act.2 エスポワール
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 意識は、常に茫洋と。
 しかし自我は失われる事無く、確固たる
 全なる個でありながら、個なる全という矛盾を孕む存在。

 それが――… 『 スフィクス 』 と呼ばれる異質であると。
 悲しみの甘受と共に理解に至る。
 二度と、 『 人 』 と同じ流れを歩めぬ、事実として。

 
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 太陽系に唯一存在する美しき蒼き惑星の半分を死滅させた【第三世界大災害(カラミティ・ノヴァ)】の蹂躙の痕跡であるゲドゥルトの海には、人類の理解を越えた生命体であるヴァイアが棲息している。生命の核を沸騰させ蒸発させる殺戮の特殊θ光派に充たされた死の海で、彼らが存在し続けられるのは、その悪悪魔の波動を無効化し生命活動の源として還元出来るからだ。
 だが、逆に――…彼らヴァイアはゲドゥルトの海でしか生きられない、非常に特異な生命体である。魚が水の中を自由に泳ぐ代わりに、陸では呼吸もままならずに死んでしまうのと、同じ理屈だ。
 死の海へ呑まれても明日を望む人類と、死の海以外の世界を知りたいヴァイアの種族。
 彼らの目的は合致していたが、個が全であり全が個であるヴァイアの統一意思とは異なり、個が無数に存在する人類という種族の意見を統一させるには、それなりの時間を要した。惑い、迷い、道を違え、そうして漸く導き出した結論が――…、

新天地計画(プロジェクト・ホーム)

 と、呼ばれるそれであった。

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 『昴治』

 過去と共に捨て去った名の懐かしさに、子栗鼠のように愛らしい容姿の少年――滅亡の時へ脅える憐れな人類を赦し導く第二のスフィクスは、緩やかに目覚めを迎える。デフォルメされた愛らしい白ライオンのクッションから眠たげに上体を起こし、寝起きで縺れる舌っ足らずな声で同胞の呼びかけに応じた。
「………れいん?」
「……アーヤ。寝るならちゃんとベッドへ行けって言ってンだろ?」
「…ん、分かってるんだけど。急に眠たくなっちゃって…」
 ゴニョゴニョと言い訳を口にしながら腫れぼったい目許を擦り上げる仕草が、ひどく幼くて、可愛いらしい。実際の年齢は尾瀬と同じ十八だが、灰のゲシュペントが反政府組織の【神唄(リ・ニオン)】へ簒奪され、黒の個体をも乗組員である子ども等ごと侵略された悪夢の『ラビット・グレイ』から早二年、かつて『相葉昴治』として生きた少年は十六の姿のまま、だ。いや、正確には十五か。確か、事が起きた時期は、まだ誕生日を迎えていない。
「――…ま、仕方ねーよな。まだ二週間じゃ安定してねぇし…。
 それより、応接間に祐希とイクミを待たせてあるから行こうぜ。
 あいつらにはまだ説明してねーけど、例の件で呼んである」
「…え?」
 レインの言葉に思わず固まり、優しげな色合いの瞳で灰のスフィクスを凝視してしまうアーヤに、なんだよ、とレインは首を傾げて受け答えた。暫し、二人の間で奇妙な無言の時間が生まれる。先に動いたのは、受け身の灰ではなく、福音たる少年スフィクスの方であった。
「――…、だ…、って…、え、えええ? なんで二人が? え?? ええっ??」
「この間、ちゃんと説明しただろ? お前の護衛だって」
「…そ、それは聞いたよ! …けど…、 ほ、ホントに?」
 幼さを残した空色の瞳は、不安と期待が入り混じり、泣き出しそうに潤んでいた。確かめるように問いかける口調は頼り無く揺れる。アーヤは思わず手元の白ライオンクッションを手繰り寄せて、胸元へ抱き込んだ。怖い――…、と全身で訴え掛けるその姿にレインは苦虫を噛み潰した表情で溜息をついた。
「あーのーなー。お前、本気にしてなかっただろ。無理だと思ってたろ」
「……う。
 でっ、でも、だって普通はそうだろ!? わぷっ!!」
 見透かされて返答に困るも直ぐに反撃に出る幼きスフィクスの顔面を目掛け、『新天地計画』(プロジェクト・ホーム)の先駆者である青年は、着替え一式を投げて寄越した。当然、起き抜けに衝撃の事実を聞かされて動揺の渦中に叩き落とされてた少年に回避出来るはずもなく、そのまま息を詰まらせて言葉を呑んでしまう。
「いいから、早くそれを着て出かける準備。オーケー?」
「……う、うん。分かった、けど。
 でも、出かけるって…?」
 病院の検査着のような格好でいた少年は絨毯に落ちて散らばる洋服を丁寧に拾い上げて、身支度を整える為に洗面所へパタパタと駆け込んだ。流石の高待遇というべきか、史上初の人工スフィクスの成功例――それも、人としての意識や人格を完全な形で残し、人類を破滅の運命から救う一縷の光明とあっては、用意される部屋も相応のものだ。無暗に広々とした間取りに未だに慣れないアーヤは、未だに感じる戸惑いを隠しながら、問い掛けた。
「うん?」
「出掛けるって、話。一体、何処へ? 俺って、あまり施設から出たらダメなんじゃ…」
「まー、そうなんだけど。ってか、俺かカイリが一緒なら別に出掛けてもいいんだぜ?」
 人類の福音として召されてから二年近く、茶金色の手触りの良い髪に空色の双眸といった穏やかな風貌の少年は、薬剤研究施設としてカモフラージュされた第二ヴァイア研究施設のモルモットのような生活を余儀なくされていた。高山都市『アルベレッタ』の街を一度でも自由に歩いたことは無く、その冷たい空気を感じることも無く歳月を過ごしてきた。
 ヴァイア研究私設へ運び込まれた当初は、脱走防止も含め厳重な監視が敷かれていたが、全く抵抗の意思を見せない被検体――…人類の福音となるべく選ばれし少年の従順な様子に警戒は解かれ、スフィクス化を果たした後も、特定の監察官付きという条件下であれば短期間の外出も許可されていた。
「そうだけど、二人とも軍の仕事で忙しいじゃないか。迷惑を掛けるわけにいかないしさ」
「あーのーな。そりゃ俺もカイリもそこそこ階級があるし、それなりに仕事もあるけど、俺達にとっちゃ、お前が一番最優先。毎回ワガママ言われたんじゃたまんねーけど、お前の場合は我慢し過ぎ!」
「…んー、それなんだけど。今の俺ってなんかヒモみたいでカッコ悪いっていうか…。
 ちゃんと、出来る仕事とか欲しいんだけどなぁ…」
 着替えをこなしながら呟く所為で内側に籠る声の、その内容に同胞の徒として人に在らざる生を歩む灰のスフィクスは、軽く目眩を覚えた。人が好いのも程がある――…、と。政府が自分達に何をしたのか、何をされたのか、忘れた訳ではないだろう。『人間』には赦されぬ領域を荒らし華々しい大義名分を掲げ、結局はただの――…『生』への渇望に過ぎない独善を、どうしてこうも易々と受け入れる事が出来るのか。

