
ウソ

無意識に右腕を庇っていることくらい、同じ屋根の下で生活していれば感づいてしまうものだ。余程、鈍いか周囲に無関心でいたなら、この限りではないだろうが。
……怪我の様子が、全くもってこれっぽっちも気にならなかったわけじゃない。
普段は意にも介さぬ素振りを装ってはいたものの、視線が兄を追いかけるのは止められなかった。
幼馴染みと楽しそうにしている表情、リヴァイアス号事件の当事者をミーハーに追っかける連中に囲まれ困惑しながらも、微笑んでいる姿。……時折、沈み込む表情。
どれもこれも、……自分には向けられないそれ。
願ったとしても、心の底から望んだとしても、得られない…いや、自分から手放した。
そう、ぬるま湯の中につかりこんでいるような心地の良い愛情が、目障りになった。そう感じたのは確かだ。己を取り囲むその感情を振り払いたくて、傷つけた。無茶苦茶に暴れて、酷な言葉を吐きかけた。
甲斐あって手に入れたはずの自由の場所は、凍えそうな寒さだった……。

癖の強そうな黒髪に、挑発的な目つきをする少年は、安全な場所でうとうととまどろんでいた。
リヴァイアス号事件から、三ヶ月――自宅にて見せる姿は、やはり何処か年相応だ。
ヴァイア艦での逃亡生活においては、彼は他との接触を嫌い独立して生活スペースを確保していた。深い眠りを得ることもなく、常に精神を緊張させて。
……そうしていなければ、狂気に押し潰されてしまうから。
取り込まれれば、二度と還れぬ場所を守るために。それは、戦いだったのだ。
しかし今は、リビングに鎮座する可愛らしいピンク色のソファーに無造作に横になり、いかにも普通の平凡な家庭の子どもらしく昏々と眠り込んでいる。
とん、……とん とん。
ぱたぱたぱたぱた………。
(母さん、母さん? 俺、出かけるからっ……。あれ、寝てる…珍しい……)
(なぁに、もう行くの?)
(あ、うん。行ってくるよ。結構待ち時間長くてさ、早めに出た方がいいかと思って)
(あらそう? じゃ、お金を渡しておくわね。そうそう、母さん今日友達と出かけて遅くなるわ)
(うん、……それより母さん、どっかに毛布無かった?)
(え? 隣の部屋の押入じゃない?)
(押入? もー、今から出るのに……)
押入を探って薄地の毛布を引きずり出す気配の後に、ふわりと身体が温かくなる。
(じゃ、行ってくるから。帰りは少し遅くなるよ、あおいと約束してるし)
(あおいちゃんと? そう、あまり遅くならないようにね)
(わかってるってば)
何処かからか、ひんやりと肌寒い秋の風がふいてくる。
夢心地のまま、耳に届いた会話の意味を理解する間もなくパタンと玄関が閉じられる音。
そして、空気の動きが止んだ。
「………?」
恍惚とした表情で祐希は起きあがった。
どうやら微かな物音ではあったが、扉を閉める異音が微睡みの静寂を乱したらしい。
上体を起こすと、薄地の毛布がするりと零れた。
(……兄貴、出かけたのか……)
ソファーから落ちてしまった毛布を片手で拾い上げると、祐希はそれを胸元に抱き込むようにして再び横に倒れ込んだ。
「…ムカつく……、保護者面しやがって……」
口汚く罵るも、声に力がない。
表情も、憎しみに燃えるそれではなく、環る場所を求めて惑う旅人のよう。
泡沫を漂っていた意識は覚醒を得て、やけに冴え冴えとしている。再び柔らかい場所へと戻る事は出来無さそうだった。

