act.10 ミッシング
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 幻――、実体を伴わないはずの女生徒の腕を掴み上げ強制的に立たせながら、政府軍所属の壱型機動部隊隊長たる若き軍属は、『ロスト』の中の虚構で在りながら触れられる精巧な世界の出来栄えに心中で目を見張っていた。
(……触れンだな。これも脳の錯覚を利用したもの、か)
 そのまま、トンと少女の肩を空いた右手で押し遣って、薄い布を広げただけの粗末な寝床へ仰向けに転がる"アーヤ"へと手を差し伸べて、掴まれと言うように顎をしゃくる。
「……ぁ、あり、がとう 」
 思いがけぬ人物の唐突な登場に目を丸くしながらも、昴治は素直に成長した弟の手に捕まると、床の布地に足を取られながら慌てて起き上がった。
「ちょっ…、ちょっと祐希!? 何するのよ、急にっ!!」
 小さな頃から何かと手の掛る兄弟の面倒を見て来たお隣さんとしては、自分への乱暴な態度に納得ゆかず、両手を腰に当てると憤慨した様子でキャンキャンと声を張り上げた。先程までの緊迫した気配は何処へやら、すっかり頭に血を昇らせて周囲への警戒など頭の片隅にも残っていないようだ。
「るッせーよ。つーか、お前こそコイツと何やってンだ」
 不機嫌そうに声を籠らせる傍若無人な幼馴染みに一瞬怯んでみせるものの、藍色のショートが印象的な快活少女とて、伊達に何年も兄弟の世話役をやっていない。直ぐに普段の調子を取り戻すと、ビッと人差し指を立て背筋を伸ばし胸を張って、正々堂々と己の行動の正統性を主張した。
「何って、相談よ。そ・う・だ・ん!
 ちょっと困った事があって、それで昴治に相談に乗って貰ってたのよ。
 あーもう、どうせ来るなら尾瀬が来ればいいのに、どーして祐希なのよっ!」
「……どういう言い草だよ。
 第一、コイツに相談して解決すんのか、その"相談事"とやらは」
「間接的に。本当は尾瀬に相談したいんだけど、無理っぽいから昴治に伝言を頼んでたの」
「アイツに?」
「そ、ソイツ。尾瀬ってこずえの彼氏でしょ。ちょっと、その件で、ね」
「…あのアホなら、多分その辺りをウロウロしてんだろ」
「捕まえてきて」
「なんで俺が」
「なんでじゃないでしょ!! 乙女に乱暴を働いたんだから、それッ位トーゼンよ!!
 も、ホントに気が効かないんだから!! この馬鹿キョーダイ!!」
「あ、あおいっ!!」
「なによ、こう――…、むぐ?」

 『昴治』

 地雷を踏みまくる迂闊な口唇を強制的に塞いで、無垢な魂の器として選ばれし愛らしい容姿の少年は、酷く慌てた様子で一気に捲くし立てた。
「おっ、俺が探してくるから! ちゃんと今の話伝えてくるから、なっ!?」
 だから、それでいいだろう、と。
 妥協を願い出る昴治の必死な姿勢に、臙脂色のミニスカな制服が良く似合う快活な幼馴染みは、無粋に張り付く華奢な掌をベリッと剥がして、それならいいけど…、と不承不承ながらも納得し、幼馴染み兄弟二人を漸く解放したのだった。

