act.7 記憶の揺籠
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時間(とき)は有限である。
断定口調で述べる朔原へ異論を挟む者は無い。
それ程に、現状は差し迫るものであった。
己が存在を『フレイヤ』と自覚し主張する異端が提示したゲームのルールは実に明快だった。
舞台を過去のリヴァイアスへと移し、役者と観客を招いた滑稽な喜劇の幕は開け、初日の舞台を終え二日目を迎えようとしていた。
「…で、どう? アーヤ。何か感じる?」
「うーん…」
人懐こい笑顔と巧みな話術で他人の懐へ入り込む特技の持ち主である、矢鱈な色気を振り撒く困った人物が、共に艦内を歩き回る少年へと声を掛けた。
辺りには作業中の生徒達の姿がチラホラと見受けられるが、彼等の目に映る青年――尾瀬イクミは事件当時の出で立ち、つまりは十四歳の少年の姿であり、不審がる者は誰ひとりとしていなかった。更に付け加えるならば、現在の彼の立場は『VGの正パイロット』である。これまで幾度も生徒達を守り抜いてきた、謂わばリヴァイアスの救世主である彼の行動を咎めるような考え無しの生徒は流石にいないようだった。
「…やっぱり、駄目、みたいだ」
「そっかー、でも気配はあるんだよね?」
「うん。気配は感じる。確かに、その『フレイヤ』って子は、この世界にいるんだと思う。
けど艦全体にノイズが掛ったみたいになっていて…、特定出来ないみたいなんだ」
「むー、そっかー。
何処でも同じ感じ? ここだ、ってビビッとくる場所とかない?」
「うん、ゴメン。何処でも感じは同じみたいで、全然掴めないよ」
「ま、流石に二日で見つけられる程甘くはないかー。しゃーないよね」
そもそも、リヴァイアスであるアーヤに直ぐ居場所が察知出来るなら、ゲームの参加者として認めるはずが無い、と、尤もな正論を口にしながらイクミはピタリと足を止めた。
「……? イクミ?」
「とーりあえず、部屋に戻ってお茶しない?」
数歩先で不思議そうに振り返るスフィクスの少年に、灰銀色の髪の軍属は気障な仕草でウィンクをひとつ。序でに投げキッスでも寄越しそうな軽快な軟派さで、イクミは昴治の肩を抱いて来た道を戻り始めた。
「え、…で、でもイクミ。此の先にもまだ空き部屋があるし、念の為チェックした方がいいんじゃ…」
「こっから先には人はいないでしょー? フレイヤは、"人"に化けてるんだしさ。
だーいじょーぶ、だいじょーぶ。お兄さんを信用してちょーだい」
「……う、うん。…イクミがそう言う、なら」
お調子者の印象が強かった親友の性格は今も昔も大きく違わないようだが、二年の歳月が言葉に重みと説得力を抱かせるようになった。二年前ならば楽観的過ぎる友の弁を疑問視し、頑として己の主張を貫き通しただろうが、軍属として成長した現在の尾瀬の姿には何処か心強さすら感じて、素直に納得し大人しく意見を受け入れる昴治だ。
「でも、イクミ。その、『フレイヤ』って子どもだけど…」
「うん?」
「近づけば、誰なのかって分かると思うんだ」
「え、ホントに? 近くって、どれ位? …これ位?」
意外な告白に月下美人の華の如く雪白の光に咲く軍属は、幼い表情をしながらスフィクスの化身である少年の頬へ己の口唇を寄せ、耳元へ濡れた吐息を仄かに香る砂糖菓子のような甘さと共に吹き掛けた。
「っ、うわっ!!?
