act.29 楽園計画
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 日々刻々と近付く破滅の足音に追いつかれないように、子ども等は、必死に走り続ける。
 やがて、太陽系が全域に渡り死の海原、ゲドゥルトに沈む。
 跡形も残らぬ熱線が降り注ぎ、水も空気も緑も、生命に繋がる一切を奪われた世界。
 それが――ゲドゥルトの海。
「そして――、強烈な太陽光が降り注ぐ帯域で人類を存続させる為に発足したのが。人類進化促進計画【楽園計画プロジェクト・エデン】。素晴らしく。そして、愚かしい計画です。ゲドゥルトで生命を維持するという事は、人類の死滅と同意義。  ――全く、本末転倒もいい処だと思いませんか? スフィクス殿」
「バカげていると理解ってるクセに、何故、そんな研究を続ける」
 【DUST】の解除コードを入力する為のプロセスを踏む――かつて、同胞と呼び肩を並べた高潔たる艦長補佐を、銃口で威嚇したまま、ただ静かに問いかけた。
「……ふふ。全く以って貴方達の言葉は正論ですね。腹立たしい事この上無い」
「――貴方、達?」
 言外に誰の事かと伺えば、愛しい艦長殿ですよ、といけしゃあしゃあ返された。
「朔原艦長殿の人の好さには、正直、眩暈がしましたよ。
 こんな事態になってもまだ――私に、何か理由があるのだろうと。誰かに脅されているのかと。そう、何度も何度も訊ねてきましてね。
 余りに小煩いので足を撃抜いて黙らせたんですけどね。正直、虫唾が走ります」
 淀み無く滑る指先をそのままに、榊は侮蔑を吐き棄てる。
「――まー、そりゃ確かにどーかと思うな」
 実弟に対する酷評を微苦笑で受け流し、レインは軽く同意する。正に、あの実直バカが言いそうな事だ。完膚無きまでの裏切りを眼前にしても、アイツなら頑なに己の副官の心を信じぬくのだろう。清廉潔白さも度を過ぎれば毒だ。
「…【楽園計画プロジェクト・エデン】の頓挫で人類存続の希望を喪失し、焦りに暴走した【パラサイト】の行いは、貴方自身が身に染みているでしょうに。
 私からすれば、貴方の方が不思議ですよ。ヴァイアに贄として捧げられ、世界に叛かれ、それでも、人類(ひと)に盲従している。貴方こそ、弱みを握られているんじゃないですか」
 ――そう、遠く離れぬ過去に戻ったような錯覚を起こさせる。何処か、親しさを滲ませた口調に、灰のスフィクスとして在り続ける異質なる麗人は狡猾だな、と嘆息した。
「――何が、です?」
「意識的だろ。わざとらしーから訊くな」
「ああ、そう言えば」
「…あ? なんだよ」
 仄暗く反射するディスプレイに、幾重にも無機質な文字が躍るのを眺めながら、レインは何時になく饒舌な炎の如き髪色の男に律儀に付き合った。
「灰に搭乗していたクルーですがね」
「………」
 テスト飛行の名目で出航した艦には、最低限のクルーしか居合わせていなかったはずだ。それも、おそらく――艦長である朔原や副官の榊と比較的懇意であるはずの――。
「特に危害は加えてませんから、安心してください。
 チップを移植しようにも、時間的な余裕がありませんでしたからね。不本意ながら、無事ですよ。また、能天気に朔原艦長を支えるのかと思うと、正直、殺しておいた方が良いのかとも思いましたが」
「…――、…本当に、無事…なのか…」
「…殺したと思いましたか? 以前も似たような事を言いましたが、我々の目的は殺戮ではありませんからね。必要が無ければ、無闇に人を害したりは致しませんよ。
 スフィクスの能力を通しにくい部屋に軟禁しているだけです。帰還後、艦内を探索すれば直ぐに見つかりますよ」
 心底意外そうな反応をするレインを鼻先で嗤い、榊は知的な印象を鮮やかにする眼鏡を指先で押し上げた。
「――…さて、そろそろですね」
「……何がだ?」
「解除コードの打ち込みです。あの姿では、此方からの命令信号も受け付けませんからね。殺すしか、御す手段が無い。本当に趣味のいい研究ですよ」
 ピピッ、という軽やかな音と共に、最終認識を求める画面が呼び出される。
「――楽園、本当にそんな処があるとして。
 罪と業を背負い過ぎた人類(コドモ)が受け入れられると思っているんでしょうかね。本当に、人は愚鈍で傲慢で、どうしようもない生き物です」

