act.8 蛇の果実
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 高山地帯に人目を忍ぶように密やかに存在する、空都のひとつ、アルベレッタ。
 特筆すべき産業も名所も無く、閑静な街並みが取り柄の無名都市だが、それ故に軍が秘密裏に事を進めるのに適した場所だと言える。
 実際都市の端にあたる山間には、全人類の命運を賭した『新天地計画』(プロジェクト・ホーム)の要であるヴァイアの大規模な研究所が、仮初の製薬会社の名を隠れ蓑に建設されていた。

 ――ヴァイア研究の最前線とも言えるアルベレッタ研究所・通称AB基地。

 現在、当AB基地内部に於いて、人類の未来を闇へと叩き落とす大事態が起きていた――が、事件発生から二時間、施設の高い機密特性が仇となり未だ外部がその異常を察知出来ずにいた。

 地下都市:エスポワール

 人目を忍んで建設された巨大都市――であると同時に超S級の巨大宇宙艦でもある。
 別名を『緋のシュレイディル』と言い、既存のヴァイア艦の中でも黒のリヴァイアスや灰のゲシュペント同様に、"スフィクス"との共生を目指す新型宇宙艦のひとつだ。
 この『緋のシュレイディル』の中枢――所謂都市機構の心臓部に位置する施設、将来的には都市に於ける中央政府の役割を果たす白塗りの議事堂内部、来賓用に誂えられた贅沢な応接間にて、政府軍でも幹部クラスにあたるヴァイア機関実行部最高責任者、遊佐・ファルネウス上級大佐、及び人類初のスフィクス成功体であるレイン・シルエッティール上級中佐が、同時に呻いてみせた。

「う〜ん。駄目だね、完全にお手上げだ。
 通信が戻って来るなんて、実に巧妙な仕掛けだね。感嘆に値するよ」

 ふぅ、と。
 灰桜の瞳に百蘭の髪も美しい、ヴァイア機構実行部最高責任者の肩書を持つ人物、遊佐・ファルネウスは、堅苦しい軍服を婀娜っぽく着崩した格好で、彼特有のアンニュイな雰囲気を帯びながら溜息を吐く。
「感心してる場合か、どーにかしねーと、
 ……銀(シルバー)の専用線もアウトか、くそっ…」
 常に浮世離れした一風変わった空気を纏う旧友に、人類初のスフィクス化成功体である黒艶を孕む年若い青年――実年齢は遊佐と変わらないが――レインが、右耳を飾る血紅石のピアスを器用に外して掌に乗せ、幾度と無く呼び掛けてみるが、やはり結果は同じ――、

 現在『AB基地』は、外界との連絡・通信手段の一切を断たれ、陸の孤島状態に陥っていた。

「裏を返せば、連中もそれだけ必死と言う事なんだろうね。
 【ラビット・グレイ】以来大人しくしていると思ったら…、――全く、油断も隙も無い」
「…【神唄(リ・ニオン)】の連中か?」
「裏で手を引いているのは間違い無く彼等だろうね…、実際動いているのは別だろうけど。
 【神唄】は反政府組織の象徴として大衆やテロ連中に神格化された組織だからね。
 だからこそ、彼等の"作戦"には失敗は許されない。偉大な神の名を穢すわけにはいかない。
 【神唄】が直接行動を起こすのは、百パーセントの勝算がある時だけだよ」
「…悪のカリスマ、ってやつか。御大層な事だな。
 けど、【神唄】じゃねーなら…、そうだな…、
 【戦乙女(ヴァルキュリア)】が最近煩くしてたよな、確か。
 【英知の冠(ブレイン・クラン)】にもイカれた技術屋が揃ってるって話だったか。
 他には、――…、 ! 」
 反政府を掲げる組織の中でも一定の力を持つそれらを、記憶を探りながら列挙してゆくレインの動きが、ぴたり、と止まった。時を止めたように、呼吸の仕方すら忘れたかのように、
「――そう、今君が思い描いた組織が最も有力だね。
 未だ試作初期段階に過ぎなかったシュレイディルの疑似人格に自我を与え、絶対服従の命令を植え付けた――、
ヴァイア研究所のスタッフが誰ひとり異変に気付かない内に、ね。
 こんな非常識な真似が可能なのは、件(くだん)の組織しかないと私は考えているよ」

