act.1 虚う世界
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 反連邦組織【神唄(リ・ニオン)】によって起こされた灰のヴァイア略奪。その奪還を目的とした作戦から――二年の月日が世界には流れていた。
 世界有数のヴァイア艦のうちの一隻である黒のヴァイア・リヴァイアスはその日より機能を完全停止。核となるべき多面結晶が輝きを失わず息づく様子から、それは【死】では無く【休眠】なのだと種を違える人類へ知らしめたが、次の目覚めの時期すら定かでは無い現状――彼女の覚醒を待ち続けられる時間は――ひとには、残されていない。
 刻々と迫りくる終末に脅える人類(コドモ)地球(マザー)の亡骸に縋りつきながら、日没を嘆き、夜明けに盲いた。しかし、既に優しい母の両腕(かいな)は喪われ、息絶えた指先では僅かの温もりさえ幼き子へ与えられず。
 人類(コドモ)は、地球(マザー)の亡骸からの旅立ちを決意した。
 しかし、人類が漕ぎ出す海原は途方もなく広大であり、悲しきかな、かつては偉大なる父と仰いだ存在が、嘲笑と罵倒を共に愛する子らへ血濡れた刃を躊躇も無く薙ぎ下ろす。死へと結する断罪。慈悲無き太陽(ちち)の制裁は虐待と同義であり、子は救いの手を望む。
 救い――、【滅亡】という絶対的運命を打ち砕く唯一の希望として、それは蜘蛛の絲の如く脆弱に儚く銀色に煌めいて、今にも途切れそうになる未来への道筋を必死に追い求めるは――永遠の罪人(とがびと)達よ。

 今―― 人類の福音が、 目覚める 

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 黒のリヴァイアス――、かつては人類の希望として謳われた方舟は、灰のゲシュペント略奪事件――俗に言う『ゲシュペント事件』より人類との対話を放棄。それがリヴァイアスを繰る黒姫(ティターニア)の意思に因るものなのか、活動限界を迎え休眠時期を迎えたのかは異種族である人類には知る由もない。しかし、如何な理由であれ、ただ無為にヴァイアの目覚めを待つばかりでは、滅びの陰鬼に追いつかれて骨も残さず喰われてしまう。  生き続ける為の手段を、必死に求め続けた人類(コドモ)が。
 そうして、見つけた唯一の(よすが)
 生命細胞の崩壊を引き起こす悪魔の海――ゲドゥルトを越えて往ける、希望の(ふね)
 そして人々を普く未来へ導く、唯一無二の存在(ひかり)――… 
 人類という傲慢な種から選びだされた、憐れな生贄―― 大いなる   福音

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 反地球連邦組織を謳う組織は規模の大小・掲げる理想等の違いはあれど、世界中に潜伏している。連邦政府が把握するだけでも、その数は尋常では無い。しかしながら、実際に正面から戦いの狼煙を上げた組織は両の指で事足りる。その中でも、二年前の【ラビット・グレイ事件】の実行犯を有する組織【神唄(リ・ニオン)】は別格だ。テロ行為自体は失敗に終わったものの、地球連邦政府へ十分な脅威を植え付けた彼らの存在は、世界各地に点在する各反政府組織の牙の象徴として格付けられた。
 ――…逆に言うなら【神唄】の主犯を捕らえ犯行グループを解散させられたのであれば、世界各国の反政府組織の気概を一気に削ぐ事が可能だ。それ故、政府はその威信に懸けて事件の全貌解明を目指したが、尽力するも解決には至らず、その正体すら見極められずに既に二年の時を無為に費やし、またその事によって【神唄】の存在は最早伝説と化していた。
 二年――、【ラビット・グレイ事件】最大の功労者である黒のヴァイアに愛される子どもたちは、レディ・リヴァイアスの人工的な覚醒は困難であると判断を下された一年と半年前に、完全にヴァイアの呪縛から解放された。二度の事件を経ても尚、宇宙(そら)への未練を断ち切れずに、宙行士や宇宙技工士、宇宙艦添乗員(スペースアテンンダント)といった当初の道を目指す者も確かに存在したが、多くの子ども達は、宇宙を見上げる事を止め違う人生を模索していった。
 ――…無理からぬ事ではある。
 大規模な反政府テロ【ラビット・グレイ事件】は実際に事件に巻き込まれた子の数こそ限られるものの、その被害は甚大。艦長を勤めていたルクスン・北条は一命を取り留めたものの、現在もリハビリを要する大怪我。一時は生死の境を彷徨い、その生命を危ぶまれた。また、副艦長として最後まで大義を見失わずに気丈に艦員を守り抜いた少女――、ユイリィ・バハナも、精神的に大きな痛手を受け、政府の強い推薦にも関わらず二度と宇宙を望まず、美しき翼を手放した。