 ――…これが、 強さ  と言われたのなら『彼』は納得するだろうか。

「いーんだよ、そーゆーこと考えなくても。お前は、じゅーぶん役目を果たしてるって言ったろ?」
「…果たしてるのかなぁ…?」
「ああ。データ収集や実験に協力してくれてるだろ」
「椅子に座って眠るだけとか、簡単なパズルを解いたりとか、そんなのが?」
 どうにも腑に落ちない様子で小首を傾げる気真面目な性質の少年の様子に呆れ、レインは大袈裟に頭を振って見せた。
「じゅーぶんだっての。それより、服のサイズはどうだ?」
「え、と。ちょっと裾がダボってするけど…、こういうものかな?
 うん。大丈夫。着替えたよ」
 答えると同時に、支度を終えたアーヤはパタパタと軽い足取りで同胞の傍へと駆け寄る。
「お、似合うな」
 襟元の切り返し格子模様がさり気無いアクセントの白いシャツに、クロスバンドで脚のシエルエットをシャープに演出するカーキ色のカーゴパンツ。腰のラインへ巻かれた飾り糸付きの白の布ベルトは、甘過ぎず、ゴツ過ぎずの絶妙な匙加減で、少年の姿を留め続けるアーヤの幼く愛らしい容姿を際立たせていた。
「…あのさ。俺、あんまり分からないけど。こういう服って高いんじゃ…」
「気にするよーな事じゃねーよ。それより、ホラ。準備出来たンなら行くぜ」
「レインは?」
「うん?」
 外出仕様の子栗鼠のような少年とは裏腹に、特務艦隊の主力艦である灰のゲシュペントを司る聡明なスフィクスは、薬剤研究院のスタッフらしく黒のスーツパンツに白いカッターシャツといった出で立ちのままだった。軍組織に在って明確に立場や身分が確立している『シルエッティール特務中佐』とは異なり、近しい未来に滅亡を迎える人類の唯一の導き手として『アーヤ』の名を与えられし福音の立ち位置は明確化されていない。自信家で俺様、中庸を由とせず明確に己の意見を口にするレインとは違い、他人との絆や調和に重きを置く性質の少年は、自身の立場へ大っぴらに異を唱える事も出来ずに『ヴァイア研究の最重要協力者』という立場のまま二年の歳月が過ぎようとしていた。
「レインは来ないのか? 一応、俺から目を離しちゃいけないんだよな」
 ――…という名目で話を切り出してみるが、本音はそれとは異なる場所にある。『軍部』という物々しい響きの環境下で、一人ぼっちというのは少々――かなり心許無いのだ。記憶の中で面影を追い続けた弟や親友との再会は体が震える程に嬉しくもあり、また二年という空白の時間がそこへ横たわるだけに不安でもある。情けない話ではあるが、変わらず在り続ける『レイン』という存在に傍にいて欲しい、のだ。
「ンだよ。一緒に来てほしーって?」
「うん」
「………」
 幼い心を揶揄するつもりで面白半分に投げつけた意地悪な質問を、穿つ事も無く素直に肯定されて逆に困窮してしまうレインだ。黒曜の石の如く背徳的な艶を纏う異質は、ややあって、特大の溜息を吐き出した。
「…あのな。――ああ、もういいわ。
 分かった分かった。じゃあ、一緒に行くから。ちょっと待ってな。俺も着替えてくる」
「……? うん、分かった。ゴメン、無理言って。次からはちゃんと一人で大丈夫だから」
 沈黙の時間を迷惑だったかと心配して気を遣う柔らかな印象のスフィクスへ、レインは苦笑を洩らしながら否定した。そのまま部屋の端まで白衣やシャツなどを脱ぎ散らかしながら歩き、ハンガーに掛けてあった服を無造作に手に取ると、手早く着替えを終わらせる。スレンダースタイルの黒レッズジーンズに襟元にさりげなくファーをあしらったミリタリータイプのモッズコート、有事に備えて収納箇所が幾つも存在する特別仕様のそれはお気に入りの一品だ。日が暮れると途端に気温が下がるこの地域では、中を軽装にして外套を羽織るのが一般的なスタイルとなっている。
「もーちょっとまってろよー。アーヤ」
「? うん」
 漆黒の艶が独特の存在感を感じさせるコンバットブーツをその左手に、右手にはシルバー仕様のアクセサリーを拾って、忙しなく部屋の中を駆け回っている――口や態度は乱暴だが、その実優しい先達に、アーヤは聞き分けの良い返事をしてぽすっとその場に座り込んだ。
(そーいえば、この部屋も随分イメージチェンジしたよなぁ)
 ――…研究対象として連れてこられた当時に宛がわれたこの部屋は、全く味気無い空間だったのをぼんやりと思い出して、そこからの今に至るまでの事の顛末をも同時に甦ってくる。


