act.30 蛇と毒
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滑らかに冷える床の端まで一気に弾かれた拳銃の、その軌跡を視線で追いながら、榊はかつての上官に底冷えする膿んだ眼差しを遣った。
「そのカラダで動けるとは。見上げた精神力ですね。朔原艦長」
「……榊」
重苦しく沈んだ男の声は、そのまま、彼の苦悩の深さを顕していた。
「おっせーよ。カイリ」
「…遅くて申し訳ありませんね。間に合ったんですからいいでしょう」
「うわ、減らず口。可愛くねー」
「可愛くなくて結構ですよ。無駄口叩くヒマがあるなら、サッサと起きてください」
深淵の闇に輝くような存在感を誇示する、白を基調としたゲシュペントの制服を鮮血に染め上げる痛々しい姿で、偉大なる救世の箱舟の宿り主は、人類の文明など超越した絶対的な力を行使するスフィクスへ棘のある言い草をした。
「解毒中だっての。ったく、スフィクスったって、万能じゃねーんだぞ」
ブツブツとボヤキながら、それでも緩慢に起き上がる、透き通るような夜と無の支配者は、酷く感情の抜け落ちたそれで最後通告を言い渡した。
「――榊、投降しろよ。お前の負けだ」
真っ直ぐ、心臓に向けてかざされた銃口にしかし、断罪の刻を待つばかりの灼熱の髪の持ち主は、不気味なほどに落ち着いていた。
「お断りします。【蛇】に膝を折る位なら、今ここで撃ち殺された方が幾分かマシですね」
灰の艦長の白を基調とした制服とは真逆の、黒に朱色の色彩をまじえたコートが不吉に揺らぐ。かつての腹心は、まるで己の状況など意に介さぬとばかりに余裕の体であった。その姿に、朔原は菫色の眼差しを怪訝そうに細めた。
「何を考えている――榊」
「私は、昔も今もこれからも、人類の未来を憂いていますよ」
数多の血臭と死影を纏いながら、ぬけぬけと言い放つ不吉なシルエットに、衰弱した体に鞭打つようにして誠実な人柄と明晰な頭脳の持ち主は、銃を構えなおす。
「亡骸の上に築かれた未来を夢見てどうなる」
「おや、人の歴史は死の連続ですよ。一切の犠牲無くして成り立つ時代が、人類の醜悪な歴史の中一度でもありましたか?」
悠然と嘯く副官に、朔原は喩えようも無い喪失と虚脱感に襲われながらも、必死に自我を保っていた。普段はキッチリと後ろに撫で付けられているダークブラウンの髪が、目元に流れ零れ落ちるのにも構わず、必死に歪んだ思想と対峙する。
「事の始めから犠牲を強要するのと、信念の食い違いによる悲劇とでは、全く意味合いが違うだろう。どうして――こんな莫迦な真似をしたんだ…、――榊…」
「……貴方に、何故と訊かれるとは。少々、心外です。
【蛇(パラサイト)】に全てを奪われた者の言い草とは、到底、思えませんね」
クイ、と奇妙に厭味な動作で眼鏡を押し上げ、知的な風貌に何処か哀れみすら浮かべ、榊は未だ自由にならぬ四肢と格闘する美麗なる異質に視線を遣る。
「――…。どういう、意味だ…?」
計らず、灰のゲシュペントの新たな責任者として就任したばかりの若き艦長に、動揺が奔る。稀なる社交性と群を抜いた頭脳の持ち主であったとしても、やはり――精神はそう容易く非情と成りきれるものでは無い。
「おや。ご存じなかったのですか。これは滑稽ですね」
「……ッ、榊! 余ッ計な事、言ッてんじゃ…――」
喉の奥でせせら嗤う男の告白を阻もうとし、前のめりに膝を折るレインに、実弟である朔原艦長は気遣うように視線を巡らせた。しかし、毒で弱るスフィクスに手を差し伸べては、威嚇の体制が崩れてしまう。湧き上がる情を切り捨て、朔原は副官を問い質した。