 E d e n

 神経質そうに節くれだった細い指先が、液晶ボードの上を、ゆっくりと、辿った。

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 ギシャアアアアアアアアアアアアァッァ

「!」
 幾重にも阻まれた隔壁越しに、尚、腹に響く凶獣の雄叫び。
 灰のヴァイア艦の純潔なる意思に促されるまま、VGの操縦室であるリフト艦に戻り、床に腰を下ろし壁に背中を預けて休んでいた気高き高潔は、眼光鋭く視線を上げた。
 裏の世界にて孤高として在り続けただけあり、予想外の事態に対する対処は慣れている。人体など容易く裂けるアーミーナイフを構え、熱を孕み始めた傷を庇いながら、ブルーは立ち上がった。

 ゴンッ、ガガガガガッ、ゴンゴンゴンッ
 ゴガァアアアアアア!!!


 普段――耳にしない凄まじい轟音に、形の良い眉を顰める。
 これは、正しく非常事態だろうかと、ナイフと同時に光線銃(レーザー・ガン)も取り出した。エネルギー残量を確かめ、予備の充電パックを代わりに装填する。威力の大きさに比例して扱いの難しい銃に先ほどの戦闘を踏まえた照準の微調整をしていると、不意に、思考に異物が割り込んだ。
『ぁーあーぁー、やっと繋がった。
 ったく、あの陰険メガネ。よっけいな小細工しやがって、腹が立つったら』
(……灰のスフィクスか)
『ああ。ちょっとマズい事になってる。
 さっきの化物、取り合えず隔壁の間に閉じ込めてたんだけど。イキナリ凶暴化して、手ぇつけらんないんだよね』
(重力制限はどうした)
 灰の精神固体であるスフィクスにとって、己の体内で蠢く有象無象を傅かせる事など、他愛もないはずだ。未完成の心と不安定な自己の芽生えを抱える黒の少女ならば兎も角、灰の戦艦ゲシュペントを司る少年――声の質と口調からして、少年だろう――は、完全に自我を固有している。
『やってるけど、全然効果無し。
 多分、アイツが何か仕込んだんだろうね。全く、身内の反逆は厄介だよ』
(――…身内…)
 スフィクスの少年の、独り言めいた愚痴から情報を拾い、その零れた単語に納得した。
 先程から、アイツアイツと連呼する人物は、おそらく先刻の――眼鏡の男だろう。
 灰のゲシュペントで副艦長を務めていたらしいが。今は、敵勢力に組しており、撃破の対象だ。闇と緋を纏い艶やかに存在する奔放なスフィクスの青年が、少なからず動揺していたが、己には一切関係の無い事だ。
 敵は――全て等しく、叩き潰す。
『まぁ、ボクの能力を何かで無力化しているとしても、そうそう長くは続かないけど。ただ、アイツ等隔壁じゃんじゃん壊してコッチに向かってるから、そこから出ないでよ』
(――足止め出来ていないのか)
『露骨に言わないでくれる? まぁ、事実そうだけど。
 でも、そのリフト艦に続く隔壁は特別製だから、そうそう突破出来ないよ。それに、さっきも言ったけど。ボクの内部でそうそう勝手に暴れられるとナメないで欲しいな。
 半刻もあれば、ちゃんと殺すよ』
 人外の能力を有するスフィクスの言葉には確かに説得力に満ちていたが、しかし、対する敵も最早人智を超えている。共に超越する存在ならば、やはり、その力の優越は測りがたい面があった。
 無言で、リフト艦と通路を繋ぐ扉から、距離を置く。
 襲撃後を想定し、速やかに化物共を強襲出来る場所を探し、周囲を巡った。
『……丸っきり信用してないって態度だね。いい性格』
