act.33 福音
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 ヴァイア艦の主核である巨大な意識の塊に、人を適合させるのは至難の技である。
 ゲドゥルトの海の中に生まれ、ゲドルゥトの海でしか生きられぬ生命体は、個が全、全が個として、意識の境界が曖昧であった。
 よって――個として確実完全に独立している種、つまりは『人間』へ本能的な好奇を抱く。
 全に繋がらぬ『個』とは、如何様な存在となるのか。
 彼らは、野生の本能の赴くままに対象を探知する――人を知らぬ、命を知らぬ、死を知らぬ、未開にて未達の種族に相手を害さぬようにという配慮などあるはずも無く。無遠慮に精神を貪られる衝撃は、到底、並の人間に耐えられるものでも無い。
『――…精神、汚染』
 多くの依り代が同胞の意図せぬ精神攻撃によって、喪われた。
 無論、ヴァイア側に良心の呵責など――精神を高等に発達させた『人類』という種族に当然のようにある『感情』が、そもそもから虚のように抜け落ちているのだから、あるわけがない。逆に、それが無いからこそ『人間』という種の抱く『感情』を理解しようとして、非道な殺戮行為へと奔るのだ。
『君は、いいね。
 そうして、眠っていればいい。
 イヤだと思う事は全部忘れて、ゆりかごに揺られていればいい』
 若い――年の頃はと問われれば、十五、六歳位だろうか。
 包帯のようにも見える白く輝く金属で全身を覆い、その隙間から僅かに覗く瞳は――暗澹の紅緋。一瞬で魂までも魅了される罪証の色には侮蔑と咎が含まれていた。
『――…最低だね。
 君は弱くて、ずるくて、愚かだ。
 だから、何もかも失ってもまだ気付けないんだ』
 恐怖に泣き喚き膝を抱え、何もかもに背を向け殻に籠もるなんて、責任感が無いにも程がある。
 自分が逃げる事で誰を最も苦しめるのか。
 分からないから――……。
 理解の至らぬが故の愚考は、憐れで卑しい。
『卑怯者』
 取り巻く金属のうねりの合間から掠め見る美貌には、嫌悪と――激しい憎悪。
『――僕は、違う。
 君とは違う。
 僕は――…アイツ等を…』
 感情の概念が存在しない『ヴァイア』には、おおよそ縁遠い表情を浮かべ、彼の少年は中空に融けるようにして姿を消した。
 後には――戦闘艦ヴァイア・黒のリヴァイアスの心臓部にあたる漆黒の多面結晶体が、中空にて蛍火のような淡い輝きを放ち、ゆっくりと不規則な回転を繰り返すだけだった。