 そんな中、VGのパイロット部署へ所属していた若干二名に関しては、その適正を高く評価され、他の子等と同列に生き方の選択を委ねられはしたが、その実、半強制的な計画への協力要請が存在した。無論の事、両名とも政府の横暴へ反発を覚えはしたが――、それ以上に有史以来の歴史の常識を覆す新たな種である『ヴァイア』及び、それらとの共生を目指す計画への興味から、軍属へと成る道を択った。
 人類救済を目的とした『新天地計画』は、その活動内容に戦闘が含まれる事から軍機関へ所属しているが、通常の【軍】とは位置付けや扱いが異なり、特殊機関として独立の様相を見せる。名目上【宙軍事司令部】配下【有史相互発展機関】――通常HFと呼ばれる機関に所属する彼らは、特にVGのパイロット適正を認められた花形部署の【一型機動部隊】の人物達は、軍の中でも一目おかれ、厚遇されていた。

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「…くそ、クラクラすんな」
 かさ張る荷の多くは軍の流通課に任せて先に運ばせている為、黒革のショルダーバッグひとつという身軽さで、青年――【一型機動部隊】の部隊長である相葉祐希は貨物列車の出口で悪態を吐いた。
「ゆーきくーん? 何ぼーっとしてんの?」
 その背中をとん、と押すのは同部隊所属であり、事件からの二年の間に親友の間柄にまで関係を昇華した片腕――副隊長の尾瀬イクミだ。上質なペルシャを連想させる灰色の猫ッ毛は、二年の歳月で背中まで伸び、ひとつに括られて揺れていた。蛇足ではあるが、ペルシャ猫は今や希少種となり、図鑑の中でしかお目にかかれない代物だ。
 その髪で、蝶と愛らしい小花を象った翡翠石の髪留めがキラキラと輝く。十八にもなる男が着けるものじゃないが、甘いマスクの優男といった風体の悪友は何故かこういう女性向けの装飾品ばかりを女性士官から受け取る。
 受け取ってそのままにすればいいものを、律儀に使用したものだから、可愛いと評判になり、次々と同機関の女性達や――、悪ノリした連中からのプレゼントで尾瀬の部屋は一部占拠されている。
「うっせぇよ。それに、その呼び方ヤメロ」
「はいはーい。わっかりましたよ、上級大尉殿」
「…尾瀬」
 元から気の短い黒髪の青年は分かり易く機嫌を下降させ、逆に愛想の良い性質の翡翠の瞳の悪友は、上機嫌に肩を揺らした。
「あははは、ごめんごめん。さ、早く行っきましょー。祐希クン?」
「……ったく。なんでテメェは機嫌がいいんだよ。イクミ」
 するりと脇を抜けて前に飛び出した自分より聊か程背丈の高い部下の背中を軽く睨みつけ、溜息と共に、上級大尉の任にある剣呑とした目付きの青年は八当たり気味にぼやく。
 人類の未来も希望も一瞬にして呑み込んでいった人類最大の悲劇【第三世界大災害】によって、地上は大きく姿を変えた。激変の時代の中で多くの都市は一からの復興を余儀なくされ、この辺境高山都市『アルベレッタ』も、そんな新興都市のひとつだった。急場凌ぎの街並みを足早に通り過ぎてゆく人々の大半は、この土地の人間では無く、連邦政府が派遣した人材だ。『都市』としての最低限の機能と体裁を整えただけのこれらは、その余りの空々しさから総じて『空都』と揶揄られる。
「えー? だって、半日列車に揺られるレトロ調の旅なんて、このご時世なかなか味わえないっしょ? 俺はそれなりに楽しめたけどー?」
「…このお気楽太平バカが」
 悪態と共に溜息が漏れる。柔軟に状況を楽しめる前向きな思考は、死を身近に感じる部隊にあって得難い資質ではある。その一方で度を超えた能天気さに苛立つのも事実だ。もう一人、こんな暢気馬鹿を知っていた気がすると、ふと――…思考の端を何かが掠めてゆく。
「…祐希?」
 少し先に進んだところで新人と思われる駅員に何やら尋ね聞いていた尾瀬が、突然無言になって立ち尽くす上官を気遣い、踵を返して声を掛ける。その口調に畏れや緊張は無く、互いに気心の知れた仲である事が窺えた。
「どーかしましたか〜? もしもーし?」
 無遠慮に覗き込んでくる翡翠の瞳を邪見に払うと、上級大尉の任にある若木のような肢体の青年は、何でもないと仏頂面で低く応じる。そんな子どもじみた仕草に、尾瀬は軽く肩を竦めて微苦笑を浮かべた。
「ンだよ」
「んーにゃ、別にぃ〜」
 周囲の軍属に比べて体格は確かに見劣りするが、二年前から随分鍛えられた肉体はしなやかで強靭だ。VFを自在にする戦闘パイロットとして資質の高さは無論、身体能力も抜きんでおり、荒削りな雰囲気はそのままに精悍さが加味された頼もしい上官は、それでもこうして二人だけになると年下の親友の顔を覗かせてくれる。それが、酷くくすぐったい気持にさせてくれる。
「さ、いきましょっか。隊長?