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 精巧に過去の記録を模し再現されているとは言え、仮想リヴァイアス『ロスト』には、過去に子ども達が感じた恐怖や絶望といった感情は、かなり緩和されているように見受けられた。
 その、最たる理由が『大人』――、つまりはヴァイア艦隊の総督を兼任する灰のゲシュペントの艦長を務める『カイリ・朔原』の存在が、子ども達の精神の安定に大きく貢献していた。
 『ロスト』へ落されて、まだ初日だと言うのに、豊富な知識と絶妙な指揮力、そして人の上に立つ者に求められる能力カリスマ――穏やかに人心を惹き付ける求心力で、仮想リヴァイアスの混乱を見事に鎮静化させていたのだ。
「…こーゆーとこは、流石年の功と言うか、経験の差と言うか。
 俺も祐希君も、まーだ敵わないよね。もうちょっとスキルアップしないとね」
 てくてくと。
 艦内の子ども達の様子を具(つぶさ)に観察しながら、さて、どうしたものかと思案するのは、『リヴァイアス事件』から数えて四年。『ラビット・グレイ』からは二年の歳月を経て随分と印象を変えた人物だ。ひたむきな純粋さ故の歪んだ正義を天を目指す傲慢さで高々と振り翳し、四百余名の子ども等を恐怖の名で支配した孤独な少年は、今や当時の狂気の面影など微塵も感じさせない。冷徹そうにも見える無闇な美貌に反して人好きのする笑顔と人懐こい態度のギャップが愛おしい、好青年へと成長を遂げていた。
 誰に対してだろうと如何な状況であろうと、一貫して愛想が良く親切なものだから、自分に気があるのだと幸福な思い違いをした人間から、熱く言い寄られる機会はそれこそ山の如く。その度に壱型機動部隊の隊長である相葉上級大尉とお付き合い中であると、在りもしない事実を常套句として丁重にお断りをしている。
 その結果、事実無根の虚言に踊らされた一部の人間が、部隊の隊長を務める凛々しくも猛々しき、黒豹を彷彿とさせる若き軍属へと筋違いな恨み辛みを募らせ、壱型部隊の中では隊長が何時闇討ちに遭うかを賭けていたりする――、しかも空言を吹聴して回る張本人がトトカルチョに参加しているのだから、そのタチの悪さが窺い知れようと言うものだ。
「さーって、と。どーするかなー、ヘタな事言って不審がられるもの何だしね」
 ぐるり、と未完成の骨組みが剥き出しになる無骨な艦内へ、闇夜を見通す猫のそれに似た抜け目の無い視線を遣って、ふ、と淫らな毒の薫る艶然優美の微笑を完璧な造作の美貌へと描く。
「何か俺に御用ですか、可愛らしいお嬢様方」
 穏やかな、しかし凛とした矜持の高さが窺える余裕のそれ。
 多感な時期の女生徒が憧れの王子から声を掛けられたなら、それだけで在り得ぬ程の多幸感に包まれ、キャァと甲高い悲鳴を弾けさせて散り散りに逃げだしそうなものだが――…、
「え、やっ、あ、あの、え、 …や、やだ」
「ご、ごめんなさい、その、覗き見するつもりじゃ……」
「そ、その、わ、私達…。べ、別に、 ……そ、の ……」
 天性の才能としか思えない堕天の伝道師の魅力を前に、物陰に隠れていた幼さを残す数名の少女等は、もじもじと互いを押し合いながら姿を現し、言葉に詰まりながら言い訳を口にした。
 リヴァイアスに搭乗するリーベ・デルタの一般生徒の"記録"に過ぎない少女等は、皆一様に瑞々しく張りのある頬を桜色に染め上げ、色惑う瞳は熱に浮かされ愛らしく可憐に潤んでいた。
「謝らなくていいよ、怒ってるわけじゃないんだから。
