act.24 灰色の憂鬱
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「ッ……」
なんとか、冷えた壁に体重を預け立ち上がると、予想以上の痛みで目眩がした。
呼吸が整うのを待って一歩踏み出すと同時に、その場に崩れ落ちる。
「――…ぅ」
腱まで傷ついているのかもしれない、ままならぬもどかしさに、ただ焦燥だけが募った。
(……ダメだ…歩け――ない)
自力での歩行が困難で有れば、IDを使用してブリッジに助けを求めるのが、通常ならば最良の手ではあるのだが、今は――その選択肢は最初から無いモノとしなければならない。
(――…でも、急いでっ…ブリッジに、いかないと……)
右肩に残る、肉を抉る醜い傷跡。
そこが、まるで膿んで熱を持つような痛みを孕んでいた。
(嫌な…、凄く嫌な感じが――する)
黒のリヴァイアスの化生であるスフィクスの居場所を、血塗れた躰を引きずる少年は正確に把握していた。
鮮明な映像が浮かぶでも無く、情報が流れ込む様子でも無い。
判るのが極自然、意識を共有するかの如く少女の姿を捉える事が可能だった。
漠然と、しかし、確信を以て彼女の存在を掴まえていた。
「……ッ」
再び、立ち上がろうと試みて、やはり同じように倒れ込んだ。
軽く手持ちのハンカチで止血処置を施しただけの傷口は次々と、赤い溜まりを床へと描いてゆく。
傷は――…既に痛みを越えて、ひたすらに熱かった。
(……なんか、……ホントにヤバイかも…)
朦朧とする意識に、深手を負った少年は必死で追いすがって己を保つ。
こんな処で、こんな状況で、倒れている場合では無いのだ。
自身に言い聞かせるように掌を胸に当て、瞳の光を強くする――と、ふと、昂治はある事を思い出した。
慌てて上着の懐を探って、そうして取り出したのは、医局に勤務するクルーに都合して貰った特別な頓服薬――痛み止めだ。
ソフトカプセルで水を必要とせず手軽に服用出来るソレを、灼熱に身を灼かれ苦痛に苛まれる少年は、直ぐさま飲み下した。
「………は、ぁ」
流石、看護士お墨付きの薬だけあって、効果の程は目を見張るほどだ。
経口タイプなので速効性は期待出来ないものの、それでも、数分で多少痛みが和らいだ気がする――思いこみによる錯覚にしても、有り難かった。
様子を窺うように、そろそろと右足に体重を懸けてみる――なんとか、自重を支えるのに成功して、昂治は安堵した。
「……行かないとッ…」
肉体と精神に受けた多大な屈辱と苦痛に、憔悴しきったココロを抱え、鉛のようなカラダを引きずるようにして、蒼白になった少年はブリッジを目指した。
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千々に乱れて弾け飛んだ思考が、断片的に襲いかかってくる。
元より確固たる個の存在しないスフィクスの感情の渦は、多くの人間の意思を巻き込んみ広大な、一つのうねりと成る。
如何に人類が他の動植物類には無い英知の輝きを放つとも、所詮は生物の個に過ぎない。人間程度の虚弱な精神では、その濁流の全てを受け止める事など到底不可能だ。
その事実は、これまで様々な人間がヴァイア艦の意識に精神を蝕まれて朽ちていった事例を思い起こせば、疑いようもなかった。
「――…お姫様は、まーだ、ご乱心か」
連続する混沌の渦。
迂闊に手を伸ばせば、問答無用とばかりに引き込まれ、原型を留めず寸断される。
正に、触らぬ神に祟り無しというヤツだ。
「……やーれやれ」
ブリッジ全体を見渡せる特等席、艦長の座席で、灰の化身である細身の青年は軽く嘆息し、鮮やかな珠玉に疲労と苦悩を滲ませた。
(……カイリ無事だろうな…。
あー、ついでに連中も――って、アイツ等は大丈夫そうだなー…)
殺しても死にそうに無い面々の顔を思い浮かべて、レインは人外めいた美しさを微苦笑で彩った。
(――…相葉、昂治…か)
今、何よりも懸念されるのは、黒の戦艦リヴァイアス内部で起こる混乱。
――今作戦、最大のキーパーソンである少年の安否。
(まァ、福音が没したとなりゃ……この程度じゃ済まないだろーしな?)
