優しいひと

ガーディアンズから、その報告を受けた衝撃は、耐え難いものだった

士官室で匿う少女の元へ暫時の休息を得る為に、異常な静けさを保つ艦内を急いでいた時だ。
実直そうなガーディアンズ・メンバーが折り目も正しく敬礼をし、その報告を行ったのは。
「報告いたしますっ!」
現在、名実共にリヴァイアスの艦長である少年に、面倒だと言わんばかりに睨み付けられても一向にひるまないのは、なかなか肝が据わっている。
「…なんか用か」
怒気すら孕ませた声で問い返せば、男は律儀に報告とやらの続きを発言した。
「はっ! 本日23:30頃、私が集団暴力の現場を目撃いたしまして、被害者を保護することが最優先と致しましたので。真に私の力量不足が招いた結果、犯人達を取り逃がしてしまいました!
そこで、犯人達を特定拘束する為の手段についてご相談したく…」
「っくしょォ!! またかよ!!
わかった! 被害者に事情を聞こう、そいつは?」
激昂し、拳をわななかせる支配者に、男は申し訳なさそうに口ごもった。
「それが…、被害者と思われる人物がそうそうに現場から立ち去ってしまいまして……、特徴なら覚えておりますが」
「立ち去った? 何故…? まぁいい。顔は覚えてるな。名簿データで履歴を照らし合わせればわかるだろ。付いてこい」
「はっ、承りましたっ!」
理想高き独裁者はガーディアンズを引き連れてブリッジへとって返した。
「尾瀬くん…」
士官部屋へ休息を取りに行ったとばかり思っていた少年が再びブリッジに姿を現して、目を見張ったのは現艦長のユイリィだけではなかった。その場に居合わせる全員が、途端に緊張する。
「どうかしたの、何か問題でも?」
ギリギリまで張りつめた状態の今の尾瀬に進んで近づく人間は希だ。
一応、パイロット仲間である相葉祐希にしろカレンにしろ、尾瀬に対する評価は他の人間と対して変わらない。虎穴へ進んで入るバカもいないだろう。が、何故かユイリィ・バハナだけは尾瀬となんとか会話を成立させようと、常に独裁君主へ積極的に声をかけていた。
「ちょっとな、なぁ、生徒の名簿を見たいんだけど」
「え? 名簿…?」
「ああ、そうだ。顔写真とかある方がいい。履歴でもいいけど、ないか?」
「……ちょっと待って」
いくら非常事態とはいえ、良識人であるユイリィからすれば他人のプライベートを覗き込むような卑劣な行為に決していい顔はせず、まず反論を口にしたのだろうが。
彼女にも今の尾瀬イクミの危険性は理解できていた。下手に逆らえば、いつ何時暴走するかもしれぬ不安定さ。
「これでいいかしら」
ヘイガーに何やら指示を出して特定のファイルをディスプレイに呼び出したユイリィが、狂王へ伺いを立てれば無言のままに尾瀬はその表示を覗き込んだ。ガーディアンズもつれられて確認を取らされる。
「席をはずしてくれ、ヘイガー」
「……はい」
どこか尾瀬へ対しての陶酔を臭わせる神経質な男が、従順に席を譲ると、そのまま場を離れた。
クルーの空いた席へ座り込み、イクミは画面を操作して次々とページを開けてゆく。
「被害者か、犯人と疑われる人間がいたら教えてくれ」
「はっ、承りました」
ガーディアンズメンバーが畏まった返事をする。
「俺に構わず勝手に仕事をしてくれ、ヘイガー、悪いけど席を借りる。適当に休んでてくれ」
息を詰めるようにして見守っているブリッジクルーの不安げな視線へ、そう言い放つと尾瀬は画面に集中してしまう。ヘイガーは手持ち無沙汰に壁に背中を預けて腕を組んだ。
実際、コンピューターが無ければ何もしようがないのだ。強制的な休息状態というわけだ。
それぞれが本来の業務へ就業する中、剣呑とした雰囲気のままリヴァイアスが君主は、ただひとりひとりの顔写真を確認して行く作業に没頭する。
「どうだ、いたか?」
「……いいえ、まだ」
「四百人以上もいるんだ、仕方がない。……なにか、特徴は覚えてないのか、髪の色とか体格とか」
「あ、それでしたら。被害者は、十五、六位で、明るいブラウンの髪に、華奢な体躯でして……」
みるみる尾瀬の形相が変わってゆく。
「おい、それもしかして。……こいつ、か?」
尾瀬がファイルのうち、ある一枚をディスプレイに表示させ、証言者であるガーディアンズを促した。
「あ。ええ、この者であります。こう申し上げては何ですが、随分と愛らしく印象的でしたのでよく覚えております」
この上なく決定的な言葉を吐きながら、断言する。
「…………わかった。この件は俺が処理しておく。お前はこのことを他の人間に口外するな」
「え、? それでは、ガーディアンズは……?」
「通常業務だ。今後、二度と同じ事が起きないように艦内に目を光らせていろ!!」
「はッ、了解いたしました!」
――…狂気が、ゆっくりと何かを蝕んでいっていた。