 …それとも、俺が怖い?
 ねぇ、答えて…La Chou-Chou(ラ・シュシュ)」
 ※La Chou-Chou=愛らしいお嬢さん
 年上の余裕を羽織り踏み出す一歩の距離は過去の己よりも、遥かに大きい。
 集団の先頭でまごつく木春菊の少女へ騎士の所作で優雅な一礼を、かと思えば手練手管の色恋師の如く清楚に愛らしい花の首筋へ、流れる茜色の髪をひと房指先で梳いて接吻を落とし、床を強請るような甘美にて淫蕩な音を欲に濡れた気配と共に忍び込ませた。
「……わ、ひゃ、ひゃ、ひゃあああああ!!?」
「ふふ…、初々しい反応。そういうの好きだよ…?
 イケナイのに…、夢中になりそう…――、」
「あ、あああ、あのっ、あのっ、あのっ……!!」
「…ね、キスしていい…?」
「ふぇっ!? やっ、え、だ、………っ、だ、だ、だ」
 不純な行為を押し止めようと拒絶を口にしようとするも、混乱のあまりに舌が縺れ呂律が回らず。
 はくはく、と。
 薄紙に掬いあげられた花房のように、思わぬ息苦しさに喘ぎ、目をぐるりと回す実に憐れな。
 頭の天辺から湯気を燻らせ、足の爪先までも熟れすぎた果実のように赤く熟れる珠玉の果実。
 面識も無い行きずりの娘の正気を惑わせ手玉に取る、なんて。
 数々の修羅場を潜り抜けてきた百戦錬磨のツワモノにとって、赤児の手をひねるも同然。
「かーわいー、反応」
 くすくす、と耳朶へ直接吹き掛る吐息も、艶めかしく。
 十三、四年程度の人生経験で到底太刀打ち出来るはずもない獰猛さだった。
「駄目ッ!!」
 しかし、危うくも悪いオトナの毒牙は寸前で止められた。
「ち、ちがっ…、 こ、こういう話じゃなくてっ、その、尾瀬先輩!」
「…うん? どうしたの、何か困り事?」
 獲物の予想外の抵抗に少々面食らいながらも、飄々とした態度は崩さぬままで、かつて箱庭のリヴァイアスを支配した独善の狂王は柔和な物腰で腰を屈め、目線の高さを合わせ訊ね返した。
「そ、そうなんです!
 あのっ、私達FA(フライトアテンダント)課の一年生なんですけどっ」
「ああ、そうだろうね。皆、可愛いし」
「……ぁぅ」
 ふしゅぅ。
 花の顔(かんばせ)を綻ばせながら、恭しく掬いあげた左手の甲に接吻を捧げれば、楽々と一人目を撃沈。初恋も知らぬような初心な少女は、頭の上からほこほこと湯気を立て友人の背中へ逃れるように隠れてしまう。ありゃ、と柔らかく微苦笑する姿すら妙な色香を纏い妖しく人心を惑わせるのだから、実に性質の悪い成長を果たしたものである。
「けぃちゃんおねがい〜っ」
「ケイ宜しくっ、無理っ、無理だからお願いっ!」
「ええっ!? もう、なんで私がっ…」
 戸惑う少女等の代表として矢面に立たされたのは、知的な眼鏡が似合うスレンダーな魅力の娘で、ご多分に洩れず尾瀬の不必要なまでの艶に気圧されながらも、一歩、覚悟を決めた硬い表情で引き結んだ口を開いた。
「あの、私達FA課の一年生です。
 突然に申し訳ありません、気掛りな事があって。和泉先輩って尾瀬先輩の彼女さんですよね?」
「……あー、うん。そだよ?」
 一瞬何の事かと空みかけた尾瀬は、そう言えば『ロスト』ではそういう関係だった、と思い出して緩く肯定する。四年前のリヴァイアス事件後に、互い向ける感情が『恋』では無く『依存』の果ての愛情であったと。事件後に搬送された病院のベッド上で話し合い、綺麗に過去の関係を清算してあるので、記憶が薄れ掛けていた――というのもあるが、イマイチ事件の記憶が遠いのもまた、ひとつの事実。