生きてはいる――確実なのは、それだけだが。
「……生きてる。イコール、無事。じゃねェし、な…」
なんとも座り心地のよい艦長席だか、そうそう長居するわけにもいくまいと。
勢いつけて座席から飛び上がると、謎深き生命体スフィクスたる屈指の美貌の主は、同胞の嘆きを切り捨て己の意識をゲシュペントへと集中させた。
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肩で息をつき、片足を床に擦りつけるようにして引きずり、ようやっとブリッジの前まで辿り着いた重傷者は、扉一枚隔てた向こう側に求める少女の気配を感じて、瞳に力を籠めた。
(――…いる。コッチに…来てる)
数泊、呼吸が整うのを待って扉の開閉ドライブに手をかける――と、ほぼ同時に中から女性クルーのものと思われる、恐怖に歪んだ悲鳴が上がった。
「!」
何が、と。
顔色を失くしてブリッジへ駆け込む小柄な人影に、誰一人、注意を向ける者はいない。
そう、ブリッジを全包囲する敵武装兵士さえも、酷い有様で転がり込んできた少年へ、ひたすら無関心であった。
「……?」
咎め無く済んだ事に胸を撫で下ろしつつも、やはり何処か腑に落ちない思いを抱える昂治だが、今は何よりも――。
(……ッ、ネーヤッ!)
淡い白銀の髪、紅朱の双眸、時の止まった人形――黒の疑似生命体である少女の精神の安定が、優先された。
ブリッジ中央に重力の呪縛より逃れて、中空へ大輪の華を咲かせる可憐なスフィクスの姿を認めると、傷ついた体で少年は不可視たる存在の名を呼んだ。
……―コウ――ジ。
音無き声で縋るようにする、憔悴に、頬が痩けて見えるのは錯覚か。
少女を包む仄かな輝きが、ゆら、ゆらと、一枚一枚無惨に剥がれ落ちてゆく。
完璧たる造作美を有する不完全な人形が、高く、――高く、手折れそうにか細い両腕を、近すぎる天(そら)へと差し出した。
…… ――… ・ ……。
助けて、と。
……聞こえた、気がして、年の割に幼い顔立ちの少年は空を漂う神秘の存在を、半ば呆然と見上げる……。
ジャキッ!
「っ!?」
不穏な気配に、黒のリヴァイアスにとって最重要人物たる少年は、我に返った。
猫の子一匹逃がす隙間も無い包囲陣を形成する兵士達が、一斉射撃の姿勢を取ったのだ。
「……なんと言いましたかね」
緊迫する場において、鷹揚と構えた声の主が周囲を絶対的に支配していた。
絶え間ない緊張と恐怖の連続、そして、肉体的な疲労と苦痛が極限にまで達し、優しい面差しの少年は、蒼白となっていた。
しかし脅えのままに震え、立ち竦んでいたのでは、次の惨劇を待つばかりである。
(………ネーヤッ! 頼む、応えてくれ…!)
今、正しく。彼女の能力を駆使し、己の役割を果たす最大の正念場なのだ。
席を外してていた空白の時間を把握するのは不可能だが、場の流れが危険な方向へと進んでいる事は、余程の虚けでも無い限り察せられる。
なんとしても敵の動きを抑えねばと焦る一方で、肝心の黒の化身からの応答は一切無い。
(……ネーヤ…どうして…?)
彼女は精巧な立体映像のように、ただ、意思も意味も意図も無く、そこに映し出されているだけだった。
「……な、んの…、何のつもりですかッ!」
錯乱気味で叫ぶ副艦長の悲痛に、事態を好転すべく密かに苦心する少年は、天の少女から注意を奪われた。
(……ユイリィさん…、!?)
夢の名残のように淡く儚い存在感にばかりに気をとられていたが、些か冷静になって事態を観察してみれば、その異常を容易に確認出来た。
一面――、鮮やかな朱の饗宴。
おそらくは、人ひとり形作っていたいただろう肉片が、血溜まりに白く浮き上がって、残された腰から下の残骸が無造作に転がっていた。
自覚すれば独特の臭気が鼻について、凄惨たる視覚的効果も相まって、喉の奥から迫り上がるものを咄嗟に押さえ込む。
そして不意に、己を犯す原罪の意味を汲み取って、思考が白く灼きついた。
(〜〜〜ッ、ダメだ、落ち着かないと――)
指先が死人のように冷えてゆくのを感じながら――相葉昂治は、副艦長であるユイリィ・バハナが鋭く言葉を返した使者の一人を視界に認めた。
「ああ、思い出しました。不慮の事故。そうしましょうか?
