act.32 未来の行方
************************************************


――痕跡は、何も残さない。




 独自のルートから確認した計画の一端に、ココロが冷え切ったのを覚えている。

 嘲りの嗤いと、罵りの言葉。
 どちらが先だったか、もう、覚えてはいない。
 それとも、同時だっただろうか。

 こんなにも、人類は、愚かしい。
 幾度と、過ちを繰り返そうとも、時の巡りと共に、同じ道筋を辿る。
 それが、滅亡の歯車だと分かっていても。
 彼等は、歩みを止められない――。

************************************************


 気になることは、幾つも存在していた。
 常に苦悩の翳りが付きまとう、道ならぬ恋。
 社会という鎖に繋がれ、常識という枷を嵌められ、もがき続けてきた少年にとって。唯一の女性と望んだ愛する人を誹り、遂には、失わせた世界は『敵』以外の何物でもなく。それらを形作り歯車の一部となり、世界を廻し続ける大人達は、等しく憎悪の対象であった。
 特定の個人ではなく、漠然とした広意義の『社会』と『大人』。それを『敵』と見なすのは酷く稚拙な愚行であった。
 思春期特有の理由無き反抗というカテゴリで括るには、運命は過酷過ぎる軌跡を辿った。



悲しみで人は死ねるのだと、知った。
あの記憶は、今もなお、脳裏に鮮やかに刻まれている。


************************************************


 ――既に現在では金持ち道楽的な骨董品と化している純正ガソリン車は、これまた、いかにもな佇まいの高級マンションの地下駐車場へ吸い込まれていった。ゆったりと進むベンツの車窓から覗く眺めに、整った容姿を荒削りな魅力で彩る少年は、すっかり食い入っていた。
「一体…、何台あるんだよ…」
 既に伝説と化しているような、マニア垂涎の一品が当然のように並んで停められているのに、祐希は高揚を抑えきれずに上ずった声を漏らす。
「あー? 何が? 車?」
「凄い…ですよね」
 弟程はガソリン車に興味の無い昂治も、流石にこの光景が滅多に無いものとは理解出来るらしく、目を丸くして溜息を吐いた。
「まーな。先代が車好きで結構集めたらしいぜ。
 維持費は掛かるわ、税金はバカ高けーは、ロクな事ねぇから、そのうち大半はオークションにかける予定だけどよ。なんなら、好きなの持っていってもいーぜ」
「持っていっていい、って…。
 まさか、これ全部貴方の車なんですか!?」
「ん? そーだぜ」
 事も無げに返されて、昂治は二の句が告げぬ状態に陥った。
 そんな兄の隣で純正ガソリン車という宝の山を眼前にした少年は、興奮した様子で運転手へ話しかけた。
「おいっ! 後からどれか運転させろよ!!」
「…あ? 別に構わねーけど、ライセンスは? お前確かまだ資格ないだろ?」
 何度も繰り返すが、地下資源の枯渇が問題になりつつある昨今。純正ガソリン車など一般市場に出回らなくなって久しく、代わりに太陽発電を組み込んだエコカーが人々の足となった。当然、エコランセンスと呼ばれる免許は必要になる。そして、ライセンス取得は残念ながら16歳以上からだ。
 ――幾ら、黒のリヴァイアスにて天才パイロットの名を欲しいままに、VGを自在に駆っているとはいえ、相葉祐希なる人物は現在15歳。ひとつ、足りない。
「ンなもんいらねーよ」
 しかし、常識から考えれば当然の問いかけを、気性の強い少年は不遜に突き返した。
「いやいやいやいやいやいや。
 ここは宇宙じゃねーんだぞ。いるだろ。フツウ」
 スキルだけを考えるならば、おそらく、祐希の実力ならば問題ないだろう。基本動作を一通り説明するだけで直ぐに乗りこなせる。エコカーの運転などVGの複雑難解な操作に比べるべくも無い。
「ケチくせー事言ってンじゃねーよ。スフィクスのくせに」
「…いや、スフィクス関係ねェって、ソレ」
 妙に的外れな悪態に、苦笑を漏らすレイン。そんな二人の遣り取りを経て、我侭大将な弟をお兄ちゃんが諫めた。
「コラ、祐希。無茶苦茶言うなよ。レインが困ってるだろ」
「……でも、兄貴ッ」
「でもも、だっても無い。見せてもらうだけで十分だろ。我慢しろよなっ」