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 地下資源の乏しい現代に於いて好事家の高額な道楽でしかない純正ガソリン車は、稀少過ぎて逆に価値を知らぬ者もいる程だ。それが何十台と無造作に停められてある地下駐車場は、何度見ても圧巻だった。
 剥き出しのコンクリートの地肌は、規則的な足音を反響させる。
 照明としての役割だけを念頭にすれば問題ないが、しかし、充分と満足するには多少心許ない白蛍光が、並んで歩く二つの影を濃く、薄く、灰色の床に描いていた。
「…昂治」
「はい?」
 小さな影は、呼び止められて前を行く人を真っ直ぐに見つめる。
 空色に澄む強い力と意志を秘めた瞳は、今は、悲しみに沈んでいた。
「――お前は、本当にこれでいいんだな」
 長身の影は、数歩後ろをついてくる少年を肩越しに振り返り、凄みのある口調で問いた。
「…正直に答えていいなら――…、よく、ないです。
 説明はちゃんと、色々訊きました。全部巧くいけば元通りになるんですよね。
 ただ――、そう、ただ俺が、変わるだけで……」
 『変わる』
 言葉通りの意味だ。
 人類の希望として、福音として、再誕を迎える。
 痛みも苦痛も無く、ただ、細胞レベルで造り替えられる。
 ――ヴァイアに捧げられし、贄として。
「…人と、違う時間を生きる事になる。この意味を理解してるな」
「――…はい」
 ゲドルゥトの海に棲息するヴァイアの寿命は未知数だ。更に、第三等戦闘艦という巨大な無機質との融合によって生まれた『ヴァイア艦』の活動限界など、人という短命の種には計り知れない。
「……死なないんじゃない。死ねないんだ。分かってるな?」
「――…、はい。
 俺なりに…理解したつもりです。ちゃんと…覚悟しました」
「そ、っか。OK。了解だ。
 なら、行くぜ。早めに動かないと、上の連中が騒がしいからな」
 スフィクスである事の証のように闇紅に閃く双眸は前に向かう。視線が自身から逸れたのを確かめてから、昂治は遠慮がちにそれを口にした。
「俺も、ひとつ訊きたいです」
「ん――…、?」
「あ、すいませんッ。前、向いたままで…。じゃないと、多分…うまく訊けない、から」
 振り返ろうとした青年の動作を慌てて制止して、昂治は酷く所在無さ気に続けた。
「…貴方は、どうして…スフィクスに?」
「宙行事故で死んだって言わなかったか? ああ、あれは尾瀬に訊かれたんだったかな」
「事故――、」
 気遣うように言葉が途切れるのに、大した事では無いのだと強調するように、灰のスフィクスは殊更明るい口調で続けた。
「アルテメシア宙域帯の『ハリス・バリトン』で、な。
 気になるなら当時のメディアで検索してみればいいんじゃねーか」
「ハリス…、バリトン」
「十三年も前の事だから、お前達は知らねーと思うけどな」
 人生経験十六年の少年にとって、物心もつかぬ頃に起きた宇宙事故など知る由もない。当然、『ハリス・バリトン』の単語にも聞き覚えは無く、戸惑う口調で不思議な響きのそれを、幼き顔立ちの少年は輪郭を確かめるように復唱した。そして――…、続く問いには昏い感情が満ちていた。
「…レインさんは。
 後悔、してませんか…?」
「――…質問はひとつだけ、だ。
 さて、急ぐぜ。余り待たせると、古ダヌキ共が騒ぎ出すからな」
 華奢な体躯の少年の消え入りそうな問いかけを一蹴し、孤高の生を歩む気高きスフィクスは、手にした金色に輝く車のキーを指先でくるりと回し、大きく足を踏み出した。