艦内の治安は悪化の一途を辿り、退廃の気配に包まれている。
そこいらに屑がうち捨てられ、埃と共に吹き溜まっていた。
救いのない未来、奪われる自由、失われる人としての心。
VGを駆るパイロット達や、配下のガーディアンズが力でもって艦内を安定させてはいるが、いつ何時、その均衡が破られても可笑しくはない状況だ。
妙な奴らに絡まれて、その後にいいようにブルーにおちょくられて。精神的な疲れを抱えながら昂冶は粗末な部屋で膝を抱えていた。
いくら疲れていても横になるなんて、空恐ろしいことは出来ない。
こんな状況だ。無防備な姿をさらせば、たちまち学のない人間の餌食になってしまう。 初めの頃は、周囲の部屋にも大勢の人間がいたものだが、今は寂しいものだ。皆が思い思いに散り、誰が何処に居るのか、完全に把握している者はいないだろう。
リヴァイアスは完全に混乱していた。
そんな折り、華奢で多感な少年の心を占めるのは、……年頃の悩みだ。
(はぁ、もーっ。何やってるんだよ俺〜)
思い出すのは、くちづけ。
決して一方的ではないそれに、頬を染め上げずにはいられない。
人並み程度には性的な行為に興味もあるが、自分自身淡泊な方だと思っていただけに、あの、ノリのようなキスはどうかと思う。
(は〜っ、俺、ほんと。何考えてるんだよッ、ブルーを襲うなんて)
最初のキス以降は、情けないことにただ翻弄されていただけだが。
それでも、仕掛けたのはおそらく自分のほう。
そっと、口唇を指先で辿り、甘い痺れを思い出す。途端、かーっ、と顔が熱くなった。
(ホント…なんなんだよ、俺)
瞳が潤む。
何故か、切ない気持ちが胸を締め、今すぐにでもしなやかな獣の蒼き鬣に触れたいという、強烈な衝動が沸き上がる。
これは、たぶん。
恋、なんかじゃない。
縋る存在が欲しいだけ。
現在のリヴァイアスで正気を保っている人間は数少ない。皆が集団恐慌状態に陥り、力へ盲従してしまう。だから、正気でいてくれる彼に惹きつけられるのだ。
だから、これは――…恋、なんかじゃ、ない。