 ぺしっ、と自分の額を叩いて、めっと怒る兄に、未練がましい視線を送る祐希だ。こんなチャンスは二度と無いかもしれない。いや、確実に二度と無い。現在の所得ならば純正ガソリン車の一台くらいはおそらく余裕で所持出来るだろうが、如何せん今後数年は宇宙での生活を余儀なくされる身の上だ。ヴァイア艦の人型守護戦闘機VGのパイロットという立場に不満は無いが、それはそれ、これはこれ。今の機会を逃せば次は無いとなれば、何としてでもと執拗に食い下がるのは当然。
「それ程運転してみたいのなら、ライセンス申請をしますか?
 相葉君は非常に優秀なVGのメインパイロットですから、申請の手続きさえ行えば、私の権限でエコライセンスを発行する事が出来ますよ」
 そんな相葉兄弟の遣り取りを見兼ねて、気配りの人である朔原艦長が提案を口にする。
「…そのエコライセンス申請ってのは、どーすんだ」
 興味深そうに訊ね返してくる少年に、灰のゲシュペントの若き責任者である青年は柔和な物腰で応じた。
「レインの部屋にある端末から申請を通せば半刻程で取得出来ますよ」
「へぇ、随分簡単なんですね」
 くりくりとした瞳が愛らしい小柄な少年が、その容姿に似合った素直な感想を漏らせば、本当はダメなんですよ、と悪戯っぽい口調が楽しそうに弾んだ。
「ええっ!? ダメなんですか?」
「ええ、私はあくまで灰の艦長ですから。黒の正規パイロットである相葉君達に対して特別な権限はありません。ただ、そこは融通を利かせられますから。ご心配には及びませんよ」
「…そんなものなんですか?」
 きょとんとする昂治に横目に、一つ年下の弟は完全に乗り気で、そわそわと駐車場に並ぶガソリン車を物色していた。どれもこれもその筋の人間には垂涎ものの一品だ。しかし、全部を運転する時間など無いから、どれかを選択しなければならない。どうするかを真剣に悩んでいる様子だった。
「…あそこのは、ベイクドバーカー社の鋼鉄のサラブレッド『ディオニス』! しかも、セカンドのR402!? 奥にある黒いのは、ディ・ユーゴ社の黒の上質『ノワール・クラウン』!? まじかよ……」
「……祐希、詳しい、…な?」
 何故遠目に見かけるだけで正確に車種を言い当てられるのか、実弟の思わぬ一面に驚きを隠せぬ兄は、恐る恐る話しかける。妙に遠慮してしまうのは、距離感を感じてしまうからだろう。
「マニアかよ…」
 げんなりした様子で肩を落とした黒の異質――スフィクスの青年は、ベンツを定位置に滑るようにして駐車した。丁度隣はエレベーターのようで、他に使う者が無い事を示すように地下一階で客人を待ち侘びていた。
 剥き出しのコンクリートの地肌は、ただ、硬く冷たいだけで、胸を抑えつけられるような圧迫感に昂治は眉根を寄せた。暗く、広い、空虚な空間は、人の気配も無く――どこか、ヴァイアの胎内を思い起こさせた。
「このマンション…、他に住人はいないのかな?」
「ん? ああ、此処は俺専用だから、いないぜ」
 何気なく疑問を口にすれば、当然のように、肯定され面食らう。
「え、専用? マンション丸ごと借りてるんですか?」
「借りてるっつーか、元々先代――死んだじーさんのなんだよ。
 道楽で集めたガソリン車の保管場所が必要だって事で、都心ハズレにどでかい自宅用マンション建ててただけ。で、俺が其処に便乗して暮らしてるって寸法だ」
「はぁ…、本当にお金持ちなんですね」
 祖父――、昂治にとっては余り聞きなれない単語だった。それは、隣に座る弟も同じで。母子家庭に育った二人にとっては、母親と、お互いと、血縁と呼べる存在はそれだけだ。無論、父母がキャベツ畑で生まれたわけでもなければ、コウノトリが運んだわけでもないので、親類縁者はこの半分になってしまった世界の何処か見知らぬ空の下で生きているのだろうが、現状、大して必要な情報でもない。特に今は血縁と呼ぶのは――嬉しそうに瞳を輝かせて稀少なガソリン車を目で追う弟が傍にいれば充分だった。
「まーな。じゃ、とりあえず、俺の部屋に行こうぜ。
 これからの話とか、そこでな」
 掛けられた言葉に無意味に逆らう者は一人としていない。皆、車からそれぞれ降りると、黒のリヴァイアスに愛される少年等は物珍しそうに周囲を見渡しながら、背丈のあるオトナ達の後に従った。