「――… 【蛇(パラサイト)】、か」

 【蛇】(パラサイト)

 関係者に厳重な緘口令が発令され、黒の歴史として闇に葬り去られた存在、明澄な知能・卓越した才能を抱きながら、"ひと"として不完全で不安定な――故に残酷な程に純粋でもある――物狂いの科学者連中で設立された組織が、【蛇(パラサイト)】と呼ばれる物の正体だ。
 かつての人類が執拗に追い求めながら、叶わぬ夢として希望の残骸に廃棄した悪夢(ユメ)の『楽園』(エデン)への切符を、無尽蔵に積み上げられた芥(あくた)の山から探し出そうと血眼となる集団であり、目的の為には多少の犠牲も是とする危険思想が暗黙の了解として罷り通る連中だ。
「アイツ等、ココだけは手に負えないからな」
「主に、悪い方向にね」
 こつこつ、と親指で己の頭を指し示すレインに、遊佐は同感だと微苦笑を漏らした。
「けど、連中に荒事のスキルはねーだろ。アイツ等、根暗な研究オタばっかだぜ」
「誠に残念ながら、リーダーのモルゲンは切れ者でね。
 おそらく、彼が【神唄(リ・ニオン)】を交渉のテーブルに引き摺りだしたんだろう」
「モルゲン――?」
「おや、君には伝えてなかったかな。【蛇】の現行リーダーだよ。
 『明けの明星』(モルゲンシュテルン)、なんてね。
 なんともカッコつけた間抜けな名前だね、そうは思わないかい?」
「モルゲン…シュテルン、ねぇ。
 何時の間に代替わりしたんだ、確か【蛇】のリーダーはハイドだったよな?」
「ハイドはナンバー2に降りたよ。
 元々、彼自身も研究者で学者肌だからね、地下組織リーダーなんて柄じゃ無かったんだろうし。
 特に内部分裂や抗争なんかも無く、実に平和的に主権交代が行われたようだよ」
「…随分詳しいな? スパイでもいれてんのか?」
「私がそんな無粋なわけないだろう、一般常識だよ」
「非常識の塊がナニ寝言かましてやがる」
「こんな事態でも君の毒舌は相変わらずで嬉しいよ」
「お前の他人(ひと)を舐めくさった態度も生涯品質で喜ばしい限りだな」
「ふふ、性格の悪さはお互い様だよ。
 ――さて、それは兎も角。どうにか現状を打破出来ないものかな、万能のスフィクス殿」
「出来るなら、とっくにやってるっつーの。
 リバウンド覚悟で"干渉"も試してみたんだけどな、手応えがさっぱりだ」
 地下都市を模して造られたヴァイア艦・緋のシュレイディルに対し、スフィクスの能力を以て強制的な精神共有を仕掛けたものの、拒絶反応どころかフィードバックのそれすら見受けられずに、勝手の違いに戸惑うばかりの灰のスフィクスだ。
「手応えが無い、ね。
 おかしな話だね。『彼』は何と言っているんだい?」
 ふむ、と美しい柳眉を難しげに寄せながら、実行部に於ける全責任を負う立場の気品漂う青年は、物憂い仕草で目許に掛る長めの前髪を掻き上げた。
「…その事だけどな」
「うん?」
「マーヤとのリンクも死んでる」
「…おや?」
「マーヤとだけじゃないな。ヴァイアシナプス自体が切断されるみてーだ」
「君の便利連絡網が使えないなんて、これはもう確実に【蛇】の仕業だね」
「だろーな。連中、次々とろくでもねーことばっか思い付きやがって。
 どーりで先刻(さっき)から、調子が出ないと思ったら…」
「うん? 体調が思わしくないのかい?」
「本体との接続が切れてるからな。長く続けば、…ヤバイかもな」
「具体的には?」
「…さーな、何分初体験なもんで」
 斜に構えた人生観そのままのシニカルな嘲笑を浮かべ、レインは旧知の仲である腐れ縁上司の追及をかわして、応接間の贅沢なソファへどかりと腰を下ろし背を預けた。
「――…君に関してはどーとでもなりそうだから由として。
 それよりも、私はアーヤが気になるね。
 君と同じ状況に陥ってるのであれば、彼も何らかの不調を訴えているんじゃないかい」
「アーヤは平気だろ、アイツは特別だからな。
 それよりも、俺はカイリが心配過ぎるわ。あの連中に囲まれて苦労してなきゃいいけどな」
「あの子の苦労性は生まれ持った業のようなものだから、不可能じゃないかな」
「あー…、 ……… まぁな 」

