Act.3 クリムゾン
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――荒唐 無稽 な光景が、恥も外聞も、 見境い すら無く、誇らしげに胸を張る。
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灰の艦長とヴァイア艦隊総督の二重の責を負う、志操堅固(しそうけんご)が服を着て歩くと揶揄を受ける人物が明言した通り、応接間ごと地下へと何層も潜り続けてゆくと、地上にあるそれと全く遜色無いはずが、天井を照らす人工灯も何とはなしに心細く思われ、曖昧な不安は寄る辺も無く、ひとの本能である暗闇への恐怖を駆り立ててゆく。
首筋の傷を隠すために薄手の若葉色が柔らかな印象を与えるハイネックセーターへ着替えた朔原は、顔色ひとつ変えずに、ソファへ腰を落ち着けていた。何処まで降りるのかと訊ねれば、にっこりと、完全無敵の微笑みで軽くあしらわれる。一方的な共犯宣言を受けてより、ものの数十分。この僅かばかりの時間に随分と待遇に落差が――…、
「…アンタ――…、」
忍耐、という言葉が呆れる程に似合わぬ猛々しい風情の若き軍属は、頭上から押し潰されそうな窮屈感と閉塞感に、終ぞ、耐えきれずに、何事か口を開きかけた途端、先手を打つように的確に、三十路を越えたばかりというのに、風格と品格を兼ね備えた佐官はぴしゃりと言い放った。
「そろそろです。なかなかに絶景ですから、よく、ご覧頂いては如何ですか?」
「……なにっ…」
が、と問う機会を奪うかのように、壁の面積に幅を利かせる広い窓から、光の洪水。真闇の中で仄かな灯火を頼りとしていた目が、一瞬、怯むように眩んで、しかめっ面に腕を翳した。
「――…なんだ、一体」
そして、憮然としたままで、窓へと近付く。他人(ひと)の思惑通りに行動するのは癪ではあるが、無暗な反抗こそ意味も無い。時と場を弁えた分別は、軍隊勤めの間に脈々と培われたものだ。清濁併せ呑む潔さ、その深さは、当然ながら勢いばかりの二年前と比べるべくも無い。
「―――これは…、 」
人間的な成長に伴い凄味を増した、端正な張り子ばかりで無い横顔に、生粋の驚愕の色。
「………」
絶句。
息を呑む暇(いとま)すら無く、圧倒されるは、荘厳美麗たる理不尽な偉観。
「……なんだ…、 これ……」
「希望と名付けられた街の眺望は如何ですか?」
「……これが街…? ……どうやって……」
歪みの無い街並み、遠くには青々と連なる群峰、高く突き抜けるばかりの蒼天、そして――…、
「……太陽…?」
光の在り様よっては藍色に煌めく闇の雫のような双眸を、左手で庇うようにしながら、相葉は感じたままを口にした。地下都市、と言う言葉が虚言で無ければ、正しく、今目の前の光景は『地下』であるはずだ。それも、体感だが300メートル以上は潜った場所で、何故、燦々たる光が注がれるのかと、率直な感想を述べるなら、在り得無い、だ。
「勿論、本物ではありませんよ。あれは疑似天体です」
「…なら、あの山も作り物か?」
「いえ、あちらは自然そのままですよ」
「――…なんで、地下都市に山なんてあるんだ。ふざけた発想だな…」
徐々に地上――という表現が適切かどうかは不明だが――に近付くエレーベーターからの景色は、街中へと焦点を合わせてゆく。『地下都市:エスポワール』と朗じられた街は整然として機能美を追求した姿であった。但し、街として成り立たせる為には『あるモノ』が決定的に欠けている。確実な違和感に、上級大尉の位を授かる青年は鍛えてある両腕を胸の位置で組み合わせた。
「…おい」
「はい」
「なんで、誰もいねーんだ。この街」
「堂々としたものですが、これでもヴァイア機関最高機密ですよ?」
「さっきも言ってたな、それ。
――…どういうことだ?」
「詳細については、後ほど説明させて頂きます。――…相葉上級大尉殿」
勿体ぶった言い回しに、相葉は不快そうに眉を顰(ひそ)めると、窓際から鷹揚と身を翻した。ラビット・グレイ事件以降伸ばしたままだという長い髪が、持ち主の動きに合わせてユラリと左右に揺れる。その様は、まるで自身の不機嫌を声高に主張する黒猫の尻尾の動きを擬えていた。
「…で、コイツは何時まで寝かせておくんだ?」
「今暫くは、そのままでお願いします。
エスポワールの情報は諸刃――自滅の覚悟が必要になります。
知らずに済めば、それに越した事はありませんから」
「…フン」
史上初のスフィクス化成功例として方々に名を馳せるレイン・シルエッティール、その実弟である朔原の配慮を、実に結びつかぬ無意味なものとして、祐希は傲慢不遜の応で鼻先で弾き飛ばした。敢えて明言は避けるが、既に手遅れだ。軍属として過ごした二年の歳月は実に有意義であった。二度に渡る命の瀬戸際は、自身の未熟さと無力さを痛感させるに充分な機会だった。我武者羅な鍛練は時に無茶無謀として侮られもしたが、結果、潜在的な能力は大きく開花した。
(…尾瀬のヤツも、とっくに薬なんざ切れてンだよ)
尾瀬が昏倒した素振りを続けるのには、それなりの理由がある。無知で無能の被り物で爪を隠す方が、何かと都合が良いのだ。悧巧で嘴(くちばし)の囀(さえず)りも美しい雲雀は、人を魅了し過ぎる。"人の目は欺くものだ。人の言葉は疑うものだ。人の心は裏切るものだ。"軍の下士官が戯れに口にする裏軍規三カ条は中々的を得た内容だと、相葉は浮かぶ皮肉に口端を歪め、徐々に迫る疑似地上へと視線を流した。
「……?」
『新天地計画』(プロジェクト・ホーム)の要であり人類の希望でもあるスフィクスと、それぞれ縁深い三人を乗せたエレベーターは降下を続け、やがて全面ガラス張りの巨大な筒状の建造物の中央へと入り込んで行く。その先――おそらくは、エレベーターの昇降口付近――に向って歩く人影を認め、上級大尉の位を授かる若き軍属は、元より良くない人相を更に剣呑とさせた。