 それでも、確かにあの頃の自分は、胸に煌めく美しい感情が『恋』だと信じていた。

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 魚類の背骨を連想させる剥き出しの鉄組み、無人の廊下に矢鱈と無機質に響く足音、俯く視線の先を、幾重にもベルトを巻かれた重厚なデザインのブラウンの革靴が堂々とした歩調で先を行く、厚みのある靴底に掘られた複雑な模様の深溝が、実はウサギの顔だと発見して少しだけ和む。
 数歩前を行く半袖の開襟シャツの白地に、蒼く焼けた黒髪が猫の尻尾のようにゆらゆらと揺れていた。腰近くまで伸ばされたそれは、別離を決意した日には確か肩を過ぎた位だったはずだと、無性に手を伸ばしてみたくなる――…、
「おい」
「え? は、はい?」
「手」
「え?」
「髪」
「……。うわ!!?」
 相葉兄弟の幼馴染みである、思春期特有の厭味の無い健康的な色気を振り撒く快活な少女から解放され暫く、無言で先を行く相葉上級大尉の小走りで追い掛けていたはずの、黒のリヴァイアスが要たるスフィクス・アーヤは、己の無意識の行動に気付くと跳ねる勢いで後ろへ飛び退いた。
「ごっ、ごごご、ごめんなさいっ!」
「………」
 生命を拒絶する透徹な鉄(くろがね)の感触を背に、情深い優しげな声を裏返して分かり易く動揺する福音の少年振り返り、祐希は掴まれた後ろ髪を無造作に肩口へ引っ張りあげると、癖の強い毛先を左右に振りながら一瞥し、直ぐに興味を失ってぽいと投げ捨てた。
「黒髪なんざ、別に珍しいもんでもねーだろ」
「え、あ、えと。その…すみません」
 確かに黒髪自体は然程稀少では無い。どちらかと言えば、先達ち相葉上級大尉との大立ち回りが記憶に新しい情報部所属のエアーズ・ブルーこそ見事な"蒼"色の髪で、第三世界大災害(カラミティ・ノヴァ)後の滅亡と再誕を経た世界でも稀有な存在として一際目立つ存在だ。
「………」
「…あ、の?」
 壁へ張り付いた格好のままで、昴治は渋面で黙り込む若き軍属――かつての確執を乗り越え 愛し愛される間柄として幸福のひとときを過ごした弟の様子を、おそるおそると窺った。二年前ならばいざ知らず、"今"は『軍』という組織を介した関係でしかない他人だ。無闇な反発を繰り返していた少年期程顕著で無いにしろ、己を巡る周囲へ非情な態度を貫く黒髪の青年へ、つい一歩引いた対応になってしまうのは、正しい自己防衛が働いた結果と言えるだろう。
「……?」
 しかし、沈黙も過ぎれば不安を掻き立てる要素にしか成りえない。
 そもそも相葉祐希という人間は、不必要に騒ぎ立てる無作法者では無いにしろ、決して静を潔しとしない極めて活動的な性質の人間だ。こうして思慮深く憂いて黙する姿自体が珍しい。戦略・謀略は主に副官へ任せ、自身は超感覚とも言うべき第六感に任せて突撃を仕掛ける破天荒さが魅力的な人物である。
 それが、こうして――…、
「……どうか、したんですか?」
 微動だにしない若き軍属の姿を不審に思い、白木蓮の華のような色白を薄闇の世界で清らかに咲かせる異能の少年は、緊張の様子を薄れさせ代わりに声に気遣いの音色を滲ませた。
 そもそも、相手の記憶が失われていたとしても、己の心の中に詰った想い出が消え去った訳ではない。幾ら、かつての『可愛い弟』としての名残が微塵も感じられないような、冷徹無情な軍属へ成長したとして、それでも昴治にとってはこの世でたった一人の血肉を分けた肉親で――…、
「…具合…、悪いのか? ゆう……、相葉さっ……、え、」
 つい油断して懐かしい名前を呼びそうになり、慌てて言い換える。どうも、気が緩んでいけないな、と己の軽挙を反省しながらそうと伸ばした指先を思わぬ力で握り返されて、人の歴史を未来へ紡ぐ為、大いなる人柱として運命を負う黒のスフィクスは、つぶらな瞳をくるりと回して天井からの逆光で窺えぬ弟の表情を見上げた。

「………相葉、さん…?」

 戸惑い、捕えられた指先で鼓動が早鐘を打つ。
 最早"ひと"では無い器、それでも規則正しく脈打つ心臓を。
 無残に暴かれ、抉り取られ、鷲掴まれるような、ひりつく錯覚に昴治は熱い喉を鳴らした。

