act.9 小悪魔の誘惑
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旧友でもあり、悪友でもあり、戦友でもあり、そして所属する部隊の隊長でもある一つ年下の青年の、妄想の類としか思えぬ荒唐無稽の告白に、芳醇な色香で老若男女を惑わせる問題人物はしかし、神妙な顔付きで黙り込み何事か考え込む様子で口を噤んでいた。
「おい、何とか言えよ」
「………。なんとか」
「はっ倒すぞ、テメェ」
奇妙な沈黙に耐え兼ねて機転の利きすぎる小賢しい副官に反応を求めれば、何とも基本に忠実な受け答えをされて、怒りと呆れを交えた声音で形ばかりの脅しを掛ける壱型機動部隊長だ。
「――…、 ずっとさ」
「あ?」
「誰か、足りない気がしてた」
「………、初耳だな」
「そりゃ、そーでしょ。初めて人に言ったもん。
多分…、『ラビット・グレイ』の後から感じてた"違和感"ってやつ。
キノセイか、若しくは、何らかのコウイショウ、か。
気にする程のモンじゃないよねー、って思ってたけど、ずっと引っかかっててさ」
「………」
「ね、祐希君」
「…なんだ」
「――…『無色の雑音』(ノース・ノーズ)って知ってる?」
「知らないな」
「所謂、闇研究のひとつらしくてさ。
人間の脳器官――、海馬に電気信号を送って好き勝手改竄すんの」
「………」
「眉唾モンでしょ?
昔、どっかのヤバイ科学者連中が理論を組み上げたらしいけどね。
道徳上の問題もあって、研究は途中で封印――、ってのがタテマエでさ。
ホントはある程度モノになってるって話、なんだよね」
「………」
何故、今このタイミングで、如何にも裏ルートのアングラ情報を切り出すか――…、だなんて。
分かり切った問答は時間と手間と労力の無駄にしかならない。
――…つまり、は、
「…俺もお前も――、いや、
場合によっては『ラビット・グレイ』に関わった人間全員が、記憶の改竄を受けている、か?」
「あくまで可能性だけどね。
けど、祐希君と俺が全く同じ感覚を共有してるってのは、偶然にしちゃ出来過ぎでしょ。
相思相愛過ぎて泣けてくるわー、いやん、隊長のえっちぃ」
「レインと朔原はシロだと思うか?」
「あれ、珍しくスルー? 放置プレイとか、祐希君たら玄人過ぎるわー」
「アイツ等、…どうも信用できねーんだよな…」
「ああ、それは俺も同感。良くしてくれるんだけどねー。
つーわけで、俺としてはクロ希望かな〜?」
「…希望を聞いてる訳じゃねーんだが」
相変わらずの副官の緊張感の無さに達観気味の嘆息を、若輩ながらも上級大尉の位となる相葉は足組みを崩して、壁際に預けていた体重を受け止め直し、姿勢を真っ直ぐさせた。
「ここの連中、リヴァイアス事件当時のまま再現されているんだよな」
「あ、やっぱ祐希もそれ思った?」
「尾瀬、任せた」
「面倒事丸投げデスカ。部下使いが荒いんじゃありませんことー?」
真っ向勝負好きな隊長と異なり、副官を務めるベルベッドの毛並みを思わせる猫のような軍属は、情報収集や潜入捜査、裏工作や周到な根回しといった裏方的役割を好む上に得意とする。よって、申し立てる程の不平不満を感じている訳ではないが、そこは言葉遊びの範疇というものだ。
「期待してやるから、有難く思え」
「…うわ、俺様ここに極まれりって感じ。
そーゆーの、パワハラって言うんですけどねー?」
特に気分を害した気配も、機嫌を損ねた様子も無いくせに、口先だけの反抗はさやかな遊び心に乗せて、くるりと尾瀬は踵を返した。肩口を越えて伸びる銀灰色の狐毛が、湖面で羽ばたく鳥の翼にも似た優雅な所作で空を泳いでゆく。
「ま、いいけどね。りょーかい、りょーかい。
上官の期待に応えるのが部下の務めですもの。
しっかり、働かせてもらいましょ?」
その代わり、アーヤの護衛を宜しくね?