「なぁ」
「なんでしょう」
「アンタ、出迎えでも頼んだのか?」
「……?」
不変たる傲慢不遜の態度で以て相葉は疑問の先を指先に示した。促されるままに禁断の地へと続く窮屈な箱から地上を覗き込むと、確かに何者かの存在が。不測の事態を前に怪訝そうに表情を曇らせる朔原だが、事の次第を確かめる間も無く、"地上"へと向かうエレベーターは高度を下げて、人影は観察の視線から逃れるかのように死角へと隠れてしまった。
「いえ――、ファルネウス上級大佐やシルエッティール特佐からは、聞いておりませんが…」
しかしながら、気紛れが服を着て好き勝手歩いて回っているような気質の兄と、完全無欠の自己完結型マイペース人間の上官の事なので、気が向いて出迎えに来る可能性は充分にある。ちなみに、当初の予定に変更が生じても多くの場合に再連絡は行われない。自由過ぎる上官達に常に頭が痛い苦労性の若き総督だ。
「ふぅん? ま、こんな場所でたった一人でテロを仕掛ける馬鹿もいねーだろ」
先に疑念を口にした相葉上級大尉は、朔原の返答に然して興味も無さそうに言い捨てると、尾瀬が倒れ込むソファの上へ、勢いつけ無遠慮に腰を下ろした。反動でクッションが大きく沈み込むが、銀の毛並みも上質な純血種の猫のような彼の副官が目覚める気配は無かった。
「そう、…ですね」>
心ここにあらずといった風情で相槌を打ちながら、朔原は念の為に兄へ確認をしておくべきかと思い悩んだ。――が、もしあの奔放な兄が此方の不意をついて驚かせようと企んでいるのなら、問うだけ無駄だ。何喰わぬ素振りでシラを切られるのがオチだろう。それどころか、計画が不発に終わった事に不貞腐れて、理不尽な怒りの矛先を向けられかねない。それに――…、
「…特佐が迎えに来られたのかもしれませんね」
先程の通信では随分と此方を気に掛けている様子だった。既に出血も止まっており、致命傷と言う程のものでは無いが、危険な部位に手傷を負った事も伝えてある。怪我の程度を心配した兄が遅い到着に焦れて出迎えにきたとして――それは寧ろ自然ですらある。
敢えて明言するものではないが、その程度の自惚れはあるのだ。
最も考えられる可能性に落ち着いたところで、エレベーターは地下都市の入口へと到着した。ポーン、という小気味良い音に、続くのは軽微な着地振動。
「さあ、着きましたよ」
「…みたいだな」
この場所は確かに先程までの応接間だというのに、それが丸ごとエレベーターの一室になっているというのは、どうにも違和感が拭えない。人間という種の思い込みや刷り込みは根深く。かくあるべき、と覚え込まされた固定観念に対しては、理屈で理解してもなかなか頭が馴染まないようだ。
「まずは、ファルネウス上級大佐とシルエッティール特佐の元へ参りましょう。
黒のリヴァイアスの姫君(ティターニア)に代わるスフィクスの少年も、一緒ですから。
――委細に関しては、お二人に纏めて窺って下さい」
目的階へ到着したエレベーターは、組み込まれるプログラムに従い扉を左右へ開いてゆく。
「…おそらく、出迎えにきて――…、」
――るのではないか、と軽やかに続ける予定だった朔原の言葉が、不自然に途切れる。知的な魅力を倍増させる切れ長一重の闇紫の双眸は、開け放たれた扉の向こう側に釘付けられていた。
「朔原『総督』? 如何されましたか」
幾らヴァイア機関の最高機密として存在する地下都市内と言えども、何処に『敵』の目があるか知れたものでは無い――と、相葉は軍属として遵守すべき規律に従った姿で、上官である朔原の元へと歩を進めた。
「いえ…」
灰のゲシュペントの艦長だけでは無く特務艦隊の総責任者を兼任する、凛々しき尉官の困惑に揺れる紫闇の瞳を認め、肉食獣の尾に似た長い後ろ髪が印象的な美丈夫は黙って視線の先を追った。そして、常日頃から剣呑とした気配を宿す闇に近い群青の双眸を、不機嫌そうに尖らせる。
「コンバンワ。待ってたよ」
軍属等の視線の先には、不健康に痩せ細った子どもが、いた。
歳は――、外見だけでいえば十を数えた頃合いか。
特徴を訊ねられたのなら、可愛らしい、とでも答えておけば適当だろう。
右へと流れるラインのローズグレイのマッシュヘアに、くるりと大きな両目の色は、臙脂。幼い――、少女とも見紛うような容姿だ。丁度、腰辺りに頭がくる程度の身長で、丈の長さが膝小僧の先辺りまでのブカブカの白いダウンシャツを羽織った姿でいた。
熟れた肉体を持て余す肉厚的な美女や、瑞々しい肢体が眩しい美少女が同じ格好で目の前にいたのなら、さぞや扇情的だろうが、相手は、平坦な体つきの子どもだ。出で立ちの異様さや非常識さは、この際問題では無い。寧ろ――…、
「…コイツ、何だ?」
何故、このような『モノ』が『ココ』に居るのか、疑問はその一点に尽きる。
「…分かりません」
ヴァイア機関の最高機密であると高らかに朗じられた『地下都市エスポワール』において、機密の共謀者である『カイリ・朔原』が認識していない、という時点で既にそれは『異常』として認識されるモノであるべきだ。相葉は全身に緊張を巡らせ、突然の襲撃や非常事態に対して構えた。
「やだなー、そんなに怖いカオしないでよ」
小さく、か弱く、無力さの体現のような『子ども』を模した存在は、無邪気な笑顔を浮かべながら、仰々しく溜息をついて見せた。まるで相手を小馬鹿にするような横柄な有様だが、そこに悪気は感じられない。寧ろ、好意的ですらあるのが逆に不気味だった。
「…お前は何なんだ」
反射的に口をついた疑問に対して『それ』はさも面白そうに小首を傾げた。
「ボク? ボクの事を知りたいの?
