灰のゲシュペントが万能たるスフィクス、『レイン・シルエッティール特佐』の護衛を務める情報部所属の精鋭にて、軍上層部の一部のみ知り得る事実であるが、土星の衛星ハイペリオンを『リヴァイアス事件』の際に意図的に消滅させた大罪人エアーズ・ブルーは、人類の種が存続の為に福音としてヴァイアの洗礼受けし少年の、片手で摘み取れそうなか細い手首をシャツの袖ごと掴んで放さず、ブリッジとは真逆の方向へと足早に歩を進めていた。
「あの…、ブルー、さん?」
幾度目かの呼び掛けにも、予想通り答えは無い。
つい今し方、見知らぬはずの黒のリヴァイアスが化身を知らぬはずの人の名で求めた蒼き王者は、引き寄せた幼い身体を在らぬ限りの力で抱き締め、色沸き立つ怜悧な眼差しのまま虚弱な腕を引いた。そこからは終始無言のままで、人気(ひとけ)の無い薄暗い区画へと迷いの無い歩調で進んで行く。堂々とした背中に明確な目的が窺えるが、その意図を測りかね戸惑うばかりの昴治だ。
「………」
呼び方も、今まで通り初対面を演じていればいいのか、それとも――…、
【昴治】
確かに、そう呼ばれた。
聞き違いや勘違いなどでは無く、確実に、けれど何故――…?
(ブルーだけ俺の事を覚えている…とか…?)
実に安直で安易な考えだ。
残念ながら可能性はゼロに等しい。
人類の存続を掛けた『新天地計画』の要となるべきスフィクスの存在――、しかも相葉昴治という人物は特別な『福音』たる素養を秘めている。決して失敗は許されぬ計画に於いて、万に一つの不安要素だろうと、強行姿勢で突き進む現行の政府が見過ごすとは到底思えなかった。
(…ブルーも多分、覚えて無いはず、…だよな?
だったらどうして…? それに、思い出せるはずがないのに…)
ヴァイアの精神網と交信する特殊チップの脅威は先程目の当たりにしたばかりだ。
僅か喪失の記憶の琴線に触れただけでも、猛烈な痛みに四肢を硬直させ呻きながら崩れ落ちた可愛い実弟の姿は、思い起こすだけでも心優しい兄の想いを摩耗させた。
(…あんな…、大量に存在するヴァイアと意識を共有するなんて…。
バックヤードを常に処理出来る環境じゃないと…とてもじゃないけど…)
ヴァイアと同化する事で誕生する異種族"スフィクス"にとっては、ヴァイアとの精神感応は、人間が呼吸をするのと同レベルの容易さであり、接続も切断も自由自在だ。無論、過剰な反応があれば幾ら感覚を遮断していようと微細な衝撃が伝わる事はあるが、それも本体にダメージを与えるものでは無い。しかしヴァイアの精神感応に対抗する術を持たぬ無力な人の子が、ひとたびゲドルゥトの海へ潜む生物の巨大精神網へ繋がれば一方的な精神汚染――いや凌辱と言い換えるべきか――を受ける結果になる。
「……どうして…」
「何だ」
「え? あっ!」
無意識のうちに疑問が表に出ていたらしく、反射的に自由な方の手で口許を抑える仕草を見せるのは、小栗鼠のように愛らしい容姿の、偉大なるヴァイアの【王】――へ成るべく選ばれし福音の少年。
黒のリヴァイアスを司る、スフィクス・アーヤ。
不可視の鎖に自由の翼を繋がれ、鉄の檻に閉じ込められたまま。
歌(真実)を奪われ、光(未来)を断たれ、それでも、飼い主(人類)へ愛を囀るという。
――憐れむべきか、罵るべきか、讃えるべきか。
声を亡くしたコトリが演じる歌劇の道化の様を、いっそ、嘲笑うべきか。
「そのっ、なんでもないんです!
