act.27 厄災と抱擁
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未来永劫を覆い尽くす、闇。
儚く散りばめられた幾星霜の輝きとて、それは、人智を超えた、過去の亡霊であり。
深淵たる宇宙に、命の匂いなど――するはずもなかった。
「……?」
ふわりと鼻腔をくすぐる微かな香りに、白の武人にて黒の姫君を護る少年――柔らかい灰色の猫っ毛に、道化じみた明るさを放つ翡翠の持ち主が、ふと眉を寄せた。
(……甘い? なんだっけ、これ)
楚々たる香りは記憶の吟線に触れては、ひらりと遠ざかる。それは、春風に運ばれる花弁の気紛れにも似た。
(――ああ、そっか。花、か)
そして思い出す――まだ、幸福であった頃の記憶を。
若さゆえの過ちと言い切るには、それはあまりにも大きな代価だった。優しい女(ひと)の苦悩を知らず、ただ、昂ぶり逸る感情だけが先走り――最悪の形で終末は訪れた。
今でも胸の奥に疼く痛み――激しい後悔、そして、自責の念。
「尾瀬、敵だ!」
二度と、同じ過ちを犯すことのないように。
「――了解。敵本体にエネルギー集中。……撃ってくるな」
「こんな場所で光子砲? バカじゃねェのか、照準がズレて自滅するゼ」
「相手も考えがあってだろうな。
どうする。初撃を凌いで討って出るか?」
「……リヴァイアスには兄貴が乗ってンだ。そうそう艦を無防備に出来ッかよ」
手折れた華を、枯らさぬように護るだけの、資格も力も既にこの両腕にありはしないのだから。
「敵の狙いはヴァイア艦だ。自暴自棄にでもならない限り、無闇に本艦を攻撃したりはしないだろうけどな」
「作戦の失敗――政府にヴァイア艦を取り戻させるくらいなら、ってな。短絡嗜好は悪役の専売特許だぜ。今回の作戦は敵の殲滅じゃねェ、穿き違えるんじゃねーよ」
「ああ、そうだな。リーダーはお前だ、従うさ」
心奪われし可憐な華を、ただ静かに、見守るだけしか――それだけしか、もう。
赦されはしないだから。
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第一級巨大戦艦の砲身に集中する大量の熱源に、ブリッジは計り知れぬ不安に包まれていた。敵の機影はリヴァイアスのピンガーでも既に把握可能であった。それはすなわち、相手との距離を詰められているということに他ならない。
「敵、熱量が集中しています。――撃ってきますッ」
焦燥に追われた声で敵の動向を見張るクルーが、半ば悲鳴のような警告を上げた。
「――構わないわ、このまま操舵に集中してくださいッ!」
「ですが、副艦長!! せめて、光子砲への対衝撃フィールドだけでも展開するべきです!! 万が一にでも、攻撃が機体を掠めたら――」
全てを宇宙の塵へと帰す光子砲の威力は、衰退の一途を辿るこの世界に生きる者にとって常識となっている。それほど絶大な――凄絶な結果をもたらす、破壊の兵器なのだ。
しかし、その攻撃を凌ぐだけの防御壁となると、膨大なエネルギーを消費する。機体の出力低下を危惧しつつも、ユイリィは凛とした声で指示を飛ばす。
「わかったわ。後方にフィールド準備! 敵の砲撃に合わせて展開します。各員、有事の衝撃に備えて!!」
「了解! フィールド展開準備に入ります。チャージカウント開始」
「推進力低下。最大出力83%までダウンします」
――83%…、背に腹は代えられないとはいえ、好ましくない数値だった。此方を誘導するように先を往く灰の戦艦の様子を窺えば、特に敵からの攻撃に警戒するでもなく、優雅に星海を駆けていた。人の傲慢が生み出した悪夢の破滅の光を知らぬわけでもないだろうに、随分と余裕の佇まいだ。ただでさえ、艦体のパワーに差がある上に、出力を落としたリヴァイアスは、ゲシュペントからじりじりと引き離される。
