act.6 境界線
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 ヒュッ、と風を切る鋭音よりも早く拳が貌の直ぐ隣の空間を掠めてゆくのを、ブルーは視線の端で見送った。攻撃後の僅かな隙を突いて態勢を崩しに掛ろうとするも、遠慮無しに牙を剥く凶悪な生命力に溢れる黒豹は、内に眠る攻撃性を全解放して襲いかかっており、防戦主体の加減した有様では追い込まれて当然だった。
「……チッ!」
 振るった左の二の腕を掴まれ、そのまま捻じり上げられそうになるのを、祐希は咄嗟の足払いで反撃。次いで右腕の――特に筋肉の張った部分で、人体の代表的な急所のひとつ頸椎を全力で狙いに掛る。しかし、無駄も隙も無い動きで避けられ、攻撃は空振りに終わってしまった。思わずたたらを踏むが、即座に態勢を持ち直すと乱れる呼吸のまま苛立ちを吐き出した。
「…くそ…! 避けてんじゃねーよ!!」
「いやいやいや。そりゃ、よけるっしょ」
 無茶な言い分を正論同然に振りかざす相変わらずの傍若無人っぷりに、観衆と同化している同期がすかさず突っ込みを入れるが、殴り合いの興奮の只中にある上官の耳に届くはずも無い。
 一方、すっかり大人じみた親友の腕の中で、置物のように静かにしている昴治と言えば、この突拍子も無い現実にも漸く適応し始めて、先程見損ねた二年後の弟の姿に釘付けとなっていた。
(……祐希、髪伸ばしたんだ…)
 二年前には短い尻尾髪だったのが背の中ごろまで伸びており、一つに束ねられてある。持ち主の冴えた動きに合わせて、まるで黒鞭の如く空(くう)を唸らせていた。
(…身長も伸びてる…、な)
 遠目に見るだけでも百七十五センチ程か。尤も、厚底のミリタリーブーツの正体が所謂シークレット効果をもたらすものであれば、幾らかの嵩増しが考えられるのだが。銀色の竜の意匠が際立つ白の立襟シャツ。合わせと襟の部分は黒でなぞられており、白と黒のコントラストが絶妙だ。
 上半身を覆うトップスの袖部分からは、引き締められた小麦色の二の腕が見て取れた。薄い白生地の上から鍛えられた胸板の重厚さや、尖りを帯びて隆起する喉仏、直線に括れた腰、浮き出た鎖骨、逆Vラインを描く服裾からは時折チラリと除く臍や周囲の割れた腹筋――…、
(…って、わわ! 俺っ、なんで変なとこばっか見てるんだよっ!)
 純粋に弟の成長を喜んでいたはずが、途中から不純な方向へ意識が流れてしまっている事実に愕然とし、昴治はひとり慌てふためきながら無理やり視線を外した。これが異性のそれであれば動揺は当然だが、相手は同性――しかも身内だ。照れる事も疾しい事も無いはずなのに、何故か居た堪れない気持ちになり、昴治は元から小さくしていた身体を尚一層縮こまらせた。
(…俺が言うのもなんだけど――、なんだか…祐希えっちぃ…よな…?
 イクミの場合は直視出来ない感じなんだけど、祐希のは身を乗り出しちゃうっていうか――…)

   『典型的な雄フェロモンタイプ』

 不意に脳裏に浮かび上がった台詞は、地下へ向かうエレベーターの中で同胞から聞いた弟の評価だった。人として過ごした十六年間、その後ヴァイア研究施設で過ごした二年間。これらを合わせても、たった十八年程の人生経験の中で一度も目に掛った事の無いタイプに育ってしまった実弟の逞しい姿を前に、心中複雑なお兄ちゃん――もとい黒のスフィクスの名を冠する少年である。
「――…、あったれェ!! クソッタレ!!」
 薄地の服の上からでも鍛えられた肉体美が感じ取れる黒髪の軍属は、理性をかなぐり捨て拳を揮っていた。一矢報いれば満足だと言わんばかりの捨て身に、流石のブルーもじりじりと圧されてゆく。実力的にはおそらく――情報部へ所属する隠密青年の体術が上、と見るが。頭を沸騰させた祐希の暴れっぷりには見境が無く、それがカンフル剤となって見事な好カード試合となっていた。
 閉塞された箱庭の中、緩慢な死に怯え暮らすだけの少年達にとって、黒の王国へ君臨する蒼の王へ牙を剥く国存守護のエースパイロットという構図だけで、この上無く刺激的な見世物だった。
 しかしリヴァイアスを支配するエアーズ・ブルーにとっては、非常に好ましくない状況であった。
 『王』の名を冠し艦内へ君臨する以上、敗北も逃走も許されない。極限の状況に追い込まれる四百余名の人間へ対する敢然たる抑止力として、『王』は存在しなければならないからだ。
(――…止むを得ない…)
 幾分冷静さを欠いた凶暴な拳を紙一重で避け、ブルーは祐希の左腕を大きな掌で握り込んだ。そこからの動きには躊躇も容赦も無く、神業的な所作で背後へ回り込むと左肩を掴み――…、