ちょっと色々考え込んでたって言うか…、て、え、?」
思索に耽るあまりに周囲への注意力が散漫になっていたらしい、かつて黒の王国を席巻した王者が足を止めたのは、人気(ひとけ)も人目も微塵も感じられない無人のコンテナ倉庫の一角だった。生活圏から完全に外れたそこは照明も最低限に絞られており、普段なら気にも留めない順路案内の標識が、視界の端で妙に赤々と存在を主張する。
「ブルー…、さん。あの、ここ?」
「船体中央区外れにあるD区画だ」
「D区画…?」
抑揚の無い現在の区画名を説明されても、高性能な迷子機能付の方向音痴にはハイレベル過ぎる情報で、そもそも船体の区画区分自体が分からないのにと、困惑したまま周囲を見回す――、と。暗がりに慣れた虹彩は仄かな光源を拾い、乱雑に積まれた空のコンテナや、床に散乱する不格好に変形した資材、埃塗れの補強布等を捉えた。見る限りは、明らかに、何の変哲も面白味も無いタダの倉庫である。そんな淡々とした事実が逆に少年の疑念を掻き立てる。
仮想世界『ロスト』で再会したエアーズ・ブルーとは幾度か直接の接触する機会があり、実体の無い幻や緋の疑似人格『フレイヤ』を潜ませた空の器である可能性はゼロ。ならば、彼の不可解な行動が意味するところは何なのだろう、と。仮初の世界で亡国の王を演じる暗部の諸刃の走狗を、生まれたての小鹿のような黒スフィクスは、胸の内の不安を切々と訴え掛けるように見上げた。
呼び起す記憶よりも、余程高い位置にある無情な氷蒼の華。
そんな些細が呼び水となり呼吸を止めるのは、感傷と言う名の痛みの所為。
俯き加減となる己の薄弱を叱咤し、一拍、そして――…、
「此処に…、何か用事があるんですか?」
「………」
「朔原さんが呼んでるんですよね?」
「………」
「戻らないと心配させちゃいますよ ブルーさ、 」
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「折角来たのに、トンボ帰りは頂けないね」
「そうそう、そんなに急がないでよ。ゲームは始まったばかりだよ?」
「!?」
ふわり浮かべた夢芥(あくた)の如き薄命の笑顔が、頭上より降り注いだ高圧な言い分に驚き、瞬きの間に砕けた。何事かと警戒の色も濃く、黒無垢の双眸が正体不明の『声』を睨み上げる。月明の天井から傲慢な偽善と無邪気な悪意が二つ高次の存在として、下等な人の子等を純然たる侮蔑と幾許かばかりの同情とで、不可解に歪む眼差しを以て超然と見下ろしていた。
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四百余名の生徒達が、限られた物資と空間での漂流生活を余儀なくされた、前代未聞の宙行事故『リヴァイアス事件』。その時、艦の中では集団パニックを避ける為、疑似政権が確立された。
当初は、リヴァイアスの操船技術を持つ航宙士養成所リーベ・デルタのエリート集団『ツヴァイ』が指揮権を掌握していたが、重要情報の隠蔽、物資の独占、権力の濫用等の問題行動が露見し『ツヴァイ』の信頼と権威も失墜した。
その後、黒の王国の指揮権を我が物としたのは、土星圏出身の若者グループ、通称、チーム・ブルーと呼ばれるアンダーグラウンド集団。チームリーダーのエアーズ・ブルーを王(キング)とする独裁政権の下、ツヴァイは彼等の監視下とされた。
この政権交代劇の裏側にはブルー一派の連中の暗躍や、己の保身を最優先事項とする低俗な人間の計算があったようだが。丁度、頭脳派エリート集団のツヴァイでは抑え切れない暴力事件が、艦内のあちらこちらで発生し始めていた時期でもあり、チームブルーへの指揮権交代は寧ろ最善策であったと言える。実際に、チームブルーの台頭後艦内の治安は一時的に改善した。
また、ブルー一派の連中は最終的な判断を下すものの、細々とした仕事はツヴァイへ投げっ放しで、実質戦艦(ふね)の社会構造的システムを担っていたのは、今まで通りツヴァイの生徒達だった。黒の王国の内政その他を今まで通りツヴァイが管理し、治安維持への抑止力として『エアーズ・ブルー』の名が効果を発揮していた。結果的に互いの不足を補足し合う形となり、期せずして最もリヴァイアス内が安定していた時期でもある。