「あ。昴治!! こっちこっち!!」
少女らしい軽やかな声に名を呼ばれて、茶金の髪色をした幼い顔立ちの少年が後ろを振り返った。
「あおい。御免、待たせちゃって」
「ううん、そんなに待ってないよ。ね、腕もう平気?」
「もう痛みはないよ、…ちょっと不便だけど」
「そう? じゃ、行こっ!」
一般的なデートコースをなぞるようにして、時間を過ごす。
まずは、軽く食事、話題の映画を前売りチケットで、そして近くの公園の売店でアイスを買って二人で歩く。
公園の湖の周囲をゆっくりと散策しながら、とりとめもなく言葉をかわして。
「ねぇ、昴治。祐希とはどう? ちょっとは仲良くなった?」
「うー……ん、仲良くはちょっと難しいかなぁ」
「あはははっ、根深いもんねー。けど、祐希って昔はあんなに『お兄ちゃん』『お兄ちゃん』って感じだったのにねー?」
「……昔のようにはいかないよ、お互い。アイツは変わったから…俺だって昔のまんまじゃないしさ」
静かな口調で、自分自身に言い聞かせるかのように説く昴治に、そう? と、あおいは微笑んだ。
「でも、祐希ってあんまり変わってないみたいに見えるけど?」
「そう見えるのはあおいだからだよ、アイツなんだかあおいには強くでれないトコあるし」
「うーん、それもあるかもしれないけど…」
上目遣いに考え込む姿はなかなか可愛らしい。そんな幼馴染みの少女を微笑ましく思いながら、昴治は彼女の次の言葉を待った。
「基本的なとこっていうのかなぁ、真ん中の部分って変わってないよ。きっと。
あたしのカンだと、祐希って昴治のこと絶対嫌ってないよ?」
「――…そうだと良いんだけど」
苦笑で以てあおいの『女のカン』とやらを受け流す昴治に、少女はにっこりとした。
「信じられない、って思ってる顔してるよ」
「…仕方ないだろ、妙な風にツッこんでくるな」
「あははっ、ごめんごめん♪ むくれないでよ、可愛いぞ」
「かっ!? ……わいいって! どういう言い草だよそれっ!!」
「褒めてるんだから、素直にうけとっときなさいよっ♪」
「………はぁ。」
昔から口の達者なこの少女を言い負かすことは、なかなか難しい。彼女の言い分に理不尽を感じたものの、抗議を諦めて昴治は脱力した。
女の子、から可愛いと褒められて喜ぶ男がいるものか、と昴治からすれば憤慨すべき事項なのだが。あおいからすれば、心底手放しのほめ言葉である。
「ほら。カッコイイとか、凄いとか。そういうこと褒めてるうちはミーハー根性なの。
本気で好きな男の子のことって、女の子は可愛いって思うんだから。だ・か・ら、最高級の愛情表現なのよ、分かったら感謝感謝!」
「へーぇ、アリガトウ、ウレシイナ」
「あーっ、気持ちが籠もってなーいっ!!」
台本を棒読みする如くの様子に、あおいは形だけ怒ってみせ、声を張り上げる。
「しょーがないだろ、ンなこと言われたって!」
「昴治のばーかっ。もーっ、折角教えてあげたのに」
ぱたぱたっ、と軽やかな足音が先へ走る。
「ちょ、あおい!?」
少女の真意を測りかね、昴治が彼女呼び止めると、辛辣な言葉がぺしり、と返された。
「そーゆーデリカシーの無い人とは、一緒に歩けませーん」
「わかった、悪かったよ。待てって、もう暗くなるし一人じゃ危ないだろ!」
人との和を大切にする少年が語気を荒くして少女を咎めるのは、ここら辺で妙な男が出没するとの噂が広がっているからだ。
おあい自身も、そのことを周囲の人間から耳にしているのだろう。素直に足を止めて連れを待つ。もとより、本気で腹を立てていたわけでもない。
直ぐ傍までやってきた幼馴染みを見上げて、少女は軽く笑んだ。
「そろそろ帰ろっか、昴治」
「ああ、ちょっと寒くなってきたしな」
…夕暮れに黄昏る公園は人通りもまばらで、閑散としていた。