予想外の災禍に見舞われ、ブリッジ全員の尊い命が犠牲となったと」
皆殺しだ、と。
言外にうそぶく男に、ユイリィはギリ…と口唇を噛みしめた。
「――…武器を収めて下さい…」
使者は、皆一様に不吉な黒の仮面と体全体を包む白装束で素顔を隠している為、その本心は伺いしれない。
交渉を望むリヴァイアスの責任者の声を一切取り合わず、男は一人で奇妙に納得し、ふむふむと唸った。
「美しくも残酷な宇宙(そら)の海、その航海に事故はつきものですからね」
「――…私たちに抵抗の意思も力もありません――、」
極限状態において、いっそ滑稽な程にユイリィ・バハナは冷静だった。
その腕で絶望的な喪失感をひしひしと受け止めながら、彼女は毅然と、桔梗の色をした眼で場の支配者を見据えていた。
「……言葉は無力ですねぇ、副艦長殿」
「…一方的な行為は、蛮族の所行と映ります。各勢力団体に、理解を求めにくくなるのではありませんか」
「………」
侮蔑の対象としてしか認識されていなかった少女からの思わぬ切り返しに、少々、鼻白んだ様子で、使者は黙り込んだ。
「なかなか鋭い洞察力をお持ちで、確かに一理ありますね…」
ふぅむ、と、奇妙に人間くさい仕草をする。
「ですが、ね――」
男の口調が、酷薄さを帯び――、
「……貴方の瞳は美しい。見過ごすには少々、光が強すぎる――」
「! やめっ…! みんな、伏せてッ!!」
――…既に元来の色を失い血染めとなった制服に身を包む服艦長は、最早、使者の凶行を諫める力は己には無いと――せめて、この命だけは消してなるものかと。
少女は我が身を顧みず、膝上の温もりに覆い被さった。
「――ネーヤッ!!!」
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どうして

こんなにも
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――…激しい銃声の代わりに、何かが砕ける鈍い音が――した。
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人の姿のままで、生体艦ヴァイア・ゲシュペントを支配するのは、やはり骨が折れる。
「………」
幸い、灰のブリッジには人影も無く静寂を得て、集中には充分な環境ではあるが。
それでも、人の能力の限界を超える行為は容易でなく、黒質の青年は酷い頭痛と嘔吐感に堪えていた。
人の『脳』には無限の可能性があるというが、それは、それ自身を個体として捉えた場合の話であり、肉体を構成する一部と認識するなら――酷使により、人格の破壊は充分に考えられる。
(……マーヤのヤツに…って、やっぱダメか…)
人類という種に対して極度の嫌悪をみせる彼に後を任せて、望む結果が得られるとは到底考えにくい。
己の内に存在するもうひとりの存在に一瞬浮かんだ依存を振り払って、青年は更に深く意識をゲシュペントへと潜らせた。
『――…無茶、だよ』
(! ……マーヤ…)
『君に、僕は支配出来ない』
(……〜無茶は承知で…ッ、ああもう、引っ込んでろ!)
会話は他者を通じて己を確立する為の手段であり、繰り返せば、己の存在意識が大きなる。よってヴァイアの支配はより困難となる。
普段は此方から幾ら呼びかけても全く応えないくせに、何故今、邪魔をしてくるのかと。 流石に余裕の無さから、レインは邪険に異質を追い払おうとする。
『幾ら、僕と同化した君でも…逆に喰われるよ…?』
(……わかってやってンだ、下がれ。マーヤッ!)
ヴァイアの凶暴性については言われるまでも無い、理解した上での無謀だ。
『………馬鹿じゃないのか?』
(――…こッの野郎、無駄口ばかり達者になりやがって…、黙れ、下がれ、引っ込んでろ!
邪・魔・だ!!)