更に現在の『ロスト』には、過酷な状況下に追い込まれる子ども等が、盲目的に依存・傾倒してしまう因子――、つまり『大人』という象徴的な人物が存在している。特に、迷走や暴走を起こしやすい多感で情緒不安定な年頃の十代の少年少女達に於いては、軍人としての経験に裏付けられた、冷静な判断力と実力を有する『朔原』の存在感は、言葉に言い表せぬ程の心強さだろう。
黒の戦艦――リヴァイアス王国の内部は四年前のそれよりも随分と落ち着いていた。
ポイント制となった物資配給に表立った反抗も無く、多くの者が、漂流生活の終わりを夢見て己へ課せられた労働へと大人しく従事していた。
そんな過去のリヴァイアスの変化を横目に、灰色の金属面が剥き出しの廊下を大股で進むのは、背中の途中まで無造作に伸ばされた暁前の薄闇の髪に、憎悪とも悔恨ともつかぬ心騒ぐ苛立ちに紺濃藍の想像が剣呑と細める若き軍属。
目指すは何処ぞへ姿を消した阿呆――、もとい己の補佐を務める副官・尾瀬イクミだ。
正体不明の敵が用意した陳腐な遊戯舞台の仮想リヴァイアスは、良くも悪くも過去の出来事を正確に再現しているようであった。『ロスト』から脱出するまでの間に現状を利用し、自分達から失われた――いや奪われたと言うべきか――記憶に繋がる有益な情報を得られれば、と。互いに多少の危険は覚悟の上で、二手に分かれ別行動とした判断までは問題無いだろう。
しかし、情報収集中の"アレ"を探し出すとなると至難の業だ。風の向くまま気の向くまま、自由を謳う猫のように行方を眩ますのは特技と言っても良い。尾瀬が本気になれば、限られた空間、例えば軍用施設や宿舎の類、一定の行動制限が掛る不利な条件下でも、何時間でも鬼から逃げ回れるだろう。――実際、立証体験済みだから頭が痛い。これまで幾度となく尾瀬のプライベートの関連で部屋へ怒鳴り込んで来たが、何時も途中で逃げられ、更には捕まえられた例(ためし)が無い。
「…くっそ、必要ねーときには、湧いてくるきやがるくせに」
肝心な時に居ないのでは、役立たずもいいところだ。
要らない時にはその辺に転がっている癖に、探すと見当たらない。
相変わらず性根の悪さだけは一級品だと舌打ち、祐希は一旦足を止めて周囲を窺った。
(……無闇に探しまわっても埒が明かねーか)
実体の伴わぬ幻、過去の記録が織り成す人間達に話し掛けたとしてマトモな会話が望めるのか――、と。実に今更過ぎるタイミングで真っ当な疑問が思考を掠めるが、やってみればわかるだろうとの単純明快な結論と旺盛なチャレンジ精神で、生活圏の廊下を両手一杯の荷物を抱えて歩く対価労働中の男子生徒のひとりへ声を掛けた。
「おい」
「………」
「おい、そこのお前」
「……、え、へっ!? お、俺!!?」
「そうだ。ちょっといいか」
「っはい! 大丈夫です!」
呼び止められた短く切り揃えられた焦げ茶の髪に生真面目そうな眼鏡をかけた男子生徒は、当時の祐希よりもひとつ学年が上――つまり、尾瀬と同学年のようであった。よれよれに草臥れた臙脂色の制服を着崩し、疲れた顔をして小柄な体格に釣り合わぬ重量物運搬労働中であったが、今や艦内の英雄的存在であるVGのパイロットから話し掛けられ、心持ち緊張した――舞い上がっていると表すべきか――様子で抱えた段ボールを重たげに床へ下ろし、年齢的には後輩であるはずの祐希に妙に礼儀正しく応じた。
「尾瀬を見なかったか。俺と同じパイロットをやってる阿呆だ」
「尾瀬君ですか…?」
「ああ、アイツを探してるんだが見つからなくてな」
「そういえば、さっき…」
「見掛けたのか!?」
「わっ! えっ!?」
両肩をガッチリ掴まれ、間近に瞳を覗きこまれ凄まれる状況に、無力な一般生徒は面食らい言葉を失った。その必死さが、高い実力に裏付けられた完璧な超個人主義者『パイロット相葉祐希』の虚像を否定し覆すものだったからだ。
「…え、と、ですね。その、」
「どうなんだよ、サッサと答えろ! 俺は急いでるんだ!」
「わわわっ、すみませんすみませんすみませんっ!