「レイン君は、【蛇(パラサイト)】に属していた狂科学者共に殺されたんですよ。
それも――絶望の中、自ら死を望むように差し向けられて、ね」
「……ころ、され…た…?」
声が――知らず、震えた。
脳神経が白く灼き尽く感覚と、抹消が痛む程、悴んだ。
腹底から――何かが、迫り上がる。
「アレは、事故だ。――戯言に耳を貸すな、カイリ」
漸く解毒が済んだものの、今度は全身が巧く機能しない。
まるで繰り糸の捻れた人形で、陳腐な愛憎劇を描かされているようだと。喩えの奇抜さに、己自身に対し苦さを覚え、非業のスフィクスは磨かれた床に片手をついた。
「事故などと…、情の虚言は時に残酷ですよ。スフィクス殿」
「黙れ。無駄な時ばっか、ベラベラしゃべってんじゃねーよ。榊」
ぐ、と膝に力を込めると確かな手ごたえが。そのまま様子を伺いながら立ち上がる漆黒の美貌に、知性と狂気を湛えた褐色の翡翠が三日月の造形となる。
「見誤らなければ、善人の方が使い道も多いのですよ。
上層部にしてみれば、貴方はさぞや都合の良い人材でしょうね。朔原艦長?」
「……榊ッ。殺されたっていうのは、どういう意味だ…」
「カイリ!」
「兄さんは黙ってくれ!」
「…――ッ」
思わぬ反発に、絶対優位を確立してきた黄昏の斜陽と夜の瞬く美しさを具現する青年は、息を呑んだ。
「意味も何も、そのまま言葉の通りですよ。
ヴァイア艦には、スフィクスの存在が絶対不可欠です。しかし、その依り代には彼らと波長の合う素体が要る。それも、殺して死体を捧げても意味が無い。死を覚悟した最中に、自らスフィクスとの融合を望まねば――より完璧なる存在は生まれない」
響き渡る靴音も高らかに、朗々と過去の事実を吟じながら、有能なる副官は突きつけられたままの凶器に、無防備に背中を向けた。
「確か、私のデータバンクにも当時の計画資料が残っていますよ。お見せしましょうか」
「……計画…」
何の、と言外に含ませる問いかけに、揶揄るように、微か口端を持ち上げる榊。
「人類初の偉業。いえ、畏業とでも言うべきでしょうかね。
ヴァイアに捧げられし生贄。福音を創り出す――」
ガウンッ!!
重低音の反響の後、数秒遅れて、頬に奔る朱線。
一切を奪い尽くす牙は、己に向けられた銃口から突き立てられていた。
実兄の死に激しく動揺するゲシュペントの艦長からの糾弾ではなく、その腕を取り、照準を合わせるのは――裏切りと謀略により生命を散らした凄絶妖艶なまでの絶望を抱くスフィクス。
「……に、いさん」
事態の成り行きに、呆然と掠れた声を漏らすカイリには構わず、深淵に愛される珠玉の存在は得体の知れぬ不気味さばかりが際立つかつての副官に、鋭く――対峙する。
「悪ぃが、これ以上テメーの与太話に付き合う義理はねーよ」
「おやおや、危ないですね。当たったらどうするんですか」
「当てるつもりで撃ってンだ。ヨユーで避けておいて、よく言うゼ」
「それは随分な過大評価というものですよ」
クックと肩を大きく揺らし、永劫の虚を精神の奥底へ潜ませる男は――右手首にしていたクラシックな時計の、仕掛けを押した。
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白の武人として遥かなる星の海に仁王と立ち、眼前の脅威から、背に負った数多くの命の重みを一歩も引かず護り続ける雄大なる守護騎士は、黒の装いの姫君の違和感を、目聡く察知した。
「…リーダー。リヴァイアスが、スピードをあげた」