再び目を覚ませば、辺りはぼんやりと藍色に滲んでいた。
「……ったりぃ」
中途半端に眠りについた所為で頭の芯が痺れていた。硬い黒髪をくしゃりと指の間にして、掻き乱す。
家の中に人の気配はない。時刻は18時を少し過ぎた所で、緩慢な動作で祐希は起きあがった。
とりあえずリビングに明かりを灯せば、母の筆記でメモが残してあることに気が付く。
「…なにがちょっと友達と会ってくる、だ。ったく、どうせ夜遅くまで帰ンねーんだろ」
可愛い人参の形の箸置きに挟まれたそれをめんどくさそうに見遣って、祐希は仕方が無く立ち上がる。
そのまま適当にダイニングのものを物色しようとしていた時だ。玄関のベルが間延びしながら響いた。
「ん、だよ。ウッセェ……」
寝ぼけた頭はあまり働きが宜しくはないが、それでもひとまず悪態をついて玄関口へ足を運ぶ。
「こーじぃ? ゆーぅき! ねぇ、いないのー?」
「んだ、あおいかよ」
「なんだはないでしょ? 相変わらずなんだから」
ご挨拶なことを言われても全くこたえない幼馴染みの少女が、開いたドアの先でヒラヒラと手をふって笑った。
「おかずもってきたんだけど。母さんがね、今日相葉母と出かけるって言ってたからお裾分けv あたしが作ったから味の保証大ありよ」
「……どうだか。」
「も〜、素直じゃないなぁっ! 『有り難う』って受け取りなさいよね。
で、なに? 昴治は寝ちゃってるの? 折角ご飯持ってきたのに顔も出さないとは、失礼よねっ」
あおいの意外すぎる言葉に、祐希は眉を顰めた。
「一緒じゃねェのかよ?」
「え? うん、途中までね。一緒に街をウロウロして、最後に公園にいって…で、あたしは友達の家に寄る用事があったし、そこで別れたの」
「………兄貴、帰ってきてねぇぜ」
「……へ? やだそうなの? 昴治、真っ直ぐ帰るって言ってたのに…」
心配に表情を曇らせるあおいを祐希は軽くあしらった。
「ガキじゃねぇだろ、そんなに心配することじゃねーよ。
用事、それだけかよ?」
「え、うん。……でも、おっかしいなー。昴治、ちゃーんと早く帰るつもりだっていったのに」
「まだンなに遅い時間じゃねぇだろ、もし夜になっても帰ってこないようだったら連絡する。分かったら帰れよ」
「もー、無愛想だぞっ、祐希。もうちょっと優しい言葉とかかけなさいよねー!
ま、いいわ。じゃ、これ! ちゃんと食べてね。容器は洗って返却! いい? じゃ、帰るね」
「…わかったって。さっさと行けよ」
半分追い払うようにして世話焼きの少女を家に帰す祐希の胸には、言いしれぬ不安が薄墨のように広がっていた。

幼馴染みの手製のおかずで夕食を済ませ、風呂に入り。そのままなんとなくTVの前で時間を潰していた祐希は21時のニュースの始まりに小さく舌打った。
「ン…だよ。かえってこねーじゃねぇか、バカ兄貴……」
あおいの言葉を思い出す。
公園、ここら辺なら『陽の丘公園』しかない。そこの前で別れたと言っていた。もう、それから三時間以上はとうに過ぎている。普段から素行の悪い人間ならばともかく、真面目を絵に描いたような几帳面な兄だ。可笑しいとしか言い様がない。
「陽の丘公園…、チッ」
心の騒めきのままにソファーにどかりと腰を落ち着ければ、昼前に兄がかけていった毛布が否応なく目に付く。
(最近変なヤツが出るって話じゃねーのかよ…あの公園)
苛立ちばかりが、時の経過と共に降り積もってゆく。
(……………怪我、完治してねーよな……)
心が騒いで、落ち着かない。
「………陽の丘公園、か…」