************************************************


 灰のゲシュペントの現身である艶やかな青年の資産の一つらしいマンションの、その一室に案内された少年たちは、通されたリビングルームの品の良い臙脂のソファの上に寛いだ。
「うわー、ふっかふかだねー」
「凄い、気持ちいい…」
 腰を下ろした瞬間のふわりとした感触がいたくお気に召したらしく、小動物のような仕種で茶金の髪も可愛らしい少年は、ソファの毛並みに頬を降り寄せた。基本的に警戒心の強い場で最も年下の少年だけは慎重に周囲を見回した後、兄が腰掛けるソファの後ろに立つ。座らないのか? と促されても曖昧に相槌を打つだけの弟の姿に、愛玩動物の愛くるしさを連想させる少年は、小首を傾げて見せた。
 室内は――やはり、人の気配が希薄であったが、地下のように余所余所しくは無く、そこに生活の名残が確かに存在しており、多少の安堵を覚える。広々としたリビングから正面にテラスに面した窓があり、そこから昼下がりの陽射しがさんさんと差し込んでいた。
 レイン――灰のゲシュペント、人類の唯一の希望である有機艦のスフィクスである麗しい青年の部屋は、想像したような値段が高いだけの無意味な丁度品などは無く、生活に必要な家具が、しかし流石に素人目でも質の良さが分かるものが並んでいた。
 肌に優しい加工をしているフローリングの床は、暑さの厳しい時期ならば、そのまま寝転んでも気持ち良さそうだ。柔らかな白の壁紙にくるまれたリビングで目立つものといえば、客人である少年達が座っている臙脂のクラシックな色合いが好ましい大きめのソファ、木欄色の和風網目が特徴的な絨毯の上に置かれた、見た目も涼しげなガラスの角テーブル、最新タイプの薄型映像端末、オーディオ機器が並ぶ木目の美しいスタイリッシュフォルムの棚。如何にも一人暮らしといった様相だ。
 意外と言えば、部屋の隅や棚の上など、適所に置かれている瞳を安心させる観葉植物にしっかりと手入れが行き届いている事か。部屋主が世話を出来るはずもないので、おそらくマンションの管理人にでも後を頼んでいるのだろうが、視界の中で緑が生きているだけでも、部屋のイメージは随分違って見えた。
「何もねーけど、まぁ、適当に寛いでくれ。エレキウォーターの温度は? 寒くないか?」
「あ、はい。平気です」
「腹は? 夜は適当に注文を取るけどな、減ってるならなんか作るぜ。
 ――カイリが」
「…私が、ですか?」
 さも当然のように言いつけられ、灰の艦長は知的な印象の顔立ちに驚きを顕にすると、タチの悪い上官を睨む。無論、そんな瑣末な反抗など気にも留めないのが、永遠を生きる異能種、灰のゲシュペントのスフィクスというもので、独裁君主よろしく言い付ける。
「ンだよ、文句あるのか」
「…いいえ。けれど、大した料理は作れませんよ。どうせ、食材も揃ってないでしょうし」
「ああ、大丈夫だ。ある程度用意しとくように管理人に言っておいた」
「なんですか、その無駄な根回しのよさは」
 冷蔵庫に食材を用意させるくらいなら、何か適当に食べる物を用意しておくように頼んだ方が余程効率的だ。被害妄想などではない、明らかな計画的犯行に、カイリは眩暈を覚えた。
「御所望とあれば、料理でも洗濯でも掃除でもしますよ。シルエッティール上官」
「いい心がけだな」
 灰のヴァイアの艦長である青年の襟を正した返答に満足そうにするレインに、カイリは肩を落とした。本当にどうしようもなく自由奔放で気侭で我侭で気位と自尊心は天よりも高く、扱い難い事この上ない絶対のスフィクスに逆らえるものは存在しないのだろう。可能性ではあるが、彼を御せるのは、おそらく同種の存在――人類を超越し、人を破滅より救い出す希望の異質だけなのだろう。
「…全く。ああ、相葉君」
「はい?」
「いえ、その…弟ぎみの方です。失礼致しました」
 改まった調子で名前を呼ばれて、思わず礼儀正しい返事で昂治はカイリを見遣った。すると、困惑の微笑みを返される。呼ばれてもいないのに返答した事に、奇妙な気恥ずかしさを感じて身体を小さくすると、隣に座るシルバーグレイの柔らかなそうな髪の少年が、クスクスと忍び笑いを漏らす。
「…ッ、なんだよ。イクミ」
「いえいえ、なんだか笑えて。
 そっか、そうだよね。昂治と祐希君って同じ苗字だもんねー」
「今更だろ。兄弟だっての」
「そうなんだけど、ね。
 俺達は役職とか階級とかで呼ばないもんね。ややっこしいか」
 呼ばれた祐希が仏頂面で一言も返さずにいるのに対し、呼ばれない兄が代わりのように答えたのが、余程ツボに入ったのだろう。未だ収まらぬ笑いの発作と必死に戦いながら、軽薄な振る舞いや社交的な容姿に反し、非常に思慮深く配慮に満ちた性質の少年は続けた。
「いっそ、祐希君はアレでいいんじゃない? お兄ちゃん大好き星からやってきた、ブラコンの王子様。プリンス・祐希!」