『 そこで納得しないで下さい 』

「!?」

 陸の孤島、外界と連絡手段を完全に断たれているはずの場所で、まさに今話題に上がっていた人物の、諦めと呆れが微妙に混じり合った哀愁漂う声が静かに届いた。

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 黒のリヴァイアス。

 世界を震撼させた少年少女達だけでの宇宙漂流事件。
 更には、反政府組織が起こした武力行使を辞さぬテロ事件。
 それぞれ『リヴァイアス事件』及び『ラビット・グレイ事件』と呼ばれ、ヴァイア艦に於ける二大事件として位置付けられている。
 これらの事件が特に注目される理由として、被害者及び関係者の多くが未成年であった事が大きく起因しており、ヴァイア機関の中でも特に不吉な艦(ふね)として関係者から敬遠されている。
 実しやかに流れる噂の中には、黒のリヴァイアス初代スフィクスである黒姫(ティターニア)に見初められた人間は不幸になるだとか、死へ招かれるだとか、遂にはスフィクス自身を不吉の象徴として悪評を広める人間までいる始末――、なのだが。

 事件の当事者達からすれば、世間の風聞など取るに足らぬ存在(もの)でしか無かった。

 黒のスフィクス――、
 『ネーヤ』と名付けられた未熟な自我しか持たぬ少女が、必死に彼等を守ろうとした事実を、
 未完の器に過ぎたる感情のうねり、幾度も、幾度も、幾度も、狂想の水際で、
 痛みに悶え、苦しみに喘ぎ、
 それでも、愛しき子等の魂(いのち)の灯(ひ)を、

 コ  ウ  … ジ 

 無垢の少女は、最後まで最期まで、守ろうと足掻き続けたのだから。

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 第三世界大災害(カラミティ・ノヴァ)を生き延びた人類に、再び襲い掛る太陽の脅威。
 遠く無い未来に、宇宙の奇跡とも讃嘆される蒼き惑星は、死の海に呑み込まれる。
 滅亡に魅入られた地球人類は、種の絶滅まで秒読み状態にある――。
 終末の未来を切り拓く為に、 『彼』 は存在している。
 "福音"と呼ばれる希望の光。
 ヴァイアへの絶大なる支配権を有する【KING】級のスフィクス適合者。