 ゴギッ、

 と、人の心を恐怖に縮こませる音を作り出した。
「―――ッ、 !!」
「わーっちゃー、いったそー」
 力づくで間接を外される激痛に竦んで、反射的に息を呑み込んだ上官の様子に、イクミは嫌そうに顔を顰めた。実際経験した事は無いが脱臼はかなり痛いらしい。その昔には相当ヤンチャをしていたと言う同壱型機動部隊所属のパイロットの言葉を思い出し、これ以上戦り合うようなら本気で止めに入った方がいいだろうかと思案し始める賢明な副官である。
「……っ」
 と、腕の中の少年が震えたのを直ぐに感じ取り、イクミは殊更優しく声を掛けた。
「ゴメンね。恐いなら、先にブリッジへ行こうか?」
 ブリッジへ行けばおそらく朔原へ会えるだろう。後の事は彼に任せて自分はこの不毛な騒ぎの収拾に全力を尽くせる――と、当面の計画を立てた護衛の意図に反して、昴治は否定の方向に頭を振った。
「大丈夫です。恐いわけじゃありませんから」
 抱き締める格好では黒の意思の体現である少年の表情は窺えなかったが、声に恐れも脅えも感じられず、前任のネーヤと違い随分と安定した存在なのだとイクミは感心してみせた。
 そんな副官と黒のスフィクスの遣り取りなど知る由も無く、利き腕を脱臼させられた祐希は右肩を庇うように立ち、悠然と構える王者へ低く唸り声を上げていた。全身にドッと噴出した脂汗からも、彼が堪える苦痛の絶大さが窺い知れ、それまで無責任に無謀な挑戦を煽動していた観衆に、薄い動揺が波紋のように広がっていった。

 ――おい、今シャレになんねぇ音しなかったか?
 ――わ、わっかんねーけど、腕折ったりとか…
 ――ちょ…、アイツ確かパイロットだろ!? マズくね?

 一種の集団催眠にも似た興奮状態が収まれば、次に人の心の隙間を襲うのは不安や焦燥、疑念の数々。興奮の過ぎた頭で考えなおせば、エアーズ・ブルーと相葉祐希の喧嘩には、何一つメリットが無い。『王』の駒を失えば艦内の秩序が乱れる。『騎士』が手負いとなれば王国の防衛が疎かになる。徐々に絶望的な事実を理解した生徒達の顔色が変わっていった。
「くそ…、ナ、ッめやがって!!」
 しかし概ねの予測を裏切り、苦悶の表情を浮かべていた黒髪の美丈夫は――おもむろに自身の右腕、付け根近くの部位を乱暴に掴んだかと思うと、大きく呼吸を吐き出して後一気に関節を押し込んだ。荒業もいいところだ。遠目にする女生徒達から、きゃっ、と弱々しい悲鳴が響いた。
「〜〜〜ッ、! どー、だ。ハメてやったぜ、この野郎……!!」