 名案だとばかりに胸を張る親友の奇抜な発想に、昂治は苦笑を浮かべた。不名誉なそれで呼ばれた当人は、手近にあった宇宙工学の雑誌を投げつける。直撃を受けてもさし
「ひどいなー、祐希君たら」
「ウルセェ、無駄口叩いンじゃねーよ」
「おいコラ、散らかしてンじゃねーぞ。ちゃんと戻しとけよ」
 部屋主に言われて、昂治がソファの背凭れに乗り掛かるようにして床に落ちた雑誌を拾い上げる。
「! 兄貴、悪い!」
「いいって。ほら、後ろに戻して?」
 年の割りには華奢な体躯の兄の自分の尻拭いのような行動に、バツが悪そうに謝罪を口にする祐希だったが、無論、そのような小さな事を気にする昂治では無い。手にした雑誌をぽんと弟に渡すと、元の場所へ直すように指示を出す。当然、兄貴至上主義の相葉祐希なる人物に、反抗の二文字などあるはずもなく、素直に受け取った雑誌を棚に戻す。床にひしゃげた所為で妙な折り目がついてしまったが、その辺りはそ知らぬ振りを決め込むのが得策だろう。
「それで、先ほどのライセンスの件ですが」
「ああ、発行出来るんだよな!?」
 途端に瞳を輝かせて話しに食い付いてくる余りに分かりやすい少年に、カイリは微笑ましさを感じながら、ええ、と柔らかな物腰で応じた。
「実際の発行まで多少時間がかかりますから、先に済ませてしまいましょう。
 ついでというわけではありませんが、尾瀬君も申請しますか?」
「ん? あ、いや。俺は大丈夫ですよー。ライセンス取得済みだから」
「え! なんで、何時の間に!?」
「うん? 二度目の出航前に、ちょいちょいって。また今度って思ってたら、なかなか取る機会もないんじゃないかなぁって考えて、取ってたんですよー」
 右隣に座る親友の素直な驚きを受けて、リヴァイアスのVG――深窓の美しき黒姫(ティターニア)を駆るパイロットの一翼を担う尾瀬は、へらっと表情を崩した。
「そうなんだ。なんか、イクミってソツ無く生きてる感じがする…」
「あははっ、何ソレ。褒めてる?」
「褒めてる褒めてる」
 楽しそうにジャレ合う少年達に、カイリは既視感を覚え、そうと気付かれぬ程にささやかに嘆息した。
 ――他愛無い触れ合い、取りとめも無い会話、二度と戻らぬ穏やかな日々。
 人は未だ見ぬ存在に憧憬を抱き、失われたモノに羨望を覚える生き物だ。永遠にあの幸福な時代の中にいられあのなら――、誰もが願うだろう。人類の欲望が行き着く場所のひとつ、永遠の若さと命を限りなく近く体現するスフィクスは、人よりも幸せなのだろうか。いや、少なくとも身近にある人は決して――…、
「…なら、尾瀬君は必要ないようですし。
 相葉君だけ…と、やはりややこしいですね。そう、ですね…、相葉君はVGのメインパイロットの中でもリーダーでしたね。であれば、マイスター殿とお呼びしましょうか?」
 名を呼ばれ思わず振り返った黒の少女に深く愛される少年の、その気まずそうな視線を受け、カイリは優しげな大人の余裕を感じさせる態度で、ひとつの提案を口にする。
「マイスター?」
「ええ、パイロットの中でも特に優秀な者をマイスターと呼びます。所謂俗称ですが。
 ――如何ですか? ご不快でなければ、以後、マイスター殿と呼ばせていただきます」
「…ああ、別に…」
 耳慣れない言葉だけに戸惑うが、呼び分けの為と明確な理由がある以上は、意固地になって断るのも馬鹿げている。祐希のおざなりな同意に、灰のゲシュペントの責任者――艦長である朔原は丁寧な物腰で恭しく一礼して見せた。
「ご随意に、マイスター殿。
 では、此方に来ていただけますか? 端末から申請を行いますので」
「ああ」
 素直に部屋の隅に呼ばれる弟の背中を見送りながら、黒のリヴァイアスの寵児はレインに向き合う。何処か――真剣で、痛ましさすら覚えるそれに、既に人ではなく、しかし人である事を願うスフィクスは深く艶やかな紅朱の眼差しを少しだけ細めた。
「先に、話をしてもいいですよね」
「ああ。そーだな」
「ん? 話って?」
 当然のように事情を知らぬ尾瀬が割り込んで疑問を投げかけてくるのに、幼い容姿が愛らしさを引き立てる金茶の髪の少年は、ゆっくりと、微笑みを刷いた。
「今の俺達の状況を、かな。
 イクミ達は直ぐに病院に搬送されたから、他の皆とかリヴァイアスがどうなってるとか、その辺り全然知らないだろ?」
「あー…、まぁねぇ」
 極論、昂治以外の人間など、どうなろうと知ったことでは無いのだが、情報は有難い。この先に起こりうる事態に備えるためにも、切れるカードを手元に増やしておく必要がある。
「――まず、リヴァイアスなんだが、敵に完全占拠されてたしな。妙な仕掛けなんかがないか、軍の施設で総点検中だ。無事なクルーは全員地球統合連盟が手配したホテルに宿泊してて、長期休暇をご満悦中。怪我人は国立病院に搬送されて治療を受けている。
 なんとか今回の件での犠牲者はゼロに抑えられた。お前達の協力の賜物だ――…」