そうだなー、取りあえず名前だけ教えてアゲル。
ボクは、『フレイヤ』って言うんだ。
パパが僕にくれた名前なんだよ」
流暢ではあるが拙さを残す話し方の得体の知れない子ども――フレイヤ――は、『パパ』に貰ったという自身の名前を、まるで宝物のように大切にしているようだった。
『パパ』とやらが何者を指し示しているのかは不明だが、くすぐったそうにはにかむ姿には、確かに感じ取れる新愛の情。子が親をまっさらな心で慕うに似た感情の在り様に、相葉は眉間の皺を更に深いものにした。
「おい、その『パパ』とやらは何処にいるんだ」
「パパ? パパはね、遠くにいるんだ」
「遠く?」
「うん。とっても遠い場所にいるから、今はまだ迎えに来て貰えないの」
「…なら、迎えが来るまで大人しくしておくんだな。
おい、朔原。レインに連絡は取れないのか?」
相手が子どもでは埒が明かない、と早々に会話を切り上げて、相葉は先程から通信を試みる朔原へ話を振った。
「――それが…」
壱型機動部隊の隊長である青年と、謎めいた子どもが短い遣り取りを行う傍ら、朔原は通信カードで兄への連絡を幾度も繰り返していたが、全く反応が無かった。通信圏外を示す赤いランプが不規則に点滅するのに、諦め気味に溜息を吐いてみせた。
「駄目ですね。急にカードが通信不能になりました」
「はぁ? 故障かよ?」
「いいえ。プライベート用のカードも使えませんから――…、何者かが意図的に通信を阻害している、と考える方が自然でしょう」
「………」
ヴァイア機関最高機密である地下都市『エスポワール』に起こる不測の事態――、それも人為的な、となればそこに悪意の存在を確信せざるを得ない。チッ、と小さく舌打ち、しなやかに美しい獰猛を内包する黒髪の青年は、上官である朔原総督へと横柄な態度で問いかける。
「どうする? 一度上に戻るか?」
「そうですね、地上施設にあるコントロールルームから直接連絡を――…」
「駄目だよ」
妥当な判断を下す朔原に向い、厳重にラッピングされたプレゼントのリボンを解く前の子どものように、期待と興奮に満ちた表情で事の成り行きを見守っていた『フレイヤ』が、嫌にキッパリとした口調で言い放つ。
「…どういう事だ」
名前以外は、その素性から正体から全てが不明のままの子どもの、何もかも見透かしたような口ぶりに相葉は軽く苛立った。問い詰める語気が荒く、纏う空気が酷く険悪であるのに、フレイヤと名乗る少年は――…、
ケタケタケタケタ、
クリムゾン・レッドの両目を盛大に引ん剥き、歪(いびつ)な笑い声もけたたましく、豹変した。
「……ッ、な、」
「――…く、っ」
異常な音量で響き渡る不気味な哄笑は直接脳を揺さぶった。
――精神破壊攻撃。
咄嗟に二人の脳裏に浮かび上がる単語、それすらも、酷い異音と不快な周波数に掻き乱される。襲いかかる脳髄を締め付けられるような激しい痛み、眩暈と嘔吐感、平衡感覚を失って朔原は膝をつき、荒事を得意とする若き軍属も無駄と知りつつも右手の掌で耳許を庇いつつ、左手を壁にし支えとするので精一杯だ。
「く…、そっ…、 」
ケタケタケタゲタゲタゲダゲダゲダゲダ、
そのまま死んでしまえと、嬉しげに、愉しげに、呪詛を吐き続ける無残な怪物。
永劫とすら錯覚させる涅槃の饗宴を終わらせたのは、劈く怒号――数発の弾丸、だった。
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ボクは、誰?
『クリムゾン・アニマ』
ボクはそう呼ばれていたけれど、ボクは何処にもいない。
ひろくて、おおきくて、あたたかなところにいたのに。
もう還れないことだけ、わかるんだ。
『クリムゾン・アニマ』
ボクをそう呼ぶくせに、ボクを見てない。
ボクは生まれて、消えて。
幾ら繰り返しても、ボクは、ボクのままで。
『クリムゾン・アニマ』
きっとそれは、ボクの名前ではない。
だって、誰もボクを見てくれない。
ボクを、ボクだけを、そう呼んでくれない。
ネェ ボクハ ダレ ?

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「え? 地下?」
表面に整然と張られているラベルに目を遣っても、何が詰まっているのか全く理解出来ないコンテナが山と積まれる薄暗い物置部屋へと連れてこられたアーヤは、伝えられた内容を心底意外そうに鸚鵡返した。
大きく見開かれた愛らしい空色の瞳がくるりと不思議そうに瞬くのに、レインは短く、そうだ、と応じる。黒のリヴァイアスを統べる可憐な眠り姫の力を継承し、スフィクスとしては未覚醒状態ながらも、潜在能力の高さから、既に福音としての才華の片鱗を覗かせる少年は、初耳だと素直な驚きを顕にしていた。
「ホントはこの施設内で良かったンだけどなー。
遊佐のヤツが地下に来てるらしくて、お前に会っときたいんだとさ。
ま、地下の事はおいおい説明する予定だったし、ついでだからな」
「遊佐…さん、って…、ええと、」
聞き慣れない人の名に戸惑う少年に、スタイルから顔立ちから無駄に全身整った造作の黒髪の青年――灰のスフィクスはサラリと解答を投げて寄越す。
「有史相互発展機関、通称ヴァイア機関の実行部責任者。『遊佐・ファルネウス』上級大佐。
ついでに言えば、俺とは同期の桜で腐れ縁だ。今どき、時代錯誤なお貴族様風味でなー。こう…、なんてーの? 傅かれるコトがあたりまえー、みたいな。鼻につくヤなヤツだよ。アイツは」
「あ、あはは、ハハ…」
一応、階級的には上官にあたるのだろが、随分なこけ下ろしっぷりだ。それだけ気心が知れている相手なのだろうと善意的に捉えてはみるものの、一抹の不安を覚えさせられる人物像に渇いた笑いが漏れてしまう。
「っと、ココの…スイッチを、と…」
一見平坦な壁しかない袋小路に行きつくと、据え付け台と床の間にある僅かな凹みを起用な指先で探り当てる。すると、目の前の壁に四角い黒々とした空間が前触れも無く出現した。左右に開くのではなく、まるで舞台の緞帳があがるかのように、上へと壁の薄皮一枚が剥がれてゆく光景を前に呆気に取られてしまうアーヤだ。地下、というキーワードから察するにエレベーターなのだろうか。それにしても、ここまで厳重に入口を隠しておく理由が分からない、と少年スフィクスの頭の中は純粋な疑問で満たされた。
「よっし。ホラ、コッチ側に入れよ。コレで地下まで降りるぜ。
扉が完全に閉まるまで照明は点かないから、足元に気をつけろよ」
「あ、うん」
やっぱりこれって、エレベーターなんだ。
予想の的中に子どもっぽい得意気を味わいながら、アーヤは促されるままに四角い空間――地下と通じるエレベーターへと乗り込んだ。指摘通りに暗い――というよりも、黒い。エレベーターの開閉などを操作するボタンの縁部分が僅かに蛍光発光しているのが、唯一の光源という有様だ。
「…わ。」
しかし、音も気配も無く扉が閉まると狭いエレベーター内に一気に光が振り注いだ。眩しさに眩む同胞の背中を片手で絶妙に支え、福音たらんとする新米スフィクスの導き手であり、お目付け役でもある灰のゲシュペントを司る青年は、大丈夫か、と気遣って見せた。
黒のリヴァイアスの意思である諸刃の姫少女の眠りは深く、能力の大半を自発的にアーヤへ譲ったとはいえ、ヴァイア艦の要である『核』は未だ彼女の心の深部と繋がったままだ。それはつまり――、黒のスフィクスとしての役割を放棄しない、という少女の意思表明でもある。明確な主張が読み取れる以上、強制的に黒姫(ティターニア)の意識を『核』から排除するという手段を実行するには、リスクが高過ぎた。
この事情から、正確にはアーヤは『スフィクス』では無い。半人前ならぬ、半スフィクス前、といったところか。語呂の悪さはご愛敬だ。人でも、スフィクスでも無い境界に位置する不安定な存在だけに、灰のスフィクスとして再誕を果たした記憶も既に遠い過去である青年は、何かとアーヤを構い時に過剰なまでに甘さを見せていた。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。ゴメン、ちょっと目が眩んで、さ」
続く浮遊感に足元を掬われるような感覚を覚えつつ、幼いスフィクスは愛らしくはにかんだ。感謝と照れ臭さで犯罪的に可愛らしい表情を浮かべるアーヤへ、灰のゲシュペントを司る圧倒的な存在感を見せつける青年は、どういたしまして、と余裕綽綽と目線で応じる。
――その、妖しく艶刷く緋色の視線に妙に色香を感じてしまい、アーヤは慌ててあらぬ方向へと顔を背けた。普段、まるで家族同然のように近くにいる所為で時々見落としがちになるが、レイン――、レイン・シルエッティール特別中佐、灰のスフィクスには人を淫獄へと誘い込む蠱惑が灯っている。それも、相手が潔白な精神の持ち主であればある程、強烈に作用するから余程タチが悪い。
「そ、…そのさ。えと、…ひとつ訊いていいかな?」
「ん? なんだ、改まって」
不自然な挙動を誤魔化すようにアーヤは慌てて別の話題を振った。思い付いたそれは、成程以前から尋ねてみたかった内容で丁度良かったと、ふくらとした尻尾も愛らしい栗鼠の仔のようなスフィクスは、己の機転に妙な満足感を得ながら問い掛ける。
「うん。あのさ。 …… ゆ、う希と、イクミさ。どんな感じになってるのかな、って。
もうあれから二年だし…、背とか、伸びてたりするよな…」
横たわる空白の時間(とき)――…、決して望まずに過ごした禁をそっと破り、輪郭を抱き締めるように綴った響きの、掛け替えのなさにアーヤは胸を詰まらせた。今更、二年の前の覚悟の痛手が甦るなんて反則だ。陰る表情を読み取らせまいと、福音たる珠玉の少年は殊更明るく振舞った。
「あの二人が…っても、イクミは器用だから兎も角さ。祐希が軍へ所属してるってすっごい違和感。だって、上下関係厳しいんだよな。あの暴れん坊がよく我慢してるなーって、ホントにびっくりだよ」
「あー、軍属っても遊佐の下だからな、アイツ等。俺のコネ付きだし?