「ああ。停止したと思えば、急に走り出したな。どーなってンだよ。向こうは…!」
「その辺りは、今考えても仕方ないな。それより、リヴァイアスの進行スピードが異常だ。このままだと、俺たちが取り残されるぜ」
「マジで速ぇ…。ンで、そんな速度で…」
パートナーである尾瀬の報告に、VGの指揮権を持つ野性味溢れる天才少年は、リヴァイアスの進行速度を演算した。磁場狂いの死の宙域をまだまだ未熟な少年等の腕のみで切り抜けられるはずも無く。その機能の多くをヴァイアの自己防衛本能と意思によって助けられているのだが――それにしても、疾い。ある程度の隕石との衝突や、機体の損傷は覚悟の上にさえ思える。
「リーダー、俺たちも急ごう。
本艦から随分と距離が空いてしまってる。このままだと稼動限界を越える」
「――ああ」
黒の戦艦と違い、灰のゲシュペントは本艦内部のカプセル型の操縦席からVGを繰る。ワイヤーの仕掛けは一切無く、縦横無尽に星の海を駆る機動力を誇る。リヴァイアスの同系機のそれに比べても、あらゆる面で非常に戦闘に特化している。しかし、唯一の難点が、その稼動限界。リフト艦を切り離して操縦するタイプでないために、完全単独活動が困難であり、限界線(を越えればたちまち無力化する。
戦闘機であるVGを芸術的なまでの技巧で駆るパイロット等は、その力の強大無比なるを良く知ると同時に、それがまた、全能で無いことも深く理解していた。
(くっそ――、兄貴…)
不安が、真水に落とされた墨のようにじわじわと染みて波紋となり、広がる。
「全力で本艦近くまで戻るぜ。
あの速度なら、敵襲があったとしても捕捉不可能だろーしな」
「了解。リーダー」
戦闘のために展開していたソリッドを、足回りへと集中させて、尾瀬は移動にかかる負担を最低限にまで切り詰める。
神業とも等しき指捌きで組み上げたソリッドのランさせる――と、同時に、操縦席の周囲が、全くの前触れも無く、不意に暗闇へと叩き込まれた。
「! なんだ!? おい、尾瀬。どうなってる!」
先刻まで全方位展望であったパネルが一瞬にして電源を落とし、唯一、通信機器のみが生きているだけの状態に陥った。火急の事態であっても、決して狼狽することの無い判断力を持ち合わせる少年等は、冷静に状況把握へ努める。
「――電源が、強制的に切られているな。
ソリッドミスじゃない。これは――物理的なトラブルだぜ。リーダー。
……完全に全機能停止状態だな。シートの開閉すら受け付けない」
「物理的――…、チッ!」
「! リーダーッ!?」
ゴンゴンガンッ、と通信音声からノイズ混じりの酷い音が届き、尾瀬はやれやれと肩を竦めた。暗澹とした炎を燈す翡翠の翳りが、濃度を増す。無駄な事なのに、ご苦労だと呆れると同時に――己が、とうに手放した直向な意思の強さに、一種の憧憬のような感情が湧く。
「チッ…クショウ! 開かねェッ!!」
「ンーな簡単に開くわけないっしょ。ゆーき君」
「テメーは、ンでそんなにお気楽なんだよッ! 物理的って事なら――」
言いかけた台詞を呑み込んで、続く衝突音。焦る同僚の姿を容易に想像し、灰色猫は手足を伸ばすには不十分なスペースで、くぁと欠伸を噛み殺した。
「まー、そうだろうけど。緊急用の補助電源すら動かないんだし。
蹴破れるよーなモンでもないっしょ」
リヴァイアス三強の中でも、傍若無人の乱暴者の代名詞のように言われる少年の、最早意固地な行動に溜息を吐きつつ、宥めの台詞を口にする。そして――音量を、絞る。