 駅員さんに聞いたんだけど、この辺ってあんまし交通の便が良くないから、一本バスを逃すと次まで一時間とかザラみたいだよー。成るべく早くついた方がいいっしょ? もうひと頑張りってね」
「……わーってるよ。ッたく、レインの野郎。ンなトコまで呼びつけやがって」
 レイン・シルエッティール特務中佐――…、世界の混乱を避ける為現在を以て秘密裏に進められる全人類救済を目的とする【新天地計画(プロジェクト・ホーム)】の主要人物の一人であり、特別階級・銀(シルバー・クラウン)を頂く――…灰のゲシュペントを司る唯一無二の『スフィクス』、だ。
「まぁまぁ、お勤めは大事だよ。そうブツブツ言わない」
 相葉や尾瀬が所属する【一型機動部隊】は計画を担う【ヴァイア機関】の直轄であり、その機関でも重要なポストに在るレイン・シルエッティール特務は直接的な上官だ。しかし、二年前のテロ事件を共に解決へと導いた絆は今も健在であり、機動部隊に所属する二人とは憎まれ口を叩き合う仲である。
「で、バスは何時だよ?」
「んー、時刻表じゃ二十分待ちかな」
「……ド田舎が」
「仕方ないっしょ。本当にド田舎なんだし」
 群青の瞳に掛かる長めの前髪を払いながら、うんざりとした様子で舌打ちする上官に、尾瀬は軽く宥めた。二年前には不条理な社会の道理も知らぬ存ぜぬで要られた少年も、何時までも幼いままではない。今となっては、一部隊の隊長を任される十七の立派な軍属である。正義という薄っぺらな大義名分を盾にする、狡猾な組織の色に迎合するだけの駆け引きも覚えた姿に成長を感じる。今の彼を見たら――…は、きっと色々な意味で目を丸くして驚くだろうと、浮かべた苦笑をひたりと凍りつかせた。
(……また、 … )
 何時頃からであるのか意識した事は無いが、僅かな欠片が記憶の表面を傷つける瞬間がある。
 確実にその頻度は落ちてきているが、決して消えない違和感と鈍痛。
 『それ』の正体は依然と知れぬままで、しかし、何故かその異常を第三者へ語る気にはならない。
「…イクミ?」
「あ、はいはい。ゴメン。ぼーっとしてた」
 笑顔で誤魔化す。昔は結構仲が悪かった――というか、一方的に突っかかられていた相手だが、今は互いを気遣う程には懇意だ。こうしてファーストネームで呼び合うのも、二年前なら全く考えられなかったが、一型機動部隊の隊長と補佐という関係となってから、変わった。それは決して不快なものでは無く、人の悪意や憎悪といった負の感情を苦手とする繊細な青年にとっては、歓迎すべき状況だった。
「お前こそ、疲れてるんじゃねぇのか。ずっと妙なテンションしてただろ」
「あはは、大丈夫大丈夫。
 さ、行っきましょー。祐希」
「…わかってる。いくぞ、イクミ」
「はいはーいっと」
 癖の強い黒髪、しっぽは長く伸ばされて解くとある種の色気を漂わせるから、タチが悪い。幾分大人びた野生的な二枚目の隊長殿は、相変わらず態度も目付きも最悪。ヴァイア機関の存在は部外非。一型機動部隊も対外的には特殊部隊の一つに過ぎないが、一部隊の隊長には過ぎた階位と権利を与えられる『相葉上級大尉』の存在感は、その容姿と能力の高さも相まって軍でも抜きんでいる。これで愛想も一つも身につけたのなら無敵だろうに、と尾瀬は肩を竦めてバス停へと歩き出した上官の後を追った。

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 平日の昼下がりの駅前は、人の姿も疎らで――閑散とした地方都市の姿を如実に物語っていた。駅前のロータリーには客待ちのタクシーが二台程。無論、ガソリン車では無く、エコエンジンを搭載したタイプの四輪駆動自動車だ。バス停は目の前にあり、日陰に据えられた古臭いベンチに相葉は遠慮無く腰を下ろす。長い足を高々と組み背凭れに偉そうに体重を預ける姿は場末のチンピラそのものだ。
「あのね…、ゆーき君」
「あ? なんだよ」
「いや、別に…」
 仮にも政府軍の『上級大尉』の姿では無い。補佐役としてどうあるべきか軽く悩んだ挙句、ほぅと遠慮がちな吐息を洩らし、ベンチの背で揺れる黒髪を片手で掬いあげて、指先で梳く。
「…なにしてんだ」
 案の定、不機嫌そうな声と表情に、尾瀬は苦笑で応じた。
「ん? ロクに手入れしてないのにキレイだなーって思って」
「余計な世話だ。触ンな」
 ぐい、と自身の髪を乱暴に引き寄せて不貞腐れる上官に、尾瀬は、ハイハイとお手上げポースでおどけて見せる。こうしていると年相応の若者だ。この姿から彼が【一型機動部隊】の隊長であるとは誰も思いつかないだろう。無為な血が流れゆくだけの戦いなど、知らずに要られたのならそれに越した事は無い。けれど、自身も含め彼は【軍属】として生きる道を選んだ。
「…今更なんだけどさ、祐希」
「あ?」
 多少なりとも旅の疲労は感じているだろうに何故かベンチへ座ろうとせず、春の息吹を感じさせる優しい眼に遠くを映したまま、尾瀬は静かに疑問を口にした。
「なんで政府の申し出を承諾して軍へ入隊したんだ?」
「ンなの決まってンだろ。VGに興味があった。それだけだ」
「…戦闘に駆り出されて死ぬかも知れないのにー?」