 そこまでの説明を終えて、レイン――未来永劫の孤独を生きるであろう圧倒的な美貌の主であるスフィクスは静かに立ち上がり、深々と頭を下げた。
「リヴァイアスの皆様に、心から感謝致します」
「えっ!? えええぇえ!? いえっ、そんなっ!!」
 突然の事態に目を白黒させて驚く昂治の隣で、尾瀬も珍しく虚を付かれた表情で言葉を失っていた。こうくるとは思っていなかったのだろう。絶対君主を体現したような、不遜に不敵の俺様スフィクスが礼を尽くす姿など、想像の範疇外だ。
「軍属じゃねぇお子様に今回のは辛かったろ。ごめんな。で、サンキュ」
「いえ…。本当にいいんです」
 改まれると妙に気恥ずかしい。特に見目麗しき人物の礼節に殉じる姿というのは、禁欲的な色気に背徳的な征服感が加味され、健康な青少年に非常に宜しくない影響を与えそうだ。
「コッチからすれば降りかかる火の粉を払っただけだもんねぇ」
 慌てふためく親友の隣で余裕を取り戻したらしい猫ッ毛の少年が口を挟み、続けて質問をする。
「あのさ。幾つか訊いておきたい事があるんだけど。いいですかー?」
「ああ」
 手触りの良い臙脂のソファに座りなおし、艶やかな黒髪、闇紅の眼差し、白皙の肌――まるで精巧な人形の如く完璧な美貌の人ではないそれは、短く応じた。
「まず、ひとつ。マーヤっていうのは?」 「灰のゲシュペントから生まれた純粋な『ヴァイア艦』としての『意思』――『人格』の事だ」
「…つまり、キミとは別の存在って事なんですよね?」
 言葉の真意を測りかねて尋ね返す尾瀬に、レインは緩い所作で首を振った。
 否定――しかし、完全ではなく半端なそれの意味は、続く言葉によって補填された。
「別っていうのは少し違うな。
 スフィクスっていうのは、そもそも――ヴァイアの意思と素体の融合して始めてそう呼ばれる。俺は『灰のスフィクス』だ。ネーヤと俺はあくまで別の人格だが、共通した存在でもある」
「……うーん、なんだか実感湧かない話だねぇ」
 理屈は何となく分かるんだけど、と付け足して尾瀬は神妙な顔つきでいる親友を振り向く。
「こーじ君?」
「へ? 何?」
「や、なーんか、ぼーっとしてたから。
 どした? 疲れた?」
「う、ううん。大丈夫だって。それより、質問はもういいのか?」
「いーや。まだまだありますよー」
 明らかな作り笑顔と分かるそれに、貴公子然とした甘い顔立ちの少年は、敢えて追及を避けた。大切に想う相手の無理な微笑みが気にかからぬ訳では無いが、今は沈黙が最善であると即座に判断を下す。統率者の資質として即決即断の判断力の高さも数えられるが、尾瀬イクミなる人物は特にそこが抜きん出ていた。
「ゲシュペントにいたスペースホラーな生き物は何だったのかなーっと。あと、そいつらにマーヤ君は何をしたのかなぁって」
 口調こそ軽薄そうな印象で緊張感の欠片も感じられないが、瞳が――高貴な翡翠の眼差しは決して笑ってはいない。寧ろ、ほんの些細な情報さえ見落とさぬようにと、恐ろしい程に真剣だ。
「……【LANS】。生態遺伝子進化システムについて、訊いたことはあるか?」
「なんざんすか、それ」
「昂治は?」
「えと、知らないです」
 ――…当然か、と。
 聞き慣れない単語に戸惑う二人の少年を見遣って、謎と神秘の象徴である灰の青年は、鷹揚とソファの背凭れに沈み直した。視線は――酷く、冷たい。それは比喩では無く、闇紅の瞳は人を狩る髑髏神のように、残酷な、生命の匂いの無い無感情なそれ。
第三世界大災害カラミティ・ノヴァ、についてはどれ位を知っているんだ?」
「地球上の生命の6割を死滅させた空前絶後の大災害。ゲドゥルトの海はその時に生み出されて、今をもって地球面積の半分を覆い尽くしている、ってくらいかなー?」
 如何にもマニュアル通りの回答に、夜と艶を纏い無用なまでの色香を撒き散らす罪なスフィクスは、何処か面白そうに片眉を上げた。
「昂治も似たようなものか?」
「そうですね…、俺も、イクミと同じです。
 アカデミーの授業で習う程度の事しか知らないです」
「いや、それだけ知ってれば上等だ」
 歯切れ良く言い切ると、レイン――灰のヴァイアと同化する美しい異質は、長い足を強調するように殊更緩慢な所作で組み替え、遠い瞳に過去を写した。
「……ゲドゥルトの海にでヴァイア以外の命が存在出来ない理由は知ってるな?
 太陽光が生み出した帯域には大量の特殊θ光乱が含まれている。それ自体が核の塊のようなもので、浴びれば細胞が沸騰する。ちなみに、ヴァイア艦の元となるヴァイアはθ光乱を無効化し、更には自身のエネルギーへと変換する特異な性質を持つ」
「…ヴァイアの生態ってのは、ちょーっち習ってないからピンと来ないけどね。ゲドゥルトの海の怖さは、宇宙ステーションの危機回避カリキュラムで叩き込まれたなー。ね、昂治」
「うん。そーだな。先生もそこだけは凄い剣幕で危険だって連呼してたし」