ばっ、ちがっ!! ちょ…っ、もう、離れろよ!! バカッ!!」
「えー、けちー」
「何がケチだっ! …ったくもう、ンなナリして、全然変わんないんだから……」
「うん?」
「スキンシップ過剰だって言ったんだ!」
痺れるような感覚を残す耳許を手の甲で乱暴に擦り上げ、昴治はプイとソッポを向いた。その可愛らしくも初々しい拗ねた反応に、見た目は年上の人懐こい軍属は益々体裁を崩して小さな肩に背中から抱き着いた。
「そりゃ過剰にもなるよー、アーヤってば全部可愛いーんだもーん!」
「うわっ!!? ちょっ、…言った傍から、コラッ!! 離れる!!」
「…ちぇー」
ジタバタと、片手でも簡単に抑え込めそうなか弱い抵抗に本気を感じ取り、イクミは仕方無く密着させていた幼い身体を実に名残惜しそうにしながら手放した。
「で、話を戻すけれど。さっきの話、実際のトコはどれ位の距離になるの?」
「うん…、ハッキリとは言えないけど…。
相手に触ることが出来れば確実に判別(わか)ると思う。
離れてたら…、どうだろ。せいぜい1メートル位かな」
「触って分かるもんなんだ?」
「うん。ちょっと乱暴だけど、同化反応を見れば、ね」
「同化反応? ナニソレ」
「…うーん。ヴァイアが特定の物質と融合しようとした際に起こる反応の事、なんだけど。
なんて言えばいいのかな…。拒絶反応とは、ちょっと違うんだよね」
「へー?」
「あくまで、相手の反応を確認するだけのお試しだから、本当に同化するわけじゃないけどね。
相手からの反応の中にヴァイアかスフィクスに通じるものがあれば、きっとそれが正解だと思う」
「ふぅん?」
アーヤが語る同化反応とやらの感覚こそ理解の範疇を越えるが、理屈は察してイクミは曖昧な相槌をうった。スフィクス――と言うよりも、ヴァイアは対象の無機・有機を問わず、傍に存在するモノへ融合を繰り返す性質を持つ。これらはヴァイアという生命体が、『己』以外の種族の理解に非常に積極的である為で、決して異種族の淘汰を目的をしていたり、生命ピラミッドの頂点へ君臨しようとする本能が働いている訳では無い。ヴァイアにとって融合は『理解の手段』なのだ。人間社会で言う『会話』や『対話』のようなものと捕えて差支えないだろう。故に、個体としての意識が在る程度確立する対象を、無条件に取り込む無法は流石に不可能でもある。
「そだ、アーヤ、アーヤ。
その同化っての、ちょっと俺にもしてみない?」
「え? 何で? 必要ないだろ?」
「いやいやいや、ホラ、限り無くシロに近い奴がクロってよくあるデショ?
一応確かめてみないといけなくない?
ね? ほら、ぎゅーって。遠慮無く、がばーって、ほらほら」
「………。ヤダ」
「え、なんでー?」
「なんででも! 馬鹿言ってないで、もう行くからなっ!!」
「ちぇー、折角の口実が…」
年甲斐も無く目一杯ムクれてブチブチと未練を漏らしながらも、急かされるままに歩き出す銀灰色の流れ髪も艶やかな親友――に、困ったものだと昴治は特大の溜息を吐いた。
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リヴァイアス事件自体は既に四年も前の出来事で、事件当時は開発途上とは言え最新鋭であったVG(ヴァイタル・ガーター)のシステムも、現在のVF(ヴァルキリー・フラット)のそれとは歴然たる性能の差が存在していた。
「…チッ」
VGの正パイロットだけが立ち入りを許されるリフト艦で、弱冠十三歳の若さで漂流するヴァイア戦艦を正規軍の追撃から護り抜いた天才エースパイロットが、手許のコンピューターのキーを乱暴に叩きつけ、苛立ちそのままに忌々しげに舌打った。
「どうですか? 相葉君」
思わず刮目してしまう程に有能だが、年若さ故に盛んな感情が抑え切れない下士官を気遣って、灰のゲシュペントの艦長をも兼任する、ヴァイア艦隊が総督は殊更柔和な声を意識して訊ねた。
「駄目だ。幾ら新パターンのソリッドを組んでも片っ端から消去(デリート)してきやがる。
アンタの読み通り、参加者からの干渉は受け付けないようになってるらしい」
「やはり…、そうですか」
「そっちはどうだ? レインか…、アレとは連絡取れそうなのか?」
「アレ、って。……若しかしてファルネウス上級大佐の事ですか?」
「ソレだ」
「…ファルネウス上級大佐は不得手ですか?」
組織としての長であるファルネウス上級大佐を忌々しそうに『アレ』と吐き捨てる若き士官の様子に、朔原は幾許かの同情の意を込めた眼差しを送る。