陽の丘公園。
日中は訪れる人も多い、ちょっとした規模の緑に溢れた公園だが。逆に夜ともなれば、辺りが閑静な住宅街ということもあり、茂みで不埒な行為に及ぶ男女もおらず静寂に包まれている。
そんな静けさの中、手元のペンライトと街灯を頼りに何かを探す様子の少年が一人で行ったり来たりを繰り返していた。
「はぁ……ないなぁ。病院に行ったときにはあったし、後はここでアイスを買ったときだよな。映画はお金使ってないし……、何処行っちゃったんだろ」
既に辺りは闇色に染まっているが、母親は遅くなると話をしていたので、家に連絡はいれていない。
しかし、腕の時計を確認すれば21時を過ぎた頃で、流石に疲れた様子でベンチに腰をかける。
「軽いし……湖に飛ばされちゃってたら見つかんないよな。……はぁ」
しょげ返る姿はなんとも哀憐を誘う。
本気で落ち込んでいるらしく、そのまま足下を見つめてまんじりともしない昴治だ。
さりとて、このまま探し続けていてもなんの成果も得られるはずもなく。少年は諦めを滲ませた瞳でもう一度辺りを見回した。その時。
「兄貴」
「………! 祐希?」
思わぬ人物の登場に目を丸くする兄に対して、弟は厳しく問いかけた。
「なにやってんだ、アンタ」
険しい目つきで近づいてくる弟に何故か気圧されつつ、昴治は困惑しながら尋ね返した。
「なにって…、お前こそ何してるんだ?」
「俺はっ……、…………、……偶然、通りかかっただけだ。」
かーなり苦しい言い訳だ。
「…? 偶然……?」
「…なんだよ」
「………こんな時間に??」
「悪いか」
「………こんな公園の中を???」
「…………ンだよ、文句あンのかっ」
かなりベタなウソだったと自覚しているのだろう。みるみる耳まで赤くなる弟に思わず吹き出しそうになるのを必死で堪える昴治だ。
「…探し物してて、見つからないからさ。御免、連絡しないで」
「………なんだよ、捜し物って」
「大したモノじゃないよ、もう良いんだ。帰るよ」
『大したモノじゃない』物を、こんな時間まで探し続ける酔狂な人間がいるわけがない。祐希は微かに苛立って、同じ質問を繰り返した。
「言えよ…、何探してたんだ」
「祐希? 本当にもういいんだ。また明日探してみるよ…」
やんわりと言及を避ける兄の態度が逆鱗に触れる。
何故、自分には云えないのかと。
何故、踏み込ませてくれないのか、と。
「なんだよ、女から貰った手紙でも探してンのかよ? チッ、勝手にしてろ!!」
理由も分からないまま、感情だけが暴走してゆく。
何故、これほどまでに苛立つのか。兄に秘密があるのは当然だ。誰にも云えない事だって。それを無理矢理聞き出そうとする己の我が侭に非があることは、重々承知している。わかってても、それでも。
……足下の枯れた葉っぱを踏み散らしながら、来た道をとって返す祐希に、狼狽える兄の声が届く。
「え、ちょ。祐希ッ!? お前、何怒って……、って。あぁっ!!!」
「!?」
突然声を上げ、何時になく真剣な面もちで走ってくる昴治に、祐希は不審な視線を投げかける。
「ごめんっ、ちょっと退いて!」
なんとも理不尽な言い草で弟を退かせると、その足下にあった葉っぱを探り始める兄の奇行。
思わず黙り込んで、兄の行動を見守る。
と、直ぐに歓声が上がった。
「あったー! よかった…、絶対見つかんないって思った……」
自分の存在を忘れたかのように、はしゃぐ兄の探し物とやらをそっと伺えば、それは随分と古びた手製のしおりだった。
押し花にした四つ葉のクローバーに、汚い子どもの字で。
おたんじぃおび おめでだう
と、あった。
(……んだよ、きたねー字。間違ってるし…。ガキに貰ったのか? 兄貴、ガキどもに人気あるし……)
成る程、これならば納得はいく。
小さな子どもが、頑張って見つけた四つ葉で作ったしおり。
心の優しい兄が、それを大切にしないわけがない。だが――。
にぃゃんへ、ゆうき
(………っはぁ!!?)
一呼吸おいてから、一気にパニックに陥る青少年。
祐希の混乱を余所に、昴治はしおりの汚れを丁寧にはたいて落とし、そっと財布へ戻した。
「探してたものも見つかったし、俺は帰るよ。祐希はどうする?」
「………帰る」
「そっか、じゃ一緒に帰ろう?」
「……別に、いいぜ」
未だ、軽いショックを受けたままらしい祐希は、何時になく素直に兄の言葉に頷いた。
昴治自身も、あれ? と感じたものの、よい傾向なので黙っておく。
暫く黙ったまま、二人並んで歩いてゆく。そして公園の出口にさしかかり、祐希はポツリと零した。
「兄貴……、物持ち良いよな」
「え。ああ、うん。余り直ぐ買い替えたりしないけど…、何?」
「――なんでもねぇ」
軽く頬を染める祐希は、ぶつりと会話を断ち切って足を早めた。
「? 祐希、待てよ!」

ずっと自分の贈り物を大切にしてくれたのだ。
不器用ながらも、少しずつ距離が近づく。
それでも、まだ少し。
それでも、もうちょっと。
半歩先が踏み出せない。
恋になりかけの、歪な気持ち。

「知るかよ…、ンだよこれ」
切ない胸の痛みを、祐希は首を振って否定した。
「違う。俺は兄貴なんて…っ!」

大嫌い、だ。

2008/7/3 レイアウト修正
灰の前の祐希は色々葛藤してますね