 そうしていると、見事に不機嫌なスフィクスの声が思考に届く。判りやすい感情の起伏に、ブルーは奇妙な感心を覚えた。
(――有事に備えるのは、当然の心構えだ。お前を信用していないわけではない。勘違いするな)
『……フゥン。ま、いーけど』
 ほんの僅かな間を空けて、灰の純正なる化身は詰まらなそうに鼻を鳴らした。所詮、有象無象に沸く人間の言うことには、大した興味も無いと、切り捨てる。
『それよ、り…、が……、でて――ッ…、に、』
(――…?)
 精神感応能力に雑音という概念が存在するかどうかは不明だが――、突如、思考が遠くなる。飛び飛びの声は、意思を伝えるに至らずに、奇妙に掠れて途絶えた。
(何か、スフィクスの能力を阻むようなものが――…?)
 存在しているのだろうかと、怪訝そうに考え込むと同時に、リフト艦へ続く扉が強烈な力で叩きつけられた。
「!」
 人類の知己の限りにて開発されたヴァイア艦の、それも特別堅強にと造られた扉が、常識を逸脱した方向へねじり曲がるのを、実年齢の割りに随分と社会の闇に浸り、内面を成熟させた蒼の王者は、少し高い位置から無感動に見下ろしていた。
(…目、口、腹――。外殻はおそらく、無効だろうな)
 生命の危機を眼前として、冴え渡る思考が深く、希望の残滓を探る。確実に、敵を倒し己を生かす術。先刻の闘争を踏まえ、脳内に怪物を討ち取る為の方法が次々と練られていた。
(――危険だが、確実に仕留めるには。口内から、頭部を撃ちぬくのが理想か)
 どのような生物であろうとも、体内までを強硬な装甲で覆うのは不可能だ。また、指令を与える中枢部を吹き飛ばされれば、如何様に不死に近かろうとも、ただの肉塊に過ぎない。淡々と生命の略奪を描く孤高の眼光に、冥い歓びが灯る。
 ――心置きなく、殺戮を愉しめる事実は、何物にも替えがたい悦楽であった。

 ガシャアアアアアアアアアアアアァアアアア!!!

 縁する者の屍すら嗤って踏み拉く非情の眼差しが、凶器に愛おしく閃いた。

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 春色に薄く色づく華奢な存在は、か弱い両腕で、兇悪さを増した化物を抑えこんでいた。
 血肉を求めて狂い猛る野獣の咆哮が、静謐を激しく揺さぶる。
 ビリビリと膚を刺す雄叫びに、黒のリヴァイアスの無二の情愛を受ける少年は、膝から力を失いカクリと折れた。
「………」
 現実と悪夢の境目が、酷く、曖昧なまま。
 世界と空間は歪に裂かれたまま、無様に亡骸を晒していた。
 無邪気な幼子の表情で化生を嬲っていたスフィクスの、酷薄に華やかな紅の瞳が、戸惑いに見開かれる。それは、純正なる疑問。何故、この生物は潰れて死んでしまわないのだろうか。与える断罪の圧力は増し、己自身にすら負荷を与える程に。それでも、巨大蜘蛛のような化物は、ギヂギヂと耳障りな異音と共に、一歩、一歩と確実に目標へと近付く。
 眼孔の窪みからは何者の意思も感じられないが、ただ、場の異常さだけは鮮明であった。
(――…、俺を…ねらって…?)
 理性と呼べるモノが存在しているのかすら怪しい異能の獣は、それでも、周囲で昏倒する人間には目もくれず緩慢な動作で、ただ突き進む。
 半数以下にまで激減した第三世代の人類。
 それら、憐れな人の子等一切、救世と成すか破滅と導くか。
 不確定要素であり続ける、黒の福音を屠る為に。