 黒のスフィクス――、『アーヤ』。

 その彼の護衛役にと内密にヴァイア研究施設へ召喚された『壱型起動部隊』の隊長及び、副隊長にあたる政府軍所属の人物達は、はにかむ仕草が非常に愛らしいスフィクスを士官部屋に待たせ、その扉から十数歩程の距離をあけて立ち止まり真剣な面持ちで向き合った。
「…で、どーしたの。祐希クン」
「………」
「沈黙は美徳じゃありませんよ、隊長?」
「…尾瀬、 」
「ん?」
「――…お前。
 『ラビット・グレイ』の後の事を全部思い出せるか?」
「…えーと…、ハイ? なにそれ、何かの謎掛け? それともギャグ? 笑ったほーがいいの?」
 眉間に深い皺を刻み押し黙る二階級上の上官、かつ私生活では無二の悪友でもある――周囲によく誤解されるが、決して親友等と言う類の関係では無い――暴君の名が相応しい粗暴で横柄な青年が問いかける言葉の意図が汲み取れず、尾瀬は迫る焦慮を軽口に紛れされた。
「いいから答えろ」
「……ハイハイ、
 ――えー、っと。事件の後は病院に入院してて、一週間位で退院した、かな。
 もう正確な日付まで覚えて無いけどね。
 そっから一カ月位ブラブラして、軍への所属を決めて朔原さんに連絡した」
「………」
「ど? 満足行く答えだった?」
「……俺は、」
「うん?」
「俺も……?」
「………」
「俺がその間どうしてたか。お前…、記憶にあるか?」
「――…祐希?」
 傲慢不遜が服を着て歩く根幹から独裁者気質の上官の瞳の奥に、群れに逸れた幼い獣が抱く孤独と言う名の恐怖を感じ取り、尾瀬は本格的な不安に駆られて身を屈め、惑いに翳る表情(かお)を下から覗き込んだ。
「……お前、ホンキで可笑しいよ?
 つか、…どーしてたかって言われても。一週間は同室だったっしょ?
 そっから、祐希君は実家に戻ったんじゃ無かった?
 確か、蓬仙が迎えに来てた――…、そっからは悪いケド俺は把握してない。
 まさかこうも直ぐに再会するとも思って無かったしねー。
 それに、二年前は俺達どっちかと言うと仲悪か――…、 っ、た」

 アレ?

 何で、
 俺、
 祐希君と仲が悪かったんだっけ?

「……、 」
 自慢では無いが、昔から世を渡る処世術には長けている。
 無駄な波風は立てない、面倒事には関わらない、厄病には素知らぬ振りを通す。
 この三原則を守って、後は習い性のように見に染みついた愛想笑いで完璧だった。
 それなのに、どうして。
 何故。
 わざわざ、どう考えてもトラブルメーカーでしかない暴君サマと対立していたのか。
 理由、が。
 全く以て、見当たらない。
 けれど、明確な理由も無く厄介な人間と衝突する趣味は持ち合わせていない、はず。
「………、おい、尾瀬?」
「…うん。ちょっと待って、アレ?」
「おい?」
「えー、っと? うん? んん?」
「尾瀬…?」
「や、この辺まで出かかってるんだけど。うん、えっと?」
「………イクミ。お前、アタマ大丈夫か?」
「うっわ! 祐希君たら、辛辣ッ!! それが仮にも苦楽を共にした副官に掛ける言葉!?」
「たかが二年で何が苦楽だ。阿呆。
 つーか、俺はテメーの所為で妙な噂は立てられるわ、知らねー奴から難癖つけられるわ…。
 ロクな目に合ってねー気がするんだがな? ん?」
「まーまー、その辺はしょーがないって。俺と祐希君がイイ仲だって信じてる連中多いもん」
「多いもん、っじゃねーよ。テメェが誤解されるような発言してっからだろ!」
「えー、俺が隊長の祐希君のモノである事はこの上無い事実だもーん」
「もーん、じゃねぇ! 大体、お前が何ッ時もンな態度だからッ……!!」
 ガウッ、と普段の調子を取り戻して説教モードに入る上官の様子に満足し、齢以上の無闇な艶と色気を醸し身に纏う優秀な副官は、ふ、と心の奥の靄を吐き出すように息を解いた。
「――…、あのさ。祐希君。
 逆に俺から質問なんだけど、……ラビット・グレイ…、二年前まで――、
 なんで俺達険悪だったんだっけね?」
「……は?」
「理由。――思いつかないんだよね。
 確かに…厭味な態度を取ってたし、皮肉を言ったりもしてたよーな気がすんだけど。
 …祐希君みたいなタイプと、真っ向から衝突するタイプじゃないっしょ、俺って」
「ンなの、俺が知るかよ。
 大体、俺の方も張本人のクセして、図々しいんだよとか思って……、 た?」
 面倒そうに応じる上級大尉の地位を戴く若き軍属の言葉に、微かな迷い、揺らぎ、掻き消える、

