
#82
好きなのか、嫌いなのか。
そんな二択を突き付けられたとしたら迷わず前者を選ぶ。
俺にとって『兄さん』の存在は今でも特別で絶対で掛け替えが無いものだ。
全く別人のように変わってしまった現在の兄さんも、嫌いじゃない。
無茶苦茶で破天荒で唯我独尊。
我を貫き通した揚句に周囲に迷惑を掛けまくる非常識人。
素っ裸で表通りを徘徊する筋金入りの変態ストリーキング。
自分大好きナルシズムの見本のような人格破綻者。
――それでも俺は、 ……俺、は……?
「は〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
「お、どーしたー。恒ちゃん。おっきな溜息ついちゃって。
駄目だよ〜、溜息は。幸せが逃げるって言うよー」
「…正宗さん」
ソファでぼんやり頬杖をつく俺に、正宗さんが明るく声を掛けてくれた。
「ジャジャーン! ほら、これでも食べて元気出しなって!」
冷蔵庫からウキウキと正宗さんが取り出してきたのは。
一口サイズのぷちフルーツケーキだ。
ひとつひとつに、小さく飾り切りされた果物が乗せてある。
これが正宗さんの手作りだって言うんだから、びっくりする。
「そんなに心配しなくても、今日は社長に呼び出されてるだけなんだし。
ちゃーんと帰ってくるって、ね?」
「…んー。そうなんですけど、そうじゃなくて」
「うん?」
今日は探偵事務所の活動状況の定期報告とやらで。
兄さんは美国社長のところへ出掛けている。
社長の好意と厚意と、ある意味道楽で出資されている事務所なので。
別に経営状態が悪いからといって、突き上げられたりは無いらしい。
単純に依頼内容や依頼人の傾向を調べるだけだそうだ。
「あら〜? どしたの、恒ちゃん。えっらくヘコんじゃって。
そんなに所長が心配?」
「…そんなんじゃないです」
否定する声に力が出ない、美羽さんはありゃりゃ〜と眉を下げた。
「ただ…、なんで俺…」
「うん?」
「なんで俺、今の兄さんでも好きなんだろうなぁって…」
「それは逆にコッチが聞きたいわ」
「美羽、美羽。駄目だって。それ禁句だから」
グッサリ心臓を抉ってくる美羽さんの的確な突っ込みに、俺は更にへたれた。
今の『兄さん』は誰がどう見ても決して『いいひと』では無い。
じゃあ、悪い人間かと問われたら多分それも違うと思うけれど。
昔の兄さんは十人が十人認めるような、完璧な聖人君子だった。
今の兄さんとは全く別物――としか思えない。
大袈裟な言い様でも誇張でも何でも無くて。
それ位、兄さんは変わった。
いやもう変わったなんて生易しいものじゃない。
あれはもう豹変だと思う。
それでも『兄さん』は兄さんで、やっぱり大好きで。
でも昔の兄さんに戻ってほしいと願う気持ちもある。
「まぁ、どんなに変わったって、やっぱり兄弟だからねー。
イキナリ次の日に嫌いになったり出来ないんじゃない?」
「……そうなんですけど、そうなんですけど。
はぁ…、俺の憧れの兄さんが……、あんなのにぃ〜……」
両手で顔を覆って嘆いてしまう。
だって、昔の兄さんは本当に『兄さん』だったんだ。
優しくて強くて頭が良くて、何でも出来る。
要領も出来も悪い俺と違って、まるでスーパーマンだった。
凄く、凄く、自慢だったんだ。
「でもまー、そこまで恒ちゃんが思い入れる『昔の所長』がどんなのか。
一度見てみたいわよねー。ね、正宗もそう思わない?」
「あー、まぁな。でもほら、写真で見せて貰った事あるよな?
今思い出してもおぞましい笑顔だったけど…」
「あぁ…、アレね。…ホントもう、呪われるかと思ったわ」
ゲッソリする二人に、苦笑いが漏れた。
「気持ちは分かりますけど、『今』の兄さんじゃ考えられないですもんね」
「そんな恒ちゃんに意地悪二択クーイズ!」
「……? なんですか、急に」
美羽さんが、悪戯を思いついた楽しげな表情(かお)を近付ける。
「目の前には池があります、そこへ所長が落ちてしまいました。
慌てる貴方に池の女神が語りかけます。
貴方が落としたのは、『昔』の優しくマトモな兄さんですか?
それとも『今』のイジワルでメチャクチャな兄さんですか?
さぁ、どっち!?」
「…金のオノとか言う童話じゃないですか」
「あ、知ってるんだ?」
「一応。正直者には金銀のオノがプレゼントされる話でしたよね?」
「そーそー、勧善懲悪の道徳よー。で、恒ちゃんはどっちがいいのカナー?」
「うーん」
実際、泉の女神様とやらが奇跡を起こすわけでも無し。
「そりゃ、昔の兄さんに会えるもんなら会ってみたいですよ」
深く考えずに答えた――と、同時に事務所の扉が開いた。
「あ、所長お帰りー」
「おう、意外と時間かかったな。道草でも食ってたのか?」
美羽さんと正宗さんが、口々に迎えるのは、美国探偵事務所の所長。
そして、変わり果てた俺の兄さ――…、
「……ああ」
「兄さん?」
何時もと、少し様子が違う。
戸惑ってる、って言えばいいのか。
感覚のズレを手探りで修正してるみたい、な?
「…どうかした…? 兄さん」
駆け寄る俺に、何時もの『兄さん』なら鉄拳制裁だろうに。
無言で見上げられる異常な反応に、息を呑んでしまう。
「…兄さん?」
「お前、恒、か?」
「――え、そ、そうだよ!? 兄さん、どうしたの?」
まさか、新手の嫌がらせかと一瞬構えたものの。
俺と兄さんの間へ見慣れた白衣が割り込み下手な思考を遮る。
「まー、落ち着きたまえ。キミタチ。
取り敢えずは、事務所へ上がってからでいいかな?」
「…オズ先生」
この人が出てくると、ロクな事が無いのは既に学習済み。
悪い人では無い――と信じたい――んだけど。
どうにも、ノリが常人のソレと懸け離れている所為で扱い難いというか。
「分かりました、中へどうぞ」
明らかに様子のおかしい兄さんと、何時に無く真剣な面持ちのオズ先生。
嫌な予感しかしない取り合わせに、まーた厄介事かとこっそり溜息を吐いた。
そろそろ巧恒のテコ入れ作業
バカップルを添えて展開の予定