 相葉には心を砕いて想ってくれる母親や常に身を案じてくれる幼馴染の少女がいる。決して無下に取り扱える命では無いだろうに、平和な陽だまりにある日常から、作為も無くただひたすらに差し延べられた温もりの腕を振り払い、敢えて争いの道を択るなんて地球(マトモ)な環境で育った人間の判断とは思えない。
「…妙に絡んでくるじゃねーか、俺が上官じゃ不服かよ」
 尊大な態度で面倒そうに応じる言葉の端に僅かな本気を嗅ぎ取って、尾瀬は慌てる。決して、この気難しい上官の機嫌を損ねたいわけではない。勿論、不満を感じているなんて事も無い。寧ろ、連邦政府という巨大な組織の中にあって、親友である相葉の隣は心地よさすら感じられる場所だ。
「とーんでもない、俺は隊長が祐希で良かったと思ってるよー?」
「…胡散臭ェんだよ。お前は」
「ひっどいなー。信頼のおける上官は貴重だし、これでも軍に来てくれて感謝してるんだけどなー」
 おどけた仕草で感謝などと口にされても白々しいだけだ。副官の謝辞を鼻先で笑い飛ばすと、上級大尉の任にある青年は、お前こそ――…、と返した。
「お前こそ、なんで軍に入ったんだ」
 手元のエコ・ドライブが搭載されたロジック調の時計の針の先をチラリと伺いながら、長い黒髪の青年は向けられた問いをそのまま当人へ戻した。此方ばかりでは不公平だと言わんばかりの不貞腐れた態度に、尾瀬はふわりと頬笑みを浮かべた。
 ――…幼い態度は二年前と変わらない、それが酷く掛け替えない事のように思えて、心が弾む。
「んー、俺は正直VGにはあんまし興味なかったんだけどさー。断っても良かったんだけど、レインと朔原さんにマジ頼みされちゃったし、別に一生拘束されるってワケでもないし。ま、いっかーって感じかなぁ」
「ま、いっかー。で決めてンなよ」
 呆れ気味の上官の言葉を、透き通る肌の中で輝く翡翠の双眸に複雑な感情を織り交ぜ、やんわりと受け流す。
「まぁまぁ、別にいいでしょ? それに、俺が副官で良かったんじゃない?」
 ん? と、得意気な様子で小首を傾げてくる優秀の二文字が相応しい補佐。その姿を厭うように一瞥すると、上級大尉は憮然とした表情で言葉を呑んだ。
「素直じゃないなー。ま、いっけどさ」
 無言は肯定の証だと理解するが故の余裕に、相葉は年上の副官を激しく睨みつけた――…が、知りあってから二年、互いに信頼を寄せる間柄の今となっては、全く効果は無い。それどころか、何時までも意地っ張りが抜け切らないと、窘められるように苦笑を浮かべられる始末で、相葉は居心地の悪さに悪態を吐いた。
「…うっせーよ、ニヤニヤしてんな。ナンパヤロウ。テメェなんざ、痴情のもつれで刺されちまえ」
「うわ。何、それ。具体的ッ。生々しいッ。やーらしいなぁ、この子ったら」
「何がやらしいだ。この節操無しの種馬ヤロウが」
「…ゆーき君からそういう言葉を聞くと、なんだか感慨深いものがあるなぁ」
 うんうん、と的外れなところに感心して頷く輝く蝶飾りを身につけた片腕の青年に、相葉は呆れ果てた様子で溜息を吐く。
「否定しろよ、…ッのバカ」
「えー、だってー。…祐希は知ってるデショ?」
 悪戯っぽく瞬く少年の瞳に刹那に閃く色の深さ気付き、己の軽挙を後悔する黒髪の青年だ。
「…悪かったな。けど、お前――…いい加減適当に相手を見繕えよ。
 ホイホイ誰にでもいい顔するから、ンな事になってんだろ。
 しまいにゃ逆恨みした連中から陰口や嫌がらせなんざ、アホくせぇな」
 雪結晶の如く白い肌、愛おしい翡翠の眼差し、以前より色素の薄くなった髪は銀色に近い色合いで、昔でも巧みな話術と手管で数多の異性を虜にしてきたが、二年の間の成長と軍属勤めによって妙な色香を操るようになった副官は、周囲の人間を男女を問わずに魅了するようになった。
 施設のそこかしこで言い寄られる姿など、最早見飽きた光景と化している。その都度相手に気を持たせるような断り方をするものだから、一度は振られたくせに未練を引き摺る者も多く。そんな連中同士での言い争いから、殺傷事件にまで発展しそうになった事がある。
 無論、それらは尾瀬にとって全く自身の意向とは懸け離れた出来事であり、彼に何ら非が存在するわけではないが、噂とは何時の時代も無責任なもので――…、『尾瀬イクミ』の名前だけが鏡像の如く一人歩きして、まるで破滅の美貌と悪評が立ってしまっている。
「あはは、いざとなったら『相葉隊長とデキてまーす』って言っちゃっていい?」
「――…俺を巻き込むな。アホ」
「えー、冷たいなぁ。上官は部下の面倒を見るもんでしょ?」
私生活(プライベート)まで知るか。只でさえ、勝手に曲解した連中に何癖つけられてンのに、そんな事言われてみろ。面倒が何倍にも膨れ上がる」
 呆れ顔で背中に張り付いてくる副官を見遣って、相葉は成長期を経て逞しさを増した肩で重みを邪険に振り払う。
「退けよ。そろそろバスの時間だ」
「はいはーい」
 人に慣れ過ぎて甘え癖のついた猫のような銀灰色の髪の副官は素直に戒めを解き、ベンチから数歩下がる。第三世界大災害(カラミティ・ノヴァ)の影響によって全世界の低温化したまま。高山地帯にある『アルベレッタ』は真昼の時間であっても、少し肌寒い気候だ。枯れたような街並み降り注ぐ日差しも斜陽を思わせる儚さで、真夏独特の灼ける強さは微塵も感じられない。
「…夏なのに、ちょっと寒いねー、ここ」
「そりゃまー、海抜高いし。でもそこまで寒くないと思うけど?