「………ッ?」
ふと、遠くの方からこちらへやってくる人間の足音に反応して、昂冶は身を竦めた。
複数のものではない、――おそらくは、たった一人のもの。
なので、ガーディアンズではないだろう。この所数が減ったとはいえ、制裁という名を借りたリンチをくわえにくる輩も事に及ぶ時は必ず集団だ。ただの通行人かと、再び昂冶は瞳を閉じる。
人の気配も薄いこの辺りで、その足音は嫌でも耳についた。
急ぐわけでもなく、迷うわけでもなく、何かはっきりとした目的を持つ足取り。力強い歩きようだと、他人事な感想を抱く昂冶だ。
と。
直ぐ近くに気配を感じて、少年はばっと飛び起きた。
「………って、イクミ?」
思わぬ程近い距離でこちらを見下ろしてくる相手は、昂冶のよく知った少年だったのだ。 再会できた喜びよりも何よりも先に、何故ここにイクミが? と目をまん丸くする昂冶に、昔の面影を無くし覇者となった友は静かに問いてきた。
「ガーディアンズのヤツに、お前が襲われたって聞いた」
「え?」
「…本当なのか」
「え、え・と。うん、まぁ…」
言葉を濁しながらも質問に頷く少年の肩を、イクミは強く掴んで揺さぶった!
「本当なのかよっ!? 何処の誰だ!! なぁ!!」
「わっ、ちょ、ちょっと落ち着けよ。
何処の誰かなんてわかんないよ、リヴァイアスの人間全部覚えてるわけじゃないんだぜ。それに、別に大したこともなかったし……」
「…本当、か?」
念を押すように訊いてくるイクミに、何処か病的なほどの妄執を感じずにはいられない。
「あぁ、本当だって。別に何をされたわけじゃないしさ、大丈夫」
「そ、っか…、よかった」
安堵の余り、高潔の支配者は肩に手を掛けたまま、がくりと膝を落とす。
「………よかった、本当に、……よかったよぉ……」
「……、? …イクミ?」
いつもの彼らしからぬ彼に、昂冶はただ戸惑うばかりだ。
リヴァイアスを脅迫めいた圧力で統治し始めた辺りで、親友が平常の状況では無いことは、想像に難くなかった。
だが、こうして眼前にするのは始めてで。
依然とひとつも変わらぬ姿で、全く異なる様相の少年は異様の一言に尽きた。
「なぁ、昂冶。
誰だよ、誰なんだよっ! 誰がお前を襲ったんだ、言えよ!!」
激しき追求の、対処の仕方が判らないでいる。
「…イクミ? ゴメン、本当にわかんないよ。そんなこと訊かれても」
「………。
…………………………………………庇ってるのか」
「え?」
「庇ってるのかって言ってンだよ、なぁ!?
今の状況に不満を持ってるんだろ、お前だって!! だから、相手を庇ってるんじゃないのかよ!! なんでだよ、なんで何時も何時もお前はぁ!!!
いい子ぶるのも、状況考えろよ!! 偽善者面も使い分けろって言ってンだよ!!!」
「っ、イクミッ…!」
「……!」
思わず、昂冶は友の袖口を強く掴み引き寄せた。
と、バランスを崩したイクミが粗末な寝床へ倒れ込む。当然、昂冶を下敷きにするようにして。
「………っ」
「………!」
小さく呻く昂冶に覆い被さるようにする少年は、思わぬ人の温もりに息を詰める。冷えた翡翠の眼差しを大きく見開き、そのまま固まってしまう。
「いっ……タタ。ご免っ、イクミ…イクミ?」
詫びる昂冶の言葉にも全く反応をかえさない友人を不審に思い、少年は困惑してそのまま無機質な天井を見上げ、時が経つのを待つ。
暫く、そうしていただろうか。
微かに、友の体が震えているのに気が付き、昂冶は驚きと共に何処か安堵を感じる。
ぎゅう、と。
まるで、幼な子のような仕草でしがみついてくる、それが何故か愛おしく。同性に抱きつかれているというのに、嫌悪感は微塵もわいてこない。
それどころか。
震える背中を宥めるように、何度も撫でさすり。
ぽんぽん、と軽くあやして。
そうしていれば、遠く昔、転んでは泣きじゃくり、近所の子ども達に苛められては泣きついていた一つ違いの弟のことが思い出される。
よくこうしていたものだと、懐かしさすら感じこそすれ、厭などと。
「なぁ…イクミ」
それは本当に微々たる反応を返す、友人の背中をそのまま幾度も撫でながら、ゆっくりと昂冶は諭し始める。
「俺、ほんとに…しらないんだ。ごめん」
と、幾ばくか落ち着いたのか。
両腕の中、こくんと僅かに首を縦にする友。
「……イクミが必死なのも、俺のこと心配してくれてるからだよな…わかってるから……」
しがみつく、指の力が少しだけ強まって。
「だから……な」
ずっと見続けていると、リヴァイアスの天井は、低くて暗くて、目の前に迫ってくるような強迫観念を生み出す。
世界が狭くなって。
この世にたった二人きりのような錯覚すら覚える。
静まり返った艦内。
温もりを求めて、求め合う人の心。
やがて、代わり映えのない無骨な景色と、傍らにある温もりが、微睡みを誘う。極度の緊張と疲労の中で酷使された肉体には、心地よすぎる人の体温。
「………?」
規則正しい寝息に気が付いた王国の覇者は、そうっと、体を離して苦笑した。
「………ふつー、こういう場面で寝るかよ……」
無防備に寝姿を晒す少年の頬を何気なく指先で辿り、イクミは光に眩むような錯覚を覚えた。
(…………………………)
激しく悪意をぶつけられようとも、酷い罵倒を浴びせられようとも、全てを受け入れる懐の深さはどうしたことか。
誰にでも人当たりが良くて、そつなく人付き合いが出来て、穏やかな性質と十人並みな能力で、その他大勢に紛れる平凡な人間のはずなのに。
何故、とるに足らないちっぽけな存在が、これほど心を騒がせるのか。
「………」
いくら自問を繰り返してみても、明確な答えを導き出せるはずもない。考えることを放棄して、イクミは華奢な体つきの友人の隣にゆっくりと身を沈めた。
すっかり眠り込んでしまった幼な顔の少年の体は、まるで赤子のように温い。
(…………ったかい…………)
権力の加護の下で護り続ける少女に縋りつく時、これほどの充足感を抱くだろうか。
彼女を腕に掻き抱くときに感じるのは、ただ、胸を灼くような焦燥感と空虚のみだというのに、この温もりは――温もりを……。
「……ゴメンな、昂冶。
…――あんなこと、言うつもりじゃなかった…」
夢の国の住人となった少年へ、決して届かぬと知っていながら、いや、届かぬからこそ。気負いもてらいもない素直な謝罪がこぼれ落ちて。
「………どうかしてるよな、俺。
…これじゃ、本末転倒もいいとこだって………」