「……ッ、17%のダウンは痛いわね」
ギリ、と思わず親指の爪を噛んで、副艦長の少女は低く唸る。
光子砲にエネルギーを喰われる敵の戦艦の足が、此方と同じく能力の低下をみせるのがせめてもの救いであった。
「敵、熱量最大! 撃ってきます!!」
一際、甲高い報告が飛ぶ。
「砲撃到達まで、後20秒!! 19、18、17、」
「フィールドチャージ完了! いけます!! 完全展開まで、10秒!!」
「展開開始!! 出力最大!! 各員、網膜保護の為、防護フィルターを装着!」
艦長席から立ち上がり、次々と的確な指示を飛ばす少女は、真白い制服を悲痛なまでの決意を秘めた赤に染め上げ、ブリッジクルーへと注意を喚起した。
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「! の、ヤロッ。マジで撃ってきやがった…! おい、尾瀬!!」
「ああ。分かってる」
「波長をγ115ジャスト、出力中度、キャパを振り切るまで上げきれ!!」
ビリビリした緊張感で肌か粟立つ、久方ぶりの、戦場の高揚だった。天才の誉れも高きエースパイロットは、その感覚に脳髄から陶酔する。何を圧してでも守るべき存在が今ここに在る。そうであっても、命を賭けた瀬戸際の攻防に、昏い歓喜が湧き上がった。
「キャパは限界まで引き上げている。――好きに喰らえよ」
奮い立つ野生とは対照的に、感情の一切を欠落させた虚のような対の新緑が、いくつもの計器やモニターを無感動に見据え、まるで機械のような正確さで指先を奔らせる。
「――いっく、ぜぇ!!」
気合一閃、白き武人が左手を高々と頭上遥かに突き上げ、仁王立つその姿は、まさに国士無双。急激に収束してゆく負の質量に、不遜な少年は満足気に口端を上げた。
「ッ…、は。三流が…」
まるで狂った獣の咆哮のように、光のうねりが目標に向かい、襲い掛かる。無残に失われた命の数だけ砕け散る惑星の欠片が、歪んだ時空の中で漂い続ける『魔の宙域』で、惑うことなく牙を剥く、その執心だけは大したものだと、祐希は嘲りに鼻を鳴らした。
正面にかざした掌が熱さを伝える――眼前にまで迫った光の脅威に、臓器を抉られるようなおぞましい恐怖と紙一重の、眩暈さえ覚える、悦楽――快感の渦。
「…――喰い、散らしてやるぜッ…!」
言葉通り――、灰より与えられた頑強な誇り高き守護者は、破壊の光を、喰らった。
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「……す、ごい」
その光景は、余りにも常識から懸け離れ、にわかには信じ難く。しかし、真実であったのならば、なんと心強い事であろうか。魂までも吸い取られたかのように呆然とする彼らから、誰とも無しに、そんな呟きが漏れた。
「…ウソ、だろ…、光を――」
過ぎる光から瞳を守るフィルター越しの、薄いオレンジに染まる視界の中、無骨な白の武装を施した巨大なる機人は、呪われし輝きを受け止め、突き出した左腕より、喰らって――いた。
貫く全てを灰燼に帰す力は、人類の災禍とも、神の鉄槌とも呼ばれる。一瞬の、光と死の饗宴。祭りの後に残されるのは、癒えることの無い傷跡と、埋まることのない間隙。
その悪夢の力を――灰の白き武人は喰らい、無力化した上で己から排出していた。白き甲冑から優しい輝きが溢れ、まるで白く雄大な翼のようであった。その神々しさに、信仰心などという全時代の遺物がクルー等の脳裏を掠めた。