『こちらが、用意させていただいた部屋になります』
 ――難しい話は、よく分からないままで、とにかく専門の研究施設へ移動する事だけ理解して。
 陰気な顔つきをした研究者に案内された部屋は、罪人を収容する牢獄のようだった。
 建築材が剥き出しのままの壁紙、天井の四隅に設置された監視カメラ、部屋の奥にパイプベッドがひとつだけ、床すらも施設の廊下と同じ質感で酷い衝撃を覚えて、じり、と後ずさった――と、背中がトンと何かにぶつかって、後に立っていたのは誰でも無いレイン・シルエッティールその人で。
『却下。』
 続けて飛び出した不遜な一声に、研究員は勿論、昴治自身すら吃驚して目を丸くさせた。
『……え? いえ、その…。却下と言われましても…?』
『俺が却下って言ったら却下なんだよ。まず、あのカメラ外せ。
 ばっかじゃねーのか。ンなの客を迎える部屋じゃねーよ。仮にも協力者へ向かってこの待遇はねーだろ。てーか、詫びろ。今すぐ地べたにテメェの額を擦りつけて俺様に詫びろ。この無能が』
『れ、レインさんっ…?』
 一際高い視点からの命令口調は、支配者階級特有の傲慢で満たされて留まる事を知らない。次々と飛び出てくる一方的な要求に、道案内役の平研究員は途方に暮れた様子で弁明へと走る。
『しっ、しかしですね。これは、DDD大佐の判断になりますし、私の一存では』
『…お前、ここにきてまだ日が浅いだろ』
『え? は、…確かにまだ一か月程になりますが…』
『なら、今回だけ特別に許してやる。けど、覚えておけ。ココで研究を続けたいなら、俺に逆らうなよ。新人』


「…助かったけど、あれはちょっと担当の人が気の毒だったよなー」
「なーに、一人で思い出し笑いしてンだー?」
「ちょっと、ココに来た時の事を、ね」
 身支度を整えて近付いてきた人影へ、アーヤと呼ばれる幼い容姿の少年はひだまりのような温もりで答えた。例えば、無垢な犬の仔が可愛がる人の手に無条件に甘えるような、一欠片の悪意すら存在しない、全身全霊を以て寄せらせる全幅の信頼を――…、
「…よく覚えてンな。もう二年も前だぜ」
「まだ二年だし、覚えてるよ。
 …多分ずっと忘れないと思う」
「………」
 憂慮に濡れた静謐でいて悲痛な響きに、胸の奥に確かに存在する仄昏い場所が犇めくのを感じて、レインは軽薄を気取る口を噤んだ。掛けるべき言葉など持ち合わせてはいない。『相葉昴治』という存在を人の世界から屠り、異なる流れへと引き摺りこんだのは、他でも無い自分自身だ。  ――…喩え、望まざる結果だとしても、それを口上に責任から逃れるつもりは毛頭無いのだから。