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 反政府テロ組織の手から、白の武人の異名を冠する戦闘艦の中でも最大の武装を誇る灰のゲシュペントを見事奪還。人質をも無事に救出。決して安くは無い対価を払ったものの、それでも誰一人の死者を出すことも無く、作戦は完了した。
 しかし、ヴァイア艦の核となるべきスフィクスが自身を護るように深い眠りについてしまったことから、リヴァイアスの再航海は困難となり、クルーは連邦の寄宿舎での生活を余儀無くされていた。
 情報部に所属するカレン・トッティーヤもその一人であり、ある程度の自由を許されてはいるものの、軍の監視下に置かれた生活の窮屈さには正直、嫌気が差していた。
(だからヤなのよねー。軍とか組織とか団体生活とかっ)
 行動力と知性を兼ね備えた聡明な少女であるカレンは、心中でボヤく。作戦後、あのブラコンにも一切連絡が取れない状況だ。リヴァイアス内部にいるときはIDカードで簡便に連絡可能であったが、システム基盤のヴァイア艦に搭乗出来ないのでは話しにならない。
(…まーったく。早めに他の連絡手段を考えておくべきだったわね。
 にしても、無用心。カギはアナログ式だし、管理人は早々に帰宅しちゃうし?)
 輝くブロンドも美しい少女は、夜の闇に紛れ、人目を忍んで寄宿舎の管理室へ潜入していた。
 業務用のデスクと端末、それに質素な灰色チタンの棚といった必要最低限のツールだけ整えられたその場所は、遊びが欠如したひどく味気ない印象だった。しかし、無駄な家具等が無い分索敵に優れた機能的な部屋だとも言える。軍の施設である背景を思えば、これが普通なのだろう。
(さすがに、ハラハラはするかな。見つからないように早くしないと…ね、っと)
 カレンは部屋の隅に置かれた端末に電源を入れて、手際よく起動コードを入力していった。
 人気は無いが、それでも軍保有の施設から直接ハッキングを仕掛けるというのは、なかなかにスリリングだ。しかし、当然ながらスリルを求めての行動では無く、明確な目的がある。
 ひとつは、単純に現状に於ける情報収集。古来からの風習なのだが、どうにも『軍』というものは情報を隠蔽したがる。黒のリヴァイアスの現状及び現在音信不通となっているクルーの行方探査は、カレンにとって違法な手段を用いても入手しておきたい情報だ。
 そして、もうひとつ――『福音』に関しての委細。
 灰のゲシュペント奪還作戦によって中断していた件だが、一度引き受けた依頼は最後までこなすのが主義の情報部の女性クルーは、愛想も無ければ礼儀も弁えない無鉄砲小僧に『福音』の情報を引き渡す使命があった。金銭的なそれではなく、ここまでくると意地の問題だろう。 うっかり痛い恋心なぞ芽生えさせる所だった相手は、昔も今も変わらず、ひとつ年上の実兄に夢中だ。今更、それをどうこう言うつもりは無いが、面白くないのは確かだ。あの、兄以外の人間なぞ居ても居なくても同じと思っているお子様の鼻先に、自分が如何に有能かを思い知らせるデータを突きつけてやりたい。
 ――結局のところ、自分自身もまだまだコドモなのだと、明晰な頭脳の持ち主である少女は冷静な自己分析に苦笑を漏らした。
(さ、て――、アクセスは問題、なし)
 手元の超高性能小型モバイルから伸びたケーブルを、管理室の情報端末に繋いで、カレンは胸の中でガッツポーズを取る。
(じゃー、早速。大人しくしてくれるかしらねー、番犬のワンちゃんは、っと)
 内部からのアクセス――有体に言えばハッキング行為なのだが――は、今まで以上にリスクを負う事になる。当然だが、外部からのハッキングであれば仕掛けた本人は完全に『外』に居る事になる。よって、発信元偽装の高レベルスキルさえ有していれば、早々見に迫る危険というものは無い。しかし、リスクを対価として支払ってでも『福音』の情報は魅力であり必要なものだった。