 ――無茶と無謀を押し通す挑戦者の気迫に、辺りには響(どよめ)きが沸き上がった。

「――…、いい加減にしないか…」
 自力で脱臼した肩を嵌めるという破天荒さを見せつけた粗暴な青年に、黒の王国を絶対的な個人の力で以て支配下とする王は表情も変えずに構え直す、しかし僅かに零した声は確かに呆れと苛立ちが滲んでいた。
 仮想世界『リヴァイアス』を脱出する、これが現在の『情報部所属』のエアーズ・ブルーにとって最大且つ最終の目的である。最早過去の出来事として昇華された数年前の諍いに拘って突っ掛かる 相葉祐希の存在は、任務遂行の阻害する『障害』以外の何物でも無かった。
「…ハッ! よーやく喋ったと思ったら、そんな台詞か?
 しまらねーなァ、エアーズ・ブルー!
 アンタ、今レインの奴の奴隷だってな!?」
「…護衛だ」
 全身をバネのように可動させ、切れ間無く攻撃を繰り返す祐希は呼吸を乱しながら、脈絡無く話を振った。一方、基本的に避けるか防ぐかのスタイルで若獅子の牙を凌ぐブルーは、億劫だと言わんばかりのテンションの低さの中にありながらも、誤解を生む言い回しを律義に否定した。
「はっ、似たよーなもんじゃねーかよ!
 ああ、けど、…、っ、 普段は、情報部のっ、兵士(コマンド)、…だ、って…、!!
 クソ、いい加減っ、当たれってーの!!」
「……断る。」
 ヒュ…ン、と脇腹近くの空間を蹴破ってゆく足を手刀で打ち落とし、蒼の王者と謳われる人物はその常人の能力を大きく凌駕した強さを示威するが如く、隙の無い鮮やかな動きで祐希を遇(あしら)っていた。
「……っ、よっゆーヅラしやがって…!
 ぜってー、一発殴る!!」
「――…七日間」
「……はぁ!?」
 全力を出している自分とは対照的に余裕綽々の王国の支配者に、益々闘争本能を煽られた好戦的な青年は、乱れた黒髪を払いあげながら普段よりも五割強凶悪さを増した三白眼で、ブルーの発言を聞き返す。
「朔原総督から聞いた、脱出期限は七日間だそうだな?」
「――ああ、あのクソガキの話か。けど、それがどーしたってンだ…、よッ!!」
 無駄に動き回っている所為で消耗の激しい祐希の攻撃には、当初のキレは無かった。大振りになった拳を難なく避けられ、不甲斐ない己自身にか、優位に立つ青年を忌々しく思ってか、盛大な舌打ちと共に一旦インターバルを置くつもりで距離を取った。
「…理解しているなら、引け」
「テメーが大人しく一発食らうってンなら、引いてやるよ」
「――…、………、 断る。」
「あー、そーかい。じゃー、仕方無いよなァ?
 契約不履行、商談不成立ってコトで、好きにさせてもらうぜ!!」
 最初(はな)から交渉や説得に応じるつもりなど、微塵も持ち合わせないのは誰の目にも明白で、実に愉しげに拳を振るい上機嫌で喧嘩道を往く祐希に、ブルーは辟易しながらも止むなく応戦の構えを取った。

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 チームブルーへ所属する少年の案内を受け、メイン通路を急ぐ事ものの数分程、騒ぎの中心は意外な程近くに存在していた。
「――…これはまた…、大変な騒ぎになっていますね…」
「で、どーすんだよ。アイツ等の近くに行くってンなら野次馬退かしてやるけどよ」
 強制的に案内を請け負わされた少年が、不貞腐れながらもブルーへの義を重んじてか、協力の姿勢を見せ、朔原は意外そうに目を丸くするも直ぐに次策を考じて思案して見せた。
「…そうですね」
 黒のリヴァイアスに於いて、抜群の注目度を誇る天才エースパイロットと、絶大なる蒼の王者。
 両名の白熱した戦いが繰り広げられる現場は、正に黒山の人だかりとなっていた。
 とうに始業時間は過ぎており、各々本日の業務はどうしたのかと問い正すのも馬鹿馬鹿しい。
 乱闘騒ぎの中でも我関せずを決め込んでいる生徒もいるだろうが――…、現行のリヴァイアスに於いて人命を左右する重篤な責務を負う部署と言えば、ブリッジに籍を置くツヴァイの面々とVG(ヴァイタル・ガーター)を駆るパイロットメンバーのみだ。一般生徒が任される日々の雑用は集団生活を営む上で大切ではあるが、多少の作業遅延などそう問題とされる事も無い。
 単純な秤勘定だ。
 滅多に無い派手な見世物と、意義も意味も見出せぬ退屈な労働と。