ヘタに上官権限振りかざして威張り散らしたら、どーなるか位わかってンだろ」
「…どうなるんだ?」
HF直轄のヴァイアの研究施設に虜として繋がれる幼いスフィクスが、軍内部の勢力分布や権力抗争の暗部に精通するわけもなく、不思議そうに小首を傾げられて、レインは面白がる口調で指折り報復手段を挙げ連ねた。
「ま、相手の地位によって色々だな。降格、左遷、権限剥奪。この辺りが定番ってトコか。
実際は大概自滅してっけど」
「自滅? なんで?」
「遊佐の奴、母方のじーさまが連邦政府の重鎮で、オヤジ様は陸軍の総司令やってンだ。
典型的な軍属家系で、由緒正しき名門の出ってヤツ。遊佐の機嫌を損なう、イコールで『ファルネウス家』に刃向うって事だ。で、ファルネウス家を敵にってコトは『軍』自体を敵に回すも同然、ってな。権力っておっそろしーよなー。こわいこわい」
「…はー。遊佐さんってスゴイ人なんだな…」
そんな人とこれから対面するのか、と今更ながらの緊張に身を硬くするアーヤの言葉を、灰のゲシュペントを司り、人類とヴァイアとの懸け橋として軍に身を置き続けてきた黒曜の青年はバッサリと袈裟掛けに切り捨て御免の勢いで否定した。
「あんなのタダの変態だ。ヘンタイ。気ぃつけろよ、アーヤ。油断してると、喰われるからな」
「え…、ええ、?」
喰われる…ってどういう意味なんだろう、と目を白黒させて反応に困る金茶の髪をした少年スフィクスの初々しさを前に、妙に加虐の心がそそられるのを自覚しながらも、どうにか遣り過ごすレインだ。ここで生娘を手籠める悪代官よろしく暴走してしまえば、同期の桜である遊佐の変態行為を正面から否定出来なくなってしまう。
「…遊佐の事はいいんだよ。それより、祐希と尾瀬の事訊きたいんじゃ無かったのか?」
「あ、うん」
「っても、俺も大した事は知らないぜ? アイツ等と俺は部署が全然違うからな。
そーだな、まず祐希は『壱型機動部隊』の隊長、イクミはそこの副隊長だ。部隊は他に一般隊員が三人だっけかな。後は――、この辺は聞いた話だが二人とも猛烈にモテるらしーぜ? 女性隊員を二人掛かりで総ナメ。イクミに至っては、アプローチされる相手の四割強が男だって話だ。サイアクだなー、アイツ等」
闇世を覗き込む如く廃頽のスフィクスは浮世の痴相を面白がり、耳にした噂話を思い出す端から口にしてゆく。鳴り物入りで軍へ入隊した『ラビット・グレイ』の立役者達については、遠く離れていても情報が流れてくる。無論、その信憑性については定かでは無いが。
「流石にこれはデマだろーけどな。アイツ等がデキてるって話もあったなー、そういや」
「……デキッ…!?」
「デマだって言ってンだろ。どーよーすんなよ、アーヤ」
立て続けに襲う衝撃に目を白黒させる仄柔らかいスフィクスは、呆れを滲ませた同胞の声でどうにか平静を取り戻した。
「そ、…そうだよな。ゴメン、なんか色々予想外でびっくりして…。
でもそっか。そんなにモテてるのか。…カッコイイんだ、よな?」
そろそろと上目遣いに窺ってくる様子が犯罪的に可愛らしい。震え潤む瞳は宇宙の深淵から臨む地球(はは)の鼓動にも似て、庇護欲を掻き立てる。――反面、美しい蒼の色を穢し尽くしたくもある。二律背反。歪んだ衝動が沸騰しそうになるのを冷静に受け止める。以前から好いてくる人間を狂花させる素質はあったが、スフィクス化によってその傾向はより顕著となったようだと、溜息をひとつ、ふたつ。思わぬ副産物は、決して喜ばしくは無い。
「…祐希は昔のまんまでデカくなった感じ、…だろうな。
――っても、アイツは成長に比例して女を惹き付ける典型的な『雄フェロモンタイプ』だからな。
昔のヤンチャ坊主を想像してると、――イタイ目合うぞ?」
「……う。脅すなよ…」
「尾瀬は――…、 ヤバイ」
「へ?」
断腸の思いで別離を決意した優しい面影達との、二年越しの再会を前に既に及び腰なアーヤに追い打ちを掛けるが如くレインは続けた。あれはヤバイとしか言い様がないだろー、と口調こそ暢気にしているが、その破壊力は推して知るべし。幼いスフィクスの不安は天井知らずだ。
「……れ、レイン?」
「ん?」
「その、ヤバイって…、」
「見れば分かる。ってか、見ろ。ヤバいぜ、あれは」
「………え、」
脅しが端的なだけに余計に在らぬ想像が駆り立てられるのか、過酷な運命の中にありながらも、真直ぐな心は手折られもせず、清らかな魂を抱き続ける生まれたてのスフィクスは神妙な顔で黙り込んでしまった。惑星開拓後、富と平和の象徴として全ての人類に愛された『地球』にて、先人が敷いたレールの上を疑いもせずに歩いてきた子どもの無垢は、愛しき故に人を呪う孤独の相には小気味良く好ましい。
「…お札のお風呂で両脇にキレイな女のひと侍らせてニヤついてる姿しか思いつかないんだけど」
「アッハッハッハ! なんだそりゃ!