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「で、結局。俺達の任務ってのは、そのスフィクスのガキの御守りって訳かよ」
「有り体に言えばそうなりますね。彼の身辺警護及び『素体(ルキャリア)』の探索が主な目的です」
 黒革のソファに踏ん反り返るようにして腰を落ち着けている一型機動部隊の隊長に対し、階級的には上であるにも関わらず、灰のゲシュペントを兼任する特務艦隊総責任者は非常に柔らかな物腰で任務内容について懇切丁寧に説明を行っていた。
「あのさ、朔原さん」
「はい、なんでしょう」
 全く読む気が無い上司の代わりにデータファイルを手にして文書上の命令内容を確認していた相葉上級大尉の副官が、軽く、探りを入れてくるのに、ヴァイア艦隊の総責任者である若き総督は真摯な態度で応じた。
「…一応、確認しておきたいんだけどさ。
 探索で見つけた『素体』ってさ、最終的にどーなるの?」
「…申し訳ありません。私には答えかねます」
「それは、知らないって事? それとも、権限の問題?」
「後者です」
 公明正大を絵に描いたような人格者である朔原総督らしい、公私を混同しない明確な態度に、流石大が付く程の真面目な人だと、とイクミは胸中で溜息を吐いた。…どうせ、その辺りの宜しくない事情は天上天下唯我独尊俺様最上の灰のスフィクス様へ訊けば、機密も極秘も関係無く簡単に話してくれるのだろう。無理に朔原を問い詰める必要など無いのだ。
「…ふーん」
「ひとつ、訊かせろよ」
 副官と上官の微妙な遣り取りを静観していた相葉は、仏頂面に益々拍車をかけた表情で、低く、獣の唸り声かと聞き違う底暗い声で朔原へ質問を投げ掛けた。細事や面倒は全て副官へ、それはもう全力で投げっ放しな相葉にしては珍しい姿勢に、尾瀬は興味深そうに耳を傾けた。
「…俺の部隊の本分は、VF(ヴァルキリー・フラット)の操舵。宇宙(そら)での戦闘にあるはずだな。対象がスフィクスだろうとなんだろうと『護衛』なんざ専門外だ。なのに、何故こんな話が俺達に来る。それこそ、アイツにでもやらせりゃいいんじゃねーのか」
 相葉が暗に示す人物に思い当たり、朔原総督は白衣を翻し長い脚を組み直して、難しい顔をして見せた。
「…彼、ですか。確かに、最適な人物ではありますが」
「んー、今回の任務がイヤだとか言うわけじゃないけど。俺も、隊長の意見に賛成、かな。護衛役なんて一石一長で出来るモンじゃないっしょ? 俺達じゃないと駄目な理由があるなら別だけど?」
 壱型機動部隊所属の隊長と、その副官として軍へ所属し、互いに支え合う関係となって二年。長くも無いが、決して短い時間でも無い。人の業や理を鮮やかに薙ぎ払い、己が道を真っ直ぐに突き進む苛烈な上官が、決して愚拙と呼ばれる生き物では無い事はとうに察していた。
 専門外の任務(シゴト)が気に入らないと駄々を捏ねているだけなら、話は単純だ。しかし、そうではなく――…、
「ソイツが、レインの奴と同族ならコイツがヘマをしても、サイアク死にはしねーだろうけどな。わざわざ護衛役に素人を起用するなんざ、マトモな判断じゃねーな。俺達が『リヴァイアス事件』と『ラビット・グレイ事件』の当事者だからって点を差し引いても、腑に落ちねーんだよ」
「だいたい、あの人だって同じ条件だしねー?」
「………」
 当然、指摘されるだろうと予測していただけに、瘡蓋(かさぶた)だらけの白々しい『模範回答』は用意済みで、それを物々しく口にするだけで、子ども等はおそらく呆気無く納得する――してもらえるだけの信頼を受けていると、自負している。それを逆手に取る悪辣な行為が、決して好ましくあるはずもなく。
「――理由が、あるんです」
「えー? どんな?」
「…それも、私の口からは申し上げられません」
「またそれ? 肩書きの割にはさ、ケッコウ、制限多いよね。朔原『総督』」
「…総督呼びは勘弁して下さい。それに、私は所詮飾り物ですからね。シルエッティール特佐の足元にも及びません。委細に関しては兄を問い詰めて下さい」
 額面通りの受け答えしか出来ない堅物を気取りながらも、素知らぬ顔での答え合わせ。朔原が兄と呼ぶのは、自由気儘で奔放過ぎる灰のスフィクス。人類と正しく意思を通わせる、初の成功被検体。仮初の抑止力ならば幾らでも、ただし、本当の意味で彼を縛るモノは何も存在しない。
「んー、しょーがないか。ホラ、祐希君も、何時までもそんなブッサい顔してないでさ。レインに直接訊けばいいじゃん。極端な話、あの人に逆らえる『人間』なんていないんだしさ。難しい立場の朔原さんを苛めてても、どーしようもないっしょ」
「…テメェは、相変わらずお気楽だな」
「ゆーき君は考え過ぎ。いっつも、眉間に皺寄せちゃってさ。笑うと可愛いのに、勿体無い」
「妙な言い回しは止めろと何度言えば…」