 祐希なんて半袖じゃん。おっ前、元気だなー」
「そこのアホとは鍛え方が違ェんだよ。一緒にすんな」
「アホとはひどいなー、アホとは。俺は何処かの鍛練マニアとは違って繊細なんですー」
 前開きの黒のジャケットを長い指先で掻き合わせ、首を竦めて反論する副官の様子一瞥すると、責務を伴う軍属となり粗野な魅力の中に格調高さも供えた青年は、鼻先で抗議を笑い飛ばした。
「パイロットが繊細なんざ、何の冗談だ。軟弱な部下なんざ、使えねーにも程があるぜ」
「報告書作成で俺の世話になってるくせに、どの口でそんな生意気を叩くかねー」
「ん? 報告書作成? お前ら、そんなのあるのか?」
 一型機動部隊はVFのパイロット部署―― 所謂、実働部隊だ。『部隊』として組織に組み込まれている以上は、勿論ある程度の現状報告は求められるだろうが、そこまで手間と工数の発生する煩雑な報告書提出が必要であるとは考えにくい、と疑問形で投げ掛けられた言葉に、尾瀬は微苦笑で応じる。
「まー、平隊員なら要らないんだけどさー。祐希はこれでも一応隊長だし、上級大尉の肩書もあるから、隔月部隊報告会の参加義務があってね。それに提出する報告書が結構面倒なんだよね。どーせ、メタボ連中に見せたってなーんにもわかりゃしないのに、無駄シゴトってヤツ?」
「うっわ、めんどくせー。そういや、アイツもそういうのがあるからって時々カンヅメで報告書作成してるわ。俺、ホンット、番外扱いで良かったわー」
「なんだよ、番外扱い――… 、 …… 」
 明らかな異常に漸く気付いて、軍属と知れぬように私服で移動中の自分達からやや斜め左後方を振り仰ぐ黒髪の青年は――…その瞳に、二年前と微塵も変わらぬ姿を認めて不機嫌そうに眉根を寄せた。

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 灰銀色の髪に翡翠の瞳の儚げな、黒のジャケットを羽織ったフォーマルスタイルの青年と、レザーベルトを幾重にも重ねたブラウンのウェスタンブーツが印象的な、荒削りな雰囲気の青年の、二人の若き軍属は、アルベレッタ市街地から車で二時間弱の場所に建設される『国立製薬研究所』の応接間とおぼしき部屋へ通されていた。
 上品な黒革のソファは二人掛けのものが二つ、互いの間にスリムなソファテーブルを挟み、向かい合うように配置されていた。フローリングの床を傷つけないようにと下敷にされた絨毯は淡い色合いのリーフ刺繍が施されており、壁際の観葉植物は窓からの陽射しで緑を輝かせている。
 室内は絶妙に適温――…不快指数ならぬ快適指数がグングン上昇中となっており、ついつい瞼が重くなる。そっと左隣を伺えば、一つ年下の上官が腕を組んだ格好で険しい表情をしていた。
「どうかしたー? 難しい顔して」
 眠気覚ましのつもりで軽く声を掛ければ、思わぬ激しさの威嚇の視線が突き刺さり、思わず首を竦める。そんなに力一杯睨まなくてもいいのに、と嘆息する一方で、これが彼なりの『甘え』からくるものだと理解しているだけに、嬉しくもある副官だ。信頼を寄せるからこそ、年相応の顔を見せてくれる上官は、尾瀬にとってモノトーンにしか映らない世界に、鮮やかな色を与えてくれる得難い存在であった。
「早く用件済ませて帰りてーんだよ。元々、俺らへの制約はヴァイアに関する事に限るって契約だったはずだ。それを急に呼び付けるなんざ、どういうつもりなんだか。あのヤロウ」
 荒っぽい口調はとても上官に対するそれでは無いが、レインに対しては体裁を繕う必要の無い仲だ。無論、第三者の目があれば相葉とて自重してみせるが、幸いにもというか、この部屋には二人だけという絶好のロケーションであり、悪態を聞き咎める者は存在しない。
「まーまー、だからきっと今回の呼び出しは『それ』なんだと思うよ〜? レインは組織へ迎合するタイプじゃないっしょ。それに、スフィクスなあの人に指図出来る人間なんかいないし。レインの意思で俺達はココに呼ばれた。そう考えるのが妥当じゃない? この施設だって、対外的には製薬研究施設だけど、ホントは軍のヴァイア研究施設なんだしさ」
「……ンなの、わーってんだよ」
 納得いかない、腑に落ちない、とありありと顔に書かれてある聞き分けの悪い上官に対し、翡翠の双眸も麗しい青年は、柔らかく微笑む。
「…それだけじゃないっしょ?」
「あ?」
 意味深に問われた言葉の意味を捉えかね、左隣に姿勢良く座る補佐を睨みつける相葉は、思わぬ距離に人の悪い微笑みと悪戯な瞳を認め、ギクリを肩を強張らせた。
「それだけじゃないよねー? ご機嫌ナナメの理由。
 ここに来ると、逢っちゃうかもしれないもんねー。なんせ、レイン特佐の護衛だし?」
「……イクミ、テメェ…」
 どうやら図星であったらしく、絞り出される声はこの世のものと思えぬ程にドス黒く禍々しいオーラを纏って響く。殊に、VFの操縦に於いては天才的なスキルで他を圧倒してみせる敬愛すべき上官は、何時まで経ってもある人物への敵意を思い出として昇華出来ずにいる。人とは、忘却の生き物であり、如何な感情も時間の経過と共に静かに風化してゆくものだ。逆に、そうでなければ、人は未来へと生を繋ぐ事が困難になる。過去の出来事を抱え続けるのは、生き物としての生存本能に反した行為であるのだ。それ故、相葉のこの執念には呆れを通り越して感嘆の念すら覚えてしまう。