すっげー見てみてーな、何処のヒヒオヤジだっつーの」
幼いスフィクスなりに精一杯想像力を働かせた結果――、最大の敗因は方向性の読み間違いだろう。『現在』(いま)の尾瀬の姿を知るレインにとっては、凄まじい威力を秘めた発言だった。憎らしい程に自信満々な大胆不敵のカリスマ・壱型部隊の隊長。雄の色気の塊のような彼であれば、ある意味相応しくすらあるが、彼の補佐官である『尾瀬』の"そういう姿"は無理がある。寧ろ、そういった手合いの脂ぎった旨味連中を、抗い難い魔性で惹き付け体良くカモにする側の人間だ。
「間違ってもそういう方向性の育ち方はしてないから安心しろ。
…性格はそんなに変っちゃいねーし、心配するコトないと思うぜ?
あとは見てのお楽しみ、ってな。実際に逢ってみない事には、な」
「………」
それはそうなのだが――、灰のゲシュペントを司るスフィクスとしての先覚者である青年の言い草は、逐一正論で口を挟む隙が無い。しかし、理論は得てして感情に下され易く、理屈では明言し難い不安がひたひたと追いかけて来るのに、アーヤは堪らずに震えながら溜息を吐いた。
優しい記憶の中へ置き去りにした唯一無二の存在――、紆余曲折を経て漸く取り戻した愛しい弟との穏やかな関係、様々な試練を乗り越えて培った親友という固い絆。彼らとの再会が許されると聞いて始めこそ手放しで歓喜した。もし可能ならば『リヴァイアス事件』『ラビット・グレイ事件』の立役者の一人である『彼』にも、一目会いたいと思わず願った程だ。
(…今更、あいたくない、とか。ホント、駄目だな俺――、ダメだ……)
軽い自己嫌悪。らしくない自嘲の笑みが幼いスフィクスの横顔に悲しい影を落とし込む。
成長期の少年等にとって、二年の歳月が齎す変化は成人のそれとは比べモノにならない。ともすれば孤独に呑まれ崩れてしまいそうな自分を支えてくれた存在が、既にひとならざる化生であるが故に、また自身も成長を止め施設へ軟禁された状況であったために、年月の経過を然程感じずに済んだ。それなのに、今になって――…、
(今になって…、成長した二人に会うとか…)
『再開』が不安なのではなく、横たわる歳月の大きさを見せつけられた上で、再び彼らとの別離を経験するのが――、
( 辛い、…なんて…)
情けない。ダメだ。もっと強くならないと。
――それこそ、機嫌ひとつで軍上層部を狼狽させる魅惑の同胞のように、と。
己を叱咤するかのように瞼をきつく閉じ、アーヤは苦悶の思いを胸の奥へと仕舞い込んだ。
「アーヤ?」
視線で様子を窺ってくる羨望の対象である『灰のスフィクス』へ、作り慣れた笑顔を浮かべ『何でも無い』と吐き慣れた嘘を音にする。子ども騙しの芝居を易々と看破しながらも、『人類』でもなく『ヴァイア』でもない新たな"種"として、盲目の痛みを舐め合う歪んだ関係を自覚するだけに、如才無い灰の青年は、そっか、と軽く受け流した。
丁度エレベーターの下降が終わり、僅かな振動と共に二人のスフィクスを乗せた容れ物は、次にゆっくりと前方へ動き始めた。始動の際の幾許かの負荷を越えた後はスムーズだ。強歩程度の速度で目的の場所へと進む狭い箱の中で、何れ人類全てを支える柱となる過酷を背負う少年は、幾度目かの溜息の海に溺れた。
ピルルルル、ピルルルル――…
凛と張り詰める沈黙の空気を破ったのは、連絡用の携帯カードコール。
無遠慮で事務的な機械音がそう広くも無い空間に響き、艶やかな黒髪も麗しい灰のスフィクスは梔子(くちなし)色のモッズコートのポケットから音源を取り出して、連れの少年に煩くして悪いと詫びを入れてから、くるりと壁に向かい直って不機嫌な声で応じた。
「ンだよ、遊佐」
ゆさ――、遊佐・ファルネウス上級大佐。ヴァイア機関の実行部の責任者で、凄い家柄の人だと先刻のレインの説明を思い出して、アーヤは居住まいを正した。何の用件なのかと、耳を澄ましてみるが当然ながら聞き取れるはずもない。
(……カイリさん、怪我した…のかな)
大丈夫かな。
片方だけの一方的な情報では会話の全貌を捉えきれないものの、青年の科白と狼狽の気配を強くする背中からカイリの負傷を推測して、溜息と共にアーヤは壁に凭れ掛かった。圧倒的に気位の高いゲシュペントのスフィクスが、その実かなりのブラコンである事はここへ搬送されて二週間で察した。思わず目を疑う程に弟に甘い。猫可愛がりなんてものじゃなかった。呆れ返ると同時に――羨ましくも、あった。けれど、同時に彼等の関係が生み出す苦悩も知っている。
嫉妬と、仄昏い同情、優越感。
「………」
奥底で鎌首を擡(もた)げる黒々とした感情を理性の下に厳重に仕舞い込んで、アーヤは己の軽率を恥じるように瞼をきつく閉じた。醜悪な色形の羨望が同時にもたらす裏切りへの罪悪感、そして激しい自己嫌悪。
(…レインだって、何時かはカイリさんと――、弟さんと離れなきゃいけないんだ。
ずっと一緒にいられるわけじゃない。生きる時間が違う――…、違い過ぎる。
だから、…――、 …… )
限られた時間を精一杯共に在り続ける――、二人の関係は一見して人の理(ことわり)に則っているようだが、片は命の終わり許されず、最果ての未来まで人類という枷に縛られる身の上。老いて朽ちるより術の無い人の身とは存在の次元が違い過ぎる。
(……少なくとも、俺の事を忘れて普通に生きる方が…、多分、皆にとっては幸せで……)
人類の存続を賭けた『新天地計画』(プロジェクト・ホーム)の要――、福音としての道を選択した瞬間から『スフィクス』として『人類』の未来を導く存在として、その重大な責務と使命を果たすべく誓いを立てた。同時に、人としての幸福は二度と望めないとも覚悟を決めた。
(なのに、…今更。ホント女々しくて自分でも嫌になる…)
コッチ に オイ デ
「? え、…わっ…ぁあああ!!?」
不意に耳許で囁かれた幼い声に疑問を感じてアーヤが視線を上げると、そこには己を取り囲むように透明な腕が幾つも天井からぶら下がっているという、異様な光景が広がっていた。物理法則に従いブラブラと揺れるだけの腕の群れに、差し当たり危険は無いようだったが、純粋に気持ち悪い。身体が触れないように縮こまるアーヤに、通信を終えていたらしいレインが大丈夫か、と声を掛けた。
「なんだこりゃ…、――…うで…?