無意識下の行動とは言え、先程のような乱暴・狼藉は二度目は赦さないと釘を刺すのを忘れずに、さて何処から燻り出すかと、妙に弾んだ足取りでリヴァイアスの薄暗い通路の先へ消えて行く副官。その背中へ、分かってる、と聞き取れぬ距離を確信しながら誓約を口にするのは、静観な伊達男へと成長した、在りし日の暴れん坊小僧――もとい相葉上級大尉だった。
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――…り、ぃん、 りん、 りり……、 ……ん。
それは、微かな音色でしかなかった。
例えば、衣擦れの音のような。
謂えば、蝶羽の擦れのような。
しかし如何程にか細いそれであろうとも、二代目黒のスフィクスであり、銀河系でも豊潤な恵みで多くの生命を育み続けてきた太陽系全体が落命の時を迎えようとしている今、人類の命運を小さな背に負う少年の耳には鮮明過ぎる程ハッキリと届いていた。
「ネーヤ!」
音鳴る方へ、奔る。
身体能力は決して高い方では無い。
息を切らせ、狭い廊下を全力で駆けるうちに、どん、と実か幻かすら不明な生徒達の一人と衝突してしまった。
「いっ、たぁ……」
「ごめんっ、大丈夫か?」
盛大に尻もちをついてしまったのは、ショートヘアの藍色の髪に利発な輝きの瞳の持ち主、かつて恋にも満たないほろ淡い想いを寄せた幼馴染みの少女だった。危ないじゃない、もぅ。と軽い批難の台詞を加害者である昴治へぶつけながら、少女――蓬仙葵(ほうせんあおい)はサッと起き上がりながら、制服である臙脂色のスカートの裾の埃を払うようにパタパタと手で払った。
「どうかしたの、急いじゃって。
てか、今日一日何処行ってたのよ。例の新艦長さんに呼ばれてたみたいだけど」
「……ん、ちょっとさ」
既知の仲であるかのように話しかけてくる世話焼きな幼馴染みを前に、昴治はどう応じたものかと煮え切らない態度で言葉を濁した。
「ふぅん? まっ、それは別にいいわ。
それよりも、昴治。今、へーき?
ちょっと込み入った相談があるんだけど」
「え…、 今?」
「何よ? 忙しいの?」
世話焼きが長じて少々強引な性格の少女が、む、と不満そうに眉を顰めて腰に両手を遣りながら、上から覗き込む圧迫感のあるポーズで迫って来るのに、昴治は蛇に睨まれた蛙の気分で引き攣った笑みを浮かべた。
「そ、そういうわけじゃないんだけど…」
正直に謂えば未だかつて無い位、非常に、物凄く忙しい。
黒の少女の呼び声が掻き消えてしまわない内に、存在の片鱗だけでも捕まえてしまいたいのに。
幼馴染の思わぬ勢いに気圧されながらも、昴治は鈴音の軌跡を追う為に耳を澄ませる――が、最早そこに黒姫(ティターニア)の気配は無く、四百余名の生徒達からなる王国の生活音だけが遠くさざめいていた。
(――…ネーヤ…。…どうしよう…か。
朔原さんに報告した方がいいけど…、イクミ…、祐希も心配してるかもだし)
仮想リヴァイアスにて仮艦長として迎えられているヴァイア艦隊総督の名を持つ彼ならば、恐らくブリッジにてツヴァイのメンバーへ指示を出しているはずだ。ネーヤの一件の報告で真っ先に朔原の元へ向かうべきか、それとも無断で部屋を抜け出した事を先に謝罪すべく部屋へ戻るべきか。
第二の黒のスフィクスとして再誕した幼貌の葛藤は、数秒程であったはずだが。
突然黙り込んでしまった優柔不断の幼馴染の袖を掴み、同年代であるはずなのに、年上風を吹かす少女は、ずんずんと廊下を進んでゆく。
「わっ、ちょっ…!? あ、あおいっ!!?」
「いーから、いーから。
どーせ、暇なんでしょ。話を聞くだけなんだし、ちょっと位付き合いなさいよ」
「……いや、えっと……」
過去の思い出の中で幼馴染の少女は、健気で世話好きな可憐な美少女、だった。お節介に感じる部分すら、美化された記憶の中では愛おしく感じたものだが、リアルタイムで現実を突き付けられて、少し落胆してしまう昴治だ。ああそうだった、あおいはこんな娘(こ)だったな、としみじみ。懐かしさと残念さが交互に襲って、心中に覚える複雑な感情を拭えない福音の少年だった。
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連邦政府軍部・宙軍ヴァイア機関実行部の現最高責任者である、由緒正しきファルネウス家の嫡男、遊佐・ファルネウスは部下であり、腐れ縁の同期の愛弟でもある若き総督の報告に、特に慌てるでも無く、成程ね、と現状を静かな口調で受け止めた。