「なんて――、なんてきれいで、雄々しいの……。これが――ゲシュペントの力…」
「副艦長ッ!!」
口元を重ねた両手で覆い、感嘆の意を漏らす暫定的に艦の責任者となる少女は、捕虜の監視にあたっていた保安部等の切羽詰った悲鳴に我へと返る。
何事かと呼ばれた方向を振り仰げば、その有り得ない異常な光景に息を呑んだ。
「な…、拘束を……!?」
それまで魂が抜けたかのように呆けていた敵兵等が、敵意を満たし、両腕両足の枷を引き千切ろうとしていた――のだ。
彼らを捕らえる手錠は旧式の原始的なものだが、簡素である分、頑丈だ。鉄製の鎖など、常人であれば到底、力任せに断ち切れるものではない。それを――不吉に激しく軋ませて、まるで飢え渇く野獣のように、敵兵は次々と血滾る咆哮を上げた。
「……ヒッ」
「お、おいっ、ヤバイんじゃないのか。アレッ…」
航行に集中し、他の一切に気を取られてはならないクルーの間に、動揺が走る。ユイリィはそんなブリッジに喝を与えて、艦長席から保安部長であるディードに凛と言い放った。
「捕虜を大人しくさせてください。
暴れるようなら――必要ならば、動けないように手足を撃ち抜いて!」
博愛精神に富み、まるで母神の化身のように優しく、聡明な少女の口から、予測以上に冷酷な命令が下る。
「……了解しました」
決して他者を苛み悦楽を得る性質ではない。保安部を志したそれとて、人を――この視界に映るだけの人々を守りたいという、真摯な願いからであった。結果、リヴァイアスに宿る命全てを救済するであろう非道行為に、ディードは苦悩を滲ませ、銃身を構えなおす。
「動くな。動けば、撃つ!」
彼に倣い、保安部の少年等は皆一様に、沈痛な面持ちでひやりと冷たい感触のトリガーに指を掛けた。
しかし無論――そのような、情の篭る人の言語が理解に足りる連中であるはずも無く。
気狂いの物の怪の類かとばかりに暴威を振るう兵士等の、無理な負荷に血管が無像と浮き上がった腕からは皮膚が破け、濁り澱んだ血のそれが滴り落ちる。獣の呻きを髣髴とさせる苦痛からの唸りは、泡噴く口腔から間断無く続いていた。正気の沙汰では無い――誰もが、本能に近い直感にてそれを悟る。人型をしているだけで、既に「ひと」ではないそれらに手向けるのは、恐怖と――深き業故の、憐憫。
「……頼むから、動くな…」
噴出す汗が背筋を伝って、銃口を定める掌を濡らした――。
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ただ、断続的に響く金属的なそれと、モニターから派生する極短な発信音に耳を澄まし、リフト艦の護衛に当たっていた彼は、思考を無遠慮に掻き乱される感覚に、鷹揚と下ろしていた目蓋を上げる。
『聞こえるか、ブルー』
抑揚の無い――意識的に感情を抑えた思念が、直接に脳髄を歪ませて、猛々しき孤高の蒼狼は、不愉快そうに僅かに眉間に皺を刻んだ。
「…何の用だ」
煩わしい――率直な思いのまま、王者の素質と風格を備えた存在は、言葉少なく返す。
『そんな、あっからさまにイヤそーにすんなよ』
スフィクスの特異能力である精神感応の力を揮ってまで無駄口を叩くのか、と、如何な状況であろうとも一貫した態度で在り続ける男に、皮肉混じりの賛辞を送り、やはり端的に応じる。
「用が無いなら話かけるな。警戒中だ」
『あーのなァ。いっくら俺でも、この状況で呑気にお話しましょ、なんて云うわきゃねーだろ? どんな大物だよ』
「……レイン」