「……コウジ、ってのはアンタの名前か?」
「……!」
 不意打ちの言葉に細い躰が戦慄くを、どうして、誰が、責められようか。
「……そ、その、……えと、 いや――… 」
 あからさまな動揺に壱型機動部隊を束ねる青年の鋭利な眼差しが穿つ如く細められ、真実と虚実の間で不安定に揺れる天秤の行方を見定めるように、逃さぬとばかりに慎重にしかし確実に外堀から無垢の魂を追い詰めて行く。
「スフィクスになる前はフツウの人間だったんだよな?」
「……、それは…、その……はい」
 質問の切り口を変えられ、昴治はホッと安堵し戸惑いながらも素直に問い掛けに答えた。ヴァイアと名付けられた生命体が、無機・有を構わず融合を果たす事は既に周知である。異質にて人智を越えた万能を宿らせるスフィクスとて例外では無く、資質ある『人間』を受け皿としている事実は軍内部――、特にヴァイア機構と呼ばれる組織の中では誰もが知る非情の現実だった。
「…"アーヤ"っての本名じゃねーんだろ?」
「………」
 アーヤ、とはスフィクスとしての洗礼名のようなものだ。同じく、灰のゲシュペントを司る絶海のスフィクスにも『マーヤ』との名が与えられている。但し、彼の特佐は極めて特殊であり、スフィクスとしての自我と人としての精神が共に独立してひとつの身体を共有している状態――らしい。
 『マーヤ』と直接言葉を交わした事は無いが、結構な毒舌家で厭世的な思想の持ち主だと聞いている。後付けの人格の分際で本体を喰う勢いだと、冗談交じりにレインがボヤいていたのを何とは無しに思い出して、苦笑が漏れた。
「……おい」
「あっ、ゴメン。…じゃなくて、すみません。
 ――そうです、"アーヤ"はスフィクスとしての名前で、」
「それ以前の名前は何て言うんだ」
「…それは、」
 途端に言い淀む『アーヤ』へ、ヴァイア戦艦の守護部隊を纏める若き精鋭は穿つように声を尖らせた。
「言えないのか?」
「……はい。駄目だって…だから言えません」

 ――絶対に、喩えあらゆる感情が絆の喪失を惜しみ悲嘆に暮れたとしても、誓約を違えるべきと。

「腑に落ちねーな」
「……? 相葉、さん?」
 右手を強く握られたままの全能なるスフィクスが王たる少年は、不機嫌そうに唸る若く猛々しい軍属を眩しげに望んだ。苛立ちに俯く視線を長めの前髪が隠すのに、何か、予兆めいたものを感じて、脆弱な肉体を脅えに震わせるのは人類という種へ屠られたか弱き存在か。
「……え、わ、!」
 何を、と思う間も無く腰から乱暴に抱き寄せられ、昴治は驚きに喘ぐ幼い身体を大きく弾ませた。
「何で名前を伏せなきゃなんねーんだ…?」
「そ、それは――…、」
「別にそれくらいの情報を隠す必要は無いはずだろ、現にレインの奴は名前も正体も大っぴらだ」
 うぐ、と。
 武術の腕のみならず、理論武装をも覚えた弟は難敵だった。元来が善き魂の主で、嘘や謀りを不得手とする良心的な黒のスフィクスに太刀打ち出来るはずも無い。灰色に曇る疑惑を見事晴らす完璧に辻褄の合う上等な回答が無いものかと、必死に言い訳を探すが下手な口上しか浮かばない自身が恨めしかった。いっそ適当な名前を持ち出せば良かったかもしれないが、咄嗟にそんな機転を効かせられるのは、あの口から先に生まれたような戦闘艦ゲシュペントが司とお調子者の親友位だ。
「なァ、アーヤ」
「え、はっ、はい?」