 後者を重きとする者は、そうはいまい。
「可能なら、集まった生徒達を解散させて貰いたいのですが――…、」
「流石にそれは俺一人じゃ無理だぜ。もう、二、三人くれー連れてこないと」>
「…そうですね」
 無理に群衆の間を掻き分けて進み、乱闘に割って入る事は不可能では無いが、幾ら『仮想世界』とはいえ悪目立ちは避けたい。閉ざされた小さな箱庭を訪れた"大人"へ向けられる感情は、有難くも概ねが好意的なそれだ。しかし、詰らない切欠で折角の印象が真逆に変化する可能性もある。考えうる危険因子は徹底して排除しておきたかった。
「――あそこにいるのは、尾瀬君ですね?」
「あ? 何処に?」
「あそこです。少し離れた――、そう、見えますか?」
「あー? こんだけ人が多いとわかんねーっつの。
 ……アイツか。確か…、ヘラヘラパイロット野郎だっけか」
 朔原の視点からすれば明らかな背丈の違いからハッキリとそうと分かるが、過去の記録を再現するフーには四年前の姿の尾瀬イクミが映っているのだろう、興奮する観衆の中苦労しながら目的の人物を探しだす姿に、互いが目にする情景の不一致に強いギャップを感じる朔原だ。
「彼の近くまで行きたいですね」
「へーへー、わかっりました。艦長様。
 オラッ、退けよ。チームブルーのフー様のお通りだ。おら、退けって言ってンだろ」
 実に横暴な態度でフーは群がる少年少女達の肩を掴み、グイグイと後ろへ押しやってゆく。生徒達は突然の乱入者へ怪訝そうに眉を顰めるものの、『チームブルー』の肩書は絶大で、誰一人口答えする事も無く大人しく道を開けていった。
 目的の人物の直ぐ後ろの位置まで辿り着いて、リヴァイアスの救世主の如く崇められる『大人』は、案内役として活躍した柄の悪い少年へ軽く礼を口にすると、人の輪から少し離れているように言い置いて、尾瀬の背中をトントンと軽く小突いた。
「ほい?」
 くるりと振り向く眼は、優雅な気品を湛えた透明な翡翠色。道化じみた口調からは想像が追いつかないが、頭に『絶世の〜』と男性には相応しく無い形容詞で飾り立てたくなる、人外の美貌の持ち主の青年が、ふわりと翻った猫っ毛のクセもそのままに、ノンビリとした反応を返した。
「あれ、朔原さんだ」
「え? 朔原さん?」
「アーヤ?」
 十八歳の長身の影に完全に収まっていた昴治の姿は真後ろからは確認出来ず、聞き覚えのある愛くるしい声に朔原は虚を突かれた表情をした。
「…アーヤ…、良かった。無事だったんですね。
 貴方を迎えに行ったはずのブルーがこんな事になりましたから、心配しました。
 大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」
「俺ならヘーキです。それより――、その、アレ…」
 かつての親友の腕の中で小動物さながらもぞもぞ方向転換をすると、昴治は問題の現場を辛そうに見遣った。大きく揺れる蒼穹が、胸の内の不安を如実に物語っており、朔原は眉間に深く皺を刻み込んだ。
「…ええ。アレ、ですよね。困りましたね…。
 止められませんか? 尾瀬君」
「はえっ? なにそれ俺!?」
「相葉上級大尉は、貴方の直属の上官でしょう?」
「いやいやいやいや、無理無理、無理だって、ホント無理!」
「………」
 焦りながら軽く持ち上げた右手を顔の前で忙しなく振る姿に、二年前の『尾瀬イクミ』が思い起こされ、昴治は少しだけ心が浮上するのを感じた。随分変わってしまった親友の、変わらない仕草に込み上げる懐かしさ。同時に突き上げるのは両手に持て余す堪らない孤独。たった一人で背負いこむには少々荷が勝ち過ぎてか、幼い顔立ちの少年は表情を陰らせ俯いた。
「大丈夫、貴方なら止められます。信じていますよ、尾瀬君」
「無茶振りだから! それ!!
 あの二人の間に割って入ったらタダじゃ済まないって!
 アーヤちゃんからも何か言ってやってよ!」
 己の両腕の中に収まるスフィクスの少年を縋り付くように抱き締めながら、イクミは救いの手を求めて昴治へ話を振った。思わぬ強さを見せる拘束に戸惑いながらも、人類の福音たる愛らしい存在は上目遣いに朔原を窺い、親友の身の安全を考慮して反対意見を述べ上げた。
「え、…えと。
 確かにあの二人の喧嘩を一人で止めさせるなんて、俺も、ちょっと無茶なんじゃないかと――、
 って、え、、わ、へっ??」

