act.26 魂の守人
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「痛ッ…」
「当たり前でしょう? こんな状態で歩き回るなんて、無茶にも程があるわよ」
口調こそ突き放すようではあるが、治療の手つきは酷く優しい。
本格的な医療ブースとは別に、ヴァイア艦リヴァイアスには、極軽度の怪我に対応する、所謂『保健室』のような部署『保健部』が設けられている。四百余名もの搭乗者数を誇る戦艦において、軽微なそれに逐一対応していたのでは、幾ら人手があっても足りたものではない。
また、負傷者の方としても、消毒程度で膨大な待ち時間が生じるのは苦痛でしかない。故に、医療の効率化と健全化を考慮した上で『保健部』の存在は、実に効果的に機能していた。その保険部、本日の担当は牡丹の華のように艶やかな髪を、左右で清楚に結わえた女性スタッフ――クリフだった。
切り傷だからとまず保健部に向かった昂治は、そまずそこで怪我の程度を彼女に確認され、直後、大目玉をくらった。
ほんの少し指先を掠った程度の傷とは事情が違うのだ。鋭利な刃物で、ザックリパックリと切り裂かれたそれが、消毒と止血程度で完治する道理があるかと、散々怒られながらも、とりあえず、止血をしてもらっていた。
「アタシはね、こんな無理させるために、あの薬を渡したわけじゃないのよ? わかってる? 全く、いっつもこうなんだから」
女性のモノにしてはハスキー調子の声で、厳しく咎められて、昂治は項垂れた。
「…うん、ゴメン…クリフ」
「……ほら、足、ちょっと伸ばして。包帯巻くから」
華奢な足が痛みにひきつりながらも持ち上がる。手馴れた様子でガーゼを重ね、その上から綿の白布を巻いてゆく。最終部分を留め金で挟んで、医療スタッフの一員であるクリフは、いいわよ、と合図をした。
「他に怪我は? 痛いところはない?」
訊ねながらも、金属製の容器に張った湯で、昂治の頬やら髪やらに微かに残る血痕を、綺麗に拭ってゆく。くすぐったそうに身を捩りながら照れるリヴァイアスの寵児は、それでも全身を襲う重篤な倦怠感からか、さしたる抵抗の意思もない。
「うん、平気…だけど、少し体が重い…かな?」
「そりゃそうよ、血の出しすぎで貧血状態なのよ。手当てが終わったら、とりあえず奥のベッドに横になって休んで。手術の用意ができたら声を掛けるから」
「……うん、そうさせてもらう」
クリフの強い口調に素直に頷いて、二人の間に心地よい無言が流れる。軽くチカラをいれて搾ったガーゼで、昂治の全身に飛び散った赤い名残を、何度も丁寧に拭う、清楚に美しい医療スタッフは、やがて、ポツリと零した。
「足の怪我――腱までは傷ついてないと思う…けど、暫くは無理しちゃダメよ」
「え…? そんなに酷いのか?」
イマイチ、己の怪我に対する自覚の薄い天然な少年をギロリと睨み上げて、クリフは脅迫めいた文句を口にする。
「これから一生、松葉杖でいるのと。今、治療に専念するのと、どっちがいいわけ?」
「……治療を受けさせてイタダキマス…」
「よし」
患者の従順な態度を、クリフは安堵の笑顔で以って受け止めた。
「手術が終わっても、暫くは松葉杖ね。右足使っちゃダメよ」
「…わかったよ」
職務に随分と忠実な医療スタッフを前に、観念した様子で息をつく昂治。流石に松葉杖は大袈裟過ぎるのでは、と苦笑が零れ落ちるが、それもこれも、全ては自分の容態を気遣っての指示だ。感謝こそすれ、反発する理由など見当たらない。
「それにしても、どうしてコッチに来たの? それだけの傷なのよ?」
「…う、ん。クリフに貰った薬飲んでいたから、余り痛みを感じなかったし…それに…」
「それに?」
「あっち、今…大変だろ? だから、保健部で済むならって思って」
「……まぁ、確かに。今は少しゴタゴタしてるけれど…。
後、三十分もすれば人手を回せるらしいから、そうしたらアタシが向こうに運んであげるからね。昂治」