天才の名を冠するエースパイロットの、その気性の荒さばかりが特に話題に上るが、やはり彼とて――地球(マザー)出身者。人道的な道徳心は、他の惑星出身者よりも遥かに強い。
恒星太陽の大規模な連続内部爆発による大災害――カラミティ・ノヴァが引き起こされた時代、既に宇宙は開拓されていた。が、資金問題や技術的な面から、些か足踏み状態でもあった。飛躍的な開発が進んだのは、母なる惑星の総面積の半分以上が死屍たる海に浸り、人類が同胞の多くを失ってよりだ。
地球から――多くの人々が移民となり、太陽系の惑星へ旅立った。
それぞれの惑星は、カラミティ・ノヴァにより逆に凶悪さを潜め、人類の新天地としての基盤を備えたのだ。流石に、緑あふれる楽園とまではゆかぬが、それでも――人を、地球以外の太陽系惑星は受け入れた。
いつ何度――沈み滅ぶとも知れぬ地球を完全に放棄し、それぞれの惑星に移住する選択肢もあった。破滅を齎した太陽の輝きは、新たな災害を呼ばぬとも限らぬと、太陽系そのものを手放す議論も行われた――が、人類の多くは母の腕を望んだのだ。
移住開始当初こそ、濁りもなく聡明な人類の和は保たれていた――が。多くの人々が、母なる惑星以外の場所での暮らしに不安を覚え、徐々に開拓計画に翳りが差し始めた。やがて、政府は苦肉の策として、様々な理由から地球に居場所を失くした者達をも、開拓民として惑星を渡る許可証を発行始めたのだ。
無論――法と秩序は乱れ、混沌とし、数十年もして蓋を開けてみれば、地球以外の惑星の治安はお世辞にも良いとは言えぬ現状が出来上がっていた。
そんな掃き溜めのような惑星を故郷の姿として思い起こされる少年からすれば、温室生まれの箱入り育ちのお子様が、幾ら尻尾を膨らませて威嚇してこようとも、そよ風が頬を撫でた程度にしか感じられるのは、仕様が無いだろう。
明言を避けてはいるが――己の身も顧みず無闇な脱出を試みるその真意と言えば、おそらく、リフト艦への外敵侵入を防ぐ役割を担う王者、エアーズ・ブルーの身を案じてだ。厳重な強化盤に保護されているはずのケーブルを引き裂く『何か』が外に存在していることは確かで、性格も目付きも口も悪い上に態度もやたらとデカい年下の焦燥は尤もではあったが、如何せん、現実は何ともし難い。
「なんにしろ、VGに帰還命令出した後でよかったよかった。
じゃなかったら、宇宙に巨大粗大ゴミぽい捨て状態だしね」
此方からの通信信号が途絶えたとしても、一度ランをかけたソリッドは停止命令を受信しない限りは、そのまま動作し続ける。このまま捨て置いても大して問題は無いので、それは良しとして。
ガンゴンゴンゴンッ、ガガガゴッ!!!
耳を劈く勢いの騒音に、イクミは軽く肩を竦めた。
「ゆーき君たら、きーてますぅ?」
「ウッセェ!! 無駄口叩くヒマがあンなら、何とかしやがれ!!」
「だーから、無理だって…」
相変わらずきかん気の強い性格だと、怒鳴り声を苦笑で受け流す――と、不意にあるモノの存在が記憶の片隅に引っ掛かった。
「あ。あー…、そういや」
「あ? どうかしたのか、尾瀬」
懐に――黒く艶を増す銃身。その質量は意外な程軽く、すっかり失念していた。
「んー、でもコレで何とかなるかなー。ま、やってみるか」
「おい? 尾瀬、何だ。どうかしたのかよ?」
不審と不満を混ぜ合わせた怪訝そうな口調には応えず、随分と手馴れた様子で蒼の王者から手渡されていた銃を――構える。通信チャンネルがライヴ状態である事を知らせるランプの仄かな灯と、手探りの感触を頼りに、コックピットの上部ハッチの境目の当たりをつけ――、
ガウンッ、ガウンガウンッ!!!