誇り高き蒼の王者が、滅多に無く相手を固有名詞で呼ぶときは、要注意だ。そう長くも無い付き合いだが、リヴァイアス名物衆の性格をある程度把握する灰の麗人は、即座に軽口を止め、独特の色気を醸す声で密やかに用件を切り出した。
『死体、片付けてくんねーか』
「………」
『首から上、潰れてるからな。…まぁ、気持ちいいもんじゃねーけど』
「……こちらに向かった敵を片付けたのか…」
『ああ。リフト艦に続く通路の前に散らばってる』
「……そうか」
『あの状態じゃ生きちゃいねーだろーけど、念のため警戒はしてくれ』
「……了解だ」
VGを使役する為、リフト艦へと篭るパイロットの少年等は、柘榴となった『 』だったものを前に何を思うのか――荒削りな気性に天賦の才を閃かせる少年は、血生臭い現実を目の当たりにするには、まだ到底に幼く。人生に達観し、飄々と世の道理も不条理も呑み込む片方は、その実酷く過敏で繊細、憐れな程に脆弱だ。可能ならば――成るべく『死』と接触させたくは無い。
寡黙――その一言がよく似合う無慈悲なまでに美しい蒼の野生は、懐の凶器に手を添えて握り込み、忌むべき記憶と共に在る凍て付いた眼差しで、足を踏み出した。
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ガウンッ、ガウンッ。
メディアでの娯楽で目の当たりにするよりも、それはずっと朴訥で容赦の無い咆哮を上げた。ほんの小さな、円錐形の鉄塊は空気をも螺旋状に抉り、不可視の速さで対象へと到達しすると、牙触れる部分の肉を存分に喰い千切った。
ビクリ、と肉の痙攣と反射からソレは大きく反り返り、ほんの瞬間だけ機能を停止させた。前のめりに血臭のする床へと倒れ込む人型はしかし、まるで関節の外れた繰り人形が無理やり糸にカラダを支えられるような不恰好な姿勢になりながらも、戒めの鎖からギギギ、と脳障害でも起こしそう気味の悪い音を鳴らした。
「――動くなと言っているのが分からないのか!!」
既に両足両腕を無残に撃ち抜かれた兵士等は、それでも拘束を解こうと人には無い怪力で鎖を軋ませていた。相手の視界を先に奪っていたのが幸いだ。これで、正気を失い血走る眼で恨めしげに凝視されでもすれば、気の優しい者など失神しかねない。
「……クッソォ、なんなんだよ!! コイツ等ァァァ!!」
「! 馬鹿者ッ、無闇に撃つな!!」
恐怖に支配された保安部の一人が悲鳴のように叫び、上司の制止に耳を貸さずに、我武者羅に敵の四肢を目掛けて発砲した。それを避けて反撃するならばまだしも、全て肉片で受け止め、辺りに生暖かな飛沫を上げながら、最早、人型を保っているだけの化物は遂に鉄鎖をガヂリと千切ってみせた。奇妙な方向に捩れた腕でペタリと床に這い蹲り、次々と自由を得るそれらが、死者の群れのようにして、ズルズルと、ブリッジのクルー達を目指す。
「……ひっ、」
呪詛の詰まった鈍重な動きで這いずり、確実に近づく醜悪な塊に、とうとう操舵に携わるスタッフが悲鳴を上げて席から腰を上げ始める。――途端、艦体が巨大な惑星の欠片に外壁を掠めて、足元から揺さぶられるような衝撃が襲う。
「! あうッ!! ……く、みんな、持ち場を離れないで!! ここが、死の宙域だということを忘れたワケじゃないでしょう!?」
座席から立ち上がっていた艦長は、強かに腰を打ちつけて息を詰まらせるが、痛みを堪えて毅然とした態度でブリッジ全体に指示を飛ばす。迫りくる脅威に現実を失念しかけていたスタッフは、その一言で顔の筋肉を引き攣らせながらも、己が職務へ向き合った。
「……けど、ユイリィ!! あいつら、あからさまに私たちを狙ってるわ!!