「さて、どうにも不可思議な状況だね。お遊びにも程がある」
難しい口調で呟きながら、遊佐は百合の意匠が施される専用の小型精密通信機の黒い画面を見つめた。右下に表示された橙色のランプはSO通信中に点灯する仕組みで、音声だけだなんて味気も色気も無いねぇ、と軽口に交えて現状を嘯き嘆く。その端正な造作の面に妖しく履いた頬笑みの真意は詳細不明だ。
「贅沢言ってンじゃねーよ、このボンボンが」
「おや、君だって大層な名家の出自だろう?」
「お前と一緒にスンナ。で、カイリ。そっちは大丈夫か?」
『はい。危害を加えられるような事は、今のところありません』
「そっか、…良かった」
「まぁ、それはそれとして。何故急に通信が可能になったんだろうね。
しかも、私と朔のだけ、と言うのが何とも作為的じゃないか」
基本的に自己陶酔型の自分中心美形なので、髪や肌の手入れも欠かさない。激務であるはずの地位にありながら、充分に潤った蜂蜜色のボリュームのある髪をさらりと掻き上げ、肌荒れとは無縁の真珠の手触りの頬に指先を滑らせ、遊佐はふぅむと重苦しい溜息を吐いた。
『分かりません――、ただ、 』
「ただ?」
『通信中の会話は全て把握されている可能性が高いですね。
不用意な発言は極力避けるべきでしょう』
「不用意? それは、例えばこういう内容を指すのかな。
この間の統合会議の日の夜に、第三会議室控え部屋で君とアレが×××で、随分と××な×××を×××にいr 」
『!! ゆっ、 遊佐さんっ!?! まっ、なっ!!?』
「何だ、居たのかお前」
「おや白々しい。私が居るのに気付いていただろう?」
「バレてたか。いや、タマにはそーゆープレイもいいかなっておもっ……」
『――っ!? シルエッティール特佐!!?』
ザァッ、と生真面目な性格の弟の律義そうな声が、激しく動揺してから羞恥に赤くなり、次いで自責の念で青褪めるのを察して、流石に度が過ぎたかと珍しく素直に謝罪を口にする灰の写し身だ。
「あー、うん。悪かった。つい、な?」
「私は被害者だからね。謝罪を期待してはいけないよ」
いけしゃあしゃあ、言ってのける史上最悪最強の悪魔が、音声通信を越えた向こう側に二匹も揃い踏み。破天荒過ぎて手に余る上官達の奔放さに振り回されながらも、朔原は彼方へと飛び立っていってしまった平常心という名の理性をどうにか手繰り寄せ、胸元へ無理矢理に押し込んで、動揺の名残で微かに震えるそれで、実に理知的で建設的な意見を述べる――努力をした。
『… 今は、 それどころではありません、……、 から。
いい加減っ、真面目に対応して下さい! 怒りますよ!!』
が、遂に堪忍袋の緒が切れ、下位の立場を放棄して素で怒鳴りつけてしまう、万年苦労人なカイリ・朔原総督。若干三十一歳。軍属としては若輩に位置する年齢でありながら、スフィクス問題のイザコザにより異例の出世を果たした有能な人格者――も、この自由な魔物達に掛れば形無しだ。
「ふふ、怒られてしまったよ。仕方が無いね、少し真面目に話そうか」
『…是非ともお願いします』
精神的な疲労に眩暈を覚えながらも、朔原は苦虫を噛み潰したようなそれで、重ねて願い請いた。
「俺が言うのもなんだけどな、あんまカイリを苛めんなよ。遊佐」
「おや? 苛めるだなんて心外だね、目に入れても痛く無い位だよ?」
「今日もお前の二枚舌は絶好調だな?」
呼吸をするように嘘を吐く狐狸(こり)の類か鬼蛇か化かしの天才の発言は、半分以上は聞き流しで問題無い。長年の経験則から学習済みのレインは、それこそ『目に入れても痛くない程可愛い』弟へ話を振ると、腕を組み考え込むように俯いた。長めの前髪が威圧感のある視線を隠し、そうすると彼が纏う雰囲気はたちまち神秘的なそれに変化した。
「で、カイリ。今回の件、妙だと思わないか」
「…敵の行動ですね」
「ああ、そうだ。
どーやったかは知らねーが、連中はアニマを手懐けるわ、疑似世界を構築するわ。
完全に『エスポワール』のシステムを掌握している。
その上でふざけたお遊戯を仕掛けるメリットが視えないな」
「彼等流の宣戦布告、若しくは本当にタダの悪戯だったりしてね?