 ぽふん。

 周囲の興奮した空気からは縁遠い呑気な衝撃と同時に、昴治は自分が何時の間にか朔原の懐に抱き留められている事を自覚した。柔軟剤のそれなのか、仄かなフローラル系の芳香を含んだ若葉色のハイネックセーターが視界一杯に広がって、混乱に巧く声が紡げなくなる。
「はい、ではアーヤは暫しお預かりしておきます。
 安心していってらっしゃいませ」
「…今、何が起きたのかイマイチ把握できてないんだけど…」
 腕の中で息衝いていた心地良い体温を奇術の手腕で奪い取られ、イクミは半ば茫然と呟きを落とした。負の感情を巧みに飼い馴らす彼にしては珍しく不満気に、空になった己の両腕と浚われたスフィクスの少年の姿を交互に見遣って、むぅ、と唇を尖らせて抗議する。
「なーんで俺に面倒押しつけるかなー、もー」
「期待していますから、頑張って下さい」
「はいはい…」
「あ、イクミっ!」
 仕方が無いと肩を竦めて一歩前に踏み出した柔らかな銀褐色の猫っ毛、その幻想的な色彩のひと房に追い縋るようにして、昴治は咄嗟に懐かしい友の名を口にしてしまっていた。
「え?」
 肩越しの――思い出にあるよりも随分と大人びた――翡翠の視線が疑問に大きく見開かれるのに己の失言を自覚するものの、人類の救世の主となるべくして生み出された無垢なるスフィクスは、
「け、怪我しないように…、気をつけて――、下さい…ね」
 気まずそうに視線を逸らしながらも、想いの丈を込めた言葉を絞り出した。
「………」
「あ、…あの…、?」
 普段の『尾瀬イクミ』であれば、不安を杞憂と笑い飛ばして終いとなるはずだが、その瞬間、イクミは数秒程動きをピタリと止めて、遠慮がちに朔原の腕に収まる福音の少年の姿を凝視していた。チリ、と海馬の底が焦げ付く違和感、胸の奥の痒疹を無数の爪先で引っ掻く恍惚とした不快感、視界が大きく軋んだ。理屈への理解は遠い、けれど核心の輪郭が確かにここに――…、
「尾瀬君!! 前! 避けなさい!!」
「え…っ、う、っわ!?」
 朔原の喚起も虚しく、息が詰まる衝撃を真正面から受けて背中から派手に倒れ込む壱型機動部隊副隊長の青年。ヴァイア艦隊の護衛部隊を代表とする部隊に籍を置く軍属にしては、少々間の抜けた可愛げのある風情だ。『副官』という具合の良い緩衝材に全力でダイブした人物は、ふるりと黒い艶のある尻尾髪を振りながら、焦点を合わそうと何度も瞬きを繰り返して、苛立ち舌打った。
「〜〜〜ちょー、っと。隊長ったら、こんなところでダイタン過ぎませんー?」
「ル…ッセェ、ボーッとしてねーで受け身ぐらい取れ。テメェ、それでも副官か」
「――…いやいやいやいや、何それ。隊長ったら、副官(オレ)に対して冷たすぎません?」
 精悍な肉体の持ち主である上官の重みを全身で受け止め、息苦しさに咳き込みながらも突っ込みを忘れない優秀な副官に、事の元凶である青年はあくまで横暴な態度を崩さず、ダマレ、と非情な上から目線で反論を抑え込んだ。
「黙るもなにも…、兎に角退いてくれませんかね。祐希クン。結構重いんですけど?」
「ダマレ、…っくそ、 …なんで、」
「…あー、若しかして三半規管ヤラレタんじゃない? 暫くマトモに立てないよー、それ」
 言われるまでも無い、と片手で自重を支え起き上がろうと試みるも、平衡感覚を保てず膝から崩れ落ちてしまう上官の様子に、イクミは迷惑そうな態度から一変、手の平を返したかのように嬉しそうに声を弾ませた。まるで、最高に楽しい獲物(オモチャ)を前にして、今にも飛びかかろうとウズウズソワソワ、期待と興奮に背中の毛を膨らませている猫の仔そのものだ。
「…はぁ!? …セッコイ真似しやがって…!!
 ぜっ、てー、殴る! ボコり倒す!!」
 呑気に押し倒されている副官の顔の両横で、必死に身体を支える祐希の腕が屈辱に大きく震えていた。二年の時間を経ても仇敵に対し後れを取る己への不甲斐無さと、一向に本気を出そうとしない情報部所属の黒スーツの余裕ぶった態度への忌々しさで、その業腹たるや推して測るべしといったところなのだろう。
「そんなチョーシじゃ無理だって。いい加減諦めなさいって、祐希クン。
 今はこんな事してる場合じゃないっしょー? ほら、ブルーだって困ってるよー?」
 ねぇ、とイクミが甘く囁く相手は、不様に這い蹲る若造共を尊大に見下ろす王者、その人で。
「…上官の躾がなっていないな、尾瀬」
「うわ、なんで俺が責められてんの? 折角、仲裁に入ろうとしてるのに酷くない?」
 高圧的な雰囲気(いろ)を湛える蒼の双眸に理不尽に詰られ、イクミはそりゃないよーと苦笑いを洩らした。そして不意に神妙な顔つきをしたかと思えば、己の上に丁度覆い被さる位置で狂った平衡感覚と必死に格闘する上官の、汗に濡れた前髪の硬い毛先を陶磁器人形の貴婦人のような繊細な指先でそっと払いあげた。
「……に、してンだ」
「いやー、なんとなく?」
「とっとと離れろ、この変態」
「えー、自分からぶつかってきたくせにー。ホンット俺様だよね、祐希くんって」
 腹芸に長けた壱型機動部隊の婀娜花と名高い青年は、隊長の余りの言い草に不満を零しながらも素直に祐希の筋肉の躍動が感じられる雄の身体の下から器用に這い出て、チャコールグレイのモダンジャケットの裾をパタパタと軽く叩き埃を落としながら起き上がる。そして、過去のリヴァイアスを無頼の武力で支配し一大政権を作り上げたかつての王者へと、一触即発の情欲と殺戮の刃の閃きを帯びた挑発的な視線を流し、芝居がかった所作で優雅に一礼を構えた。
「上官の無礼をお詫び致します、Konig(ケーニッヒ)」

 ――キャアッ!!?