どうにかしてっ!! どうにかしてよッ!!! お願いッ!!!」
足元から迫りあがる恐怖に半狂乱で懇願するクルーの、悲痛な叫びがブリッジに反響する。ユイリィ自身とて、十分に危険を察していた。現実――苦痛を与える保安部の人間には目もくれず、黒の戦艦の操船に必要なブリッジクルーを、まるで手足を?がれた蟲のように蠢いてまで、執拗に狙う――全ては、リヴァイアスの足を止める為だ。
「――網を、丈夫な網を誰か急いで持ってきて!! 彼らを残らず捕縛します!!」
「はッ!!」
艦長の命令を受け、保安部長のディードが下位の者へと指示を飛ばす。過去の悲劇から、黒のリヴァイアスには防災防犯におけるありとあらゆる道具が揃っていた。数人が構えていた銃を収めると、目的である捕縛用のワイヤー製の網を探して、慌しくブリッジを後にした。
「しかし、艦長。網でアレ等の動きを封じても――完全に動きを止められるとは思いませんが」
「……いいのよ。急場凌ぎでも、充分だわ」
多少の混乱を自覚しながらも、事態を冷静に受け止めるヘイガーの換言に、栗色の髪を高く結わえる愛らしさが、悲痛に染まった白い制服に対照的に映え、痛々しさを際立たせる少女は、努めて平静に応えた。
「幾ら異常といっても、アレも『生物』よ。夥しいばかりの血を流して、平気でいられる道理は無いわ」
「――…その通り、ですね」
ならば、いっそ脳天か心臓を銃弾で撃ち抜いてしまえばよいのだ――そう、言い掛けて、神経質そうな目つきの男は押し黙った。ソレを誰が行うのかを考えたのならば、口を挟むべきではないだろう。結果を同じくするとしても、積極的に手を下すのと、偶発的な結果を待つのとでは、負担の割合が全く異なってくる。
「うわぁああぁぁああっ!!!!」
「ひぃっ!!! あ、あぁぁっ!!!」
――と、次々と悪化してゆく事態を何とか治めて、此方側だけでも、誰一人の犠牲を払うことなく故郷の地を望もうと苦心する艦長の胸に、人としての体裁や体面を手放した絶叫が届いた。何事かと目を見張れば、保安部の人間に牽制されるように周囲を包囲される赤黒い肉塊から、異様に長い『何か』が天井へと伸びて――いた。
「………な、に…?」
丁度、腹の中央部分の皮膚を内側から破裂させたようにして、その節くれ立った関節は、ずるりという粘着質な怪音と共に、次々と生えて――そう、生えてくるのだ。
コレは、何なのか。
限られた知識の中で、眼前の奇怪に相当する、最も近しい物質を探し出す。そう、敢えて言えば『蜘蛛』か。仰向けた血塗れの腹から幾本もの手を噴き出す影は、異形の蜘蛛だ。
それも――、一体や二体ではなく、無造作に散らばる肉片から、合わせて五体もの物の怪が産まれ出でた。
「……――あ、…りえませんね。
人が、人から――…、人……ですか…?」
漸く保っていた平常心が綺麗に常識の袂から滑り落ちて、許されるなら今すぐにでも正気を手放したいと、ヘイガーは意味不明な言葉を口走った。
それも――ただ、変態するだけならば厳戒態勢を強めるだけであったものを、ペチャ、プチ、クチュ…、と滴りを帯びた弾力のあるそれを貪り尽くすく光景が広がって、有事の気丈さには定評のある少女も流石に顔色を失くし――震える華奢な指先で口許を覆い、膝から床へと倒れこむ。
リヴァイアスの硬質な天井に埋めこまれた人工の白熱が、無造作にバラ撒かれた血肉をいっそ現実感も無く、綺麗に照らし出す。一面の死臭に交わる、最早甘美とさえ錯覚を覚える腐敗の血色。腹から痩せ細った腕を生やし、人だったモノに無心に飢える異獣。
――それら全て見渡せる位置から、未だ、リヴァイアスの守護神は眩く輝いて、いた。
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開発の途中で放置されるという経緯のあるリヴァイアスのVGと比べ、格段の性能の差を見せ付けるゲシュペントに、好戦的なパイロットは些か興奮気味に、白き武人の手綱を握る。