相手は新人類のスーパー科学者達だよ。
彼等の行動を逐一マトモに取り合っていたらバカを見る」
「…まぁ、そりゃそーだけど」
げんなりと肩で息を吐く灰のゲシュペントに於ける完全型スフィクスは、同期の言い草に思い当たるものでもあるのか、実に忌々しげに麗しいはずの面を苦渋くさせていた。
『敵の思惑がどうあれ…、我々の行動は全て"敵"の掌の上、と言う事には違いありませんね。
ブリッジの艦長専用回線からお二人と連絡を取れたのも、シナリオ通りといったところでしょう』
応接間に備え付けられた通信設備から伝わる声は、場に相応しく無い程落ち着いていた。経験や年齢に依るものでは無く、単純に性格の差なのだろう。非常識な事態にも取り乱す事無く、己の力量が及ぶ精一杯の責務を果たそうとする真摯な性質は、実兄であるレインも、上官である遊佐も好ましく感じるところである。
「――あの子ども、確か"フレイヤ"と言ったね。
私のところにも現れて、同じように『かくれんぼ』とやらのルールを言い渡していったけれど。
負けたら『オトモダチ』だなんて、どうにも不穏な響きだね。是非ともお断りしたいものだよ」
「大方、テロ組織にご招待ってコトだろ。
それとも――…、」
「レイン?」
歯に衣着せぬ物言いと竹を割った性格の同期の言い淀む姿に、心底珍しい、という反応で続きを促す遊佐。隠すつもりも毛頭無いとの潔い無礼さに多少の呆れを滲ませながら、ゲシュペントのスフィクスが片割れは逡巡を振り切って濁した先を紡いだ。
「相手は 【蛇】(パラサイト) だからな。
あんま考えたくねーけど、スフィクスの素体に、とかな。
考えてそーで、ていうか、こっちが正解そーで、キモい」
「…ああ。充分在り得るね。邪魔者排除と検体確保の一挙両得というやつだね」
半覚醒状態とは言え、既にスフィクス化を果たしている件の少年には関係の無い話だろうが、と。まるで世間話にも似た気軽さで物騒事を口ににしながら、直ぐに遊佐は己の認識の甘さを自覚し過ちを訂正した。
「いや、関係無くは無いね。
相葉上級大尉とその副官は彼の身内と旧友だったかな」
「忘れんなよな。それと、いちお、それ最重要政府機密だぜ。ペラペラ喋るなっつーの」
「おや、それは失礼」
『…"敵"の真意や目的についての議論は後へ回しましょう。
それよりも、現状への打開策について方策を巡らすべきです』
酔狂ばかりを口にする上官二名の遣り取りに焦れてか、生真面目で誠実な性質(タチ)の灰のゲシュペントが艦長は、抑揚の無い声に僅かばかりの険を滲ませて無駄を承知の上で諫言を行う。
「ふふ、また怒られてしまったね。
これ以上ふざけていると朔の胃に穴が開きそうだから、勘弁してあげよう」
『…ご厚意有難く頂戴いたします』
尋常ならぬ疲労と苦労を感じさせる低いトーンに、遊佐は愉快そうに喉を鳴らして自慢のふんわり滑らかな手触りの甘い蜂蜜色の髪を掻き上げた。
「正攻法な脱出方法は『かくれんぼ』に勝利する事だね。
尤も、敵が約束を守るかどうかは怪しいところではあるけど」
「そーいや、アーヤと他の連中はどうしてんだ?」
『相葉上級大尉及は先程まで"ロスト"のVGシステムについて確認を行っていました。
副官の尾瀬上級中尉はアーヤの護衛をしながら、艦内状況の視察ですね。
……。申し訳ありません、先に報告すべき事がありました』
「うん?」
『情報部のブルーが此方へ来ています。
…CELSUS(セルサス)の命との事でしたが』
「ブルーが? …セルサス、ねぇ?