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 賑やかな人の流れ、屋台からの威勢の良い掛け声、お囃子の軽やかな音色。
 雲ひとつ無い夜空には色鮮やかな大輪が咲いては、散るのを繰り返す。
 この光景が何かなんて分かりきっている。
 夏祭り――、だ。
 そして、これは夢だ。
 稀に、夢の中で夢だと自覚出来る事があるが、今がまさにその状況だった。
 奇跡的に第三世界大災害(カラミティ・ノヴァ)の被害を免れた日本では、災厄からの復興が終わり、宇宙開拓の新時代を迎える時期となってから、世界経済が安定したのを見計らって『祭』が各地で催されるようになった。
 絶望の過去を知る大人も、希望の未来を信じる子ども達も、数少ない娯楽として受け入れられた。よって、日本に住まう者で祭を知らぬ者など存在しないといっても、過言では無い。それほどに浸透する風習だった。
 仕事に追われる母は夏祭りの日も遅くまで帰ってこなかった。
 幼い時分には、親の苦労も知らずに駄々を捏ねた事もあったと、物思いに耽る。
 目の前を泳ぐように通り過ぎてゆく人々は、まるで色のついた記号の群れだ。
 薫るような喧騒も賑やかなお囃子も何処か遠くて、懐かしくて、郷愁を掻き立てた。
『ゆうき』
 呼ばれて、振り向いた。
 自分の意思ではなく、勝手に視点が切り替わる。
 知っているはずなのに、思い出さないもどかしさ。
 子ども特有のハイトーンだが耳障りでない、舌足らず感の残るそれ。
『だめだろ。ひとりで、どっかにいっちゃ』
 相手の胸元あたりにあった視点が、地面に落ちる。
 おそらく、叱られて俯いたのだろう。
『だいじょうぶ。もう、おこってないから。ほら、いっしょに――…』
 腕を引かれる感覚がして、意識を共有していた子どもは前に足を踏み出した。
 自分だけ、その場に取り残される。
 追い掛けようと視線を上げようとして――、まるで映画ワンシーンのように場面が切り替わった。
 一面の、闇。
 いや、完全な暗闇では無い。
 視る事は出来ないが、頭上に微かな明るさを感じた。
 きっと、それは月や星といった夜に美しい天体のそれなのだろう。
 何故か分からないが見上げる事が叶わず、しかし、高い場所に『光』を感じる。
 清浄な輝きはやがてひとつの塊となり、ゆらゆらと優しい輪郭を描きながら語りかけてきた。
『ゆうき』
 その声は先ほどの幼さは成りを潜め、随分と大人びていた。
『ゴメン。祐希』
 白い光の輪郭は、見知ったシルエットを辿ってゆく。
 謝罪の言葉を口にする彼を、今すぐ抱き締めてしまいたいのに、何一つ自由にならなかった。
『ごめんな…、本当に、ごめん。祐希』
 永遠の夜の中、白く透き通った花びらが、ひら、ひら、ひら、不規則に降り注ぐ。



 
贖罪。


 脳裏に焼きつくようにして浮かんだ、ひとつの単語に、符号がカチリと嵌る。
「―――ッ!!」
 酷い焦燥に胸を掻き毟られる衝動を覚え、軋む程に、大切な名を――叫んだ。

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「………ゆめ」
 チュンチュン、チチチチ…。
 頭上の目覚まし時計は、朝の七時半に針を合わせていた。
 爽やかな目覚めには程遠い最悪な夢見だと、寝乱れた髪をくしゃりと握りこみながら、起き上がる。何時もの自分の部屋。何時もの朝。見慣れた部屋の中央のクリーム色の少しくたびれたシャーカーテン。今となっては寧ろ不要なものだ。まだ『彼』は眠っているだろうか。寝顔を覗き込みたいという少しの悪戯心が湧いて、ベッドから腕を伸ばすと、そっと端からカーテンを捲る。
「……?」
 果たして『そこ』には『何も無かった』。
 朝の光を受けて眩しく反射する窓が異様な明るさで、ぽっかりと空きスペースになった部屋の半分を照らし出していた。床に敷いている毛羽立った薄いグレーの絨毯すらキッチリ半分で途切れていて、少年は軽い混乱に苛まれた。
「……ンだこれ。
 ――前、から? ああ、いや。そういえば前から――、でも何で…?
 そういえば、今――…?」

 俺ハ、誰ヲ、探シタ ?