多分、尾瀬君だと思うんですけど、間違ってたらすみませんっ!
ついさっき、Eブロック近くの通路で見掛けたんです。
ええと、FA課の女子達に何処かへ連れて行かれてるみたいでしたけど」
「Eブロック? どの辺だ」
リヴァイアス事件当時の艦内の区域分けに明るく無い祐希は、聞き慣れないブロック名に戸惑い眉を寄せた。更に、今の情報が確かなら、此方が散々骨を折り艦内を探し回っている間、あの阿呆は女生徒と情報収集という名の楽しいトークタイム中だという事になる。忌々しい事この上無い。
「生活区域のちょっと奥の方です。
俺も、丁度この荷物の届け先がEブロックですから、案内しましょうか?」
「ああ、頼む」
「じゃあ、ちょっと待って下さい。荷物を――…、よ、っと」
「………」
よろよろ、と。
明らかに積載多過の大荷物を、両手一杯に抱え直して危なげに立ち上がる、そんな名も無き通行人Aのあまりの頼り無く情けない姿に嘆息、そして、
「――貸してみろ」
ひとこと、言うなり。
シャツ越しにも分かる力強く若々しい肉体を誇る黒豹は、精悍な顔立ちに若干の呆れを滲ませ、過去を模し再現しただけの幻が描く少年の荷物を、ひょいと軽々左肩へ抱え上げた。
「え、うわっ? あ、あの、悪いですよっ!」
「いいから、さっさと案内しろ。
ったく、貧弱なくせして、何でこんな仕事選んだんだよ」
「……それは、ポイントがいいから…、」
「今が、緊急事態だって理解してるか?
何時までも学生気分じゃ危ねぇぞ。体力は温存しておけ」
「…代わりにやっておけって言われて。」
「――…押し付けられてンのかよ、アンタ相当要領悪いな」
「あ、あはは。よく言われます」
困ったように照れ笑いをする大人しい少年の悪びれない人の好さに、――の影が重なる。
(………ッ、くそ…)
思い出せない何か、とても大切な想い、心に誓った永遠の――…、
失われた全てが、黒の福音たる儚き異質に繋がると知り得ながら。
真実(まこと)を追う者は咎の淵へと追い立てられ、歪(ひず)んだ世界が織り成す虚構は甘やかに美しい。虚実で黒く貶められた水底へ、深く深く、唯一の光を求めれば、途端に嘔吐を伴う不快感が牙を?く。それでもと喪われた記憶の輪郭を辿れば、容赦のない激痛が脳の中枢を襲った。
「――っ、うぁっ!?」
脳髄を火掻き棒で抉られる異様な感覚に反射的に身体が竦み、黒の王国に於ける最大火力のエースパイロットは、鋭い呻きを漏らしグラリと大幅に体勢を崩した。
「相葉君っ!?」
しかし、耳を討つ悲鳴に一瞬で己が置かれる状況を思い出し、即座に姿勢を持ち直した。
「大丈夫…? 凄い汗だけど」
せいぜい、潰されて緩衝材代わりにされるだけだろうに、崩れ落ちそうになる英雄をどうにか支えようと、咄嗟に背中へ回り込む名も知らぬひとつ年上の少年の底抜けの人の好さに、ふ、と祐希は口端を緩めて痛みと苛立ちを纏めて逃すべく、知らず止めていた呼吸(いき)を吐き出した。
「アンタ、名前は?」
「へっ? あ、俺は… 天真(てんま)。整備科二年の天真アキです」
「整備科か…どーりで。俺は――…」
「知ってますよ、相葉祐希君ですよねっ!