俺は何も聞いてねーな。まーた、あのワンマン君の個人プレーかよ。
遊佐、お前は何か知ってンのか?」
「いいや、私にも報告は無いね。ふふ、案外彼が"フレイヤ"なんじゃないかい?」
『――…可能性は無きにしもあらずですが…、』
疑心暗鬼の心を掻き立てる負の忠告を口にする上官へ、信義に厚いヴァイア艦隊総督は表情を曇らせた。SO通信の性能上、その顔色は窺えないが声の調子から苦々しい表情でいるのは確実だ。かつて、手酷い裏切りを経験しながら、それでも朔原は身内への猜疑を嫌う実直な性格をしていた。身内へ疑いの目を向ける行為そのものが苦痛なのか、小さく溜息を吐いて平静を装う気配に、遊佐は己の中の加虐心が疼くのを自覚した。
『しかし、…そうですね。
互いの身の潔白を証明しなければ、今後の行動に悪影響を与えかねません。
後ほど、アーヤに私も含め全員の反応をみてもらいましょう』
「審判(ジャッジ)を下すアーヤ自身が"フレイヤ"である可能性は、考えなくていいのかな?」
『…それは…、 考え難いのでは無いでしょうか』
「おや、何故だい?」
『アーヤは、敵にゲームの参加者として定義されています。
参加者に化けるのはある意味反則行為ですから。ゲームが成り立ちません』
「…ふむ。そうすると、ブルーも"参加者"なんじゃないかな?」
『話を混ぜっ返さないで下さい。
それに、伝え忘れただけか…、若しくは想定外だったのかもしれませんが。
フレイヤはブルーの――、
彼のゲーム参加について何も告げていませんでした』
「成程。さて、そろそろ君のお兄さんの視線も痛いことだし、この辺でやめておこうか」
面白がる口調に困惑しながらも冷静に切り返す同期の実弟の様子に、くすくす、と性質(タチ)の悪い上官は梢の葉擦れにも似た囁笑を漏らして、最早、単なる部下イジリの範疇にある言葉遊びを切り上げ、不意に真剣な調子で声のトーンを落とした。
「外の件については私とレインに任せておくといいよ。
朔は、子ども達と一緒に『ロスト』で『フレイヤ』と遊んでなさい」
『畏まりました。では、現実世界(そちら)の対処は宜しくお願い致します。
お二人共――、気をつけて下さい』
「こっちは、ンな心配いらねーって。
俺もコイツも殺しても死なない類だぜ?」
不安に追い詰められたような悲愴な言い様に、弟の心配性ぶりを明るく笑い飛ばすのは、実の兄弟である灰のゲシュペントを司るスフィクスだ。神秘的な美貌の主ではあるが、口を開けば、その快活な奔放さに親しみすら覚える、洗練された外見と大雑把な性格のギャップが魅力的な人物だ。
「自分で言う辺りが可愛げがないねぇ」
「三十路越えのヤローに、ンなもんあってたまるかっつーの」
同期の間柄故に実に気心の知れた遣り取りをする上官達の会話を耳にして、緊張感の欠けた遣り取りに、呆れる気持ちも在るにはあるが、それ以上に心強さと安堵を覚え。次いで、己の不甲斐なさを聊か情けなく思い、心の奥底へ芽吹いた依存を強く窘めながら、朔原は『宜しくお願いします』との折り目正しい言葉と共に通信を終えたのだった。
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「…よし、誰もいない。」
そう言って藍色のふんわりショートの髪をした行動的な少女は、『ロスト』へ引きずり込まれた被害者達が最初に目覚めた黴臭く薄暗い、とても部屋とは言えないような寝床場所へと、優柔不断ではあるが情深く、時に意外な行動力を見せる幼馴染の少年を引っ張り込んだ。
急ごしらえのボロ布で拵(こしら)えた入り口のカーテンを下ろすと、淀んだ空気で辛気臭い部屋の奥へと、戸惑う臙脂の小さな背中を両手でぐいぐい押して、昴治の寝床の上に座り込んだ。
常識で考えれば、迷走する黒のリヴァイアス、閉塞された空間。誰も居ない男部屋に飛び込んできた女生徒一人。おまけに、物資の問題から粗末なという注釈付きとは言え、寝床、つまりはベッドの上に無防備に膝をついて、上目遣いに相手を見上げている。――と言うのは、『女性』としての性を考えれば何とも危険極まりないシチュエーションだが、狼役であるはずの少年が人畜無害の見本なので何事も起きようが無い。