 十六年の人生の内で一度きりでも誰かと相部屋になった覚えは無い。
 ヴァイア艦での生活ですらクルーに個室が与えられている。また、あのお調子者ではあるまいし、好きこのんで他人の部屋へ邪魔をしたり、自ら誰かを招き入れたりする事も自身の性質を鑑みれば有り得ない事だ。
「…っとまて、ンだよ俺。記憶が混乱してるのか?
 ――っと、確か…。
 ゲシュペント奪還作戦の後国立病院に搬入されて――で、異常無しって事で退院許可が出て、ごくろーにも家まで送ってくれるっつー話だったから、レインのヤツに自宅まで…車で……」
 黒のベンツ――ガソリン車マニアには垂涎ものの一品で自宅まで送られた後は、倒れこむように眠ってしまった。危険度で言えば超一級の任務であるゲシュペント奪還作戦を終えたばかりなのだ。寧ろ、当然の結果と言えるだろう。
(…それで…? 確か、尾瀬のヤツは寄宿舎に戻って…、ブルーのヤロウはまだ入院中だって…)
 何も不自然な事など無い。作戦には数名の重傷者という犠牲を払う結果とはなったが、それでも誰一人として命を落とす者は居なかった。テロ組織に対し、まだ十代の軍事訓練も受けていない子ども等が、よくぞここまでの成果を勝ち取ったものだと賞賛に値する。
「…べつ、に…?」
 激しい違和感を覚える、頭の奥が万力で締め付けられるような痛みが続く。
 それはまるで、何かの警告のように心の深い場所で、赤く白く瞬く。
 コンッ。
 陽の欠片も差し込まぬ深海へ沈み込んでいた少年の意識が、不意の物音で窓際に移った。何事かと『何も残っていない』部屋の半分を過ぎて、薄い窓を開ける。アルミの軽い音と手触りが奇妙に懐かしく感じて、実家に戻ってきたのだと変に実感が湧いた。
「やっほー。ゆーき。起きた〜?」
   窓の向こうには幼馴染みの快活な少女が、自室の窓辺に片肘を付いてヒラヒラと手を振っていた。ご機嫌なのはおそらく久方ぶりの我が家と振って湧いた長期休暇を満喫しているからなのだろう。少し前まで眠っていたのか、サッパリとしたショートの青髪は右側が少し外側に跳ねていた。
「…なんだ。あおいか」
「何だとは何よ。ご挨拶ねー」
「お前も戻ってきたのかよ…」
「ま、ね。だって、こないだの訓練の後で急にリヴァイアスのメンテが入って、もう一週間だしね。政府も作業完了のメドが立たないもんで、希望者は実家に戻っていいって許可が下りたのよ。なかなか戻れる機会が無いから、殆どの子が帰ってるみたいよ」
 ――今回の『灰のゲシュペント奪還作戦』の実態は一部の人間にしか知らされていない。よって、リヴァイアスの修繕作業は、緊急メンテナンスの名目に書き換わっている。政府の発表に誰人も疑問を抱かぬのはある意味当然だ。ヴァイア艦と言う生体戦艦は人智を超えた存在で在るが故に、世間は『普通』と『異常』の境目を見極め兼ねる。
「噂なんだけど、リヴァイアスのスフィクス具合が悪いんだってね。
 スフィクスも調子を崩したりするのねー、びっくり」
 少女は呑気な口調でしきりに感心してみせる。独り言なんだか話しかけているのだが、相変わらずマイペースぶりは健在だ。見慣れた表情。聞き慣れた声。幼い時間の多くを共に過ごした、世話焼きが過ぎるひとつ年上の隣人。彼女はこの違和感の正体を知っているのでは無いかと、奇妙に心が騒いだ。
「なぁ、あおい」
「うん?」
 何かあるのか、と不思議そうに小首を傾げる仕種が『誰か』を彷彿とさせて――、小さく記憶が軋んだ。薄氷を踏む危うさの中、言葉を慎重に選ぶ。
「…俺、いや――、その。
 お前の幼馴染って、他に…いたか?」
「……突然何よ」
 ひとつ年上の可愛らしい上にしっかり者と評判も高い少女は、近所付き合いの長い幼馴染からの的外れな質問に面食らうばかりだ。そういえば、この手の掛かる昔からの幼馴染は今回の訓練の後国立病院に搬送されていたはずだと思い出して、顔を顰めた。
「…ねぇ、もしかして、頭でも打った…?」
 潜めた声に本気の心配を感じ取って、祐希はバツが悪そうに舌打ちを返す。
「…別にもういい。悪かったな、ヘンな事訊いて。気にすんな、忘れろ」
「…う、うん」
 腑に落ちない表情を浮かべたままの少女に一方的に別れを告げ、正体の知れぬ不安を振り切るかのように、祐希は乱暴に窓を閉めた。季節は真夏だが、第三世界大災害(カラミティ・ノヴァ)の影響から地球全体の平均気温は災害前より10℃程下がったままだ。早朝は肌寒い程で、部屋を閉め切ってしまっても問題ない。日差しの強い日中であっても、窓を開けておけば十分に涼が取れる。
(…あおいは、知らないって言った。何ッだよこれ…、俺がおかしいのか…? くっそ…!)
 そのままカーテンも閉め、眩しい日差しを厚い布で遮ると、カラッポな空間が一際異彩を放った。何かが違うのだ。確実に何処かが狂っている。足りない。そう、何かが決定的に欠けている。自然な日常。他愛無い会話。お節介な隣人。自分はずっと一人で――、ひとりで…、そう一人だった。親の離婚から母子二人きりで、寂しさを感じたこともあるが、直ぐに慣れて――…。
 何モ、可笑シナ、事ハ、
 ナイ。