「そうだな、危険――というか、確実に死ぬな」
 現代に於いて、人類の惑星に対しての開拓・開発の手は太陽系の隅々にまで行渡っていた。数ある惑星の中でもしかし、やはり地球は別格だ。人類発祥の地。無数の生命を遍く慈しんできた最愛の惑星。青く清き淑女に人類は母と慕情を寄せる。
 そして、あらゆる生命の根源である地球が母となるならば、惜しみなく与える輝きにて、生まれ出でたそれらを育むのは、太陽であり、彼はまさしく人類の父であろう。
 その温もりで生命を見守ってきた太陽は豹変し、伴侶の半身を灼き、愛すべき子等を灰燼と化した。激情はひと時のものであり、百五十年前のカラミティ以来、空高く望む巨大な恒星は穏やかな姿を取り戻した――が、子ども等は虐げられし記憶の中にある、痛みと恐怖、血肉を分けた兄弟の痛みを…――忘れない。
「太陽は再び暴走しないとは限らない――同士の死を間近にしているだけに、当時の人類の恐怖は計り知れないものだった」
 ――…そこで、と。
 狂い猛る太陽が生み出したゲドルゥトの海にて唯一赦される存在は、焦らすように言葉を区切った。確かに生活の名残が感じられるのに、モデルルームのように小奇麗な部屋に微かに漂う甘い香りが、鼻腔をくすぐっていった。
「生き延びるために人類は二つの可能性を模索した。
 一つは、現在社会を見れば分かる通り――宇宙進出。太陽系でも、地球以外の惑星はゲドルゥトの被害を受けていないからな、まずは他の惑星への移住。いずれは、地球と似た環境の惑星を見つけ、人類全てを移動させるという大規模な人類移住計画にあたる【新天地計画プロジェクト・ホーム】。
 そして、もう一つが――通称【楽園計画プロジェクト・エデン】。内約は人類進化促進計画。つまり、人類が『人』であることを捨て、ゲドルゥトの海でも生きられるように肉体を人工的に変革させる――今となっては、狂気の沙汰としか思えない無茶な計画だ」
「…プロジェクト…、エデン」
 今まで耳にしたことも無い単語を呆然と繰り返す昂治に、現代における最高武装を誇る戦艦――灰のゲシュペントの主は、愉快そうに深い紅色の眼差しで細い月形を描いた。
「そう、【楽園計画】における生態遺伝子進化システムを【LANS】と呼ぶ。
 だがゲドゥルトの海に満ちる【特殊θ光乱】に対応するとなると、最早それは人ではなく――化け物だ。
 繰り返される実験は当然失敗の連続。人が人の力で自分達を進化させるなんて馬鹿げた真似成功するわけないからな。漸くプロジェクト・エデンの成功率の低さに気付いた科学者チーム【パラサイト】が残したものは、人の組織構造を無理やり変化させて化け物を作り出す呪われた技術【LANS】だったってワケだ」
 何処か余所余所しく感じられる広い間取りのリビングに、壁に掛けられた黒を基調とするクラシック時計の秒針が時を刻む音が、奇妙な程耳に付く。
「……お前らを襲った化け物は【LANS】の発動コードが埋め込まれた『人間だったモノ』――【DUST】だ。組織の組成を強制的に変態させる…どうなるかは、お前達が見た通りだ」
「――…【LANS】…生態遺伝子進化システム」
 灰のゲシュペントの守護者であるVG――白き武人の神々しきツバサを見上げるブリッジにて、無蔵と這出た『人で無いもの』を思い出し、昂治は身震いした。アレもそうだったのだろうかと、口を開く前に右隣に座る親友が真剣な表情で話に食いつき、機を逃す。
「…【パラサイト】の名なら聞いたことはある。
 狂信・背徳行為を実行する科学者の代名詞になっている位だ。相当だったんだろ。
 けど――そんな危険で非人道的な実験なら、その成果である【LANS】の情報は然るべき組織で厳重管理されるべきじゃないのか? なんで、あんなテロリスト集団が情報を持ってるんだ」
「さーな。ま、なんにでも抜け道はあるからな」
「じゃ、それはいいとして。その【DUST】を花びらに変えたのは、どんなカラクリなわけ?」
「残念ながら、タネも仕掛けもございません、ってな」
 組み上げた長い足の上に右肘を乗せ、その上に顎を休ませて、魅惑のスフィクスは意味ありげに微笑んだ。人外の存在でありながら、その嫣然とした笑みと小悪魔的な仕種はひどく魅力的に感じられる。人は異質に畏怖を抱きながらもある種の憧憬もを同時に抱く生き物なのだと、尾瀬は皮肉を感じる。
「体組織を構成する細胞を変異させて、花弁に変えた。それだけだ」
「…そんなのアリなんですかね」
「――ある程度条件はあるさ。
 対象がヴァイア艦の中に存在している事が絶対条件、次に自我の消失、契約の成立。この三つが成り立っていれば、スフィクスの絶対性によって対象を分解・再構築する事が可能だ」
「…契約?」
 不思議な単語に優しい空色の眼差しを瞬かせ、愛らしい所作で小首を傾げる黒の美姫の寵児の疑問に対し見目の良いスフィクスの青年は口を開きかけ――、