「コウジ」

「!」
 不意打ちに名を呼ばれると、心臓が軋んでしまうから、止めて欲しい。
 大きく身を弾ませる昴治は、脅えに竦む視線をキッと上級大尉へと射し向けた。
「俺はっ、」
 違う、と。
 生体艦ヴァイア・リヴァイアスを本体とする拝名を呼ぶように命じる一言を、戦闘部隊を纏める雄々しき黒獣は力強い断定口調で否定を被せ、無理矢理に遮った。
「これがアンタの名前だ。スフィクスに転生する以前の、生前の――…、」
 死して、異形へと朽ち果てる永遠の少年の、


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『ゴメン。祐希』
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 声、が心に大きく波紋を描く。
「………え?」
 カチリ、何かが嵌り込む音がした。
 優しい、懐かしい、愛おしい、胸の内から次々に溢れ出る感情は身を切り裂いた。
「……な、ん……、だ。 これ――…?」
 一歩、二歩と、雄々しき肉体の長身が襲い来る喪失感に足元を崩し背後へと退がる。
 混乱から逃げを打つ肩が壁を打ち、ハッと我に返ると、奪われた真実と与えられた虚実の狭間を当所無く彷徨う黒檀の眼が、眼球が、光彩の部分が、そうと見て分かる程に乱雑に蠢いた。
「っ! だ、だめっ、だ!」

"思い出させてはいけないよ?"

 猫撫で声で嘯かれた、残忍な侮蔑の色に充ちた『忠言』。

"記憶を壊すついでに保険を掛けさせて貰った"

 愉悦に歪む悪魔達が告げた、劣悪低俗な狂科学者の趣向を凝らした巧妙な罠。

"愚者(こども)は簡単に約束を破るからね"

「……駄目っ…! 祐希…っ、駄目だ!!」

 どん、と。
 厚く鍛えられた胸板へ体当たりで飛び込んで、幼く愛らしい顔立ちに焦りと涙を浮かべるのは、黒の名を冠する二代目スフィクス。それは人の心の善意で形成るような無垢の魂が異能の種族。

"もし思い出したら"

「……、 こう…」
 じ、と擬え掛けた絶え絶えの吐息を、凡そらしくない鋭さで遮られる。
「違う! 駄目だ、呼ぶな! 俺は……っ、」
 はくはく、と息苦しさに悶える幼い器、否定と肯定の痛みを丸ごと呑み込んで、
「俺は"アーヤ"だよ…、……祐希。そう、呼んで?」
「………」

 "アーヤ"。

 悲しい響きを胸に刻み込む程に代償の如く大切な『何か』が喪われてゆく気がする、のに。
「……アーヤ」
「……うん」
 重ねて呼ぶ程に、安堵の溜息を漏らし儚く微笑む見知らぬ黒の異形が愛おしく。

"バックヤードを起こすよ"

「……頭、イテェ…んだけど…」
 硬質な感触の壁へ背中を預け、重力のままに腰を落として、祐希は伸びた背丈分か過去の記憶よりも随分と低く感じる天井を仰いだ。
「…うん」
 苦痛を和らげようと、してくれているのか。
 ギュウ、と縋る力で抱き締められる、刹那感じる遣る瀬なさで応えるよう抱き締める。
 零距離で感じる互いの鼓動、温もり、明確な理由よりも感情が先走る。
「も、少し。…このまま。アンタ、気持ち良い」
「うん…、いいよ」
「アーヤ…」
「………、うん」

「好きだ」

「………え、」

「…好きだ」
 精神汚染の影響で衰弱も顕著な若き尉官は、驚きに目を見張る心清らかな黒の化身を一層強く掻き抱く。胸に開き続ける空虚を埋めるように隙間無く閉じて、祈り縋る必死さは無意識下の行動か、重ねる愛の言葉は悲痛な慟哭とも幼子の癇癪とも、つかない、まま。

「………」

"VSCを埋め込んであるからね"
 ※VSC=ヴァイア・シナプス・チップ。ヴァイアの意識と交信する為のモノ。

「……だめ、」

 "壊れた脱殻でも欲しがりたいなら、君の好きにするといい"

