act.21 歪
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「………?」
 一瞬、己の名を呼ばれた気がして、黒のヴァイア鑑オペレーターを勤める幼い顔立ちの少年は何度か瞬きを繰り返した。
(気の、――せいだよな?)
 相変わらず静まり返ったブリッジ内。
 最高潮にまで達した緊張は、敵に何ら動きが見られないことで僅かに弛まり、それでも一定以上に張りつめ続けていた。
 そんな状況下に於いて、誰かが気安く声を掛けてくるとは思いがたい。単なる思い過ごしかと昂冶は密かに息を吐いた。
 常に敵の監視下にあるという事実は、想像以上に精神を消耗させる。自覚する以上の疲労を感じて、顔を俯かせる――と、
『コウジ、………コウジッ、………コウジ…!!』
 今度はハッキリと、声が届いた。
(………ネーヤ……ッ? …どうかした!? ………ッ!)
 可憐な声を舌足らずの言葉にのせて何事かを訴えてくるスフィクスに、昂冶は慌てた。
 と、同時に、右肩の傷が瞬間的に灼けつく。
(……ッ、)
 溜まらずに息を呑む華奢の少年へ、少女の声は強ばり縋り付いてくる。
『コージ……ッ、ヤ。……だめ、ダメっ……ヤっ』
 最も愛しき者として慕う対象の苦痛を感じ取ってか、黒の化身である存在ははますます混乱したようだ。
「………っ、」
(ネーヤ、大丈夫。落ち着いて。……大丈夫だから)
 幸い、痛みは一瞬で引いた。
 その旨を根気よく、何度も何度も思念で呼びかけると、やがて数分後にはヴァイアの神秘なる少女は落ち着きを取り戻したようだった。
『……コージ……』
 それでもなお、何事がいいたげに思いをのせてくるネーヤに、今度は昂冶も余裕をもって応じた。
(ネーヤ、話してくれないか。どうかした?)
『わから………ない。イタ・かった、…………の』
 抽象的な表現に、まるで彼女の親代わりのような存在の少年とて困窮する。
(え、と。それは……どうして痛かったとか、わかる? ネーヤ)
『わか…ら、……ない…』
 ゲドゥルトの海に棲息する人智を越えた生命の化身である少女は、その本質が人にあらざる事より、意思の疎通が難しい。
 明確な『意志』というものを持ち得ぬ生物であったが故に、言葉を成すことを苦手とするのだ。
 どう訊ねればよいものかと思案する昂冶に、やがて、可憐な蝶にも似た少女は一言――、
『……アオイヒカリが、……消テシウマウ……の』
 悲しげに囁いた…――。

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 凄烈な紅の眼差しを歪め、息を、呑んだ。
 隣人に己が心の内を悟られぬように平常を装ってはいるが、決して穏やかな心地ではない。
(――…くそ、気配が……)
 人質の救出を頼んだ作戦実行者の、その研ぎ澄まされた命の灯火が瞬間的に強く煌めき、安定しないまま、瞬きを繰り返している。
 実際、命の強さが『光源』として視覚的にとらわれるわけではないが、彼らスフィクスには『命』に対する認識が人類とは著しく違うために、それを『光』として表現するのだ。
『……、おいっ、どうした。ブルーッ』
 思念で呼びかけてみると、短く、イレギュラーだとの返答が。
『ッ?』
 視界を開けば暗い室内で壁を背後にし、脇を軽く腕で押さえる姿のブルーと、その正面には見覚えのある女性。
 ――…医療チームに従事する看護士だ。目立たない性格だが、綺麗な顔立ちが印象的で記憶に強く残っている。
 決してあからさまに庇う様子ではないが、蒼き獣が手負いであることは直ぐに察せられた。
『……どーなってンだ、今。おいっ、大丈夫なのかっ?』
(………女が襲ってきた……)
『女……、…なンで…』
 端的な説明では現状把握にまで結びつかない。これが尾瀬や、でなくとも祐希であったなら、少なくとも必要最低限の情報はレインへ渡すはずだ。