交戦状態から瞳孔は開いたまま、随分とはしゃいだ様子で、祐希は喉を上下させた。徒労にしかならぬ――と結果が明らかであっても、馬鹿の一つ覚えとばかりに次々と打ち込まれる追撃の光子砲は一刀両断に斬り伏せられ、破壊の閃光とも恐れられた力が、まるで赤児の手を捻るように容易く己に跪く。圧倒的な力に――天才の異名を欲しいままにする少年は満足そうに口端を吊り上げる。
「スッ…ゲェな、コイツ。まだ、全然余裕じゃねーか。コレに比べたら、リヴァイアスのヤツなんて、ガラクタ同然だぜ」
「ゲシュペントは、主に戦闘に特化した開発方針だったらしいからな。それより、油断するなよ、リーダー。俺達の後ろにはそのリヴァイアス――昂治がいる」
「…テメェに言われなくてもわかってンだよ」
不意打ちで兄の名前を出され、浮き足立っていた気分に冷水を浴びせられたようになる祐希だ。不機嫌そうに短く舌打ち、牙剥く光を睨み据える。
「――おい、尾瀬。コッチから撃って出れねーか?」
守るべき命を背中に庇い、防戦一方では埒が明かない。確かに、今回の作戦は敵の殲滅とは無く。戦争軍人でもない、ただヴァイアに搭乗するだけの子ども等に、そのような危険を冒す義務も、使命も皆無なのだが。守備逃走に徹している為、随分と余力が残されているのが裏目に出たのだろう。闘争を好むリヴァイアス切ってのエースパイロットは、苛立った様子で尋ねた。
「敵艦機影確認――充分射撃射程内だ。
だが、リーダー。コイツの能力が未知数な以上、迂闊な行動は控えてくれ。万が一の事もある。俺は昂治も、誰も――死なせたくない」
「……チッ」
『人が死ぬ』というソレに誰よりも過敏に反応し、その事実を忌諱する翡翠の眼差しも儚く愛おしい――独善的で臆病な支配者の言葉には、語られぬ過去の重みがあった。己が興味の対象には野生に生きる動物並みの直感を働かせる祐希は、一にて十を察し、渋々ながらも反撃を諦める。
気取らぬ粗野な顔立ちに、年相応のヤンチャな面影を覗かせる少年とて、リヴァイアスでの犠牲は望むとことではない。既に何名かの負傷者が出ているらしい黒の戦艦に、今以上の傷を強いるのは外道の所業だ。
「しょーがねェ、ヤラれッぱなしは趣味じゃねーけど。兄貴の為だしな…」
一見、リヴァイアス事件から急激な内面的な成長を遂げたように思える無鉄砲なお子様の、結局行き着く所は『兄』なのかと、筋金入りのブラコンっぷりに今更ながら感嘆の念を抱く一方のパイロット――尾瀬イクミは、鼻腔を擽る爽やかな甘さに、不審を募らせた。
(――さっきから、なんだ? 花、なんて何処にも……)
控えめな、さりとて芳(かぐわ)しい、深窓の姫君のような優美にて甘美な華の気配は、直ぐ傍に、腕を伸ばせば触れる切ない距離に――あった。
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「コ、ウジ」
幼い子が、覚えたての言葉を綴るようにたどたどしいそれで、少女は心を寄せる存在へと透ける白さが儚さを際立たせる両腕を、存分に伸ばした。
(………ネーヤ?)
カラダが妙に軽く――自由に感じられる。
試しに指先で後ろを押してみると、重力を感じさせない動きでトーンと全体が前に飛び出した。元々幼い顔立ちの造りを、更に愛らしくさせて、華奢な少年は目を丸くする。
(……うわ、なにこれ…??)
どうやら、空中を漂っているようだ。
重力制御の掛かけられていない区域を移動するときに、今と同じ状況を体験したことがあるが、それとは違い、随分と――身軽だった。周囲をぐるりと見渡せば、清潔な手術室のようだ。そういえば抉られた傷を縫合するために、局部麻酔を受けたのだったと思い出す。そこから――桜色に花咲く可憐な少女に甘え、抱き締められ――、
(! 下…、え、なんで? 俺?)