 ―― ゆ う き 。


「? あおい…?」
 誰かに名を呼ばれた気がして、幼い黒豹のような容姿に、渇いた野生を抱く少年は拭えぬ不審に揺れる漆黒とも見紛う深い色合いの視線をあげた。しかし、幼馴染の少女が自分に呼びかけた形跡は感じ取れず、さりとて錯覚とは思い難いリアルさに、祐希は本格的に自身の精神状態を危ぶんだ。
「…気持ち悪ぃな…、ったく」



声は――もう二度と、キコエナイ。



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 古びたジュースボックスからハスキーな女性シンガーのナンバーが流れる店内は、低めに絞られた黄昏色の照明の芯が焦げる音と、マスターの手馴れたシェーカー音、グラスを傾ける音のそれらが混じりあい、絶妙のハーモニーを奏でていた。
 行き着けのBARである【夕闇】は、仲間と騒ぎ立てたり恋人と甘いひと時を過ごすというよりも、孤独を有意義に楽しめる大人の空間だ。心地の良い沈黙。世間の喧騒も現実の煩雑さも、ここには存在していなかった。
(……本当に、これで……)
 カラン、と琥珀で満たされたグラスの中の氷が音を立てて、ダークブラウンの髪を焦燥に乱した男は一気にそれを煽った。
 忘却、もしくは逃避の手段でしかない酒は、苦く、舌の上に痺れを残す。
(…これで…、よかったのか…?)
 黒のリヴァイアスの姫少女は酷く未熟で不安定だ。このままスフィクスとしての成長を見守る案もあったようだ、ゲシュペント奪還作戦時の彼女の暴走により保守案は満場一致で否決された。結局、黒のリヴァイアスを無事に地球まで運んだのは、姫少女の意思では無く――彼であった事が今回の決定の最大の要因なのだ。
(――…、しかし…っ、)
 人類の希望を抱く【灰のゲシュペント】の艦長という名誉の任にある若き人物の、俯いた横顔に苦悩の翳りが色濃く滲んだ。