 時代錯誤の気障な態度に、遠巻きにしていた女生徒達から黄色い歓声が沸き上がる。
「………」
「何なら靴の爪先にでもキスしましょうか?」
 唐突な行為にも関わらず、相も変わらずの完全無欠の鉄面皮で見下ろしてくる冷徹な王に対し、イクミは揶揄る口調で愉しげにウィンクをひとつ。そうと一言に命ぜられれば従順に、安易な自尊心(プライド)や怯懦(きょうだ)の虚栄心は惰性を辿るのに邪魔な荷物(モノ)と割り切って生きる。妙に真っ直ぐで頑なな上官では決して曲げられない信念(それ)を、何時だって容易く差し出して見せるのは、張り付いた笑顔が雄弁に凶悪な若き軍属。
「…益々、性格が悪くなったな」
 動揺少なく現在の『尾瀬イクミ』を的確に評したブルーは、道化芝居を披露する性悪と無茶な暴力を振りかざす無頼から視線を外した。これ以上相手をする気は無いとの意思表示なのだろう。
「フー」
 そして、目的の人物を心地良く通る低音で呼びつけた。
「へ!? お、おう、なんだよ」
 『仲間』と言うものに大した興味は無いが、取り撒き連中は何かと便利で重宝する。
 そんな明快な存在理由の下に好きに集わせているチームの一員――、もう少し厳密に分類するなら頭脳的立場にある三流悪役、正しく虎の威を借る狐な位置に立つ詐欺・詐称全般を得意分野とする少年が、及び腰で観衆の輪を抜けチームのリーダーへと近付いた。
「集まっている連中を追い払え、邪魔だ」
「あ…。おう、分かった。
 ――って、事だから、オラッ! お前ら、とっとと持ち場に戻れ!!
 何時までもボーっとしてんな!! ポイント削減のペナルティくらいたいか!」
 その命令を受けるや否や我が意を得たりとばかりに生徒達を散らしに掛るフーだ。大きく声を張り上げ、なかなか動こうとしない集団には拳を振り上げながら怒鳴り散らして、終いには物資の交換へ繋がる労働ポイントの削減まで匂わせて見物客共を追い立ててゆく。
 生徒達と言えば、もう終わりかー、とか、もっとやりあえよー、とか、つまんねー、などと、口々に好き勝手ぼやき、不承不承ながらも指示に従い、然したる混乱も無く夫々の分担場所へと散って行った。