(……精神状態が普通じゃないな……)
『――…? 、……!』
 思念だけの会話だが、意図の掴めぬ戸惑いの後に、息を呑む気配。
(ああ、――…そうだ。おそらく、)
『(精神支配)』
 二人の意識が同時に一つの単語を導き出す。
(――外道のやり口だな…)
 忌々しそうに吐き捨てて、レインは傷を負った気高き王者の様子に心を砕く。
『傷、平気なのか。ブルー』
(ああ、…かすり傷だ)
 応えると、そのまま美しき野生は未だ物騒な獲物を手にした女性に向かい、その身を翻した。
 いくらマインドコントロールを受けているとはいえ、それにより基本的な身体能力が伸びるわけではない。鳩尾への一撃で女性はあっさりと気を失った。その掌から刃が零れおち、切なげに煌めく。
「………」
 無言のまま血塗れたナイフを拾い上げ、冷えた蒼に沈む潜入者はヴァイアの化身へ呼びかけた。
(向こうと合流する…いいな)
『ああ、……わかった』
 人質に精神支配の細工がなされてある以上、彼らの保護は不可能且つ無意味、そして多大な危険を伴う行為だ。
 当然、作戦の変更を余儀なくされる。
 リヴァイスにおける孤高の王者は、自己の判断の下、リフト艦へと向かった別働隊の方へと動く。それに、レインも同意した。
「いかがされましたか、スフィクス殿。お加減が優れませんか?」
 そこへ、己の先を行く男が慇懃無礼な態度で気遣うふりをしてみせる。
「うっ、せーよ。黙ってろ」
「おやおや、ご機嫌が宜しくないようで。黙れとは随分な物言いですね」
 赤毛の青年はゆっくりと頭(かぶり)をふり、やれやれと諸手をあげてみせた。
「さて、そろそろブリッジですね。
 かといえ、当面は何をしていただくでもありませんがね。まぁ…ごゆっくり」
「ごゆっくりも何もねーだろ……」
 軽く息を吐き美貌のスフィクスは榊から視線を外した。
 境界を越えぬ範囲とはいえ、一時は己の領域を侵す事を許した相手だ、非難や侮辱の対象とするには、未だ未練が残る。
 理性では目の前の男は『敵』であると理解しているが、割り切れない感情が心の片隅に取り残されていた。
 クルーに洗脳まで施した憎悪すべき男であるも関わらず、だ。
(…あー、…ホンットに俺も甘いなー……)
 誤解であって欲しい、間違いであってはくれまいか、などと願うわけではないが。
 想いを刻む現実(いま)を受け入れるには、多少の時間が必要なようだった。
 そう――、
 敵であれば、作戦遂行の障害になるのならば、取り除かれなければならないのだから――。

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 リフト艦までの多少の距離を、敵の目をかいくぐり二人のパイロットが急いでいた。
(チョロイね〜♪)
 利発そうに輝く翡翠の双眸に、灰色の猫っ毛をした、二枚目に分類されるであろう甘いマスクの持ち主は、連れに目配せして囁く。
(…油断してんじゃねーよ)
 対する少年といえば、挑戦的な暗い青の眼差しと悪態を調子を上げる尾瀬へ寄越した。
(ハイハイ、肝に銘じます。んでも祐希くん、見張りさんたち、ちょーっとオカシクないですか?)
(……おかしいのは、テメーの顔と頭ン中だろ)
(――ゆーきくんったら、可愛くなーい…)
 この超絶二枚目オトコを前にして顔がおかしいなんて、視力検査必要だよ? などと、阿呆な事を言い出すのを無視して黒髪の少年は先をゆく。
(っと、ちょーーーと待ち!)
 それを、イクミは先を急ぐ連れの肩を掴み引き留める。
(……ンだよ)
 他者との接触を嫌う傾向のある祐希は不満そうに眉を潜めて低く呻った。それでも、相手の腕を振り払わない程度には尾瀬を許容しているようだが。
(オカシイと思いません? ちょーっと、ね)
(………)
 応えない黒髪の少年へ、イクミは構わず言う。
(単調すぎやしないか、ってね。
 見張りの動きだけど――なんかオカシイよね?)