「アンタはよくあんなのと付き合えるな?」
「決して悪い方ではありませんよ。…困った癖は持ってらっしゃいますが」
困った癖、と朔原が口にした途端に、黒髪の青年の機嫌が目に見えて冷え込んだ。顕著な反応に、彼も被害者の一人であるのだろうと確信して、温厚篤実な人格者であるヴァイア艦隊総督は奇妙な連帯感のようなものを感じつつ、話を進めた。
「色々試してはいますが、難しいですね。
どうやら我々は基本的にゲームのルールに則った行動しか許されないようです。
今の段階では正攻法で脱出の糸口を探るしかありませんね」
「…アテになるのか、あんなガキ」
埒の無い状況に声を苛立たせながら、祐希は新しい黒のスフィクスであり、且つヴァイアの意思を統合し支配する唯一絶対の存在である福音の少年へ疑念の言葉を投げ掛けた。
「スフィクス探索については、私達の誰よりも優秀だと思いますよ」
「………」
「…相葉君?」
「…いや…」
「どうかしましたか? 気に掛る事でも?」
「……問題無い」
「そうですか?」
良くも悪くもストレートな態度や物言いをする性格の祐希が、言い掛けた言葉を呑む事は極めて珍しい。会話の流れに乗せて訊ねてみても即座に返されるのは明確な拒絶で、下手に追求の手を強めて信用を損なうのは失策であるとして、高次元の判断力を持ち合わせる若き総督は早々に話題を切り上げた。
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「あや、祐希君。おつかれー」
「…ああ。そっちの成果はどうだ?」
「うーん…」
実質リヴァイアスの最高権力者であるブルーの権限で、艦長代理として認められた朔原の私室に戻ってきた壱型機動部隊の隊長格である青年は、別行動の二人――軍に於ける己の片腕である副官の尾瀬イクミと、異質(スフィクス)として目覚めたばかりだという、余りにも弱々しい存在――へ穿つ視線を送り付けた。
「ハッキリしねぇな?」
「ちょーっと、オカシな感じになっててさー。フレイヤちゃんも見つからないし、一時退却してきた」
「『ロスト』がマトモじゃねーこと位、理解(わか)り切ってンだろ」
大股で部屋の中を進み、勝手知ったる具合でデスクチェアへ派手に腰を掛ける祐希へ、ソファの上に気持ちよさそうに寛ぐ副官は、眉を下げ肩を落として苦笑いと共に答えた。
「や、そーなんだけど。そーじゃないっていうか…」
「回りくどいな。三秒で説明しろ」
自身を取り巻く周囲の状況に人の常識を越える異常が発生していると言うのに、相変わらずの傍若無人な無体さを発揮して、逞しい背の中頃まで伸ばされた、硬質そうな藍染めの黒髪をした軍属は無茶な命令を一方的に下した。
「生徒の幻の幾つかに実体の存在が確認出来た」
「……何だと?」
突拍子も無い難題を課されようとも、それが思慕にも似た信頼を寄せる上官の望みとあれば、即座に応じてみせるのも、右腕としての義務であり責務であると、悠然とした色香を纏っては綽々とした余裕の体で優秀な壱型起動部隊の副官は答えた。
「アーヤの能力で、相手がタダの幻か実体か見破れるらしいんだけどねー。
生徒の中に稀に実体を伴ってるのが居るらしいんだよねー、これが」
「……実体数の割合は」
「全員確認したわけじゃないしねー、正確にはチョットわかんないけど。
でも、…そだな。ザッと視て貰った感じから全体で五十位は居るんじゃない?」
「多いな」
「多いねぇ」
「敵か?」
「かもねー」
「どういう事だ」
「どーゆー事だろーね?」
「………」
のらりくらりとと掴みどころの無い副官の捕え所の無い受け答えに、苛立ちと呆れを交えた溜息を吐き、宇宙戦闘に於いて最強と謳われるVFを駆る機動部隊の隊長格である青年は、ソファに大人しく収まるもう一人へと質問の矛先を向けた。
「おい」
「は、はい!」
まさか自分へ話が振られるとは思ってもみなかったようで、突然の呼びかけに慌てふためく慎ましげな雰囲気のスフィクスの少年――アーヤへ、獲物を狙い荒野を駆ける黒豹の飢えた凶暴さ彷彿とさせる黒髪黒目――光の加減で紺や藍へ輝きを変える――の軍属は、極めて簡素簡潔な質問を投げつけてきた。
「実体かどうかってのは、どうやって見分けてンだ」
「……え、」
「はーいはいはいはい、祐希くーん?
いっちおー、言っておくけれど、アーヤは階級的には上だからねーぇ?