「ほら、昴治もしゃがんで! 他人(ひと)に聞かれたく無い話なんだから!」
「…う、うん。分かった」
少女の勢いに気圧されるようにして、寝床代わりにしてある敷布の上に腰を下ろすのは、黒の意思を司りゲドルゥトの海に存在し得る全てのヴァイアを操る能力を秘める福音の少年だ。
(……うーん、あおいはシロ、か。実体はあるみたいだけど…)
スフィクスやヴァイアに通じる気配が無くとも、実体を伴う幻という点で敵である可能性を排除し切れない。胸を締め付ける郷愁を必死で振り切りながら、昴治は注意深く少女の様子を窺った。
「ほら、もっとコッチ。顔、寄せて」
「え」
肩をぐいと掴まれ、斜め四十五度傾いた幼馴染の身体に甘えるように両手を乗せてくる少女。膝を突き合わせる距離で、臙脂色のミニスカートから除く白い太股が妙に悩ましい。幾ら、スフィクス化により生理的欲求が薄くなっているとは言え、人らしい感情の機微や感覚は正常に機能している。二年の歳月を経ているとはいえ、いや寧ろ二年の空白が横たわるだけに、当時は気にも留めなかった何気ない触れ合いが、照れ臭く気恥ずかしい。
「ちょっ…、 あ、あおいっ、 少し離れろよっ… 」
「? 何よ、急に。それに、離れたら話せないじゃない」
良い意味でも悪い意味でも男心に疎い少女は、健康的な可愛らしさを振り撒きながら、不思議そうな響きを潜めた声に乗せた。そして定番の、
「ほら、いいから。じっとして、あのね――…、 」
押しの一手で、金茶の髪に隠れた耳許に潤んだ唇を寄せて、相談とやらを話し出した。
「こずえ、って分かるでしょ? 和泉こずえ。
アタシと何時も一緒にいる――、昴治はあんまり興味無いかもだけど、フライトアテンダント課ではちょっとしたアイドル扱いの有名人の娘(こ)で、昴治とよくツルんでる尾瀬の彼女よ」
「……え、あ、うん、ゴメン。うん、分かるよ。和泉だろ。
今朝、ここに飛び込んできてたし」
少女の柔らかな吐息を直接感じる異常な状況に頬を赤くさせ、何処か上の空の様子だった純情スフィクスは、非常に真剣な面持ちで相談事を持ちかける少女の姿に浮ついた自身の態度を改め、姿勢を正して耳を傾けた。視線を合わせれば、予測した以上の距離に人懐こい瞳が傍にあり、一瞬ドキリと胸を高鳴らせるが、これは幻、幻、とブツブツ心中で念じ平静を保つ昴治だ。
「そう、そのこずえの事なんだけど。ちょっと今ねマズイ事になってて…」
「マズイ事?」
「…うん、えーっと。何処から話せば分かるかな。
その、こずえって…、いいとこのお嬢様なのよね。
クォーターでさ、米国のお爺様に甘やかされて育てられたらしいんだけどね」
「へぇ…?」
個人的にはそう親しい訳ではないが、幼馴染みの少女の仲良しグループの一人である事に加え、同級であり当時尤も親しくしていた友の『彼女』という位置づけから、在る程度の交友と認識がある。
容姿に関しては確かにアジア系統のそれでは無く、西欧か北欧との混血のような見目の良さが印象的であり。甘えたがりで依存心の強い性質から、周囲を顧みない幼い言動が目立つが、ハニーブラウンのふんわりとしたツンテールに、菫色が薫る円らな二つの瞳、庇護欲を掻き立てる小柄な身体に、意外にボリュームのある胸元、完熟さくらんぼな桜色の口唇――…、と。要するに可愛ければ許される、を地で行く『見た目は天使中身は小悪魔美』な美少女だ。
大半の男子生徒から絶大な支持を得る反面、一部の女生徒からはすこぶる評判が悪い。蛇足ではあるが、当人は一部生徒からの悪評を全く意にも介していない。この事実が更にアンチ派の感情を逆撫でしている、という悪循環だ。
「それで、その…。周囲から甘やかされる環境で育ったせいか、その――…、」
「うん?」
「一部の男子生徒からタダで仕事を代わって貰ったり、物資をプレゼントされたり…とかね。
そう言うのリーベ・デルタでもあったんだけど、ほら、今はちょっと状況が違うでしょう?