「え、いや、そんなに距離もないんだ…し…、いえ、お願いします」
半眼で容赦なく睨みつけられて、すっかり萎縮する昂治を、よし、と満足そうに見遣って、クリフは手元の器具を手馴れた様子で片付け始めた。
「……クリフ、は」
医療スタッフとして目覚しい成長を見せ付ける看護の女性の、凛とした背中をぼんやりと追って、昂治は亡羊と呟いた。
「ん? なーんか言った?」
痛々しい赤にまみれた器具を丁寧に洗い、全てを消毒槽に沈めてから、クリフは濡れた両手を滅菌されたタオルで拭いつつ、振り返った。
「ん、うん。……ゴメン、なんでもない」
今も、ブリッジに待機する恋人――チャーリーの様子は気がかりではないのかと、思わず口走りそうになり、思い留まる。
重い事態を知った医療スタッフの中には、ブリッジへ駆けつけた者も少なくない。艦長が臥した直後の、指揮系統の混乱に乗じて、大切な相手の無事を確かめるために、だ。
あれほど、仲睦まじい恋人関係でありながら、気に掛からぬはずがない。無粋な口出しだと、過ぎた言葉は悲しみを募らせるだけだと、人を思いやる気持ちに長けた少年は俯いた。
「なーによぅ? もしかして、自分の所為で、アタシがチャーリーの処に行けないんじゃないか、って思ってる〜?」
貧血状態にある所為だけでなく青褪めた顔で、弾かれたようにして面を上げる少年に、クリフは魅惑的な微笑みで応えた。
「やっぱり?」
「…う、ん。その…ゴメンな、クリッ…」
「謝らないでよ」
意外に明るい口調にキョトンとする表情が、酷く幼くて、クリフは思わず吹き出した。
「あっはっはっは。やーだもーぅ、昂治ったらカーワイイー」
「かっ…、可愛いって」
男に対してその言い草はどうだろう、と、頬を染めて絶句するシマリスのような少年に、清楚な姿に身をやつしても尚、独特の色香が漂う美しい女性スタッフは、強い意思を閃かせた。
「アタシがチャーリーとこにいっても、なーんにも出来ないわよ。傍についてて祈る? ガラじゃないわよ。マジで。
それより、アタシはアタシの出来ることをしたいと思う。しなきゃ、いけないんだって思う。アタシはここで、アタシの手に負える怪我人を精一杯みてるわ。そのほうがあの人も褒めてくれる気がするしね」
「………」
眩しい、笑顔だった。
強がりもあるだろう、意地もあるだろう、けれど、美しい笑顔だと思った。
「なー、んって。コレもアタシのガラじゃないかぁ。アハハハ、慣れないカッコツケすると、なんだか木っ端恥ずかしいわよねー、あー、ヤメときゃよかった」
「…そんなことないよ、すごく、カッコイイ」
照れくささから火照った頬の熱を逃がそうと、パタパタ、片手を団扇代わりに仰いでみせるクリフに、昂治は酷く嬉しそうに、賛辞の言葉を送った。
「……ッ、へ、へー、そう?」
その真っ直ぐさに当てられ、ますます赤くなるクリフは、真摯な瞳に耐えられずにそっぽを向いてしまう。口調に刺々しさが感じられるのは、全て照れ隠しだ。
「べ、別に。褒めたって、なーんにも出ないわよ。見え透いたお世辞になんか、のらないんだから」
「お世辞じゃないよ、本当にカッコイイって思ってる。
変わったよな、クリフ。
――なんていうか、凄く……綺麗になった」
嘘偽りのない、穢れない気持ちの欠片だけを凝縮した言葉の輝き――ストレートな褒め言葉を前に、真っ直ぐな想いというのに極端に弱い女性は、耳まで赤くし、硬直してしまった。
「〜〜〜ッ」
「クリフ?」
「な、なんでもないわよッ。こ、コッチ見たら怒るわよッ!!」
「………??」
不思議そうに小首を傾げる愛らしい少年の背後で、彼の気持ちを代弁するかのように、重力に縛られない摩訶不思議な存在が、やはり、小首を傾げた。
「クリ…フ、うれしい…ウレしい…、たくさん」
「うるさいわねッ!」
キッ、と声の主を睨んで見せる赤毛の少女だが、効果の程は見られない。それどころか、嬉しそうに、笑顔の花を綻ばせているだけで。