『――…承知の上、か。
君はいつもそうだね、僕にはまだ…そういうのは理解出来ないな』
黒の化身である少女ネーヤと違い、ヴァイア艦ゲシュペントを半身とするマーヤはより高度に精神を発達させている。その口振りから、彼が人類とは異なる種であるという違和感は微塵も感じられない。
(〜〜…わかったから、黙れ、マーヤ。
俺がギリギリだって判ってやってんだろ、後で覚えてろよ……ッ)
噛み付く勢いの魂の片割れに、マーヤと呼ばれる種は奇妙に沈黙した。
ようやっと大人しくなったかと安堵する端から、再び、不機嫌そうな声が響く。
『……少しは、頼るとか頼むとか、そういうの無いのかな。君は』
(………、……………は?)
『……なんでもないよ。じゃ、邪魔して悪かったね。精々頑張りなよ』
呆けた返答に益々気を悪くした様子で、いやに幼い感情を垣間見せるスフィクスに、レインは困惑気味に――、
(お願いします、手伝ってクダサイ?)
如何にも棒読みで、思い立った台詞を口にしてみた。
『……胡散臭い。』
(――…そっりゃ、まァ…)
仕方ないだろ、と、衝撃から立ち直った頭で反撃を試みるレインに、
『いいさ…君が僕の協力を訝しむのは、当然だろうからね。
いいよ別に、助けてあげるから――委ねて……ほら、平気だろう…?』
(………ああ)
許容を遙かに越えた情報量に混濁していた意識は、ものの数秒で透明さを取り戻した。 同時に肉体的な苦痛もやわらいで、ゲシュペントの支配系統を全てマーヤに受け渡した時点で、すっかり嵐は通り過ぎていた。
『……さ、どうするの?
――好きにしていいよ――君の望むように…、していいよ』
(……榊は、どうしてる?)
『お籠もり中…僕の目が届かない部屋があるんだけどね、そこに入ったきりだね』
(目が届かない…?)
初耳だとばかりに、レインは低く唸った。
『特別な電磁派が常に部屋の壁に流れてるからね、当然、出入りも不可能だよ』
(ッ、おい待て…そんなの何時の間に…。
いや、それより他の部屋はどうなんだ? 同システムを導入してるなら――)
『他のトコロは問題ないよ、そこだけだね。
第一、どこもそこもそんな手を加えて回ったらバレるよ、勝手に改装してることがさ』
(……そーか、OK。
じゃ、榊は取りあえず置いとくとして、連中は…?)
『ネーヤのお気に入りなら、全員リフト艦。
…僕の目から、特に問題は無さそうだけど』
(……そっか。)
リヴァイアスの半身である少女の寵愛は全て、相葉昂治の名の少年にのみ注がれるが。それ以外に、全く無関心というワケではない。
興味や好奇心といった程度でなら、その他の人間に対しても少なからず感情の動きを見せるのだ。
特に『大好き』な昂治が個人的に関係の深いリヴァイアス三強。
彼らには、それなりに好意と名付けるべき情を寄せているようなのだが――。
「――…艦を動かしてくれ、マーヤ」
『……わかったよ』
「リフト艦と、ココに通じる通路に重力をかけられるよな?」
『…出来るけど』
気乗りしない返事に、レインはどうした、と尋ねる。
『僕は、加減がよくわからないから。……殺してしまうかもしれないね。
――…いい?』
ゲドゥルトの海を住処とする謎の生命ヴァイアの現身である存在は、空と地上の狭間で育まれた生物の種達とは、その根本から異なる。
例えば、幼児が掴まえた羽虫をその手で握りつぶしてしまうのにも似た、残酷な無知。
「……っのなァ、殺していい? ハイ、いいですよー、って誰が言うか。後味悪いだろ」
『…じゃあ、君がやりなよ。
君なら調整が効くだろ。前は同じモノだったんだし』
不貞腐れたように反撃してくるマーヤの、その、人間臭い物言いに、妙に感心しながら対となる紅珠を宿す青年は頷いた。
「……OK。んじゃ、あと一つ――」
『何?』
「ネーヤに、ゲシュペントの後を追ってくるように――伝えられるか?」
先刻の動揺の大きさから推測するに、まだ正気を取り戻さない可能性も考え得るが。
『無理だよ』
「……少しは方法考えろよ」
余りに早い結論に、閉口気味になる。
『仕方ないよ。今、あの娘はとても混乱してる。
幾ら僕が同族とはいえ、なんとも出来ないよ。無理だね、不可能』
「……向こう、今どうなってンだ…?」
不吉な予感に包まれながら、レインは疑問を口にした。
『――…とりあえず、クルーに死者はいないみたいだね。
けど……』
「けど、なんだ」
『重傷者が三人出てる。一人は…虫の息だね、もう死ぬんじゃない?