皆気が立ってる時だから、そういのが悪目立ちしちゃって――…、
FA(フライトアテンダンド)課のタチの悪いグループに目をつけられてるみたいなの」
「…タチが悪い、って… 、具体的にはどんな感じなんだ?」
「男子も混じったグループなんだけど…、もう見るからに普通じゃない感じなの。
噂じゃ、あいつ等に連れてかれた娘(こ)が髪を切られたとか、ハンダ押し付けられたとか。
…もっと、酷い目に合ったって話も聞いたわ。内容は…口にしたく無い。その辺は察して」
一層表情を険しくさせて言葉を濁す藍色ショートヘアの少女は、第三者に聞き咎められるのを畏れるように、気配と声を抑えて溜息を吐いた。
「…こずえには何度も注意しているんだけど、あの子…私の言う事なんて聞かなくて」
「だからって、俺の言う事も聞かないと思うけど」
度が過ぎる親友の身を心底から案じるあおいの善意の忠告ですら届かないのに、増長したワガママお譲様に、大した魅力も無い退屈で平凡な第三者からの助言が役に立つだろうかと、率直な疑問を口にする昴治に、そりゃそうよ、と相談者の少女もすんなり相槌を打った。
「別に、昴治にこずえをどうにかして欲しいって話じゃないわよ?
そうじゃなくて、昴治って尾瀬と仲良いよね?」
「え 、 」
「え、じゃなくて。尾瀬よ、尾瀬イクミ。 いっつも一緒にいるじゃない。
彼氏から注意されたら、こずえも少しは大人しくなるかなって。
あの子、尾瀬にベタ惚れだし」
「……え、ぇぇぇ… 」
予想外から斜め上の方向に話が転がり出して、困惑を声に出してしまう昴治だ。
「何よ、その気の抜けた返事は」
「いや、…だって。…直接言えばいいだろ、俺からじゃなくてさ」
「私だって、出来るならそうしたいわよ。けれど、尾瀬はパイロット組だから、なかなか捕まえられないし。こっちから出向こうにもリフト艦やブリッジの区画は一般生徒の立ち入り禁止だし…。
その点、昴治はオペレーターをなんだから、ブリッジまで行けるわよね。しかも、尾瀬と友達だから、少なくとも私より尾瀬と話すチャンスはあるわけじゃない?」
「……そうだけど。」
理路整然とした言い分に追い詰められて、反論どころか逃げ道さえ完全に塞がれる始末だ。
「だけど、何よ? 私、そんなに無茶な事言ってる?」
「…その、俺はあくまでオペレーターだし…、…四六時中見張られてるし…」
非難と刺を含んだ容赦の無い視線が突き刺さる中、『ロスト』の舞台でもある『リヴァイアス事件』当時とほぼ同じ姿でいる福音の少年は、良心の咎めや圧し掛かる罪悪感に必死に抗いながら、断りの理由を探して視線を彷徨わせる。
確かに見過ごせない事態ではあるようで、
力になりたいのは山々なのだが、何せ――…、
かつての親友『尾瀬イクミ』ならいざ知らず。
『尾瀬上級中尉』から見れば、『相葉昴治』は赤の他人なのだから仕方ない。
「何で無理なのよっ! 私、ほんっとうに困ってるんだから!!
もうっ、昴治のバカッ! 役立たずっ! ヘタレっ!! 弱腰太郎!! 恩知らず!!