「って…、………、………。
そういえば昂治。アンタ、後ろのその娘、何のさ?」
実を言えば、黒のスフィクスである少女ネーヤは、昂治が保健部を訪ねた時から傍にいたのだが、怪我の度合いの重篤さに意識を奪われて、今までそれどころではないと、存在を失念していたのだが。
「え? ああ、ネーヤ?」
「ネーヤ?」
聞き慣れない名前だと、クリフは華やかな面差しを翳らした。
「ああ、ネーヤはリヴァイアスのスフィクスなんだ。クリフは直接会うのは初めて?」
「……って、えええぇっ!? スフィクスッ? その娘が!?」
仰天して大声を上げる看護士に、昂治は事も無げに頷いた。彼女の存在は、最早、機密でも何でも無い。こうして正体を語るのに、躊躇は無かった。
「へ〜ぇ、そっか、そーよね。成るほどぉ。どーりで、違和感なくアンタの隣にいると思った。はぁ〜…、スフィクスのことは一応、知ってたけどさ。実物はハジメテよ、アタシ。
何? 人格とかあるワケ? その娘」
「じん…カク?」
珍獣でも見るような目つきでジロジロと観察されて、キョトンと、ネーヤは艶めいた血色に閃く眼差しを、無垢そのものに瞬かせた。
「ちゃんと話せば、コッチの言うこともわかってくれる。だから、心無い言葉を吐けば傷ついたりもする。一つの人格を持った普通…とは、ちょっと違うけど、でも普通のコだよ」
優ししク諭してくる昂治の言葉を聞き流し、クリフは胡散臭気に黒の個体を値踏みした。
「ふ〜ん? まぁ昂治がイイってんなら、アタシはどーでもいいんだけどね。ネーヤ、だっけ? ヨロシク、アタシはクリフよ。ク・リ・フ」
「……よろ、し、ク?」
カクンッ、と繰り糸の切れた人形のように大仰な動作で首を縦にする神秘の少女。どうやら、言葉の意味をイマイチ理解していない様子で、心もとなさが際立った。
「えと、ネーヤ。よろしくってのは、挨拶だよ。
これから先、仲良くしていこうね、っていう意味なんだ」
見かねた昂治が横から助け舟を出して、心の発達が未だに外観に追いつかず、年端もゆかぬ少女のままでいるネーヤは、全幅の信頼を寄せる相手の言葉を、ゆっくりと沁み込ませた。
「仲…ヨく。なかよシ…、コージと、ユウキ、みたイ…に?」
「え?」
予想外の切り替えしに、面白いほど躊躇える昂治。その後ろでは、父性溢れる愛らしい少年の様子を、眼福とばかりに眺めていたクリフが、意外な展開に目を丸くしていた。
「まぁ…そうかな?」
「…チガウ…?」
「いや、違わない。うん、違わないよ」
幼い容姿をした少年は、微かに頬を染めながら、無垢たるスフィクスの言葉を否定する。
「……ぷっ」
――この可笑しさは、どう表現したらよいものか。
まるで、幼い園児に自分の好意を言い当てられ、照れ臭さのあまりに慌てる、幼稚園の先生のような。
「…昂治とトンガリな弟クンは、そぉねぇ、フツーの『仲良し』とは、ちょーっと違うわよねぇ」
奇妙なやりとりに思わず机に突っ伏して笑い転げるクリフは、眦に滲んだ涙を拭いながら、二人の会話に茶々を入れる。
「な、んだよ。ソレ」
「べっつにぃー、ま、兎も角もヨロシクね。ネーヤ」
「……ウン、よろしク」
ふわり、と桃色の花弁を綻ばせる可憐な少女に、不覚にも胸の高鳴りを覚えつつ、クリフは、さり気無く話題を変えた。
「えっと、そろそろ――誰か手が空かないかしらね。重症は重症でも、艦長に比べたらアンタの怪我は、さして人手の要るモノじゃないから、誰か一人でも準医師の資格がある人間が動ければ、縫合とか済ませられるんだけど」
そうぼやいて、保健部に据えられている通信ディスプレイに触れる。軽い電子音の後に電源が入ったそれは、しかし次の瞬間――そこに『あるはずのない光景』そして『届くはずのない声』を映し出した。
『なー、祐希くん。コレってちゃんとブリッジに繋がってんの? 反応ないんだけど』
『…俺が知るか』
白き守護神、威風堂々たる佇まいでいる灰のVGは、黒の戦艦を庇うように立ち。