 ピルルルル、ピルルルル

「――…失礼。…はい。
 ああ、俺だ。どうかしたのか。なるべく……、だと、…ああ…」
 白衣の内ポケットで震えながら耳障りな電子音で存在を主張する携帯カードを取り出し、一言、非礼を詫びて席を立つ。退室ではなく部屋の隅で報告を受けるのは、特に訊かれて困る内容では無いからかなのか。それとも、軍属経験も長い大人の視点からすれば一回りも年の離れた相手など、子ども過ぎて警戒するにも値しないと軽んじているのか。
(…まー、どっちでもいいけど)
 高山都市アルベレッタへ召集を受けてから一貫して不機嫌な上官は気に喰わないようだが、銀灰色の髪の無駄に艶を孕む翡翠の眼差しの青年は、年功序列の古風な思想が浸透する軍規や世間知らずの若造と有能な人材を見縊(みくび)る態度が酷く気に入っていた。
「…確認はしたのか。――ああ、そうだ。もう一度。……緊急コールは?」
 片足で容易く踏み殺せると嘲笑っていた虫ケラ相手に、権威者の富や名声といった大層ご立派な身形(みなり)を剥ぎ取られ、惨めで憐れな道化師(ピエロ)の中身を晒しながら――卑しく爛れた瞳で見上げられるのが、何よりの快感だった。
(…ゆーき君に言うと引かれるから、言わないケド。
 好きなんだよねー、ぶっちゃけ、ゾクゾクするっていうか…、うん、堪んない?
 すっげー上でエラそうに踏ん反り返ってるヤツ程、こう、土を舐めさせたいっていうかさー)
 三年前のリヴァイアス事件、二年前のラビット・グレイ事件と、共に死線を越えてきた間柄である親友が、己を副官しとて任される『壱型機動部隊』は『新天地計画(プロジェクト・ホーム)』に関する特化専用部隊として設立された特殊部隊だ。表向きVFのパイロットチームとして銘打たれるのだが、隊長である相葉の興が乗れば、計画とは関係の無い荒事でも引き受けることはある。例えば、大局を見失った汚職政治家の検挙や、闇ブローカー摘発行為、そして反政府組織の鎮圧等が挙げられる。
「確かなのか…?」
 『壱型機動部隊』としての本来の目的とは異なる活動・作戦に於いて、かつての上に見上げた武官や文官を蹂躙する機会に多く恵まれ、其の都度、昏い歓びに充たされていたのだが――…、
「…分かっている…。ああ、そうだ。いや、まだ必要無い」
「………ゆーき君、ゆーき君」
「その呼び方は止めろ」
「うんうん、分かった。気をつけるね。で、ゆーき君」
「……なんだ」
 馬鹿につける薬は無いと早々に見切りをつけ先を促す辺りに、成長の軌跡が窺える。無論、尾瀬の言わんとするを察しての特別措置ではあるのだが。
「なんか、ヤバ気な感じしない?」
「…遅いな」
「ん?」
 唐突な話題の転換に虚を突かれたように翡翠の瞳を丸くさせる副官へ、黒襟でラインをスッキリとさせた白の半袖開襟シャツと、細身のローライズジーパンといった、軍属にしては随分と身軽な姿――というか、分かり易く言えば都会の街角で見掛けるイマドキの若者風味――の青年は、ぽつりと疑念を投げ掛けた。
「…レインの奴だ」
「あの人は基本自由だしね。ま、それでも確かに…、かな」
 『新天地計画』の核を担う最重要人物、灰のスフィクス『レイン・シルエッティール特佐』の自己都合主義は今に始まった事では無い。好まなければ捨て置く、興が乗れば突然に行動に出る。気儘で気位の高い性質は、上流階級で過分に養われ無駄に品格を備えた愛玩猫そのものだ。