「ッ、オイ。尾瀬!? 何してんだ、おいッ!!」
明らかな銃撃の反響に、語気を荒くして状況説明を求めるリーダーを無視し、尾瀬は同じ部分へ何度も弾丸を撃ち込む。至近距離からの圧力に流石に境から明かりが届き始め、もう少し――、と全弾を叩き込み、裂け目に蹴りを入れた。
「――…よ、…っと」
更に、繰り返し靴裏で乱暴に境を蹴り飛ばすと、その都度、僅かに手応えが感じられた。
リフト艦ごと宇宙に排出されVGを操るタイプのリヴァイアスと比べ、コックピットの構造自体は複雑であっても、頑丈さは然程重視されていないのが幸いした。漸く、不恰好に捻れた継ぎ目を広げ、座席から脱出した先の予測以上の惨状に思わず苦笑を零した。
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心地良い浮遊感。
ゆらゆらとゆらゆらと、蕩けるような感触に包み込まれ。
そのまま、何もかも深く沈んでしまえばいい。
『 昴治 』
……綺麗な、響きの音
『 昴治 目を 開けて 』
…呼んで、
『 助けて 』
助ける…
『 お願い 助けて 』
何――を、
『 目を 覚まして ―― !』
和いで安らぐ世界に午睡む心を、尋常ならざる光の濁流が激しく灼いた。
「…、……、……?」
高速再生で横滑りに流れてゆく、惑星の悲しき記憶の残骸に、優しげな風貌の少年は小首を傾げた。見えるはずのない、景色。映るはずのない、光景。どうして、こんなものが――、と疑問を抱くと同時に、つい今しがたの危機を思い出し、周囲を見渡した。
(……みんな、まだ眠ったまま…?)
座席でそのまま突っ伏している者。床に四肢を投げ出し倒れこむ者。それぞれ様相は異なっているものの、特に目立った外傷も無く、呼吸も落ち着いている様子だった。
先刻まで巨大な恐怖の対象であった奇妙な生物も、最早、影も形も無く。床には、薄紅の灰がざんばらと無造作に散らばっていた。
(………?)
ひとまずの危機が辺りに存在しないことを認め、ほうと息を吐き、安堵する。と、同時に強烈な違和感を覚え、くるりと身体を捻る。すると、その動きに合わせて黒衣の端が宙を泳いだ。
「――…?」
試しに、もう一度反対側へ向き直ると、やはり深い闇色の布端が視界に踊った。
(なんだろ、……ヒラヒラしてる?)
不思議そうに小首を傾げていると、ぐんっ、と意識が背後から前方へ強く押し出された。強制的に視覚映像が脳裏に焼き付けられる。眼前に広がる――酷く美しく澄み切った、蒼の海。ソレが何であるのか、一目で判別がつき、四肢が竦んだ。
「…ゲドゥルトの――海…」
一切の生命を否定し、無限の深遠を抱く宇宙の星海の内側に、更に広がる、腐食の海原。唯一、集合意識体生命であるヴァイアのみが、太陽系髄一の恒星の自壊反応による特殊θ光乱で満たされたゲドゥルトの海で、奇跡的に存在していられるのだ。
「そうだ…、逃げなきゃ――」
唐突に事態を呑み込んで、昴治は慌てた。そして、人類の脅威である、蒼く穏やかに薙ぐ死の海へと、心を急がせた。
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漸く自由の身となり、コックピットから顔を覗かせた灰藍の髪の少年は、リフト艦の状況を一目で正しく理解した。
「うわっ…ちゃ〜…」
壁への埋め込み式となっている電力パイプは案の定傷つけられていて、バヂバヂと鮮やかな火花が散っていた。当然、周囲の壁は抉り取られている。こんな人智を越えた真似を行った犯人といえば――十中八九、目の前のアレだろう。