(――…ああ)
 尾瀬の指摘に、荒神のような少年は珍しく素直に同意した。
 巡回は二人一組で行われているようだが、無駄口一つ叩かず、武器を携え黙々と歩いて行くだけだ。
 まるで、よく出来た人形(カラクリ)のようではないかと。
 テロ組織の内情など知るはずもないので、これが普通なのかもしれないが。それにしても生の臭いのしない兵士達は、正直ゾッとする。
(ま、考えてもしょがナイけどね。兎に角、注意していこーか)
(――そう、だな)
 青みがかった漆黒を微かに細めて、まだ何事かを考え込む節を見せていた祐希だが、早々に話題を切り上げた尾瀬に合わせて意識を戻す。

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 相変わらず、リヴァイアス艦内は張りつめた平穏が流れていた。
 敵組織に艦を制圧されているにも関わらず、この奇妙な現実をどう受け止めたものか。
 黒の戦艦に選ばれたスタッフ達は少なからずとも、異常事態に慣れてはいる。そのお陰が、誰一人恐慌状態に陥ることもなく、黙々と各自雑用をこなしていた。
 疲労は限界に達していたが、誰もそのことを口にはしない。下手に騒ぎ立て敵を刺激するのは得策ではないと皆、よく理解していた。
(――ネーヤ、平気かな)
 そんな中、オペレーター席に静かに座す小振りで愛らしい顔立ちの少年は、黒のスフィクスを心配して空色の眼差しを陰らせていた。
(それに、……光が消えるって……)
 ヴァイアの化身である少女の言葉は常に謎めいていて、その意思を読みとることは難しい。ただ、漠然とした不安が染みてゆくだけ。
 先程の出来事以来、肝心のネーヤから応答はない。火急の事態に彼女が確実に此方の呼びかけに応じてくれるかどうかも判らず、何もかもが不確かなままで。
(大丈夫かな…、みんな…怪我とかしてないといいけど)
 自分には自分の使命がある。
 彼らが灰のヴァイアへ潜入し作戦完遂に勤める以上、此方も応えるのみだ。己の力で出来る事をやり遂げるだけ。それが、――大切なことだと。
 必ず、ネーヤと二人で黒のリヴァイアスに搭乗する全てのクルーの命を守り抜くと、
「――…?」
 そう決意を新たにする昂冶の傍に、敵の組織の一人が無言で近付いてきた。
「貴方が、相葉昂冶殿ですね」
 抑揚のない声で、白装束の人物はまるで確認するかのように訊ねる。
「え、……あ、はい」
 突然の事に面食らいながらも、元々の気質が物怖じしない性格だけあって、素直に返事をする昂冶。
「随分と、…可愛らしいですね。
 ふむ、灰といい黒といい、彼らは面食いなのですかね」
「???」
 ブリッジの他のスタッフも、昂冶本人も、皆がみな不審な表情で男に注目していた。特に、心優しき副艦長のユイリィ・バハナはハラハラと事の成り行きを見守る。
「まぁ、宜しいでしょう。それよりも、ご一緒に来ていただけますか、相葉昂冶殿」
「え…――?」
 予想しない申し出に、当然の事ながら戸惑い綺麗な瞳を見開く少年。
「まっ、待って下さい!
 一体何処へ――そもそも何故です!?」
 当人以上に慌てた様子を見せるのは、普段は柔和な態度で皆を纏める美しい少女だった。補佐であるという立場も一瞬忘れ、艦長を差し置いて発言した。
「応える義務はありませんね。
 ――…どうやらリヴァイスの皆様方においては、多少、捕虜の自覚が足りぬ様子ですね」
 本来なら、この場で全員を射殺しても宜しいのですが?