『磁場狂いのヒデェこの宙域で仕掛ける可能性は低いけどな、万が一敵襲があった場合は、俺達が戦う。お前等は、ゲシュペントを見失わないようにしてろ。いいな』
『以上、灰のVGより中継でした〜』
愛しい存在たちの、まるで変わらぬ声が懐かしく胸を突く。
「……祐希ッ、イクミ……」
食い入るようにディスプレイを見つけ、息を詰めたままで二人の声に耳を傾け、張り詰めていた心が、堰き止めていた感情が、弾けそうになる。
「何よコレ、どうなってるのよ?」
火急の事態を想定し、保安部の人間と医療スタッフには、今回の作戦について話は通してあるが。万が一のこともあり、作戦の詳細についてはブリッジクルーと実働部隊にしか伝えられていない。一医療スタッフに過ぎない女性の戸惑いは、当然だった。
「俺にもわからない…けど、――よかった…無事で……」
「……昂治」
自分自身が後々にまで残るような残酷な手傷を負っておきながら、それでも、身近にある命を、人を、優しく想う存在に、クリフは微苦笑を浮かべた。
それが、相葉昂治という人間なのだと。
まだ過去と言い切るには生々しく記憶に灼きつく、閉塞された空間で築かれた、黒の王国の凄惨たる事件を、深く知る人間ほど、そう言って納得するのだろう。
「…なんか、よくわかんないケドさ。アタシは、アンタ達みたいにスゴイ力があるワケじゃないし、小難しいコトもよくわかんないわよ? でもさ、そーやって安心したよーに笑う昂治のカオ、結構好きだよ。うん、好きだわ」
「ク、クリフ??」
れっきとした血の繋がりのある弟やら、肩を並べて笑いあう親友やら、孤高の覇道を征く存在やらには、確かに、他を圧倒する才気が輝いているが。自分には、そのようなモノの持ち合わせは無いと慌ててみせる少年に、クリフ、と呼ばれる看護士は、にっこりとした。
「そーゆぅ自覚無いトコもくすぐられるのよねぇ。ふふふっ」
「か、からかうなよっ」
「からかってないもーん、本当のコトだし。かわいーい、昂治ってば」
「クリフッ、もうヤメロよなっ」
初めの方こそ真面目な告白だったが、今はもう、反応を面白がるソレだ。
「はいはい、っと。これ以上構うと、大好きな昂治にキラわれちゃうものねぇ。っと、アラ?」
臆面無く好意を手向けてくる女性の言葉に、明らかに揶揄りの感情が混じっていることを察して、少しばかりご立腹な昂治だったが、不意に変わった口調に何事かと興味を寄せる。
「どうかした?」
「うん、準医師免許持ってる子が、手を空かしてくれたみたい。患者を医療ブースに届けてくれってサ」
「そっか。じゃ、急いでいかないと。待たせちゃ悪いよな。忙しいだろうし」
「患者は、そーゆーコト気にしなくていいの。
それより、ホラ」
連絡が入ると同時に、なにやら部屋の奥でガシャガシャと派手な物音を立てていたクリフは、車椅子を引っ張り出してきて、患者である少年の目の前でそれを誇示した。
「え?」
「え、じゃないわよ。早く乗る。アンタ、その足で医療ブースまで歩く気?」
はったおすわよ? と、妙に凄みのある笑顔に押し切られて、昂治は車椅子での移動を余儀なくされたのだった。
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灰の艦長席はなかなかに、座り心地の良いものだった。
常々考えるが、地位や名誉を手中に収める人間というのは、何故に人よりも高い位置を好むのだろうか。多くの人間を見下ろすと同時に、有象無象の民衆に見上げられる場所は、それほど彼らの中にある支配欲や征服欲を満たすものなのだろうか。
「……おエライ人間様の考えるこたぁ、わっかんねーってな」
『人間なんて、どれもこれも一緒だろ? 君、変なトコで哲学的だよね』
「ぶぁーか、大量複製品じゃあるまいし。人の心なんてモンはな、一つ一つ複雑に違ってるもんだ」
『へぇ、そう? でも、僕にはその違いとやらは感じられないけど』
