸で、どうかしたのかと訊ねた。
「なんでもない。くだらないことだ」
「…それならいいけど」
釈然としないながらも、これ以上追求してもどうせ口を割るまいと、マスターは話題を変えた。
「それより、遅れてすまなかった。クラレンス。
こんなに冷えて――寒かっただろう」
己の温もりを与えるように、子煩悩な人形師は冷え切った恋人の躰に両腕を回して全身で謝罪の意思を表す。何気ない仕種が――酷く扇情的なのは、飢えているからか。
「……ああ、随分待たされて、寒かったな。マスター」
「そうか。本当にすまない…。雪も降ってきているし、何処か手近な店であったま……、」
くちづけが、二度目のそれは、空から贈られた結晶のように、触れた瞬間に溶けて消えてしまう程に儚く、戸惑いながらもしっかりと。
「……ん」
それは、略奪者の荒々しさではなく、愛する者どうしが互いを分け与える為に交わす、愛情の丈の篭った接吻だった。普段ならば人目や体裁を憚るマスターも、凍え青ざめた口唇に罪悪感を掻き立てられ、積極的に応じた。
肉厚な舌が歯列の隙間をぬって侵入した瞬間だけ、ほんの少し、緊張を走らせる。羞恥と快楽に染まる頬は既に朱色に、胸に縋りつく指先は、加虐をそそられる程、憐れに震えていた。
「…は、ぁ」
解放されたと思えば、僅か、呼吸を紡いだ後に執拗に唇を嬲られる。
流石に、外でこれ以上は――と、行為に歯止めをかけるべく、桔梗の花弁のような綺麗な髪の一房を指先に絡めて、ほんの少し力を込めて引き、優しく咎めた。
「……マスター、なんだ?」
「なんだ…、じゃ、ないだろ。
仮にもここは外なんだし――こんなトコでこれ以上はダメだよ。クラレンス」
「誰も見てない」
「見つかるかもしれないだろう? ほら、ゴネないで放しなさい」
聞き分けの無い子どもを諭す大人の口調、逸る気持ちを宥めるかのように、よしよしと毛並みを撫でられて、漠然と在り続ける不安は、鼓動の高まりと同時に大きく成長した。
「……マスター」
「ん?」
優しい、夜闇色の瞳。
先刻まで、あんなに――甘く啼いていたくせに。
今はもう、幼い子を見守る保護者のそれだ。
不意に、嘔吐感を伴う、酷い強迫観念に駆られた。
「……マスター、寒いんだ」
「だから、何処か店に行こうってさっきから…」
言っているだろう、と伝えかけた言葉は攫われて、欲望に濡れた唇が熱く重ねられた。
「ン、ッ、」
それだけならばまだしも――、下肢へ伸びた腕が黒のコートの前を割り、無遠慮に秘められた場所を暴きだした。そのまま、茂みを指先で嬲り、柔らかな触感の恥肉を揉みしだく。抗議の声は喉の奥でくぐもった呻きにしかならず、逃れようと身じろげば、カッチリと空いた左手で腰を抱き留められる。
こんな場所で、急に何を――、と慌てる綺麗な人の狼狽が小気味よい。
徐々に力を失う華奢な白い腕、抵抗の意思で捕まっていた指先は、快楽に溺れて切なく胸に縋りつく。背中で降りしきる雪と、腕の中で高まる恋人の熱が倒錯的だった。
「……、クラ、ッ…あ、ぁ」
「マスター…、濡れてきた」
「ばッ…、か、はぅ…っ」
淡い茂みの中、確かに存在を強調する肉が、先端から淫らな雫を溢れさせる。
「……クラ、だ、め……だ、」
声が甘く、切なく――掠れて零れる。
粘着質な舌の肉で耳朶を嬲られると、それだけで堪らなくなる。甘い疼きが下肢に響いて、既に充分過ぎる程高まった快楽を更に煽った。
「……もうッ、や、め」
「ん、もうイッていいよ。愛している…、マスター」
「――ッ、ダ、メ…、ふく、が…」
これから二人で出掛ける――有り体に言えば、デートの約束をしていたのだ。情事の痕を残したまま隣街のショッピングモールに行く訳にもいかない。ただでさえ一時間ほど予定が遅れているのに、また自宅に引き返して着替えるのも手間だ。己の中心に灯された快楽の火種を必死で抑えながら、マスターは唾液に濡れ、隠避に艶めく紅色の口唇で必死に抗議の声を上げた。
「……そんなの」
ふ、と口端を緩めて、微笑む気配。
何時の間にか体格も身長も養父である己を越した愛しい養い子は、快楽に蕩ける綺麗な恋人を腕に抱き留めたまま身を屈めて、二人を外界から遮断する純白のコート、その内ポケットに仕舞い込んでいた若草色のハンカチを器用に咥えて引き摺り出した。
そのまま、手馴れた様子で右手に小さな布を巻きつけ、小刻みに痙攣し、限界を伝える愛しい人の分身を指先で翻弄した。
「やっ…、クラレッ…、ん・ンッ」
「受け止めるから、大丈夫。イッっていいよ、マスター」
「〜〜〜ッ、そ、ういう。もんだ、じゃ、―――ぁ、」