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 艦内を騒然とさせた祭騒ぎの喧嘩騒動が漸く一段落し、仮想リヴァイアスへと送り込まれた一行は、朔原へ宛がわれた士官部屋へと場所を移していた。
 白壁の部屋には備え付けのベッドと、作業用のテーブルにセットになったイス、成人の腰辺りの高さしかない棚がどれもひとつずつ。殺風景としか表現しようの無い空っぽ四角な空間で、ベッドのスプリングを軋ませ座り込むのは黒のスフィクスの意思である少年。仮想世界に於いて王冠を戴く青年は扉近くの壁際に凭れかかり、壱型機動部隊の隊長格である黒髪の青年は、一人用の椅子に不機嫌オーラを燻らせながら腰を掛け、そんな直情型の上官を宥めるかのように、社交に長けた右腕が傍のデスクに懐いていた。
「――…『フレイヤ』と名乗った少年の真意は分かりかねます。それに、彼の提示した条件をクリアしたとして、我々が無事に解放される保証もありません。彼の探索は勿論ですが、独自に脱出ルートを確保しておきたいですね」
 現状把握の為にも互いの情報を交換し合うべきだと、まずは軍内部の地位的にも純粋な年齢的にも最上の立場にある特務艦隊総責任者であるカイリ・朔原が、自身を含む相葉、尾瀬の三名がこの場に至るまでの経緯を話して聞かせた。
 『クリムゾン・アニマ』――、フレイヤの件に関しては、本来匿秘事項であるのだが、緊急事態だと割り切る朔原は、己が知る限りの知識を災禍へ見舞われた二人へ伝えた。法を遵守する生真面目な性分ではあるが、決して融通が利かない頑固者では無く、異常への順応性が高く場に即した柔軟な指導力を発揮するのが、カイリ・朔原の人となりだ。言えば、現場の一兵卒から最も好まれるタイプの上官である。
「…それで、此方からも質問をさせて頂きたいのですが。
 アーヤ、貴方はどうやって此方へ?」
「あ、…えと。俺もカイリさん達と同じです。レインと一緒に地下へ移動していたところに、天井から変な腕が降ってきて、それにわーっと呑みこまれて気が付いたら…コッチに居ました」
「そうですか。他に何か気付いた事は?」
「いえ…。すみません、お役に立てなくて…」
「いいえ、充分ですよ」
 有益な情報を何ひとつ提供出来ず気落ちしたように沈み込んでしまう昴治を、朔原は温厚篤実な人柄を滲ませた穏やかな口調で労った。
「――…ブルー、貴方は?」
「…CELSUS(セルサス)の命令だ。
 シルエッティール特佐の下へ赴くようにと託(ことづけ)られた」
「CELSUSから――?」
「聞いてないのか」
「…少なくとも私は。シルエッティール特佐にだけ知らされていたのかもしれませんね」
 CELSUS(セルサス)とは、ブルーが所属するヴァイア機関にある三機構の内『情報部』を統括する最高責任者を指す隠語である。ちなみに、肥大化した組織に於ける必要悪として重用される『情報部』については、宙軍以外の陸・海・空の全てCELSUSが直接指揮権を掌握する集権型が敷かれる特殊な部署だ。組織の私物化が問題視される危険な体制だが、CELSUSの尋常ならざる能力の高さが、口だけの腰掛け武官や文官を制して現状を維持している。
「後はお前達の状況と大差無い。
 施設を移動中に床から生えた奇妙な触手に捕まって――…此方側に送られていた」
「……チッ、しょっぱなからドン詰まりかよ。使えねーなぁ」
「相葉上級大尉、口が過ぎますよ」
 特定の人物への敵意も顕わに攻撃的な調子で吐き捨てる気早の性の青年へ、朔原は珍しく上官らしい毅然とした有様(ありよう)で、尉官としての品位を損なう下賤の態度を改めるよう強い諫言を行った。
「……ッ、!」
「おーっこられたー、おこられたー。いけないんだー、祐希くんたら」
「尾瀬君も話のコシを折らない」
 張り詰めた空気を無視し戯事の体で囃し立てるのは、朔原の言葉に反発してか剣呑と双眸を尖らせた相葉上級大尉の補佐である軍属だ。明晰な頭脳と聡明な如才の持ち主である彼が、状況も弁えないうつけであるわけがない。見え透いた道化芝居の意図を誰もが正しく汲み取り、感情を滾らせていた黒髪の軍属は不承不承ながらも身の内に閃く刃を治めた。
「先にも申し上げましたが、恐らくこの世界は四年前の事件の記録を元に構成された『仮想リヴァイアス』です。喩えスフィクスが人類の想像を遥かに超える存在だとしても、時間軸へ干渉を行う高次元の能力をフレイヤが有しているとは考えにくいでしょうから。以後、混乱を避ける為にこの仮想世界を便宜的に『ロスト』と呼称します。宜しいですね?」
「はいはい、オッケー」
 ヒラヒラと愛想良く手を振るのは壱型機動部隊の副官を務める青年で、寡黙の相が強い残り二名の軍属は小さく頷いて見せた。
「で、取り合えずフレイヤちゃんを見つけるか、自分達で突破口を探しだすかって話だけど。具体的な作戦はある? 人違いで即アウトなんだし、総当たりってワケにもいかないっしょ?」
「ええ、フレイヤの捜索についてはアーヤにお願いしたいと思っています」
「えっ? お、俺ですか!?」
 CELSUS(セルサス)とやらの聞き慣れぬ単語が出てきた辺りから急速な疎外感に襲われ、せめて皆の話し合いの邪魔にならぬようにと静かに息を潜めていた昴治は、突然の指名に慌てた様子で居住いを正した。ベッドの上に律義に背筋を伸ばして座り直す姿が可愛らしくて、イクミなどは思わず噴き出してしまう程だ。
「あ、っははは。アーヤちゃん、かーわいーなー、もう」
「……かっ、可愛くないです!」