真実、護りたい存在を傷付け裏切り、何処まで奔ってゆけばいいというのだろうか。
リヴァイアスの往く、星の海は果てもなく先もなく、ただ―――
無上の闇よ。

「え、――なんですか…?」
守護者メンバーでも、内政チームリーダー的な役割を果たす物静かな少年が、王国の覇者の命令を呆然と聞き返した。
我が耳を疑う、といった体で、微かに顔が強ばっている。
「艦内で暴行を行った奴らの処遇についてだ。
C区画の牢に監禁しておけ、更正の意が認められない場合はそのまま放っておけばいい」
「でっ、ですけど! C区画は極めて外壁に近く危険性も高い場所です。生命維持レベルも最低限ですし、この未完の鑑においては放射能汚染の危険性もある場所で――」
「わかってる」
「――!?」
なら何故――…!? と、物言わずとも視線だけで問いかける、その疑問を尾瀬は支配者然とした態度で晴らしてやる。
「制裁は必要だ…これ以上の理由がいるのか」
「――けれどっ…、それにしても行き過ぎてるんじゃ……っ、!」
暗い翡翠が、どのような言葉より雄弁に『黙れ』と威圧する。
迫力に呑まれて口を噤む相手に尾瀬は狂気めいた嗤いを、その整った容貌に張りつけた。
「行き過ぎはお互い様だな?
俺は十分に警告しておいた、それでも規律を乱そうとする輩は不穏分子として一掃する必要がある……違うか」
「…………いえ。」
そう、黒の戦艦の王の名を冠する少年の言い分は至極最もで、再三に渡って警告を発し、かつ守護者という私設治安部隊を公使してまで艦内の治安維持をはかっているにも関わらず、この有様。
最早、同情の余地すらない。
そう言外に切り捨てる尾瀬の言葉は、理論的な面も持ち合わせており、感情論だけを持ち出して反意を唱えるには余りに滑稽であり無力だ。
「わかりました……早急に、対処しておきます……」