 と、空恐ろしい事をサラリと言ってのける黒仮面の台詞に、ぐっ、とユイリィは詰まった。
「ああ、ご安心下さい。あなた方を殺せばこの艦の操舵に支障が出ますのでね。必要に迫られない限りはしませんよ。
 ただ、……可能性が皆無であるとは言いかねますがね」
 ねとりと、絡みつくドス黒い悪意にブリッジは包まれた。副艦長を勤める凛とした顔立ちの少女が苦しそうに男を睨む。
 灰の子ども達は、お互いが互いの命を盾に取られ身動きが取れなくなっているのだ。
「け、れど…彼はただのオペレーターです。
 彼を連れて行くのなら代わりに副艦長の私が……!」
「……素晴らしい」
 尊い精神の持ち主である少女の清い言葉を、詰るが如く使者は嘲笑と共に讃辞を述べた。
「我が身を率先して差し出すことが出来るとは、敬服いたしますね。いや、真に感嘆するばかりです。統率者としては得難い貴重な資質ですね。
 本当に―……いっそ、目障りな程ですよ……」
 白装束に黒の仮面が異様さを醸す使者は、ふいに口調に悪意を見せた。
「―――、」
 男の変貌に生来の気質が穏和な少女は気圧され、無意識のうちに後ずさった。
「……見本が必要かもしれませんね、
 我々に反すればどうなるか、一目瞭然となるように――」
 仮面の下のその表情は読めぬが、不穏な空気だけを誰もが感じ取っていた。
 使者の手が兵士を呼びつけるように動いて、ブリッジを包囲するように直立不動を保っていた一人が銃口を立ちすくむ少女へ向けた。
「ころ――…」
「俺が行きます!」
 得体の知れぬ男の台詞を、強く遮る言葉。
「………」
 無力な少年クルー達の中にあって、この緊迫した場面において、その声の主は立ち上がり使者へ真直ぐな瞳を向けていた。
「――…そうですか、なら…今回の件は不問に致しましょう?」
 誰もがひとまず安堵の想いを胸に抱く最中、今し方死刑宣告を受けかけた少女と黒のヴァイアの艦長であるルクスン・北条だけは心穏やかではいられない。
 リヴァイアスにおける全てのクルーの命は、今まさに連行されようとする少年の双肩にかかっているのだ。つまり、黒の戦艦に搭乗する人間達の最後の切り札のような存在であり、そう易々と敵の手中へ陥らせるわけにはいかなかった。
 しかしここで異論を唱えれば先程の二の舞だ。今度こそ、誰かの血が流れることになるだろう。それだけは――何としても避けるべき事態なのだ。
 如何ともし難い状況を打破せんと必死に巡らせる思考は空回るだけで、妙案など浮かぶはずもない。
 顔色を失くし立ちすくむ副艦長を、使者の導きに従う少年は一瞬だけ強い輝きの瞳で見返した。
「――……!」
 ただ静かに深い意思を秘めた眼差しに、軽い恐慌状態に陥っていた少女は心を落ち着けた。
 大丈夫――理屈ではなく、直感的に悟る。
「………」
 その透き通った空色の瞳の輝きは、そう、彼等によく似ていたから。
 黒の戦艦【リヴァイアス】が誇る天才達。
 宇宙(ソラ)に満ちる孤独の闇を裂く明星。
(……無力だわ)
 そしてその、猛々しき輝きに群れるしかない星塵の群。
(わかってる。……任せるしかない。
 こんな事態、私にはどうしようもない、わかってる。でも――…)
 仮面の奥に秘めた凶暴さを晒した使者に連れられ、黒のヴァイアでも最上の魂の持ち主がその姿を消してしまい。
 沈痛な面もちのまま、栗色の髪をした少女は椅子に掛けた。
(――…何のための副艦長? 何の為に私がいるの?)