 ――…どうであれ、この執着が周囲にとって迷惑である事には代わりはないのだが。
「いーかげん、大人になろうねー。祐希君。仮にも上級大尉が乱闘騒ぎを起こしちゃマズイっしょー? もう、リヴァイアスの時とは違って互いに立場とか面子ってモンがあるんだしさ」
「うっせぇんだよ…!」
 全身の毛を逆立てるようにして憎々しさを吐き捨てる黒豹のような容姿の上官へ、尾瀬は軽く両肩を竦めた。『彼』とは所属部署や配属先の違いから二年前のゲシュペント奪還作戦より一度も顔を合わせていない。おそらく彼にも同じように軍から協力要請が行われただろう。いや、要請では無く完全強制か。辛うじて未来の選択を委ねられた此方とは違い、『彼』には大きな罪状があり、罷免措置としての提案であったに違いないと、尾瀬は確信していた。
 ――…しかし、喩えそうであったにしろ、いや、そうであるからこそ、どうにも腑に落ちない。
 『彼』の人の生き様は美しく、到底、免罪をエサにする政府如きが飼い馴らせるものでは無い。
 誇り高き真の野生は、自身の力と信念に準じて孤高を往くものであり、決して人へ媚びたりなど。
「…俺は結構楽しみだけどなぁ」
「あ?」
 怪訝そうに睨みつけてくるお子様な上官に軽く肩を竦めて、翡翠の瞳も麗しい上級中尉は老若男女構わず籠絡する魅惑の頬笑みを履き、楽しげに続けた。
「だって、二年だし。結構変わってたりするのかなーって。絶望的に無愛想なのは一緒だとおも…」
 コンコン、と折り目正しいノックの音に、尾瀬は無駄話を止め、悪友でもある上官に目配せすると二人揃ってソファから立ち上がる。ピンと伸ばされた背筋が美しい直立姿勢で、扉へと向き直るまでの無駄の無い動きは、彼らが訓練を受けた軍人である事を如実に物語っていた。
「――朔原です。入りますよ、相葉君。尾瀬君」
「…朔原さん?」
 軍属としてヴァイア計画に携わり始めてから、身近な存在となった灰のゲシュペントの艦長の名前に、尾瀬は気を抜いて、どうぞーと間延びした返事を口にする。と、同時に背後の上官はソファの上に遠慮無く坐り直す。尾瀬は迷った挙句にひとまずそのまま朔原艦長――、二年前のテロ事件を切欠に懇意となったカイリ・朔原の入室を待つ。
「お待たせしました――…、二人…だけですか?」
 扉を開けて現れたのは予想に違わず、ダーク・ブラウンの髪をオールバックに纏める落ち着いた雰囲気の美丈夫だった。製薬研究所という名目に矛盾しないように、やはり彼もまたこの施設では普段の艦長服ではなく、上品な紺色のスーツに丈の長い白の衣を羽織った姿だ。軍属であるにも関わらず白衣を違和感無く着こなす様子に、顔がよくて足が長いとくれば、何でも似合うものだと感嘆のうちに逆に問い返す尾瀬だ。
「そーだけど、なに? まーた、レインを探してたりする?」
「アイツなら、俺等にここで待っとけって言って、テメェは何処か行きやがったぜ」
「…そうですか、全く…、仕方の無い人だ。――失礼」
 一瞬、逡巡を見せた灰の艦長である青年は、白衣の胸ポケットから薄型携帯端末カードを取り出し、呼び出しをかける。二、三度同じ仕草を繰り返し、諦めた様子で端末を元の場所へ戻した。
「彼がいなくても然程困りませんから、いいでしょう。
 尾瀬君も、どうぞ楽にされてください」
「りょーかい」
 明るく応じて、ぽすっ、とソファへ沈み込むやわらかな銀灰の髪の下士官へ、朔原は過去を懐かしむように瞳を細める。
「…なんだよ」
 その微妙な変化を剣呑とした目付きの上級大尉に様子を見咎められて、灰のゲシュペントの艦長――…、ヴァイアの精神汚染を免れる唯一の存在である朔原は、子どもの癇癪を宥めるように、穏やかな微笑みで応じてみせる。
「…無礼はお詫び致します。また、背が伸びましたね。尾瀬君」
 灰のゲシュペント奪還作戦より経る事二年――…、スフィクスという圧倒的な異質である悪魔の如く魅惑的な美貌の青年と、その実弟であるらしい灰の艦長である、性格、能力、人望と何れも非の打ちどころの無い完璧な人格者ではあるが、自由奔放な兄の存在だけが悩みの種だ。
「お、わっかるー? 今、175pなんだよねー。もうちょっと欲しいんだけど、そろそろ成長が止まってる感じなんだよね。流石にもう伸びないかなー? 朔原さんはどれくらいだっけ?」
「私ですか? 183pですよ」
「83かー、俺もそれくらいほしーなー」
「余り高くなっても不便ですし、今が丁度良いと思いますよ」
「そっかなー? にしても、朔原さんは変わらずカッコイイよねー。もてて、しょーがないんじゃない? 美形で紳士で頭脳明晰、これで肩書が『特務艦隊責任者』となれば、引手数多っしょ」
「――…そうでもありませんよ」
 ほんの僅かに困惑を滲ませて、ダーク・ブラウンの髪の軍属は場を取り繕うように笑顔を浮かべた。口にした謙遜の言葉は嘘でも真実でも無い。異例の若さのスピード出世に周囲は色めき立ち、凛々しく将来有望な青年は、常に異性、同性問わずに嫉妬と羨望の入り混じった視線に晒されていた。その中でもひと際陰湿な者達からは『スフィクス憑き』と吹聴され、一人歩きする悪評のお陰で声を掛けてくる人間は殆ど存在しない。