っつーか、なんか空気半抜けの風船みてーな…」
「レッ、レイン。あまり触らない方が、って、ああッ!」
脅え竦む茶金の髪をした優しい風貌の少年の目の前で、外見の繊細さには似合わず豪気な性格の灰のスフィクスはデロリと天井から伸びた透明の腕――、その指先を摘み上げて胡散臭そうに見分した。
「だーいじょーぶだって。それよか、ホラ。これ避けてやっから出て来いよ」
得体の知れない腕は床に届くか届かないかのスレスレで空中に浮いていた。感触は先のレインの感想の通り空気の抜け掛かった風船だ。へにょりとした姿が逆に笑いを誘う。それらを幾本か纏めて左右へ押し広げ、カーテンでも開けるように通り抜け用の空間を作る灰のスフィクス。
「あ、…ありがと」
不気味な腕の檻から抜け出せる安堵にほぅと息を吐くと、アーヤは礼を口にして一歩外へ――、
と、それまで成すがままだった透明の腕達が、一斉に鎌首をもたげ少年の足に絡みついた。
「ッ! ちょっ、やっ…、なんだよこれッ!!」
「昴治!!」
透明なその腕達はぞわりと質量を増し、幼いスフィクスの肢体をあっという間に包み込んでしまった。ものの数秒の出来事だけに対処が遅れた、福音たる少年の監視権保護役は慌てて象の足程にも膨らんだ腕の群れを囚われる少年から引き剥がそうと試みる。しかし、執拗に絡みつくそれらは異様な力を発揮しており、スフィクスとはいえ元は只の人である青年には荷が勝ち過ぎた。
「く…っそ! こーなったら…!!」
――『干渉』してやる、と。
半ば自棄気味に両の掌を透明の物体へ押し付ける闇色の美貌のスフィクスの空元へ、不思議な浮遊感を伴った『声』の破片がバラバラと降り注いだ。
ヤ め テ ヤ め テ ヤ め テ ヤ め テ や メ テ や メ て
「――ッ!」
それは完全に不完全な、しかし耐え難き、同胞の――…、
叫 び。
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右肩を撃ち抜かれた衝撃で可愛らしい顔をした魔物は、一歩、二歩、と後ずさり、勢いに押されるままに尻もちをついた。著しく乱れたマッシュヘア。小奇麗に整えられていた前髪の間から、呆然と色を失くした瞳が窺える。幼い肢体を覆うダウンシャツはには、弾丸の熱で焼き切れる狙撃痕が残っていた。
狙撃のショックで自失状態に陥り、まるで道端に打ち捨てられた人形のような子どもを見下ろし、相葉は大きく息を吐いた。脳の内側を鉤で掻き出されるような異常な感覚から解放されて、そこで初めて全身から吹き出す脂汗に気付き、輪郭を伝うそれを肩口で乱暴に拭い去る。
「…気が利くじゃねーか、イクミ」
「いえいえ、お安いご用ですって」
汗で張り付くザンバラの前髪を煙たそうに払いながら振り向く新愛なる隊長に、上官等の窮地を瓢々と救ってみせた優秀な部下は、にっこりと愛想良く笑顔を振り撒く。瞳を伏せ宇宙(そら)を悼む姿は、不必要な憂いと艶を帯び、妖艶とすら囁かれる迷惑極まりない容姿だが、愛嬌たっぷりの表情で得意気に応える姿は、二年前から少しも変わる事の無い『尾瀬らしさ』そのものだった。
「てーか、なんなわけ、これ。ね、朔原さん」
発砲の余韻を残す銃口を『フレイヤ』と名乗る子どもへ突き付けながら、尾瀬は回答を知り得るであろう人物へと疑問を振った。
「撃っちゃマズいかなーとも思ったけど…、
血も出て無いし、どー考えてもヤバイ系でしょ、これは。
もう何発か撃っておいた方がいい?」
不穏な科白をサラリと口にする辺りに二年間の成長が窺える――決して、望ましい方向性ばかりではないが――、自由気儘な猫のようでいて、猜疑心が強く慎重な性質である壱型機動部隊の副隊長を務める青年は、自然な動作で撃鉄を起こす。
そして、この尾瀬の一連の行動を前にフレイヤは全くの無関心を貫き通していた。人工的な質感の白の床上へ両手両足を無造作に投げ出す姿は、繰り糸を失った舞台人形そのものだ。その中でも特筆すべきはやはり、昏く穿たれたままの銃創。血の一滴すら見受けられないという明らかな異常。人間に酷似した、人型を模した、しかし決して"ひと"では在り得無い異質、異形、忌まわれる存在(モノ)。
「いえ、待って下さい。無暗に刺激しない方がいい」
「そ?」
寧ろ慌てたのは朔原の方だった。宙軍の壱型機動部隊としての訓練だけでは白兵戦に対する経験が絶対的に不足していると、他部隊の訓練や潜入作戦などに首を突っ込んでゆくのには百歩譲って目を瞑るとしても、一般部隊の粗暴さに影響されて思考が短絡的になりがちなのが二人の唯一の難点だ。
「じゃ、まぁ…いいとして。もう一度訊くけど、これってナニ?」
「…分かりません」
尾瀬の援護によって相葉と同じく怪音波から解放された灰のゲシュペント艦長は、切れ長さが知的な印象を与えるバイオレットカラーの双眸を迷いに曇らせ、微かに乱れを残す呼吸を抑えながら答える――声に滲む苦々しさ。
「――いえ、考えられるとすれば」
そして、ひとつの可能性を探り当て、戸惑いと共に導かれた『名』を小さく呟き出した。
「…シュレイディルの人工人格――、 『クリムゾン・アニマ』 かもしれません」
「なんだそりゃ」
「人工人格?」
形式上は部下にあたる若い軍属二人に同時に問われ、朔原は自身の膝に手をつきながら上体を起こすと、ええ、と短く相槌を打った。その潔癖さの象徴のような眼差しに困惑の光が燈るのを見逃さず、相葉は下位官らしからぬ高圧的な態度で迫った。
「説明しろよ」
「………」
軍の規律とヴァイア機関の機密、遵守すべき則(のりと)に縛られる。
口は――、重い。
潔癖な性質の軍属は『クリムゾン・アニマ』に纏(まつ)わる情報を、云い掛けては、止まる。
「おい――ッ、」
逡巡する朔原の様子に焦れて声を荒げ掛ける部隊長を制し、如才無い銀灰の艶毛並みの猫が、殊更優しげに、人格者が他者を諭す口調を擬えて先を促した。
「ねぇ、朔原サン。今更、隠しごとは無しにしよーよ。
俺達『共犯者』なんでショ?」
「!」
『共犯者』
罪人達が互い違いに齧り合う楽園の林檎は、何にも増して甘美な蜜の味。
秘密を共有したのは、一人だけで無かった、という事だ。
本日二度目の降伏の白旗を揚げ、秀でた額も涼しげな灰の艦長は、規律に違背する自らの行為に胸中複雑となりながらも、覚悟を決めたのか潔く話し始めた。
「…今からお話することは他言無用に願います」
「りょーかいりょーかい」
等閑(なおざり)な返答に一抹の不安を覚えながらも、朔原は重い口を開く。
「人工人格についてですが、これの意味は字面そのままです。