 そう、
 思っていた。
 いけすかない、ムカつく、最悪過ぎる。
 なんだって、あんな奴が "   " の、 ――に、いるの、 か、

「――…ッ!!?」

 ヒュッ、と、呼吸を大きく呑み込む、己の心音が耳許で忙しなく早鐘を打つのに、雄の色香を燻らせる精悍な体躯の若者は、半歩、足元を覚束かせて背中を壁に預けた。
「……祐希?」
 二度目の不審、穿つように視線を鋭くさせる右腕に、相葉は今度こそ、己の内に燻ぶる疑念を腹捌く勢いで底尽きまで吐き出した。

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 灰色の――、沈黙と絶望に染まる世界。

 見に馴染んだ黒のスーツ姿で『過去』の黒のリヴァイアスを監視して回る姿に、擦れ違う少年少女等は、白く濁る瞳の奥に脅えを宿しながら、誰もが足早に立ち去ってゆく。
「………」
 誰しもが畏れ脅え声を顰める恐怖支配の体制は、極限に於いては必要悪だった。
 十代という未熟で不安定で、方向を見誤りがちな年頃の学生(コドモ)ばかりを運ぶ黒船は、尽きかけた物資と、一寸先で停止するやもしれぬ動力炉と共に、不安と不満を孕みながら死の宇宙(うみ)を漂い続ける。

 絶対的な存在。
 王者・覇者・独裁者。
 呼び名はどうであっても構わないが。

 例えば、一声で身が竦むような畏怖を。
 例えば、一瞥で心が縮むような恐怖を。

 与える唯一無二の存在が有らねば、狂気に歪む黒の王国は今にも崩壊しかねない。
「――…、」
 今更の年齢(とし)になってまで、子ども等を心底から隷属させようとも、服従させようとも思わないが、疑似世界といは言え限り無く『現実』に近く再現された『隔離リヴァイアス』に於いて、四百余名もの生徒らを制する強大な抑止力は、欠いてはならぬものであった。
(……黒、の――、リヴァイアス…。
 そういえば、黒姫ネーヤの後継の少年…、何か見覚えが――…、)
 あるような気がする、と不意に思い付いた疑問に蒼の王者は淀みなく進めていた歩を止めた。
 『スフィクス』と訊けば、無知浅学の群衆は、正体不明・理解不可の凶悪な化物の印象(イメージ)を描くが、彼等は決して人類と大きく隔たる存在では無い。寧ろ"ひと"の存続を目的として在る彼等は『人』よりも『人間』を理解し、穢れ堕ちた魂までをも擁護する、献身的で寛容な性向の『元・人間』なのだ。
(……気の所為、か…?)

 そう、 元は "人間" なのだ。
 ならば何時かの昔に "人" であった "彼" と擦れ違っていても、何ら不思議では無い。
 しかし――…、

「………」
 連邦政府の軍組織へ所属し、名目上は『灰のゲシュペント』のスフィクスである特佐及び、彼の実弟でもある灰の艦長を兼任するヴァイア艦隊の責任者・朔原総督の身辺警護役を任ぜられるブルーは、若かりし自身が他者への興味を微塵も抱いていなかった事実を充分に把握していた。
 暴力という蛮行でしか己を表現出来なかった未熟の時分に、自身の益にも害にも成らぬ人間を、わざわざ記憶に留めるような寛弘さを持ち合わせていた筈も無い。
 欺瞞の立ち振る舞いが馴染んだ今でさえ、周囲への関心は薄い――というのに、
 ――何故、見知らぬはずの "彼" に気を取られるのか、

「………」

       教えて、あげようか? 