「…だめだよ、ゆうき」

 人の驕慢に蹂躙され簒奪された兄の面影を思い出した訳ではないだろう。
 過剰な懊悩(おうのう)が意識の混濁を引き起こし、惑う想いが手違いに飛び出しただけだ。
 疵付け合う真実なら、優しい嘘の砂礫に埋もれてしまえばいい、と。

「俺を、…忘れて?」

 額を擦りつける幼い仕草で懇願する福音の双肩は侘しく震え、声は霞み途切れるばかり。
 言葉は過不足無く届いただろうか。
 切なさばかりの空洞を嘆きで充たす永劫の少年には、もう、何も分からない。

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 こつ、こつ、こつ。

 遠く規則正しく踵で床を蹴る高らかな靴音、近付くひとの気配に幼さを残す黒のスフィクスは、そっと身じろいで慎ましく吐息を漏らした。
「………、祐希。立てるか?」
「…ああ」
 幾ら兄弟とは言え『不仲』と但し書きされる自分達が、人目につかない場所で抱き合っている場面なんて目撃されたら余計な面倒事に発展しかねない。只でさえ、艦内にはVGパイロット組の少年達へ敵愾心を抱く派閥が存在するのだから、慎重を期すに越したことは無いのだ。ここが過去のリヴァイアスを再現しただけの仮想空間だと言う事は重々承知しているが、幻想と割り切るには『ロスト』は生々しい既視感を伴い過ぎていた。
「…ひとがくる」
「……ああ」
 ぐ、と抱き留める逞しく張った胸優しく掌で押し返し、昴治は図体がデカイくなっただけで、甘え癖の抜けないままの愛しい弟を柔らかく窘めた。
「駄目だよ、祐希。…放して?」
「……い、」
「祐希」
「………」
 嫌だ、と駄々を捏ねる幼い反抗を一刀両断。
 ぐ、と言い詰るのは、先程までの猛りは何処へやら成りを潜め、猫の仔のように大人しい若人。
 ほら、と促されるままに腕の拘束を解き、後ろ髪引かれる思いで手放す、胸の内に逆巻く鈍色(にびいろ)の焦燥は決して思い違い等では無いと、今なら確信を以て断定するしかない。

 記憶の改竄は確実。

「………」
 追想にて失われた面影を求めれば強烈なノイズによるジャミング、痛み、下衆の小細工が弄されているのだろう。恐らく、無理矢理に思い出そうとすれば脳へ相当な負担を強いる仕掛け。言い換えれば、そこまでして、『アーヤ』の正体を自分達へ知らせたくない、という事に他ならない。
(……兄弟、?…)
 ズキリ、と。
 静かに巡らせる思考へ無遠慮に割り込む鈍痛、それは、正解の証でもあるから皮肉だ。
「祐希? まだ辛いのか?」
 床へ足を投げ出し、背中を壁へ預けた体勢のまま動かない弟を気遣い、昴治は小首を傾げる小動物さながらの愛らしい仕草でしゃがみこんだ。同じ高さで鉢合う視線、黒無垢二つ眼が覗き込むのに、いや、と壱型機動部隊の青年は消耗した様の中にも力強い言葉で応じた。
「大丈夫だ、"アーヤ"」