『 それより、艦内の秩序と規律を乱す者は問答無用でC区画へ送られることとなった 』

赤い蛍光ランプがぽつぽつと設置されているだけの倉庫のような場所に何日も押し込められて、食事は日に一度、粗末なそれ。
音もなく光もなく、空気すら薄い凍えた場所。薄い外壁の向こうには深淵が口を開け、常に死と隣り合わせるそこで、まともな精神の人間がそう保つものではない。
更正の意を示せば解放されるというのは、最早建前であり。
尾瀬は、一度C区画へ送還した人間を再び艦内へ戻す気は皆無であった。
その事をクルーは察するも、既に時遅し。
異論を唱えれば、反乱分子として己の身柄すら拘束されかねない恐怖政治の基盤がしっかりと根を下ろした後であった。

悪い噂を耳にした

人が消えているというのだ。
それも、守護者(に連行された人間ばかりが、その後、ようとして行方が知れないと。
無論、始めのうちこそ艦内の法の目を潜り抜け悪事を働くような小悪党ばかりが消え失せたので、よかれと思いすれ不安がる者など一人もいなかったのだが。
そのうちに、隣人が消え失せ、友人の行方が知れぬようになり。
艦内に、言いしれぬ不安が蔓延しつつあった。
そうして、人々の恐れに付け入るかのように時同じくして、その疑惑がたちあがったのだ。
尾瀬イクミは
艦内の人間を
淘汰している
バカバカしい噂だと笑う人間が行方を眩ませ。
そんなことあるわけがないと、言った人間が消えて。
猜疑は、色濃く。
クルー達の心に刻まれた。

艦内の状況を危惧した少年は、幼馴染みの少女の身の安全のために、傍で仕事を手伝っていた。
洗濯を終えた衣類を綺麗にたたんで仕舞うのが今日の業務内容らしい。単調な作業だが、これも大事な仕事の一つだ。
もうそろそろノルマを終えようかという時、ふいに、少女がこう切り出した。
「……ねぇ、昂冶。きいた?」
「? なにを?」
丁寧に四隅を合わせてシーツを折る金茶色の髪をした少年は、視線も上げずに聞き返す。
「…噂、あるでしょ。………尾瀬の…」
「そりゃあちこちで聞くけど…。まさか、あおいも信じてるのかあんな話」
二つ折りにした真白の布地を更に折り込んで小さく纏めながら、少年は可愛らしい顔つきに険を込めた。
数日前の、迷い子のような友人の姿を思い起こせば、艦内に公然とある噂こそ偽り以外の何物でもないと確信を抱くに至るが。
それも、彼に近しい特定の者だけにしか理解し得ない事だ。
「……あたしだって噂話を鵜呑みにするわけじゃないけど…でも、人が居なくなってるのは本当みたいだよ。昂冶」
まだ、そんなに目立つ数じゃないからパニックになってないけど。
そう言い足して、少女は言葉を切った。
「……昂冶は、信じてるんだ。尾瀬のこと…」
何処か物悲しそうに問いかけられて、少年は返答に詰まる。
「…あおいは信じてないのか……?」
綺麗な空の眼も大きく、何度も瞬かせて此方を見遣ってくる幼馴染みに、あおいは困惑のうちに知らず微苦笑を浮かべていた。
「――信じたい人が信じられる人とは限らないよね。そういうこと…かな」
「………」
今度こそ完全に返す言葉を失って黙り込む少年に、あおいは空元気を振り上げた。
「あははっ、ゴメン。つまんないこと言っちゃったね。
あたし、洗濯済んだヤツなおしてくるから、昂冶は先に部屋に戻ってて!」
「! あおい、一人じゃ危ない…」
「だーいじょうぶ、ちょっとの距離じゃない!
それにガーディアンズもしょっちゅう見回ってるし、平気よ!!」
言うが早いか、あおいはさっさと駆けだしてしまう。直ぐにでも追いかけようとした昂冶だったが、去り際に、
「IDにポイント登録中だから、ちゃんと持って帰ってねー!」
と言い残され、艦内生活において重要なIDカードを捨て置き行くわけにもいかず、仕方なく昂冶はその場に留まったのだった。