「……ッ!!?」

 不意に注いだ悪魔の誘惑(ささやき)が、蒼の獣の鋼の理性に毒蛇の如く絡み付いた――…。

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 ひとり、士官部屋に取り残されたスフィクスの少年は、所在無さ気に周囲を見渡していた。
 先程まで地の果てまで落ち込んでいたのだが、一つ年下の弟と同年代の親友の戻りが遅く、気になり始めてからは自己嫌悪や自問自答等している場合では無いと、そわそわ、落ち着かない。
「……遅い、なぁ …」
 そろそろ半刻は経つだろうかと、昴治は腕時計にチラリと視線を遣って溜息を吐いた。
 なんとも手持無沙汰な状況ではあるが、勝手に部屋を出るわけにもゆかず、この時間に少しでも有意義な情報を得られないかと、思いついた昴治は部屋の『壁』まで歩いてそっと両手をついた。
「――…駄目元っ…」
 ぐ、と。
 精神を集中させ、ヴィイア艦相手に精神感応(ダイブ)を試みる。
 無論、相手が無機質である以上は感情や思考の"共有"は無理だが、"記憶"を辿る事は論理的に可能だ。熟練の度合いによって結果に差が出るのは致し方が無いところではあるが――、
「……んー、 」
 未だスフィクスとして不完全な状態にある『アーヤ』に能力(ちから)の行使は難しく、無尽蔵な探索は無論不可能ではあるが、ほんの少しでも手掛かりになるようなものがあれば、との藁にも縋る気持ちで疑似世界――…『ロスト』自体を読み解こうと試みる――…、 が、
「………むぅ。」
 やはり、易々と情報が得られる程甘くは無いようで、昴治は精神的な疲労に手を休めた。
「…なんだろ、読めない、とか。視えない、っていうのとも違うような…?」
 『ロスト』と仮称する世界全体に、遮蔽材のようなものが上から被せられている感覚だった。
「レインなら――、それでも視えるのかなぁ…?」
 ヴァイア被検体中の唯一のスフィクス化成功体である灰の化身レイン・シルエティール。異質へと転生してより十年以上の年月を数える彼の能力の完成度は自身の比では無い。その彼ならば、如何な困難な状況に陥っていたとしても、それを打破するだけの圧倒的な力があるのだろう、と。

 "福音"などという大層な肩書で祀り上げられても、結局、何ひとつ成す事が出来やしない。

 そんな自責の念に足元を絡め取られそうになりながら、しかし、悲嘆にくれていても決して事態は好転しないと、意外な精神的打たれ強さで気持ちを切り替える昴治は、
(……ちょっと、そこまで位なら…、 いいよね?)
 余りに遅すぎる待ち人達に焦れて、そっと、部屋の扉を押し開けようと――…、

 コ 、 ウ、  ジ

 したところで、不意に降って注いだ懐かしい声、桜色の花弁のような儚い美しさのそれに、昴治は息を呑んで動きを止めた。

「……え、 」

 コ  ……、 ウ   ジ

 慈愛と慈悲に満ちた、しかし何故か哀しげで縋る響きの哭き声に、今度こそ聞き間違いでは無いと二代目の黒のスフィクスである少年は、顔色を変えて周囲を見渡すが『声』は跡形も無く。
「……ネーヤ…?」
 確かめるように少女の名を呼べば、リン、との涼やかな鈴の音が遥か遠く、健気な響きで応じた。
「! ネーヤ!?」
 少年少女等による過酷な漂流事件『リヴァイアス事件』を乗り越え、二度目の船出を迎えた先で遭遇した『ラビット・グレイ事件』以来、ネーヤ、と名付けられた拙く幼いスフィクスの少女は、昏々と眠り続けた。外から幾ら呼び掛けてみても、多少行き過ぎた刺激を与えても、僅かの反応も無く。本体であるヴァイア艦・リヴァイアスの核である艶めく黒曜の輝きすら、鈍く。同時に、自転をも鈍らせて。

 『スフィクス』に『死』の概念は無いが、それは人に譬えれば『仮死状態』のようなものだった。

 そんな黒姫ネーヤからの、切実な、悲愴な、訴えを孕んだ呼び声に、
 少女の最大の理解者であり、保護者でもあり、そして二代目の黒のスフィクスでもある少年が。
 激しく動揺しないはずが無かったのだ。
「ネーヤ! 何処にいるんだ!?」
 先程までの戸惑いなど何処ぞへ吹き飛び、昴治は鈴の音色が呼ぶ方向へと、部屋を飛び出していった。

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2010/4/10 初稿



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