 艦長、では、その立場が重すぎて迂闊な発言や行動は慎まれる。その分、必要ならば副艦長である自分が積極的に動くべきだと。
(……無力だわ、こんなにも……)
 せめて少しでも彼らを支えたいのに、それすらも可能な範囲の願いではなくて。
 重き責務を負う少女は、ひたすらに己の力無さを悔やんだのだった。

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「放置たー。イイ性格してるじゃねェか」
 灰のヴァイアのブリッジまでよく知った青年に案内されたレイン・シルエは、寂寥感に包まれるその場所で、本来ゲシュペントの最高責任者である艦長が落ち着くべき場所に堂々と腰を据え、足を投げ出していた。
 暫くココでくつろいでいて下さい、などと。
 カンに触る礼儀正しさで去っていった相手に悪態をつき、灰のスフィクスは黒色に反射する天井を仰いだ。
 人工物独特の、命の息吹を感じさせない美しさが視線の先に広がる。
(…カイリは、まだ昏睡状態か…)
 まず、第一に気に掛かるのは実弟にあたるカイリ・朔原の状況だ。予断を許さぬだけに、一秒でも早く医者に診せたいのだが、敵の掌中にあっては叶わぬ希望だ。
(――…かなり失血してたよな…、チッ……)
 怪我の程度でいえば、命を奪う重篤さではない。
 即座に的確な処置を施せばなんら障害の起こるはずもない傷も、大量の出血が伴えば話は変わってくる。
 出血によるショック死、もしくは、酸素欠乏等による緩慢な終焉に抱かれる事となるのだ。
(…………)
 灰のヴァイアの心臓部にあたるメイン動力炉の立ち上げは既に済んでいる。ゲシュペントの化身としての能力を如何なく発揮したなら、全システムの掌握は実に容易い。
 ――それを行わないのは、名目上、リヴァイアスの安全の為としてあるが、向こうには強力な切り札を用意してきてある。
 その気になれば、何時でも――作戦強行可能だ。
 尾瀬と祐希のパイロット組がリフト艦へ無事到着し、ブルーが滞りなく灰のスタッフとコンタクトをとれたのなら、一気に決着をつける予定ではあったのだが。
(……後手に回れば回るほど不利だな、しょーがねェか)
 出来るなら灰のスタッフをも無事に救出し、大円団の結末が理想的ではある。
 しかし、既に皆が洗脳を受けているとなれば――、
「…ま、…気分のイイもんじゃねーケド…な……」
 なまじ、多少の縁がある分、後味は悪さは折り紙付きだ。
「……多少はマシだろ、――意識がないだけ―」
 恐怖や悲壮、陰惨な辛苦を味わうことなく、安息の(かいな)へ抱かれるのなら。
 傀儡として己の意に反する行いを強要され続ける精神の傷みと比べ、微かでも救いがあるだろうかと。
 ――…自己の安定を満たす詭弁に過ぎぬとしても――、
 そう、願っている。

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 無言のまま先をゆく使者の姿に不安を抱えながらも、幼い顔立ちの少年は付き従っていた。先程、混乱のままに掻き消えた清らかな魂の少女の気配は、いつの間にか傍らにある。
 そのことが、何とも心強く少年の心を奮起させた。
(……ネーヤ、平気……?…)
 精神を乱して存在を消していた黒のスフィクスに対し、昂冶はその身を案じて声を掛ける。すると、鈴の音を転がすような可憐さで少女は応えた。
『……へーき、……へいきダヨ…コージ』
(そ、っか。よかった)
 安堵する少年の優しい心遣いが嬉しかったのか、ネーヤは言葉ではなくほんのりと暖かい感情をそのまま大切な人に伝える。
(うん、…よかった。
 でもどうかしたのか、さっきのは)
『……ぶ、る……なの。……ブルー……が……イタカったの』
 これほど安定していれば、と、事情を問えば、未熟な思考で己の感覚を伝えようとするネーヤ。
『ヒカリが――消えルくらい……の、イタみ。
 でも……今、ハ――まだ、輝キガあル……』
(………そ、か)
 黒のリヴァイアスの魂の欠片、神秘のスフィクスの拙い言葉は、しかし、正確に昂冶に受け止められた。
(……ブルー、怪我したんだ…)
 敵の懐へ単騎潜入を果たす以上、その身が多大な危機に晒されるのは当然の成り行きだ。
(酷くないといいけど……)
 孤高の輝きと王者のカリスマを併せ持つ華麗な野生に想いを馳せ、春の日差しにも似た気配の持ち主は、ほぅ、と息を吐く。
 と、同時に使者の足が止まり、昂冶は些か肝を冷やして男の顔を仰いだ。
「不安を感じているようですね、相葉昂冶君?」
「………?」
 男の意図が計れずに、空色の眼差しを曇らせ少年は押し黙る。
 そもそも、何故自分が名指しで『敵』に呼び出されたのがが理解不能だ。年齢的にはそろそろ青年期に入るクルーもいるだろうが、宇宙航行の技術者としては若年者ばかりのこの『黒』において、敵の注意を引く存在といえば唯一、VGのメインパイロットのみであろうに。
「ご安心下さい、貴方はリヴァイアスにおける最大のキーパーソン。こちらとしても、迂闊な真似でスフィクスの不興をかうのは得策ではありませんからね」
 ――丁重に扱わせて頂きますよ?