 今は、未だそう呼ぶしかない。

 正体も所在も知れぬ業腹、憤怒、圧倒的な寂寥感。
 それらと、葛藤を繰り返しながら。

「アーヤ様」

「「!!」」

 『アーヤ様』

 丁度立ち上がった二人――昴治の背後、祐希の前方から事務的な呼が響いた。
 擦れ違う互いへの想いで空回る兄弟は同時に声の主へと視線を向ける。
 黒のリヴァイアスの化身である少年『アーヤ』を"様"付けで呼ぶ人間は、仮想世界『ロスト』では只の一人だけだ。ヴァイア艦の無機的な廊下の端から現れたのは、案の定思い描いた人物で、分かり易く機嫌を急下降させる上級大尉に、昴治は落ち着かない様子で二人を見比べた。
「何の用だ、情報部の飼い狗が。テメェは大人しく縄張りのマーキングでもしてやがれ」
「貴様に用は無い。
 アーヤ様、朔原総督がお呼びです。至急、ブリッジへお越しいただきたいと」
「あ、はい。分かりました」
「…フン」
 粗野な口調で安い挑発してみせるも、顔色ひとつ変えぬ涼しげな佇まいで感情の籠らぬ台詞を紡ぐ王者へ、聊か毒気を抜かれる凶悪な若黒豹。今しがたのアーヤとの遣り取りも大きく影響しているのだろう、不承不承ながらも指示を受け入れ、いくぞ、と黒を司る少年スフィクスを視線で促す。
 が、
「アーヤ様の護衛は俺が引継ぐ。
 貴様は副官を探して来い。アレも呼ばれているが、見当たらない」
 連れ添う行動を遮られ、不服そのものに小奇麗に整う顔を歪め、高圧な声の主を振り返った。
「ザケンナ。テメーが行って来い」
「見つからないから言っている。お前の副官だろう」
「知るか。あのアホなら艦内の何処かにいるだろ」
「総督命令だ。文句なら放浪し回るお前の副官に言え。
 ――…行きましょう、アーヤ様」
「えっ、えっ、…その、でも……、」
 一足触発の空気の中で戸惑う純真なスフィクスは、黒のスーツを隙なく着こなす伊達な情報部の隠密を振り返り、しかしどうしても実の弟である血気盛んな若き軍属が気に掛るのか、不安そうに揺れる黒無垢の瞳に祐希の姿を写して惑った。
「アーヤの護衛は俺だぜ。それに、テメェに指図をされる謂れもねーしな」
「総督命令だと伝えたはずだ」
「ハッ、飼い犬っぷりが板についてきたな、エアーズ・ブルー。
 なら、ワン公らしく鼻を効かせてアホを探し出したらどうだ?」
「………」
「………」
 二人、一歩も引かずに睨み合う緊迫した雰囲気に、人の好いスフィクスは右往左往と慌て、
「あっ、あの! 俺、ブルーさんと行きますからっ!」
 決して折衝案と言うわけでは無いが、どうにも収まりそうにない場の空気を取りなす為に、険悪な雰囲気で睨み合うヴァイア守護部隊の若き隊長と単騎隠密の蒼き王者へ、控え目な挙手と共に己の意見を述べてみた。
「…ちょっ、コイツと行くってのかよ?」
「うん。朔原さんからのお願いだし。祐希も意地張って無いでここは協力しよう?」
「………。アンタがそう言うなら、…分かった。急いでアホを探してくる」
 非常に不服そうにしながらも大人しく『アーヤ』の言葉に従い、駆け足で艦内中央区へ戻る姿は、ブラコンキングと尾瀬イクミに酷評されたかつての『相葉祐希』の姿を彷彿とさせる。もし彼の若き軍属に獣の耳と尻尾が生えていたなら、覇気無くしおれ項垂れていた事だろう。そんな滅多に無い弟の可愛らしい様子に少々の罪悪感と懐旧の情を覚えながらも、昴治は寡黙そのものに控える情報部の精鋭へと視線を向けた。
「すみません、お待たせしました。宜しくお願いします」
「………」
「ブルーさん?」
 戸惑う黒き福音の前に、変化は唐突に顕著に鮮やかに、訪れた。
 『情報部』所属の隠密特殊工作員『エアーズ・ブルー』の人物像が一斉に塗り替えられる奇跡。
 光も音も深淵に呑まれ喪われる深海に、ひとひら、幽玄の狭間に漂い沈んだ痛みの欠片。

「昴治」



 かつて黒の王国を絶大な力で支配下とした蒼の王者は、人類の贄とされヴァイアの祝福を戴く可憐な華の名を正しく手繰り寄せ、華奢な腕を引き寄せ胸の内へ掻き抱いた――!

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2010/9/18 加筆修正



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