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「俺は反対です!」
「…騒ぐなよ。薬が効いてるとは言え、万が一アイツ等に気付かれたら面倒だ」
 リヴァイアスの少年達が宛がわれた部屋で眠りにつくのを待って、実兄である灰のスフィクス――レイン・シルエッティールから与えられた『上司としての指令』に、カイリは明らかに憤慨していた。倫理や道義に完全に反した行いだ。大人の事情を汲み取り融通を利かせる事は出来るが、それでも根本が呆れる程に生真面目で誠意と善意の塊のような青年には承服しかねる命令であった。
「――説明した通り、福音計画を止めるのは不可能だ。
 今回の件で姫は揺り籠に閉じこもったまま、外部からの呼びかけには一切応答しない。また暴走が起こった記録も残っている。ネーヤはリヴァイアスのスフィクスとして不適合の判断を下された。――不安定過ぎるんだ。これから先、ヴァイア艦を狙ったテロが繰り返される可能性は高い。その都度に暴走するんじゃ、クルーの安全さえ怪しいもんだ」
「…しかしッ…、それは――確かに、そうかもしれませんが。
 ならば、彼女がある程度安定するまで猶予を――…!!
 ヴァイア研究チームの発表では、レディ・リヴァイアスの精神状態が安定傾向にあると!! 相葉君に協力を仰いでレディの精神育成に力を注げば問題ないはずではありませんか!!」
「――待てない理由がある」
 突きつけられた感情の篭らぬ声に、カイリは思わず息を呑み言葉を詰まらせた。
「……理由…ッ?」
「ああ」
「十五歳の少年の人生の痕跡を全て奪い去って、人類の犠牲をしても良い理由などあるわけないでしょう!!」
 ゲシュペントの若き艦長の訴えは――最早、悲鳴に近かった。
 然して個人的な付き合いも無く、人間関係のレベルで言えば『顔見知り』程度でしかない彼の少年の処遇にここまで必死になるのは、無論、カイリ自身の潔癖な性格もそうだが――自身の無力に嘆き苦しんだ過去を重ねるが故だ。
 それでも、自分には記憶がある、思い出がある、目蓋の裏に浮かぶ懐かしき日々がある。
 彼らからそんなささやかなモノすら奪おうという政府の命令は――到底、受け入れ難い。
「――…そのヴァイア研究チームから、別のレポートが提出されている。通称『ノヴァ・レポート』。報告によれば、六年後には第二の災厄(ノヴァ)が起こるそうだ」
「―――ッ、ノヴァ…。カラミティ・ノヴァが……起こる…」
「人類には最早猶予は無い。安定するとは限らないスフィクスに時間をかけるよりも、新たなスフィクス――福音を求めるのは自然な事だ。違うか?」
「……それは…」
「けど、アイツ等はそれを認めないだろうな。
 昂治を犠牲にしない方法を見つけ出すとか無茶言って、福音を取り戻そうとするだろうぜ。
 けどな、世界政府がそんなガキの戯言に耳を貸すと思うか。ヘタを打てば反逆罪で一生ブタ箱か――最悪、死罪だ。だが、ンな事したら昂治が黙っちゃいない。昂治は自分の『大切な人』の身の安全を要求した。世界政府なんざエゴと保身で凝り固まった連中の集まりだからな。約束を反故にするのは簡単だが、そうなると貴重な福音を失う事になる。ああみえて、昂治は芯が強いからな。裏切りは許さないさ。政府としても、最悪の事態は避けたい」
「……だから、記憶を消す、と」
「ああ。そうだ」
 苦虫を噛み潰したような表情でいる大切な弟に、レインは酷く素っ気無く回答を明け渡した。実に単純明快な仕組みだ。『相葉昂治』という人物に関する情報を全て抹消してしまえば、誰人も彼のスフィクス化を邪魔したりなどしない。抵抗が無ければ排斥も無い。排斥が無ければ、福音の少年の大事な人々は平和な日々を過ごせる。政府は問題無く計画を進められる。一石二鳥――いや、一粒で三度美味しいだろうか。全てが、何もかもが追い風に乗ったように上手くゆく。ただ、余りにも福音として選ばれた少年が――憐れなだけで。
「…相葉君は、承諾しているんですか? 自分の事を、皆に忘れられてしまう事を…」
「ああ」
 忘れられる――大切な人から、愛しい人たちの記憶から己の痕跡を消してしまうのは、どんなにか辛い事だろう。全てを受け入れて頷いたあの愛らしい少年の覚悟は、如何ばかりのものなのか。
「そんな――、そんな勝手がッ…」
 有能そのものに知的で気高い容姿の青年の嘆きは深く胸を抉る。
 計画(ソレ)は最早個人の感傷など届きようも無い遥かな場所で着実に進行されていた。どうしようもないのだ。彼らの立場に同情や憐憫を感じるのは勝手だが、入れ込みすぎて政府に目をつけられれば、最悪、カイリの中の『兄』の記憶すら削除(デリート)の対象となる可能性がある。
「…俺の事、覚えていたかったら、邪魔せずにイイコにしてろよ。ボーイ」
「! 兄さッ…!!」
「俺は昂治を研究室(ラボ)へ送ってくる。
 少しすればKUON(久遠)の科学チームが到着するから、ソイツ等を迎えてやれ。ガキ共は薬で暫くは目を覚まさない。その間に仕込みを済ませる手はずだ。
 いいか、これは上官としての命令だ。逆らうな。分かったな、朔原艦長」
「……、………了解、しました」