 ピッ、と短い電子音と共に通話を終わらせるオールバックの青年は、分かり易く、大きな溜息を。
「…申し訳ありません。少し、問題が……、失礼」
 苦渋に満ちた表情で相葉上級大尉及び、その補佐を任される尾瀬上級中尉へと振り返ると、続けざまに鳴り響いた呼び出し音に、再度話を中断させられてしまう。
「……はい。…ファルネウス上級大佐!? 失礼しました…っ、え?
 え、…いえ。…ええ、え? それでしたら、先に連絡を頂けませんと…!
 ――…はい。いえ、……はい。……申し訳ございません。
 いえ、私と彼らだけです。ええ、例の場所ですが…、 はい」
 また内部からの通信かと思いきや、それは意外な人物からの連絡だったようで、朔原の口から飛び出た名前に尾瀬はふぅん、と面白がるように首を傾げて、忍び笑いを洩らした。
「…ねぇねぇ、遊佐サンだってさ」
「最悪だな」
「あはは、あの人苦手だもんねー。ゆーき君」
「…ウルセェ」
 普段なら全力で噛み付いてくる揶揄を含んだ科白に対して、精彩を欠いた悪態を吐くばかり。この様子からも相葉祐希なる青年が、今し方、話題となっている上官を如何に不得手としているのか窺い知れようというものだ。図星を指されてそっぽを向く子どもじみた仕草が可笑しくて、つい、微苦笑が漏れてしまう。
「…例の件、ですか? …いえ、そんな事は…、はい、ええ、はい。
 ――…はい? そっ…、……いえ。
 しかし、僭越ながらその件にかんしては…っ、いえ、それは…存じておりますが……」
 蚊帳の外扱いになっていた実行部所属の軍属達を朔原総督は困惑の視線で一瞥して、ふるりと首を振る。眉間の皺は何時にも増して深い。実行部の総責任者であるファルネウス上級大佐も大概に破天荒な人物だ。最近知ったのだが、人類の存亡を左右する灰のスフィクスとは同期の桜、腐れ縁の仲らしく、手の掛かる上官二人に苦労性の朔原は常に翻弄されているらしい。
「…賛同致しかねます。…はい、――それは、…はい。
 しかし、何も…その場所で無くとも……、いえ、それは勿論ですが…」
 歯切れの悪い受け答えを繰り返しながら、白衣の胸ポケットから取り出した万年筆の蓋でカチカチと手遊びを始める。特別な意味を含まない仕草は、精神安定代わりの無意識下の癖なのか。
「ええ、分かっています。…けれど…、ええ…。 ……はい。
 しかし…! やはり、問題が…、はい。
 ……そう、ですが…、しかし…。場合によっては、……ええ、
 そこまでおっしゃるのであれば…、分かりました」
 例の如く無理難題でも吹っ掛けられたのか、渋面は相変わらず。通信カードの保留ボタンを操作すると同時に、手慰みの万年筆の蓋が大きく弾け飛んで、尾瀬の足元へと転がり落ちた。当然ながら、一型部隊の隊長である黒髪の青年は詰まらなそうに一瞥をくれただけで、非社交的な上官に代わり補佐を務める尾瀬が、黒艶に金牡丹の意匠を凝らしてあるキャップを拾い上げようと屈んで腕を伸ばしかけ――…、
「…申し訳ありません」
「へ? ……!?」
 気真面目な人格者である朔原の弱り切った響きの声に不穏さを感じ取り、弾かれるようにしてあげた視線。戸惑いと罪悪感に大きく揺らぐバイオレット・ダークの双眸は、静謐そのもの。続け様に襲い掛かる視界と意識の混濁。何らかの正当な理由に於ける行為なのだと、分析は働く。しかし、突然の凶行に対し、主人格という抑止力を失った影は反射的に牙を剥く。