それに、ブリッジにいる人間達の精神に傷害が出てきているね。
――…まぁ、仕方ないかもね。辺り一面血の海だし。僕は綺麗だと思うけれど、君たちは脅えるだろう? 『死』の実感が湧くからね』
サラリと言ってのけるマーヤの台詞の中に、緊迫するリヴァイアスの場面が垣間見えて、レインは長い溜息を吐いた。
「……洒落になんねェっての……。
仕方ない、急ぐゼ。この宙域を全力離脱。――脱出だ」
『――リヴァイアスは?』
「ブリッジの正面パネルに、ゲシュペントの姿を映してくれればいい。
――それで動けないようなら、それまでだ。リヴァイアスは全放棄」
『……情が深いんだか薄いんだか、相変わらず…よく判らないよね。君は』
不思議そうに呟いて、荘厳なるヴァイア艦、灰のゲシュペントの意思は、静かに確実に、艦体を動かしてゆく。
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「――…あ、いば、君…」
呆然と、掠れる声で名を呼ぶ副艦長に、負傷した右足を引きずりながら小柄な少年は近づいた。
「大丈夫ですか、副艦長」
「………貴方、こそ…怪我……して」
放心状態で応えるユイリィに、昂治は大丈夫です、と小さく微笑んで上に視線を遣った。
「―――?」
つられるようにして、小綺麗に整った顔立ちの副艦長は自分らの真上を仰ぐ。
そうして視界一杯に映り込む、華やかに艶やかな、藤花の髪と深すぎる紅の眼差しの少女――黒の、その意思の具現、スフィクスの姿。
彼女は、華奢な真白い両の腕(を、精一杯高く差し上げて、はらはらと……柔らかそうな頬を溢れる滴に、無造作に濡らしていた。
「…ネーヤが抑えてくれているから、今の内に。
艦長を早く、医療スタッフに任せましょう…。それに、彼らを拘束しないと」
ネーヤの涙に心を傷めながらも、昂治は、今己に出来る最良を考え選択してゆく。
「………ネーヤ…、艦長……、!!」
未だ夢見るような心地で周囲を見渡した副艦長は、敵兵士が皆一様に、床へ這い蹲り藻掻いている光景を目にし、我に立ち返った。
「みんな、もう大丈夫。急いで彼らの武器を取り上げて!! 拘束するわ!! 早くしてッ!!」
副艦長を務めるユイリィ・バハナの一喝に、床にふせって震えていたクルーの面々が、周囲を伺いつつ怖々と立ち上がる。
その様子に痺れを切らして、副艦長は肩の痛みも忘れて怒声を飛ばした。
「大丈夫だと言ったでしょう、死にたくないなら早く動きなさいッ!!」
普段、滅多な事では声を荒げたりしない、絵に描いたように穏和で天然な副艦長の切羽詰まった号令に、流石に皆、慌てて起き出して命令に従う。
クルーの様子にひとまずの安堵を得たユイリィ・バハナは、
「緊急用ホットラインを繋いで下さい! 医療チームに現状連絡、直ぐに来て貰って!!」
「はいっ!」
今度は、オペレーターに向かい鋭く指示を与えた。
そしておもむろに朱色のラインが入った制服の上着を脱いで小さく畳み、それを重傷のルクスンの頭の下に敷いた。
「…ごめんなさい、ルクスン」
本当は、
「………ありがとう、庇ってくれて」
ずっと、貴方についていたいけれど。
「――…頑張って…!」
きゅ、と、強張ったルクスンの手を握りしめて囁く。
そして己自身も深手を負う身でありながら、副艦長の任にある少女は立ち上がり、毅然と声を張り上げた。
「拘束した兵士は目と口を覆って下さい、手足もきちんと手錠を掛けて。
それを終えたら、この宙域を全速で離脱します」
その決意秘めたる美しい眼には、ブリッジ正面パネルに映し出された灰のゲシュペントの姿が捕らえられていた。
一通りの指示を送った副艦長は、足の痛みの為か、その出血の為か、床に両手を着いて呼吸を整える黒の要ともいうべき少年と目線の高さを同じくし、尋ねた。
「相葉君、ごめんなさい。確認したい事があるの。
敵の兵士はここにいるだけじゃないわ、他はどうなってるの?」