この艦の中にいるヤツで、パイロットの名前を知らない奴なんていませんよ!」
「…だろーな」
何せ四百余名の少年少女の中から選び抜かれた僅か三名の精鋭達だ。
黒の王国の中で文字通り自分達の『命運』を握る者達の名を、知らぬ方が余程奇妙だろう。
「俺の事はアキでいいですよ、えーっと、相葉…君?」
「さん付けで呼べ」
「…うわ。聞きしに勝る俺様ッスね」
「様でも構わねェぞ?」
「…呼んだ方がいいなら、呼びます、…けど」
「冗談だ。嫌そうにすんな」
「反応に困るジョーダンは、勘弁して下さい」
「柔軟性がイマイチだな、整備科のヤツは特にトラブル対応力が求められる。
迅速完璧な整備は出来て当然、後は如何に未知の問題に対応出来るか、だ。
一人前になりたいなら、もう少しココを柔らかくするんだな」
「…う。」
コンコン、とノックでもするように頭蓋を軽く小突かれ、押し黙る小柄の少年に、祐希は余計な世話を焼く自分自身に戸惑っていた。自覚は無くとも精神や思考も成長に従い成熟しているのか、と感慨深くなる。年齢も体格も経験も、明らかに自分より浅い相手に無駄な敵愾心や闘争心が湧くでも無く、つい余計な口をついてしまう。この世界が全て幻だとの気安さも手伝っているのかもしれないが、四年前のリヴァイアス事件当時の自分からすれば、劇的な変化だと冷静に自分自身を見つめ直していた。
「俺は落ちこぼれだから、そう上手くいかないですよ…」
「なんだ、Cか」
「…ぐっ」
整備科所属の少年――アキの拗ねた反応に、祐希は遠慮の無い言い草で追い打ちを掛けた。
「ハッキリ言わないで下さいよ…、そりゃまぁ、確かに。
整備科おちこぼれ組って言われてるC組ですけど。
これでも本当は操船科――パイロットになりたかったんですよ」
「………」
「うわっ! そこで無言にならないで下さいよ!
地味にへこむじゃないですか!!」
ギャンギャンと噛み付いてくる煩い駄犬を、片手でてしっ、と抑えて、行くぞ、との低音で主導権を握る凛々しき壱型起動部隊の隊長――今も昔も変わらず戦闘部隊のエースであり続ける人物へ、アキは置いていかないで下さいよっ、と人懐こい仔犬のようにジャレつきながら背中を追い、黒の王国が剣の前へと駆け出て意気揚々と道案内の役目を買って出る、その表情は大層誇らしげ。
「なんか祐希さんって、思ってたのと違くて、全然とっつき易くて吃驚しました」
要領の悪い整備科の少年――焦げ色の髪と黒目が正に柴犬のようである――天真アキは、重い荷物を自分の代わりに黙々と運ぶ英雄の物言わぬ優しさに惹かれながら、嬉しそうな笑顔をはち切れんばかりの勢いで溢れさせたのだった。
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情緒不安定な十代の少年少女等だけで、絶望の星海を漂流すると言う過去に類を見ない異常事態に於いて、唯一の『大人』として朔原の存在は大いに子ども達の精神的支えとなっていた。
それも、ただの一般人では無く、ヴァイア艦の詳細や軍部の知識を有する『灰のゲシュペント』の艦長を名乗るものだから、心強さは相当なもので。生徒の中でも特に優秀なエリート集団であるツヴァイに任せれば、艦の航行に問題は無い。艦内の治安にはブルー一派が目を光らせている。更には、目隠しの未来を嘆き、自暴自棄に陥りそうになる子ども等の未熟な精神を、『仮』艦長の立場で支えるのは、柔らかな物腰に穏やかな人柄、透徹明晰な頭脳と手腕の持ち主である人物。
生まれ故郷へ無事に生きて帰るというただ一つ潰えかけた希望を、子ども達の誰もが胸の内に再び灯し始めた頃、不穏の火種もまた既に悪しき人の心へ燻り始めていた。
「だから! 納得いかねぇっつってんだ!!」
ツヴァイのフルメンバーとブルー傘下の年齢の割には妖艶な少女が見守る中、艦の中枢であるブリッジに鼻息も荒く激しい抗議の怒声を響き渡らせるのは、チームブルーの頭脳であり参謀役を務める少年だ。
生まれ育つ故郷が地球圏一の治安の悪さを誇るだけあり、喧嘩や荒事には慣れたものだが、残念ながら腕っ節には然程自信は無い。その代わりに悪辣な舌戦や知恵比べの辛辣な騙し合いならば大人顔負けの手腕を誇り、典型的な虎の威を借る狐といった種類の人間だ。
「何故、納得して頂けないのか…。
申し訳ありませんが、私には理解に苦しみます。
物資が限られている以上、貴方達の浪費を見過ごしていては…危険ですよ?」
「…っざけんな!! ンなの関係ねーんだよ!!