「…ド、うし…て」

 狼狽の気配が伝わる。
 黒のスフィクス。
 ――ヴァイアの意思として生まれた、桜妖精のように華麗な少女は、手折れそうに華奢な細腕に己の能力を籠めた。余りの強烈さに、四肢が末端まで硬直し、反射で震える。
 使役する彼女自身すら抑止の効かぬ力で以って尚、世界から逸脱した奇物は、愛する人を奪おうとする。
 その、事実に――黒のヴァイアを半身とする無上のスフィクスは、悲痛な声を上げた。

「どうし、て――…、と、まって…」

 …ギヂ、カシ、ヅ、ギヂギ…。

「なンデ…、なんデ、なん・でッ…」

 仄淡く瞬きながら、混乱、する。
 窮屈な箱庭で、初めて知覚した『人間』は既に心を失くしていた。
 消えかけた記憶に残る温もりに、孤独を知り、人を求めた。

 漸く、手に入れた。
 大好きな、ひと。

「とまって、とまって、止まって!!!」

 大切な、ひと。

「止まってぇ!!!!」

 稀有なる至上、人類の英知を超えスフィクスの名を冠する少女は、狂おしく嘆きを謳う。
(…――に、げない、と)
 ネーヤ、と名乗りはにかんだ少女の微笑みが脳裏に浮かび、そうして一瞬の散り際に、泣き濡れた姿に摩り替わる。散華。無残に散り急いだ跡に涙だけがとめどなく溢れる。今も、そう。彼女は痛みに嗚咽を零していた。
(……ッ、逃げない、と!)
 事態の現実感の欠落ぶりに、自失の体であった少年は、不意に恐怖を揺り起こされた。
 夢ではない証拠に、ネーヤが、泣いている。
 自分の身を案じて――辛そうに。
「ッ、……だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ。立てる。大丈夫だ」
 まじないのように繰り返し、繰り返し、言い聞かせる声が知らず震える。
 力の抜けた膝を掌で押さえつけ、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
 大丈夫――ッ。
 非常灯の橙に浮かび上がるブリッジを、巨大なスクリーンに映りこむ白鎧の守護騎士が断罪の輝きを放つ。荘厳な光景に照らされる異形たちを、昴治は強く睨み付けた。
「何か、武器になるようなものをッ…」
 巨大な蜘蛛を連想させる異常な生物をなるべく刺激しないように、中腰にて、少しずつ場所を移動する。そうすると、此方に迫るそれらも方向を変える事から、己が目標であることを確信した。
(このままブリッジを出てしまったら、今度は――皆が危険だし…。
 かといって、こんなトコに身を守れそう道具なんて……)
 恐怖という名の緊張に縛られながら、場を凌ぐ糸口を求めて周囲を見渡すと、非常用の冷却装置ボタンが目に留まった。
 非常用のガラスを割って押せば、天井に設置された冷却剤が噴霧される――はずだ。
 実際確かめたことは無いが、ブリッジクルーにシステム管理のスタッフから、そう説明があったのを思い出す。
 無論、火災時等に効果を発揮する鎮火用の薬剤が、巨大な異質生物に対して有効である可能性は低い――が。おそらく、意識を失い床に伏しているクルーの目を覚ますだけの威力は期待出来るはずだ。
 身を屈めて注意深く歩を進める。麻酔の切れかけた右足は鈍い痛みを主張したが、今更そのような細事に構う余裕も無い。横目で窺うと、相変わらず、巨大人蜘蛛のような化物は緩慢な動きを見せていた。異能とはいえ、やはりヴァイア艦の内でその意思に逆らうのは並大抵の事では無いのだろう。
 可憐さと凛々しさに、確かな存在で以って昏きに儚く咲く薄紅の華は、必死の様子で、己が内に孵化した異物を排除すべく全力を傾けていたが、しかし――力が足りない。
 限界に――少女の華奢な両の腕が、激しく弾き飛ばされた――!