「………あ!」
小さく声を上げ、つぶらな眼をパチパチとさせる姿に苦笑が誘われる。どうやら、ブリッジの惨状に目を奪われ、他をすっかり失念していたようだ。
しかしそんな少年に対し、副艦長は決してその責任を問うような物言いは無く、静かに。
「もうここは大丈夫。
だから相葉君、無理を承知でお願いするわ。保安部の者を一時的に貴方の指揮下にするから、彼女と共に残りの兵士を拘束し、ブリッジまで連行してもらえないかしら」
怪我をしてる貴方に、こんな酷を頼むのは人道を外れるのでしょうけど、と、付け加えて栗色の髪の少女は、自嘲的に微笑した。
「……え、と。少し、待って下さい。
ネーヤに話してみます」
感情の爆発に耐えきれず、ひたすら赤子のように無垢の涙を溢れさせる少女へ、昂治は殊更優しく呼びかけた。
「ネーヤ」
ビクリと、華奢な肩が応じた。
「…ネーヤ」
優しい声、大好きな人。
「もういいんだ、降りてきて?」
真直ぐに躊躇いもなく伸ばされる白い腕に、少女は脅え強張った顔が、ほぐれてゆく。
「コ…ウジ」
「うん。――副艦長、此方はもう大丈夫ですよね?」
「ええ…そうね、もう平気よ」
念のため、グルリと周囲を見渡し、ユイリィは了承した。
両手両足を充分に拘束され、その視界までもを奪った敵の様子に安堵して、副艦長はブリッジの全クルーへと高らかに宣言した。
「総員、天国への道より離脱準備!
灰のヴァイア艦の動きを追って下さい。前方の障害物には充分な警戒を。
今作戦における私たちの任務は完了となりました――…帰還します!」
凛々しくも美しい艦責任者の姿に気圧されるようにして、クルーはそれぞれに己の責務を全うすべく所定の場所へ落ち着く。
例えば、未だに床を血濡らす肉片たちや、それらから漂う異臭は、確かにブリッジに席を置く少年達の恐怖を煽る存在であるが、それらを視界の外に追い遣り平静を保つ術を彼らは身につけていた。
度重なる惨劇の経験が、正常なる感覚の麻痺を引き起こしたようだ。
簡潔な一言で纏めるなら、恐怖慣れした、という処か。
異常事態における場慣れは、今後も問題を抱えてゆきそうなヴァイアの、クルーとして、必須の能力となりそうだ。
世間一般の常識で囲えば、決してよい傾向とは言えぬかもしれぬが。
「ネーヤ、もういいから。大丈夫、ありがとう」
「コ・ウ…」
「うん、大丈夫。大丈夫だよ」
「……ジ…」
高みより、黒の半身麗しの少女は、昂治の名を持つ少年の元へと縋るようにして降り立った。
「コー……ジッ…」
質量を全く感じさせない可憐なスフィクスは、愛しい昂治に抱きつき、その背中に懐いて震えた。
「…イッパイ…怖い…、…コウ…ジ…、ヤダ……」
「うん、ごめんな。怖かったよな、ネーヤ」
泣き縋る少女の透けるような手を、そっと宥めるように撫でて昂治は囁く。
そして、幼い子に言い含ませるようにした。
「ネーヤ、でもね。怖い人がまだいるんだ。だから、ネーヤの力を貸して欲しい」
「…コワイ、ひと…」
「うん。その人達そのままにしておくと、みんなが危険なんだ。手伝ってくれるかな」
黒のヴァイアの化身である儚き少女は無垢な仕草で、パチパチと瞬いた。
「――…コージ、…」
「…ん、ゴメンな。嫌な事を頼んでるのは分かってるんだけど、ネーヤにしか出来ない事だから…、頑張ってもらえないかな」
「……ウン」
そっと、ネーヤの方に向き合い、視線を合わせて微笑む昂治に少女は微かに頬を染め、泣き濡れた瞳で、はにかんだ。
「…コージ…の、…お願イ…ナラ…」
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貴方が、そう――望むのなら。
なんでもするの、どんなことでもするの。
――…大好き、だよ。
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2007/07/16 加筆修正