もーちょっと手加減して、親切な態度を心掛けましょうねー、隊長?」
敵意にも似た乱暴な感情に思わず面食らって止まってしまうアーヤへ、即座にフォローを入れる副官は、幾らか機嫌を損ねているようだ。昨日が初対面だと言うのに、マルチな能力の高さを誇る代わりに非常に自由気儘な気質の主であるイクミは、黒のスフィクスであり人類の福音でもある、幼げな少年を随分と気に入ったらしい。珍しいものでも見るように胡散臭げに部隊の補佐を務める青年を一瞥してから、祐希は一拍を置いて纏う雰囲気と声のトーンを、ひと癖を孕んだ柔らかなもので包み込んでみせた。
「……失礼致しました、『アーヤ』様。
再度質問させて頂きますが、宜しいですか?」
「へっ、あ、え、……う、うん。じゃなくて、……ハイ。」
言の葉を構成する『韻』だけを耳に留めたのなら、その礼儀正しい言葉遣いに居住いを正す場面なのだろうが――、何せ質問者である当の本人は、さして上等でも無い単純な構造のデスクチェアの上に、両腕を組み胸を張ってふんぞり返った姿勢のままなのだ。あまりと言えば、あまりな実弟の横柄な態度に、どう反応すれば良いものやら、困惑を抱えながらも何とか曖昧に頷く昴治である。
「我々が現在属している世界――、『ロスト』が仮想リヴァイアスである事は疑いようがありません。
となれば、幻。若しくはそれに準じる『何か』がロストを構築していると予測されます。
しかし、貴方は幻である生徒達に実体があるという。
その根拠をご提示頂ければ幸いにてございます」
本来であれば恭しい一礼でもあって然るべき場面なのだが、如何せん一片の淀みも迷いも無い流暢な台詞回し、且つ懇切丁寧な言葉選びで疑問を口にする若き軍属の態度は――変わらず威圧的かつ尊大なままであった。
「……え、と」
肝心の黒のスフィクス――昴治はと言えば、想い出に残る甘えたがりで聞かん坊な手の掛る可愛くて仕方の無い弟の姿と、現在(いま)の彼との激しいギャップに苦しみながらも、どうにかこうにか体裁を繕って声を絞り出した。
「…その、ヴァイアは自分以外の"存在"(もの)と融合する性質があるんです」
「それは知ってる」
「……ぅ」
すっかり少年の面影を失った弟から受ける奇妙なプレッシャーに委縮し、どうにもぎこちなさが態度に表れてしまう昴治だ。しかし、必死に己を奮起させると、気を取り直して説明を続けた。
「その、同化の時に対象から返される反応で相手を理解する事が出来るんです。
生徒の中の数名から、"人間"の反応があって…」
「…成程、な。その情報ってのは、どんな感じで読み取れるんだ?」
「――本気で同化するなら結構深く読めるみたい、です。
例えば、その人の記憶だとか経験してきた事だとか、考え方だとか……。そゆとこまで」
「へーぇ? じゃあ、俺や祐希君にその同化ってのやってみたとして、全部理解っちゃうんだ?」
「…うん。多分、ね。
俺は実際には"同化"を経験した事が無いから、あくまで間接的な情報だけど」
生来が好奇心旺盛な性質(タチ)なのだろう、興味津津と言った様子に身を乗り出して質問を被せてくる猫科の青年の、その変わらない仕草に懐かしさを覚えつつ昴治は遠慮がちに頷いた。
「なら、その能力(ちから)で、相手が何なのかを確認する事は出来んじゃねぇのか?」
「……イクミにも言われたんですけど、その、」
「あ? 何だよ、問題でもあるのか」
「…っ、そう、です。すみません…」
荒事を得手とする血気盛んな軍の青年に激しく睨みを利かされ、申し訳無さそうに狼狽(うろた)えて、視線を彷徨わせながらか細い声で項垂れる姿は、祐希へと妙な罪悪感を植え付けた。と、同時に保護欲や庇護欲といった類の感情を掻き立てる。
「………、責めているわけじゃない」
心身共に隆盛を極める逞しも頼もしい軍属の青年は、己の如何にも粗野な態度が黒を司る福音の少年を無闇に脅えさせるのではないかと、漸く自身の浅慮な言動を顧みるに至った。
「説明して欲しいだけだから、…ンなビビんなよ…」
「……え、は、はい…っ」
無垢な雰囲気の漂う少年を気遣う台詞を口にしてから、照れ隠しなのか居心地悪そうにそっぽを向いてしまう祐希。そんな上官の態度に、おや、と珍しいものでも見たように目を見張る副官。骨の髄まで染みついた処世術と狡猾さからひとまず様子見に徹するものの、内心は隊長の絆されっぷりをひやかしたくてウズウズだ。
「…え、ええと。相手の色々な情報が視れるのって、同化し切った時だけなんです。
対象と融合した結果として、相手の記憶や感情諸々を自分のモノのに出来るから――、」
「成程、な。なら無理だな。分かった」
「…い、いえ。すみません、俺…、あまり役に立たなくて」
「いや、お前がいなかったら、実体の存在にも気付かなかった。
――充分役に立ってるさ、自分を卑下するような言い方は止せ。
お前の場合、謙遜は美徳じゃない、厭味なだけだ」
「……っ、ゴメン…」
「……、そうじゃない。そういう意味じゃねぇって、一々落ち込むなよっ。
くそ…っ、遣りにくいな……」
キュゥ、と表情を曇らせる黒のスフィクスの意気消沈した姿に、再び己の失態に気付くと、天才的な戦闘センスで若輩ながらもヴァイア艦隊の守護部隊を任ぜられる牙持つ青年は、バツが悪そうに目許に掛る前髪を掻き揚げて、口内で小さく舌打つ。
(…ふーん?)