ヴァイア艦にスフィクスを据えるということは、イコールで人柱を立てるという事実と同義であることは、既にお二人もご存じですね?」
艦隊の総責任者であるゲシュペント艦長の言葉には、陰鬱とした重さがあった。他ならぬ唯一の血縁者――、実兄であるレイン・シルエッティールを人類の人柱として喪うだけに、『スフィクス』という希望の存在が齎す矛盾や悲哀を誰よりも理解する故に――その双眸は昏く、絶望の深淵を覗くかのようだった。
「――…我々としても、これ以上の犠牲を乞うのは望ましくありません。
よって、打開案として提案されたのが『人工人格』の開発です。
研究チームは、シュレイディル用に開発された人格を『クリムゾン・アニマ』と名付けていました」
「…へー?」
興味深さに尾瀬の猫の仔のような翡翠の瞳が悪戯っぽい瞬きを繰り返し、相槌を打つ。面白そうな話だ、と感心。続いて、生まれる疑問。合致しない辻褄に、ふむ、とひとりごちて見せた。
「ねぇねぇ、その話だとアレが『人工人格』とやらになるわけなんだろーけど。
色々腑に落ちないよねぇ?」
尾瀬の援護によって背後へ吹き飛び仰向けに四肢を弛緩させている子ども――いや、人の子の姿を借りた『何か』を顎先で指す年若き軍属へ、朔原は逡巡を匂わせる口調で同意した。
「…ええ、腑に落ちません」
『クリムゾン・アニマ』に関しては未だ開発途中の段階でしかなく、ある程度の感情パターン化には成功したと報告を受けてはいるものの、到底自律行動を取れるようなレベルでは無い。
ふたつ目を挙げれば、そもそも数多の人々の生命を預かる身となる『スフィクス』の人工人格は、成熟した『大人』――、それも相応の良識者を想定して開発されていた。間違っても、癇癪玉を抱え込んだような、あのような不安定な子どもであるはずがないのだ。
みっつに、あの肉体(カラダ)の存在。尾瀬の撃った銃弾に倒れたということは、立体映像や幻の類では無く、血肉を伴うそれなのだろう。しかし、『クリムゾン・アニマ』とは単なるプログラムを指す言葉だ。それ以上でも、それ以下でも無い。将来的に人格の受け皿を用意するかどうか、とすれば人の肉体を完全に複製する技術が必要になるのではないか、等々。これらの議論は幾度と無く交わされ、確かに構想の中に含まれてはいたが、全くその段階には至っていない。
何より、最大の謎として――…、
「どうして、俺たちを襲うのか、だね?」
「…その通りです。クリムゾン・アニマは未完成品。試作段階ですらありません。
それが――、明確な意思と敵意を以て我々を目標と定め攻撃してくるなど、」
考え難い、ではなく、考えられない。
人類の知恵と技術の結晶である『クリムゾン・アニマ』と言うものの、所詮は人工的に生み出された『プログラム』以外の何物でもない。予め書き連ねられた思考パターンを擬えるだけの模倣の人格が、組み込まれてもいない攻撃性を顕著にする。まず、疑うべきは『フレイヤ』が口にしていた『パパ』とやらだ。これが『悪意ある第三者』として介入したと考えるのが妥当だろう。
「どっちにしろ、のんびりしてる場合じゃねーだろ。
通信は回復したのか?」
「…いいえ。やはりダメです」
とても尉官相当の者の態度とは思えぬ横柄さで、上官を叱咤する黒豹のような青年の失礼を咎めるでもなく、朔原は抱える苦悩そのままの長すぎる溜息を吐いた。左右に開け放たれたままで固定されるエレベーターの扉の向こうで尻もちをついたままの『フレイヤ』を一瞥すると、壁に寄り掛かりながら姿勢を起こし、懐から取り出した銃身を脱力した子どもへ向けながら詰問した。
「幾つか、此方の質問に答えてもらおう」
「………」
「先程、 『パパ』 と言っていた人物の名前は?」
「………」
「お前は 『クリムゾン・アニマ』 なのか?」
「………」
「…何故、我々を狙った」
「かくれんぼ」
最後の質問は溜息混じりでさえあった。元より素直に情報を聞き出せるなどと甘い事は微塵も期待してはいない。形骸的な尋問にしかし、コトリと糸が切れたようであった愛らしい顔立ちの人形は、ゆっくりと、正体の知れない微笑みを浮かべながら、宣告するようにハッキリと言葉を紡いだ。
「かくれんぼ、だよ」
右肩に受けた傷と己の頭部を狙う狂気、これらを意に介する様子も無く、ゆうらりとフレイヤは起き上がる。整然と人の存在を拒む地下都市エスポワールにおいて、生の気配を皆無とする子どもの存在は、奇妙な説得力に充ちていた。それは歪んだ愛らしさを蜂蜜のようにして全身を浸したような甘ったるい子どもが『クリムゾン・アニマ』である、と確信させるに足るものだ。
「…ひどいなぁ」
撃ち抜かれた右肩を一瞥して、詰まらなそうに言い捨てる瞳(クリムゾン)から既に狂気は失せ、しかしながら正気も等しく殺ぎ落とされたままだった。
「折角パパに貰った器(カラダ)なのに…。
ボクさ、壊すのは得意なんだけど治すのはホント苦手なんだよね」
「知った事か」
苛立ちのままに吐き捨てる相葉へ、フレイヤは愛らしい顔立ちを無邪気な悪意に歪めながら、すいと後へ飛んだ。距離にして二メートル程。尾瀬と朔原の銃口は幼子の奇跡を追って物騒な鉛色を反射させた。
「でも、止めてくれて良かった。パパの言い付けを破るとこだったよ。
オニーサン達殺しちゃったら、ボクと一緒に遊べないもんね?」
「そう簡単には殺されないけどね」
おかしな真似をすれば躊躇無く――、朔原のそれは致命傷を避けて構えられていたが、無暗な誘惑の艶を纏う華のような灰銀色の髪の軍属の照準は真っ直ぐに頭蓋に定められていた。
「ふふ、そんなオモチャでボクは殺せないよ。ね、それより 『かくれんぼ』 をしようよ。
ボクを時間内に見つけられたら君たちの勝ち。見つけられなかったら、君たちの負け、だよ」
くるりくるりと風と戯れる花弁のように回りながら、酷く浮かれた様子でフレイヤは謳うように誘いかけた。整えられたマッシュヘアーが動きに合わせてふんわりと膨らんで、獲物を食んだ人喰い妖花を連想させた。
「一応言っておくけど、オニーサン達に拒否権はないよ。
だーって、ボクは君たちの上司を捕まえてるもん。
『遊佐』…だったかな。白い髪のカッコイイお兄さん。
分かってると思うけど、ボクのゲームに負けたり途中で逃げ出したりしたら、…ね?」
フレイヤを外敵であると認識した瞬間から危惧し続けていた事柄が現実となり、朔原は顔色を変えた。『ヴァイア機関』の実行部責任者である遊佐・ファルネウス大佐をこのような形で喪うなど、決してあってはならない。部隊としての実損は言わずもがな、『ファルネウス家』という圧倒的な後立てを失い、あまつさえ地下都市の計画が漏れるような事が万が一にでもあれば――…!