「だ、めッ…!」

 途端、殺気立つ異形は強く床を蹴り、目標である人物へ、鋭利な野獣の牙を剥いた。

「だめぇええええッ!! こーじッ!!!」

 無垢の具現である黒の化身のあらん限りの絶叫に、愛おしき心を抱く少年は、眼前に迫る脅威に視界が妬き尽くのを自覚した。

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 白い液晶のディスプレイに、 Eden の文字が刻まれて、作業完了とばかりに展開していたデータのクローズを始めた榊に油断したのは――確かに、此方の責任だ。
「ふふ、いい様ですね。シルエ君?」
「……ウルサイ、死ね。変態」
「相変わらず口の悪い…、仕方ないですね。全く、貴方は」
 神秘の生命スフィクス――本体であるヴァイアの心臓自体を破壊されなければ、その存在は永遠とも言える。呼吸も食事も睡眠の必要も無く、望めばあらゆる物質を透過し、また、その逆も然り。
 よって、例え彼らを害しようとしたとしても、その手段は悉く無効化されてしまう。
 言えば――スフィクスとは、そもそも【死】の定義の上に存在しており、既に生命活動を行っていない存在自体を殺す、という行為そのものが道理で説けば不可であることは明らかだ。
 そう、スフィクスでさえあれば――。
「この部屋に出入りするためには、一時的にヴァイアの意識と分離する必要がありますからね。今の貴方なら、必ず効くと考えましたが、これほど覿面とは」
 振り向き様に投げつけられた小さな容器。小さなピルケースは、簡単に床に叩き落された。散らかされた玩具のように床に散らばる色取り取りのガラス玉。それから、イキナリ霧状の毒が噴射されたのだ。
 無論警戒はしていた。不意打ちも関わらず咄嗟に口許を押さえたのだが、おそらく、皮膚からでも毒素が吸収されるタイプなのだろう。即効性の毒によって視界がゆがんだ。――両足から力が抜け、手近な機材に縋るように、膝を折ってしまう。
「視界と四肢を麻痺させる強烈な神経毒です。――まぁ、一瞬で揮発しますから使い処が限定されますけど」
 カラ…ン、と乾いた音を立てて、弛緩した掌から、鉄銃が落ちる。
 それを、拾い直す余裕も無く、漆黒の出で立ちに真紅の眼差しが深く映える、ヴァイアの贄と捧げられし青年は、呼吸を荒くさせていた。
(…く、そ…。喉の筋肉もヤられてンのか…? 息が、うまく…っ)
 酸素不足の結果、思考も空回る。無駄の無い毒性だ。
 困窮した状況下であっても、軍時代に研ぎ澄まされた感覚が生きているのか、相手の気配は察知出来る。ゆっくりと立ち上がり、三歩近付いて、足元の銃を拾い上げる。
(…おいおい…、さす、がに、俺でも…。
 いまの、じょーたい…で、脳とかしんぞーとか、吹き飛ばされるのは…勘弁だって…)
 当然だが、試したことは無い。
 試行が皆無であるが故に、結果は憶測でしかないが。
 おそらく、現状で一度『生物』としての『死』を迎えたとしても、あの賢しい知恵をつけた小憎らしいスフィクスが、身体的欠落を修正しつつ統合してくれるのだろう。
 ――余程、素体としての利用が困難となるほどの損傷を受けたのならば、それこそ、コマ切れ状態だとかで無い限りは、ということになるのだろうが。
 ただ、その状況で己の意識が残っているかどうかは定かではない。以前に、スフィクスとして魂の迎合を受けた際にも、限りなく肉体的な死に直面しながらも辛うじて『生きていた』。生きながら、逝きながら、スフィクスとして目覚めたのだ。よって、正確に言えば己の肉体と魂は死を迎えてはいない、のだ。
 ガチ、と撃鉄を起こす音が、遠い。
「チェックメイトですね。レイン君。
 そういえば、ボードゲームで貴方がよく言っていましたね。奥の手は常に隠しておくものだと」
「……おぼえて…ねぇ、なぁ」
「貴方は本当に奔放で思いつきで、本能で動くような方ですからねぇ。
 意識して言った言葉ではなかったかもしれませんね」
 優秀忠義なる副官として灰のゲシュペントにて任にあたっていた当時と、少しの相違も無い、柔らかな親愛を籠めた口調に、脳髄が揺れた。
「私からも一つ、言葉を贈っておきましょうか。レイン君。
 能ある鷹は爪を隠しておいたほうが、世の中、渡りやすいんですよ」