滅多にない上官の動揺に、副官である青年は意味深な笑みを口許へ張り付けて、成り行きを見守った。
「うん…。有難うございます。ゆ、……相葉、さん」
態度や言葉はキツくとも情に不器用な弟が自分を気遣ってくれているのだと察して、自然に緩む頬、口をついて出る感謝の想い。咄嗟に音を成そうとするそれは、愛しくも懐かしい呼び名で、寸でのところで自制の念が理性を掠めて重い制御が掛る。溢れ出る情を必死に呑み込んでみせて、強烈な違和感に軋む記憶を誤魔化しながら、無機質な呼称を漸く口にしたというのに――、
「………」
――何故か精悍な肉体の中に少年の名残を宿す凛々しき軍の青年は、宇宙(そら)の深淵とも、闇を紡ぐ異獣の雄叫びともつかぬ、不可思議に揺らめく昏い双眸を、おかしなモノでも耳にしたかのように、全く無防備に丸く瞬かせていた。
「……どうかしたんですか?」
ギシリと固まった、それこそ、丁度螺子が切れた木偶人形のような有様の、追憶の中では誰よりも愛しい弟であり、現実では赤の他人でしかない若き魂へ、昴治は真っ直ぐな、あまりに真っ直ぐに、地上から見上げた青空(そら)の明晰さを映し込んだ瞳を不安に曇らせながら向けた。
「……相葉さん?」
再び、呼びかけた声は、やはり何処か余所余所しく、空虚な響きの軌跡だけを残した。
「………」
「…うわっ!?」
「ちょっ、祐希君!? 何してるの、君は!!」
途端、弾かれたようにデスクチェアから立ち上がり、政府軍の中でも花形部署として名高い、宙軍の中の更にヴァイア関連の戦闘部隊、壱型機動部隊の隊長として任ぜられる若き軍属は、人を超越する異能・黒のスフィクスの少年の華奢な肩を広い掌で両側から包み込むように掴み込んだ。
「……あ、あの…?」
相手の意図が読めずに困惑するばかりの昴治に、予想の斜め上を飛び出た展開に気を揉むイクミ。瞬きすら惜しいとばかりに、無垢な幼さが際立つ少年に食い入る野性的な青年は、闇と紺を交えた兇眼の奥、穿つように一抹の光を求めて、己の内に眠る餓えた野獣の咆哮に神経を研ぎ澄ました。
「……違う。」
「んー? 何が? てか、ホントにどーしたの、祐希君。
アーヤちゃんに惚れちゃったとか?」
簡素なソファの上に好き勝手懐いていた銀絹の上等な猫は、不穏な動きを見せる上官の様子に眉を潜めて腰を上げ、抜き身の刃を翳すばかりの祐希の鋭気を宥め賺すように、殊更冗談めかした口調であざとらしく茶化してみせた。
「……違う ……。
違う、
アンタ、
そうだ。
――…、 ちがう …」
「……ッ、ぃ、っ」
ギリッ、と。
しかし、目端を利かせ背後に控える副官の声も届いていないのか、優しげな風貌をした少年の薄い肩に、その柔らかな肉の部分に、獣牙を突き立てるかの如く掌に渾身の力を込める壱型機動の青年。雄の色香(フェロモン)を見事な肉体から燻らせる精悍な軍属が、それこそ悪霊の類にでも憑り依かれたのかと思わせる程の正体を迷わせた形相であった。縋り付く指先はとうに色を失い、驚愕と動揺を黒のスフィクスへと確かに伝える。
「……った、 ……」
日々鍛錬に明け暮れる強健たる軍の青年の思わぬ行動に、しかし、耐え兼ねたのは無垢な瞳の奥に、永劫の孤独と不可避の諦観を呑み込んだ、たおやかな面差しの少年。存分に掴まれた両肩に加えられる破滅的な力は、成長過程の未発達な骨で組まれた肩関節など今にも粉々に砕きそうな勢いだった。
「っ、……た、は、放し……っ」
「バカ! 祐希!! 何やってんだ!!」