 ぴぴぴぴぴぴぴ

「ああ、ちょっと悪い」
 別室から響く電子的な音に急かされ席を立ち、客人に断りをいれてコールを止めに行く。
 その間にライセンス申請を終えた天才の呼び声も高いVGのエースパイロットたる少年が戻り、珍しくはしゃいだ様子で兄に背中から抱きついた。
「兄貴ッ! 手続き終わったぜ!」
「わ!? …へぇ、これがライセンス?」
 突然の行動に不意をつかれ驚きはするものの、弟の手に白と赤のラインがアクセントになったゴールドのライセンス証が握られているのに、昂治は感心して見入る。一般に出回っている白いカードと随分見た目が異なるのは、VGパイロットという肩書き故の特別なのか。
「これをだせば、公共機関は全部タダっていうオマケ付だぜ。
 便利だし、兄貴も作っちまえよ」
「俺はパイロットじゃないんだから無理だって」
 無茶を是と通す暴君な弟に柔らかな苦笑を手向け、昂治は端末の電源を落とし細いスツールから立ち上がった灰のゲシュペントの若い艦長に礼を言う。
「あの、ありがとうございます」
「大した事ではありませんから、お気になさらずに。
 それより、レインは隣ですか?」
「あ、はい。何かコール音がしてましたから、電話かな?」
「…そうですか。私も少し席を外します。夜は何を食べたいか決めておいてくださいね。
 確か、この辺りに――ああ、これですね」
 襟元に徽章を輝かせる如何にも位の高そうな軍人に礼を尽くされるのは落ち着かなく、昂治は緊張の為か微かに頬を染めながら、カイリが差し出した清潔そうな白の表紙に金色の刺繍文字でメニューと記載されたそれを受け取った。
「…これ、は?」
「この中にお好きなものがあれば良いのですが。では、私は少し失礼致します」
 問いに対しては温和な微笑みを返事の代わりにし、ダークブラウンの髪に深い色合いの紫の眼差しの双眸、精悍にて端整な顔立ちの青年は、灰のスフィクスの消えた部屋の方へ消えた。