薄い布越しの焦らすような愛撫によって、官能が背筋を這い上がってゆく。人目を憚る野外で、仮にも育て子である恋人と、愛欲の行為に耽る。その背徳感が余計に甘い疼きを生んだ。重く垂れ込んだ灰色の空から降りしきる雪と、時折、吹き抜けてゆく北風の冷たさも、もう――遠い。遠すぎて、この熱さを鎮めるには無力過ぎた。
「ッ――アァッ…!」
悦びに震え官能の涙を溢れさせ続ける自身を容赦なく擦り上げられ、恋人の愛撫に切なく身悶えする黒衣の青年は、遂に、一際甲高い嬌声を上げて果てる。
「マスター、可愛いな」
「……ば、かっ…」
半ば強制的に導かれた絶頂の余韻に力無く強引な恋人の胸に倒れこむマスターは、それでも荒く乱れる息の下、無体な真似を働く相手に甘えるように悪態をついた。
一年前には、庇護を求めて見上げていた大きな背中が、腕が、こんなにも頼りない。
凶暴な愛しさが――牙を、剥く。
「マスター」
「……?」
そっと、二人を包む優しい真白い羽の中、クラレンスは愛する人の乱れた前髪を、興奮醒めぬ口唇で悪戯に食んだ。
「可愛い…、愛してる。マスター、何度イッたら立てなくなるか。試してみようか」
「――ッ、クラレンスッ!?」
鼓膜を擽るように囁かれた吐息の、その意味を――意図を察して、情欲にそぼ濡れたままの漆黒の瞳が、驚愕に見開かれる。
「大丈夫…、優しくする」
「だ、ダメだッ…、放しなさいッ! ダメッ、――…やッ」
基本的に恋人には酷く甘い姿勢で以って、その望みの大概を受け入れてしまう闇の毒艶を凝縮したような美貌の主は、慌てて欲望に逸る豪奢な美しさの青年を制する。
「……ん、大丈夫。愛してる、マスター」
「だ、だいじょッ…、ぶっじゃ、……なっ、ア、ぁアッ」
己自身が吐き出した白濁と共に、未だ余韻に脅える場所を些か乱暴に掴まれて、憐れな獲物は息を詰まらせる。そして色欲に渇いた獣から、拷問にも等しい背徳の泉へと、水面へと救いを求める心ごと淫らに絡み取られて、溺れて――ゆく。
肩から背中、腰に掛けてのラインが美しい後姿に見惚れながら、クラレンスは頑固な愛しい人に悟られないように、そっと溜息を吐いた。
「そんなに早足で歩くと、転ぶと思うよ。マスター」
「…ウルサイッ」
腕の中で散々に啼き、喘がした青年は、未だ怒りが冷めやらぬ様子で、白い斑模様に塗りつぶされた煉瓦造りの街路の、その面を慎ましく彩る雪化粧を踏み荒らしてゆく。
「そんなに怒らないでよ、マスター」
被害者ツラでぬけぬけと言い切る、何処までも独自のペースを崩さぬ気侭な年下の恋人に、遂に堪忍袋の緒が切れたらしい黒衣の青年は、図体と性欲と口説き文句だけは一人前な風雅な青年に向き直り、肩を怒らせ、責める口調で怒鳴りだす。
「あっ、あんな真似しておいてッ、よくも…っ」
「…ん、ゴメン。マスター」
「……っ、? クラレンス?」
羞恥と興奮のまま、躾のなっていない犬を叱り飛ばすようにすれば、頼りなく紫水晶の輝きが切なさに揺れ惑い、恋しさの募る怜悧な人形師の姿を移し込んでいた。その、痛々しさに思わず怒りを忘れ、口を噤むマスターだ。
「どうしても、触れたかったんだ。怒らないで…、愛してる。マスター」
「………」
逸らされた視線の先は雪斑の煉瓦に落ちて、悲しく、脅えていた。
拒絶の言葉を恐れる余りに、自ら無二と愛する世界を手放す、抉られるような矛盾を抱え、泣きじゃくる幼い心を――酷く優しい人形師は、全身で受け止めた。
「…全く。お前には敵わないよ。クラレンス」
「…マスター」
無力な過去の己のように、ただ、一心に縋りつくのも悪くは無い、と紫闇の髪をした青年は項垂れ、華奢な恋人の背中に躊躇いがちに掻き抱く。
穏やかに、暖かく、そして力強く脈打つ鼓動が近く――不安に懼れる瞳を目蓋の奥へ仕舞い込み、頬を胸に摺り寄せ、愛しい人の生命の存在をより深く傍に感じた。
「…でも、もうあんなのは、ご免だからな…?」
「ん。わかってる。マスター、大好きだ。大好き…愛してる。ボクと、ずっと一緒にいて」
拗ね甘えるような響きに、ふ、と微笑が零れる。愛されている――と、無条件で信じられるこの瞬間に、己へ仮初めでも、人としての息吹を与えてくれた気紛れな神へと、祈りの十字を切った。
うーん、クラレンスは言葉遣いが謎です。
そこら辺は、ノン突っ込みの方向で宜しくお願いいたします。
世間様のクラはどうかワカリマセンが、うちのクラは愛や命の限界に脅えています
愛されたいけれど、マスターの負担になるのなら、愛されたくなんて無い
可哀想なほど、マスターのコトが好きな、そんなイメージです