誰のお陰でこの艦が纏まってると思ってんだ!!
働きに見合った正当な権利だろうが!!」
論議し合う、というよりも、幼い子どもに言い聞かせるような朔原――黒の王国に於ける唯一の大人であり艦長職を一時的に預かる人物――の物言いに、逆に少年――フー・ナムチャイは理不尽な怒りを爆発させた。正しく駄々をこねる餓鬼そのものに、破綻した理論を翳して責め立てるが、その滑稽なまでの無様さに本人は全く気付く素振りも無い。
「貴方が主張する権利の発動は、今しばらく待って頂けると助かります。
物資の枯渇は正に死活問題…、それは理解出来ますね?」
「…ハッ、そんなこたァ分かってるんだよ!」
「ならば、貴方達のチームだけ優遇するわけに――っ、」
艦長席に坐したまま困り顔で説得を続ける朔原の喉元へ、冷たい存在感を放つ凶器が白い包帯越しにヒタリと押し当てられた。キャア、とツヴァイの女生徒が短い悲鳴を上げる。横目で掠め窺う――と、バタフライナイフ、だろうか。携帯性を重要視される為、刃渡りは短く随分と軽量化されてはいるが、ひと一人を害するには充分な殺傷能力を要するチンピラ御用達の代物だ。
こんなものをどうして――と、朔原は純粋な驚きの後、ああそうかと得心して溜息を漏らした。相手はリーベ・デルタで就学中の学生達だ。所持品の危険物チェックが甘くても仕方が無い。勿論、ある程度大目に見られていた面もあるのだろうが。所謂、学生の特権と言うやつか。
「…武器を納めて下さい。暴力(ちから)に訴えかける解決法は決して最善ではありませんよ」
「ウルセェ!! いいから、その余計な口を閉じろよ!!
何のために俺がチームに入ってると思ってんだ、オイシイ思いをする為だろ!?
俺の邪魔をするヤツぁ、思い知らせてやるんだ…っ、そう、そうだ、
思い知らせてやるんだよォ!!!」
「…フー君、落ち着いて下さい」
その場に居合わせる誰の目にも、少年の異常な興奮は『不可解』としか言い様が無かった。
閉塞された空間、限られた物資、無慈悲の簒奪者が次々と襲い掛かる悪夢の日々。
無心に大人達へ救済を求めるも、反政府テロの誤報が無力な少年達を追い詰めるばかり。
確かに、現行の極限状態に於いて、人としての正常な精神を保つのは非常に困難であろうが。
仮想世界『ロスト』は、過去のリヴァイアスとは似て非なる世界だ。
四百余名の少年少女等を不安に駆り立てる要素は、確かに存在する。しかし同時に、甚大なる懼れを取り除くだけの絶対なる心の柱、恐怖に惑う子ども等が無条件に信頼を寄せる相反する力が『ロスト』には許されているというのに、この状況で、死の影に発狂し暴走するなど考え難い。
「ちょっと、ちょっと…!
アンタ、止めなさいよぅ、それはヤバイって。
大体、その人怪我してるし。ていうか、アタシ達も困るし!」
基本的に面倒事へ関わらないスタンスを貫くチーム・ブルーの艶やかな美女――と言っても心身共にまだまだ未成熟な年頃だが――クリフ・ケイが流石に宜しく無い展開だと、血相を変えて仲間を宥めに掛る――が、暴徒と成り果てた少年は全く耳を貸す様子も無く、血走った眼で剥き出しの敵意を激しく震わせるばかり。
「…殺して…、殺してやるっ…!
どいつもこいつも…、俺を馬鹿にしやがって!!」
「馬鹿にしてなど…、一体どうしたんですか。
兎に角、落ち着いてください。これでは、話し合いになりません」
「ハッ――! 話し合いだと!? この期に及んでかよ、アンタ相当目出度いよな!!
そんな必要ねぇよ、俺が、ここで、アンタを殺して、それで終いだ!!」
「……、フー君…」
「――っ、『君』、なんて呼ぶんじゃねぇよ!! クソ野郎!!」
最早、自身ですら己の中に盛る怒りの正体が知れぬのだろう、闇雲に振るう刃から迸る狂気は、『ロスト』に於いて黒の王国の艦長を務める軍属の喉元を、真横に切り裂いた―…!!