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 琥珀を失ったグラスの中に残されていた透明な氷は何時の間にか、すっかり溶けていた。店内に気だるく流れていたジャズナンバーの代わりに、リンリンと涼やかなベルが遠慮がちに、等間隔に鳴らされている。分かっている。これは閉店の合図だ。店に立ち寄ったのが確か23時頃だったはずなので、4時間はこうしていたことになる。これではまるで酒に溺れるダメ大人の見本だ。情けないことこの上無い。自身の体たらくを酷評すると、カイリは緩慢な動作で席から立ち上がった。
(…結局、あの時の榊の言葉についても流されたまま…だな)
 ――十三年前の事故、所謂『ハリス・バリトン』と呼ばれる大規模な宙行事故は、それを知る人間にとっては忘れ得ぬ恐怖だ。当時はまだ軍の養成学校の学生であったカイリも、今でもそれは強く記憶に残っている。宇宙工学の卒業生の記念宙行にと遊泳していた艦が急にコントロールを失って暴走した上に、軍による宇宙演習中であった軍艦と衝突――、更には一般客を乗せた定期運行の移動艦をも巻き込み、人類の半数を死に至らしめたゲドゥルトの海へと沈没した。
(……あれは、酷い事件だった…。
 兄さんが――巻き込まれたって知った時には…、本気で助けに行くって思ったな…)
 今思えば、あれが若さゆえの無謀というものなのだろう。
 生命活動の一切を許さぬ死の海に沈んだ兄弟を、たかが十五かそこらの無力な学生が、どうやって救い出そうと言うのか。しかし、あの時は本気だった。手段も経過も考えずに、ただ助けにいかなければの思いだけで一杯になっていた。まさに、二次災害の典型的なパターンだ。
「………」
 ――あの日、福音となるべき少年を連れて部屋を出た兄は、結局それから戻らない。
 軍や関係組織に掛け合ってみても、機密情報であるため黙秘の一言で、行き先すら知りようが無いのだ。スフィクス化すれば、未来永劫の時を独りで在り続ける事になる。行き過ぎる時間と共に年月を重ね、共に老い、そして共に朽ちる。それが『人間』としての本来の在り方だからだ。
 ヴァイアの意思と融合すると言うということは――全て於いて取り残され、また逆に、全てを置き去りにすると言う事なのだ。それが如何ほどの苦痛を伴うのか、最早、想像すら追いつかない。
(……政府の命令は絶対だ。今更覆る事など無い…)
 あの少年は人類の希望を背負った黒のリヴァイアスのスフィクスとして新生するのだろう。転身・化生に必要とされる期間も定かでは無いが、そう遠い未来の事では無いのは確かだ。そして、彼の記憶は人々の中から消し去られてしまう。人類の未来を次代に繋ぐ為とはいえ、たった一人の少年が背負い続けるには余りにも宿命は重い。福音――単なるスフィクスではなく、人類の――希望。誰人も代わる事など出来ない、絶対的な運命。

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 黒の姫少女は眠り続ける、揺り篭の中。
 世界は、痛みを忘れて、回り続ける。
 大切なひとを失った悲しみに、気付けぬまま。
 時間だけが無情に行き過ぎて――…。






 ひとは、
 ひとの、せかいは、
 ゆっくりと、こわれてゆく。


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2007/08/29 初稿


 灰のヴァイア ――了――
  Next 緋のシュレイディル