#55 キニイラナイ




「……眠った?」
「ああ」
 涙の痕を指先で辿り――…、乱れた前髪を愛おしむように払う、仕草。
 流石に悪い事をしたかと、胸を軽く抉る罪悪感。
「じゃ、傷の手当しよっか。あと、シーツも変えないとね。
 うーん、もう移動してもらった方が早いかなぁ」
 インテリ眼鏡に裾の長い白衣という、如何にも医者然とした風貌の男は、くるくると手元の注射器を回転させながら、愉しげにしていた。まるで、いまにも鼻歌を歌い出しそうな風情だ。
「随分と機嫌がいいな、オズ」
「そりゃーねー」
「この真性ドSが」
「あはは、ちゃんと人を選んでるだけマシでしょー?」
「…フン」
「それより、ター坊。早くマスク取らないと、お肌に悪いよ。
 何時まで『香織君』のカッコしてるわけ?」
「……うるせーよ」
 感情を波立てる不鮮明な苛立ちもそのままに、変装用のマスクをベシッとベッドの上に叩き付ける――巧美に、尾杜はやれやれと肩を竦めて見せる。
「とりあえず、コイツを一晩頼む――が、妙な真似すンなよ」
「うわ、信用ないなぁ。ま、したいけど、そうするとター坊と香織君を怒らせちゃうから、ヤメトクよ」
「当然だ」
 吐き捨てるような台詞と凍える視線に、尾杜はまた肩を竦めた。分かりやすい子だ。『外』に居る相手に対しては非情の塊の癖に、懐に入れた子には徹底して甘い。
「折角なんだから、チューとかすればよかったのに」
 米良が自身で貫いた右手の傷は――思ったよりも深い。出血量も多い。元々、血が止まりにくい体質ということもあって、じわじわと溢れる粘性の赤に、巧美は眉をひそめた。
「バカな事言ってねーで、サッサと手当しろ」
「はいはい、っと」
 最初に出血量を抑える為の特別な薬を血管へ射し込んで、尾杜は手際よく創傷部に消毒を施し、ガーゼを止めてくるくると白の包帯を巻いてゆく。流石に手慣れたものだと肩越しの視線で眺めつつ、ベッドから腰を浮かせた。
「おや? もう行くの?」
「コイツのパートナーに連絡してくる」
「…ふーん?」
「なんだよ」
 意味深な言い草に巧美は殊更噛み付いて見せ、予想通りの反応に気を良くして、捻子曲がった性根の闇医者は、さぁねぇ、と答えから逃げる。
「ター坊さー、米良くんと付き合っちゃえばよかったのに」
「はぁ?」
 意味が分からないと呆れた様子で声を上げる可愛らしい容姿の少年――実年齢は結構上なのだが――に、尾杜はにっこりと優しげな笑顔の仮面を手向けた。
「だって、ちょっとイラついてるでしょ」
「………」
「こんなボロボロになる位なら、やめればいいのにとか」
「………」
「自分だったら、米良くんも本気にならないしー、とか」
「………」
「本気じゃ無ければ、傷付かないで済むとかさー」
「………」
「米良くんをこんなにボロボロにしてるくせに、
 肝心のパートナーは、全然頼りにならない、とか」
「………」
「あんなの、ヤメて自分にすればいいのに、とか?」
「…オズ」
 冷えた一撃に、おっと、と黒髪にオッド・アイの特異な容姿をした闇医者はおどけて見せた。

 警告。

 ――を、受けても尚危険な話題を続けようとする程、莫迦でも勇者でも無い。
「さて、お手当てしゅうりょー、っと」
「…運ぶのか?」
「ん、隣のベッドにね。先に運んでもらっていい?」
「ああ」
 小柄で華奢な美少年といった、そよと吹く風にも崩れそうな儚げな風情を裏切り、美国探偵事務所の所長を務める人物は、意外にも壮健なる剛の者だ。純粋な力比べでも、同事務所所属のパワフルマッチョ体型な正宗に勝るとも劣らない。自身よりも随分と体格の良い米良のカラダをひょいと横抱きにして、カーテンで仕切られた隣、清潔な白のシーツの上へ慎重に横たえる。
「………」
 鉄錆色に変色しつつあるシーツを鼻歌を歌いながら片付ける尾杜の様子を、肩越しに一瞥して、パタパタと軽やかな足音共に病室を出てゆくのを確認すると、泣き疲れた表情で眠る米良の頬を掌でそっと撫でた。
「…悪かった」
 罪悪感と――…おそらくは、嫉妬と呼ばれる感情で胸の中が先程から忙しない。
 紙のような顔色をして横たわる青年に寄せる感情が、彼がパートナーに与えるモノと同様であるのかと問われれば、答えは『否』だ。行き場を失えば、己自身を喰らい尽くす絶望的な虚無。そんな物騒な痛みを孕んだ奈落と、肩を並べられるはずもない。
 子どもじみた仕返しなど、するんじゃなかった、と。
 らしくも無い悔恨の念に囚われて、巧美は詰まらそうに、輪郭の大きな愛らしい瞳を細めた。
 毎度毎度、くだらない痴話喧嘩に巻き込まれて迷惑を被っている。
 その事に対しての、ちょっとした意趣返しのつもりで。
 見事に騙されてくれたのは想定の内。
 その後に続いた、深刻な精神的・肉体的ダメージは残念ながら予想外。
(……正直、思って無かった、な)
 洒落になっていない。
 ――…そして、面白くない。
 米良に対して性的興奮を覚えるかといえば、普通に勃つし、やろうと思えばSEXも出来る。
 男がAVやエロ雑誌とかで興奮してヌいたり、風俗でスッキリするのと同じ感覚だ。
 特別な――それこそ、恋や愛といった甘ったるい感情が存在しているわけではない。
 無論、気の合う『友人』という特別枠にはあるわけだが。
「…あんなガキの何処がいいんだか…」
 むに、と左頬をつねって伸ばす。うむ、と居心地悪そうに唸るものの、目を覚ます気配は皆無。
 ただでさえ、堅気じゃないくせに。
 こんな生き方をしていたら、何時か、本当に、きっと、コイツが相棒と呼ぶ恋人の所為で――…。
「……くっそ、気にくわねーし」
 むにむに、と見た目よりずっと柔らかい質感の頬を摘まんで引っ張って、一通り弄んでやるが、一行に気は晴れない。
「…間抜け面晒しやがって。犯すぞ、このヤロウ」
 いっそ、この阿呆に突っ込んでアンアン()がらせてる最中に、あの気真面目で融通の利かない恋人を呼び付けてやろうかとか、そんな馬鹿な考えが湧いて、特大の溜息と共にくだらない考えを投げ捨てた。



米良→←香織の双方向片思い前提の両想い
巧美→米良の関係はSEXフレンドレベルの好き
ちなみに、NOT肉体関係