「っと、いいかな」
ポイント登録を終えた二人分のカードを取り出して、昂冶はその点数を確認する。労働に対して与えられるポイント数といえば微々たるものだ。リヴァイアスの現状を思えば仕方がないことかもしれないが、それでも、到底納得がいくものではない。
救助がくるまで――…無事に、他の惑星に辿り着くまで。
今となっては、この言葉にどれ程の信憑性があるだろうか、いかほどの人間が希望を胸に抱いているだろうか。
誰もが、最早未来を信じる事を諦め、ただ流れに身を任せている。
そのような場所にあってはやはり、守護者達の目も届かない小さな小競り合いが起こるのは必然といえるだろう。
「……ダメだな、二人分合わせて食事分と少しだけか。
余ったの少しずつ貯めて必要物資に充てるしかないか……」
あおいも自分もそう食事の量は多くない方だが、それでも一日働いてギリギリだ。成長期の少年少女の多くが不満を募らせるのは当然か。
「!? なっ!!」
カードを口元にして、ポイントの振り分けを考えていた昂冶だったが、ふいに横から突き飛ばされて倒れ込む。
「いっ〜〜、」
おそらくは誰かの仕業だが、背後から襲われたので正体を目にすることはかなわずに、左手に握っていたカードを奪い取られた!
「!! ちょっ、何すッ……!! 〜〜〜〜!?」
咄嗟に立ち上がろうとした昂冶だったが、足首を変に捻ったせいでそのまま蹲ってしまう。
駆け去って往く気配に、向こうが一人きりだということだけわかるが、それだけだ。
と、――。
「おい! 何をしている、お前!!」
「わっ、放せよ!」
怒声と、年少の少年の声が重なる。
(………?)
捻挫まではしていなかったのだろう、痛みを覚えつつも立ち上がると、昂冶はそのまま通路へ顔を出す。
「……このID、お前のじゃないだろう!」
「とっ、友達の預かったんだよ!! 放せよ!! 痛ェだろ!!」
リーベ・デルタの生徒の中でも特に幼いのではと思われる、12歳程度の少年が、ガーディアンズに腕を捻り上げられるような格好で捕まえられていた。
「嘘を言うな!!
おい、そこのお前!!」
「え、……俺?」
「このカード、お前のだなっ!!」
ガーディアンズの一人は、少年から取り上げたIDを昂冶の方へ差し出して確認を求めた。
「そうです、今、盗られてしまって。後、友達の分もなんですけど」
「友達?」
胡散臭そうにする警備隊の態度も、わからないでもない。
なので、昂冶は微苦笑を浮かべて言葉を付け加えた。
「もう少ししたらこの場所に戻ってくると思うけど、確認しますか…?」
「――ふん、まぁいいだろう。
だかこれで窃盗を働いたことがハッキリしたな、お前は連行する。ほら、来い!!」
「うわぁ!?
放せ! 放せよっ!! バカヤロー!! この、飼い犬野郎共!!」
首根っこを捕まれて、半ば引きずられるような形で連れて行かれる少年の姿に、昂冶は怪訝な顔をして傍にいたガーディアンズにその処遇について尋ねた。
「あのさ…あの子ども、どうなるんですか?」
「一般クルーに話すことなど無い!」
必要以上に威圧的な態度で返され、IDカードを胸元に押しつけられた。
それを戸惑いがちに受け取って、それから空色の眼差しを昂冶は曇らせた。

『…噂、あるでしょ。………尾瀬の…』
不吉な言葉。
『……あたしだって噂話を鵜呑みにするわけじゃないけど…でも
人が居なくなってるのは本当みたいだよ』
次々と行方知れずになる生徒(クルー)。
黙秘する守護達(ガーディアンズ)。
奇妙な符号の一致に、少年の心はさざ波立つ。