圧倒的な体格の差から、身を捩じって逃れる事も敵わず、懸命に苦痛を訴えるアーヤの姿も目に映らず、懇願のか細い声も聞こえていないのか、更に凶悪な力で束縛を強めようとするのを、流石にこれ以上は見過ごすわけにはいかないと、優秀な補佐役として壱型機動部隊の隊長を支える蠱惑的な艶貌の軍属は、慌てて二人の間に――アーヤを背に庇うように――強引に割り込んだ。
「………あ?」
しかし、肝心の狼藉の主はと言えば、突然視界に飛び込んできた見慣れた副官の顔に、惚けた表情を見せ、大きく、数回の瞬きを繰り返した。
「あ、じゃないでしょ? ゆーき君、何してんの君は」
「………」
責める口調こそ軽いが、不機嫌そうに眉を顰め憤慨と不審で染まる溜息を洩らす副官へ、しかししなやかな肉体に長めの黒の髪を馴染ませる端正な青年は、己の両手を凝視しただけで、その声に殆ど反応していないようだった。
「……祐希?」
喩え何者が相手であろうとも、如何なる状況であろうとも、臆すること無く堂々と胸を張る若き天才。過剰な存在感で周囲を圧倒する尊大な自信家。V・マイスターの名に恥じぬ圧倒的な戦闘力を誇る壱型機動部隊の隊長。これら、様々な肩書や讃嘆を受ける『相葉祐希』の態度にしては、随分とらしくない不審な挙動に、イクミからの再度の呼びかけには気遣いの意が含まれていた。
「どうかしたの、お前?」
「………なんでも…、ねェ、よ」
「うそつけ」
「………」
「――…ったく、手ェ掛る隊長サマだこと?
御免ねー、アーヤ。ちょぉーっとヤボ用なんで、この、お兄サンと席を外すねー?」
「あ、…うん、いってらっしゃい」
突然の暴行から解放された異形の少年は未だ放心状態であったが、殊更朗らかな口調と爽やかな態度を心掛けながら声を張る、廃退的な色香を綺麗な容姿に含ませる戦闘軍人に向け反射的に送り出しの言葉を口にした。
「肩は大丈夫?」
そんな、いっそ健気な愛らしさに満ちる黒のスフィクスへ、イクミは言いようの無い感情を募らせながら優しく問いかけると、人の姿を模しながらも、決して人と同じ世界を共有する事の無い孤独の主は、にっこりと気遣うように表情を綻ばせた。
「へーきだよ。有難う、イクミ」
「いえいえ〜、お礼はチューで宜しくぅ〜」
「…バカ言って無いで、早く用事済ませてこいよ」
ひどく下らない遣り取りに幸福の尻尾を掴んだ気になりながら、
「はいはーい。一人で部屋の外をウロウロしちゃ駄目だからねー」
「分かってるよ。いってらっしゃい」
同時に、手にしたものが不幸の堝でしか無い事も、誰よりも正しく理解して、
「……いって、らっしゃい……」
弟と親友、今となっては決して戻れない関係に未だに追い縋る、己の浅ましさに、
「………」
無機質な扉の向こうへ二年の時間を越えた二人が、揃って消えるのを見届けると、
「…馬鹿だな、俺…」
すっかり大人びた容姿へと成長を遂げた弟が、渾身の力で以て握り締めた己の両肩を、我が腕で抱き締めるようにしながら、
「…期待、した…。
ダメ、…なのに、な。
リスクだとか、諸々、色々。
…絶対、駄目だって分かってるくせに……っ」
――思い出して、欲しいだなんて。
身勝手な願望が、切なさを伴い胸を抉る。と、同時に。
自身の余りの愚かしさと傲慢さに、人類の福音として讃えられる黒のスフィクスは、ただ薄く自嘲めいた笑みを浮かべた。
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2009/12/20 初稿