「鈍いんじゃねェ?」
『…どの人間も、内面の醜さは同じだよ。君だって、わかっているだろ』
人を知りたがるスフィクスでありながら、人を最も嫌悪するマーヤという名の、灰の化身は、呆れたとばかりに溜息を吐く。
『裏切り――君は、ヴァイアに捧げられた供物だろう。人が、美しいとは言わせないよ。人は醜悪だ。存在そのものに、僕は疑問を抱かずにいられないね』
ヴァイアに捧げられた、贄。
その言葉に、レインは些か苛立ちを滲ませた。
「…マーヤ」
『……僕に腹を立てても仕方がないだろ。
確かに、君を望んだのは僕自身だ。けれど、決して無理強いなどしていない。違うかい』
神秘の存在であるはずのスフィクス。次元を異にする、至高の存在は、まるで初めから人であったかのように、随分と人間じみている。個体としての魂を持たぬはずの彼らだが、他のスフィクスと比べ、灰の現身は確固たる『人格』を確立していた。
――お陰で、口は達者だわ悪知恵は回るわで、御しにくいことこの上ないが。
「ったく、ちったぁ黒のジョーチャン見習えよな。可愛げっつーもんがねェ」
『ハァ? 僕がアレを見習うの? 何でさ。君、バカにするのも大概にしなね。
あんな抜け殻同然の未熟なスフィクスと僕が同列に扱われるだけでも、腹立たしいのに、その上見習え? 可愛げで世の中渡れたら苦労しないっての。バカじゃないか?』
自分以外の人間には一切見向きもせず、無関心を決め込む冷徹なスフィクスの印象を見事に覆す、饒舌かつ、絶好調な毒舌ぶりに、レインは複雑な心境となる。
「……なんていうか…世俗的になったもんだよな。お前も」
『成長したといって欲しいね。いつまでも無垢なままでいられないさ。じきに、黒のヤツもこうなる。――人の醜さを知ってね』
「まー別にいいさ。お前の人嫌いは今に始まったことじゃねーしな。それより、気になるのは榊のヤツだ。随分、大人しいと思わねーか?
アイツがゲシュペントの動きに気付いてないはずねーしな…そろそろ、何か仕掛けてきてもいい頃合なんだが……」
『榊…、榊ねぇ。あの精神異常者か』
「――おッ前、悪口だけは異様に達者になったよなー…」
しみじみと感心してみせる魂の片割れに、マーヤは失敬な、と憤慨する。
『だけ、って何さ。
第一に、今の僕の人格は、君の影響が大きいということを、自覚しているかい?』
「あー、悪かった悪かった」
投げ遣りな対応に、微か、口調に苛立ちが不純物として混じ入る。
『君ね――』
尚も抗議の意を言い募ろうとした灰のスフィクスだったが、胎内に異常を感じ取り、口を噤む。人の心の善し悪しを、大まかにしか感じ取れない未成熟な黒の化身とは違い、灰のマーヤは、まるで人そのもののように、感情というものに、機敏だ。
「――兵士が、動いたな」
『リフト艦に向かっているみたいだね。狙いは、黒の福音――その、欠片(パーツ)の連中か』
「そりゃまー、俺をどーこーしようたって無駄だし、無理だし。
アイツ等狙うほうが、建設的だろ。普通」
死の無い存在――終焉の見えぬ永遠を、人ではないモノとして在り続ける神秘のスフィクスにとって、命の概念は皆無だ。特に、胎内であるヴァイア艦内部で彼に牙を剥く事自体、愚かとしか言い様が無い。
――それを踏まえた上で思い起こせば、榊の選択した行動は無謀以外の何物でもない。例え、離れた場所に人質を取ってはいても、だ。それを彼が躊躇無く見捨てたのならば、己自身の身柄さえ危うい。
そう考えれば、安全な場所からのうのうと高見の見物を決め込んでいる、おエライ連中よりも、随分好感が持てる相手ではある。自ら、危険を冒してまで、己が信念を貫こうとするのだから。
「まー、……赦さねーけどな。アイツは」
とりあえず、この事態収拾がついた後で、洗いざらい吐かせて――政府に差し出せば、間違いなく殺される。それも、通常の犯罪者のように裁かれるのなら、まだしも。おそらくは、研究の材料と――して。
「………」