「っ、待って! ゴメン、あのっ……。俺の勘違いです!!
え、えっと、…そいつ、俺の友達の知り合いの子で、悪戯! 悪戯だったんです!!」
「……はぁ、何を言ってるんだ? お前」
ガーディアンズは勿論、拘束を受け連行される少年も、何を言い出すのかと目を丸くしてしまう。
「えー…、と、とにかくっ。
何でもなかったんです、すみません。そいつ、放してもらえませんか…?」
「! そうっ! そうなんだよ、放せよ!!
俺、ちょっと悪ふざけしただけなんだって!! 別に悪いことなんてしてないって!!」
と、昂冶の考えを察して、快活そうな顔つきの少年が再び暴れ出した。
しかし、思惑通りに事が運ぶはずはなく、ガーディアンズは胡散臭さ気に二人を見比べ、
「何を今更…。お前等、口裏を合わせるのもいい加減にしておけ。
おいっ、行くぞ!!」
そう言い捨てると、さっさと歩き出してしまう。
「はーなーせーよーーーー!! ちくしょお!!」
じたばたと、あらん限りの力で抵抗を試みる少年の意見は黙殺され、そのまま連れ去られようとする。その間に昂冶は割っていって頼み込んだ。
「ちょっと待ってください!
なんでもなかったんですってば、勘違いなんです!!」
「おい、いい加減にしておけ!
これ以上くだらない嘘を吐くようならお前もCブロックにぶち込むぞ!!」
しつこく追いすがってくる少年を乱暴に退かすと、最早脅しに近い言葉を口にする守護者達。まるで、絵に描いたように見事な恐怖政治の体系だ。
段々と興奮してくるガーディアンズ。
その頭を冷やしたのは、酷く無機質な声だった。
「――何の騒ぎだ」
突然この場に現れた人物に、皆が皆ど肝を抜かれて固まる。
守護者達などは、一様に固まってしまっていた。
そう、彼らもまた逆らうことを許されぬ至高の存在、冷徹なる王国の支配者――尾瀬イクミ。
「は、はっ!
えー、窃盗の被疑者を確保したのですが、被害者の方が被疑者をかばい立てしておりまして…お気になさるほどの事ではありませんが……」
何処か、媚びたように場を取り繕うガーディアンズにはさして興味も無いのだろう、尾瀬はただ当事者である二人に一瞥をくれ、ほんの一瞬だけ目を見張る。
それは、被害者と言われる少年――昂冶の方とて同じで。この場にいるにそぐわない人物の登場に緊張を奔らせていた。
「……昂冶」
静かな声音で、ただ一言名前を呼ばれ、
「イクミ……」
応えるように昂冶は返した。
「!? お、お知り合いで……っ?」
目の前の、どこから見ても平凡な一般クルーが王国の覇者と特別な関係にある様子を見て取って、あからさまに狼狽えるガーディアンズだ。
「……ご苦労だったな。ここは俺に任せて、お前等は巡回に戻れ」
「え…? いえ、しかし……」
「――戻れ」
至極当然の事ながら、戸惑うクルー達に、尾瀬は無感動に言い放つ。ただ酷く冷たいだけのそれは、絶対的な力に満ち、異論など挟めるはずもない。
拘束監禁の恐怖を目の当たりにしているだけに、彼らは一層尾瀬の権力に縛られているのだ。逆らうことなど、考えも及ばぬ愚行ではないか。
「はっ、承知いたしました!」
その場より逃れるようにしてガーディアンズは敬礼後、慌てて去ってゆく。取り残された形となった子どもは、ぽかんとした表情のまま立ちつくす。
「なんなんだよ……?」
そんなお子さまの疑問を晴らしてくれるであろう年上の少年達は、二人、視線を合わせたまま微動だにせずに。
奇妙な沈黙ばかりが、人気のない通路で痛いほど肌に突き刺さる。
「……イクミ、」
「ああ、…何かあったのか。昂冶」
以前は殊更に陽気に演じていた処もあり、意味を成し意思を伝えるだけの道具と化した言葉はそれだけで冷えた印象を与える。
「……別に、何も…無いから」
「盗難…だってな」
「! だっ、だから! それはあいつ等の勘違いで……!!」
「IDカードだろ…艦内で起こる盗難の被害の殆どは、カードのポイントを狙ったものだからな。……そいつが犯人か」
感情の籠もらぬ声は何処までも冷えて、幼い少年の身を竦ませる。
「…あいつらにも言われただろ、犯罪者を庇い立てすればそいつも同罪とみなされる。
――…中途半端な同情はそろそろ切り捨てろよ……。
こんな極限生活強いられてもう何ヶ月だと思ってンだよ……、お前ももう理解しろよな、……綺麗なだけじゃ………無理なんだよ。
そいつは連れていく…邪魔だてするなよ。昂冶」
虚無を詰め込んだ翡翠が底もない輝きを放ち、途方に暮れる少年の姿を捕まえた。途端、その場に縫い止められたように動けなくなる子ども。
「!? イクミッ、…駄目だ!! ――…っ!?」
脇をすり抜け、幼い子を捕まえようと動く王国の覇者を止めようとするが、昂冶は後ろに突き飛ばされて態勢を崩してしまう。
「……窃盗は犯罪だ。」
心の臓を抉り取られるような恐ろしい錯覚に、幼い少年は完全に凍り付いてしまう。青ざめ微かに震え出す姿は哀れなほどだ。
だかしかし意を決したのか、少年は半ば自棄気味に声を張り上げた。
「しょ、…うがねーだろ!!
……………妹、……熱だしてて……どうしてもっ、要るんだよ!! 薬が!!
友達や知り合いに頼んだってポイント分けもらえねーしっ…
俺がどんなに頑張っても薬を貰うには三日も掛かる!! 今すぐ必要なんだよっ!!
俺だって悪いことだってわかってるけど、どうしようもねーじゃん!! 盗るしかねーだろっ!!」
抱えてたものを全てぶち撒けて、その反動か、少年は大粒の涙を零し悔しそうに尾瀬を睨みつけた。
真っ直ぐな、まっすぐな、赤い瞳。
「…そうか、わかった。
事情があるからな、特例だ。薬も分けてやる、ついてこい」
「…………………マジ?」
「要らないのか」
「! いるいるっ!! 要るよ!!」
突然、譲歩の態度を示す尾瀬にほけっとする子どもだったが、踵を返されて慌ててその後を追うようにする。
「っと、」
しかし、何をかを思いついたのかくるりと振り返ると、ぱたぱたと、倒れ込んだままの少年に近寄った。
「あの、だいじょうぶ…か?」
「あ、平気平気。それより、ほら。折角薬くれるみたいだし、…な?」
「うん。あの、さ。あ――…、ありがと……な、庇ってくれて」
気恥ずかしそうに礼を言われ、何やらくすぐったい感触を覚えて。
「いいよ、…それより早くいきなって。
妹、早く良くなるといいな?」
しょっと、という小さな掛け声と共に立ち上がると、意外なほどに小さい相手の頭を撫でて微笑みを向けてやる。
と、幼い彼もそれが嬉しかったのか、子どもらしい笑顔で再び礼を言うと尾瀬と共に去っていってしまった。