 薄れゆく意識の端を掠めた艶美な血飛沫の、まるで、彼岸の牡丹のように麗しい、



罪の色


 しまった、とか。やばい、とか。ごめん、とか。

 単調で単純な言葉が、闇で点滅する光のように瞬いて、思考は途絶えた。

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 喉元を狙ったと思われるナイフは、首筋を掠めて背後の壁へ鋭利な切っ先を喰い込ませていた。威嚇の為――では無く、おそらくは『後で覚えていろ』という意思表示で撃たれた銃弾は大きく目標を逸れて、観葉植物の幹を貫通していた。刃先が大きな動脈に触れたのか、白衣の襟は既に出血でベッタリと赤い。止血効果のある救急スプレーで簡素な応急処置だけ済ませて、意識を失いソファへ全身から沈み込む『一型戦闘部隊』の隊長と副官。その二人の呼吸や脈拍について異常の有無を手早く確認すると、暗号通信で繋がる人物へと保留解除の後に報告。
「…二人とも眠りました」
『流石だね。君の手際には何時もながら感心させられるよ。朔』
「いえ…」
 抑揚の無い単調な声で淡々と応じながら、朔原は意図的に床へ転がした万年筆の蓋を拾い上げた。いや――それは『万年筆』を模しているが、実際の用途はご覧の通りで、文具といった平和的なものではない。本体部分に仕込まれている少量の無味無臭瞬間昏倒効果の特薬を、拡散機能を搭載したヘッド部分に注入して使用する緊急護身用の暗器の一種だ。如何な事情であるとはいえ、命の恩人に使う羽目になるとは、と軽い自己嫌悪に見舞われ、朔原は大きく肩を落とした。
『…朔、もう彼らは眠ったんだろう?』
「はい」
『なら、映像もあげてくれないかな。私がSO通信嫌いだってのは、説明しているはずだね?』
(補足:SO=サウンドオンリー。音声のみの通信の事)
「…存じ上げておりますが…」
『……朔?』
 反撃による傷は意外にも深く、携帯カードの小さな画面越しではあるが、おそらく負傷の事実が伝わってしまう。――…そうなると、少々面倒だった。血濡れた白衣を手早く脱ぎ捨て、清潔な白の壁に喰いつく白刃を片手で引き抜くと、纏めてソファの裏側へと押し込む。掛かる作業に、十秒ほどの不自然な空白地帯。聡明な上官を相手取り、異常を勘付くなという方が無理な話だ。
『…朔。どうしてSOを解除しないんだい?』
「――…申し訳ありません、通信状態に問題があるようです…」
 どうにか場を切り抜けられないかと――分が悪さは重々承知の上での、賢しい悪足掻き。
『カイリッ!』
「――ッ」
 と、意外な人物が割入るように飛び込んできて、朔原は動揺を強く現した。
『カイリ、大丈夫か? 本当に通信状態が悪いだけだろうな? 何かあったんじゃないだろうな?』
「……に、…シルエティール特佐。ご心配には及びません」
 思わず『兄』と呼び掛けそうになり、寸でのところで思い留まるのを、無論向こう側の二名には正確に伝わってしまう。特に、ファルネウス上級大佐は愉快な見世物を楽しむように、声を弾ませた。
『普段通り呼んでもらって構わないよ。これはプライベート通信だ。私に気兼ねする必要はない』
「…そういうわけには参りません」
 レイン・シルエッティール特佐を『兄』と呼ぶこと。それが公私を切り分けるスイッチになる事を自覚しているだけに、朔原は遊佐の提案を丁重に断った。私情が混じれば必ずそこに甘えと隙が生まれる。軍属として誇り高くあり続ける事を己を科し続けるカイリだけに、受け入れられぬ申し出だ。
「特佐。…ご心配をお掛けして申し訳ございません。引き続き、任務を遂行致します」
『ホンットに、大丈夫なんだろうな…』
「はい」
『朔はお前と違って優秀だからね。何か問題があれば、報告するさ。
 …相変わらず弟に激甘だね、レイン』
『当ッたり前だろ。俺は、カイリが可愛くて可愛くて可愛いんだ』
『…ブラコンもそこまでいくといっそ清々しいね…。
 では、朔。後は予定通りに頼むよ?』
 惚れ気も、ここまで胸を張って言えれば立派なものだと呆れを多分に含んだ上官の忍び笑いに、流石に気恥しさで居た堪れないヴァイア艦隊総督を務める青年だ。
「…畏まりました」
『それでは、私は席を外すとしよう。…安心して話したまえ』
「……、お気遣い感謝致します」
『サッサと行け! …ったく』
「………」
 愛しい人に愛される事、与える以上の強さで求められる幸福。それを『当然』とする傲慢さを失う程度には、カイリ・朔原たる人物は不遇であった。過去に襲った突然過ぎる死別(わかれ)、遠くない未来に用意された別離。隙間なく心を寄せても、幾度身体を繋いでも、確実に『最期の日』に追い詰められてしまう。
『…カイリ?』
 回線越しでも十分に感じられる無尽蔵な温もりに、急激に緊張が解されてゆくのを感じて、幸福感に眩暈を覚える。ストンと気が抜けると同時に、簡素な応急処置だけの創傷部がじくじくと存在を主張し始めて、しまったな、と酷く曖昧で薄弱な感想が横切るのを他人事のように見送る。
『…カイリ。お前、本当に怪我してないのか?』
 そして、相も変わらず聡い――…、と、降伏宣言代わりにカイリは正直に負傷の現状を告白した。
「――…遊佐さんには言わないで下さいね」
『…! したんだな?』
「少しだけです。首を…少し。
 寧ろ、この程度で済んで良かったですよ。
 彼らの初期仮想訓練の結果は伝説ですから。
 …子どもの成長は特に早いですね。この二年で見違えるようです」
『…くっそ、遊佐のヤロウ…』
 パシッ、と掌を拳で打つ音がして、その不穏さに、念の為とカイリは再び釘を刺した。
「くれぐれも、内密にしてください。
 遊佐さんにバレると、面倒ですから」
『……ちょっと待て。アイツ、お前にも…、か?』
「精神病の一種ですし」
『つっても…ッ。あのバカ、ひとの所有物(モノ)に…!
 だから、俺がやるっつたのに……。
 もしかして、お前に怪我させるのが目的じゃねーだろーな』
「…流石にそれは無いんじゃないですか。
 それと…、過保護にも程がありますよ。兄さん」
『過保護で悪かったな』
 かつて人として生きた、愛おしいばかりの残骸(スフィクス)は、弟の淡泊過ぎる反応に面白く無いと臍を曲げてしまったようだ。可愛い、と咄嗟に昂じてしまう位には惚れ抜いている自負がある。幼い時分より天の寵児として誉めそやされ、また周囲の言葉と期待通り、美しく明晰であった兄は、誰よりも誇らしく自慢であった。限り無く憧憬に近い、何か。姿も無いまま成長したそれを、漸く自覚したのは、皮肉にも――…、
「愛しています」
『……へ』
「それでは、また後で。兄さん」
『ちょ! まっ、…カイリッ!?』
 不意打ちの告白に虚をつかれ、完全に時を止めていた灰のスフィクスの狼狽ぶりに、僅かばかりの優越感。馬鹿げた自己欺瞞。繰り返す言葉の重みに、息も継げなくなる、癖に。それでも、止められない、抑えられない、手放せない。