「遊佐さんは無事なのか!」
「あははははは、当たり前じゃない。人質は無事じゃなけりゃ意味ないでしょー?」
「……ッ」
フレイヤと名乗った子どもは可憐な姿見に実に凶悪な気配を灯し、無邪気な笑顔を孕んだ。
「…おい。この施設にはお前以外の奴はいねーのか?」
「いないよ。だって、これはボクと君たちとの遊びだもの。
つまらない邪魔が入ったら白けちゃうよ」
「つまらない…ね」
不遜な相葉の態度を興味深く眺め、止まらぬ笑いもそのままのフレイヤへ、尾瀬は意味有り気にその言葉を擬えた。構えていた銃は下ろし、やれやれと肩を竦めて美貌に皮肉を刷いた。
「じゃあ、オニーサン達と楽しい『かくれんぼ』をするとして、ルールはどーすんのかなっと?」
「ルールはねー、パパが考えてくれたんだぁ。
そのイチ、かくれんぼの範囲は、一定の空間に限定する。
そのニィ、ボクはキミタチの命にかかわるよーな行動はしない。
そのサン、ボクは姿を変えているから、それを見破ってね。
そのヨン、ボクを見つけたら、ちゃんとボクの名前を呼んでね。
そのゴぉ、ボクを見つけ出すチャンスは一度きり、間違えないようにね。
そのロク、制限時間は向こうの時間で七日、時間切れも君たちの負け。
そのナナ、キミタチが負けたら人質含む全員ボクのオトモダチだよ」
指折り『ルール』を数え連ねる幼い子ども姿は、それと知らなければ純粋に遊戯の時間を心待ちにする童子のようにも見える。しかして、内に潜む闇の密度は生年五つも数えぬそれらとは比べるべくもないが。
「う…ん? ちょーっと状況が見えないんですけど。
その 『一定の空間』 だとか 『向こうの時間』 とか言うのは――…、」
「ゲームが始まれば理解るよ。大丈夫、オニーサン達は頭がいいもの」
「いやいや、褒められても何も出ませんよ、っと」
道化染みた仕草で肩を竦める無体な艶を纏う軍属へ、フレイヤは満面の笑みを以て応えた。『これ』が人工的に生み出された人格であるとするならば、性格に多大な難を残すにしろ、その完成度を前に圧倒されるばかりだ。
「…ゲームとやらの前にもう一つ確認したい事がある」
「はいはい。なぁにー、灰の弟サン」
「…その、灰と黒のスフィクスの事だ。二人とも、この場所へ向かったはずだが?」
「ああ、その事ね。大丈夫だよ、黒の子は一足先にゲーム盤に乗ってもらってる。君のオニーサンは残念ながら参加を認められていないから、自由行動だね。今頃は、遊佐オニーサンのトコへ向かってるんじゃないかなぁ?」
「………」
何にも代えて大切な存在である兄と、人類移住計画の要である福音の少年の無事を、言葉だけではあるが確認して朔原はほんの少し緊張を緩めた。生きとし生ける全てを縛る生命の業、その輪廻から爪弾かれた異端の種族は『不老不死』を体現する。死を超越した彼等には万物の現象・事象を無効化する絶対的な力が備わっている。百年足らずに肉体の終焉を迎える人間如きに心配される謂われは無いのだろうが、感情は理屈で割り切れるものではない。
「おい、ガキ」
「…『フレイヤ』だよ。ちゃんと覚えてね。名前を呼ばないと見つけた事にならないんだから」
半袖から覗く二の腕は引き締まって逞しい、鍛え抜かれ匂い立つ雄の痩躯に野生的な色気を醸す壱型機動部隊の青年は、虹彩を細く尖らせ黒豹の威嚇にも似た低い唸りを上げた。
「気に入らねーな。俺達が負ければオトモダチだ?
じゃあ、俺達が勝てばお前は何をするつもりだ? 人質解放は当然として、な」
「あれ。オニーサン、結構ゴウツクだねー。人質とキミタチ全員の命で満足してよ」
「そんなモノで満足出来ると思ってるのか、クソガキ」
「…『フレイヤ』。もー、我儘だなー」
幼く柔らかい顔立ちに苦味が浮かぶ。彼が『パパ』と呼ぶ存在が指示内容には、相葉の突拍子も無い主張は予想されていなかったようだ。十秒ほどか困り果てた後、不意にフレイヤは妙案を思い付いたという得意気な表情をした。
「それじゃ、特別にご褒美ね。もし、万が一、キミタチがボクに勝つような事があれば――…」
ぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞ
白のダウンシャツ一枚だけを身に付けた儚げな少年は、声変わり前特有のキィの高さで意気揚々と褒美について説明を朗じるが、それと同時に軍属等の周囲には透明な人の腕が無数に天井から生えて三人を取り囲むようにした為、フレイヤの言葉に耳を傾けるような余裕は失われてしまった。
「ちょっ、なにこれッ、キモい!! ゆーき君、俺ダメ! こーゆーのダメ!!」
「B級にも程があるだろ、おい」
「ッ、立体映像、か…?」
全身に鳥肌の尾瀬は自隊の隊長の背中へ、ひしとしがみ付く。チープな恐怖展開が苦手なのか、単純に無数の腕群が気持ち悪いのかは定かでは無いが、結構な恐慌状態な事は確かだ。
長く伸ばした黒髪が印象的な相葉と、彼等の上官である年長者の朔原は異常事態に息を呑みつつも、平静を失ってはいなかったが、しかし――…、
「……の、を、……て、あげるから。
これで文句は無いんじゃない? そこの、キョーアクなオニーサン?」
「ッおい! クソガキ!! 一体どういうつもりだ!?」
「フ・レ・イ・ヤ、だってば。特別温情で弟サンも参加OKにしてあげるから、精々頑張ってね」
ゲームスタート、だよ。
部屋の天井から無数に腕が垂れ下がるという非日常の光景は、それらが招き手の形をしながら一斉に襲い掛かってくるという更なる非常識によって、意識ごと奪われたのだった。
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2009/08/03 初稿