「さーいあく。スペース・ホラーは苦手なんだけどねー、俺」
取り合えず手元の銃を構えてみるが、どうも、武装が心許無い。あの、人外の化物にどれだけ通じるものか怪しいが、丸腰で対峙するよりはマシだろう。
視界の端を、肉片になった怪物の死体が掠め、異能の存在を倒せるこの男も相当な剛の者だと感心する。普段から深い闇の一端を覗かせる人物だが、正直、ここまで戦闘能力が高いとは。いい意味で予想を裏切られて、その頼もしさに、尾瀬は心中で口笛を吹いた。
「やっほー、だーいじょーぶ?」
「…貴様か」
「うわ、冷たッ。応援が来たんだし、もーちょっとこー、嬉しそうにさー」
「――フン」
嘆きを歯牙にもかけぬ様子で、蒼の野生は異形に光線銃の照準を合わせた。
「ヘタな攻撃程度なら無駄だ。直ぐに再生する。
――バラバラにするつもりで、狙え」
「うっわ。マジでホラー。勘弁〜」
ウンザリと肩を竦めて、翡翠の彩を帯びた灰色の少年は、最早『人』であったことすら信じがたい生物に向き直る。それらどれもが、既にリヴァイアス一の戦闘王に肉体を酷く傷つけられており、本能的な防衛反応から無闇に突撃してこないのが救いだ。最悪でも、傷口の再生中には手出しはしてこないのだろう。
「あんなの相手に、どーやって戦ってる訳。君は」
「外甲に砲撃しても直ぐに再生してくるからな。――無駄だ。
狙うなら、――内臓だ」
「な、…いぞーって。そんなアッサリ言ちゃってくれるけど、どうやって」
澱み無い台詞に、一瞬、思考を停止させた後、尾瀬は反論した。
そりゃ、コッチもそれなりに修羅場は経験してきているけど、この目の前の鬼人のような人物と比べれば、それこそ、大人と子どものような雲泥の戦力の差があるのだ。
「お前には一切期待してない。それより、足手纏いにだけはなるな」
「はーいはい。ったく、可愛くないったら」
――…手負いのクセに、と。
声には出さずに、代わりに、溜息を吐く。
この己にも他人にも無頓着な蒼の王者が、あれから、傷の手当をしたとは思えない。おそらく――止血程度は行っているだそうが、傷口は放置したままだろう。全く、野生の王国でもあるまいに、怪我は舐めてれば治るとでも本気で考えているのではないか。
「じゃ、ま。コッチは邪魔にならないよーに、大人しく引っ込んでますよー」
「――賢明だ」
相変わらず口数は少ないが、それでも――珍しく此方の台詞にストレートに応えてくる容赦の無い絶対の王に、そこそこ認めてもらえてるのかねー、と妙に感銘を覚える尾瀬だ。
『へーえ、まだ無事だったんだ』
と、そこに――思考を無理やりに乱す『声』が、届いた。
同時に、あからさまな殺意で、獰猛に牙を剥いていた巨大蜘蛛のような怪物共が――霧散した。
「……え?」
パチクリ、と瞬いて、我が目を疑う猫科の少年。
感情豊かな彼程顕著ではないにしろ、戦艦内部で扱うには極悪な獲物を構えていたブルーも、何処か拍子抜けしたような様子で、怪訝そうに【敵】が存在していたはずの、今は何も無い空間をねめつけていた。
そこには――白蓮の花弁のような、華の祝宴。
飽く事無く、くすんだ天(から降り注いでは、ハラハラと、世界を真白く染め上げてゆく。
「え、えぇえええ? ナニコレ?」
視界一杯に広がる、痛いまでに潔癖な輝きの白の華吹雪。清々しい香りは、余りの質量に噎せ返る程だ。
美しい――しかし、何処か無慈悲さを覚える光景。
『…はン。いい気味』
脳内へ直接――容赦なく、一方的に響く声は、満足そうに嘯いた。
「何をした。灰のスフィクス」
