
#83
「ええっ!? 記憶喪失ぅ!!?」
バンッ、と応接テーブルの上に両手をついて、思わず腰を浮かせる俺に。
オズ先生は、どちらかと言うと『記憶退行』に近いと、実に冷静な口ぶりで訂正を加えた。
「…どう違うんですか…?」
「記憶喪失についてはなんとなく分かるかい?」
「ええと…、ドラマとかの知識ですけど。はい」
「うん。一般的なイメージで大丈夫だよ。
記憶喪失と違ってね、退行っていうのは記憶の遡りが起こるんだ。
過去のある特定の時点まで記憶とそれに付随する諸々のものが巻き戻る。
…まぁ、一種の記憶喪失とも言えなくは無いがね」
落ち着かない様子でソファに座る兄さんの隣。
オズ先生は何処か事態を楽しんでいるように見えて、つい――、
「面白がってる場合じゃないですよ、オズ先生!」
そうキツい口調で咎めたら、ひょいと肩を竦められた。
「まーまー、そう怒らないで欲しいな、恒ちゃん。
それに、記憶喪失にしろ退行にしろ、治療が困難な事には違いないんだ。
どうせなら、前向きに状況を楽しんだ方がいいとは思わないかい?」
「思いません!!」
がうっ、と吠える俺に、オズ先生は小さな溜息と共に苦笑を浮かべた。
オズ先生は本当にもう…!
黙ってればカッコイイし多分優秀な医者なんだろうけど。
どうしてこうも常識外れなんだろう、ああもう!!
「今の兄さんが――、
俺達の実家を飛び出してきた直後に戻ってる事は分かりました。
けど、何でこんなことになったんですか?」
「いやそれが、僕にもさっぱり。
ふらっと僕の診療所を訊ねてきたんだけれど、その時にはこの状態だったしねぇ」
「……そんな。ねぇ、兄さん。兄さんは何か覚えて無いの?」
「いや、何も。気が付いたらオズのところだったし…」
「………」
「…恒?」
「あっ、 いやっ、ごめん。
そっか…、兄さんも覚えてないんじゃお手上げだよね」
少し、間を置いてから喋りだす、癖。
慎重に言葉を選んで、遠慮がちに話し出す仕草。
穏やかで優しかった頃の兄さんの姿に、ちょっと、胸が詰まってしまった。
「まー、結局どーしようもないってことだな。
今まで通り事務所(ここ)で暮らすしかないんじゃない?
そのうち、ポロッと思い出すかもしれないし」
自作のクッキーを頬張りながら、呑気に言う正宗さんの言葉に溜息を返してしまう。
確かにそうなんだけれども、皆にもう少し危機感を持って欲しいと思うのは贅沢なんだろうか。
もしこれが作為的なものなら、兄さんが何者かに狙われている可能性だって考えられる。
実際に兄さんには今まで二人程暗殺者が命を狙いにきたことがあるわけだし。
――…二人とも、アホだったお陰で事無きを得てるんだけどさ。
「…何か記憶を取り戻すいい方法は無いんですか…?」
「うーん…」
藁にも縋る気持ちでオズ先生に訊ねてみる――と。
無いことも無いけれど、と歯切れの悪い回答を返してくる。
「あるんですか!?」
可能性がゼロじゃない限り何でもいいから試したい。
そんな勢いで身を乗り出すと、まぁ落ち着いて、と諌められた。
「さっきも言ったけれど、ひとの脳――特に記憶に関する治療は困難を極めるんだ。
『脳』と言う器官自体がそもそも現代医療を以てしても、未知の領域だしね。
そこで、…まぁ、アナログな方法なんだけどね――…」
少し、言い難そうにしながらオズ先生が切り出したのは。
催眠療法、と言う少々胡散臭い響きのそれで。
「…催眠、って…。
少し前のバラエティで見かけた事がありますけど…。
あれって、インチキじゃないんですか…?」
「ああ、あーゆー大衆娯楽的なアレとは別だよ。
催眠療法自体は、精神療法で治療法としてきちんと確立されているんだ。
本当は患者の記憶を遡らせる事によって、心的外傷(トラウマ)の原因を探したり、取り除いたりするものなんだけれどね。それを逆に出来ないかな、と思ってね」
「…逆って、つまり、先へ進める…?」
「そう。遡りじゃなく、巻き戻っている記憶を引っ張り戻すわけだね。
――…ただ、僕はそっちは専門じゃないから、上手くいくかどうか…。
そういうのは、基(モトイ)君が得意なんだけどね」
「モトイ…、って。あ、ドロシーちゃんの孤児院の先生!?」
「うん、そうだよ。もともと、基勲は精神科医をしていたしね。
今も時々彼を頼ってくる昔の患者がいる位だよ」
「…そうなんだ」
孤児院の先生の意外な経歴に驚いてしまう。
でも、確かに。
優しくて穏やかだけど、こう、人を見抜く力があるというか。
悪戯程度の嘘には騙されてくれるけれど。
本当に悪い事をした時には、絶対騙されてくれない――。
――ううん、騙せない気がする。
「じゃあ、直ぐにでも!!」
「…言うと思った。けど、それは無理だよ。恒ちゃん」
「どうしてですかっ?」
思わず語気を強めてしまう。
兄さんが大変だっていうのに。
どうしてオズ先生は、こんなに冷静でいられるんだろう。
普段あんなに兄さんの事を猫可愛がりしている癖に。
それともひょっとして、あれは全部嘘なんだろうかと。
普段なら考えもつかないような、嫌な邪推までしてしまう。
「えーとね、恒ちゃん。別に僕はイジワルしているんじゃないよ?
催眠療法っていうのは非常に時間が掛るんだ。
カップ麺のようにお湯を入れて三分ってわけにはいかない。
色々と事前準備も必要だしね、基君の都合だってあるだろう。
それに、対象者の精神状態が大きく影響するんだ。
数年前に記憶が遡り、見知らぬ『現在』(いま)にポンと放り出された直後。
幾らター坊でも、少なからず動揺していると思うよ」
「………」
少なくとも一週間程。
現状に慣れるまでは、催眠療法を行っても効果が得られないだろうね、と。
グゥの音も出ない程の正論にやり込められて、俯く。
「…分かりました」
無力な自分が恨めしい。
「それじゃ、僕は診療所へ帰るよ。
何かあったら連絡してね」
何故か妙に御機嫌で去って行くオズ先生の背中を見送りながら。
今日から一週間、どうしようかと胸の中の重い気持ちを吐き出した。
基先生の設定や昔の兄さん設定は捏造です。
本家で二人の過去出てきたらENDフラグですものね。
出てこなくていいと思います。
米良の過去はもう少し位出てもいいと思います。