 権力や金銭目的で近付く俄か隣人を労せず追い払えるという副次効果は、正直有難い。少々複雑な心地ではあるが、任務へ支障を来さぬ範囲であれば彼らの行為は寧ろ歓迎ですらある。
「私は、少し難しい立場にいますからね。それより、お二方……特に、尾瀬君はイロコイの噂が絶えないと聞きますよ。ほぼ隔離状態のこの場所まで武勇伝が届いていますが?」
「あ、あははー…。やだなぁ、こんなトコまで筒抜けなんだ?」
「…派手にやってンのはコイツで、俺は関係ねェぞ」
 面倒そうに右側に座る副官を一瞥して、相葉は大仰に溜息を吐く。その長さと重さに上司の苦労の一端が覗え、自身にも覚えのある感覚だけに、朔原は同情を禁じ得ない。
「って、本人が硬派気取っちゃってるもんだから自覚は無いけど、もてるんだわー、これが。
 こンな無愛想なのの、何処がいいんだろうねー」
 灰銀色の髪に蝶の装飾がひどく良く似合う綺麗な青年は、やれやれと頭を左右に振った。その何気ない仕草で、ふわりと髪が揺れ、仄かに甘い香りが鼻腔を擽るのに、相葉は片眉をあげる。
「…ウッセェよ。大体お前、香水はヤメロっただろ。何、甘ったるい匂いさせてンだよ」
「えー、でも貰っちゃうし。使わないと、勿体無いっしょ? それに、今つけてるのはオレンジ・スカーレットの香りだし。そんなに嫌な匂いじゃないと思うんだけどなー。こないだのストロベリーバニラより良くない?」
「………」
 ね? と、上官の不機嫌もなんのその、笑顔を振り撒く補佐へ、精悍な顔立ちの中に少年の面差しを残す青年は、無言でその小さな頭を無造作に掴んで、強引に引き寄せる。戸惑う尾瀬にの様子には一切構わず、耳朶の辺りから項に鼻先を擦りつけるようにして、香りを確かめる。
「…甘ェ」
 そして、率直な感想を突きつけると同時に、用件は済んだとばかりに距離を戻す。
「けど、キライじゃねぇな。前のより、断然コッチのがいい」
「…そ? なら、暫くコレ使おっかなー。前のもいい香りだったんだけどね」
 無頓着な接触に尾瀬は微苦笑を洩らしながら、直ぐ傍らにある温度に愛おしさを募らせる。自分とは違い、相葉は他者への警戒が強く、触れ合いは好まない。しかしこうして、自ら手を伸ばしてくる。――…縛る言葉は無い。重すぎない信頼。求め過ぎない依存の関係を、尾瀬は酷く気に入っていた。
「どうせ使うなら俺が好きな香りにしろ」
「…了解。相葉隊長」
 サラリと凄い発言をしている事に気付いていない。天才と呼ばれるだけの才能の持ち主のくせに天然な年下に、儚く甘い風貌で色恋の噂話の絶えない惰性の軍属は、呆れながらも了承とばかりに両手をあげておどける。
「………」
 ――そして、そんな二人の青年の遣り取りを黙って見守るのは、灰のゲシュペントの艦長の肩書と宿命を背負う有能と名高い軍属だ。目の前で繰り広げられた光景に、些か眩暈を覚える。こんな睦言紛いの言葉遊びや甘い接触を所構わず披露しているのであれば、事実無根であったにしても、噂になるのは当然だ。
「…本題に入っても?」
 数秒思考を停止させていた灰の艦長だったが、直ぐに気を取り直し、控え目に切り出す。華々しい恋の話ばかりを色鮮やかに咲かせる尾瀬特務中尉と、その上官にあたりながら、浮いた話とは無縁であり、ひらすらにVFの機能や性能へ魅せられる堅気な相葉特務大尉の組み合わせは、ヴァイア機関の中でも有名だ。二人とも人並み以上の容姿と能力に恵まれている事が最もの要因ではあるのだが。
「ん? ああ、そうだな。レインのヤツもこねぇし。サッサと本題とやらにはいってくれ」
「ええ。――実は…」

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 【有史総合発展機関】

 ――…所謂、ヴァイア機関と呼ばれる政府組織は、三つの機構にて成立している。
 ひとつは、死と混沌に支配されるゲドゥルトの海へ棲息するヴァイアや、そこから派生した人格であるスフィクスへの知的探求を活動の主とする『研究開発部』。職員等は便宜的に軍属という扱いではあるが、科学者や研究者といった者で構成されており、軍人として分類される人間は機構の責任者であるD.D.D(デビル・ディア・ディストピア)大佐のみである。
 ふたつに、ヴァイア艦へ従するクルーやVFのパイロット達、また有事の武力解決を担当する自衛部隊等が所属する『実行部』。相葉や尾瀬の両名が所属する『一型機動部隊』はこれに含まれている。責任者は遊佐・ファルネウス上級大佐であり、所属人員全てが正規の軍人である。
 最後に、隠密機構として存在する『情報部』。特定の施設を持たず、契約者達が独立して活動を行う。部隊の特徴から、幹部を含む極一部のみが軍属であり、それ以外は基本的に『外部』の人間で成り立っている。故に、金と死の匂いに敏感なハイエナ共に喉元を喰い千切られるリスクを常に抱えるが、その分の高い結果も期待出来るトリッキーな部隊である。補足ではあるが責任者のパーソナルデータは完全非公開であり、組織自体が秘匿を信条としている。
 ――今回の人選は、ヴァイア機関における三機構全ての責任者の了承を得たものだ。