 ――後、少し。
 時間を稼げれば――。

「まるで、…じぶんが、そう…だと。言いたげ、だな?」
 スフィクス化した素体は、融合の結果、あらゆる毒素を分解する能力も備えている。
 その証拠に、息苦しさが先刻よりも随分と和らいでいた。
 時間さえかければ、体内へ回った毒素を完全に中和出来る。
「――否定はしませんよ。
 さて、名残は尽きませんがそろそろ時間です。貴方を殺せば、ゲシュペントは沈黙する。福音を殺せば、リヴァイアスは狂う。政府のヴァイアは正しく無用の長物に成り下がるのですよ」
 ヴァイア艦をゲドゥルトの海の外に安定させるためには、他素体との融合が絶対条件だ。本体は無機物と共に存在し、また精神は命と魂を共有する。例え、片方でも失われれば、本来ゲドゥルトの海に棲息する彼らは、呆気無く崩壊するのだ。
 しかし成る程、目的が政府の有するヴァイア艦の奪取ではなく、破壊であれば。
 その中枢である人物を討てば、巨大な戦艦そのものを攻撃するよりも、随分と容易く確実ではある。
「昴、じ、…か。初めから…、それが、目的…かよ」
「初めから――でも、ありませんよ。貴方や福音も、ヴァイア艦も、全て我らが組織に統合するのが理想的ではありましたね。
 生命艦ヴァイアは貴重な存在ですから、損失はなるべく避けるべき事態でした」
 実に、残念ですよ。と、嘯く姿に嘲りの気配を察して、レインは口の端を吊り上げた。
「胡散臭さ、…満開…。よく、…いうぜ」
「ふふ。口先だけですからね。さて、無駄口が過ぎましたね。
Aur evoireオルヴォワー。良い夢を」
 銃口が容赦なく突きつけられ、躊躇の欠片すら微塵も感じられない非情さに、逆に感心するほどだ。コイツの冷徹さの幾分の一でも、あのバカに備わっていたなら、現状はまた違ったかもしれない。事が済んだら取り合えず説教だな、と誓う心に、鈍く世界を撃ち貫く音が反響した。