************************************************


 人工アクアリウムから生み出される幻の魚が、明かりの無い広い部屋の中を、色とりどりに淡く輝きながら優雅に泳ぐ姿は、まるで――彼のようだと。
 灰の全ての責務を負う青年は紫闇の瞳に、求める姿を認めて、そっと近づく。
「――レイン」
 光の乏しい部屋の奥にはキングサイズの天蓋付ベッドが据えてあり、時代がかった王侯貴族の寝所のように金の意匠が凝らされていた。綺麗に整えられたそれは、借り物のような寒々とした気配に包まれており。アクアリウムの幻も相俟って、今、この場が光も声も救いも届かぬ深い水底のようで。
「…バレましたか」
 ――部屋の隅では、連絡機の赤い呼び出しランプが忙しなく点滅を繰り返していた。
「ああ――、多分ルゼだな。あーの、裏切りモノ。かんッたんに、口を割りやがって」
「彼を責めるのはお門違いでしょう。無理を通したのは此方ですよ。
 退院許可証の偽造だなんて、全く……」
「カイリ!」
「……はい?」
 突然に強い口調で――まるで、咎めるように名を呼ばれ、大人の雰囲気を醸し出す長身の男は、まるで主人に謂われなく叱られた大型犬のように、きょとんとする。例えるなら、品格と精悍さを併せ持つジャーマン・シェパード辺りが似ている。
「敬語。」
「…習い性ですから、ね。気をつけます、っと」
 指摘を受けた直後にも直らぬ口調に、レインは穏やかな二枚目に育ち、背丈も自分を追い越した生意気な弟を睨み付ける。
「仕方ないだろ、性分なんだから」
 全身に突き刺さる視線を溜息でかわし、カイリはそれより――、と話題を変えた。
「どうするんだ? ここも直ぐ嗅ぎ付けられるんじゃないのか?」
「いや、大丈夫だ。先手はうってある。明日までは問題ねーだろ」
「…そうなんですか?」
「ああ――てーか、また敬語に戻ってンぞ。カイリ」
「……勘弁してください。
 大体、俺にとってアンタは色んな意味で憧れなんだから、仕方ないだろ」
 半ば自棄気味に返す不貞気味の弟に、闇に紅の眼差しが一層美しい孤高の異質は軽く肩を竦めてみせた。泣く子と癇癪を起こす子にはオトナは敵わないのだ。
「仕方ねーなァ…。じゃ、交換条件な」
「な、なんですか」
「ヤらせろ」
 ストレート過ぎる要求に対し、却って脳が理解を拒んだ。
 キッチリ三十秒その場でギシッと固まると、苦渋に満ちた声で批難を申し立てる。
「………アンタって人は。
 大体、そこに相葉兄弟のお二方とか、尾瀬君とかがいるんですよ!? 常識を弁えて下さい!!」
「ンだよ、うっせぇなァ。そんなの気にすんなよ。ケツの穴のちっせーヤツだな。タマには俺が突っ込んでやろーか?」
「……兄さん。いい加減にして下さい」
 品性を疑う卑しい言葉に青筋を立てる生真面目な弟に、享楽的な性質の異質は魅惑の笑みを浮かべ、怒りを茶化すように右手をヒラヒラと振って見せた。
「ンなにマジになって怒るなよ。イイ男が台無しだぜ、カイリ」
「世辞は結構だ。それより――どうするつもりですか」
「どうするって?」
「とぼけないで下さい。私たちの前には問題が山積みですよ。
 相葉君の事や、福音の枷である彼ら、それに上層部の動きや、レディ・リヴァイアスの処遇」
 ひとつ、ひとつ。
 指折りに問題を数え上げながら、カイリは美しい幻の熱帯魚に触れる――無論、それらは人工の光が生み出した幻想であり、差し出した指の形に青や赤の鱗の魚達は歪んだ。…哀れな、レプリカの群像。生命の欠片すら感じられないそれに、しかし、人々は憧憬を抱く。矛盾した感情だ。
「…お前は、何が最善の道だと思う?」
 蒼く淡く輝く光に横顔を照らされる、紅闇の瞳の異質は、含みのある口ぶりで問いかける。
「――…最善、ですか」
 難しい事を訊く、と。
 思慮深く、見識広く、人徳を兼ね備えた人格者でもある灰の若き艦長は俯いた。
 最善――もっとも、善き方法。
 口にするのは簡単だ。
 皆が幸せになる結果。
 ただ、それだけなのだから。
「……子ども達を、レディ・リヴァイアスに委ね、再び旅立たせてあげる事が出来るなら」
 何故、福音を急ぐ必要があるのだろうか。
 黒のリヴァイアス――不完全で不安定な存在である姫少女はこれから先、人の感覚では悠久と呼べる年月を人類と共に在るだろうに、どうして、今、新たな福音を作り出す必要があるのか。
 連邦上層部の判断は性急な上に配慮も温情も皆無であり、ただ、合理的に人類の未来だけを見据えているようだと、灰のゲシュペントの艦長の任に就く青年は思う。万が一、それしか方法が無いとしても、もっと時間を掛けゆっくりと理解を求めるべきだ。強制的な福音の降誕は決して良き結果を導きはしない。
「――…そうだな。
 そう出来れば、アイツ等にとっては…」
 落ち着いた物腰が相応しい大人の男性といった雰囲気の弟の言葉を、是とも否とも言わず、ただ受け止めて――かつて人であった愛すべき傲慢は苦悩を滲ませた囁きを蒼に解かした。

************************************************


2007/8/13 初稿



公演ホールへ