信じられないっ! こずえがどうなってもいいっていうの!? このひとでなしっ!!」
「わっ、 ちょっ、……! あおい、 あぶなっ……!!」
幼馴染みの普段以上に煮え切らない態度に腹を立てた少女は、軽く握り込んだ拳を振り上げ、ブレザー越しに昴治の薄い胸をポカポカと叩きつけた。物理的には痛くも痒くも無い攻撃なのだが、その分直接心に響いて、リヴァイアス事件の辛酸を共に味わい支え合いながら乗り越えた間柄に対して、後ろ暗い気持ちを呼び起こされる。
「あ、あおい。兎に角、落ち着いて――…、わっ!?」
興奮して暴れる少女の腕を掴んだ途端、思わぬ力で振り解かれ、福音の名を冠する薄倖の少年は体勢を大きく崩し敷布の上に倒れ込んだ。強かに背を打ち付け眉を顰める昴治の様子に、元凶の少女は己の浅慮を詫びるでも無く、痛みに呻く金茶の髪も愛らしい黒のスフィクスの胸板へ大胆に跨り、若く瑞々しい感触の内腿を押し付け、緩やかな曲線を描く胸元を擦り付けた。
「!? あ、あおいっ!??」
「分かったって言うまで、退いてあげないから」
「〜〜〜ッ!!?」
目の前には、甘酸っぱい思い出の詰まった臙脂色の制服の裾が見える。間近に迫る円らな瞳は地球(はは)の豊潤な大地(かみ)に咲く竜胆(りんどう)の花を連想させた。性的な意図が全く含まれていないだけに余計に性質が悪い。本人は親友を助けようと大真面目なのだ。
「わ、分かった! 分かったから!!」
元々其方の方面では淡泊であった上に、今はスフィクス化で人としての欲求が極限まで抑え込まれ、薄くなっている――…とはいえ、無幸の少年とて健康優良な男子の一人、効果は絶大だった。
「返事がテキトウ過ぎ。ホントに分かってるの?」
ぐ、と身を乗り出して確実に約束を取り付けようとする幼馴染に、昴治は現状から脱出したい一心でブンブンと首を縦に振り続ける。 捨て鉢な態度に眉を顰めながらも、漸く少女は上体を起こし、無体な色仕掛けから半分解放されて、純情の塊のような黒のスフィクスは胸を撫で下ろした。
「…約束、守ってよ?」
「分かったから、頼む退いてくれって!」
幾ら過去に受けた二重の怪我と成長を止めた身体の所為で非力であるとは言え、十四歳の未熟な少女の重みひとつ、力づくで退かせない事は無い。――のだが、無理に押し退ければ意図せず在らぬ場所へ触れてしまいそうで、どうにもこうにも。ここが仮想リヴァイアス・仮称『ロスト』であると頭で理解していても、こうも生々しい質感を以て迫られると、心が理性を振り切ってパニックを起こしてしまう。
「んー、イマイチ信用ならないなぁ…」
「あーおーいーっ!!」
薄く桜色に色付く小さな口唇に指先を寄せて思案するのは勝手だが、兎にも角にも、自分の上から一刻も早く退いて欲しい。こんな事なら、姉御肌な幼馴染みの頼み事を始めから快諾しておけば良かった。彼女が自分の意見を押し通す性格だと言うのは、重々承知していたはずだ。などと、今更後悔しても後の祭り過ぎて、現状を脱出する手立てどころか助けにもなりはしない。
「もっ、あおい!! いいから、退い――…、 」
「きゃあ!!?」
切迫した響きで赦しを請う昴治の目の前で、男女の違いを意識し始める難しい年頃で、多感な時期の少女の行為とは思えぬ破廉恥を問答無用で仕掛けていた藍色の幼馴染みが、カン高い悲鳴を上げたかと思うと、一瞬にして姿と重みを消した。突然の事に惚ける被害者の頭上で、苦々しさを滲ませて低めに掠れる耳触りの声が、唖然とした気配と口調もそのままに、
「……なにやってんだ、お前」
全く以て御座なりな疑問を、幻覚に一方的に攻められる幼い容貌の黒のスフィクスと、悪気も悪意も一片も感じさせずに無体を働くかつての幼馴染みとを交互に見比べ、女生徒に主導権を握られ翻弄される"アーヤ"へ投げ掛けたのだった。
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2010/5/17 初稿