「うっ、わ。アーヤちゃん、可愛すぎるぅ…!!」
 ムキになって言い返す様子が益々愛らしくて、幼い黒のスフィクスの傍へと一足飛びで近付くと、その小さな頭をぎゅーと胸の中に抱き込んで、無闇な愛を注ぐイクミ。そんな副官の暴走っぷりに、幾許かクールさを取り戻した軍属はうんざりと天を仰いで長嘆息。
「おい、程々にしておけよ」
「やーだよー。こんなに可愛いんだもん。ねー、アーヤちゃん?」
「ちょっ、…、尾瀬さん! くるしっ…!
 それに可愛くないですってば! 後っ、『ちゃん』は止めて下さいっ!」
 何が悲しくてかつての親友から『可愛い可愛い』と連呼されなければならないのか。抱き込まれた腕の中でジタバタと暴れながら昴治は猛烈に抗議して見せた。確かに親友であった青年との間に外見上の年齢差は存在しているが、実年齢は同じだ。それに何より、一人の男として甚だ情けない有様で少々――、いや、かなり。
(……ブルーの時も思ったけど、なんか…やっぱ、……悔しい……)
 若さ故の未熟が無能と解される厳格な軍属生活がそうさせたのか、大きく様変わりした在りし日の親友の現在(いま)に、昴治は大層な衝撃を覚え、同時に、大変に虔(つつま)しやかな嫉妬の感情をも持ち合せていた。
「えー、可愛いのにー…」
「ダ、メ、で、す!!」
 がうがうと猛反対してくる可愛い生物をすっぽり腕の中に治めながら、イクミは不服だと言わんばかりに低い呻を絞り出し、温もりを確かめるような仕草で頬擦りながら名残惜しげに続けた。
「じゃー、アーヤちゃん呼びは止めたげるからさー。
 その代わり、俺の事も『イクミ』って呼び捨てにして?」
 胸の中に預かる華奢で愛らしいスフィクスの柔らかな髪を、感触を楽しむように指先で梳きながら、イクミは甘えたな声で窺いを立てる。こうしていると、悧巧で寂しがりの猫がごろごろと喉を鳴らしながら、幼い主人へと体当たりで懐いているようだ。
「――…、え」
 思わぬ申し出に、昴治は怒りも忘れて暫し凍りついた。
「今、俺の事 『尾瀬さん』 って呼んだっしょ?
 なーんか、余所余所しいってーか、違うんだよねー。
 こう、かわいーく 『イクミっ』 って呼んでくんない?」
「………」
「あ、前後に 『大チュキ☆』 って入れてくれると完璧だね!」
 お前は何処の夢見る乙女だ。
 そんな突っ込み待ちとしか思えないノリで、キャッとシナを作る尾瀬イクミ上級中尉。十八歳。ちなみに、ヴァイア艦隊に於ける戦闘の先陣を切る『壱型起動部隊』所属。栄誉あるVFパイロット部隊の副官をも務める辣腕たる人物。好きなものは相葉隊長を始めとする友人全てと、女性士官全般。徹底した博愛主義と言えば風評も宜しいが、隊内では唯の節操無しだと酷評されている。
 ――無論、その辺りの裏事情を二年のブランク持ちな昴治に知る由もないが。
「……。なんか変態臭い」
 率直な感想が、つい、口をついて出ていた。
「うっわ! ナニそれ、ひっっっど!! アーヤってば意外と毒舌ッ!?」
「同感だ」
「ちょーーーーーーっと、たいちょーーーーう!!
 ひどいわー、あんなに激しく愛し合ったのに、アタシを捨てるのねぇーーー!!」
「愛し合った覚えはねーよ」
「ついさっきも、アタシの事を情熱的に押し倒したくせにぃっ!」
「…テメーが避けねェからだろ。ドン臭ェんだよ」
「いやん、あんな公衆の面前で祐希クンとイチャイチャ出来るのに、そんな勿体無い〜」
「……死ね。」
「っぷ、くく…、 ははっ、あはははは!」
 強固な信頼関係を築く部隊長からの痛烈な追い打ちを受け、ベッドの上に俯せてさめざめと泣き崩れる親友と、謂れの無い批難に的確な突っ込み入れる弟の滑稽な三文芝居――、を目の当たりにして、呆気に取られた後、思わず昴治は声を上げ笑っていた。
 過去の険悪さが嘘のような二人の距離感に吃驚したのと、過去(じぶん)を置き去りにして『大人』に変わってしまった彼等の、二年前を彷彿とさせる子どもっぽい遣り取りに、何か、逐一空白の時間に拘り脅える自分が不意に馬鹿馬鹿しく思えたのだ。
「ん、何?」
 ひとしきり笑い終えた後、愛くるしい容貌のスフィクスは直ぐ隣からの強い視線を感じて、こてんと小首を傾げた。健全な呼吸を妨げる笑いの発作から、頬は緩く紅潮し睫毛は涙に濡れ、それはもう破壊力抜群の可憐さで、プチン、と見目麗しい容姿を裏切り、中身は大変個性的な青年は自分の中の何かが切れる音を聞いた。
「〜〜〜っ、やっぱ、可愛いぃいいいいい! アーヤちゃん!!」
「ちゃんは付けるなってば! イクミのバカッ!!」
「うっわ! 呼び捨てにキュンとキた! 可愛すぎるよぅー、アーヤ!!
 何これ、俺のモノにしたい! 何でもするから、コレ頂戴!! 朔原さん!!」
「い、いえ、そういうわけには…」
 ヴァイア艦リヴァイアスの意思の体現とするアーヤの可愛らしさに充てられ、その興奮から誤った方向へ暴走してゆく若人の切実な訴えを受けた朔原は 『まずは、本人の意思を尊重するべきですよ?』 と、至って誠実・真摯な態度で年若い軍属を生真面目に説得を始める。
「「………」」
 そんな特務艦隊総責任者、カイリ・朔原に対して、壱型起動部隊の隊長と情報部に所属する軍属弐名がほぼ同時に、実は天然なのか、との疑念を抱いたのは言うまでも無い。

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2009/10/11 初稿



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