『物思いに耽ってる場合じゃないんじゃない、レイン。
人が動き出したよ、皆、リフト艦に向かってる。それに――』
途切れた台詞。思考に無理やり流される画像。型番までは把握しかねるが、その厳つい外装と巨体から予想するに、おそらく――最新鋭の第一級巨大戦艦の、敵艦の機影が、くっきりと映り込んでくる。
『来たよ、敵。
僕は操舵と艦の防衛に集中するから、君は中の害虫どもを片付けなよ。殺してもいいけど、穢れた血で僕を余り汚さないで欲しいな』
「あのなァ…」
俺様、ここに至れり、だ。
この破綻した性格全てが、自分に起因するとは、どうにも得心ゆかぬレインである。
『さ、無駄口はここまでだ。
いくよ――僕に逆らうとどういうことになるか、刻み込んであげる』
ザワリ、と闘争の本能が刺激されて、半身である存在に、危うく精神を浚われそうになり、慌てて自我を保つのは、オリジナルの人格である青年だ。
「さて――、んじゃ俺も、一仕事、っとな」
リフト艦で灰のVGの操縦に集中する少年達には負担を掛けられない。元は、良心ある人間であったものを無残に引き裂くのには、少々の躊躇いが残るが。全知全能の神でもない限り、全ての命を等しく救うことなど、不可能だ。残酷なようだが、それも、また真理。
死の海原で命を司る生命神秘のヴァイアに捧げられし彼の存在は、苦さを味わいながら、断罪を――救済の手を差し伸べたのだった。
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静寂。
それは、喩えるならば巨大な災禍の前の、静けさにも似た。
今作戦における重要人物――相葉祐希と、尾瀬イクミの二人が灰のVGコクピットに納まってからは、複雑に絡み合うコードの先から紡ぎだされる、規則正しい発信音と、間断ない冷却音だけが、世界の全てを支配していた。
愛用のニードルガン、そして、凶悪性を増した光線銃は、両方とも猫科のパイロットに手渡してある。今、身を守るものといえば、大振りのナイフと長くも無い人生で得た対術だけだ。それでも、一切の不安は無い。無論、心許ない感触は存在するが、人を殺すのは、存外簡単なのだと理解する上での、余裕だった。
『――ブルー?』
心地よい静寂を無粋に乱し、今回の作戦ですっかり馴染んだ『声』が届いて、孤高の蒼狼は微かに緊張を漂わせる。
「……何の用だ」
『おー、あんまいい報告じゃねェな。
リフト艦に向かって敵が動いている。まぁ、俺で抑えるけどな、一応、心構えだけしといてもらおうと思ってな』
「――…何人だ」
『ざっと、二十数名ってトコか。
ああ、祐樹や尾瀬には黒の護衛に集中してもらうから、敵襲については伝えてないぜ。もしもの時は、頼むわ』
「…わかった」
灰のヴァイア艦におけるスフィクスの存在、その能力は絶大であり、十分に信頼に値する。しかし、所詮は人の所業。全知全能の神でも無い限りは、絶対など有り得ない。万が一の事態に備え、研ぎ澄まされし爪牙を秘める王者は懐を無意識に押さえ込んだ。
「………」
思い出すのは、優しい笑顔。
幼い記憶に幾層にも刻み込まれた、媚び諂う厭らしい嘲笑、品を定める侮蔑の視線。汚辱にまみれた白黒の世界に、一筋、零れ落ちた光が、今は、これほどにも愛おしい。
「――…」
今更――月並みな幸福とやらを渇望するなど、滑稽を通り越して、傲慢だ。
骨の髄まで染み込んだ血の匂いは、まるで、怨鎖のように過去を縛り付けて夢の続きを赦さない。今更――、今更だと、己に言い聞かせるこの一時すら、無様だ。
「お前を――お前が愛しく想う全てを、俺は全力で護ろう」
抜き放ったナイフの切っ先が、禍々しくも美しく乱反射する。
手傷を負う雄々しき野生は、白刃の閃きに殺戮者の瞳を覗かせ――、一切の情けを切り捨てた。
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2007/07/16 加筆修正