喩え、天地が逆さになったとしても微塵の動揺も面には表さないだろう、寡黙な王者は、向きあうべき【敵】が消失した為、隙無く構えていた光線銃を下ろして事態を、おそらく、事の張本人であるヴァイアの化身へ尋ねた。
『組み換えたんだよ。――綺麗なモンだね、命を奪って散る華は』
「…組み換え、た…?」
驚愕に見開かれた翡翠の持ち主は、呆然と、認識した言葉をそのまま鸚鵡返した。
普段は如才無く回転する思考が、今は完璧に死んでしまっている。
余りに場違いな、今ある惨状に似つかわしく無い単語だ。
人類の常識の範疇で思考を留めるのならば、ありえるはずもない、結論。しかし、人の種としての限界を超越した存在が、その奔放に際限無い能力で思うまま振舞えば、ソレは容易いのではないかと、己自身の想像に背筋が凍る。
『そうだよ。これで、ボクのカラダも汚れずに済んで良かったよ』
「連中が――コレだと、いうのか…」
未だ、昴みの虚空から散り注ぐ白蓮華の花弁のひとひらを掌に受け止め、ブルーは、常より鋭利な眼光を更に強く閃かせた。
――酷く、危険なチカラだ。
遺伝子情報の書き換えなど、当然のような素振りで、ましてや愉快そうに行動にするスフィクスなど。奴等が人類の脅威にならぬと、人類の何者が保障し得るだろうか。
『…もう、ゲドゥルトの海へ潜行してる。敵も全部消したから、何時までもリフトにいないで、出てくれば? ちょっとしたもんだよ。花びらの絨毯ってね』
何がそれ程彼の興を誘ったのか、酷く機嫌良く、黒のスフィクスは嗤う。
「! もうゲドゥルトに突っ込んでるのか?」
『そーだよ。流石に、アッチはヴァイア艦じゃないからね。
ボク達の聖域にまでは追って来れない。
よかったね、取り合えず作戦終了ってヤツ?
後はこのまま潜行を続けて、地球連邦の制宙権の強い宙域に抜けるだけ』
「リヴァイアスはッ!? てか、昴治は!!」
任務完遂の理を受け、尾瀬の意識は、最愛の人を残した無防備な戦艦へと手向けられた。この際、人類という種すら滅ぼしかねない圧倒的な脅威の事など、二の次だ。
『……どいつもこいつも、コージコージ、うっさいなぁ。
黒は無事だよ。ちゃんとゲドゥルトに潜行してる。
――ああでも。君達の大好きな彼は、少し、変わってしまったけれどね』
くす、と。
やたらに勿体ぶった言い回しで、灰のゲシュペントの現身であるマーヤは答えた。
「変わった…、って」
「おい!! 変わってのは、どういう意味だ!!!」
ガッ!! ゴ、ゴゴゴッ、ガゴンッ!!!!
凄まじい大音響と共に、状況の説明を求める尾瀬の立ち位置から遠く、未だコクピットに閉じ込められていたはずの天才の呼び声も名高い少年が飛び出してくる。
「うっ…わー、ゆーき君たら無茶苦茶…」
あの十分すぎる程に頑強なシートの上部ハッチを、ロクに使える道具も無く、どうやって抉じ開けたのか。力技なのだとしたら、人並みはずれた怪力――というか、化物だ。今更だが、このムチャクチャな少年が、リヴァイアスの一輪の花。砂漠の旅人の渇きを潤す、オアシスのような癒しの天使。相葉昴治の実弟とは、この世界における永遠の謎だと、溜息を吐く。
『ウッルサイなー。そんなの自分で確かめなよ』
「! てっ…ンめぇ!!」
面白いように食い付いてくるお子様に、灰のヴァイアの意思である――おそらく、性悪であろうスフィクスは、億劫そうに吐き棄て、怒鳴り散らす声が不快だとばかりに、一方的に精神感応を切った。
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2007/07/16 加筆修正