 喩え、過ぎたる代償が必要であったとしても。

「………」
 携帯カードの通信を切り、白衣の内ポケットへ仕舞い込むと、前髪の乱れを蒼に桜紋の意匠が透明感を際立たせる手鏡で確認して、今度は苦さだけを含んだ重い溜息が。ソファに横に沈み込むのは灰色の毛並みの猫。もう一匹の気性の荒い黒豹は――…、
「……っ!」
「……よォ。…ふざけた真似、 …してンじゃ、ねーか。
 黒幕は、 遊佐 … か ……」
「…いつ… 、から」
「最初からだ…、 銃は … 気を逸らした… だけ …」
 左手の掌を顔の前に、タネ明かしとばかりに緩慢な動作で指をひらいてゆく。中から零れ落ちたのは、彼の親友であり副官でもある無二の存在の柔らかな髪を飾っていた、翡翠の蝶花の髪留め。力を込め過ぎたばかりに無残な残骸と成り果てたそれの、しかし金具部分は確実に内肉を喰み痣と成す。鬱血する青黒い蝶の文様は不気味さの中にも抗い難い美しさを有していた。
「…悪いが、 …薬事… っ耐性訓練は受けてる」
「………」
「――…、…アンタが本気でヤバイ薬を使うとも、思えなかったし、な」
「………」
「少し、気を…散らせば耐えられると、踏んだ」
「………」
「何より、命を預かる部下の前で無様を晒す分けにはいかねェな」
 射抜く瞳の力強さに、息が止まった。ここまで追い詰められては、もう全面降伏一択しかありえない。燻し銀にも程がある。これでは、女性士官に騒がれるのも道理だ。粗野で凶暴、直情型の短絡思考、それら軍属としての不安要素は、二年間で周囲を欺く手段として成長していた。派手な色彩、奇抜な姿形の仮面で相手の注意を惹きつけての策謀には、心底――…、
「――…参りました」
 何という矜持、不遜、絶対的且つ圧倒的な輝き、蹂躙者が生まれ持つ偉大なる天恵(カリスマ)
 相葉祐希という人格へ軍の所属を提案したのは、最大の失策かもしれない。
 安寧な檻の内で静かにまどろむ猛獣の仔の鼻先に、生血滴る生肉を吊り下げたようなもの。
「本当に、大したものです。相葉く… 、いえ、相葉上級大尉殿。
 ……惚れ直しましたよ」
 気真面目が服を着て歩いているような堅物の口から飛び出た不釣り合いな冗談に、一型機動部隊を率いる漆黒の長髪に常に周囲を威嚇する宵闇の色をした双眸の持ち主は、勝利の確信を得た。おどけた科白の裏側に潜む敗北宣言を受け、小綺奇麗に整う容姿に不敵な笑みを浮かべる。
「そういう戯言は兄貴に言えよ。小躍りして喜ぶんじゃねーのか、アンタのトコのブラコン」
「…貴方も、相当だと記憶しておりますが?」
「――…は? 何の…」
 話かと、剃刀の鋭さに似た切れ長の眼差しを剣呑とさせるのは、年若いながらも尉官にまで昇進してみせた青年。しかし、ヴァイア艦隊――といっても、現状では三艦隊だけではあるのだが――を任される優秀な軍属は、懇切丁寧な解説は過分であると、『意図的な失言』の輪郭を暈(ぼか)して、予め用意されていた台詞を鼻先に突きつけ場面を切り替えた。
「上を着替えて参ります。十分程、お待ち頂きたい」
 真っ直ぐに伸ばされた背筋、颯爽とした足取りでソファの裏側に転がる白衣と、その中にくるみ込んだ小型のナイフを拾い上げる。充分な殺傷能力を有する護身用ナイフの表面の――おそらくは、人の血肉といった――曇りを褐色の沁みがついた白衣の裾で拭き取り、床へ転がったままのハンドガンも片手で取り上げると、応接間に相応しい上品な香りがするテーブルの上へ整列させた。
「…コイツはこのままでいいのか?」
 先刻の謎めいた言の葉は心の隅で小さく爪を立て、僅かばかりの違和感を主張するが、正体を問い詰めるには情報が少なすぎる。その、必要性も低い――はず、だ。気に留める必要もない。取るに足らない。その、はず、なのに――…・、
「………」
 靄掛かった苛立ちは取り合えず意識の端へ無理やりに追い払って、壱型機動部隊を率いる黒髪の美丈夫は、率直な疑問を朔原へぶつけた。
「問題ありません。この部屋から直接地下へ移動します」
「地下?」
「ヴァイア機関最高機密―― 『地下都市:エスポワール(希望)』。

 おめでとうございます。
 誠に残念ながら、これで貴方は我々の共犯者。
 ――史上初、稀代の背信の都へようこそ」
 初耳だと不審気に声を尖らせる野生的な魅力の青年へ、潔癖で篤実(とくじつ)な雰囲気を纏う総督――カイリ・朔原は、もう引き返せない道だと、謳うように朗々と、実に一遍の曇りすら無い晴々しい笑顔で歓迎の祝辞を完璧な一礼と共に披露してみせた。

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2009/1/8 初稿



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