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 初撃を凌ぎ切り、光子砲を完全に無力化させたというのに、追撃する一級巨大戦闘艦はエネルギーを無限に食らう砲撃を止めようとはしなかった。無駄だと分かりきっている攻撃を繰り返す敵の意図が測りきれず、異様さにVGの操縦者達は眉を顰めた。
「――懲りねーな、ヤツラ」
 未知の機械工学やVGのソリッドには瞳を輝かせ、闘争には血に餓える黒髪の天才は、苛立ちに舌を打つ。
「光子砲の一撃のエネルギー量は決して少なくない。…ヘタをすれば、自艦の動力すら残らない。マトモな戦法じゃないな」
 何か策があっての事かと穿ってみるが、磁場狂いの【天国への道】にて、待ち伏せによる挟撃は可能性は低く。真正直に行動を受け止めれば、玉砕覚悟の自暴自棄になっているだけでは、としか思えない。
「戦艦の規模から考えても、光子砲以上の長距離射程の装備は無いはずだ。
 不気味だな。何を考えているのか知れない」
「――フン」
 不遜と傲慢を絵に描いたような天才パイロットは、短く、不機嫌そうに鼻を鳴らした。完全に相手を見下すには、連中の底が知れない。その双肩に懸かる重みが、事態の楽観を禁じていた。己が油断で万が一の事でもあろうものなら、如何ほど後悔となろう事か。
「敵への熱量集中はもう検出出来ない。撃ち止めか、もしくは――意義ある沈黙か」
 次の一手の為、余力を残している可能性も考えられた。しかし、敵が何を考え、どう行動しようとも、結局此方側の指針としては、生体艦ヴァイアの特殊能力を活かしたゲドゥルト潜行による戦線離脱、それのみだ。
「幸い、後少しでこの宙域を抜けられる。油断は禁物だが――、……、リーダー」
 春の息吹と知性の欠片を秘めた、永劫の輝きの翡翠に翳りを抱き、類稀なき狂王は異変を逸早く察知した。
「? なんだよ」
「リヴァイアスの動きが止まった」
「はぁっ!?」
 全方向に展開する視界パネル後方を思わず振り返ると、確かにそこには、推進力を完全に失った黒の戦艦の姿が見受けられた。惰性で前へ流れてはいるが、非常に足元の覚束無い不安定な操舵だ。リヴァイアス内部――ブリッジにて火急の事態が発生したとしか考えられない。
「クッソ…――、敵戦艦から砲撃の気配はねーな。おい、尾瀬。リヴァイアスとの回線を開け。ソース・チャンネルでブリッジに呼びかけろ」
「了解。リーダー」
 命令に従い、先刻使用した回線情報をリロードし、チャンネルを即効回復させる。その手際は見事なもので、多芸多才の社交家である少年の器用さは推して測るべし、だ。器量良しの性格美人。更に、比類なき才能の三拍子が揃った上に、両極端な二面性を披露してみせる、嘘吐きな笑顔が滑稽な程似合う彼は、単調な口調で呼びかけた。
『ブリッジ。リヴァイアス・ブリッジ。聞こえていますか?』

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 呼びかける、人の声に。
 無と死の永劫にて清楚に綻ぶ桜蓮華の少女は、紅色の瞬きを繰り返した。
『リヴァイアス、リヴァイアス、応答願います。後方より、敵戦艦接近中。すみやかに、航行を再開して下さい。リヴァイアス、応答願います』
 優しい、遠い、痛みを抱えて響く、懐かしさ。
『リヴァイアス、応答願います。敵戦艦との距離、二千RG。中距離攻撃の有効射程内です。直ちに航行再開して下さい』
 滅亡の道筋をゆるりと歩み始めた人類の唯一の希望であるヴァイアの化身は、現世うつしよの姿見であるか弱き腕で、愛しき人の子を抱き留め、頬を寄せる。
 少女が膝づく床には、薄紅に染まる灰燼が原型を綺麗に保ったまま、散っていた。
 噎せ返る血臭も、飛び散る肉片も、生の終焉のような地獄絵図の片鱗すら残さず。ただ、少女の腕には愛したひとが、眠るだけ。

「コー、じ」

 未熟な力の全てを解放した黒のスフィクスは、精神の安定を揺らがせながら、永劫にて無上の愛を籠める存在に、縋るように名を呼んだ。

「コージ、お、ねが、い」

 互いの額を合わせ、無知たる幼子がそうするように、無垢なる異質は願いを囁く。

「たす、け…て。つれて、いっ…て」

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―― ゲドゥルトの海へ ――。


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2007/07/16 加筆修正



公演ホールへ