バッ、と視線を眼下にすれば、安らかな寝息をたてる己の肉体と、その周囲を真剣な面持ちで手術に当たる医療スタッフが、忙しく立ち働いていた。
「コージ、い、こう」
(え、ネーヤ? いくって、何処に…??)
くぃ、と白いシャツの袖を引かれて戸惑う優しい人に、黒のリヴァイアスが生み出した奇跡は、まるで悪戯が成功したときの子どものような可愛らしい興奮に紅の瞳を輝かせて、そのまま暖かな右手を握る。
「……逢いたいって、思った、よね。
だから、逢いにいくの。コージが大切なひと、コージを大切に想うひと。
ネーヤに、…ついてきて」
腕を取り寄り辺のない空中で少女は酷く嬉しそうに、少年へ微笑みかける。
人として完成された固体に直接――近く触れ合う所為か、精神の未発達さが危惧されるスフィクスは随分と慣れた語り口で、愛するひとを導いた。
(…うん。一緒にいけばいいんだよね?)
戸惑うばかりの空色の眼差しが、何度かの瞬きの後に、少女への信頼が滲む。彼女――黒のリヴァイアスの化身である無垢にて全能たる存在が、無暗に自分を――愛しむべき子ども等を傷つけるはずが無いと確信して、少女の冷たい左手を力強く握り返した。
ヴァイア艦において、神にも等しき存在である桜化精の少女に導かれるままに――リヴァイアスの天井を質感も無く通り抜けて、死と生が一瞬の交錯に美しく煌く宇宙へと飛び出した。ネーヤとしっかりと手を繋いでいる為か恐怖は微塵も感じられないが、替わりに感動が胸に去来する。なんと――宇宙(そら)は無常に美しいことか、と。
「コージ、前、見て」
(え、あ。うん? ――あ…)
促されるままに邪気無く澄んだ瞳を前方へ遣れば、圧倒的な光に仁王と立ち塞がり、黒のリヴァイアスを護る白き武人の姿が、神々しく深遠の宇宙(そら)に輝いていた。全身から立ち上る光の筋が、まるで幾枚もの翼のようで、宗教画に頭を垂れるときのように敬遠なきもちになった。
(……ゲシュペントの、じゃあアレを動かして…)
彼らが灰の戦艦に居る――居て、黒のリヴァイアスに宿る生命の全てを全身全霊にて護ってくれている。切ない現実に――胸が熱くなった。
「あのね、コージ。ネーヤは、マーヤが怒るから、向こうにいけない、の。
けど、コージだけなら、入れるから。
いって、きて」
(……え。ネー…ッ、うわっ!?)
少女の言葉に呼応するかの如く周囲の景色が一気に横へ流れた。先ほど、リヴァイアスの隔壁を通り抜けたときのように、水面を潜り抜けるそれとは違う、弾力性のある透明な壁を越えると、健気の一言が相応しい黒の少女は、自身の言葉どおり忽然と姿を消し、代わりに、スフィクスと心を通わせる稀なる存在は、懐かしい気配に包まれた。
(………、イク、ミ…?)
普段の飄々とした態度はその一切の成りを潜め、悲壮な決意すら伝わる真剣な面差しに、神業の如き指捌き。次々と爪弾かれてゆく護るべき闘争の為の、情報たち。時折、電子的な響きから飛んでくる指示に、かつて、黒の王国を歪な正義の下に支配した覇者は、的確に応えてゆく。
(こんなに必死に、頑張って…、俺達を護ってくれてるんだ)
危険を承知の上で捕虜として敵陣へ飛び込み、そして今、誰よりも何よりも黒のリヴァイアスの危機から救ってくれている親友に、眦が熱くなるのを感じた。
「……必ず、護るから――、誰も、死なせない」
死なせない、言葉が、それ以上の重みで以って、胸の中心を揺さぶる。息も止まりそうなほど、強い感情に背中を押されて――母なる蒼き惑星の欠片のような少年は、華の香りと共に、心の奥底に未だ癒えぬ傷跡を抱える彼を、その儚い魂ごと全霊で抱き締めた。
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2007/07/16 加筆修正