すっかり、二人の姿が角の向こうに消えてしまってから。
「………優しいよな。」
変わってしまった親友の、変わらない部分に、昂冶は安堵して口元を綻ばせた。
人が死ぬのは厭だと、真っ直ぐに言ってのけたかつての彼と、今の覇者たる尾瀬イクミと。何も、変わってはいないのだ。
ただ少し――…、傷ついてしまったから。
人を信じる事にも、愛することにも、疲れて臆病になってしまったから。
だから、まるで人が変わったように見えるのだ。
彼は、今も昔も――…変わらずに。
こんなにも、優しい、のに。
「バカ野郎…だよな。ホントに……」
鬼人の如く己を欺き、狂人の如く他を欺き、果て無き喪失を抱いてまで――…。
そう、その姿はまるで黒の祭壇に捧げられた贄。
癒える事なき傷口からは鮮血が、溢れては彼の足下を赤く染め上げる。
気付くこともないのだろう、踏み越える屍が、その血溜まりが己自身のものであることなど。
痛みすら――最早、感じてはいないのだろう。
歩けなくなるから、
足を踏み出せなくなるから――。
「……バカ……やろ…」
温もりを覚えている。
あの夜に、泣いて縋り付いてきた彼もまた『尾瀬イクミ』なのだ。
まだ、肌の温かさを覚えている、涙の熱さも指先の冷たさも――、
吐息も、鼓動も、
覚えている――…。
……覚えて…いるのに……。

2008/7/3 レイアウト修正。
漸く過去の遺産とおさらばですよ。