 当然、上層部からは反対意見が多数あげられたが、スフィクスである自身を存分に利用して尽(ことごと)く黙らせた。作戦にあたる人選は、能力さえ適正であれば誰でも良いという話では無いので、理に適う報告をされては、上層部も納得せざるを得なかっただろう。しかし、無茶を通したのも事実だ。上の連中からすれば苦虫を噛み潰したような思いに違いない。

 ただの保身、自己愛。
 利己的な自己満足に過ぎないと嘲笑う声が己の内から聴こえる。
 それでも――…、

 逢わせて、やりたかった。

 当人が再開を望まないなら、今回の話は仕舞いになるはずだったが、つい二週間程前にスフィクスとして覚醒したばかりの同胞は予想外の提案に、無垢な黒の瞳を大きく瞬かせた後、無邪気に微笑んで――…ひどく嬉しそうに快諾したのだ。
「…大体、フツウ恨み事のひとつくらい言うだろ。お人好しもここまでくると、…ばかだな…」
 『彼』を迎える為に結構な広さのある施設の廊下を足早に行くのは、【人間】と【ヴァイア】の融合に唯一完全成功した貴重な『スフィクス』だ。それまでの被検体は悉くヴァイアの全と個の膨大な境界に骨身まで精神を嬲り喰われ、人としての ココロ を砕かれた。最近目覚めたばかりのスフィクスが二体目の成功例となる――予定だ。黒姫が眠り続ける限り完全にスフィクス化する事は叶わない。しかし、データ上から読み解くヴァイアとの適正は今までの被検体の中でも最高クラス。彼のスフィクス化が失敗するようなら、計画の全てを見直さなければなくなる。
 多くの生物は『同調』により心の安寧を得る。全く異なる次元の生命であるスフィクスとて、その法則に違い無く、同族である灰のスフィクスが常に傍に在る事は、非常に大きな心理的支えとなっていた。
「…アーヤ。いるか?」
 カードキーと生体認識の二重ロックという強固なセキュリティで守られる自室に足を踏み入れ、レインは住み慣れた部屋を見回す。入口で靴を脱いで、フローリングをペタペタと素足で歩く。クローゼットやテーブル、ベッドといった必要最低限の家具の中で、一際目を引くのはアナログ鍵で施錠された巨大本棚だ。ガラス越しに窺える背表紙の並びから、幼児向けの絵本が殆どだと知れる。
 ――…第三世界大災害の影響から、地球資源の枯渇が叫ばれ、紙資源は石油と同じく貴重とされている。現在、人類の歴史を紐解く重要文献は全てデータ化され、政府中枢コンピュータで管理されている。無論、原本は重要に保管されているのは言うまでも無い。また、個人で利用される記録媒体もまた、紙からデジタル端末へと移行された。これらの事情から、『紙媒体』の情報資産――要するに『本』である――の価値は非常識な高騰現象を起こし、特に『絵本』は描き手の温もりが伝わるのが良いと異様な支持を受け、破格の値段で取引されている――のだが。
(……きもちよさそーにしてンなぁ…)
 そんな希少価値の絵本達を絨毯に無造作に読み散らかしたまま、白ライオンの顔を可愛らしく模した丸く大きなクッションに体半分以上を埋めて安らかな寝顔でいるのは、同族の徒であるスフィクスの少年。遠くも無い未来にヴァイアを統括する核となる人類の導き手。寛大にて偉大な、憐れなる生贄の羊の無防備な寝姿に、巨大戦闘艦灰のゲシュペントを司る美しき異質は、複雑な表情を浮かべて、散らかる絵本を壁際へ寄せた。
(……疲れてンだろーな)
 至高且つ絶対の存在である唯一無二の【福音】として望まれる華奢な少年は、今は『アーヤ』と呼ばれる。『ひと』であった頃の名を紡ぐ事は決して無い。それは政府と交わした密約に定められており、表向きは従順に契を遵守しているようではあるが。――…そうではなく、無言の反旗、抵抗の意思を示すもの。
「…アーヤ、か」
 疲労が穏やかに眠る幼い輪郭に影を落としているのに、灰のスフィクスである美貌の異質は緋色の瞳を微かに揺らめかせる。泡沫の如く浮かびくる感情は言の葉とするには寄る辺無く、一縷の名残を風花に散りゆく花弁として心を掠めてゆくだけ。
(俺は…、 ――…まだ …、 ……)
 人として生きた軌跡を略奪し、愛しき子らの想い出を蹂躙し、永劫を生きる孤独を科す。
 単純明快な取捨選択、プラスマイナスで世界を考えるだけ。
 個人の自由や尊厳と人類という種の存亡。
 天秤に掛ければ重きに傾くのは自然の摂理。
「………」
 まだ、融合は完全では無い。
 福音としての覚醒には、ヴァイアの意思との完全なる統合が必要であり、少年に新たな命を芽吹かせるはずの黒姫の魂は事件から今日に至るまで、昏々と眠り続けたままだった。現状は、灰のスフィクスである己の能力で姫の代役を果たし、非情な運命を負わされた小さな生命の、スフィクス化を促しているだけに過ぎない。今、 なら …――まだ 、 哀しい未来を ――… 、
「……昴治。起きろー? 弟と、ダチが来てるぞ」
 図体も態度もデカくなって可愛く無くなってるけどな、と苦笑を浮かべながら、自身も不死と無幸の檻に囚われる大型戦闘ヴァイア艦灰のゲシュペントを司る異能の存在は、悲しみで彩どり護られた揺り籠の中で無防備に眠り続ける幼な顔の少年の柔らかな髪を、そっと撫でた。

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2008/7/1 初稿



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