「―――!?」
 何故、と。
 傍目にもハッキリと顔色を変える反応が余程愉快に感じられたのか、使者は己の背後の扉のキーを解除しつつ、微細ながら笑いを含ませた声で続ける。
「……それ程に驚かれるのも心外ですね。
 人類の希望の箱船を我々はこの手に抱こうとしているのですよ? 計画の錬成は勿論のこと、今作戦にあたり対象についてあらゆる面から情報を収集するのは、至極当然な事ではありませんか」
 男は紳士的に無知なる者を侮辱した。
「ですから――貴方が黒のリヴァイアスにおいていかほどに重要な人物であるか、よく存じております。
 切り札として、囚われの姫君でも演じていただきましょう」
「………」
 敵の使者の底のない余裕に一瞬呑まれかけつつも、黒の寵愛を受ける少年は強い眼差しで抵抗の意思を閃かせた。
 男の得体の知れぬ勝利の確信は理解し難いものだった。
 ここ、黒のリヴァイアスに於いて神にあたる存在のスフィクスが少年を見守る限り、彼に危害が加わるような場面は想像もつかない。
 あくまで予想の範疇ではあるが、もしかすると、『敵』にとって、黒のスフィクス・ネーヤは未成熟な存在として認識されているのではないかと。
 実際――ヴァイアの少女は誰彼に心を開くわけではなく、特定された者にだけ積極的に行動を起こし自ら想いを差し出す。よって、例えば研究者や潜入者のような要素を抱いた人間がいくら彼女を求めようとも、ネーヤは決して応える事はないのだ。
 仄かな輝きに包まれる神秘の魂は、常に、人の剥き出しの感情へと興味を寄せる。それが、恋慕、憎憎、歓喜、悲壮の、どのようなものであったとしてもだ。
 一個人としてスフィクスを捕らえぬ限り、彼女を正しく理解する事など、到底不可能であり。ならば、少女の未発達な精神の一部分を黒のスフィクスの全てと誤認したとて得心はゆく。
(……兎に角、今は……)
 完全に油断している敵の手より、その虚を突いて逃れることは実に容易いが、しかし、状況を判じかねるため迂闊に此方の手の内を晒す真似は避けたい。
 ギリギリまで相手を優位に立たせておいて、最後に全てを覆す、その好機を逃さぬように。静かに、流れを見守るだけ――、
「貴方は…綺麗な瞳の持ち主なのですね」
「え、?」
 己の双肩にかかる命の重さに心を強く保たねばと、そう、気持ちを引き締めていた昂冶は、思わぬ言葉を掛けられ、その幼い顔を一層愛らしくしてみせた。
「美しい瞳、汚れない心、――彼ら、人外の生命はそういった精神の気高さを好むのかもしれませんね」
「? ??」
 黒の仮面で表情を隠した使者は、ふぅむと一人ごちる。
 無論のこと、無粋な拘束の類の一切を使用していないとはいえ、虜となった小柄な少年は、一体何を言い出すのかと怪訝な顔つきだ。
 呆然としたまま男の言葉を受けるリヴァイアスの鍵に対し、男は些か昂揚した様子を窺わせた。
「一つ、――試したくなりました。
 高潔な魂とは、肉体や心の汚れにも黒く染まることがないのか、と」
「???」
 ますます意味が知れない。
 いや、言葉の意味は理解できるが、具体的に眼前の男が何を望み何を思うのかが、全く計り知れないのだ。
「私は、疑問に思うことはなんであれ、己で確かめねば気が済まない性質でしてね」
「ぇ?」
 ぐい、と。
 些か乱暴に腕を取られ、突然のことに抵抗の手もなく柔らかな質感のベッドへと倒される。
「? え、な、?」
 この時点に於いても、己が直面する危機が自覚出来ずにその美しい眼を瞬かせるだけの存在に。

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男は、懐いた小鳥の翼をへし折るような歪んだ恍惚に包まれてゆく――


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2007/07/16 加筆修正



公演ホールへ